カテゴリ:彫刻/絵画/アート等 > 美術評論

新刊、といっても2ヶ月半経ってしまいましたが……。

印象派の超克 近代日本における西洋美術受容の言説史

発行日 : 2025年10月10日(金)
著者等 : 松本和也
版 元 : 思文閣出版
定 価 : 7,000円+税

モネやルノワールなど、日本人がこよなく愛する印象派は、どのようにして日本の美術界に受け容れられてきたのか?

 明治後期に流れこんだ印象派は、日本の洋画界に新たな波をもたらした。なかでも「日本のモネ」と称された洋画家・山脇信徳は、その絵画表現によって注目を集め、印象派の是非をめぐる論争の渦中に立った。第三回文展で褒賞となった《停車場の朝》や、その数年後に描かれた《夕日》などの山脇作品は、画壇・文壇を横断した二度の大論争を巻き起こす。それは、印象派以降の西洋美術が日本に受容される際に生じる反発や葛藤の、いわば象徴的事例であった。
 本書では、山脇信徳とその絵画表現を結節点として、齋藤輿里、高村光太郎、岸田劉生、そして白樺派など、時代のキーパーソンの言論を丹念に読み解きながら、西洋美術の新潮流が日本にもたらした文化的衝突、そしてそれがしだいに「日本化」され超克されていくさまを明らかにしていく。

★★★編集からのひとこと★★★
 今でこそ多くの日本人に愛される印象派。その独特の重ね塗りは「筆触分割」という技法によるものらしいのですが、それが「醜い」とさえ評されていた時代がありました。何が美しく、何が美しくないのか。あるいは何が芸術とそれ以外とを隔て得るのか。それは現代のアートシーンにも通底する問いであり、その意味で時代は絶えず繰り返されているのかもしれません。
 本書では、明治晩年の日本で、絵画の新技法が反発を招きながらも、次第に受け入れられていった過程を跡付けていきます。その議論を通して、時代を越えて鑑賞者・批評者に突き付けられる問いにも迫る1冊です。
001
目次
 はじめに 日本の印象派
 Ⅰ
  第一章 山脇信徳へのアプローチ――洋画史・〝日本のモネ〟・言説史
  第二章 西洋美術の新傾向をめぐる言説史――印象派、ポスト印象派を中心に
  第三章 帰朝する新進洋画家――パイオニアとしての有島生馬・齋藤與里・高村光太郎
 Ⅱ
  第四章 「生の芸術」論争・再考――「DAS LEBEN」/「地方色」からみた山脇信徳《停
   車場の朝》
  第五章 山脇信徳作品展覧会をめぐる「絵画の約束」論争・再考――「自己」か「公衆」
   か
  第六章 山脇信徳「断片」の歴史的意義──フォーヴィスム/エキスプレッショニズムへ
 Ⅲ
  第七章 「自然」と「生活」をめぐる岸田劉生の芸術論――白樺派言説を補助線として
  第八章 ヒュウザン会(フュウザン会)展覧会の同時代評価──印象派以降の展開
  第九章 「心的印象」を象徴的に描くこと──萬鐵五郎の「新しい原始時代」
 結論 印象派の超克
 初出一覧
 あとがき

著者・編者略歴
1974年生。立教大学大学院文学研究科博士課程後期課程修了、博士(文学)。現在、神奈川大学国際日本学部教授。日本近現代文学・演劇・美術。著書に、『昭和一〇年代の文学場を考える 新人・太宰治・戦争文学』(立教大学出版会、2015)、『文学と戦争 言説分析から考える昭和一〇年代の文学場』(ひつじ書房、2021)、『戦時下の〈文化〉を考える──昭和一〇年代〈文化〉の言説分析』(思文閣出版、2023)ほか。論文に、「萱野二十一「道成寺」同時代受容分析」(『国語国文』2024. 9)、「見えにくい世界/新しい景色──宮永愛子のオペレーション」(『人文研究』2024. 9)ほか。

特に絵画に注目し、西洋美術の新潮流がどのように日本に受容されていったのか、それも明治末から大正初めに重きを置いて、印象派やポスト印象派の影響が中心に論じられています。

完全な書き下ろしではなく、『大衆文化』『人文学研究所報』などに掲載された論文をベースにされた章もありますが、「大幅な加筆修正を施してある」そうで、多少、繰り返しになる部分はあるものの、ほぼきちんと一本の流れになっています。300ページ超の労作です。

また、人名索引がきちんとつけられているのがありがたいところですね。
003
論じられているのは、ちょうど光太郎が明治39年(1906)から同42年(1909)の3年半に亘る欧米留学から帰朝し、実際に肌で触れてきた新しい芸術を日本に根づかせようと、画廊・琅玕洞やヒユウザン会(のちフユウザン会)などの活動に取り組んでいた時期です。そこで光太郎の名はほぼ初めから終わりまで出ずっぱり。章の題名としては「第三章 帰朝する新進洋画家――パイオニアとしての有島生馬・齋藤與里・高村光太郎」のみですが、他の全ての章にその名が刻まれています。

最も注目されているのが、山脇信徳。現在では一般には忘れられかけている存在ですが、明治42年(1909)の第3回文部省美術展覧会(文展)に出品された「停車場の朝」が物議を醸しました。
001
光太郎と親しかった石井柏亭は「こんな色彩は日本の風景には存在しない」。光太郎は「作者がそういう色に見えるならそれは作者の自由だ」。いわゆる「地方色論争」です。そこから有名な光太郎の評論「緑色の太陽」(明治43年=1910)が生み出されました。

残念ながら「停車場の朝」そのものはモノクロ画像が伝わっているだけですが、同時期の山脇の作品を見れば、ほぼどんな感じだったかは想像がつきます。ちなみに本書のカバーにあしらわれているのは山脇の「夕日」と題する作品。明治43年(1910)のものです。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・智恵子】

人間は根本が間違つてさへゐなければお互に其精神の根を信じて、あとの細々した事はすべてゆるしあひ、いたはりあつてゆく外ありません。


昭和3年(1928)4月4日長沼セン宛書簡より 智恵子43歳

とかく排外主義に陥りがちで不寛容な現代人にこそ贈りたい一節です。

昨日は上京、「第19回 明星研究会シンポジウム 『明星』と美術~ 華麗にして心に響くカタチ」に出演しておりました。
001
会場は御茶ノ水のワイム貸会議室さんでしたが、zoomによるオンラインでの同時配信も行われました。
PXL_20251220_050024305
カメラで司会者・発表者の顔を写す部分、パワーポイントのスライドショーとも連動させての部分もある配信だということで、時代は進んでいるんだなぁ、という感じでした。このあたりの新技術や風潮が広まったのだけは、コロナ禍による良かったことだと思います。

当方を含む3人の発表。

まずは大阪堺の与謝野晶子記念館学芸員・森下明穂氏。「与謝野晶子 美しい本の世界へ」と題してのご発表でした。
PXL_20251220_050503161.MP
主に装幀に関わるお話で、どんな人物がどういう感じで晶子著書の装幀を行ったか、といったお話を、画像をふんだんに使われてのご発表でした。

なるほど、発表題にある通り美しいものが多く、各装幀者や晶子のこだわりといったものが垣間見えました。また、時期による流行のような点も。
PXL_20251220_051416709
主な装幀者は、藤島武二、中澤弘光、有島生馬、石井柏亭、津田青楓、正宗得三郎、山本鼎など。光太郎の人脈ともほぼ重なる人々です。

それから、光太郎というより、実弟の豊周と昵懇の間柄だった広川松五郎。ここで広川が出てくるか、と、驚きました。
PXL_20251220_051623858
挿画についてもお話があり、すると、光太郎にも触れられました。光太郎は晶子の夫・寛の著書では装幀を手がけましたが、晶子の著作では装幀は行っていません。しかし、光太郎の挿画は使われています。
PXL_20251220_052008918
右下が大正9年(1920)の『晶子短歌全集 第三巻』に載った光太郎の挿画。ちなみにあと2点は第一巻、第二巻の藤島武二、中澤弘光によるものです。

この光太郎の挿画については当方の発表の中でも触れましたので、現物も持参し、会場に展示させていただきました。他の光太郎装幀本・挿画の載った書籍、ついでに彫刻も。
PXL_20251220_064042972
続いて当方の発表。
無題
今回のシンポジウムの総題が「『明星』と美術」ということでしたので、新詩社メンバー中、美術実作者として活躍した光太郎についてしゃべれ、ということで担ぎ出されました。

第一期『明星』(明治33年=1900~同41年=1908)、その後継誌ともいうべき第一期『スバル』(明治42年=1909~大正2年=1913)、その少し後くらいまでにスポットを当て、光太郎を取り巻く当時の文学界・美術界などについて、光太郎との関わりからべしゃくらせていただきました。

そのために今回作成したのが、下記の人物相関図。
無題2
はなはだ不完全なもので、しかも線が錯綜して見づらいものですが、とりあえずこのくらいかな、という感じです。本当はあと30人ほどは入れたいところですし、線の結びつきも、両端にいるこの人物とこの人物がこういう関係があったというのを、もうこれ以上線が引けないということで随分と割愛しています。たとえば右上の方にいる荻原守衛と右下の方に配した斎藤与里が留学仲間だったとか、これも右上の方にある『少女世界』に晶子も寄稿していたとか、同様に下の方には光太郎が度々寄稿した『文章世界』だの『詩歌』だの『早稲田文学』だのも配したものの、名を出した人物でこれらに寄稿している人物がいるはずで、その線は書いてありません。

これが大正後半や昭和に入ると違った様相を呈します。また、与謝野夫妻なり、啄木なり白秋なり守衛なりを中心に据えればまた異なる感じの相関図が出来上がるでしょう。それぞれがご専門の方々がそれらを造り、つなぎ合わせて畳一枚分くらいの大曼荼羅のようなような相関図が出来れば面白いな、などという話もさせていただきました(笑)。

これを作ったことで、自分でも今までわかっていなかったことがおぼろげながら見えてきた感じがしました。すなわち、なぜ光太郎が様々な分野に手を出していたのか、です。美術方面では彫刻、絵画、装幀、書、建築、美術評論など、文学方面では詩、短歌、俳句、随筆、翻訳、戯曲など。もちろんそれぞれに才能があったからですが、それ以外に光太郎自身、好奇心というか、新しいことに挑戦しようという積極性というか、そういうものがあって、いろいろやったわけです。ここまではこれまでもそう思っていたのですが、今回、相関図を作ったことで、光太郎のそうしたマルチな才能が周囲から重宝されていたと思いあたりました。

光太郎と同世代の人物たちにしてみれば、一世代前の巨匠たち(黒田清輝、藤島武二、与謝野寛、森鷗外など)に頼みにくいことも光太郎になら頼めるし、光太郎としても留学からの帰朝後、父・光雲を頂点とする日本彫刻界とは距離を置いたので生活の途に困り、仕事の注文が入ればありがたいと、まぁ、ウィンウィンの関係だったと言えるのではないでしょうか。

しかし光太郎も唯々諾々と各注文に応じていたわけでもなく、けっこう毒をしのばせたりもし、一筋縄ではいかなかったとも感じました。

休憩後、最後のご発表は主催の明星研究会をとりまとめてらっしゃる歌人・松平盟子氏。
PXL_20251220_064623333
時系列に沿って『明星』発刊の前後からの新詩社と美術家たちの関わりなどについてのお話。題して「憧憬と戦略 『明星』を彩った洋画家と晶子短歌」。

第一期『明星』が単なる短歌雑誌ではなく、後の『白樺』同様、美術にも軸足を置いていたという件、そこには与謝野寛の西洋美術への「憧憬」があり、また、翻訳文学の紹介や、晶子を含む女性を積極的に登用し、それまでにない誌面が作られていったという流れでした。そこが主宰の寛の「戦略」ですね。光太郎も留学先から翻訳を寄稿しています。

特に関わりが深かったのが、黒田清輝や藤島武二(共に光太郎の美校時代の恩師でもあります)らの白馬会、さらに一條成美や長原孝太郎(止水)、そして美術家ではありませんが、美校の教壇にも立った(やはり光太郎の恩師に当たります)森鷗外。そして鷗外と親しかった原田直次郎などにも触れられました。

そういう『明星』のコンセプトを反映させた晶子短歌の実際の表現といった点にも言及されました。
002
第一期『明星』がそうした雑誌であったからこそ、美校在学中の光太郎がぜひ書かせてくれ、と、新詩社に加入したんだろうなと、実感が湧きました。単なる短歌の雑誌に留まるものであったなら、光太郎がそれほど関心を示したとも思えません。
無題3
さて、zoomによるオンラインでの同時配信が行われましたが、アーカイブ配信(有料)もするそうです。詳しくはこちらにある連絡先まで。

同シンポジウム、来年には第20回記念とのこと。今後の関係の皆様のますますのご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・智恵子】

旧冬私ども結婚の節は御多用の御内をお揃で御臨席下されましてありがたく存じました。また其折は結構なお祝ひを頂戴いたし御礼を申上げます


大正4年(1915)1月3日 柳八重宛書簡より 智恵子30歳

前年12月22日、上野精養軒で行った光太郎との結婚披露宴参列への礼状から。「お揃」は、八重の夫・柳敬助も出席したことを指します。

八重は智恵子の日本女子大学校での先輩、敬助は光太郎の留学仲間。明治44年(1911)、柳夫妻が光太郎智恵子を引き合わせました。元々は智恵子の方から、先輩芸術家の話を聴く一環として留学帰りの光太郎を紹介して欲しいと持ちかけたのですが、柳夫妻としても、帰朝後に荒れた生活を送っていた光太郎を案じ、「芸術の話ができる女友達でも出来れば」と、応じたと思われます。

12月7日(日)、地方紙『岩手日日』さんに載った記事です。ご執筆は東京国立近代美術館(MOMAT)さんの主任研究員・成相肇氏。ネット上に見当たらず、同紙独自なのか、よくある通信社等の配信記事なのか判然としませんが。

手は物語る…1 高村光太郎「手」 和と洋、静と動 感じる彫刻

000 東京国立近代美術館のコレクションの中から、「手」にまつわる作品を紹介していきましょう。時代や表現方法を問わずさまざまに表されてきた手の図像の中に、美術の魅力の手掛かりを探ります。
 ちょうど新聞紙片面の横幅くらいの高さの大きなブロンズ製の手。詩人として も知られる高村光太郎(1883~1956年)の彫刻です。あるとき自身の左手をじっと見ていると「自分の手でないやうな気が」して、「何か大きなものの見えない手が不意に形を現はした」かのように思えた。そして、おもむろに「施無畏印(せむいいん)」(奈良の大仏と同じポーズ)の形にしたときに感じた「自分の手の威厳」と「霊光」をどうにか再現しようと思った、と光太郎は述べています。
 実際、この作品のてのひらに正対して眺めてみると、仏像のように穏やかで落ちついた印象です。そういえば光太郎の父・光雲は江戸時代に仏師からキャリアを始めた彫刻家でした。
 この作品で何より興味深いのは、台座に対して手が少し横を向いている点です。この台座は作者が彫った木ですから、角度にも意図が込められています。そこで今度は台座に対してまっすぐ向き合ってみると、たちまち緊張した指の筋肉が際立ち、ダイナミックな動きが立ち現れます。光太郎は近代彫刻の祖とされるオーギュスト・ロダンを日本に紹介した人物でもありました。この手の力強いひねり、張り詰めた劇的な筋肉の動きは、まさしくロダンからの影響といえるでしょう。
 「霊光」はこのひねりにこそ宿っています。すなわちこの作品には、一点において和と洋が、静と動が、同居しているのです。ほんのわすかな角度の差で、洋の東西が大きくシフトする。真横から見ると鳥のような優美な形をしたこの「手」は、まさしく近代の彫刻が飛躍しようとする一瞬を凝縮した作品なのです。
 当館ウェブサイトでは、本作のブロンズ部分を台座から引き抜いてみる解説動画や、作品を全方向から見られるデータも公開しています。自宅でも、ぐるぐるといろんな角度から眺めて楽しんでみてください。

前半に引用されている「自分の手でないやうな気が」「何か大きなものの見えない手が不意に形を現はした」などは、大正8年(1919)1月25日発行の雑誌『芸術公論』第3巻第1号に載った光太郎の「手紙」と題する散文の一節です。筑摩書房『高村光太郎全集』にもれていたものですが、「手」に関して最も多くが語られており、しかもほぼ制作リアルタイムのもので、これを参照しなければ「手」の考察は不可能と言っていいくらいのものです。MOMATさんでも気づいて下さったかという感じでした。

その後の「角度」の話や「和と洋」「動と静」といった解釈、確かにその通りですね。ただ、同じ光太郎生前鋳造の「手」でもMOMATさんのもの(有島武郎・秋田雨雀旧蔵)と朝倉彫塑館さん所蔵のもの(朝倉文夫が購入したもの)では微妙に角度が異なり、そのあたり詳細な考察が為されることを期待します(或いは既に為されているかもしれませんけれど)。それを言えば、台座の形状、ブロンズの仕上げ(つやの有無)もかなり異なります。

最後に「当館ウェブサイトでは、本作のブロンズ部分を台座から引き抜いてみる解説動画や、作品を全方向から見られるデータも公開しています」とありますが、「台座から引き抜いて……」はこちら、「全方向から見られるデータ」はこちらをご参照下さい。

「手」は、同じ型から鋳造されたものが数多く存在します。ぱっと思いつくだけで、 国立東京近代美術館(MOMAT)さん、朝倉彫塑館さん、髙村家、碌山美術館さん、花巻高村光太郎記念館さん、島根県立美術館さん、たましん美術館さん、呉市立美術館さん、岩手大学さん、千葉県立美術館さん、山口県宇部市さん(なぜか中国地方に多いのが不思議です)。その他の公的機関でもまだ所蔵があるような気もしますし、オークションに出たこともあります(ただ、中には「レプリカ」と断られているものもあるようで)。

各地で「手」をご覧になる方、上記のような点に注意して観て下さい。ちなみに当方、また明後日、花巻で観て参ります。

【折々のことば・智恵子】

あなた御自身、如何なる方向、如何なる境遇、如何なる場合に処するにも、たゞ一つ内なるこゑ、たましひに聞くことをお忘れにならないやう。この一事(いちじ)さへ確かならあらゆる事にあなたを大胆にお放ちなさい。 それは最も旧く最も新しい、生長への唯一の人間の道と信じます故。

アンケート「新時代の女性に望む資格のいろいろ」より
 大正15年(1926) 智恵子41歳

この一節も、智恵子の言葉としてはよく引用されるものの一つです。

結局、智恵子は「あらゆる事にあなたを大胆にお放ち」出来なかったと思われますが……。

都内からシンポジウムのご案内です。

第19回 明星研究会シンポジウム 『明星』と美術~ 華麗にして心に響くカタチ

期 日 : 2025年12月20日(土)
会 場 : ワイム貸会議室 お茶の水 Room B  千代田区神田駿河台2-1-20
      Zoom オンライン (定員100名)
時 間 : 14時~16時30分
料 金 : 2,000円

 『明星』は、文芸と美術が共鳴しながら鮮度の高い情報を発信し続けた目覚ましい雑誌でした。
 創刊時の明治33年4月こそタブロイド紙の体裁でしたが、同年9月から雑誌スタイルに移行し、41年11月に終刊するまで、文芸と美術が相互に響き合う斬新な美学としてそれは続いたのです。アールヌーヴォーの影響を受けた一條成美の初期の表紙は若者の心を捉えるのに十分でした。
 しかし、何と言っても『明星』を画期的な文芸誌にしたのは、美術団体「白馬会」との密接なかかわりによるものです。「白馬会」は黒田清輝らを中心に結成されましたが、メンバーのうち藤島武二、和田英作らは『明星』の表紙を印象的に飾りました。また、与謝野晶子の有名な歌集『みだれ髪』『小扇』の装丁と表紙は藤島によるものです。同じく「白馬会」の中澤弘光は、詩歌集『恋衣』の表紙・挿画を手始めに、多くの晶子歌集や『新訳源氏物語』『新訳栄華物語』の表紙・挿画を彩ることになります。
 忘れてならないのは、『明星』同人で、彫刻家・詩人の高村光太郎の存在です。
 今回は、『明星』と美術との記念碑的なかかわりを多角的に探ってみたいと思います。
 対面とZoomとのハイブリッドで開催いたします。

●申し込み手順● 下記 ① から ② へ進んでください
①.以下の口座に、参加費一人2千円、をお振り込み願います
 三井住友銀行 下丸子支店(普通)3897723
 受取人名:AKIKO 2005 YEAR ダイヒヨウ マツダイラ メイコ
②.お振込み後に、下記にアクセスして必要事項を記入し送信していただいてお申し込みが完了します。オンラインの方には前日を目途にZoomアクセス先をメールで送ります
●申し込み〆切● 12月18日(木)15:00(定員100名)

●プログラム● 講演
 「與謝野晶子 美しい本の世界へ」 森下明穂(与謝野晶子記念館・学芸員)
 「美術実作者としての高村光太郎」 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会・代表)
 「憧憬と戦略 ― 『明星』を彩った洋画家と晶子短歌」 松平盟子(歌人) 
003
004
というわけで、明星研究会さん主催のシンポジウムです。

発表が、同会主宰の松平盟子氏、大阪の与謝野晶子晶子記念館学芸員・森下明穂氏、そして当方。テーマが「美術」なので「明星」→「美術」とくれば「光太郎」ということで、担ぎ出されました。

松平氏、森下氏のお話は必聴。当方はオマケですが(笑)、以下のような感じです。

全体としては光太郎も参加した第一次『明星』の時代から、その後継誌『スバル』、そして第二次『明星』が始まった頃に焦点を当て、明治30年代後半から大正10年頃までを中心に、垣根が低かった当時の文学界・美術界、そこにおける光太郎の立ち位置、そんな話をさせていただきます。

資料として、まず光太郎を中心に据えたその頃の人物相関図を作ってみました。軽い気持で作り始めたのですが、後から後から「この人物とも関わっていたっけ」「誰々も○○の一員だったなぁ」などと増え続け、総勢150名ほどになってしまいました(笑)。増やせばもっと増えるのですが、きりがないのでやめました。甚だ不完全なものですが、これを作ったことでかなり自分自身の勉強になりました(笑)。

それから『明星』をはじめ主に新詩社に関係する雑誌への光太郎の寄稿状況、新詩社関係者の著作への関わり(序文執筆、装幀、挿画、題字揮毫など)をまとめた表も。さらにパワーポイントのスライドショーでは装幀、挿画、題字揮毫に加え、依頼されて制作した彫刻や肖像画なども投影する予定ですし、現物も持って行けるものは持参して展示します。

御茶ノ水のワイム貸会議室さんでの対面型、お越しになりにくい方のためにZoom オンラインと2本立てです。ぜひどうぞ(出来ればお越し頂くのがベストですが)。

【折々のことば・智恵子】

必要以外何物も有(も)たない事(或る程度の必要をも満さなくても差支ないこと)=貧乏なこと。 本能の声を無視しないこと。 どんな場合にも外的な理由に魂を屈しないこと。 赤裸(せきら)なこと。


散文「貧しく、飾らず、単純であれ」より 大正12年(1923) 智恵子38歳

「生活の倦怠を如何にして救ふか」のテーマで、原阿佐緒、山川菊江らのそれと共に掲載された文章の一節です。智恵子の書いたもののうち有名なものの一つで、この一節はよく取り上げられています。

定収入というものを持たず、徐々に世間に認められてはいたものの、売れっ子というわけではなかった光太郎。まして智恵子はこの時期、描いた絵が売れるということはまったくなく、かつかつの生活でした。

『智恵子抄』に収められた光太郎のエッセイ「智恵子の半生」(昭和15年=1940)から。

 彼女は裕福な豪家に育つたのであるが、或はその為か、金銭には実に淡泊で、貧乏の恐ろしさを知らなかつた。私が金に困つて古着屋を呼んで洋服を売つて居ても平気で見てゐたし、勝手元の引出に金が無ければ買物に出かけないだけであつた。いよいよ食べられなくなつたらといふやうな話も時々出たが、だがどんな事があつてもやるだけの仕事をやつてしまはなければねといふと、さう、あなたの彫刻が中途で無くなるやうな事があつてはならないと度々言つた。私達は定収入といふものが無いので、金のある時は割にあり、無くなると明日からばつたり無くなつた。金は無くなると何処を探しても無い。二十四年間に私が彼女に着物を作つてやつたのは二三度くらゐのものであつたらう。彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、つひに無装飾になり、家の内ではスエタアとヅボンで通すやうになつた。しかも其が甚だ美しい調和を持つてゐた。

こうした状況も智恵子を追い詰めた一つの要因であったことはまちがいないでしょう。

それよりも、智恵子自身が「こういう生活に不満を抱いてはいけない」と自らに言い聞かせていたわけで……。

昨日は都内で開催された第68回高村光太郎研究会に参加しておりました。レポートいたします。

会場は文京区のアカデミー向丘さん。
PXL_20251123_045504387
PXL_20251123_045544774
お二人の方の発表でした。

まず、中島宏美氏。「吹木文音」のペンネームで詩人として活動されています。
PXL_20251123_051342872
発表題は「智恵子へ寄せる思い」。

氏は智恵子のソウルマウンテン・安達太良山を望む福島郡山にお住まいだったこともおありだそうで、小学校4年生の頃に読まれた新潮文庫版の『智恵子抄』の思い出、智恵子紙絵の美しさ、そして智恵子という人物そのものの魅力などについて、詩人ならではの視点で語られました。

下画像はレジュメ1ページ目です。
001
稀有な詩集としての『智恵子抄』の特徴、価値などについて、「私見」と断りながらもなかなかに的確な解釈で、首肯させられました。

また、現代人の感覚だけで読むことの危うさ、と言ったお話も。氏は『源氏物語』のご研究もなさっており、その際の態度が『智恵子抄』解釈にも生かされているような気がしました。氏曰く「安易なフェミニズム/ジェンダー論で語るのは危険」、「智恵子を悲劇のヒロインと捉えるべきでない」とのことで。

つい先日も書きましたが、当会顧問であらせられた故・北川太一先生も、「はじめこの詩集は光太郎の一方的な思いこみにすぎず、光太郎の声だけしか聞こえない単なる幻想の産物だと批判した者もあった。しかし智恵子に関する資料が徐々に発掘され、智恵子が肉声で語りはじめるにつれて、その生の軌跡はますますリアリティを加え、文学としての評論、創作はもとより、ドラマ、オペラ、歌曲、舞踊、邦楽等々芸術のあらゆる分野の作者、演技者を動かし、それぞれがそれぞれの思いを込めて、その問いかけに答えようとする。」と述べられ、「安易なフェミニズム/ジェンダー論」などに疑問を呈されています。

かつてテレビ等で引っ張りだこだった「フェミニズム/ジェンダー論」者の女性は、もう最初から『智恵子抄』には拒絶反応を示し、ろくに確かめもしないまま「家事労働に追われて智恵子は才能を発揮出来なかった」とか「『智恵子抄』は智恵子の才能を押し潰す男の論理」といった発言を現在も繰り返しているようですが、そういう見方は論外ですね。

続いて武蔵野美術大学の前田恭二教授。
PXL_20251123_061542604
PXL_20251123_065746833.MP
雑司ヶ谷の季節――ヒューザン会、智恵子と読売新聞」と題されてのご発表でした。

雑司ヶ谷は現在の豊島区、文京区にまたがる一帯の地名で、明治末から大正初め、ここに集った美術家・文学者たちが一種のコミュニティーを形成していたというお話。同様のケースで「田端文士村」「池袋モンパルナス」などは有名ですが、雑司ヶ谷のそれはまだ注目度が低いものの、美術史・文学史上、いろいろと重要な出来事の背景に雑司ヶ谷での地縁が作用している、というわけで。なるほど、炯眼だなと思わせられました。

美術方面では斎藤与里、津田青楓、柳敬助、戸張孤雁、正宗得三郎、本間国雄、坂本繁二郎ら。文士としては上司小剣、正宗白鳥、三木露風、相馬御風、小川未明、徳田秋声、内田百閒、人見東明、谷崎潤一郎、秋田雨雀、中村星湖など。光太郎と何らかの関わりのあった面々が大半です。

そして智恵子も。智恵子は明治44年(1911)のおそらく3月から、すぐ下の妹・セキと共に雑司ヶ谷719番地に住んでいました。近くに住んでいた津田青楓には、師事、とまではいかないものの、絵のアドバイスを受けたりもしています。智恵子の言葉として有名な「世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの」は、その頃、青楓に語られたものです。ただ、青楓が『漱石と十弟子』中でその言葉を文字にしたのは昭和23年(1948)になってからなので、微妙なニュアンスの違いはあるかも知れませんが。

先程の面々、共通点としては、早稲田出身者が多いということが挙げられます。それから、『読売新聞』の関係者も。人見東明は読売新聞社に勤務していたそうですし。それから、智恵子も所属していた太平洋画会や、光太郎も出入りしていた中村屋サロンの関係も垣間見えます。

またまた智恵子ですが、智恵子にも早稲田や『読売新聞』の影がちらつきます。雑司ヶ谷在住時の明治45年(1912)4月には早稲田大学高等予科教室で開催された早稲田文学者主催の装飾美術展覧会に作品を出品しています(前年に智恵子と知り合った光太郎もですが)。それから、同じ年の6月には『読売新聞』に連載「新しい女」の第17回として、「最も新しい女画家」の題で智恵子が好意的に紹介されています。
無題
このあたり、雑司ヶ谷という地縁も無関係ではないだろうということです。連載「新しい女」は、第1回が与謝野晶子。その他、松井須磨子や三浦環、『青鞜』にも寄稿していた国木田独歩の妻・治子、中村屋の相馬黒光などが取り上げられましたが、この時点での知名度は智恵子は彼女たちほどではなく、確かにおかしいといえばおかしいところです。

そして雑司ヶ谷に集った美術家たちが、光太郎も参加したヒユウザン会(会場が読売新聞社)や、文展に反旗を翻した二科会にも繋がっていくというお話。「おお」という感じでした。

来月、明星研究会さんでの発表を仰せつかっており、明治末から大正前半頃の光太郎の立ち位置について光太郎を中心とした人物相関図なども作成し、お話しする予定なのですが、大いに参考になりました。

発表はこのように素晴らしいものでしたが、残念なことに参加者があまり多くありませんでした。まぁ、毎年のことといえばそうなのですが(今時、ホームページが存在しない団体ですので……)。ほぼ毎回欠かさず参加されている方の中には他の外せない会合があるやに聞きまして、どうもこの時期はこの手のイベントが重なるので致し方ないかなとも思います。当方も来週は「十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~」で発表がありますし、どちらかが1週ずれていたらアウトでした。それでも、当方の投稿を読まれて初めてご参加下さった京都大学の学生さんなどもいらっしゃり、良かったと思いましたが。

高村光太郎研究会、こんな感じで年に一度の研究発表会をおこなっていますし、年会費3,000円で入会されると会誌『高村光太郎研究』(4月発行で、主に前年に研究発表をなさった方がそれを元にご執筆。それプラス当方の連載「光太郎遺珠」「高村光太郎没後年譜」など)が送られてきます。

ぜひご入会下さい。

【折々のことば・光太郎】

一体大家達があとからあとからいろんな違つた技巧を採用するといふ事が確かでせうか。どうも怪しい。私はさう思ひません。


光太郎訳 ロダン「続ロダンの言葉 ポール グゼル筆録」より
大正9年(1920)頃訳 光太郎38歳頃

「不易と流行」ということを考えさせられます。

学会発表の情報です。

第68回高村光太郎研究会

期 日 : 2025年11月23日(日)
会 場 : アカデミー向丘 東京都文京区向丘1-20-8
時 間 : 14:00~17:00
料 金 : 500円

発 表 :
「智恵子へ寄せる想い」 吹木文音(中島宏美)氏(日本詩人クラブ・栃木県現代詩人会理事)
「雑司ヶ谷の季節――ヒューザン会、智恵子と読売新聞」 前田恭二氏(武蔵野美術大学教授)

002
今時、ホームページやSNSのアカウントすらない団体主催の学会というのも何だかなあ、という感じですが……。

高村光太郎研究会は、昭和38年(1963)、光太郎と親交のあった詩人・風間光作が立ち上げた「高村光太郎詩の会」に端を発し、明治大学や東邦大学などで講師を務められた故・請川利夫氏に運営が移って「高村光太郎研究会」と改称、請川氏没後は都立高校勤務の野末明氏に受け継がれ、細々と続いています。かつては当会と共に故・北川太一先生が顧問を務められていまして、当方も会員に名を連ねています。

今回、ご発表はお二人。

このところ連翹忌の集いに欠かさずご参加下さっている詩人の吹木文音(ご本名・中島宏美)氏。どちらかというと光太郎より智恵子ファンで、これまでも智恵子光太郎に触れられた文章の載った同人誌等戴いています。また、今年7月には中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会主催の「中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会」で光太郎詩朗読をなさって下さいました。

それから武蔵野美術大学の前田恭二教授。元読売新聞記者ということで、同紙に「ムササビ先生の「ヨミダス」文化記事遊覧」という連載をなさり、そこから文化資源社さんの『よみうり抄』全五巻に繋がっています。一昨年の第66回高村光太郎研究会でも、「米原雲海と口村佶郎――新出“手”書簡の後景――」という発表をなさいました。今回は「雑司ヶ谷の季節――ヒューザン会、智恵子と読売新聞」ということで、やはり「よみうり抄」がらみと思われます。

光太郎が大正元年(1912)に岸田劉生らと立ち上げたヒユウザン会展には、智恵子も出品予定者として名を連ねていました。しかし、それは果たされずじまい。
ヒユウザン会
そのあたりの経緯等、まだまだ研究の余地がたくさんあります。

参加費はワンコイン、それ以外に研究会員になると年会費3,000円で研究発表会の案内、機関誌『高村光太郎研究』が郵送されます。もちろん入会せず、発表のみ聴くことも可能です。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

花は彼等の生命をわれわれにくれる。彼等はペルシヤの花瓶の中に置かる可きだ。彼等の傍では、金銀は値ひ無く見える。


光太郎訳 ロダン「ロダン手記 花について」より
大正9年(1920)頃訳 光太郎38歳頃

さまざまな花――アネモネ、ヒヤシンス、チューリップ、マーガレットなど――の美について語ったロダンの言葉の一節です。

京都の書画骨董店・新古美術わたなべさんから新しい目録が届きました。同店には、令和3年(2021)、富山県水墨美術館さんで開催され、当方もいろいろとお手伝いした「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の際に随分とお世話になりました。
005
光太郎の色紙揮毫が掲載されています。書かれている文言は「美ならざるなし」。「この世界には美しくないものは存在しない」「この世界の全てのものが美を包摂している」といった意味合いですね。美術評論家でもあった光太郎のポリシーを端的に表現しています。

昭和26、27年(1951、52)頃書かれた評論の題名にもなっています。その一節。

自然に醜はない。人間をも含めた自然の中に醜なるものは存在しない。悉く美である。醜は人工の中にある。
006
光太郎が好んで揮毫した文言の一つで、複数の作例が確認出来ています。おそらくすべて、ほぼ同時期のものと思われます。

花巻高村光太郎記念館さん所蔵のもの。
001
生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した後の昭和27年(1952)、雑誌の対談の会場となった料亭・紀尾井町の福田家に贈ったもの。
福田マチ
ここの女将は、光太郎が花巻郊外旧太田村で蟄居生活を送っていた頃、まったく面識がないにもかかわらず「高村先生、大変でしょう」と、大量の食糧を送ってくれました。たまたま対談の会場がその女将の店とわかり、この書を書いて持参したわけです。

もう1点。これも最近売りに出たもので、都内の美術専門古書店・えびな書店さんが扱われています。
004
以上四点、すべて色紙揮毫ですが、花巻高村光太郎記念館さんでは、色紙ではない幅のもの、さらにやはり色紙ですが、「義にして」とつけたものも所蔵しています。
a31ff816-s 204094b8-s
他の揮毫でも、平仮名の「し」をやたら長く書くのが光太郎書の一つの特徴。この「し」の書体が真贋を見極める一つのポイントです。もっとも、贋作作者もそれをわかっていて似せようとするのでしょうが。

そういう人をだまくらかそうとする人間の営みこそ「醜」ですね。

【折々のことば・光太郎】

ギリシヤの彫像には生命そのものが、脈うつ筋肉を活かし、暖めてゐるのに官学派芸術のだらしのない人形は死んで氷のやうです。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ポール グゼル筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

アカデミズム彫刻は、「自然」を写そうとしても観察が不十分でそれが出来ておらず、「死んで氷のやう」な「人形」だと、辛辣です。

光太郎も留学からの帰朝後、日本のアカデミズム彫刻系には同様の評を下しています。

光太郎、それから実弟の豊周の母校にして、光太郎の父・光雲と豊周が教壇に立った東京美術学校の歴史を中心に、江戸末期から終戦直後までの我が国の美術教育史、ひいては美術史全般が語られています。髙村親子三人についてもそれぞれ触れられています。

東京美術学校物語――国粋と国際のはざまに揺れて

発行日 : 2025年3月19日
著者等 : 新関公子
版 元 : 岩波書店(岩波新書)
定 価 : 960円+税

東京芸術大学の前身、東京美術学校の波乱の歴史をたどりながら、明治維新以後の日本美術の、西洋との出会いと葛藤を描く。

001
目次
まえがき――『東京美術学校物語』の基礎としての『東京芸術大学百年史』の存在について
 第一章 日本はいつ西洋と出会ったか――キーワードは遠近法
  享保の改革と漢訳洋書輸入解禁
  蘭書からの直接的西洋の影響
  西洋の遠近法と日本人の遠近法理解
  幕末明治の西洋体験――高橋由一の場合
 第二章 ジャポニスムの誕生――慶応三年パリ万国博覧会への参加
  江戸幕府パリ万国博覧会へ参加する
  フランス画壇の状況――印象派誕生前夜
  ジャポネズリとジャポニスム
 第三章 欧化を急げ――明治初期の国際主義的文化政策
  ウィーン万博参加と御雇外国人ワグネル
  万博と浮世絵
  唐突な工部美術学校の開校
  女子も学べた工部美術学校
  ラグーザと清原玉
 第四章 反動としての国粋主義の台頭
  龍池会の誕生
  フェノロサと岡倉との出会い
  『美術真説』を読んでみる
  フェノロサ、狩野芳崖を発見する
  パリで開かれた「日本美術縦覧会」の失敗
  フェノロサ、狩野派改良の絵画指導を始める
 第五章 美術学校設立の内定とフェノロサ、岡倉の欧米視察旅行
  文部省内におかれた「図画調査会」
  国立美術学校設立の内定
  フェノロサ、岡倉の帰朝報告
  原田直次郎のフェノロサ批判
 第六章 国粋的美術学校の理念の確立にむけて
  芳崖はフェノロサ、岡倉の手として選ばれた
  フェノロサの哲学的立場
  イデア論の延長――人間の誕生を描く《悲母観音》
  《悲母観音》の図像学の成立過程を考える
  国粋的美術学校の開校の背後で泣いた洋画家たち
――高橋由一・源吉親子と原田直次郎の場合
  五姓田一族と山本芳翠の場合
 第七章 開校された美術学校――フェノロサ、岡倉の教育プログラム
  お古の建物で始まった国粋美術学校
  フェノロサの授業の革新性とその受講生の作品
  公共モニュメントの受注制作
  シカゴ・コロンブス世界博覧会への協力
 第八章 図案科、西洋画科の開設と岡倉の失脚
  西洋画科の開設
  人事――紛争の火種
  選科という制度
  白馬会の創設
  岡倉失脚の経緯
  連袂辞職騒動
 第九章 一九〇〇年パリ万国博覧会への参加
  岡倉の去ったあとの美術学校
  パリ万博における美術学校関係者の出品と受賞
  浅井忠の驚愕と反省
  黒田の《智・感・情》
 第一〇章 正木直彦校長時代の三〇年と七ヶ月
  正木校長時代の日本画科
  正木校長時代の西洋画科
  文部省展覧会(文展)の創設と反文展の動き
  在野美術団体の誕生
  校友会活動
  正木時代のその他の出来事
  学生の思想取締りや退学処分
 第一一章 和田英作校長時代の四年間
  横山大観の怒り
  和田校長時代の改革と主な出来事
  矢代幸雄の美術学校への貢献
  和田校長が辞任に至る原因
  画家としての和田英作
 第一二章 戦時下の東京美術学校とその終焉
  戦時下の美術学校と眼のない自画像
  戦時下の画壇の状況
  戦時下の美術学校の教師――藤島武二の場合
  国粋主義者・横山大観
  大観の野望
  東京美術学校から東京藝術大学へ
 『東京美術学校物語』関連年表
 あとがき

一昨年から昨年にかけ、岩波書店さんのPR誌的な『図書』に連載されていたものに加筆・修正だとのことです。著者の新関氏は、昭和15年(1940)のお生まれだそうで、新制東京藝術大学さんをご卒業後、同大資料館(現・大学美術館)に勤務され、教授を経て現在名誉教授の由。

明治維新から太平洋戦争敗戦に至るこの国歴史全般が、まさにサブタイトルの通り「国粋と国際のはざまに揺れて」の年月だったわけで(現代も、ですが)、美術教育、そして美術界全体もその波から逃れられなかったことに思いを馳せながら拝読いたしました。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

数日前小包到着、実にいろいろいただき、驚くばかりです、数へる事も出来ないほどで皆お心のこもつた品々、ありがたく存じました、 アメリカの洗剤は早速使用、なるほど效能書にある通り純白に上るので喜びました、


昭和27年(1952)7月19日 倉田福子宛書簡より 光太郎70歳

敗戦から7年近く経ち、物資不足も漸く落ち着いてきたようですが、まだまだだったようですね。

テレビ放映情報を2件。

まずは10月に亡くなった美術史家・高階秀爾氏の追悼番組です。

日曜美術館 名画は語る 美術史家・高階秀爾のメッセージ

地上波NHK Eテレ 2024年12月22日(日) 午前9:00〜午前9:45

西洋美術史入門のバイブルとして、半世紀を超えて読み継がれる名著『名画を見る眼』。その著者である美術史家の高階秀爾さんが、今年10月、92歳で亡くなった。日曜美術館では、今年6月、高階さん自身が、著書の世界を語る番組を放送。その番組を中心に、1970年代から、日曜美術館で、さまざまな画家や名画について語った貴重な映像を発掘。美術の楽しみ方から、美術史家の使命まで、高階さんが語ったメッセージを届ける。

【出演】美術史家…高階秀爾,辻惟雄 大原美術館館長…三浦篤 アーティスト…布施琳太郎
【語り】守本奈実

000
光太郎がらみの話にはならないような気もしますが、一応ご紹介しておきます。

もう1件、こちらは光太郎に触れられます。初回放映が今年8月27日(火)だった回の再放送、および系列のBSテレ東さんでは初放映です。

開運!なんでも鑑定団 中島健人の秘蔵宝&金色江戸小判全11種

地上波テレビ東京 2024年12月22日(日) 12:54〜14:00
BSテレ東 2024年12月26日(木) 19:54~20:54

■エッ…魯山人!?伝説<美食陶芸家>作に<中島健人>も仰天
■アノ<人気飲料>の超貴重お宝に…ド級鑑定額
■輝く金色秘宝…<江戸小判>全11種一挙鑑定で超絶値■

最強アイドル・中島健人が鑑定団に登場!“親族一同期待している”お宝とは?驚きの鑑定結果に思わず絶叫!?「自慢のお宝で鑑定団に出たい!」毎晩神棚に祈り続けた祖父の願いを叶えるべく、孫娘が立ち上がった!お宝は美食家にして陶芸家の北大路魯山人の焼物。今田、ケンティーも絶句する衝撃の鑑定結果とは…?

【MC】今田耕司、福澤朗、菅井友香   【ゲスト】中島健人
【出張鑑定】第15回 強気のお宝鑑定大会 リポーター 岡田圭右 コメンテーター 北斗晶
【ナレーター】銀河万丈、冨永みーな
007
スタジオでの鑑定依頼2件中の一つ、「アノ<人気飲料>の超貴重お宝に…ド級鑑定額」の項で、1920年代、1940年代のコカ・コーラの販売機が出品。
005
コカ・コーラといえば光太郎(笑)。(大正元年=1912)、まず雑誌『白樺』に発表され、大正3年(1914)には詩集『道程』に収められた詩「狂者の詩」に「コカコオラ」の語が3回出てきます。これが今のところ、日本の文学作品におけるコカ・コーラ初登場とされています。このあたり、下記をご参照下さい。

「昭和32年 コーラ本格上陸 みんな作って、みんないい」/「「乙女の像」制作 朗読劇で 劇団「エムズ・パーティ」16、17日十和田で上演」。
テレビ放映情報-詩句の読み方。
都内レポートその2 「ココだけ!コカ・コーラ社 60年の歴史展」。
岩手日報「風土計」。

そこで、番組内で光太郎に触れて下さいました。
001
002
003
さらに当時の広告。
004
本放送視聴後、国会図書館さんのデジタルデータで調べてみましたところ、こんな広告も。
006
シロップを薄めて飲む形もあったようです。

で、依頼品。本国アメリカで使われていたもののようで、番組説明欄の「ド級鑑定額」の後は羊頭狗肉ではありませんでした。やはりコーラ関連、好きな方は好きなんでしょうね。
studio_02
ちなみにそちらとは別に、番組冒頭近くでゲストの山崎健人さん。MCの今田耕司さんと誕生日が一緒ということでお二人で盛り上がっていました。
009
010
「ありゃま!」でした。3月13日、光太郎の誕生日でもあります(笑)。吉永小百合さんが一緒だというのは存じていましたが、このお二人もそうだったのか、という感じでした。

それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】
008
昨日おてがみいただき、今日「典型」五冊おうけとりしました、いろいろ御面倒をかけたおかげでともかく出来ましてありがたく存じました、厚く御礼申上げます、お世話になつた社中の諸賢にも小生の謝意をおつたへ下さい、


昭和25年(1950)10月28日 松下英麿宛書簡より 光太郎68歳

若い頃からの選詩集的なものを除き、光太郎生涯最後の詩集となった『典型』が上梓されました。

以前にも書きましたが、奥付では刊行日が10月25日。遠く大正3年(1914)に出した第一詩集『道程』も10月25日。偶然なのか、狙ったのか、何とも不明ですが。

雑誌『中央公論』さんの最新号である2025年1月号
001 002
テレビの歴史番組等でもよく尊顔を拝見する東京大学史料編纂所教授・本郷和人氏による連載「皇室のお宝拝見」で、光太郎の父・光雲作の木彫「矮鶏置物」(明治22年=1889)が取り上げられています。巻頭のグラビアページで作品のカラー写真と解説のさわり、後の方のページで解説の続き。
015
主に昭和4年(1929)に刊行された光雲談話筆記『光雲懐古談』を参照されたようで、制作背景等を簡潔にご紹介下さいました。

『光雲懐古談』の当該部分は下記の通り。「青空文庫」さんで公開されています。

鶏の製作を引き受けたはなし 矮鶏のモデルを探したはなし 矮鶏の製作に取り掛かったこと 矮鶏の作が計らず展覧会に出品されたいきさつ 聖上行幸当日のはなし 叡覧後の矮鶏のはなし

作品は宮内庁三の丸尚蔵館さんに収蔵されています。同館、リニューアルオープンして約1年。当方、まだその後足を運んでおりません。以前の手狭だった頃はぶらっと行ってすぐ入れたのですが、再開後は基本的に予約制となり、ネット上でのその予約が以外と面倒くさいシステムです。昨今問題のオーバーツーリズムの回避などのためには致し方ないのかも知れませんが、何だかなぁ、という感じです。もう少し改善してほしいような……。

さて、このブログで紹介すべき事項、意外と溜まっておりまして、光雲がらみということでもう1件。

『日本経済新聞』さんの関連会社・日経アートさんの販売サイトが検索に引っかかりまして、来年の干支・巳にちなむ縁起物です。

銀製品 髙村光雲 吉祥 巳006

彫刻家・髙村光雲原型作の純銀レリーフです。写実に優れ、「野猪」や「老猿」など動物の作品が有名ですが、彫刻家としては仏師から作歴を重ねています。本作は頭に巳(へび)を乗せた姿で表される十二神将の因陀羅(いんだら)をモチーフとしており、精悍な顔つきや逆立つ髪の表現から仏師としての高い技術を感じることができます。

額(軸)寸法:30.0×30.0cm
レリーフ寸:径9.5cm
素材 純銀(レリーフ)・アルミ(額)
価格:165,000円(消費税10%込)
タトウ箱付

これまで気づきませんでしたが、日経アートさんでは昨年(卯年)、今年(辰年)のレリーフも扱われていました。
003 004
制作元は富山県高岡市の竹中銅器さん。高岡と言えば鋳造の街ですね。竹中さんのサイトでも巳年バージョン、直販が為されていました。
005
で、やはり以前から、十二支分全てを扱われていたようで、存じませんでした。それぞれ見事ですね。
008

来年の巳年バージョン、特に年男・年女の皆さん、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今年は父の十七回忌、智恵子の十三回忌にあたるので十日に此処の昌歓寺といふ大きな寺で法要を営む事にし、昨日寺へ行つてたのんで来ました。


昭和25年(1950)10月1日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎68歳

例年、花巻町中心街の松庵寺さんで行っていた法要、この年に限り、旧太田村の昌歓寺さんで営みました。宗派が違うということでしたが、あまり気にしなかったようです。

美術評論家の高階秀爾氏が亡くなりました。

共同通信さん配信記事。

美術評論家の高階秀爾さん死去 西洋美術史研究の第一人者

 日本の西洋美術史研究の第一人者で、理知的で明快な美術評論で知られた東京大名誉教授の高階秀爾(たかしな・しゅうじ)さんが17日、心不全のため死去した。92歳。東京都出身。葬儀は家族で行った。お別れの会を開く予定。
 1953年東京大卒。フランスに留学し、西洋近代美術史を専攻。帰国後、国立西洋美術館勤務などを経て、79年東京大教授に就いた。退職後、国立西洋美術館や岡山県の大原美術館の館長、日本芸術院長などを歴任した。
 豊かな教養と優れた感性で、ルネサンスから近現代までの西洋美術を研究。ロングセラーとなった「名画を見る眼」や「近代絵画史」など入門書の執筆に加え、留学時代から晩年まで、新聞や雑誌の寄稿を通じて同時代の美術を精力的に批評し、美術の魅力を多くの人に伝えた。明治の洋画家高橋由一の再評価など、近代日本美術の研究でも業績を残した。
 著書に「ルネッサンスの光と闇」「ピカソ 剽窃の論理」「日本近代美術史論」など多数。2001年に設置された文化審議会の初代会長や、京都造形芸術大大学院長も務めた。
000 001
高階氏、昭和47年(1972)発行の雑誌『ユリイカ』第4巻第8号の「復刊3周年記念大特集 高村光太郎」中の「共同討議 高村光太郎の世界」に、昨日もご紹介した高田博厚、当会顧問であらせられた故・北川太一先生、その盟友・吉本隆明と共にご臨席。30ページ超にわたる対談を展開されました。これで全員が鬼籍に入られてしまいましたが、今にして思うと凄い顔ぶれでした。
002
今読んでも「なるほど」の連続です。

当方、一度、氏のご講演を拝聴しました。平成26年(2014)の新宿中村屋サロン美術館さん開館記念講演会「中村屋サロンの芸術家たち」。ここでも光太郎に触れて下さり、時にユーモラスに、非常にわかりやすく語られていました。もう10年経つか、という感じですが。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

この間御恵贈の見事な干柿をいただきました。此前にもハムをいただき、重ね重ねで恐縮です。干し柿の縄おもしろく、智恵子だつたら早速切抜絵にする事だらうなどと考へました。

昭和25年(1950)2月10日 真壁仁宛書簡より 光太郎68歳

ちょっと面白い形のものを見ると、すぐに創作意欲が湧いてくる、亡き智恵子もそうだったろうと、これももうおそらく造型作家の「業」のようなものですね。

一昨日、光太郎終焉の地・中野の「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」会合に出席するために上京しておりました。来月10日(日)開幕の「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」(無料)の最終確認など。あまり宣伝が為されていないようで、初日に開催予定の関連行事としての渡辺えりさんと当方によるトークショー「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」(無料)など、まだ予約定員に達していないとのこと。ぜひお申し込み下さい。

それはそうと、そちらの会合に行く前に、竹橋の東京国立近代美術館(MOMAT)さんに立ち寄りました。こちらでは企画展「ハニワと土偶の近代」が開催中。
PXL_20241022_060549358
PXL_20241022_060614084
光太郎がらみの展示もあるという情報を得まして、参じました。

MOMATさん、攻めてるな、という感想でした。何が、というと、ある意味およそ美術館らしからぬ展示構成だったためです。しかし、非常に興味深く拝見しました。

「ハニワと土偶」と謳いつつ、埴輪や土偶そのものにスポットを当てるのではなく、近代美術史・社会史の中で埴輪や土偶がどのように受容されていったのか、その変遷史といった趣でした。そこで美術作品そのものよりも、史料類の展示が多く、その意味で「ある意味およそ美術館らしからぬ」と感じた次第です。

特に興味深かったのが、満州事変から太平洋戦争終戦に到る15年戦争時。
PXL_20241022_061037746.MP PXL_20241022_061043536
「武人埴輪」=「大王を警護する武人を象(かたど)ったもの」。そこで、近代の「皇軍兵士」へと類推が働き、さまざまな美術作品や工芸品、書籍類の表紙その他に埴輪や古墳時代の武人の姿などが「国威発揚」「戦意高揚」といった使命を担わされ、多用されるようになっていったとのこと。
PXL_20241022_061104040
PXL_20241022_061245906 PXL_20241022_061304576
PXL_20241022_061329372 PXL_20241022_061354436
PXL_20241022_061346764
PXL_20241022_061443020
下は光太郎とも交流のあった中村直人(なおんど)の「草薙剣」(昭和16年=1941)。
PXL_20241022_061850151 PXL_20241022_061827024.MP
PXL_20241022_061902503 PXL_20241022_061839090
こうした流れの中で、光太郎も埴輪について言及していました。昭和17年(1942)7月から12月にかけ、雑誌『婦人公論』に連載された「美の日本的源泉」(原題は「日本美の源泉」)中の「埴輪の美」という項です。
001
 埴輪といふのは上代古墳の周辺に輪のやうに並べ立てた素焼の人物鳥獣其の他の造型物であつて、今日はかなり多数に遺品が発掘されてゐる。これはわれわれの持つ文化に直接つながる美の源泉の一つであつて、同じ出土品でも所謂縄文式の土偶や土面のやうな、異種を感じさせるものではない。縄文式のものの持つ形式的に繁縟な、暗い、陰鬱な表現とはまるで違つて、われわれの祖先が作つた埴輪の人物はすべて明るく、簡素質樸であり、直接自然から汲み取つた美への満足があり、いかにも清らかである。そこには野蛮蒙昧な民族によく見かける怪奇異様への崇拝がない。所謂グロテスクの不健康な惑溺がない。天真らんまんな、大づかみの美が、日常性の健康さを以て表現されてゐる。此の清らかさは上代の禊の行事と相通ずる日本美の源泉の一つのあらはれであつて、これがわれわれ民族の審美と倫理との上に他民族に見られない強力な枢軸を成して、綿々として古今の歴史と風俗とを貫いて生きてゐる。此の明るく清らかな美の感覚はやがて人類一般にもあまねく感得せられねばならないものであり、日本が未来に於て世界に与へ世界に加へ得る美の大源泉の一特質である。此の「鷹匠埴輪」の無邪気さと、やさしい強さと、清らかさとはよく此の特質を示してゐる。美の健康性がここに在る。

掲載誌の『婦人公論』が展示されていました。
PXL_20241022_061651448
PXL_20241022_061703076
PXL_20241022_061725918
また、遡って昭和11年(1936)には、野間清六の著書『埴輪美』の序文も光太郎が書いています。

 日本に遺つてゐる造型芸術の中で、埴輪ほど今日のわれらにとつて親しさを感じさせるものはない。埴輪ほど表現に民族の直接性を持つてゐるものはない。それはまるで昨日作られたもののやうである。その面貌は大陸や南方で戦つてゐるわれらの兵士の面貌と少しも変つてゐない。その表情の明るさ、単純素朴さ、清らかさ。これらの美は大和民族を貫いて永久に其の健康性を保有せしめ、決して民族の廃頽を来さしめないところの重要因子である。世界の歴史に見る過剰文化による民族滅亡の悲劇が日本に起り得ないのは、国体の尊厳に基く事はもとよりであるが、又此の重要因子の作用するところも大きいのである。
 古代も今も同じ清浄の美を見よ。今後の世界の美の源泉の一つとして埴輪の持つ意味は深い。これを未来に生かし得る者は当面世界文化の廃頽爛熟を匡正し得るであらう。造型芸術の基本たるものが此此処にある。


そういうわけで、ここのパートのキャプションには光太郎が大きく紹介されていました。
PXL_20241022_061514889
PXL_20241022_061532669
黒歴史ですね。引用のため入力していて痛ましい気持になりました。

ただし、光太郎、このように文筆では戦争推進に多大な役割を果たしましたが、造型の部分では戦意高揚のための作品(いわゆる「爆弾三勇士の像」のような)を作りませんでした。そこに光太郎の良心の残滓が認められますが、それでも「ペンは剣よりも強し」。「言葉」として印刷され、刊行され、全国や植民地にまであまねく届けられた光太郎の言葉を読んで奮い立ち、死地に赴いた数多くの前途有為な若者達がいたことは忘れてはいけません。「綸言汗の如し」です。

さて、戦後。
PXL_20241022_062149423.MP
墨塗りの教科書まで展示されていました。

埴輪を皇軍兵士に重ね合わせるという事態は無くなりましたが、光太郎が提唱した「清浄な美」としての埴輪の美しさは、形を変えて生かされ続けます。

やはり光太郎と交流のあった佐藤忠良や猪熊弦一郎の作品。
PXL_20241022_062359734 PXL_20241022_062456829
PXL_20241022_062904831
光太郎の前に中西利雄アトリエを借りていたイサム・ノグチも。
PXL_20241022_063030635
PXL_20241022_063144423.MP
古墳時代の埴輪そのものの展示もありました。
PXL_20241022_063056173.MP PXL_20241022_063117772
再び光太郎。盟友の武者小路実篤を評した最晩年の「埴輪の美と武者小路氏」(昭和30年=1955)関係。武者が「縄文土器を愛するあまり調布に移住した」というのは存じませんでした。たしかに武者の作品には古代に通じるプリミティブな部分が感じられますね。
PXL_20241022_063556819
PXL_20241022_063602529
PXL_20241022_063535371
戦後、考古学の飛躍的進展により、また、皇国史観からの解放といった追い風もあって、縄文時代の研究が進みます。そんな中で埴輪より古い土偶にもスポットが当たるようになりました。

ただ、今回、土偶に関する展示は少なかった印象でした。右下は光太郎の同級生だった岡本一平の子息・岡本太郎。
PXL_20241022_063333592.MP PXL_20241022_063638002
現代になっても、埴輪は日本人の心を掴み続け……というわけで、サブカルチャーにも着目。映画「大魔神」や、水木しげる氏、石ノ森章太郎氏、諸星大二郎氏らのコミックまで。このあたりも「攻めてる」感が半端ないと思いました。
PXL_20241022_063745179.MP
出口付近にはNHKさんの「おーい!はに丸」も。お約束と言えばお約束ですが(笑)。
PXL_20241022_064151884
企画展示拝観後、常設展示的な「MOMATコレクション」展へ。光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)がよく出ているのですが、現在はお休み中でした。

「おっ!」と思ったのが、中西利雄。光太郎の終の棲家となったアトリエを建てた人物ですが、アトリエ竣工直前に急逝し、没後、遺族が貸しアトリエとして運用、イサム・ノグチや光太郎が借りたわけです。
PXL_20241022_064812520
PXL_20241022_064855657
PXL_20241022_064832901.MP PXL_20241022_065812614
光太郎実弟にして人間国宝だった豊周の鋳金作品も3点出ていまして、久しぶりに豊周作品を目にしました。ただし、撮影禁止でしたのでキャプションのみ画像を載せます。

さて、「ハニワと土偶の近代」、12月22日(日)迄の開催です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

出かける日は風速十五―二十米突といふ吹雪を冒しての行進だつたのですが、二人迎へに来て荷を持つてくれたので助かりました。帰る日も若い人三人で小屋まで送つてきてくれました、盛岡から二ツ堰までは刑務所の自働車が運んでくれました、西山村では一理余の雪原を馬橇にのりました、


昭和25年(1950)2月4日 宮崎稔宛書簡より 光太郎68歳

1月13日から22日にかけ、盛岡、さらに郊外の西山村を歴訪しました。盛岡では県立美術工芸学校婦人之友生活学校少年刑務所などで7回講演。西山村では、深沢省三・紅子夫妻の子息にして戦時中に詩「四人の学生」のモデルとなった故・深沢竜一氏宅に滞在、好物の牛乳を一升も飲んだそうです(笑)。

ほぼほぼ一気読みしました。

不運の画家-柳敬助の評伝 西洋画黎明期に生きた一人の画家の生涯

2024年4月29日 渡邉茂男著 東京図書出版 定価1,800円+税

敬助没後百年──芸術家は死んでも、またその作品が多く失われても、その画業は私たちの心に残っている。敬助が見た未知の世界に私たちも旅立ちませんか。
関東大震災で不幸にも多くの代表作を失った。
柳敬助は東京美術学校西洋画科に学び、アメリカ・フランス・イギリス留学を経て帰国、人物画に秀でていた。荻原守衛・高村光太郎・岸田劉生・青木繁などと同時代の画家である。
001
目次
 はじめに
  関東大震災に遭遇
  柳敬助との出会い  
 第一章 幼少期の柳敬助
  敬助の誕生  敬助とその家族  佐藤校長との出会い  
 第二章 千葉中学校へ
  千葉中学校への進学  堀江正章との出会い  
 第三章 東京美術学校へ
  西洋画科へ  入谷の五人男  美校生活の一コマ  アメリカ留学準備  
 第四章 渡米時代
  アメリカ留学  シアトルからセントルイスへ  セントルイス万国博覧会  
  ニューヨークへ  ヘンライとの出会い  荻原守衛や高村光太郎らとの出会い  
  ヨーロッパに向かう敬助  
 第五章 帰国と様々な出会い
  生家へ  新宿中村屋  荻原守衛の死  信州穂高へ  『白樺』派との付き合い  
  中村屋裏のアトリエ  橋本八重との出会い  パンの会  新井奥邃との出会い  
 第六章 結婚へ――充実した作家活動
  八重と結婚へ  光太郎へ智恵子紹介  画家仲間との交流  
  アトリエ完成(雑司ヶ谷)
  高村光太郎と『読書読』  山を愛した敬助
  
日本女子大学と成瀬仁蔵   西田天香との出会い  
 第七章 死に向かいて
  充実した作家活動  穂高再訪  最後の旅路  死に向かいて  追悼展に向けて  
 第八章 おわりに
 参考文献
 柳敬助年譜

著者プロフィール
 渡邉茂男  (ワヤナベシゲオ)  (著/文)
1950年生まれ。学習院大学文学部哲学科卒業。卒業後、千葉県内の公立高校教員を務める傍ら、地方史の研究に従事。退職後、君津地方社会教育委員連絡協議会会長を経て、現在君津市文化財審議会委員、千葉県文書館古文書調査員。主な著書・論文に以下のものがある。
『学校が兵舎になったとき』(分担執筆 青木書店 1996年)、『君津市史 通史』(分担執筆 君津市 2001年)、『御明細録―上総久留里藩主黒田氏の記録―』(編修代表 上総古文書の会 2006年)、『房総の仙客 日高誠實』(三省堂書店/創英社 2017年)など。

光太郎と深い交流のあった画家・柳敬助(明14=1881~大12=1923)の評伝です。これまで柳に関するまとまった評伝は無く、いわばパイオニアです。

昨秋、千葉の木更津で開催された「第116回 房総の地域文化講座 没後100年、画家・柳敬助の生涯」で講師を務められた渡邉茂男氏の労作で、同講座を拝聴に伺い、本書出版に向けて最終準備中、的なお話で、心待ちにしておりました。

まず驚いたのが、豊富に図版が挿入されているのですが、古写真等を除き大半がカラー印刷である点。版元の東京図書出版さん、自費出版系の書肆ですが、かなりコストが掛かったのでは? と思いました。やはりカラー画像はインパクトが違います。モノクロ画像だけで油絵画家の色調がどうの、筆致がどうのと論じられてもイメージが湧きにくいのですが、こちらはそのあたりが原色で確認できます。

ただ、柳の作品うちのかなりの点数、しかも優品が、大正12年(1912)の関東大震災で焼失しており、それらは画像があってもモノクロなので、その点が返す返す残念です。

柳が歿したのが震災の年の5月。胃ガンでした。そして9月1日から日本橋三越で遺作展が開催されるはずが、ちょうどその日に震災が起こり、集められた作品群が全て灰燼に帰してしまったわけです。

行年数えで43歳と若くして亡くなり、さらに作品の多くが焼失したことにより、柳の業績は忘れられつつあるのですが、それでも現存する作品も少なからずあり、それらにスポットを当てつつ、柳という人物を後世に伝えていこうという強い意志が感じられる一冊でした。

柳の交流の幅の広さにも、改めて驚かされました。光太郎や荻原守衛をはじめとする美術家はもちろん、井口喜源治、江渡狄嶺成瀬仁蔵、新井奥邃、西田天香ら思想家的な人々との交流が目立ち、それが柳という人物の大きなバックボーンを形成している、と、渡邉氏。なるほど、と思いました。その点は光太郎にも言えることかな、という気はしましたが。

そして柳の妻・八重は日本女子大学校の一期生。柳ともども明治44年(1911)に光太郎と智恵子を引き合わせる労を執ってくれました。ところが結婚した柳夫妻に対し、光太郎は「この頃付き合い悪くなったじゃん」的な詩「友の妻」を書いています。智恵子との結婚後は、光太郎、さらに光太郎よりも智恵子が、周囲との付き合いが悪くなるのですが(笑)。

それから、荻原守衛。現存する柳の絵画のうち、かなりの点数が信州安曇野の碌山美術館さんに所蔵されています(遺族からの寄贈がほとんどのようです)。柳と守衛との交流の深さを物語っています。明日、明後日と碌山忌等のため同館に行って参りますので、改めて柳作品、しっかり見て来ようと思いました。ちなみに柳の絵は、同館の第1展示棟で光太郎ブロンズとともに並んでいます。

さて、『不運の画家-柳敬助の評伝 西洋画黎明期に生きた一人の画家の生涯』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨日師範校の学生さん五人連にて半日遊んでゆきましたが、お弁当にあの胡瓜の生と塩とをさし上げて大変よろこばれました。五人連には坂上のポラーノの広場を案内、皆々大喜びでした。若い人達は元気でうれしくなります。


昭和22年(1947)6月26日 宮沢清六宛書簡より 光太郎65歳

キュウリとか塩とかは、宮沢家からの差し入れでしょう。「ポラーノの広場」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋裏手、現在「智恵子展望台」と呼ばれている高台と思われます。

新刊です。

日本の近代思想を読みなおす3 美/藝術

2024年3月7日 稲賀繁美著 末木文美士/中島隆博責任編集 東京大学出版会 定価5,400円+税

ヨーロッパの基準で日本文化を判断し、そこにいかなる「美」の存在、むしろ不在を認定するか、あるいはいかなる「藝術」の発見を認知するか、それとも否認するか、その闘争の場として「日本の近代思想」における「美/藝術」は「読みなお」しを迫られている。本書はその視角から美/藝術を活写する。
001
目次
総論 「近代日本」の「美」と「藝術」の「思想的」「問い直し」――本書の前提と限界
 一 学術分野と担い手の問題
 二 実践者と研究者と
 三 輸入概念としての「美」「藝術」
 四 内と外との鬩ぎ合い
 五 海外発信の使命と蹉跌と
 六 「日本」固有の「美の本質」探求とその自己矛盾
 七 国際的評価基準と「美」や「藝術」の位相
 八 先行業績の瞥見と再評価
 九 「脱近代後」から回顧する「日本近代の美/藝術」
 一〇 本書の前提と限界
Ⅰ 「藝術」の「制度」と「近代」
 一 渡邊崋山「崋山尺牘」
 二 『國華』第一巻 第一号 序文
 三 九鬼隆一「序」『稿本帝国日本美術略史』
 四 岡倉覚三『茶の本』The Book of Tea(一九〇六)
 五 高村光雲『高村光雲古譚』
Ⅰ 資料編
 一 坂崎坦「崋山椿山の学画問答」
 二 『国華』第一巻第一号序文/"Introduction to the New English Edition"
 三 九鬼隆一 序『稿本帝国日本美術略史』"Préface",Historie de l'art du japan
 四 岡倉覚三『茶の本』The Book of Tea
 五 高村光雲『高村光雲懐古譚』
Ⅱ 東洋美学の模索
 一 橋本関雪『南畫への道程』
 二 園頼三『藝術創作の心理』
 三 金原省吾『東洋美論』
 四 鼓常良『日本藝術様式の研究』
 五 小出楢重『油絵新技法』
Ⅱ 資料編
 一 橋本関雪『南画雑考』
 二 園頼三『感情移入より気韻生動へ』
 三 金原省吾『東洋美論』
 四 鼓常良「結語」『日本藝術様式の研究』
 五 小出楢重『油絵新技法』
Ⅲ 外からのまなざし、外への視線――内外の交差にみる日本の「美」と「藝術」
 一 高村光太郎「ポール・セザンヌ」『印象派の思想と藝術』/「触覚の世界」
 二 Marie C. Stopes, Plays of Old Japan, The Nô, Heinemann, 1913
 三 大西克禮『幽玄とあはれ』
 四 Bruno Taut “Wie ich die japanische Architectur ansehe?”
「予は日本の建築を如何に観るか」岸田日出刀(訳)
 五 今村太平「日本藝術と映画」『映画藝術の性格』
Ⅲ 資料編
 一 高村光太郎「ポール・セザンヌ」 高村光太郎「触覚の世界」
 二 Marie C. Stopes, Plays of Old Japan, The Nô
 三  大西克禮『幽玄論』
 四 Bruno Taut “Wie ich die japanische Architectur ansehe
ブルーノ・タウト「予は日本の建築を如何に観るか」(岸田日出刀譯)
 五 今村太平「日本藝術と映画」
Ⅳ 「日本美」の彼方への思索――伝統と創造との綻び目
 一 和辻哲郎「面とペルソナ」『面とペルソナ』
 二 柳宗悦 “The Responsibility of the Craftsman”
Sōetsu Yanagi,Bernard Leach(ed.), The Unknown Craftsman
 三 矢代幸雄「滲みの感覚」『水墨画』
 四 丹下健三「日本建築における伝統と創造│桂」『桂:日本建築における伝統と創造』
 五 Taro Okamoto, L’esthétique et le sacré, Seghers, 1976,«L’énigme d’Inoukshouk», 
«le jeu de berceau »「イヌクシュックの神秘」、「宇宙を彩る」『美の呪力』
Ⅳ 資料編
 一 和辻哲郎「面とペルソナ」
 二 柳宗悦「日本人の工藝に対する見方」 The Responsibility of the Craftsman
 三 矢代幸雄「滲みの感覚」
 四 丹下健三「桂にいたる伝統」 The Tradition leadung up to Katsura
 五 岡本太郎「イヌクシュックの神秘」 L’énigme d’Inoukshouk
   岡本太郎「宇宙を彩る――綾とり・組紐文の呪術」 le jeu de berceau
おわりに

日本の近代思想を読みなおす」という全15巻のシリーズ中の3巻目です。幕末から昭和の岡本太郎あたりまでの、いわばその時点でのエポックメーキング的な書籍、論文その他をピックアップし、その美術史的位置づけや背景、その後に与えた影響などをつぶさに検証しています。原文の抄録も「資料編」として掲載。非常に読み応えがあり、なるほどと目を開かれる部分が少なくありませんでした。

上記目次で色を変えておきましたが、第Ⅰ章で光太郎の父・光雲の『光雲懐古談』(昭和4年=1929 万里閣)、第Ⅲ章で光太郎の『印象主義の思想と芸術』(大正4年=1915 天弦堂書房)から「ポール セザンヌ」、評論「触覚の世界」(昭和3年=1928 『時事新報』)が取り上げられています。

ただ、残念なのがありえないほどの誤植の多さ。目次からして『光雲懐古談』が『光雲古譚』とか『光雲懐古譚』になっています。そうかと思うと本文では正しく『光雲懐古談』となっている箇所もあったりします。また、光太郎の『印象主義の思想と芸術』は全ての箇所で『印象の思想と芸術』と誤記。「ポール・セザンヌ」と書かれている題名も正しくは「・」なしの「ポール セザンヌ」です。さらに本文中にやはり光太郎の評論集『造美論』(昭和17年=1942 筑摩書房)が紹介されていますが、これも『造美論』……。どうすればこうやって取り上げる書籍等の題名を誤記できるのかと呆れてしまいました。せっかくの労作なのにもったいないというか……。そうなると、当方の詳しくない他の作家の部分でも同様の誤記が少なからずあるのではないかと勘ぐってしまいます。当方も時々やらかすのであまり大きなことは言えませんが……。

ついでにいうなら、いちいち気になって仕方がなかったのが、旧字と新字の混交。なぜか「芸」の字、旧字の「藝」と新字の「芸」が混ざっています。何かこだわりがあるのかも知れませんが、使い分けている基準や意図が全く不明です。きちんと校正者の校正を経ていないのでしょうか(経ていれば『光雲懐古談』『光雲古譚』『光雲懐古譚』、「藝」「芸」が共存していることは有りえませんね)……。そういった部分では版元の姿勢も問われます。

まぁ、そういう点を差っ引いても日本近代の美術思想史を概観する上では良書といえます。誤植の多さには目をつぶってあげて、お読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

ミカンはまことに珍重、早速夕食後にコタツでいただきました。昔一晩に一箱たべてしまつたやうな時代のあつた事を思ひ出しました。


昭和22年(1947)1月5日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

昭和2年(1927)の『婦人公論』に載ったアンケート「名士と食物」に「果物は柑橘類が第一で、蜜柑などは一晩に一箱位平気で食べて了ふが、他人には嘘と思はれる位である。」と回答していました。それにしても「一晩に一箱」(笑)。ミカンに含まれるカロテンという色素が沈着し、手足が黄色くなる「柑皮症」というのもあるそうですが、大丈夫だったのでしょうか。

最近ではミカンも貴重品のような気がします。一度に2つも食べると罪悪感に責めさいなまれます(笑)。

光太郎智恵子と交流のあった画家・津田青楓の評伝です。

津田青楓 近代日本を生き抜いた画家

2023年12月5日 大塚信一著 作品社 定価2,700円+税

洋画・日本画・書の作家、図案家・装幀家、俳人・歌人・随筆家――明治・大正・昭和の激動の時代を必死に生き抜いた多面的な芸術家の生き方を描く、初の本格的評伝!

 明治・大正・昭和と、正に日本近代を必死に生き抜いたのが津田青楓であった。彼が逆境の中でどのように自らの道を開拓していったか、日本近代の激動の歴史に翻弄されつつもそれらといかに対峙していったか、その軌跡はまことに類稀れなものである。芸術は彼にそのための手段を与えた。彼は存分にそれらを活用して、可能な全てのことを行い、時に挫折し、時には成功したのであった。
 私は、津田青楓という一人の芸術家の生き方を辿ることによって、日本近代の光と影に新しい景色を加えることができれば、と願っている。
(本書「プロローグ」より)
001
目次002
 プロローグ
 第一章 京都に生まれて――芸術家の誕生
 第二章 軍隊と戦争の体験
 第三章 結婚と留学
 第四章 漱石との親交
 第五章 続・漱石との親交
 第六章 三重吉と寅彦
 第七章 苦悩する青楓
 第八章 開花する才能
 第九章 河上肇との交流
 第一〇章 続・河上肇との交流、そして挫折?
 第一一章 日本画家としての成熟
 第一二章 青楓にとっての良寛
 エピローグ
 あとがき
 作品図版一覧/人名索引


『朝日新聞』さんの広告で見つけ、購入しました。「初の本格評伝」とあり、言われてみれば津田の評伝って見たことないな、というわけで。

津田は光太郎より3歳年長の明治13年(1880)生まれ。光太郎とは留学仲間で、津田は明治40年(1907)から同43年(1910)にかけ、農商務省の海外実業練習生としてパリに。一方の光太郎は明治41年(1908)にロンドンからパリに移り、そこで知り合ったと考えられます。

光太郎、そして津田も俳句が好きだったようで、光太郎は明治42年(1909)、留学の最後に約1ヶ月旅したイタリア各地からパリの津田宛にせっせと絵葉書を送りましたが、そこには旅の吟がびっしり。現在確認できている光太郎の俳句100句あまりのうち、半分以上がそれです。光太郎から津田宛の書簡はかなり散逸してしまっており、『高村光太郎全集』完結後にもその中の1枚が見つかったり、両者帰国後の明治44年(1911)、光太郎が神田淡路町に開いた画廊「琅玕洞」をたたんで北海道に渡る旨を知らせる葉書が見つかったりもしています。他の書簡もまだどこかに人知れず眠っているような気がします。
無題 d20e7047
琅玕洞では津田の個展も開いています。光太郎は自分の画廊の展評を『読売新聞』に寄稿しました。題して「津田青楓君へ-琅玕洞展覧会所見-」(明治44年=1911)。その中で「友人といふので口の利き易い所から、感じた儘を無遠慮に書いた」とし、確かに歯に衣着せぬ評をしています。曰く「少し失望したよ。君が思ひの外、油絵具にこき使はれてゐるからさ」「君のいつもの熱は何処へ行つたのだらう。あべこべに顔料に追はれて居る様に見えるのは、製作時に於ける此の熱の不足から来たのぢやないかと思はれる」など。たとえ親しい間柄でも、このあたり、光太郎は妥協しませんでした。

津田は智恵子とも交流がありました。

おそらく明治43年(1910)のことと思われますが、後に津田が書いた『老画家の一生』という書籍(昭和38年=1963)に次の記述があります。

 亀吉の陋屋にも、人の出入りが次第に多くなつた。
 目白駅に通じる大通りには、成瀬仁蔵といふ人の創立した女子大学があつた。自然画好きの女学生もやつてきた。
 近所にはアメリカ帰りの柳敬助といふ画家がゐた。その奥さんは女子大出身で、後には柳君の家庭とも往来するやうになつた。
 巴里時代知り合ひだつた斎藤与里君も、程近い処に住んでゐたので、散歩の行きか帰りにしばしば訪れた。その横町の足袋屋の二階には相馬御風君がゐた。彼は早稲田出で、当時『早稲田文学』の編輯をやつてゐた。
 亀吉の町内に小川未明君がゐた。彼は東北出身で、言葉に特別な訛りがあつた。我儘で短気者だつた。
 往来してゐる者はすべて地方出身の野武士で、亀吉のやうな京都そだちはあたりに居なかつた。
 すこしあとになつてからのことかもしれないが、長沼智恵子(後の高村光太郎氏夫人)といふ、女子大の生徒もきた。家では教へなかつた。彼女が画架を据ゑて描いてゐる所へ行つて助言したり、雑司ヶ谷にある彼女の住居へも出かけて行つたことがある。彼女は艶といふか色つぽいといふか、いつも裾の方に長襦袢の赤いものを少しのぞかせて、ぞろぞろ歩きだつた。カチカチの女子大には珍らしい存在だつた。


「亀吉」は本名「亀治郎」の津田自身です。

また、同じ頃の回想で、津田の最初の妻でやはり画家の山脇敏子もこう書いています。

 その頃夫の友人で色々の人々と交際していた。先ず女の人では青鞜社の物集和子、平塚雷鳥、杉本正生、長沼智恵子(後の高村光太郎夫人)、文士では寺田寅彦、鈴木三重吉、内田百閒、小宮豊隆、森田草平、小川未明、茅野蕭々、滝田樗蔭、島中健作、秋山光夫、阿部次郎、安倍能成、それと先生の夏目漱石の諸氏が私の記憶に残つている。

そして再び津田。昭和23年(1948)に発行された『漱石と十弟子』の一節で、「美代子」という仮名になっていますが、やはり智恵子が登場。

 午後から長沼美代子さんがくる。一緒に鬼子母神の方へ写生に出る。美代子さんは女子大の寄宿舎にゐる。学校を卒業したのやら、しないのやら知らない。ふだんに銘仙の派手な模様の着物をぞろりと着てゐる。その裾は下駄をはいた白い足に蓋ひかぶさるやうだ。それだけでも女子大の生徒と伍してゐれば異様に見られるのに、着物の裾からいつも真赤な長襦袢を一、二寸もちらつかせてゐるから、道を歩いてゐると人が振り返つて必ず見てゆく。しかもそろりそろりとお能がかりのやうに歩かれるのだから、たまらない。美代子さんの話ぶりは物静かで多くを言はない。時々因習に拘泥する人々を呪うやうに嘲笑する。自分は只驚く。彼女は真綿の中に爆弾をつつんで、ふところにしのばせてゐるんぢやないか。
 彼女は言つた。世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの。

最後の智恵子のせりふは、智恵子評伝や二次創作などの中でよく使われるものです。当方も使いました(笑)。

そんな津田の「初の本格的評伝」だそうで、まだ精読していないのですが、おいおい読んでいきたいと存じます。ただ、光太郎に関わる箇所をざっと見たのみでも誤植などが目立つのが残念ですが……。

ともあれ、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

資材不足には小生も閉口してゐます。絵具が無くなつてはお困りでせうが当分は鉛筆だけでも勉強する外ありません。小生もまだ彫刻には本当に取りかかれずにゐますが、野山のものを写生しながらますます自然の美の深さにうたれます。

昭和21年(1946)8月2日 小林治良宛書簡より 光太郎64歳

戦後になっても物資不足がすぐ解消したわけではなく、特に画家は絵の具の入手に困難を極めていたようです。

評論家の東浩紀氏主宰の雑誌『ゲンロン』。昨秋刊行された第15集『ゲンロン15』に、光太郎がらみの論考が掲載されているという情報を得まして、慌てて購入しました。

ゲンロン15

2023年10月20日 東浩紀編集 株式会社ゲンロン 定価2,300円+税

『訂正可能性の哲学』にもつながる消費とリゾートをめぐる東浩紀の論考、アジアを代表する若手哲学者ユク・ホイ氏へのインタビュー、川上未映子氏によるエッセイ、原一男氏・大島新氏・石戸諭氏による鼎談など、豪華内容を収録。

001
【目次】
 [巻頭論文]東浩紀|哲学とはなにか、あるいは客的-裏方的二重体について
 [ゲンロンの目]川上未映子|春に思っていたこと
 [座談会]原一男+大島新+石戸諭|
ドキュメンタリーはエンターテインメントでなければならない
 [特別寄稿]三宅陽一郎|異世界転生とマルチバースと未来のコンテンツ
 [エッセイ]宮﨑裕助|脱構築のトリセツ──脱構築入門(の彼方へ)の一歩
 [ゲンロンの目]山内志朗|〈セカイ系〉に捧げられた花束 中世ラテン哲学のすすめ
 [インタビュー]ユク・ホイ 聞き手=東浩紀 訳=伊勢康平|
「わたしは自分の問いに忠実でありたい」ポストモダンとアジアと哲学をめぐる対話
 [連載]ユク・ホイ 訳=伊勢康平|
共存の言葉について 惑星的なものにかんする覚書 第2回
 [連載]石田英敬|詩とアルコールと革命と 飛び魚と毒薬 第1回 + 第2回
 [連載]イ・アレックス・テックァン 訳=鍵谷怜|
ベルクソンとアフリカ 理論と冷戦 第5回
 [連載]田中功起|見ないこと、見損なうこと、あるいはインフラストラクチュア
 3月1日から9月2日 日付のあるノート、もしくは日記のようなもの 第16回
 [連載]上田洋子|演劇に自由はあるのか、あるいは可視化される孤独の問題
 ロシア語で旅する世界 第12回
 [論考]能勢陽子|失われた抒情と穴が開いたレンコン状の月―梅津庸一の近年の作品
 [エッセイ]川原伸晃|園芸とは超越の飼い慣らしである
 [創作」猿場つかさ|海にたゆたう一文字に 第6回SF新人賞受賞作 [解題]大森望
 [コラム]山森みか|イスラエルの日常、ときどき非日常
#10 「産めよ」「育てよ」「つがいになれ」
 [コラム]辻田真佐憲|国威発揚の回顧と展望 #5 近鉄から逃れられない
 [コラム]福冨渉|タイ現代文学ノート #8 変わる南の島
 [コラムマンガ]まつい|島暮らしのザラシ #4
 ネコデウス15
 寄稿者一覧
 English Contents and Abstracts

光太郎に触れて下さった論考は、愛知県豊田市美術館学芸員の能勢陽子氏による「失われた抒情と穴が開いたレンコン状の月―梅津庸一の近年の作品」。

メインは一昨年に都内で開催された現代アート作家・梅津庸一氏の展覧会「緑色の太陽とレンコン状の月」などの紹介です。そこから梅津氏も注目した光太郎の評論「緑色の太陽」(明治43年=1910)における「個」と「国家」などとの関係、さらに戦時中に翼賛詩文を書きまくった光太郎の変節、戦後の花巻郊外旧太田村での大いなる悔恨等にも拡がっていきます。そこに同時代の黒田清輝や夏目漱石、岸田劉生、「民芸」運動などにも言及されています。

目次の通り、他にも色々と充実の内容です。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

詩もたくさん書いてゐます。


昭和21年(1946)7月29日 大木実宛書簡より 光太郎64歳

たくさん書いてゐます」と言いつつ、この時期の発表が確認できている詩は、『週刊少国民』に「雲」、『新岩手日報』で「絶壁のもと」の2篇だけです。おそらく、翌年7月の『展望』に載った20篇から成る連作詩「暗愚小伝」を指しているのではないかと思います。幼少年期から始まり、戦時中の愚行を含め、自己の半生を振り返り、自らの戦争責任を省察した連作です。






新刊です。

モニュメント原論 思想的課題としての彫刻

2023年11月30日 小田原のどか著 青土社 定価4,200円+税

破壊される瞬間に、彫刻はもっとも光り輝く
彫刻を「思想的課題」と自らに任じ、日本近現代の政治・歴史・教育・芸術そしてジェンダーを再審に付す。問い質されるは、社会の「共同想起」としての彫像。公共空間に立つ為政者の銅像が、なぜ革命・政変時に民衆の手で引き倒される無残な運命に出遭うのか――。画期的かつ根源的な思索の書。
001
目次
 プロローグ
 1部 彫刻をめぐって
  1.彫刻という名前
  2.われ記念碑を建立せり――「水俣メモリアル」を再考する
  3.彫刻の問題――加藤典洋、吉本隆明、高村光太郎からの回路をひらく
  4.不可視の記念碑
  5.モニュメント・マスト・フォール?――BLMにおける彫像削除をめぐって
  6.彫刻とはなにか――「あいちトリエンナーレ2019」が示した分断をめぐって
  7.女性裸体像はいつまで裸であらねばならないのか?
  8.なぜ女性の大彫刻家は現れないのか?
  9.箱(キューブ)をひらく――ジャコメッティの彫刻とコレクション/
キューレイション/エキシビジョン
  10・三島由紀夫への手紙
 2部 固有の場所から
  1.爆心地の矢印[長崎]――矢形標柱はなにを示したか
  2.この国の彫刻のために[長崎]
  3.彫刻を見よ[東京]――公共空間の女性裸体像をめぐって
  4.拒絶から公共彫刻への問いをひらく[福島]
ヤノベケンジ《サン・チャイルド》撤去をめぐって
  5.被爆者なき後に[広島]――広島平和記念資料館
  6.“私はあなたの「アイヌ」ではない”[白老]――ウポポイ(民族共生象徴空間)
  7.「過去」との絶え間ない対話のために[韓国]――《平和の女子像》をめぐって
  8.旧多摩聖蹟記念館[東京]――台座の消失と彫刻/彫塑のための建築
 3部 時代との共鳴
  1.ウェブ版「美術手帖」ファイル
   1.ナガサキのあとに彫刻は作れるのか――「森淳一 山影」
   2.共産主義と資本主義の裂け目で――
The Nature Rules 自然国家:Dreaming of Earth Projects
   3.彫刻という困難――小谷元彦「Tulpa-Here is me」
   4.なぜ女性の大彫刻家は現れないのか? Ⅱ――青木野枝「霧と山」
   5.私たちは何を学べるのか?――「表現の不自由展・その後」評
   6.公共建築から芸術祭へ――到達/切断地点としての「ファーレ立川」
   7.美術史という「語り」を再考する――コレクション特集ジャコメッティと Ⅱ
   8.名の召喚――柳幸典展
   9.「傷ついた風景の向こう」に見えるもの――
DOMANI・明日2020 傷ついた風景の向こうに
   10.帰宅困難と自宅待機――Do'nt follow the Wind
   11.コロナ禍は美術館に何をもたらすか?
――『ラディカル・ミュゼオロジー』『美術館の不都合な真実』を手がかりに
   12.女性器が「選ばれない」世界で――遠藤麻衣×百瀬文 新水晶宮
   13.「歌う」から「語る」へ――彼女たちは歌う Listen to Her Song
   14.「個」と「公」を仲立ちし、たぐり寄せる。――加藤翼「Supersturing Secrets」
   15.マテリアル・マテリアリズム・マテリアリスト
――カタルシスの岸辺「光光DEPO」
   16.相次ぐ告発、美術業界の変化のただ中で――居場所はどこにある?
  2.「東京新聞」ファイル
   1.彼女たちは歌う
   2.アイヌの美しき手仕事
   3.性差(ジェンダー)の日本史
   4.石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか
   5.小泉明郎+オヤマアツキ「王の二つの身体」
   6.シアターコモンズ/第13回恵比寿映像祭/TPAM
   7.アイノとアルヴァ 二人のアアルト フィンランド――建築・デザインの神話
   8.女が5人集まれば皿が割れる
   9.膠を旅する――表現をつなぐ文化の源流
   10.白川昌生展 ここが地獄か、天国か。
   11.山城千佳子リフレーミング
   12.ロニ・ホーン――水の中にあなたを見るとき、あなたの中に水を感じる?
   13.Vira Video!――久保田成子展
   14.イミグレーション・ミュージアム・東京多国籍美術展
  3.ぐるぐるキョロキョロ展覧会記――『芸術新潮』ファイル
   1.コレクションを活かす/隠す
   2.越境者を照らす光――ヤン・ヴォーーヴ・ンヤ
   3.“世界初”の国際芸術祭は新たな基準となるか
――ヨコハマトリエンナーレ2020「AFTERGLOW――光の破片を捕まえる」
   4.選べない私を選ぶ
――鴻池朋子 ちゅうがえり ジャムセッション 石橋財団コレクション×鴻池朋子
   5.名品という視座を味わう――もうひとつの江戸絵画大津絵
   6.排除と収奪の日本史――性差(ジェンダー)の日本史
   7.サイレンスを見つめる――ミヒャエル・ボレマンス マーク・マング
――ダブル・サイエンス
   8.希代のプロモーターの原点を知る――式場隆三郎「脳室反射鏡」
   9.幻視者(ヴィジョナリー)が問いかけるもの
――平成美術:うかかたと瓦礫1989-2019
   10.どっちだと思う?――アネケ・ヒューマン&クミ・ヒロイ、
潮田登久子、片山真理、春木麻衣子、細倉真弓、そして、あなたの視点
   11.時の可能性と対峙する――3.11とアーティスト:10年目の想像
   12.歴史の編み目をくぐり抜ける――
ホーツーニェンヴォイス・オブ・ヴォイド――虚無の声
   13.風穴を開け、空気を入れ換える
――SIDE CORE presents EVERY DAY HOLIDAY SQUAD soloexbition"underpressure"
   14.差異に宿るエナジー――アナザーエナジー展:挑戦し続ける力
――世界の女性アーティスト一六人
   15.破滅と熱狂、その先に――加藤翼 縄張りと鳥
   16.残/遺されたものを見る――Walls & Bridges 世界にふれる 世界を生きる
   17.むき出しの写真と対峙する――
ユージン・スミスとアイリーンスミスが見たMINAMATA
   18.背後の戦争画――3.11とアーティスト小早川秋声 旅する画家の鎮魂歌
   19.「3.11から一〇年」の影に
――せんだいメディアテーク開館二〇周年展 ナラティブの修復
   20.開かれた「フェミニズム」へ向かって
――ぎこちない会話への対応策――第三波フェミニズムの視点で
   21.地球を感知する場――池内晶子あるいは、地のちからをあつめて
   22.「人類よ消滅しよう」――生誕一〇〇年 松澤宥
   23.稀有な複数性の発露 Chim↑Pom展
   24.未然の迷宮――森村泰昌:ワタシの迷宮劇場
   25.版画に宿る抵抗の精神――彫刻刀が刻む戦後日本
   26.見ること、極限の問い――ゲルハルト・リヒター展
   27.交差点としての美術展――アーティスト支援プログラム
 あとがき


目次を書き写すだけで疲れました(笑)。

彫刻等の実作のかたわら、この手の文筆活動を盛んに行われている小田原のどか氏の評論集です。目次にあるとおり、あちこちに発表されたものの集成で、雑誌『群像』2020年7月号に載った「彫刻の問題――加藤典洋、吉本隆明、高村光太郎からの回路をひらく」他、ところどころで光太郎に触れて下さっています。

先週末、『朝日新聞』さんに書評が出ました。

モニュメント原論 思想的課題としての彫刻 小田原のどか〈著〉 平和プロパガンダと女性裸体像

 この国には街や公演の随所で女性の裸体像が立っている。なぜ「裸の女」なのか。本書によると、日本の公共空間に「平和」を冠するその第一号がお目見えしたのは1951年のこと。東京・三宅坂に「平和の群像」と題された三体の彫刻が設置された。同じ台座には、戦時中には軍閥の力の象徴として「寺内元帥騎馬像」が置かれていた。
 ところが戦時中の物資不足で騎馬像が金属回収されると台座だけが残される。そこに戦後、当時の電通社長、吉田秀雄の指針で「軍服を脱ぎ捨てた『三美神』」を建立し、新生日本の平和と自由を「広告宣伝とタイアップの彫刻」により広く演出したのだ。著者はそこに連合国軍総司令部(GHQ)が関与した可能性についても触れている。
 街中に氾濫(はんらん)する女性の裸体像は、この平和の宣伝戦略(プロパガンダ)が行き届いた結果だった。だが、そのことで起源は忘れられる。「彼女」たちは「無言」で「立つなら幾千年でも黙って立ってろ」(高村光太郎)と命じられるしかなかった。しかし忘れてはならない。先の騎馬像の作者は現在、長崎の「平和公園」にそびえる「平和祈念像」と同じ彫刻家、北村西望で、筋骨隆々な裸体の巨人像は力の顕現そのものに見える。先に新生日本と書いたが「ここに『新しさ』はない。むしろ、分かつことのできない戦時との連続性がある」――そう著者は書き「戦後日本の彫刻を考えるうえで、長崎は最も重要な場所」と断言する。
 戦後、日本に「自由と平和」をもたらしたのは、歴史的に言えば「敗戦と占領」にほかならない。ゆえに著者はこの国に氾濫する女性裸体像を「戦後民主主義のレーニン像」と名付ける。そしていつか、それらが引き倒される時が来るかもしれないことに思いを馳(は)せ、長崎に、広島に、水俣にあるモニュメントに「無言」ではなく「応答」しようとし、あえてこれらの「彫刻を見よ」と呼びかけるのだ。
評・椹木野衣 美術評論家・多摩美術大学教授

近年、公共の場に設置された彫刻作品についての論考等がちょっとした流行りになっていますが、平瀬礼太氏などともに、小田原氏もその急先鋒のお一人ですね。

彫刻の場合、同じく昔からある美術作品でも、絵画との大きな相違点の一つがこの辺りにあるような気がしています。絵画でも戦時中の藤田嗣治らの戦争画、戦後も各地に設置された巨大壁画的なもの、或いは大きくないものでもバンクシーの作品群など、プロパガンダ性、メッセージ性を色濃く持つものも存在しますが、3Dの表現である彫刻の方がそうした性格を色濃く持たざるを得ないと感じています。「屋外」ということも大きいと思われます。肖像画が屋外に出ることはめったにありませんが、肖像彫刻は銅像として乱立していますし。

とにもかくにも、ご興味おありの方、お買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

右掌の切開手術をうけに花巻病院長邸に起居。六月末やうやく全治、十日程前に帰つて来ました。右手で文字が書けるやうになつたのも昨今です。畑が遅れ、今大多忙です。


昭和21年(1946)7月7日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村で、生まれて初めての本格的な農作業を始めたところ、掌にできたマメが潰れて化膿し、手術まで受ける羽目になりましたが、ようやく完治。

しかしそのため5月16日から7月16日まで、まるまる2ヶ月、日記は書きませんでした。この間(またはやはり日記が欠けている9月21日~10月9日)に昨年国の重要文化財に指定された花巻市御田屋町にある「旧菊池家住宅西洋館」を訪れたのではないかと推定されます。

今年2月、平凡社さん刊行、和田博文氏著の『日本人美術家のパリ 1878-1942』に関し、6月17日(土)、『東京新聞』さんから。

<土曜訪問>時代の風景 読み解く 1次資料駆使し日本モダニズム探る 和田博文さん(東京女子大特任教授)

000 近代日本の美術家は“芸術の都”パリにどう迎えられ、何を学んだのか。東京女子大特任教授の和田博文さん(69)の『日本人美術家のパリ1878−1942』(平凡社)は、明治から昭和戦前期の美術家たちのパリ体験に焦点を絞った最新の単著だ。高村光太郎、佐伯祐三、藤田嗣治らが、言葉や習慣の違いに戸惑いながらも新しい表現を求めて苦闘する日々を、彼らの手記や当時の紙誌の記事の資料をもとに丹念に跡付けた。
 「私は美術の専門家ではないですが」と前置きして「戦前の美術雑誌に載っているパリ関係の資料を、一度全部洗ってみようと。これはたいへんな作業で、誰もやったことがないんです」と大部の自著に達成感をにじませた。
 文化史、比較文化が専門で、とくに「モダニズム」研究の分野のトップランナーだ。モダニズムは、十九世紀末から二十世紀初めに世界で起きた文芸変革の潮流であり、和田さんはその時代のさまざまな資料の収集と調査、復刻を通じて、日本でのモダニズムの実相を明らかにしてきた。
 作家の宇野千代が一九三〇年代に創刊した雑誌『スタイル』は、女性の映画俳優を採用して洋装和装を問わず最先端の流行を発信。ファッション以外の趣味の文化を取り込む中で、食器の専門家として登場させたのが、シュールレアリスム詩誌『リアン』を創刊、マルクス主義にも傾倒した竹中久七だったことを突き止めた。
 また、そのころ文学雑誌に文学者の顔写真が掲載されるようになり、それが文学の読まれ方にどう影響したのかを考察した。「中原中也の瞳のぱっちり開いた、いかにも無垢(むく)な印象の写真が、彼の詩の読まれ方と連動した」。「モダンガール」の実像に迫るため、写真雑誌『アサヒカメラ』を端から端まで読んだ。
 和田さんは「モダニズムとは、最も新しいものに価値を見いだすという意味」と定義する。モダニズム期の一次資料(本、雑誌、詩集、写真、ポスターなど)からは、西洋のハイカラな文化や技術が、時間をかけて日本化されていく過程を読み取ることができる。「一次資料と向き合っていると、つくられた時代の風景がよみがえってくる」
 詩を研究していた三十代前半のころに転機があった。学生時代の友人が開いた古書店、石神井書林(東京都練馬区)との出会いだ。短詩系文学の専門で、有数の目録を誇っていた。「店主が古書つまり一次資料の話をしても、私は何も分からなかった」。全集と、誰かが書いた評論を机に置いて論文を書いても、それらを通り道に同じような論を再生産していくしかない。一次資料を徹底的に集めて論文を書くという研究スタイルに方針を転換した。
 ただ、戦前の古書は高額で一冊数万円はざらだ。当時勤めていた大学とは別に非常勤で勤めたりもして、一次資料の購入を続けた。その額は計約四千万円にも。この膨大な蓄積が、全百巻のシリーズ「コレクション・モダン都市文化」(ゆまに書房)の監修などに実を結んだ。
 「一次資料はジャンルに関係なく、どんどん広がっていき、ジャンルの違う資料が結び付いた時に、新しい知的なテーマが生まれる。だから私は、特定の専門の研究者ではなく、ジャンルをクロスする研究者になった」
 肩書は「人文学科日本文学専攻特任教授」だが、作家個人の名前を冠して書いた本は、宮沢賢治についての一冊だけという。
 六〇年代に日本近代文学館ができて資料を集め、出版社と大学の研究者と協力して個人全集を刊行する「作家主義」が隆盛したが、それも八〇年代終わりに終了したとみる。岩波書店も筑摩書房も今は個人全集をほとんど出していない。「全集を通して見えてくる風景が目新しくなくなった」
 かといって、近代文学が全く読まれないかというとそうではない。二〇一七年に編んだ二巻の『猫の文学館』(ちくま文庫)は多くの読者を獲得した。寺田寅彦、太宰治、佐藤春夫らの作品から、猫が生き生きと描かれる短編やエッセーを集めた。猫がいかに豊かなインスピレーションを作家に授けたかを知る、ユニークなアンソロジー。「作家主義は終わったが、文学はまだ面白い可能性を秘めていることを、いろいろな切り口で伝えたい」
003
『日本人美術家のパリ 1878-1942』。好著だな、と感じつつ拝読したのですが、その舞台裏というか、制作秘話というか、なるほど、こういうことだったか、と思いました。

和田氏の強調されている「一次資料」の大切さ。まさにその通りですね。「一次資料はジャンルに関係なく、どんどん広がっていき、ジャンルの違う資料が結び付いた時に、新しい知的なテーマが生まれる」というくだりなど、まさに光太郎の実像を追究しようとする当方にとっては、我が意を得たり、です。

また、「戦前の古書は高額で一冊数万円はざらだ」も。そこで、国会図書館さんなどのデジタルアーカイブの普及が非常に有り難いのですが、結局、光太郎について多くのページを割いている書物はプリントアウトするより買ってしまった方がよく、しかしおいそれと手が出せなかったりもしています。

それにしても「岩波書店も筑摩書房も今は個人全集をほとんど出していない」はショックでした。云われてみればそんな感じはしていたのですが。ただ、逆に中小の出版社さんがいい個人全集に取り組んでいる例も見られ、頑張って欲しいなと思っています。

光太郎全集は増補改訂版が平成10年(1998)に完結。しかし、その後も故・北川太一先生や当方の渉猟で、未収録作品等の発見が大げさに云えば日々続いています。先述の国会図書館さんのデジタルデータリニューアルに伴い、見つかりすぎるほど見つかって、現在、探索は少し休止中です。ちょうど10年後には、光太郎生誕150周年。そのあたりでもう一度光太郎全集の改訂を行いたいものですが……。

ところで上記記事の最後にある『猫の文学館』(ちくま文庫)についてはこちら。『日本人美術家のパリ 1878-1942』同様、光太郎にも言及されています。併せてお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

此間片山さんがロマン ロランのてがみを持つて、高田君尾崎君と三人で来てくれました。 初めてあつて愉快でした。ロランのてがみは私を強く動かしました。

大正14年(1925)5月11日 田内静三宛書簡より 光太郎43歳

「片山さん」は片山敏彦。ロマン ロランと文通をしていました。「高田君」が高田博厚、「尾崎君」で尾崎喜八です。翌年には彼等と「ロマン ロラン友の会」を結成する光太郎、明治末のパリ留学中にはロマン ロランの家のすぐ近くに住んでいたのですが、その際にはそれを知りませんでした。

新刊、400ページ超の労作です。

日本人美術家のパリ 1878-1942

2023年2月8日 和田博文著 平凡社 定価5,000円+税

19世紀後半から20世紀前半にかけ、黒田清輝や藤田嗣治など多くの日本人美術家がパリを訪れた。彼らの活動の記録から、当時の美術界の動向や異国の地での葛藤を明らかにする。

001
目次

プロローグ 「芸術の都」パリへ
Ⅰ 世紀末のパリ、東京美術学校西洋画科、パリ万国博覧会
 1 洋画の曙――黒田清輝と久米桂一郎
 2 ラファエル・コラン――印象派の陰に隠れた外光派
 3 天真道場から東京美術学校西洋画科・白馬会へ
 4 日清戦争後の帝国意識と、美術に要請された競争力
 5 一九〇〇年パリ万国博覧会が開幕する
 6 鏡としてのナショナル・ギャラリー――和田英作の「素人」意識
 7 高村光太郎「根付の国」と、欧米の日本美術
 8 オテル・スフローのパンテオン会、グレの巴会
 9 カンパーニュ・プルミエール街、マダム・ルロワの下宿
 10 模写で行う名画展覧会、裏返される裸体画
 11 ルノワールと山下新太郎、ロダンと荻原守衛
 12 イタリアの教会芸術、イギリスの水彩画
Ⅱ ポスト・インプレッショニスムと第一次世界大戦
 1 パリの白樺派と、幻に終わったロダン展覧会
 2 ルノワールとポスト・インプレッショニスム
 3 マティス、セザンヌ、ゴッホ、モネと、アヴァンギャルドの擡頭
 4 アカデミーからアトリエへ――満谷国四郎と安井曾太郎
 5 クローズリー・デ・リラ、シテ・ファルギエール、テアトル街
 6 ルーヴル美術館の採光、カモンド・コレクションの開場式
 7 ブルターニュで追体験するゴーギャン、ヴェトイユで想起するモネ
 8 ヨーロッパの美術館――イタリア、イギリス、スペイン
 9 東京の美術館建設問題と裸体画問題
 10 第一次世界大戦勃発とパリからの避難者
 11 戦時ヨーロッパからの通信――黒田重太郎・長谷川昇・寺崎武男
 12 リヨンで模写した青山熊治、赤十字に志願した川島理一郎
Ⅲ 「黄金の二〇年代」と日本人のコレクション
 1 第一次世界大戦後のパリと、日本人美術家数の増加
 2 公文書が語る美術家数の変化、クラマールの中山巍と小島善太郎
 3 サロン・ドートンヌで日本部が開設される
 4 カモンド・コレクションの印象派、ペルラン・コレクションのセザンヌ
 5 模写で探る画家の秘密、模写が可能にした展覧会
 6 オテル・ドルーオの競売、松方幸次郎のコレクション
 7 児島虎次郎が蒐集した大原美術館の収蔵品
 8 遠ざかる印象派と、晩年のモネを訪ねた正宗得三郎・黒田清
 9 フォービズムの波と、マティスの深い色彩
 10 佐伯祐三、愛娘と共にフランスに死す
 11 石黒敬七が日本語新聞を創刊する――『巴里週報』『巴里新報』Ⅰ
Ⅳ エコール・ド・パリ、モンパルナスの狂騒、日本人社会
 1 エコール・ド・パリと、その周縁の美術家たち
 2 モンマルトルからモンパルナスへ――「芸術の都」の中心地
 3 単独者への道――パリの美術家・美術学生七万人の中で
 4 ルーヴル美術館が藤田嗣治の作品を所蔵する
 5 日本人美術家数の増加と、日本人同士の交流
 6 在巴日本美術家展覧会――『巴里週報』『巴里週報』Ⅱ
 7 ツーリズムの季節と、日本イメージ――『巴里週報』『巴里新報』Ⅲ
 8 福島コレクションのピカソ、ドラン、マティス
 9 内紛と分裂――巴里日本美術協会(福島派)と仏蘭西日本美術家協会(薩摩派)
 10 ブルターニュの長谷川路可、プロヴァンスの林倭衛
 11 ヴェネツィアとフィレンツェ――中世のルネサンス美術
Ⅴ 世界恐慌から一九三〇年代へ
 1 恐慌前夜――好景気と   絵画価格の高騰
 2 ロマン・ロランの胸像を制作した高田博厚、ドランと画架を並べた佐分真
 3 システィーナ礼拝堂で大の字になった佐伯祐三、列車に乗り遅れた岡田三郎助
 4 モンパルナスから日本人美術家の姿が消えた
 5 異郷の日本人の光と闇――貧困と客死
 6 ローマとベルリンの日本美術展覧会――横山大観・速水御舟・平福百穂
 7 パリの日本現代版画展――ジャポニスム脱却の試み
 8 ルオーがパリの福島繁太郎宅で、自作に筆を入れる
 9 フランスの個人コレクション、日本の個人コレクション
 10 美術館問題、西洋近代絵画展覧会、模写の活用
 11 日本の美術界の衝撃――エポック・メーキングな福島コレクション展
 12 シュールレアリスム、巴里・東京新興美術同盟、巴里新興美術展覧会
Ⅵ 戦争の跫音とパリ脱出
 1 スペイン内戦、ドイツ軍の無差別爆撃、ピカソの「ゲルニカ」
 2 武者小路実篤の絵行脚、伊原宇三郎のゴッホ所縁のイーゼル
 3 欧州旅行の発着点ナポリ、有島生馬が見た日伊文化交流
 4 一九三〇年代末の巴里日本美術家展覧会と長期滞在者
 5 ヒトラーのドイツ、ムッソリーニのイタリア
 6 第二次世界大戦勃発と、ルーヴル美術館の美術品避難
 7 パリ陥落と日本人の脱出、パリに留まった日本人
エピローグ 二〇一二年のパリから
パリ在留日本人数と日本人美術家等数(1907~1940年)
関連年表
主要参考文献
人名索引

Ⅰ 世紀末のパリ、東京美術学校西洋画科、パリ万国博覧会」中に「7 高村光太郎「根付の国」と、欧米の日本美術」という項がある他、随所で光太郎に言及されています。

また、光太郎と同時期に留学していた面々や、日本で光太郎と交流の深かった美術家たちにも触れられています。

パリというトポスにおける編年体的な俯瞰の方法で、流れがつかめますし、流れの中での光太郎の位置づけという意味では、眼からウロコの部分もありました。一人の作家を「点」で捉えるのではなく、その作家を含む「線」を意識することの重要さを改めて感じています。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

さて僕がLondonからParisに来て既に半年はたつた。仏蘭西といふ国の真価が外見よりも遙かに大なのににも驚いたし、一般の国民が他国に比して確かに一歩進んだ地盤に立つて居るのにも感心した。仏蘭西に斯かる文芸の出来るのも不思議は更に無い。よく人が仏蘭西の美術も漸く衰へて、此から遠からず世界の美術の中心が亜米利加の方へ移るだらうなどゝいふが、其の言の誤つて居るのは来てみると直ぐに解る。仏蘭西の美術は漸く衰へる所では無い。此れから益々発展しやうとして居るのだ。


明治42年(1909)1月(推定) 水野葉舟書簡より 光太郎27歳

光太郎のフランス、パリへの認識がよく表されています。

信州安曇野の碌山美術館さん。光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛の個人美術館ですが、光太郎、柳敬助ら、守衛の周辺にいた作家の作品も収蔵、展示なさっています。

現在、コレクション展的な「中村屋サロンの芸術家たち」が開催されていて、光太郎の「裸婦坐像」(大正5年=1916頃)、「十和田湖裸婦像のための小型試作」(昭和27年=1952)も展示されています。
009
010
出品目録的には以下の通りです。

彫刻11点
 戸張孤雁 《をなご》1910年  《足芸》1914年
 中原悌二郎 《老人》1910年 《若きカフカス人》1919年 《憩える女》1919年
 高村光太郎 《裸婦坐像》1916年頃  《十和田湖裸婦像のための小型試作》1952年
 保田龍門 《臥女》1924年 《裸婦立像》1927年
 堀進二 《中原悌二郎像》1916年 《中村彝氏頭像》1969年
平面(デッサン、油彩等)(12点)
 荻原守衛 《こたつ十題其一》1910年頃 《こたつ十題其二(複製)》1910年頃
  ※会期中入れ替えます
 戸張孤雁 《荒川堤》1910年《橋を渡る農婦》制作年不詳
 柳敬助 《荻原守衛肖像》1910年頃 《千香》1910年頃 《婦人》1910年
 齋藤与里 《花あそび》1950年 《山峡秋色》1957年
 鶴田吾郎 《窓辺》制作年不詳 《ネパール国境のヒマラヤ》制作年不詳
      《リガ》制作年不詳

そちらの関連行事として、市民講座が開かれます。

美術講座「中村屋サロン展の作家たち」

期 日 : 2022年9月10日(土)
会 場 : 碌山美術館 杜江館2階 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 18:30~20:00
料 金 : 無料
講 師 : 武井敏氏(碌山美術館学芸員)


ご興味のある方、コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひどうぞ。

ところで碌山美術館さんというと、本館に当たる碌山館修繕のためのクラウドファンディングが、明日まで実施されています。

当初目標額は700万円でしたが、あっという間にそれを達成、その後も寄附の勢いとどまらず、「セカンドゴール」に設定されていた1,000万円、「サードゴール」の1,800万円もクリア。今朝の段階で2,100万円を突破しています。

世の中、まだまだ捨てたものではないなと実感させられました。繰り返しますが、明日までの実施です。さらなる支援をよろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

小屋の中ゐろりでいろいろ撮影、井戸水くみ、大根きざみ、スルガさん宅でそば食を皆でやる。

昭和28年(1953)11月27日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに帰った花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)。

前日に続き、この日もブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」の撮影が行われました。
003
光太郎帰村についての報道については、こちら

岩手県盛岡市からイベント情報です。

館長講座2022 作り手の視点 第2回「岩手の美術教育」

期 日 : 2022年8月27日(土)
会 場 : 岩手県立美術館 岩手県盛岡市本宮字松幅12-3
時 間 : 14:00-15:30(開場13:30)
料 金 : 無料

当館の藁谷収館長が専門の彫刻を中心に「作り手の視点」で語る美術講座。彫刻作品の制作の裏側や美術教育などをテーマとして、全4回シリーズでお話しします。当日、直接ホールにお越しください。参加無料、申込不要です。

第2回 「岩手の美術教育」
 疎開した彫刻家高村光太郎と美術評論家森口多里の交流が始まり、岩手美術研究所、岩手県立美術工藝学校、盛岡短期大学美術工藝科、岩手大学特設美術科へと発展的に継承された岩手の美術教育は、多くの美術に関わる人材を輩出してきました。これまでの検証と、今後の展望を紐解きます。

講 師 : 藁谷収(わらがいおさむ) [当館館長]
001

000
藁谷館長、平成31年(2019)の同講座「岩手の近代彫刻Ⅱ」、同30年(2018)の「岩手大学教育学部出前講座「彫刻ってこう観るの!? 光太郎の作品から入る近代芸術の世界」」でも、光太郎と岩手について語って下さいました。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

運送屋七尺石膏像を持ちくる、十和田関係の費用旅費日当等全部払(42,000)


昭和28年(1953)11月4日の日記より 光太郎71歳

七尺石膏像」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏原型。鋳造を担当した伊藤忠雄の工房から帰ってきた、というわけですね。現在は光太郎の母校・東京藝術大学さんに収められています。七尺像ということでなかなか大変なのですが、ぜひ展示する機会を設けてほしいものです。

費用旅費日当等」は運送屋さん関係と思われます。

8月10日(水)、茨城県北茨城市レポートの2回目です。

野口雨情記念館さん等を後に、『高村光太郎全集』等未収録の光太郎書簡を閲覧するため、市内北部の天心記念五浦美術館さん方面へ。まだ時間がありましたので、近くの六角堂に立ち寄りました。
001
002
光太郎の父・光雲を東京美術学校に招聘し、光太郎入学時に同校校長だった天心岡倉覚三が、明治39年(1906)、日本美術院を移した地です。当方、30年近く前、学生時代の友人の結婚披露宴がすぐ近くのホテルで行われ、その際に訪ねて以来でした。

その時には気づかずスルーしていましたが、六角堂入り口前に天心の墓がありました。天心は光雲、光太郎等と同じ都立染井霊園に墓所がありますが、こちらは分骨だそうで。光雲、光太郎の代参のつもりで香を手向けて参りました(こういう機会が多いので、愛車には線香を常備しています)。
KIMG6539 KIMG6537
光太郎同様、天心の薫陶を受けた平櫛田中お手植えの椿がかたわらに。天心の墓は円墳のようでした。
KIMG6536
裏手には天心の娘のそれも。
KIMG6572
KIMG6538
さて、六角堂。正式には周辺の建物等を併せて「天心遺跡」と称しています。敷地内には天心邸や小規模な天心記念館などがあり、また、茨城大学さんの五浦美術文化研究所も併設。
KIMG6540
KIMG6541 KIMG6550
自生していたヤマユリが見事でした。

天心記念館内。特に撮影禁止という表示が見あたらなかったので……。
KIMG6543 KIMG6542
KIMG6544
天心像や「活人箭」などの田中作品。
KIMG6545 KIMG6546
天心と共にこの地にやってきた横山大観による表札(左)と、六角堂の棟札(右)。
KIMG6547
この地で釣りに興じていた天心の舟。

天心の教え子の一人で、アメリカの美術史家、ラングドン・ウォーナーの像。こちらも田中作です。ウォーナーは太平洋戦争中、日本の文化財を空襲しないよう提言した人物の一人という説があります。
海が見えてきました。
KIMG6552
KIMG6551
そして、六角堂。
KIMG6554
KIMG6553
KIMG6555
KIMG6556
KIMG6560 KIMG6558
東日本大震災による津波でさらわれてしまったのですが、復元されました。
KIMG6569
KIMG6570
前日に行くはずだった宮城県女川町でも、行くたびに感じますが、あの日、この海が牙を剥いたのかと思うと、粛然とさせられます。
KIMG6561
天心邸。
KIMG6562
KIMG6565
KIMG6566
KIMG6567
KIMG6568
かたわらの「亜細亜ハ一なり」碑。
KIMG6571 KIMG6564
天心のグローバル思想すら、「八紘一宇」の亜流に韜晦されてしまっていたのですね。そういえば、揮毫した横山大観は戦時中、日本美術報国会の会長でした。ちなみに実務に当たっていた事務局長は、光太郎の実弟にして鋳金家の豊周でした。

さて、満を持して天心記念五浦美術館さんへ。以下、明日レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

四時図書館行、ここに一同集まる、知事等の案内で夜文芸講演会、


昭和28年(1953)10月23日の日記より 光太郎71歳

会場が明記されていませんが、青森市の野脇中学校でした。光太郎以外に、草野心平、菊池一雄、谷口吉郎、佐藤春夫が登壇し、講演を行いました。
004
十和田湖畔の観光交流センター「ぷらっと」に展示されている光太郎胸像「冷暖自知」の作者、田村進氏はこの講演をお聴きになったそうです。

本日も新刊紹介です。

近代を彫刻/超克する

2021年10月27日 小田原のどか著 講談社 定価1,300円+税

〈思想的課題〉としての彫刻を語りたい。 

街角の彫像から見えてくる、もう一つの日本近現代史、ジェンダーの問題、公共というもの……。
都市に建立され続け、時に破壊され引き倒される中で、彫刻は何を映すのか。
注目の彫刻家・批評家が放つ画期的な論考。
001
目次
 1章 空の台座
  1 彫刻という困難  2 彫刻が可視化するもの  3 記念碑としての彫像
  4 彫刻のはじまり  5 空の台座と女性像
 2章 拒絶される彫刻
  1 破壊される彫像  2 光太郎とロダン  3 《風雪の群像》
  4 《サン・チャイルド》  5 長崎の《母子像》
 3章 彫刻を語る
  1 「彫刻」となったレーニン  2 《わだつみの声》
  3 「もう一つの東京裁判」  4 彫刻の立つ地点
 あとがき
 註  


彫刻の実作のかたわら、一貫して銅像などの公共空間に置かれた「公共彫刻」について考察を発表されている、小田原のどか氏の近著です。元は雑誌『群像』さんの今年1月号、4月号、6月号に載ったものを加筆修正、だそうです。実は6月号の時点で気づいたのですが、いずれ単行本化されるだろうと予測していまして、その通りでした。

また、「1章 空の台座」(「空」は「そら」ではなく「から」です。)は、平成30年(2018)に刊行された、小田原氏を含む10数名の皆さんによる、『彫刻 SCULPTURE 1 ――空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』(トポフィル)中の「空の台座――公共空間の女性裸体像をめぐって」を大幅に改稿したもの、とのこと。

光太郎について、「2章 拒絶される彫刻」中に「2 光太郎とロダン」という項が設けられています。また、他にアメリカの彫刻家・ボーグラムや本郷新との関わりや、大熊氏広の「大村益次郎像」、三条京阪駅前の「高山彦九郎皇居望拝之像」(作者:戦前、渡辺長男・戦後、伊藤五百亀)などを紹介する中でも、光太郎に触れられています。

ただ残念なのは、「2 光太郎とロダン」中、事実と反する記述があること。「光太郎が屋外に残した彫刻は、東京藝術大学内の《高村光雲像》と、遺作である十和田湖の《乙女の像》のみである。」という部分です。他に3点、光太郎が屋外設置の公共彫刻を手掛けたことが確認できています。

まず、光太郎クレジットのものとしては、千葉県立松戸高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部)に据えられた「赤星朝暉胸像」(昭和10年=1935)。それから「監督・高村光雲 原型・高村光太郎」という扱いで宮城県志田郡荒雄村(現・大崎市)に建てられた「青沼彦治像」(大正14年=1925)。そして完全に光雲の代作のようですが、岐阜県恵那郡岩村町の「浅見与一右衛門像」(大正7年=1918)。下の画像、左から順に、赤星、青沼、浅見です。
002
ただ、残念ながら、3点とも戦時の金属供出にあい、現存しません。赤星像と浅見像は、それぞれ武石弘三郎と永井浩によるいわば「後釜」が戦後に設置され直し、青沼像は残された台座に作者不明のレリーフが嵌め込まれた形で残っています。
003
上の画像、左が青沼像、右は浅沼像の台座です。浅沼像のほうは、少し離れた場所に新たな像が設置され、元の台座は台座のまま残っています。もっとも、これらの写真を撮りに行ったのも十数年前なので、現在どうなっているか不明なのですが……。

こういった、金属供出などによって、台座のみが残された件についての考察が、『近代を彫刻/超克する』中の「1章 空の台座」です。

小田原氏、来月末から青森市の国際芸術センター青森さんを会場に、個展を行うそうです。「いよいよ、高村光太郎の彫刻と自作が並びます。」とのことです。コロナ禍のため動きが取れず、昨年、藝大さんで開催された「PUBLIC DEVICE -彫刻の象徴性と恒久性-」も観に行けず、青森空港の巨大ステンドグラス「青の森へ」や、「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe 2021-2022」もまだ拝見していませんので、この機会に、と思っております。

さて、『近代を彫刻/超克する』、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

松下英麿氏に起こされる。特級白鶴二本かついでくる、よみうり賞の祝の由、ビール四本のみて夕方まで選集、てんらん会の打合。五時辞去。


昭和26年(1951)5月22日の日記より 光太郎69歳

0c2e0e33松下英麿氏」は、中央公論社の編集者。光太郎とは戦前からの付き合いで、貴重な光太郎回想も複数残しています。「よみうり賞」は、詩集『典型』による第二回読売文学賞の受賞、「選集」はこの年10月に同社から刊行が始まった『高村光太郎選集』(草野心平編)、「てんらん会」は、翌月、銀座の資生堂画廊で開催された「智恵子紙絵展覧会」です。ちなみにこの時から光太郎の考えで「紙絵」の語が使われるようになりました。主催が同社と創元社でした。

例によって、日本酒をもらうとその銘柄を記録しています。この日は「白鶴」。いわゆる灘の銘酒で、現在も販売されていますね。

001古いというほど古い訳ではありませんが、こんな書籍を入手しました。

昭和62年(1987)刊行の『岩手の美術と共に歩んで』。著者は岩手大学名誉教授であらせられた画家の故・佐々木一郎氏(大正3年=1914~平成21年=2009)。版元の記載がなく、おそらく自費出版と思われます。

先頃、花巻駅前の「やすらぎの像」について書きました時に、作者の故・池田次男氏が岩手県立美術工芸学校に学ばれたことを知り、同校について調査中、この書籍の存在を知りました。

佐々木氏は同校の活動を通じて光太郎とも親しく、『高村光太郎全集』にその名が頻出します。さらにこの書籍に光太郎に関する回想等が載っているということですので、購入しました。

手元に届き、開いてみてまず驚いたのは、巻頭のグラビアページ。昭和23年(1948)、美術工芸学校開校の際に光太郎が寄せた、原稿用紙4枚にわたる祝辞がそのままの形で掲載されていました。
002
祝辞自体は『高村光太郎全集』第11巻に収録されており、初めて読んだわけではありませんが、光太郎の文字で読むと、また違った印象でした。

そして、光太郎の写真。
003
キャプションがなく、正確な日付が不明ですが、右に写っている式次第が「校舎落成式次第」となっており、おそらく開校の翌年・昭和24年(1949)の11月17日です。光太郎は前年の開校式には欠席しましたが、校舎落成式には出席したというのが初めて確認できました。というのは、この年の光太郎日記が失われており、11月に盛岡に行っていたことは分かっていたものの、詳細な行動が今一つ不明であるためです。

また、別の日の写真。
005
こちらのキャプションは「高村光太郎先生の講演」とのみ書かれており、年月日は不明です。光太郎が同校で講演(講話)をしたのは、確認できている限り、上記の昭和24年(1949)の11月以外に、昭和25年(1950)の1月と5月、昭和27年(1952)の7月です。手前に写っている生徒たちの服装、夏服と冬服が混在していることから、昭和25年(1950)5月がもっともあり得るかな、という感じですね。

こんな写真も。
004
「校舎落成作品展での高村先生」だそうで。すると、最初の写真と同じ昭和24年(1949)ですね。この写真は花巻高村光太郎記念館さんの説明パネルにも使われていた記憶があります。

グラビアページ以外の本文でも、光太郎に関して随所に触れられています。上記の光太郎が寄せた開校式祝辞、同じく光太郎による「第一回卒業式によせて」(昭和26年=1951)は全文が収録されていますし、「高村先生との出会い」「美校と高村先生」という項があります。

こんな一節が。光太郎が暮らしていた花巻郊外旧太田村の山小屋を訪問した際の記述です。

 或日、先生をたずねた時、先生はまだやすんでおられた。掛布団の上に軍隊用の毛布をかけられ、その上を茣蓙で覆うておられたが、すき間からの雪が、休んでおられる先生の体のとおりうっすらと白く積っていて、何とごあいさつしたらよいものか、言葉も出なかった。

寝ている布団にもうっすらと雪が積もることがあった、というエピソードの具体的な証言です。

それから、喀血した血の溜まった洗面器を見せられたことも紹介されています。いつも接していた村人や花巻町の人々などには、結核の件は秘匿していた光太郎も、時折訪ねてくるだけの佐々木氏には隠さなかったのですね。

その他、美術工芸学校に関わったりした、様々な岩手の美術家たちのエピソード等が語られています。深沢省三・紅子夫妻、舟越保武、森口多里、堀江赳、萬鉄五郎などなど。さらに当方も何度か足を運んだ盛岡市の岩手県立美術館が開館に至るまでの経緯なども。

岩手は美の世界でも日本のホープだと思っている」という光太郎の言葉が引かれています。たしかに、ある意味そういう部分があるのだな、と納得させられる書籍でした。

古書市場等にて入手可能です。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

尚二十日清潔法検査日につき十九日に掃除しておくやうにとの事。

昭和21年(1946)9月17日の日記より 光太郎64歳

山小屋を訪れた村人からの伝言です。「清潔法検査」は、伝染病予防などのため、地域の自治会や市町村の担当者が各戸を廻って衛生状態等を点検したことだそうです。

新刊です。

書の風流 近代藝術家の美学

2021年1月31日 根本知著 春陽堂書店 定価2,200円+税

様々なジャンルの芸術家の代表的な書をビジュアルに見せながら、彼らの美学を論じる!

本書に登場する藝術家は、自身の専門分野以外に、「書」にも勤しんだ。それは、展覧会で審査されるものではないから、 まさに「風流」だった。さらには自身の藝術から抽出された美学をもって筆をとったため、どの人物の書も実に個性的だった。 よって本書では、その美学を一つずつ浮き彫りにすることを目標にした(「はじめに」より)

著者紹介
根本 知(ネモトサトシ)(著/文)
書家。平成25年、大東文化大学大学院博士課程修了。博士号(書道学)取得。 現在、大東文化大学文学部書道学科、放送大学教養学部人間と文化コース、大東文化大学第一高等学校、 日本橋三越カルチャーサロンなどで教鞭を執る。 テレビ・雑誌でも活躍中。
004
目次
 はじめに
 松田正平 書と原点
   松田正平の評価 犬馬難鬼魅易 書について
 「書く」と「掻く」
 熊谷守一 書と心象
  身の丈に合うことば 守一の生活 小さなもの音
  守一の絵とフォーヴ へたも書のうち
 柳宗悦 書と用
  民藝について 独走と作為 「こと」と「もの」
  他力道 用の美について 書の模様化
  柳宗悦の書の原点
 白井晟一 書と常
  簡素な美 特異な工夫 戦争と原爆の図
  原爆堂計画 縄文的なるもの
  ヤスパースと原爆堂
 内側に満ちる光
 中川一政 書と遅筆
  一政の絵について 一政の読みやすい書
  一政の書に対する姿勢 一政と金冬心 自分のための技術 ムーヴマン 一政の眼
 高村光太郎   書と造型
  光雲と智恵子 姿勢は河の如く、動勢は水の流の如く 造型美論 書について
 武者小路実篤 書とことば
  「新しき村の精神」 「天に星 地に花 人に愛」 「自然は不思議」
  「君は君 我は我なり されど仲よき」
「龍となれ 雲自づと来たる」 戦後の書壇について
 おわりに

基本、書道論です。しかし、取り上げられている人々は、光太郎を含め、いわゆる「書家」ではありません。武者小路を除いて(武者も文人画的なものをよく描いていましたが)、全員が美術家です。そして程度の差こそあれ、それぞれに優れた書も残したことで有名。そこで、彼等の美術造型意識が、ある種の「余技」的な書作品にどう反映されているか、といった論考です。したがって、彼等の書そのものより、その背景がどうであったのかといった点に主眼が置かれ、いっぷう変わった書論集となっています。

おどろいたのは、光太郎ともども熊谷守一と中川一政が取り上げられていること。この三人、昨年開催予定だったもののコロナ禍で中止となった、富山県水墨美術館さんでの「「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」ともろにかぶります。やはり美術界から書をよくした人物というと、この3人は外せないのかな、という感じですね。

ちなみに富山の展覧会、来年度以降に開催の方向、と、公式HPに出ました。まだ確定ではないようですが、当方としましても、諸方への作品の借り受けや図録の編集など、数年越しに関わっていた展覧会ですし、何より、ぜひ皆さんに光太郎書の優品の数々(本邦初公開のものも多数展示予定でした)をご覧頂きたいので、立ち消えにならないようにと願うばかりです。
004
2021/3/26追記 「「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」展は2021年10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。

閑話休題。本書で取り上げられている人物は、熊谷、中川以外にも、光太郎と浅からぬ縁。柳宗悦と武者は光太郎の朋友でしたし、建築家の白井晟一は高村光太郎賞造型部門の受賞者です。

そういった意味でも興味深い一書でした。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

学校のうしろに一軒、家を建てかけてゐる。村人多数にて萱ぶき屋根の萱をふいてゐる。棟の方に萱の束を並べてゐるのが見える。春昼の普請風景のどかに見える。

昭和21年(1946)5月5日の日記より 光太郎64歳

萱(茅)葺き屋根、いいですねぇ。……と、光太郎も思ったことでしょう(笑)。

明治美術学会さん発行の雑誌『近代画説』。雑誌といってもハードカバーに近い上製で、パラフィン紙がかけられた立派なものです。先月発行された第29号、執筆者のお一人である小杉放菴記念日光美術館学芸員の迫内祐司氏からいただきました。多謝。

氏の玉稿は「今戸精司――趣味人としての彫刻家」。光太郎と東京美術学校彫刻科で同級生だった今戸精司(明治14年=1881~大正8年=1919)に関する労作です。明治期の光太郎の日記にはその名が頻出します。また、武者小路実篤や志賀直哉ら白樺派の作家と親しく、光太郎と武者を引き合わせた人物でもあるそうです。
9784908287336 000
近代日本美術史は、作品の現存しない作家をいかに扱うことができるか?」という特集の中の一篇で、題名の通り、今戸の彫刻は現存が確認できていないそうです。年譜を読むと、確かに数え39歳の短い生涯でしたが、各種展覧会に出品したり、作品の頒布会が行われたりもしていましたし、文芸誌『明星』や『スバル』に作品の写真が載ったり、短歌を寄稿したりもしています。それでも作品の現存が確認出来ていないのは、主に関西を拠点に活動していたことが大きいのでしょう。やはり昔からこうした部分でも東京偏重の風潮がありました。

加えて、今戸が目指した方向性が「生活空間にあった小品」とでもいうような彫刻で(そのため氏の玉稿、副題に「趣味人としての彫刻家」とあるわけです)、その流行が長く続かなかったこと、弟子という弟子が居なかったことなどで、その存在が忘れられていったということのようです。

決して技倆が劣っていたわけではないことは、残された作品の写真からもわかります。
003 004
左は明治34年(1901)、美校在学中の作で「世捨人」。光太郎も出品した第2回彫塑会展出品作です。右は晩年の「貧婦」(大正7年=1918)、再興第5回院展に出品されたものです。

これほどの腕を持った彫刻家の作品の現存が確認できていないというのは、実に惜しいところです。ただ、迫内氏も指摘していますが、一般の収集家の元などにあることも考えられますし、情報をお持ちの方はご一報いただければ幸いです。ちなみに今戸は「蝸牛」と号していたこともあり、その名での作品もあったでしょう。

昭和12年(1937)、大阪で今戸の遺作展が開催され、光太郎はそれを観ることは叶いませんでしたが、今戸を偲ぶ短歌三首を送っています。いずれも『高村光太郎全集』に漏れていたものでした。

わが友の今戸精司はしらぶれぬ物の一義をたゞ追ひしため
わが友の今戸精司は捨石となるをよろこび世を果てしかな
わが友の今戸精司は色しろくまなこつぶらに骨太かりき

しらぶれぬ」は古語で「調子に乗らない」といった意味です。

昨年亡くなられた、当会顧問であらせられた北川太一先生、今戸の追悼文集『追遠』(これも稀覯書です)を元に、「今戸精司略伝」を書かれ、『光太郎資料』第4号(昭和36年=1961)に発表されました(迫内氏、これをだいぶ参照されたそうです)。しかし、北川先生、『追遠』刊行後に寄せられた上記短歌三首はご存じなかったようです。

ちなみに北川先生一周忌となりましたが、この一年間に、こうした『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎作品等が、大量に見つかりました。それらを先生にお見せしたかった、という思いと、泉下の先生のお導きでそれらを見つけることが出来たのではないかという思いと、相半ばです。

さて、『近代画説』第29号、目次は以下の通り。迫内氏玉稿以外にも、忘れられかけた作家が多数取り上げられ、こうした作家の業績なりを伝えてゆくことの重要性、そして同時に謎の作家に光を当てることがいかに困難であるかも感じられ、頭の下がる思いでした。

[巻頭論攷]
・山本鼎の生いたち 付論 国柱会との関わり(金子一夫)
[特集 近代日本美術史は、作品の現存しない作家をいかに扱うことができるか?]
・特集解題 近代日本美術史は、作品の現存しない作家を
いかに扱うことができるか?(大谷省吾)
・国安稲香─京都の近代「彫塑」を育てた彫刻家(田中修二)
・今戸精司─趣味人としての彫刻家(迫内祐司)
・自己に忠実に生きようとした画家─船越三枝子(コウオジェイ マグダレナ)
・「近代日本美術史」は「女性人形作家」を扱うことができるのか?
─上村露子を例に(吉良智子)
[公募論文]
・公募論文の査読結果について(塩谷純)
・大阪博物場と同美術館─書を起点として─(前川知里)
・「民衆藝術家」矢崎千代二のパステル表現─「色の速写」と作品の値段─(横田香世)
・荒城季夫の昭和期美術批評─忘れられた〈良心〉(渡邊実希)
[研究発表〈要約〉]
・戦時下の東京美術学校─工芸技術講習所の活動と意義─(浅井ふたば)
・太田喜二郎研究─京都帝国大学関係者との交流を中心に─(植田彩芳子)
・矢崎千代二とパステル画会─「洋画の民衆化」を目指して─(横田香世)
・萬鐵五郎の雲と自画像─禅を視点とする解釈(澤田佳三)
・文展における美人画の隆盛と女性画家について─松園を中心に─(児島薫)
・山本鼎の生いたち─新資料による解明、そして国柱会のこと─(金子一夫)
・戦時下の書と空海(志邨匠子)
・前衛書家上田桑鳩に見る書のモダニズム
─「日本近代美術」を周縁から問い直す(向井晃子)
・太平洋画会日誌にみる研究所争議と太平洋美術学校の開校
─洪原会、NOVA美術協会の活動にもふれて(江川佳秀)
編集後記(児島薫)
明治美術学会 会員業績録(2019年4月1日~2020年3月31日)

各種オンライン書店等で購入可(定価3,000円+税)です。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

午后、木の枝の写生ペン画。「北方風物」へやるもの。葉書よりやや小にかく。

昭和21年(1946)3月2日の日記より 光太郎64歳

光太郎、7年間の山小屋暮らしの中で、折に触れ身の回りの自然や道具類などをスケッチし続けました。「北方風物」は、詩人の更科源蔵が北海道で刊行していた雑誌です。

前月に鉛筆で描いたものをペンで清書。そこで日付は2月15日となっています。

005

今日は新聞のみですが……。

まず『日本経済新聞』さん、10日夕刊の掲載です。

読書日記 ナレーター 近藤サト(2) 「緑色の太陽」 芸術の核心を見る手助け

美術史や美術論が好きだ。といっても評論家や研究者による論考はいまいち肌に合わず、実作者の言葉にひかれる。一方でやはりアーティストは文章より作品のほうがすばらしいのが悩ましい。

そんな中で彫刻家であり詩人の高村光太郎による芸術論『緑色の太陽』(岩波文庫)は異彩を放つ。初めて手にしたのは90年代後半だったか。一読して私が覚えたのは、憤りだった。なぜこれを、小中学校で教えてくれなかったのかと。
表題作「緑色の太陽」に光太郎は記す。「僕が青いと思ってるものを人が赤だと見れば、その人が赤だと思うことを基本として、その人がそれを赤として如何(いか)に取扱っているかをSCHAETZEN(評価)したいのである」「人が『緑色の太陽』を画いても僕はこれを非なりとは言わないつもりである。僕にもそう見える事があるかも知れないからである」
太陽を緑色で描いていい。光太郎がこれを記したのは明治43年(1910年)。私の祖父母の時代に存在した論考だ。それなのに、私が幼いとき誰もそんなことは言わず、太陽は赤と刷り込まれ、芸術の核心から遠ざけられた。大人になり自分で探さなければ「緑色の太陽」にたどり着けないなんてあんまりだ。
光太郎の芸術論は、わかっているけれど言語化できないことを鮮やかに文章にする。結論を押しつけるのではなく、違う視点を差し出して、ものを見る手助けをしてくれる。もしかしたら光太郎は自信のない、私たちによく似た人物だったのではないか。居丈高な評論とは対照的な筆致から、そんなことも感じる。

001
岩波文庫の『緑色の太陽』。当会顧問の北川太一先生による編集・解説で、昭和57年(1982)に刊行されました。光太郎生前に『緑色の太陽』という書籍があったわけではなく、光太郎の評論・エッセイから30篇ほどをセレクトして一冊にまとめたものです。標題は明治43年(1910)の雑誌『スバル』に発表された同名の評論から。「日本初の印象派宣言」と評されたり、光太郎と出会う前の智恵子がこれを読んで感激したりといったものです。001

近藤さん、テレビ東京系の美術番組「美の巨人たち」でナビゲーターを務められるなど、美術にも造詣が深く、光太郎の言わんとする点をよく押さえて下さっています。

一読して私が覚えたのは、憤りだった」。えっ、何でだよ! それがすぐ「なぜこれを、小中学校で教えてくれなかったのかと」。巧い構成です。

さて、岩波文庫『緑色の太陽』。岩波さんのサイトで調べてみましたところ、「在庫なし」扱いでした。古書市場では普通に入手できますが、これを機に重版を希望します。

文庫の重版といえば、新潮文庫版の『智恵子抄』、過日、都内の新刊書店で令和になってからの重版を見かけました。百二十何版だったかでした。ありがたい。

もう1件。過日の岩手花巻「高村光太郎記念館講座 詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」の件を、地元紙『岩手日日』さんが報じて下さっています。 

詩人、彫刻家遺徳しのぶ 光太郎記念館講座 受講者が詩碑巡り

【花巻】高村光太郎記念館講座「詩と林檎(りんご)のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」は7日、花巻、北上両市内で開かれた。高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会の小山弘明代表=千葉県香取市=を講師に、受講者が両市に建つ詩碑を見学。本県に大きな足跡を残した詩人、彫刻家の遺徳をしのんだ。
 光太郎作品に親しむ男女27人が受講。花巻市花城町のまなび学園を発着点に、光太郎の文字を拡大して刻まれた「開拓に寄す」太田開拓三十周年記念碑=同市太田=や「ブランデンブルグ」詩碑=北上市二子町=などを現地確認した。
 名称や所在地、建立年などが示された資料が配付されたほか、小山代表が各地で詳細に説明。花巻市双葉町内に建つ「松庵寺」詩碑の説明では「(光太郎は)戦争中は(妻の)智恵子に関する詩を書かなかったが、戦後になって初めて書いたのがこの『松庵寺』。石碑もいつかは朽ち果ててしまう物であり、次世代に語り継がなければならない。ゆかりの地である岩手の皆さん、よろしくお願いします。」と呼び掛けていた。
 専門家の解説付きで詩碑を見回る貴重な機会だけに、どの受講者も満足そうな表情。
 同市豊沢町の照井富士子さん(67)は、「きのう詩集を一冊読み終えたばかりで、改めて感動した。ホテルでの昼食もおいしかったし、とても楽しかった。来年もぜひ参加したい」と顔をほころばせていた。

007 (2)

「来年」があるかどうか分からないのですが(笑)。

書かれたのは顔見知りの記者さん。さも同行したかの如き書きぶりですが、最終見学地の松庵寺さんで待ちかまえていてそこだけでの取材でした(笑)。まぁ、受講者27名プラス市役所の方々、高村光太郎記念館のスタッフの皆さんも数名ずつ同行し、バスは満席、バスの後ろから乗用車一台での移動でしたし、時間も長かったのでそんなもんでしょう。

それにしても台風19号。1週間ずれていたら、と、ぞっとしました。前日のレモン忌にしてもこの碑巡りにしても、やはり雨男・光太郎のせいで(笑)、途中、パラパラと雨に見舞われましたが、パラパラ程度で助かりました。


【折々のことば・光太郎】

からだの中で養つたもの、うまく言ひ現はせないが、何といふか、全身を搏つやうなもの、さうだ、全身から湧きあがり燃えあがるものでなければだめだ。

談話筆記「芸術する心」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

談話筆記だけに光太郎の生の声がよく表されていますね。

今月15日の『毎日新聞』さん夕刊に、以下の記事が載りました。同紙特別編集委員・梅津時比古氏の、音楽に関する連載エッセイです。

音のかなたへ 自筆原稿からの音

 久しぶりに会った彼は、少し日に焼けたせいか、引き締まってたくましく見えた。
 ぼろぼろに古びて茶色になった箱入りの本をこちらへ差し出した。『ベートーヴェン研究 小原國芳編』(東京イデア書院)。
 「開けてください」と短く言った。
 箱から出してまず奥付を見ると、昭和二年十月二十日の発行である。
 何かが挟まれていてすぐにあいてしまった頁(ページ)には、「二つに裂かれたベエトオフエン(幻想スケッチ)」と題された高村光太郎の詩が載っていた。
 <(略)春がヴィインの空へやつて来て、/さつき窓から彼をのぞき込んだ。(略)>
 彫刻家、詩人の高村の作品の中でもよく知られた詩である。最後を結ぶのは<彼は二つに引き裂かれて存在を失ひ、/今こそあの超自然な静けさが忍んで来た。/オオケストラをぱたりと沈黙させる神の智慧が、/またあの窓から来たのである。>。ここに主眼があるのだろう。高村は、二つに引き裂くものを、人から裏切られる絶望と、 一人立つ歓喜として、その上で、自然を神の書物とするヨーロッパ根源の思想をベートーベンに見ている。
 頁に挟まっているのは何か。茶色に変色した松屋製の400字詰め原稿用紙2枚が紙のこよりでとじてあった。青いインクで「二つに裂かれたベエトオフエン(幻想スケッチ)」が書いてある。本では「ぢつとして」とあるのが原稿には「じつとして」となっているなど違いがある。
  彼の話では東京・神田の古本屋で本を買った後、その場で頁をめくっていると原稿が出てきたとのこと。店主が慌ててすぐ鑑定士を呼んで見せると、高村の自筆原稿に間違いないとの結果が出た。買い戻したいと言う店主を、支払いは済んだ、と振り切ってきたという。
 自筆と思われる字は、若々しい高ぶりが匂い立つ。高村のベートーベンに対する真摯( しんし)な思いが震えている。丁寧だが勢いのある青い字体のひとつひとつが、罫線(けいせん)からあふれ出ている。原稿用紙に音がはねる。こよりは最愛の智恵子がよったのでは、と想像も湧く。
 彼はそれを私にくれると言う。そんな貴重なものを、と固辞したが、譲らない。
 かつてレコード会社に勤めていた彼は、その後、仕事の変遷を経て、今は学生のときにアルバイトをしていた仕事に何十年ぶりかに復帰した。都内の公園にある池のボート番である。「ボートを洗うときの寒さが応えるが、毎日、沈んでゆく夕日を見ているのは至福」と言う。 自然はすなわち哲学なのだろう。高村の詩に書かれている、野にいるベートーベン像が重なった。 何かに打たれ、原稿付きの本を受け取った。

イメージ 1


光太郎の自筆詩稿がはさまった書籍を譲られた、というのです。

譲ってくれたという友人は、それを古書店で購入、古書店主はそれが挟まっていたことに気づいていなかったそうで、すると、たいした値をつけていなかったのでしょう。

鑑定士を呼んで見てもらったら、確かに光太郎の自筆原稿だったそうで(この場合の「鑑定士」というのがどういう人なのか興味深いところですが)、確かに画像で見ても光太郎の筆跡です。使われている原稿用紙もよく光太郎が使っていたもの。

イメージ 2

詩は、「二つに裂かれたベエトオフエン」。梅津氏曰くの「高村の作品の中でもよく知られた詩である」というのには疑問符が付きますが、昭和2年(1927)4月9日(火)の執筆で、初出は雑誌『全人』第10号(ベートーヴェン百年祭記念号)。『全人』は、玉川大学さんの広報誌として、現在も月刊で刊行が続いています。梅津氏が譲られたという『ベートーヴェン研究』は、同じ昭和2年の10月に出た、玉川大学さんの創立者・小原國芳の編刊です。おそらく光太郎の許諾を得て、『全人』から『ベートーヴェン研究』へ転載されたのでしょう。挟まっていたという詩稿は、その転載の際に改めて書き送ったか、『全人』掲載時に送られたか、いずれにしても玉川さんの関係者の旧蔵だったという可能性が高いと思われます。

全く別の可能性として、「二つに裂かれたベエトオフエン」は、昭和4年(1929)に新潮社さんから刊行された『現代詩人全集第9巻』にも転載されており、同書は光太郎自身が掲載詩を選択していますので、そちらからの流出ということも考えられなくはありません。ただし、『現代詩人全集第9巻』掲載時には、サブタイトル的な「(幻想スケツチ)」の語が除かれているので、やはりこの詩稿は昭和2年(1927)のものである可能性が高いと考えられます。

こういうこともあるのですね。


ちなみに、「二つに裂かれたベエトオフエン」、全文は以下の通りです。


      二つに裂かれたベエトオフエン
005
 「病める小鳥」のやうにふくらがつて
 まろくじつとしてゐた彼は急に立つた。
 甥に苦しめられる憂鬱から、
 一週間も森へゆかなかつたのに驚いた。
 春がもうヴイインの空へやつて来て、
 さつき窓から彼をのぞき込んだ。
 水のせせらぎが何を彼に話しかけ、
 草の新芽がどんな新曲を持つて来たか、
 もう約束が分つたやうでもあり、
 また思ひも寄らないやうでもあり、
 いきなり家を飛び出さうとした彼は、
 ドアを明けると立ち止つた。
 今日はお祭、
 着かざつた町の人達でそこらが一ぱい。
 ベエトオフエンは靴をみた。
 靴の割れ目を見た。

 一時間も部屋を歩いたが怒は止まない。
 怒の当体の無い怒、
 仕方が無いので昔は人と喧嘩した。
 「私は世界に唯一人だ」と006
 いつかも手帳に書いてみた。
 彼は憤然として紙をとる。
 怒の底から出て来たのは、
 震へる手で書いてゐるのは、
 おゝ、何のテエマ。
 怒れる彼に落ちて来たのは、
 歓喜のテエマ。
 彼は二つに引き裂かれて存在を失ひ、
 今こそあの超自然な静けさが忍んで来た。
 オオケストラをぱたりと沈黙させる神の智慧が、
 またあの窓から来たのである。


別件ですが、光太郎自筆原稿というと、先月、こういうこともありました。

ネットオークションで光太郎の自筆原稿一枚が売りに出たのです。こちらは詩稿ではなく評論で、題は「神護寺金堂の薬師如来」。驚愕しました。それがいわば「ミッシングリンク」だったためです。

これは、昭和17年(1942)の7月から12月にかけ、雑誌『婦人公論』に連載された「日本美の源泉」の第4回の冒頭に当たります。連載終了後、同誌の編集者だった栗本和夫が、光太郎から送られてきた原稿34枚を和綴じに仕立て、保存していました。昭和47年(1972)には、中央公論美術出版さんが、それをそのまま復刻し、限定300部・定価15,000円で刊行しました。

イメージ 3  イメージ 4

当会顧問・北川太一先生による同書の別冊解説から。

 結局三月(注・昭和19年=1944)から『婦人公論』は休刊、七月には「営業方針において戦時下国民の思想善導上許しがたい事実がある」として、中央公論社は改造社とともに情報局から自発的廃業を申し渡される。
 残務整理を担当するために残った栗本の仕事の一つに原稿処分のことがあった。永年の雑誌原稿は1ヶ月ごとに袋に収めて丁寧に保存されていたが、ひろげるとうず高く、八畳間いっぱいをこえる夥しい量であったという。原稿の散佚することをふせぐために、しかも、旧稿が目に触れてすら、危機が著者にも編集者にも及びかねないそんな情況の中で、栗本は朝から夕まで一週間にわたってそれらを破棄し続けた。
 しかし、どうしても破り捨てることの出来ない幾つかの草稿が栗本にはあった。その一つが光太郎の「日本美の源泉」である。くり返し探したけれど、どこで失われたのか、第四回の最初の一枚だけは、見つけることができなかった。

そこで、同書ではその1枚文だけ、掲載誌から起こした活字で埋めています。

その「ミッシングリンク」的な1枚が出て来たので、驚愕したのです。この1枚があれば、まさにコンプリートなわけで。旧蔵者は同じ中央公論社の湯川龍造という編集者だったそうで、他にも湯川旧蔵だった文豪の草稿類がごっそり売りに出され、その点でも驚愕しました。

こういうこともあるのですね。

それにしても、戦時中、中央公論社でこのような事態だったというのは、意外と言えば意外でした。もうすぐ平成も終わり、令和となりますが、こうした昭和の暗黒時代に戻るようなことがあってはいけないとつくづく思いました。しかし、「昭和」、「令和」の「和」つながりには、昭和の暗黒時代をこそ範としようとする現政権のどす黒い野望の如きものがほの見えるようで、素直に改元を喜べません。考えすぎでしょうか。


【折々のことば・光太郎】

もうネコヤナギの花が出るだらう。林の中のあの立派なコブシにも白い花が一めんにさくだらう。今、山の中の早春は清冽なにほひに満ちてゐる。

散文「早春の山の花」より 昭和23年(1948) 光太郎66歳

書かれた日付は3月25日。岩手の山間部では、3月末で早春という感覚なのですね。

サンタさんはやっぱりいるのですね。昨年の000クリスマスイヴの日のこのブログで、国書刊行会さん刊行の『中村傳三郎美術評論集成』をご紹介しました。定価27,000円+税の大著ですのでなかなか手が出ないもので、「サンタさんが置いていってくれていないものか」と書いたところ、本当に届きました。

著者の故・中村傳三郎氏のご子息であらせられる中村徹氏がこのブログをご覧下さいまして、それなら、と贈って下さった次第です。深く感謝いたしております。

重さ1.65キログラム、1,000ページ余、刊行までに3年余りかかったというのもうなずけます。目次だけでも10ページ、それも二段組みで(本文も二段組み)です。

編集は、小平市平櫛田中彫刻美術館学芸員の藤井明氏。氏からご労苦のさまを伺っておりましたが、実物を手にとって、改めてこれは大変だったろうな、と実感させられました。

「彫刻篇」「絵画篇」「工芸篇」に分かれ、国立博物館付属美術研究所(現・国立文化財機構東京文化財研究所)
に勤務されていた故・中村氏が、さまざまな新聞雑誌や展覧会図録などに発表された文章の集成です。ご専門が近代彫刻史だったため、「彫刻篇」の分量がもっとも多く、随所で光太郎や光雲に触れられています。その他、ロダンや荻原守衛、平櫛田中をはじめ、光太郎・光雲ゆかりの彫刻家が一堂に会している感があります。また、ともに光太郎と交流のあった鈴木政夫、土方久功など、一般にはほとんど知られていない彫刻家もしっかり紹介されているのには舌を巻きました。これを読まずして近代日本彫刻史を語るなかれ、という感がしました(当方もまだ読了していませんが(笑))。

なかなか個人では入手しにくいとは存じますが、およそ彫刻に関係する大学さんや美術館さん、それから公共図書館さんなどでは必ず置いてほしいものです。よろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

私は美術家としての生活を聊か変へた。もつと変へるであらう。従来の美術家の生き方がだんだん堪へられなくなつて来た。もう自分にはロダン流の、(又従つて日本の九分通りの、或は全部の美術家の、)生活態度が内心の苦悶無しには続けてゆけない。

散文「近状」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

元々展覧会への出品をほとんどしなかった光太郎ですが、さらに、注文を受けて作品を作る、という行為にも疑義を感じ、このような発言をしています。それではいったいどうやって生活して行くんだ、ということになります。結局は、「内心の苦悶」を抱えながら、注文仕事やら光雲の代作や下職(肖像彫刻をやや苦手としていた光雲のための原型制作など)やらを続けて行かざるを得ませんでした。

重厚で良質な学術書を多数手がけられている国書刊行会さんの新刊です。

中村傳三郎美術評論集成

2018年11月2日  中村傳三郎著  藤井明編
書刊行会  定価27,000円+税

001
目次
 彫刻篇
  第三科(彫塑)
  藤川勇造
  “鏡獅子”と首相 ほか
 絵画篇
  光風会展覚書
  自由美術
  下村観山、土田麦僊、富田渓仙(作品図版解説)ほか
 工芸篇
  推薦文(戸島甲喜)
  集団・版第一〇回展によせる
  現代工芸展をみて ほか
 解説 藤井明
 中村傳三郎著作リスト
 年譜

昭和5年に設立され、戦後、近代日本美術の研究を大きく発展させた東京文化財研究所。同研究所の彫刻部門を担い、日本におけるロダン評価を広めるなど今日の近代日本彫刻史研究の基礎を築いた中村傳三郎の美術論を集大成する。

イメージ 2


中村傳三郎は大正5年(1916)、兵庫出身の美術評論家。光太郎とも交流がありました。亡くなる3年前の平成3年(1991)、文彩社さんから 『明治の彫塑 「像ヲ作ル術」以後』という好著が出版されましたが、それ以外に研究紀要や美術雑誌などに発表したものの集成です。おそらく光太郎や、その父・光雲に触れられていると思われます。

「思われます」というのは、未入手なもので……。定価27,000円+税というところで二の足を踏んでいます。

編集に当たられたのは、このブログにたびたびご登場いただいている、小平市平櫛田中彫刻美術館学芸員の藤井明氏。ことによると「献呈」の紙片が挟まって送られてくるかな、と不埒なことを考えていたのですが、あまちゃんだったようです(笑)。


いったいに、国書刊行会さんの刊行物はそうでして、今年2月には田中修二氏編『近代日本彫刻史』という、これまた重厚な書籍が出ています。

近代日本彫刻史

2018年2月21日 田中修二著 国書刊行会 定価14,000円+税

彫刻という領域を工芸的な造形なども含めて広く考察し、江戸時代から明治期、および昭和戦前・戦中期から戦後期という大きな時代の変化を連続的にとらえる視点を踏襲しつつ、個々の作家や作品についての記述を充実。近代日本彫刻史の通史として先例のない、包括的かつ学術的な書籍。今後の近代日本彫刻史研究における基本文献になるとともに、より広く、日本美術史や西洋の彫刻史を研究するうえでの必須参考文献。

目次
第一章 江戸から明治へ
 日本彫刻史のつながり 彫刻の境界 江戸時代の彫刻とは 江戸時代の仏像
 名工、名匠たち
 西洋彫刻との出会い 西洋人にとっての日本と彫刻 
 コラム①『光雲懐古談』に見る江戸の彫刻 
第二章 彫刻のはじまり 
 破壊と形成 「像」から「彫刻」へ 職人から彫刻家へ 工部美術学校の開校
 工部美術学校の教育と最初の洋風彫刻家たち 「彫刻」の成立 表現技法の交流
 コラム②彫刻と解剖学
第三章 「彫塑」の時代 
 東京美術学校 明治二〇年代の展開 銅像の時代 銅像、仏像、置物、人形
 「彫刻」と「彫塑」
 転換期としての明治三〇年代 文展へ 
 コラム③アール・ヌーヴォーと日本彫刻 
第四章 文展とロダニズム 
 明治四〇年代におけるそれぞれの世代 試みの場としての文展 文展の「進歩」
 彫刻を見る速度と距離 
「ロダン彫刻入京記」の時間と時代
 ロダニズムと近代日本彫刻史観 再興日本美術院彫刻部の創設
 
 第一次世界大戦とロダンの死 コラム④彫刻を支える人たち 
第五章 大正期における展開 
 両大戦間期の西洋彫刻 帝展、院展、二科展の彫刻 
 発表の場の多様化―東台彫塑会と曠原社など
 彫刻を語る言葉
 「古寺巡礼」の時代 彫刻家の生活 彫刻の普及と「地方」 関東大震災以後の彫刻
 コラム⑤描く彫刻家 
第六章 華やかな活気と戦争への道程 
 昭和期のはじまりと構造社 彫刻と建築の新たな関係 昭和前期における工芸の展開
 プロレタリア彫刻の動向と帝展彫刻の位置 在野展の興隆
 近代・清楚・古代―二科会、国画会の彫刻など 近代日本彫刻の歴史化
 「地方」への拡がり
 コラム⑥画家と彫刻 
第七章 戦争から戦後へ 
 帝展改組と彫刻界 戦時下における彫刻の主題 
 遠く離れたものへ―古典主義、植民地、シュルレアリスム 抽象とモニュメント
 戦時下の彫刻の位置
 戦争と彫刻と敗戦 戦後彫刻の出発点 平和の象徴としての彫刻
 コラム⑦近代日本彫刻とアジア 
第八章 戦後彫刻の展開 
 セメントと空と花と 在野団体の隆盛と抽象彫刻 具象表現の追求とその思想
 欧米からの影響
 「近代日本彫刻史」の成立 マネキンと怪獣 「彫刻」の変貌
 コラム⑧木彫表現の拡がり 
第九章 現代の彫刻へ 
 ネオ・ダダと読売アンデパンダン展 グループ展と団体展 画廊の空間
 彫刻を展示する場所
 新たな素材、技法、表現への試み 彫刻教育の様相
 「彫刻」への問いかけ
 彫刻の「環境」―「もの派」の誕生 大阪万博とその前後
 コラム⑨彫刻の自由──結びにかえて
年表 文献一覧 掲載図版一覧 索引

イメージ 3 イメージ 4

さらに、やはり田中氏編で平成22年(2010)から同25年(2013)にかけて刊行された『近代日本彫刻集成』全三巻の重版も、今年出ました。 

近代日本彫刻集成

 幕末・明治編    2010/09/16 定価45,000円+税
 明治後期・大正編 2012/01/31 定価47,000円+税
 昭和前期編     2013/05/29 定価53,000円+税

カラー図版300点、モノクロ図版600点の圧倒的な作品写真、詳細な作品・作家解説、歴史的文献を再録し、近代日本彫刻が辿った歴史に沿って、内容をわかりやすく整理した初の本格的研究書。既存の近代日本彫刻史においては取り上げられることの少なかった作品や戦争で失われた銅像などの貴重な画像も多数掲載し、「近代日本彫刻」の全体像を提示する集成。
 
イメージ 5 イメージ 6

もうこうなると、個人が購入するものではないのかな、という気もしますが……。


今日はクリスマスイヴ。明日の朝、眼が醒めたらこれら5冊、サンタさんが置いていってくれていないものかと、またまた不埒なことを考えています(笑)。


【折々のことば・光太郎】

自分が草で言へば路傍の雑草、木で言へば薪になる雑木、水で言へば地中の泉である事は既に知つてゐます。しかし此の大きな自然の中では萬物が自己の生活を十全に開展せしめ進展せしめて、互に其の同胞と呼びかはす事を許されてゐます。

散文「「一隅の卓」より 二」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

既に東京都心で暮らしていた壮年期から、自己も自然の一部、と、思い定めていた光太郎。たびたび北海道や東北の太平洋岸、或いは山間の温泉地などへの移住を夢見ていましたが、あくまで夢。約20年後、実際に花巻郊外の山村に落ち着くことになるとは、思っていなかったでしょう。

『日本経済新聞』さんと『朝日新聞』さんに碧海(おうみ)寿広氏著『仏像と日本人』(中公新書)の書評が出ました(『読売新聞』さんにも出たようですが、ネット上で読めません)。

まず、『日経』さん。光太郎の名も出して下さっています。 

仏像と日本人 碧海寿広著 信仰か芸術か 葛藤の近現代  

 本来的には信仰の対象であった仏像を、私たちは明治以降、美術作品として「鑑賞」の対象にもしていった。そしていま、日本人は仏像をどのような眼差(まなざ)しで見ているのか、その過程を丹念に追ったのが本書だ。

明治元年(1868年)の神仏分離令を契機とした廃仏毀釈の嵐は、寺院や仏像に巨大なダメージを与えた。そこからの復興の道筋として、寺院の什宝(じゅうほう)を「文化財」と見なし、国が保護するという形ができる。やがてそれらの文化財は、新しい「美術史」という学問の枠組みの中に取り込まれ、美術館・博物館制度の整備と軌を一にして、保護、研究、そして鑑賞の対象となっていった。
 こうした仏像の「鑑賞」は、戦前まで『古寺巡礼』の和辻哲郎を代表とする、教養を持つ男性たちの、いわばエリート文化の側面が強かった。しかし戦後の映像メディアの発達、奈良・京都への修学旅行の普及、「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンなどを背景とした、古社寺や仏像が目的の「観光」は、性別・年齢・社会階層を問わない大衆文化へと変じていく。その間、和辻をはじめ、亀井勝一郎、高村光太郎、土門拳、入江泰吉、白洲正子ら「鑑賞」する者の中に常に生じていた、信仰か芸術かという葛藤への、それぞれの向き合い方への言及も非常に興味深い。
 そして現在、評者自身も文化財としての仏像の「鑑賞」を助け、促す、メディアでの活動を仕事としている。その立場から見たとき、学んだり考えたり、実際に仏像の前まで足を運んだりするステップを省き、直感的にその見方を示すことで、鑑賞の大衆化に貢献してきた、これまでの仏像写真のあり方が、変化していることを感じる。
 現在、所蔵先や画像権利者に対して支払う使用料が高額で、(紙媒体の制作経費が相対的に低下していることもあるが)メディア側が広報用に無料で提供される画像を頻繁に利用、切り口を特定の展覧会に依拠したものが目立つようになった。寺や美術館・博物館といった「場」から、展覧会という、結ばれてはほどかれる「こと」との関係性が強くなっていく結果、人々が仏像に向ける眼差しが今後どう変化する、あるいはしないのか、密(ひそ)かに注視している。

《評》美術ライター 橋本 麻里



続いて『朝日』さん。こちらは光太郎の名はありませんでしたが。 

(書評)『仏像と日本人』 碧海寿広〈著〉

 ■信仰の対象? 文化財とみる?
 このところ仏像ブームが000続いている。われわれは何を求めて仏像を見に行くのだろう。
 本書は、近現代において日本人が仏像とどのように向き合ってきたか、その変化を追う。面白いのは、見る側の視線が世情とともに揺れ動くことだ。
 明治のはじめ、仏像が大きな危機を迎えたのはよく知られている。仏教排斥運動によって、多くの寺や仏像が破壊されたのである。そのとき、それを救ったのが文化財という思想だった。万国博覧会への出展や、博物館での展示、さらには寺院自身が宝物館を建て、文化的価値の高いモノは国宝や文化財に指定されていった。つまり宗教性を薄めた結果、難を逃れることができたのである。有名なフェノロサと岡倉天心による法隆寺の秘仏開扉も、信仰を棚上げにしたからこそ可能になった出来事だった。
 その後、和辻哲郎の『古寺巡礼』が仏像鑑賞ブームを巻き起こしたが、戦争が始まると、人々はまた仏像に祈るようになる。
 信仰の対象とする立場と美術と見る立場の間で揺れ動いていくわけだが、それらは互いに対立するばかりではない。たとえ信仰心がなくとも、仏像を自分の足で訪ね歩くことによって受ける感動が、仏を感得する喜びとそんなに違うはずがない、と断じた白洲正子の慧眼(けいがん)には唸(うな)らされた。
 現在はどうだろう。サブカル視点で見ている人も少なくなさそうだが、各人が仏像を前に何らかの感情に包まれたなら、そこから個別の美や宗教の経験を創造できる、と本書はあらゆる態度を肯定して清々(すがすが)しい。
 実は私は、全国に散在する巨大仏(高さ何十メートルを超すような大仏)を訪ねて回ったことがある。そのときこれらの仏像をどういう態度で見ればいいかとまどった。美術として鑑賞するには大味だし、真剣に拝むには突飛(とっぴ)すぎた。仏像自体の枠組みさえも今後は変化していくのかもしれない。そんなことを思う。
 評・宮田珠己(エッセイスト)


なかなか注目を集めているようです。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

人間の代弁者といふ以上、詩人は或る訴へを持つ。人間の心霊に対する訴、人間の感情に対する訴、さうして自然に向つての訴。詩人があらゆる段階を踏んで進み得る究極が、自然との同化、自然への没入、彼我圓融の境であることをしばしば見る。

散文「ホヰツトマンの事」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

その好例として、光太郎はワーズワースや芭蕉を挙げています。しかし、アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマンは、その境地をも超えた存在として語られています。曰く「彼は訴へない。ただぶちまける。彼の言葉は雨のやうにただざんざんと降る。」

そこで当方が思い出すのは、当会の祖・草野心平です。来週、心平の企画展が、山梨県立文学館さんで開幕します。また稿を改めてご紹介します。

↑このページのトップヘ