広島市に本社を置く『中国新聞』さん。50周年を迎えたという文化面のコラム「緑地帯」で、過去に掲載されたもののアーカイブが掲載されているようです。3月には光太郎と交流のあった岡山県出身の詩人・永瀬清子のそれが載り、光太郎にも言及されていました。
先月末には、広島県出身の日本画家・奥田元宗で、「筆洗余滴」と題され、8回にわたって再掲されました。そのうち第6回で光太郎の書について触れられています。初出は昭和56年(1981)10月でした。
光太郎と、中国北宋時代の書家・黄庭堅(山谷)との関わりについて語られています。奥田が読んだという「光太郎の書論」は、おそらく「黄山谷について」(昭和30年=1955)。この年に出た平凡社版『書道全集』第7巻の月報が初出です。
この際ですので(どの際だ?(笑))全文を引用します。
かなり手放しの誉めようですね。しかしそれだけでなく、「まづいやうに見える。まづいかと思ふとまづいともいへない。しかし普通にいふ意味のうまさはまず無い」「内にこもつた中心からの気魄に満ちてゐて、しかもそれが変な見てくれになつてゐない。強引さがない」「強いけれども、あくどくない。ぼくとつだが品位は高い。思ふままだが乱暴ではない。うまさを通り越した境に突入」あたりには、彫刻にも通じる光太郎の芸術観――そのあるべき姿、理想――が表現されているように思われます。
黄山谷の書の複製をアトリエの壁に掛けてあったというのですが、亡くなった昭和31年(1956)の写真に写り込んでいました。左上の部分です。
その山谷の書に見守られるように、光太郎自身も筆を執って箱書きをしています。交流の深かった美術史家の奥平英雄に贈った画帖「有機無機帖」のそれでしょう。余談ですが、脚に掛けているのは大正末か昭和初め、智恵子にせがまれて買ったイギリスの染織工芸家、と思われます。
壁の複製は平凡社の『書道全集』刊行に際し作られたものの冒頭部分と考えられます。第7巻には「黄山谷について」が掲載された月報とともに、その全巻複製の広告も挟まっていました。
全長二丈三尺三寸五分(7メートル超)、当時の価格で6,500円ですので、かなり高価でした。
奥田元宋の日本画も、紅葉を題材とした作品が有名ですが、どちらかというと奇を衒わない王道の、それでいて十分に個性の発揮されたものと思います。
奥田にとどまらず、そういう作風をよしとするさまざまな作家たちに与えた光太郎の影響の大きさを、しみじみと感じさせられました。
全6巻で刊行された『高村光太郎選集』第1回配本です。奥付等に記載がありませんが、編集に当たったのは当会の祖・草野心平。掲載作品の採録には、戦前からの光太郎ファンだった故・田口弘氏が作成したスクラップブックも活用されました。
先月末には、広島県出身の日本画家・奥田元宗で、「筆洗余滴」と題され、8回にわたって再掲されました。そのうち第6回で光太郎の書について触れられています。初出は昭和56年(1981)10月でした。
私が一番啓示を受けたのは高村光太郎の書である。光太郎の書は非常に鍛え上げられたもので、謹厳な内にも柔かさが内抱されており、黄庭堅の書にちかい。光太郎は黄庭堅が相当好きだったらしく、晩年には自分の部屋に伏波神詞の拓本を貼(は)っていたという。そのくらい心酔していた。
それでいて書には光太郎自身が厳然と座しているのである。私は書には自信がない。若い時はずいぶん絵の箱書きで困った。落款(かん)は同じでいいが、箱書きの時は画題を書かなければならないわけだから簡単にいかない。
大観先生を初めとして先達たちの箱書きは実に堂々として自信に満ち、立派である。それにくらべて自分のような悪筆はいったいどうしたらいいものだろうと思い悩んだが、ある時、光太郎の書論を読んでいると、前記の黄庭堅の書が非常に好きで習っているとあった。さっそく黄庭堅の法帖を求めて見ると、これが私の気分にもぴったりと、くるものがあった。
それでへたな手習いを少しずつやってみたのである。そのせいか近来、年をとると書を書くことがそんなにつらくなくなって、むしろちょっとばかり楽しい面も出てきた。
つまり、うまく書こうと思わないで、ただ自分自身の宿命に徹することを考え、たとえ下手でも自分自身の性格にさからわないように心がける。リラックスして紙に向かうことが出来、自分に納得すればいいと思うようになった。
絵に没頭していると、ときどき絵そのものが見えなくなることがある。そんな時、私はいい書を見ることにしている。熱海美術館にある無準の「帰雲」という書が大好きだが、よい書を見ると自分の絵のうえの道もまたおのずと開けるような気がするのである。
また池大雅の書が好きだが、その書を見ていると、何か心のつながりが、画家として共通の言葉を見い出して元気が出るのである。一点の書が私を大変勇気づけてくれることもしばしばである。
書は一発勝負である。やり直しがきかない。書くらい直載(ちょくさい)に人間そのものが出てしまう芸術はない。その意味で書は非常にこわいものであると思う。やはり書は心の鏡なのだろうか。私は書は畢竟(ひっきょう)「道」だと思う。道はなまはんかの修業ではできるものではない。
(芸術院会員・日本画家)
光太郎と、中国北宋時代の書家・黄庭堅(山谷)との関わりについて語られています。奥田が読んだという「光太郎の書論」は、おそらく「黄山谷について」(昭和30年=1955)。この年に出た平凡社版『書道全集』第7巻の月報が初出です。

平凡社の今度の「書道全集」は製版がたいへんいいので見てゐてたのしい。それに中国のも日本のも典拠の正しい、すぐれた原本がうまく選ばれてゐるやうで、われわれ門外漢も安心して鑑賞できるのが何よりだ。
今、このアトリエの壁に黄山谷の「伏波神祠詩巻」の冒頭の三句だけの写真がかかげられてゐる。「蒙々篁竹下、有路上壺頭」に始まる個所だ。多分「書道全集」の図版の原型になつた写真の大きな複写と思へるが、人からもらつた時一見するなり心をうたれて、すぐ壁にかかげたのである。それ以後毎日見てゐる。黄山谷の書は前から好きであつたが、この晩年の書を見るに及んでますます好きになつてしまつた。
黄山谷の書ほど不思議な書は少い。大体からいつて彼の書はまづいやうに見える。まづいかと思ふとまづいともいへない。しかし普通にいふ意味のうまさはまず無い。彼は宋代に書家として蘇東坡、米元章と並んで三大家といはれてゐたが、他の二人とはまるでその性質がちがふ。東坡の書も米元章の書も実にうまい。まづいなどといふ分子はまるでない。どの一字をとつてみても巧妙である。そしてやはり唐代の余韻がある。新鮮ではあるが、唐代からの二王や顔真卿の縄張りをさう遠くは離れてゐない。どちらも妍媚だ。ところが黄山谷と来るとまるで飛び離れてゐる。黄山谷はむしろ稚拙野蛮だ。顔真卿の影響をうけてゐるといわれ、なるほどその趣もあるが、顔魯公よりも自由だ。勝手次第だ。一字ずつみると、その筆法は実に初心で、まるで習ひはじめの人のやうに筆をはねたりする。馬鹿にのんびりしてゐたり、又くしやくしやと書きつめる。線をたるんでゐるやうに書いたり、横に曲げたり、字のつづきも疎密にかまはない。行が片よつたり、字くばりがでこぼこだつたり、字の大小も方向も気にとめない。そして一々ぎゆつとおさへて書く。何しろひどく不器用に見える。
それでゐて黄山谷の書は大きい。実に大きな感じで、これに比べると蘇東坡も米元章もなんだかよそゆきじみて来る。何よりも黄山谷の書は内にこもつた中心からの気魄に満ちてゐて、しかもそれが変な見てくれになつてゐない。強引さがない。よく禅僧などの墨せきにいやな力みの出てゐるものがあるが、さういふ厭味がまるでない。強いけれども、あくどくない。ぼくとつだが品位は高い。思ふままだが乱暴ではない。うまさを通り越した境に突入した書で、実に立派だ。彼の元祐年代頃の書と思ひくらべると、この「詩巻」の意味がよくわかる。
朝、眼がさめると向ふの壁にかけてあるその写真の書が自然に見えるのだが、毎朝見るたびに、はつとするほどその書が新しい。書面全体からくる生きてるやうな精神の動きが私をうつ。この書が眼にはひると、たちまち頭がはつきりして、寝台からとび下りて、毎朝はじめて見るやうな思でその写真の前に立たずにゐられない。そして「蒙々篁竹下」とあらためてまた見る。吸ひよせられるやうな思で、「漢塁云々」まで来ると、もう顔を洗つたやうな気がする。まづいやうだなどといつては甚だ申しわけがない。それどころではないのである。尤もむかし王定国といふ人が彼の書を巧みでないといつたさうで、黄山谷自身も、この詩巻を書いた時は背中にできものができてゐて、手が思ふやうに動かないので字に成らなかつたといつたさうであるが、これはどうだか。手が動かうが動くまいが、こんな立派なものが書ければ申分ない。字に成らなかつたといはれるが、むしろその方がよかつたやうな気がする。殊にこの詩巻の自跋の数行はのびのびとしてゐて力強く、「水漲一丈、堤上泥深一尺」あたりの快さは無類である。随分癖のある書だが、それが少しもいやでなく、わざとらしくもない。そこがすばらしい。
かなり手放しの誉めようですね。しかしそれだけでなく、「まづいやうに見える。まづいかと思ふとまづいともいへない。しかし普通にいふ意味のうまさはまず無い」「内にこもつた中心からの気魄に満ちてゐて、しかもそれが変な見てくれになつてゐない。強引さがない」「強いけれども、あくどくない。ぼくとつだが品位は高い。思ふままだが乱暴ではない。うまさを通り越した境に突入」あたりには、彫刻にも通じる光太郎の芸術観――そのあるべき姿、理想――が表現されているように思われます。
黄山谷の書の複製をアトリエの壁に掛けてあったというのですが、亡くなった昭和31年(1956)の写真に写り込んでいました。左上の部分です。
その山谷の書に見守られるように、光太郎自身も筆を執って箱書きをしています。交流の深かった美術史家の奥平英雄に贈った画帖「有機無機帖」のそれでしょう。余談ですが、脚に掛けているのは大正末か昭和初め、智恵子にせがまれて買ったイギリスの染織工芸家、と思われます。
壁の複製は平凡社の『書道全集』刊行に際し作られたものの冒頭部分と考えられます。第7巻には「黄山谷について」が掲載された月報とともに、その全巻複製の広告も挟まっていました。
全長二丈三尺三寸五分(7メートル超)、当時の価格で6,500円ですので、かなり高価でした。
奥田元宋の日本画も、紅葉を題材とした作品が有名ですが、どちらかというと奇を衒わない王道の、それでいて十分に個性の発揮されたものと思います。
奥田にとどまらず、そういう作風をよしとするさまざまな作家たちに与えた光太郎の影響の大きさを、しみじみと感じさせられました。
【高村光太郎書誌】
選集等(単独) 3 『高村光太郎選集 Ⅲ 芸術論 上』
素材と造型
造型小論
彫刻十個條 彫刻鑑賞の第一歩 彫刻性について 自分と詩との関係
ミケランジエロの彫刻写真に題す 能の彫刻美 能面の彫刻美 九代目団十郎の首
戒壇院の増長天 唐招提寺木彫如来像 十大弟子 江戸の彫刻 木彫地紋の意義
彫刻の方向
造型小論
彫刻十個條 彫刻鑑賞の第一歩 彫刻性について 自分と詩との関係
ミケランジエロの彫刻写真に題す 能の彫刻美 能面の彫刻美 九代目団十郎の首
戒壇院の増長天 唐招提寺木彫如来像 十大弟子 江戸の彫刻 木彫地紋の意義
彫刻の方向
月報
兄のプロフイル 高村豊周 この源泉に汲まん 中村草田男 随所彫刻 菊池一雄全6巻で刊行された『高村光太郎選集』第1回配本です。奥付等に記載がありませんが、編集に当たったのは当会の祖・草野心平。掲載作品の採録には、戦前からの光太郎ファンだった故・田口弘氏が作成したスクラップブックも活用されました。



















































よく書いていました。また、
8/30、9/20 

















