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9月11日(水)、上野の東京藝術大学大学美術館さんで拝観した企画展「黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校」レポート2回目です。

まず前室に展示されていた光太郎や光太郎の父・光雲らの作を堪能した後、いよいよメインの台湾人彫刻家・黄土水の作品が並ぶ奥の展示室へ。

中央にドーンと目玉作「甘露水」。
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大理石の白い石肌が何とも云えず艶やかです。ロダンの「接吻」を想起しました。大正11年(1922)に発表された作とのことですが、明治31年(1898)に大理石像が発表された(ブロンズはもっと前)「接吻」について黄が情報を得ていたかどうか、何とも云えませんが。

ただ、大理石であっても荒々しさの残るロダンとは異なり、とにかく優美な作です。そういう意味ではロダン以前のアカデミックなベルニーニあたりの影響の方が強いのかな、という感じでした。

像の足もとに配された貝など、いかにもバロック的です。
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それにしても、大理石という素材の特性をうまく生かしていると思わせる作品でした。

この時代、既に他の日本人彫刻家も大理石像を手がけており、手元にある「聖徳太子奉讃展」(大正15年=1926)、「明治大正名作展」(昭和2年=1927)の図録などを見ると、複数の作家が大理石像を出品しています。しかし、あくまで写真を見てだけの感想ですが、「甘露水」には及ばないという感じです。中には「これを大理石で作る必要性があるの?」とか「明治の牙彫と変わらないじゃん」とかいう雰囲気のものも。作家名を挙げることは控えますが。ところでどちらにも黄の作品は出ていませんでした。

ちなみに光太郎も大正6年(1917)に大理石彫刻を手がけましたが、残念ながら作品の現存が確認できていません。

閑話休題、他の黄作品。
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ブロンズ系。つまり削って作るカービングではなく、粘土を積み重ねる塑像が原型でしょう。

ここから下は木彫です。
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カービングもモデリングも高いレベルで器用にこなしていたんだな、と思いました。それだけに「聖徳太子奉讃展」(大正15年=1926)、「明治大正名作展」(昭和2年=1927)などに出品していないのが不思議でした。帝展等には入選歴があるのですが。
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帰りがけ、受付で簡易図録(500円)をゲット。
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全24ページの薄いもので光太郎・光雲らの出展作は網羅されていませんが、メインの黄作品は全て掲載されています。

館を出ると、コロナ禍の頃は学外の人間は立ち入り禁止だったエリアにも入れるようになっているのに気づきました。となると、ご挨拶せねば。

光太郎作の「光雲一周忌記念胸像」。
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光太郎以外によるこの手の大学功労者の像が複数並んでいますが、これが出色の出来、と思うのは贔屓しすぎでしょうか(笑)。

さて、「黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校」展、10月20日(日)までの開催です。ぜひ足をお運びください。併せてすぐ近くの東京国立博物館さんの常設展「近代の美術」も。

【折々のことば・光太郎】

彫刻家聯盟の展覧会がありました由いい彫刻家がせめて四五人出てくれるやうにと祈つてゐます。貴下も御精励をねがひます。世界の彫刻を日本がひきうけねばなりません。

昭和24年(1949)6月17日 西出大三宛書簡より 光太郎67歳

戦争の傷跡からも立ち直りつつあり、光太郎の期待通りいい彫刻家が出て来ます。佐藤忠良、舟越保武、柳原義達、本郷新、木内克、菊池一雄などなど。ある意味、光太郎のDNAを継ぐ者たちです。

昭和5年(1930)に満35歳で亡くなった黄なども、戦後まで生きながらえていれば……と思われますが。

上野の東京藝術大学大学美術館さんで先週始まった企画展「黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校」。戦前の台湾から藝大さんの前身・東京美術学校に留学し、光太郎の父・光雲に師事した黄土水(こうどすい)の作品を中心とした展示です。台湾の国宝に指定された大理石の「甘露水」ほか黄作品10点と、師・光雲、そして同時代ということで光太郎らの作品も出ています。

展示開始前日の9月5日(木)、『毎日新聞』さん夕刊で、1面トップと社会面トップで長大な関連記事が出ました。あまりに長いので全文はご紹介しませんが、非常に読み応えのあるいい記事でした。それによると、今回の目玉でフライヤーにも使われている「甘露水」は、黄が昭和5年(1930)に歿したあと台湾に運ばれましたが、その存在が忘れられていき、昭和33年(1958)には元の保管場所から移される中で行方不明となっていたそうです。それが令和3年(2021)に現存が確認され、国宝指定されました。

背景には15年戦争による日台の複雑な関係が。中国本土でもそういうことがありましたが、戦後、日本がらみのものはことごとく排斥の対象となり、そのため「甘露水」も移送途中で放棄に近い状態となるなどぞんざいな扱いを受け、このままでは処分されてしまうと危惧した芸術に理解のあった医師が秘匿していたというのです。また、汚損を修復した日本人技師の苦労話なども紹介されていました。

8月30日(金)のやはり『毎日新聞』さんには、そのあたりの細かな点は出ませんでしたが、ダイジェストというか、9月5日(木)に出る記事の予告編のような記事が。そちらは短いので引用させていただきます。

所在不明60年後、台湾彫刻の幻の傑作「発見」 東京芸大で展示へ

020 大正時代に東京美術学校(現・東京芸術大)に入学し、高村光雲に師事しつつ、自ら西洋彫刻も学んだ台湾人の天才彫刻家、黄土水(こうどすい)(1895〜1930年)。その「幻の傑作」とされた彫像「甘露水」(1919年)が新型コロナウイルス禍の2021年5月、台湾中部のプラスチック工場に置かれた木箱の中から姿を現した。
 戦後に行方不明になってから、実に60年以上の歳月が流れていた。その「発見」は台湾の美術関係者に衝撃を与えた。
 甘露水は1921年に日本の帝展に入選した作品。大理石の彫像で、裸身の女性が大きな貝がらを背に立つ姿から、「台湾のビーナス」とも称される。ただ、西洋のビーナスの姿とは異なる。西洋の方は恥ずかしそうに身をよじっているのに対し、黄の女性像は顔を上げ、堂々とした姿だ。
 黄の死後、日本から台湾に運ばれた甘露水は、台北市の台湾教育会館(現・二二八国家記念館)が所蔵していたが、戦後、この建物は台湾省臨時省議会に替わった。議会は58年に台中への移転が決まり、4月に建物内の文物が台中に運ばれた。ところが、その引っ越しの過程で甘露水は一時、台中駅に放置され、その後こつぜんと姿を消した。
 台湾美術史に重要な位置を占める甘露水を多くの美術関係者が捜し求めた。「発見」に尽力した台北教育大北師美術館創設者で総合プロデューサーの林曼麗(りんまんれい)氏は、曲折を経た約60年の間、甘露水が無事だったことは奇跡に近いと考えている。
 なぜ木箱の中にあったのか。入選から100年という節目の年に姿を現したのは単なる偶然なのか。その驚きの秘話には、台湾の激動の歴史も大きく絡んでいた。
 彫像は黄の母校、東京芸術大の大学美術館で9月6日から展示される。
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当方、本日これから拝観に行って参ります。当初あげられていなかった「出品目録」が公式サイトにアップされまして、光太郎作品は予想通り木彫の「蓮根」(昭和5年=1930頃)とブロンズの「獅子吼」(明治35年=1902)ですが、光雲の木彫が6点も出ています。これは貴重な機会です。

皆様もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

例年の通りいろんなものを作つてゐますが夜の間に狐や兎が畑を掘り起こして肥料に入れたヌカや魚の骨などをたべてしまひ、苗を倒すので困つてゐます。

昭和29年(1954)6月10日 高村美津枝宛書簡より 光太郎67歳

令姪への微笑ましい書簡の中から。もっとも光太郎にとっては死活問題に近いのかも知れませんが(笑)。

東京藝術大学大学美術館での企画展です。

黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校

期 日 : 2024年9月6日(金)~10月20日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 東京都台東区上野公園12-8
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日(ただし9月16日(祝)、9月23日(振)、10月4日(振)は開館し翌日休館)
料 金 : 一般900円(800円)、高・大学生450円(350円)( )は前売り料金 

展覧会概要
 台湾出身者初の東京美術学校留学生として知られる彫刻家・黄土水(1895-1930)。東アジアの近代美術に独自の光彩を与える彫刻家として近年ますます評価を高めており、本国では2023年に代表作《甘露水》(1919)が国宝に指定されました。
 本展では、国立台湾美術館からこの《甘露水》を含む黄土水の作品10点(予定)と資料類を迎えて展示するとともに、藝大コレクションより彼が美校で学んでいた大正から昭和初期の時期を中心とした洋画や彫刻の作品48点(予定)をあわせて紹介します。
 日本の伝統的感性と近代美術との融合をめざした黄土水の師・高村光雲とその息子光太郎、《甘露水》にも通じる静かな情念をたたえた荻原守衛や北村西望の人物像、あるいは藤島武二、小絲源太郎らが手掛けた20世紀初頭の都市生活をモチーフとした絵画、台湾出身の東京美術学校卒業生の自画像作品など、バラエティに富んだ作品群を用意してお待ちしております。
 台湾随一の彫刻家・黄土水が母校に帰ってくる――その歴史的瞬間を自らの眼でお確かめください。

みどころ
1 台湾の国宝《甘露水》、日本初上陸!
 昨年国宝に指定されたばかりの黄土水の代表作《甘露水》。台湾本国では同年、国立台湾美術館にて本作を含む黄土水の大回顧展が開かれ大きな話題を集めました。早くも本年、彼の母校(東京美術学校)の後身である東京藝術大学に本作がお目見えします。彼の他の作品群とともに本作を観る絶好の機会となります。

2 黄土水の学んだ時代、日本の美術界は......?
 黄土水が東京美術学校に入学した1915年から東京で病にて夭折した1930年までの時代は日本の近代美術においても大きな激動期でした。本展ではこの時代に活躍した高村光雲、高村光太郎、平櫛田中、荻原守衛、朝倉文夫、建畠大夢といった彫刻家、あるいは藤島武二、和田英作、小絲源太郎、津田青楓、石井鶴三(彼は彫刻家でもあります)ら洋画家の作品を紹介します。台湾からやってきた青年黄土水が東京で何を学んだか。それを知ることで黄土水への理解がより深まることでしょう。

3 台湾出身の洋画家たち
 東京藝術大学大学美術館の顕著な特長として、卒業生たちの作品が遺されていることを挙げなければなりません。本展でもその利点を活かし、陳澄波や顔水龍、李梅樹といった近年評価を高めている台湾出身の近代洋画家たちの作品群約10点を紹介します。
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関連行事 シンポジウム「黄土水とその時代――日本と台湾の近代美術史をたどる」 
 期 日 : 2024年9月6日(金)
 会 場 : 東京藝術大学大学美術館地下2階 展示室2
 時 間 : 13:00~16:10
 料 金 : 無料

 黄土水という彫刻家を中心に、大正・昭和初期の日本と台湾の美術、そして東京美術学校の事歴に注目があつまるこの機会に、東京藝術大学大学美術館は、台湾の専門家と本学の教員によるシンポジウムを開催いたします。黄土水の近年の再評価がどのようになされたか、そしてそれが日・台近代美術史研究に与えたインパクトがどのようなものであったかをご紹介いただきながら、黄土水と東京美術学校の関係に注目してゆきます。

 講演1 薛燕玲(国立台湾美術館学芸員)
  「近代台湾初の彫刻家――黄土水芸術「ローカルカラー」の表現」
 講演2 岡田靖(東京藝術大学大学院美術研究科文化財保存学准教授)
  「古きモノからの学びとその保存修復、そして新たな彫刻表現へ」
 講演3 村上敬(東京藝術大学大学美術館准教授 *本展担当者)
  「解題『黄土水とその時代』」
 パネルディスカッション
  登壇者:薛燕玲、村上敬、岡田靖(モデレーター:熊澤弘)

というわけで、台湾出身で東京美術学校に留学していた彫刻家・黄土水(明治28年=1895~昭和5年=1930)をメインに据えた展示です。

黄が留学のため来日したのは大正3年(1914)、光太郎は既に母校を離れていましたが、父・光雲はまだ現役で後進の指導に当たっていました。そこで黄も当初はアカデミックな彫刻で官展系の入選を果たしていましたが、徐々に文学性を排した方向に進み、鳥獣魚介をモチーフとしたりしていく感じで、そこに光太郎や、さらに光太郎が心酔していたロダンの影響を指摘する説もあります。ただ、光太郎との直接の面識はなかったと思われ、『高村光太郎全集』にその名は現れません。

美校を卒(お)えた後の黄は、日台を行き来しながら活動し、昭和5年(1930)、池袋で亡くなっています。フライヤーに使われているのは代表作の一つ「甘露水」(大正10年=1921)。大理石です。

で、師・光雲や光太郎などの作品も展示されます。

プレスリリースによれば、光雲作品は木彫「聖徳太子像」。それから光太郎の親友・碌山荻原守衛のブロンズ「女」も。
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光太郎に関しては、プレスリリースに名はあるものの、出される作品名が明記されていません。そこで電話で問い合わせたのですが「出品目録が作られていなくて分かりません」とのこと。

同館所蔵の光太郎作品は以下の通りですが、おそらくブロンズの「獅子吼」、木彫の「紅葉と宝珠」、同じく「蓮根」あたりが出るのではないかと思われます。
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始まりましたら早い内に見に行きますので、またご紹介します。

皆様もぜひ足をお運びください。すぐ近くの東京国立博物館さんでは、常設展「総合文化展」で、光雲の「老猿」、光太郎の「鯰」と「魴鮄」も出ていますし、あわせてどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

池の端仲町にもう“酒悦”が復活したかとなつかしく存じました。味も殆ど以前と変りなく、東京の風趣を感じます。智恵子も好きだつたのでよくあの店へ買ひにいつた事を思ひ出します。


昭和24年(1949)4月21日 堀尾勉宛書簡より光太郎67歳

酒悦」は現在も続く佃煮や漬物のメーカーです。本店は上野の不忍池のほとりだったのですね。

今月初めの『朝日新聞』さん岩手版から。光太郎と交流の深かった日中ハーフの詩人・黄瀛に関して。光太郎にも言及されています。

(賢治を語る)中国籍の詩友、数奇な人生 宮沢賢治学会前副代表理事・佐藤竜一さん/岩手県

 北東北の詩人・宮沢賢治の友人に、黄瀛(こうえい)(1906~2005)という詩人がいた。中国人を父に、日本人を母に持つ黄は、日本語で詩を書き、名声を得た後、国民党の将校として中国共産党の捕虜になったり、文化大革命で獄中生活を送ったりした。黄が歩んだ数奇な人生について、書籍「宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯」の著者で、宮沢賢治学会前副代表理事の佐藤竜一さん(66)に聞いた。
《黄の生い立ちは?》
 1906年、中国・重慶で生まれました。父は黄澤民(たくみん)、母は千葉出身の太田喜智(きち)。喜智は小学校を2回飛び級するほど優秀で、東京女子高等師範学校を卒業後、日清交換教員として重慶に赴任し、澤民と結婚します。
 澤民は黄が3歳の時に亡くなったため、喜智はしばらく中国を転々とした後、黄が8歳の時に千葉県に戻ります。
《詩作を始めたのは?》
 黄は中国籍のため地元の中学校に進学できず、東京の中学に通います。喜智も中国籍のため小学校教師の職を追われ、中国の天津に渡って石炭販売業を営みながら、日本の黄に送金します。
 23年、日本では大きな転機となる関東大震災が起きます。東京の中学の授業がストップしたため、黄は青島の日本中学に編入します。
 そこで高村光太郎の「道程」などを読み、詩作に励み始めます。25年には新潮社が発行する詩誌「日本詩人」の第1席に選ばれ、詩人としての名声を得ます。
 青島の日本中学を卒業後、帰国して文化学院に入学し、草野心平と交友を深めます。黄と心平は度々、光太郎のアトリエを訪れます。
《賢治との出会いは?》
 24年に賢治が詩集「春と修羅」を出版すると、心平は賢治の才能に驚き、心平が創刊し、黄も同人となっている詩誌「銅鑼(どら)」に参加しないかと誘います。賢治は快諾し、「銅鑼」に「永訣(えいけつ)の朝」を発表します。
 黄は文化学院を中退後、陸軍士官学校に入学。29年、卒業直前に行った北海道旅行の帰りに花巻に立ち寄ります。賢治は病床にありましたが、1時間ほど会話を交わしたようです。冗談好きの賢治は「お会いできて、コウエイ(光栄)です」と出迎えました。
《その後の黄の人生は?》
 黄は37年に日中戦争が起こると、日本との関係を絶ち、中国大陸で国民党の将校としての道を歩みます。しかし49年、国共内戦で中国共産党に捕らえられ、重労働を課せられて獄中へ。66年の文化大革命では日本との関係がただされ、再び獄中へと送られます。
 合計で20年もの獄中生活を体験した黄に光が当たったのは78年。重慶の四川外語学院で日本文学を教える職に就いてからです。教壇に立った黄が真っ先に取り上げたのが賢治でした。黄の教え子からはその後、中国で賢治作品を広める多くの研究者が生まれています。
 私は92年、重慶で黄に初めて面会しましたが、政治に触れる話を避けたいという気持が伝わってきました。「今も詩を書いていますか」と聞くと、「書いていません。自分の存在自体が詩でありたい」と答えました。
 黄は96年、賢治生誕100年を記念して67年ぶりに花巻を訪れ、「皆さんの力で賢治はいよいよ世界的になるところです」と語っています。


最初に紹介されている佐藤氏御著書『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯―日本と中国 二つの祖国を生きて』についてはこちら

今回の記事では紙幅の都合上、細かなところは語られていませんが、紹介されているエピソードだけでも黄の「数奇な人生」ぶりが分かりますね。

光太郎は黄の才能を高く評価、大正14年(1925)のアンケート「十四年度作品批評」では、真っ先に「知人のせゐか黄瀛君にひどく嘱望してゐます」とし、さらに昭和9年(1934)に刊行された黄の詩集『瑞枝』には序文を寄せました。

また、黄をモデルに彫刻も制作。
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ただ、おそらく戦災で焼けてしまったと考えられ、現存が確認できていません。

この彫刻を作っていた大正14年(1925)、黄が中国で知り合った心平を光太郎に紹介しました。そして翌年には黄や光太郎と共に心平の『銅鑼』同人でもあった賢治が光太郎のアトリエを訪問します。二人の天才、生涯ただ一度の出会いでした。さらに記事に有る通り、昭和4年(1929)の黄と賢治の会談。

そう考えると黄はいろいろなところでのキーパーソンですね。昨日触れた画家の柳敬助同様、もっともっと知られていていい存在と思われます。

最後の黄の言葉「自分の存在自体が詩でありたい」は、賢治、心平、そして光太郎にも共通する考えだったようにも思えますね。

【折々のことば・光太郎】

御恵贈の「絶後の記録」を三四度くりかへしてよみました。その間つい御礼も書けずにゐました。まつたく息もつまる思でよみました。あの頃の世界を身に迫つて感じ、何とも言へず夢中でよみました。貴下が全身をあげて投擲するやうに書いて居られる気持がよく分かりました。最後の章にこもつてゐる貴下の感嘆には十二分に共鳴を感じます。まだきつと読みかへすでせう。これは記録としても貴重な文献です。


昭和23年(1948)12月10日 小倉豊文宛書簡より 光太郎66歳

『絶後の記録』は、賢治研究家としても有名な小倉が自身の広島での被爆体験を綴ったルポです。翌年には海外輸出版が刊行され、そちらには光太郎が序文を寄せました。現在も流通している中公文庫版にはこれが転用されています。原爆の惨状が一般にはあまり知られていなかったこの時期、光太郎は書かれている内容に瞠目したようです。

また、改めてこの愚かな戦争に加担していたことへの自己嫌悪をももたらしたのではないかとも考えられます。

昨日は広島、明後日は長崎の原爆の日、来週には終戦の日。いろいろ考えさせられます。

9月10日(日)、最後の訪問先、東京国立博物館さんに着きました。
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常設展的な総合文化展の中で、光太郎の父・光雲や光太郎と交流のあった僧侶・河口慧海をメインとした「日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―」が開催中です。
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チベットからの将来品などが中心ですが、サムネイル的に使われているのは、光雲の弟子・藤田光田作の慧海像。
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光太郎も慧海像(塑像)の制作に着手したのですが、残念ながら未完のまま戦災で焼失したと考えられ、作品の現存が確認できていません。
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これが観たかったので足を運びました。河口が持ち帰った白檀に光雲が彫った釈尊像。
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同趣旨の作が平成28年(2016)、慧海の出身地・大阪堺市で開催された「河口慧海生誕150年記念事業 慧海と堺展」に出たのですが、そちらは念持仏のような小さいものだったようです。

もう1点、光雲原型で、光雲三男の豊周による鋳造仏。やはり釈尊ですが、「天上天下唯我独尊」のポージングをとった誕生仏です。
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制作年代がはっきりしないのですが、いい感じですね。

他は将来品の仏像等。世界史的には「仏像」というものの源流に近いと思われますが、当方、やはり日本風にアレンジされた仏像の方に親しみを感じます。
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拝観後、他の展示室もざっと拝見。

第18室は「近代の美術」。同館目玉の作の一つ、光雲の「老猿」が時折出る部屋です。残念ながら「老猿」はお休み中。
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しかし、光太郎の親友・碌山荻原守衛の「北条虎吉像」と「女」が出ていました。
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「女」は最近の鋳造だそうですが、古色を着けての仕上げ。
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石膏原型からの3D計測によって作られたそうで、今後、ブロンズの鋳造はこの方式が主流になっていくのかな、と思いました。

9月12日(火)から展示替えとなり、残念ながら「女」はお休みに入っています。逆に高村真夫筆の「河口慧海師像」が新たに出ています。高村は新潟出身の画家。たまたま同じ「高村」で、光太郎等との血縁関係はありません。

「日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―」は10月9日(月)までの開催。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

それから小生の木彫小品の事ですが誌上で紹介して下さる御厚意をありがたく存じます、小生の彫刻は数が多く出来ないので割に高く譲つてゐるので如何かと思ひますが、小品例へば蟬とか小果とかいふ類のものを百円にしてゐます、又丸額(一尺二寸位)の「シシ合ひ彫り」を百二十円位にしてゐます、やすく頒ちたいのですが手間がかかるのでどうしてもその位になります、床の間へ置くやうな所謂置物といふやうな大きさになると五百円以上になります、心ぐるしいけれどやむを得ません、


昭和12年(1937)11月9日 更科源蔵宛書簡より 光太郎55歳
大熊座
翌年、更科が発行していた雑誌『大熊座』に載った「高村光太郎作木彫小品・色紙・短冊頒布」の広告に関わります。

広告の「フシシ合ひ彫り」は「シシ合ひ彫り」の誤植。漢字では「肉」と書いて「しし」、レリーフのことですね。

広告は出したものの、昭和12年(1937)の時点では、木彫の作品はほとんど手がけなくなっていました。僅かに未完に終わった「鯉」が知られている程度です。ただし、知られざる木彫作品がどこかにひっそりと眠っている可能性も否定できません。

笑っちゃうしかありませんでした。

先月中旬、FNN系のニュースから。

ニセ日本人の怪しい商売 中国で問題に 現地取材でわかった事実

中国で大人気商品となった、日本の伝統技術で作ったという鉄の鍋をPRする人物。4代目家主・伊藤慧太と表示されている。ところが、動画の内容はでたらめ。4代目というのも、日本の伝統技術というのも、うそ。しかも話をよく聞いてみると、「鉄鍋は生活必需品として、人々の生活に便利をお配りしました」などと、日本語がおかしい。
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実はこの人物、中国人の俳優。中国メディアによると、この会社は、日本の伝統技術で作られた鉄の鍋と称して、ネット通販で2020年12月までに5億円近くを売り上げていたとされている。

でたらめなのは、ほかにも...。紹介されている初代と2代目の写真。初代を小説家の志賀直哉と重ねると、ぴったり。さらに2代目には、詩人で彫刻家の高村光太郎と思われる写真が使われている。
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鍋は高いもので、およそ2万円ほどで販売されていた。箱には、すべて日本語で、「日本製輸入品」の文字と、住所には、富山県に実在する地名が書かれている。しかし、富山・射水市に問い合わせると、会社の法人登記はなく、地域で鍋が有名ということも聞いたことがないとのこと。
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一方、上海にあるとされる関係先の住所のオフィスビルを訪ね、警備員に話を聞いてみたが...。警備員「鉄の鍋? 炒めたりするやつ? ここの中にはないね」はたして、ここに関係先はあったのだろうか。

中国メディアによると、中国当局は産地を偽装した鍋を販売した疑いで、2020年12月に関係先の倉庫を封鎖。今も調査が続いているという。


というわけで、笑っちゃうしかありませんでした。光太郎も草葉の陰で苦笑しているのではないでしょうか(笑)。

【折々のことば・光太郎】

宮沢邸の昼食に招かる。珍しき握寿しの御馳走。

昭和22年(1947)5月16日の日記より 光太郎65歳

この前日、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村から花巻町に出て来て、総合花巻病院長・佐藤隆房邸に宿泊していました。さすがに山小屋生活では握り寿司を食する機会はなかったのでしょう。

台湾の首都、台北から特別展情報です。

わかりやすくするために、『毎日新聞』さんの記事から。

台湾・故宮南院で日本美術展

008 台北の故宮博物院の分院である故宮南院(台湾嘉義県)で、東京国立博物館と九州国立博物館が所蔵する国宝や重要文化財などを展示した「日本美術の粋 東京・九州国立博物館精品展」の開幕式が12日、南院で行われた。訪台した国会議員を含む日台関係者数百人が出席した。

 来年3月5日までの期間中、国宝18件を含む絵画、彫刻、工芸など延べ151件を展示。縄文時代から明治時代まで日本美術を幅広く紹介しており、明治時代の木彫、高村光雲作「老猿(ろうえん)▽江戸時代の浮世絵、葛飾北斎筆「冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」=写真▽安土桃山時代の狩野(かのう)永徳筆「檜図屏風(ひのきずびょうぶ)」などが含まれる。東博の銭谷真美(ぜにや・まさみ)館長は「これだけ多分野にわたる名品の数々を日本国外で大規模に紹介するのは初めて。日本美術、日本文化全体を深く理解していただけると確信している」とあいさつした。【嘉義(台湾南部)】


というわけで、光太郎の父・高村光雲作の重要文化財「老猿」が海を渡って展示されています。

それでは、展覧会情報を。

日本美術の粋 東京・九州国立博物館精品展

期 日 : 2016年12月10日(土)~2017年3月5日(日) 月曜休館
会 場 : 國立故宮博物院南部院區 アジア芸術文化博物館
時 間 : 9:00~17:00 
料 金 : 一般 250台湾ドル 団体(10人以上) 230台湾ドル
      障害者とその介護者一名まで無料
      国際学生証/青年旅行カード所持者 150台湾ドル (1台湾ドル=3.62円)

國立故宮博物院は2014年、東京国立博物館、九州国立博物館と共同で、特別展「台北 国立故宮博物院-神品至宝-」を開催し、本院が収蔵する逸品を日本で初めて展示致しました。この展覧会は両国の文化交流の重要な一里塚となり、日本中で大きな話題となりましたが、今回は、東京国立博物館と九州国立博物館からの感謝の意として、本院の南部院區において、「日本美術の粋 東京・九州国立博物館精品展」を開催致します。両博物館が収蔵する作品のうち、国宝18件、重要文化財44件などを中心に、最も優れた計151件を精選した本展覧会は、規模・質ともに、台湾はもちろん、日本国外で行う日本美術の展覧会として過去最大・最高のものとなります。展示は「第1章 祭祀と生活」「第2章 皇権と佛法」「第3章 貴族の世界」「第4章 武家の文化」「第5章 市民の創造」「第6章 伝承と創造」の6章から構成されており、古代から近代までの、約5000年にわたる豊かで多様な日本芸術を紹介するものです。


009一昨年に東京国立博物館さんで開催された「台北・国立故宮博物院展」で、台湾の秘宝の数々を借りた返礼に、今度は日本の国宝や重要文化財をお貸ししよう、というコンセプトだそうです。

そこでいわば日本代表選手として(笑)「老猿」が選出され、喜ばしいことですね。彼の地の皆さんは、あれをどう見るのか、興味深いところです。光太郎の作も選出されていればなおよかったのですが……。

「国威発揚」というような浅はかな考え方でなく、純粋に「文化交流」として、歓迎したい試みです。

台湾に行かれる方、ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

正次がうちし平鑿くろがねのうら砥ふまへて幾夜わが砥ぐ        
大正15年(1926) 光太郎44歳

「正次」は桜井正次。宮内省御用刀工にして、光雲と同じく帝室技芸員でした。「卍正次」として、日本刀の作が有名ですが、鑿(のみ)なども打っていたようで、それを光太郎が愛用していたわけですね。もしかすると、光雲から譲り受けたかもしれません。

光太郎が光雲から受けた教えとして、彫刻刀のたぐいはとにかくよく研ぐこと、というのがあったそうです。自分の体の一部であるように使いこなすためだそうです。そのため、光雲光太郎、ともに砥石にもこだわりを持っていました。

新刊情報です。 

宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯―日本と中国 二つの祖国を生きて

佐藤竜一著 2016/05/26 コールサック社 定価1500円+税

佐藤さんに対してきっと多くの詩人たちや光太郎・賢治・心平などの研究者たちは感謝と称賛の声を上げるだろう。なぜならこの労作から本格的な黄瀛研究が始まるからだ。そしてこれからも日中の架け橋であった黄瀛の存在を通して日本と中国の文化交流の本質的な在り方が問いかけられるに違いない。(鈴木比佐雄解説文より)

目次
 はじめに 
 第一章 軍服を着た詩人
  第一節 詩壇の寵児 
  第二節 軍人への道―何応欽と姻戚に 003
 第二章 日中戦争勃発と日本との訣別
  第一節 詩人たちとの交遊 
  第二節 魯迅との出会い、別れ 
  第三節 日本との別離 
 第三章 日本の敗戦と国共内戦
  第一節 漢奸狩りの犠牲に?
  第二節 草野心平との再会
  第三節  『改造評論』をめぐって 
  第四節 辻政信との出会い 
 第四章 半世紀ぶりの日本
  第一節 四川外語学院教授
  第二節 半世紀ぶりの日本 
 第五章 黄瀛と私
 資料編
  資料編(1) 黄瀛の詩 
  資料編(2) 黄瀛のエッセイ・評論 
 黄瀛略年譜 
 主要参考文献 
 【解説】鈴木比佐雄
 おわりに
 著者略歴


明治39年(1906)、中国重慶生まれ、中国人の父と、日本人の母を持ち、二つの国を行き来しながら活動した詩人・黄瀛(こうえい)の評伝です。


黄瀛は、朝日新聞に勤務していた中野秀人を介して光太郎と知り合い、さらに草野心平を光太郎に紹介する労も執っています。また、昭和4年(1929)には、宮沢賢治を花巻に訪ねてもいます。

光太郎は黄瀛の特異な才能を高く評価、その第二詩集『瑞枝』に序文を寄せたり、黄瀛をモデルに塑像を作ったりしました。

その後、黄瀛は中国国民党の将校となり、終戦後は共産党により投獄、昭和37年(1962)に出獄するも、文化大革命で日本との関係を糾弾され、4年後に再び獄中へ。再び自由の身となるのは、開放政策が始まった昭和53年(1978)のことでした。その後、平成17年(2005)に98歳で歿するまで、たびたび来日、心平と旧交を温めたりもしました。


著者の佐藤氏、平成6年(1994)に、日本地域社会研究所さんから、『黄瀛―その詩と数奇な生涯』という最初の評伝を上梓されましたが、その後判明した事実、新たに入手された資料などを盛り込み、ほぼ全面的に改稿したのが本書です。

黄瀛―その詩と数奇な生涯』も、だいぶ示唆に富むものでしたが、さらに充実の内容です。特に光太郎との関わりで、黄瀛自身の書いた光太郎回想なども収録されており、興味深く拝読しました。


ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

熊いちご奥上州の山岨(やまそば)にひとりたうべてわれ熊となる
大正13年(1924) 光太郎42歳

「熊いちご」は野いちごの一種。ヘビイチゴと似ていますが、もっと丈が高くなるそうです。「たうべて」は「食べて」。

自宅兼事務所の裏山を、愛犬と散歩中に見つけました。熊イチゴならぬ、ブルーベリーです。

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何とまあ、野菜の無人販売所のように、100円入れて勝手に摘んで下さい、とのこと。お互いの信用でこういうシステムが成り立つこの国のこういうところが、当方は大好きです。

最近入手した光太郎関連の書籍ですが、少し前に出版されたものを紹介します。調査がゆきとどきませんで、最近までこれらの書籍の存在に気づきませんでした。 

南海漂蕩 ミクロネシアに魅せられた土方久功 杉浦佐助 中島敦

 岡谷公二著 冨山房インターナショナル 平成19年(2007)11月29日 定価2,400円+税

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サブタイトルに名前のある3人は、大正から昭和初期にかけ、日本統治下のパラオに流れていった人々です。3人のうち光太郎と親交のあったのは、ともに彫刻家の土方久功(ひさかつ)と杉浦佐助。光太郎との交流を含めた3人の南島生活を中心とした評伝です。
 
杉浦佐助は昭和14年(1939)に開かれた彼の個展のパンフレットに、光太郎が「恐るべき芸術的巨弾-杉浦佐助作品展覧会」という文章を寄せ、絶賛しました。今では全くといっていいほど忘れ去られた彫刻家ですが、著者岡谷氏が幻の作品を探すくだりなどは、読んでいてワクワクさせられました。 
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左から川路柳虹(詩人)、杉浦、光太郎。右端の人物は不明です。

土方に関しても光太郎は昭和28年(1953)の『朝日新聞』に「現代化した原始美-土方久功彫刻展-」という文章を寄せています。のちに土方著『文化の果にて』(『智恵子抄』版元の龍星閣刊行)の序文として転用されました。

大江戸座談会

 竹内誠監修 柏書房 平成18年(2006)12月25日 定価2,800円+税

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昭和初期に刊行された雑誌『江戸時代文化』『江戸文化』に掲載された座談会の復刻です。画家の伊藤晴雨、編集者の山下重民らの有名どころから、元南町奉行所の与力、直心影流の達人、和宮に仕えた旧幕臣、江戸の商人など、さまざまな階層の人々が14のテーマで行った座談です。
 
光太郎の父・光雲も「江戸の見世物」「江戸の防御線-見附の話」「彰義隊」の3回に出席し、記憶を語っています。
 
光雲が江戸から明治初期にかけてを回想して語った回顧録の類は多く、光太郎が生まれ育った環境を知る上でも貴重な記録です。当方が発行しております冊子『光太郎研究』にそのあたりを少しずつ掲載しています。いずれはこの座談会も掲載しようと思っています。
 
冊子『光太郎研究』についてはまた後ほど紹介いたします。

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