『読売新聞』さん、8月18日(月)掲載の記事。

といって、公共空間にはベンチだの街路灯だのさえあればいいのか、という問題にもなりますし……。まぁ、少なくとも不快だと思う人が一定以上存在しそうなものは、避けて置いた方が無難だなとは思います。
なんだか堂々巡りでまとまりませんが、みなさんもそれぞれ考えてみて下さい。
【折々のことば・光太郎】
彫刻に独創はいらない。生命がいる。
さらにロダンは「模写家たる事を恐れるな。」「此の模写は手に来る前に心を通る。知らぬ処にいつでも独創はあり余る。」「何を生命と呼ぶか。あらゆる意味から君を激動させるもの、君を突き貫くものの事です。」などとも語っていました。
街の裸婦像は時代にそぐわない? 撤去の動き、各地で…小学生「見ていて恥ずかしくなる」
公園や駅前、橋上にある裸婦像が、公共の場にふさわしくないとして、自治体が撤去する動きが相次いでいる。裸婦像は戦後に撤去された軍人像に代わり、「平和の象徴」として全国各地に建てられたが、「時代にそぐわない」「美術館に展示すべきだ」との指摘も出ている。(高松総局 黒川絵理)
小学生「見ていて恥ずかしくなる」
高松市中心部にある市中央公園。約3・5ヘクタールの園内には、市出身の文豪・菊池寛や読売巨人軍の名監督・水原茂氏ら計31体の像などが設置されている。その中には、少女2人が向かい合って立つ裸像もある。
市によると、1989年に地元のライオンズクラブから寄贈された。2023年以降、同園の再整備計画を検討してきた有識者らの会合で「時代にそぐわないモニュメントがある」と指摘され、校外学習で訪れた小学生からも「見ていて恥ずかしくなる」との意見が出た。
市は「人々の価値観が変化しており、児童の裸像を公共空間で不特定多数が目にするのは望ましくない」と判断。8月下旬に始まる再整備工事で撤去する方針という。
一方、少女の裸像の作者で、彫刻家の阿部誠一さん(94)(愛媛県今治市)は読売新聞の取材に「撤去は残念だ」と語った。作品名は「女の子・二人」で、1988年の瀬戸大橋開通を記念して制作した。阿部さんは「裸像はみずみずしい命そのもので、橋で成長する四国・本州地域の美しさを表現した。園内に残すべきだと思う」と話した。市から撤去についての連絡はないという。
「公共空間にたくさん設置、日本だけ」
全国の記念碑を研究する亜細亜大の高山陽子教授によると、戦前は軍人や偉人の像が公共空間に建てられたが、戦中の金属不足や戦後の連合国軍総司令部(GHQ)の方針で撤去された。代わりに登場したのが裸婦像だった。1951年に東京都千代田区に置かれた「平和の群像」が国内の公共空間で初めての裸婦像とされ、その後、平和や愛の象徴として各地に広まったという。
高山教授は「公共空間に女性の裸像がたくさん置かれているのは日本だけ。欧州やアジアでは美術館の敷地内や庭園に限られる」と話す。
女性の裸像の設置場所を巡っては、他の地域でも見直しが進んでいる。
兵庫県宝塚市にある宝塚大橋には、手のひらの上で裸の女性が踊る像が設置されていた。橋の改修工事に伴い、2021年に撤去され、元の場所に戻すかどうかが議論になった。橋を管理する県は「見たくないとの意見が一定数ある」として設置しない方針を決定。土木事務所で保管している。
静岡市では、中心部の駿府城公園周辺に女性や少女の裸像が7体設置され、静岡駅前広場にもフランスの画家・ルノワールの裸婦像2体がある。
難波喬司市長は昨年12月の記者会見で「市内に裸婦像が多すぎる」と語った上で、「しっかり鑑賞できる美術館などに置くのが適切ではないか」と述べた。市は有識者らに意見を求めており、対応を検討している。
神戸大の宮下規久朗教授(美術史)は「近年、児童の裸に対する社会の目が厳しくなっている一方で、設置から数十年 経た ち、風景に同化している裸像もある。市民から意見を募り、撤去の是非を慎重に判断すべきだ」と語る。

記事本文には光太郎の名はありませんが、画像として光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。キャプションには「十和田湖畔に建つ乙女の像。高村光太郎の作品(青森県十和田市)」。文脈としては撤去すべきものの例ではなく、記事末尾にある神戸大の宮下規久朗教授曰くの「風景に同化している裸像」の例として挙げられているのだと思われます。舟越保武の「たつこ像」も。そうでないとしたら見識を疑います。
しかし、彫刻に限りませんが、たしかに公共空間に於けるアート作品にはいろいろと微妙な問題がありますね。「なぜそこにその作品があるのか」「そうした作品でなければならないのか」「そこにその作品があることでどんなメリットがあるのか」そして記事の指摘にあるように「デメリットはないのか」。
特にバブル期、そうした議論もされないまま、単に「有名な作家の作品だから」「地元の芸術家にお願いして」「何もないとさびしいから」「予算が組まれたので」的な安易な理由で設置された作品も多いと思われます。中には「ガラクタ」と思われても仕方のないものも少なからずあるような。そんな中で、裸婦像は裸婦像であるが故のセンシティブな問題を孕み、槍玉に挙げられやすいのでしょう。
記事後半にある静岡市の例の中で「市は有識者らに意見を求めており」とありますが、「「有識者」ってどんな人?」「その人らに何の権限があるの?」「ほんとに万人が納得出来る見解が出せる?」という気がします。
この問題は難しいと思います。地方都市の駅前などによくある戦国武将などご当地偉人の像なども、「偉人の像だから」というだけで、像の出来不出来は問題にされず容認されていたり、意味不明の像も「有名な作者のものだからOK、これが理解出来ない人はアートを理解する心が足りないのだ」と丸め込まれたり……。逆に「乙女の像」や「たつこ像」まで「裸婦像」だからというだけの理由で眼の敵にされてはかないません。
結局は光太郎が明治期に文展などの評で主張していた、「その像に「生(ラ・ヴイ)」が見えるかどうか」という基準しかないのでは、とも思われます。一人一人がきちんとした鑑賞眼を持ち、いいものはいい、駄目なものは駄目、といえる素養を身につける必要があるでしょう。それとても人によって基準が異なることは仕方がありませんが……。
また、万人が認めるいいものであっても、設置場所が適当かどうかはまた別の問題です。例えば「考える人」が住宅街のど真ん中にズドンと設置されたとして、誰がそれをありがたがるか、というようなことです。
しかし、彫刻に限りませんが、たしかに公共空間に於けるアート作品にはいろいろと微妙な問題がありますね。「なぜそこにその作品があるのか」「そうした作品でなければならないのか」「そこにその作品があることでどんなメリットがあるのか」そして記事の指摘にあるように「デメリットはないのか」。
特にバブル期、そうした議論もされないまま、単に「有名な作家の作品だから」「地元の芸術家にお願いして」「何もないとさびしいから」「予算が組まれたので」的な安易な理由で設置された作品も多いと思われます。中には「ガラクタ」と思われても仕方のないものも少なからずあるような。そんな中で、裸婦像は裸婦像であるが故のセンシティブな問題を孕み、槍玉に挙げられやすいのでしょう。
記事後半にある静岡市の例の中で「市は有識者らに意見を求めており」とありますが、「「有識者」ってどんな人?」「その人らに何の権限があるの?」「ほんとに万人が納得出来る見解が出せる?」という気がします。
この問題は難しいと思います。地方都市の駅前などによくある戦国武将などご当地偉人の像なども、「偉人の像だから」というだけで、像の出来不出来は問題にされず容認されていたり、意味不明の像も「有名な作者のものだからOK、これが理解出来ない人はアートを理解する心が足りないのだ」と丸め込まれたり……。逆に「乙女の像」や「たつこ像」まで「裸婦像」だからというだけの理由で眼の敵にされてはかないません。
結局は光太郎が明治期に文展などの評で主張していた、「その像に「生(ラ・ヴイ)」が見えるかどうか」という基準しかないのでは、とも思われます。一人一人がきちんとした鑑賞眼を持ち、いいものはいい、駄目なものは駄目、といえる素養を身につける必要があるでしょう。それとても人によって基準が異なることは仕方がありませんが……。
また、万人が認めるいいものであっても、設置場所が適当かどうかはまた別の問題です。例えば「考える人」が住宅街のど真ん中にズドンと設置されたとして、誰がそれをありがたがるか、というようなことです。
といって、公共空間にはベンチだの街路灯だのさえあればいいのか、という問題にもなりますし……。まぁ、少なくとも不快だと思う人が一定以上存在しそうなものは、避けて置いた方が無難だなとは思います。
なんだか堂々巡りでまとまりませんが、みなさんもそれぞれ考えてみて下さい。
【折々のことば・光太郎】
彫刻に独創はいらない。生命がいる。
光太郎訳ロダン「断片」より 大正5(1916)頃訳 光太郎34歳頃
さらにロダンは「模写家たる事を恐れるな。」「此の模写は手に来る前に心を通る。知らぬ処にいつでも独創はあり余る。」「何を生命と呼ぶか。あらゆる意味から君を激動させるもの、君を突き貫くものの事です。」などとも語っていました。









