カテゴリ:彫刻/絵画/アート等 > 建築

昨日に引き続き、芝増上寺さんの展示情報です。

『産経新聞』さんで大きく報道されています。 

2代将軍秀忠の墓所「台徳院殿霊廟」模型、日本初公開へ。

 徳川幕府の第2代将軍秀忠の墓所で、70年前の空襲で焼失した国宝建造物「台徳院殿霊廟(れいびょう)」の実像を唯一知ることのできる精巧な模型が英国で見つかり、徳川家康の没後400年目を機に4月から、霊廟のあった増上寺(東京・芝公園)で公開されることになった。
 模型は実物の10分の1(幅約4メートル、奥行き約5メートル、高さ約2メートル)で、1910年(明治43年)にロンドンで開かれた日英博覧会の展示品として当時、東京市が著名な彫刻家、高村光雲ら東京美術学校の専門家の監修で製作した。
 展示後、模型は英王室直属機関のロイヤル・コレクションに渡った。徳川時代の建築の専門家でもある同機関の現代表、ウィリアム・コールドレイク氏が20年前、埋もれていた模型を見つけ、修復に着手。作業が複雑で修復は未完了だが、家康没後400年目の今年、増上寺に貸与する形で公開することになった。
 霊廟は秀忠が没した1632年に建立され、霊廟建築のひな型ともなったが、焼失後はモノクロ写真でしか見ることができなかった。コールドレイク氏は「模型なら質感や色がわかり、当時の専門家の手による作品というだけでも国宝級だ」と話している。

イメージ 1


展示の概要は以下の通りです。

「増上寺宝物展示室」概要
【名 称】増上寺 宝物展示室
【日 付】平成27年4月2日(木)より一般公開
【時 間】10:00~16:00
【休館日】火曜日 *御忌期間中4/2~7は毎日公開。その他臨時公開日あり
【会 場】大本山 増上寺 大殿地下1階「宝物展示室」(旧三縁ホール)
【入館料】一般 700円(税込) *徳川将軍家墓所拝観とのセット券 1,000円(税込)


ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月19日

平成12年(2000)の今日、ソプラノ歌手藍川由美のCD『「國民歌謡~われらの歌~國民合唱」う歌う』がリリースされました。

イメージ 3

イメージ 2

昭和15年(1940)に徳山璉の歌で発表された、光太郎作詞、飯田信男作曲の「歩くうた」が収められています。当時の楽譜通りの演奏です。

以前にもご紹介しましたが、藍川さんは歌謡史の研究も兼ね、忘れ去られつつある歌謡曲等の実演に取り組まれています。

東京は芝から、光太郎の父・光雲がらみの情報先の話のため、もうすこし後で記事にしようと思っていましたが、新聞報道がなされていますので、ご紹介します。

芝増上寺さんのサイトから。

増上寺宝物展示室2015年4月2日OPEN

 平成27年は、徳川家康公没後400年にあたります。その記念すべき年に、家康公によって徳川将軍家の菩提寺と定められ発展してきた増上寺では、本堂地下1階に宝物展示室を開設することになりました。

展示の中心となるのは、英国ロイヤルコレクション所蔵の「台徳院殿霊廟模型」です。台徳院殿霊廟は二代秀忠公の墓所として、1632年(寛永9年)、三代将軍家光公によって境内南側に造営された壮大な建築群でした。徳川家霊廟の中で最も壮麗とされる日光東照宮のプロトタイプとなった霊廟で、1930年(昭和5年)に国宝に指定されましたが、1945年(昭和20年)5月の戦災により焼失してしまいました。

この模型は、いまではモノクロ写真でしか往時の姿をしのぶことができない台徳院殿霊廟の主要部分が、10分の1のスケールで製作されたものです。

女王陛下より増上寺へ霊廟模型の長期貸与が決定

  模型の製作は、東京美術学校(現東京芸術大学)が行い、古宇田実教授(建築)、高村光雲教授(彫刻)両名の監修のもと、明治末期の最高の技術をもって、忠実に再現しました。
  英国側がこの模型を日本で展示し、ひろく一般公開する意向を持ち、英国大使を通じて徳川御宗家並びに増上寺への協力依頼により本計画が実現しました。
  展示室を開設し一般公開することは、日英文化交流にとって友好のしるしとなること、そして模型が持つ美術工芸品的、資料的、歴史的価値を多くの人に知っていただける好機だと増上寺では考えています。 

1910年(明治43年)ロンドンで開催された日英博覧会に東京市の展示物として出品。博覧会終了後に英国王室へ贈呈され、ロイヤルコレクションの一つとなり、現在まで英国にて大切に保管されてきたのです。


イメージ 1



英国大使館さんのサイトにも情報が掲載されています。 
明治期の台徳院殿霊廟模型が、こ004の春、日本で初公開されます。
東京の失われた国宝建造物の中でも重要な建築の一つに挙げられる台徳院霊廟の1/10スケール模型が、100年余ぶりに日本に戻りました。英国ロイヤル・コレクションの1つであるこの模型は、徳川家2代将軍、徳川秀忠公(1579-1632)の墓所である台徳院霊廟を再現したものです。エリザベス2世女王陛下のお許しで、日本の職人の手による12ヶ月にわたる丹念な修復作業を経て、当初霊廟が建造されていた東京(かつての江戸)の増上寺にて、長期公開されます。本模型は 徳川家初代将軍、家康公の没後400年を記念した展示(4月2日より一般公開)の中核をなすものです。
台徳院殿霊廟は、1632年、徳川家の菩提寺である増上寺の境内に建造され、その名は秀忠公の法名に因んでいます。本霊廟はその後の霊廟建築におけるひな形の一つとなっており、特にさまざまな場所に施された独特の装飾は大きな影響を与えましたが、1945年、東京への戦時中の爆撃により焼失しました。
模型は1910年にロンドンで開催された日英博覧会のために東京市(当時)が発注したもので、より小型の日本の歴史的建造物模型13点と共に展示されました。高名な彫刻家、高村光雲など東京美術学校(現・東京芸術大学)の専門家による監修の下、当時トップクラスの大工、漆職人、彫刻家らによるチームが製作を担当。幅3.6メートル、奥行き5.4メートル、高さ1.8メートルで、同博覧会のために依頼された大半の模型の5倍の大きさでした。
模型は、台徳院殿霊廟を構成する三棟、本(ほん)殿(でん)、拝殿(はいでん)、相之間(あいのま)を内外にわたり、色彩豊かに細部に至るまで再現しています。屋根は数千枚に及ぶ親指の爪サイズの銅瓦など、素材や技巧にも忠実です。
東京での修復作業は主に本殿部分で、屋根瓦や漆塗りの木の枠組みや扉、御簾、徳川家の家紋、金箔を施した阿弥陀浄土図などの壁画の修理や洗浄などが行われました。須(しゅ)弥壇(みだん)の両端に立つ来迎柱(らいごうばしら)は特に注意深く修復され、霊廟を取り囲む巨大な透(すき)塀(べい)の洗浄と再構築もおこなわれました。   日英博覧会は1910年5月14日から10 月29日までロンドンのホワイトシティで開催され、日本が参加した国際博覧会としては最大規模のものでした。発展を遂げる日本国のイメージを英国に発信し、両国の貿易関係を強化することを目的としていました。この博覧会では日本の工芸・音楽・スポーツ・娯楽のデモンストレーションも行われ、英国王ジョージ5世やメアリー王妃も訪問、来場者は800万人超に達しました。その後、霊廟の模型は国王に贈呈され、長年にわたり王立植物園(キューガーデン)にて一般公開されてきました。
駐日英国大使 ティム・ヒッチンズより:

“長い年月を経て、台徳院の模型が日本に戻ることを非常に喜ばしく思います。2008年に皇太子殿下が訪日された際、模型の来迎柱の一つを増上寺の副住職に贈りました。今回は模型全体が戻ります。英国と日本が協力することで、歴史的にも政治的にも重要かつ非凡な職人技を広く一般に届けることができるという、今後のあり方を象徴的する素晴らしい出来事です。この模型は、炎に消えて取り戻せないと思われた建物を甦らせます。”
ロイヤル・コレクション・トラスト 総責任者 ジョナサン・マースデンより:

“この類まれな模型の存在意義は、オリジナルの建物と敷地の消滅によってさらに高まっています。私はエリザベス2世女王陛下の代理として、ロイヤル・コレクションの一つであるこの見事な作品の管理責任を担っておりますが、ロイヤル・コレクション・トラストと増上寺の素晴らしい提携のおかげで、この模型が最高の職人によって修復され、東京の皆さんに江戸時代の最高建築を十分にご堪能いただけることを嬉しく思います。”
大本山増上寺 友田達祐 執事長より:

“エリザベス2世女王陛下のご好意により、台徳院殿霊廟模型が100年ぶりに里帰りし、4月2日から増上寺において一般公開できますことを、心より喜んでおります。徳川将軍家の菩提寺として発展してきた増上寺の、往時を偲ぶ貴重な資料でもあり、修復・展示実現のため、ご尽力いただきましたロイヤル・コレクション・トラスト、駐日英国大使館はじめ、関係皆様に感謝いたします。”


他にも新聞報道等がなされていますが、長くなりましたので、またご紹介いたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月18日

昭和27年(1952)の今日、光雲高弟の一人、本山白雲が歿しました。

本山は高知出身の士族。明治4年(1871)の生まれで、光太郎より12歳年長でした。旧主のとりなしで光雲に弟子入りし、さらに東京美術学校にも入学、卒業後はそのまま美校に奉職しました。幼い日の光太郎が、共に彫刻修行に励んだ一人です。

昭和4年(1929)に刊行された光雲の談話筆記『光雲懐古談』中の「谷中時代の弟子のこと」から。

 それから、やはり谷中時代の人で、今日は銅像制作で知名の人となつてゐる、本山白雲氏があります。氏は土佐の人、同郷出身の顕官岩村通俊(いはむらみちとし)氏の書生をしてゐて、親を大切にして青年には珍しい人で美術学校入学の目的で私の宅へ参つて弟子になりたいといふことで、内弟子となつてゐました。後に学校に這入りました。今日でも氏は能く昔のことを忘れず、熱さ寒さ盆暮れには必ず挨拶にきてくれます。今では銅像専門の立派な技術を持つた人です。

「銅像専門」とありますが、代表作は郷里005の高知桂浜に立つ、有名な坂本龍馬像です。

ところで、今日、2月18日は、本山以外にも、奇しくも光太郎と関係のある人物多数の命日です。

明治36年(1903)、五代目尾上菊五郎。光太郎は彼のファンで、肖像彫刻も作りました(現存は確認できず)。

昭和14年(1939)、岡本かの子。彫刻科を卒業し、再入学した東京美術学校西洋画科での同級生・岡本一平の妻で、智恵子同様、『青鞜』のメンバーでもありました。

永禄4年(1564)、ミケランジェロ・ブオナローティ。言わずと知れたルネサンスの巨匠です。ロダンと共に、光太郎彫刻の血脈を形作りました。

こうした中で、やはり光太郎との縁の深さを考え、本山を代表にさせてもらいました。

先週土曜日、東京国立博物館黒田記念館を後にして、谷中、根津を経由して徒歩で本郷に向かいました。このエリアには当方の好きなレトロな建物がよく残っており、大好きな街の一つです。
 
イメージ 1
 
イメージ 2  イメージ 3
  
000

さて、日展の新会館前を過ぎ、現在の谷中6丁目。総持院という小さなお寺があります。このあたりの一角で、少年時代の光太郎とその一家が暮らしていました。明治23年(1890)~同25年(1892)のことです。ただし、光太郎の住居があった場所そのものは道路になってしまっているそうです。
 
明治22年(1889)に、光雲は東京美術学校に奉職することになって、翌年、仲御徒町から谷中に転居、このあたりから通勤していました。光太郎は日暮里小学校(現・第一日暮里小学校)に転校、尋常小学校の課程を終え、高等小学校の課程は下谷小学校に通いました。
 
この谷中での約3年間に、光太郎一家にはさまざま001な出来事がありました。弟の豊周と孟彦(藤岡家に養子)が生まれたのもこの時期です。光雲は帝室技芸員を拝命、楠公銅像の木型制作主任となり、さらにシカゴ万博に出品された重要文化財「老猿」もここで作られました。
 
しかし、光太郎の姉のさくが肺炎で歿したのも、ここ谷中で、光雲は目の中に入れても痛くないほどかわいがっていた娘の死に落胆、つらい思い出の残る谷中を引き払って、千駄木に移ります。
 
さて、光太郎に「谷中の家」という散文があります。昭和14年(1939)、雑誌『新風土』に掲載されました。一部、抜粋します。
 
 家は古風な作りで、表に狐格子の出窓などがあつた。裏は南に面して広い庭があり、すぐ石屋の石置場につづき、その前には総持院といふ小さな不動様のお寺があり、年寄りの法印さまが一人で本尊を守つてゐた。父の家の門柱には隷書で「神仏人像彫刻師一東斎光雲」と書いた木札が物寂びて懸けられてゐたが此は朝かけて夕方とり外すのが例であつた。
 私の少年時代の二三年はここで過された。私は花見寺の上の諏訪神社の前にあつた日暮里小学校に通つてゐた。車屋の友ちやん、花屋の金ちやん、芋屋の勝ち やん、隣のお梅ちやん、さういふ遊び仲間と一緒にあの界隈を遊びまはつた。おとなしい時は通りの空どぶへ踏台を入れて隣のお梅ちやんなどとまま事をした り、石置場でゴミ隠し、かくれんぼをしたりした。男の子が集まると多く谷中の墓地へ押し出して鬼ごつこいくさごつこをやつた。
 
そんなこんなに思いを馳せながら、谷中を通り過ぎ、根津へ。
 
谷中の光太郎旧居周辺は最初から通るつもりでしたが、根津では人の流れに乗って、当初行く予定ではなかった根津神社に参拝しました。このあたりも光太郎がよく歩いた一角ではあります。
 
イメージ 8
 
イメージ 9
 
その後、本郷に行き、北川太一先生を囲む新年会に参加させていただきました。
 
来年もお招きいただけると思いますので、やはりこのエリアで、光太郎智恵子光雲ゆかりの地などを訪ねようと思っています。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月13日

明治41年(1908)の今日、日本画家・橋本雅邦が歿しました。
 
狩野派の流れを汲む雅邦は、光雲同様、岡倉天心に見出され、初期の東京美術学校絵画科で教鞭を執りました。
 
天心がバッシングされた美術学校事件で、天心と共に辞職、日本美術院を立ち上げる明治31年(1898)まで美術学校に在職、光雲と同僚であった他、彫刻科でも臨画の授業を担当し、光太郎も教わりました。
 
イメージ 10
 
明治27年(1894)、美校の第2回卒業記念写真から採りました。左から光雲、黒川真頼、岡倉天心、橋本雅邦、川端玉章です。

先週、妻が買い物に行きたいというので、日本橋のCOREDO室町さん、COREDO日本橋さんに連れて行きました。
 
ついで、と言っては何ですが、東京駅丸の内口にある東京ステーションギャラリーさんにも寄りました。現在、「東京駅開業百年記念 東京駅100年の記憶」が開催されています。 
 
このブログで繰り返し書いてきましたが、今年は大正3年(1914)から数えて、光太郎智恵子結婚披露100周年、「道程」100周年です。そして東京駅の開業も同じ大正3年(1914)で100周年ということで、いろいろと記念イベント等がありました。限定Suica発売での大混乱のニュースは記憶に新しいところですね。
 
駅舎も6年にわたる改修工事が行われ、ほぼ開業当時の姿が復元されたということです。
 
で、ステーションギャラリーさんでは、この企画展です。東京駅に関わる美術作品の展示や、文学作品の紹介があるというので、また、妻が意外と鉄道好きなので、寄ってみました。
 
イメージ 9
 
イメージ 10
 
イメージ 8  イメージ 7
   
イメージ 3
 
 
イメージ 4
 
展示のうち、ジオラマなどは撮影可でした。
 
イメージ 5
 
美術系では、石井鶴三(版画)、松本竣介(油絵)など、光太郎と交流のあった作家の作品が並んでいました。クロニクル的なコーナーでは、開業当時の駅付近の名所、ということで光雲作の楠公銅像の写真が載った冊子が、そのページが開かれて展示されていました。
 
また、これはちょっと驚いたのですが、つい先日のこのブログでご紹介した昭和27年(1952)12月14日の『週刊朝日』が展示されていたこと。
 
イメージ 6
 
石川滋彦の描いた東京駅丸の内口風景が表紙に使われていたためです。「この中に光太郎の文章が載っているんだよなぁ」と思いつつ、見ました。しかし、キャプションが「12月14日」ではなく「2月14日」となっていたのには閉口しました。帰りがけにアンケートボックスがあったので指摘してきましたが、その後、訂正されたでしょうか。
 
東京駅の駅舎は、関東大震災や太平洋戦争など、100年の間に何度か危機を迎えたそうです。しかし、そのたび保存の動きが起こり、今に至っています。そして今回の改修では、さらに100年後を見据えての改修がなされたとのこと。すばらしいですね。
 
イメージ 1
 
こちらはステーションギャラリーさん内部の階段です。当時の煉瓦が残っており、重要文化財です。
 
100年後、当方はもうこの世にいませんが、「東京駅開業200年」と大きく取り上げられているのではないかと想像します。もっとも、100年後にも鉄道というものがあるのかどうか、なんともわかりかねますが。一方の光太郎智恵子。100年後にも「光太郎智恵子結婚200周年」、「『道程』200周年」と、取り上げられていてほしいものです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月29日
 
昭和33年(1958)の今日、画家・石井柏亭が歿しました。
 
石井は光太郎より一つ年長。病気のため中退しましたが、光太郎と同じ東京美術学校に通っていました。また、与謝野夫妻の新詩社や、「パンの会」で光太郎と親しく交わりました。
 
「日本初の印象派宣言」とも言われる、光太郎の有名な評論「緑色の太陽」(明治43年=1910)は、その国や地域に固有の色調(地方色)を重視すべしという石井の論に反駁する、という意味合いもあって書かれました。しかし、仲が悪かったというわけではありませんでした。
 
イメージ 2
 
上記は明治37年(1904)、上州赤城山でのショット。左から、大井蒼梧、与謝野鉄幹、伊上凡骨、光太郎、石井柏亭、平野万里です。
 
ちなみに柏亭の弟は彫刻家の鶴三。やはり光太郎と親炙しました。上記ステーションギャラリーの企画展に鶴三作の版画も展示されています。

岩手の地方紙、『岩手日日』さんの報道です。 

展示計画概要を説明 花巻市 光太郎記念館改修で (08/27)

 花巻市太田の高村光太郎記念館の展示改修に向けた市による2回目の説明会は25日夜、太田振興センターで開かれた。4月の説明会以降、市に寄せられた意見の検討結果を報告し、主に2014年度事業で進める展示改修の概要を説明した。

 地元の住民ら19人が参加。市生涯学習交流課が展示と施設改修の基本設計や周辺環境整備、運営方法に関わる40件余りの意見・要望への検討案を説明した。

 この中、研究者や学生が調べものをできるスペースを確保してほしいという要望に「事務室や休憩コーナーで対応する」として事務室を当初計画の約1・5倍に広げ、トイレの位置を移す設計変更を説明。高村山荘を望む窓の設置に関する要望には「建物の構造上、実現は困難」と理解を求めた。

 施設は、彫刻作品や映像中心の展示室1を「動」、作品解説と生涯を紹介する展示室2を「静」の空間とし、図書が閲覧できる休憩室、企画展示室も配置。展示室2は、山荘暮らしや県内著名人との関わりなど六つのゾーンで紹介する。

 山荘そばにある智恵子展望台への遊歩道の改修や駐車場舗装工事、屋外公衆トイレ改修、敷地内案内看板の設置のほか、15年度に予定する杉木立の伐採や詩碑前広場の改修案も説明した。

 参加者からは「開館日ごとの日付に合わせて光太郎の日記を紹介しては」「立木はどれを切るかでなく、どれを残すかの発想で取り組むべき」「山荘裏山の地滑り対策を」など貴重な意見や提案が相次いだ。

 細川祥市生涯学習部長は「地元の人たちの思いを大事に相談しながら進めたい」と語った。

 同記念館は、光太郎が晩年の7年間を過ごした高村山荘そばの旧記念館に代わり、近くの旧花巻歴史民俗資料館を活用して13年5月に暫定オープン。市は9月にも展示関係を発注し、10月から施設改修に入り、冬季は閉館して本格工事を進め、年度内の完了を目指す。
 
 
昨日発行の『広報はなまき』に関連情報が出るかと思って、ブログでの紹介を待っていましたが、ざっと見たところ、ありませんでした。
 
 
また、4月のこのブログで、その時点で公開されていた図面を載せましたが、より詳細な図面もPDFでアップされています。
 
イメージ 1
イメージ 2
イメージ 3
イメージ 4
イメージ 5
 
昨秋、施工業者のプロポーザルに委員として参加しましたが、その時点では、さっさと改修を済ませようという、いわば拙速に進める感がありました。しかし、その後、市長さんが替わり、このように住民のみなさんの意見も取り入れてじっくりやっていく方向に転換したとのことで、非常に素晴らしいと思います。これぞ民主主義ですね。
 
現在の記念館昨年5月仮オープンの段階でもかなり充実していますが、いまある展示室のさらに奥、かつて歴史民俗資料館だった頃に収蔵庫として使っていたスペースも第2展示室となるなど、さらに進化してゆきます。
 
ご期待下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月2日
 
昭和51年(1976)の今日、新橋演舞場にて「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」の夜の部で、北條秀司脚本「智恵子抄」が上演されました。
 
智恵子役は有馬稲子さん、光太郎役は今年の初めに亡くなった高橋昌也さんでした。
 
二本松出身の日本画家、故・大山忠作氏が、「智恵子に扮する有馬稲子像」としてこの際の有馬さんを描き、二本松駅前にある大山忠作美術館さんの目玉の一つとなっています。
 
イメージ 6
 
それが縁で、昨年は同館で有馬さんと、大山画伯のご長女、女優の一色采子さんとのトークショーが実現しましたし、さらにそれが縁で、一色さんは今年の連翹忌にご参加下さいました。
 
このようにして人と人との縁というものが広がって行くのですね。

最近、このブログでご紹介した企画展につき、報道がなされていますので、2件、ご紹介します。いずれも光太郎の名前が入っているものです。
 
まずは、金沢で開催中の「中村好文 小屋においでよ!」 について。 

暮らし、12平方メートルに凝縮 金沢で中村好文の「小屋」展

『朝日新聞』 2014年7月9日 無題
 
 人が暮らせる最小限の空間を追求した建築展「小屋においでよ!」が、金沢市の金沢21世紀美術館で開かれている。建築家の中村好文が寝食、調理、風呂、トイレの機能を12平方メートルに凝縮した。
 
 中村が作った「小屋」は、幅3メートル、奥行き4メートル。だが天井が3メートルと高いせいか、内部は広く感じる。間取りはワンルーム。居間の窓際にソファベッドが造り付けられ、寝室を兼ねている。右手奥に台所があり、勝手口に通じる。左手奥にはシャワーとトイレ。小さなクローゼットもある。
 
 中村は武蔵野美術大在学中から、住宅の設計に興味を持った。悪条件であるほど建築家の能力が問われると考え、いわゆる狭小住宅を好んで設計してきた。今回の作品は「建築というより営巣」。「小屋をテーマに住宅の本質をあぶり出したい」と話す。
 
 設計には、名作といわれる小屋を見てきた経験が生きている。建築家ル・コルビュジエの「休暇小屋」、詩人で彫刻家の高村光太郎が晩年に住んだ岩手県花巻の「山荘」。アメリカの文筆家ソローが「森の生活」で描いた小屋も参考にした。
 
 裏テーマは「エネルギー」だという。屋根に太陽光発電パネルをつけ、一つしかない電灯の電源を賄う仕組み。屋根の上の樽(たる)に雨水をため、シャワーは太陽熱で温めたタンクの水で、炊事は七輪の炭火で。「この家を見て、暮らしを考え直してもらうのが目的。質素で簡素な暮らしを『いいな』と思ってもらえれば」
 
 設計段階のスケッチや図面、ル・コルビュジエ、高村光太郎らの「名作小屋」の模型なども展示している。(安部美香子)
 
 
続いて、高岡市美術館の「メタルズ!-変容する金属の美-」展について。

金属の機能切り口に メタルズ!展-村上隆高岡市美術館長に聞く(下)

北日本新聞』 2014年7月8日003
 
■既成概念取り払う
 高岡市美術館で開かれている「メタルズ!-変容する金属の美」展は、全国の美術館や博物館が所蔵する古代から現代までの約100点の金属造形作品がそろう。企画・監修した村上隆高岡市美術館長がこだわったのは、その「見せ方」だ。時間軸にとらわれず、金属の機能性にスポットを当てた展示とし、これまでにない展覧会を実現させた。

 二条城に飾られていた国宝の釘隠(くぎかくし)、法隆寺伝来の重要文化財「金銅小幡(こんどうしょうばん)」、国内で唯一出土した金製の勾玉(まがたま)…。会場には、歴史的に価値が高い古代や中近世の名品が並ぶ。京都国立博物館学芸部長を務めていた村上館長のネットワークで、高岡に初めてこうした逸品が集うことになった。

 近現代の作品も、美術の教科書でおなじみの高村光太郎「手」や、芥川龍之介が「この首は生きている」と語った逸話が残る中原悌二郎「若きカフカス人」など、多様な作品がそろった。

 村上館長は「美術館、博物館という枠組みを取り払いたかった」と意図を説明する。一般的に、美術館は明治時代以降、博物館は明治以前の作品を展示するケースが多いが、そうした枠組みにとらわれると、金属の多様な美は紹介できない。目指したのは、既成概念に縛られない自由な展覧会だ。

 「お勉強の場にはしたくない」と、時代や年代別に並べることはせず「金属が持つ機能性を大事にして展示の構成を考えた」。金属は硬く強いだけでなく、独特の光沢があり、振動や熱を伝えるなどの特性を持つ。企画展会場の三つの展示室のうち、古代から近代までの金属造形を集めた第2室は「飾り」「響き」「器」など機能別に並べた。

 近現代の作品は機能ではくくりにくいため、第1室に工芸作品と具象彫刻、第3室は抽象的な造形作品を集めた。「時代とともに、金属は道具だけでなく自己表現の素材として用いられるようになる。機能で分けられなくなるのは当然」とし、それぞれの展示室の中で見せ方を工夫した。

 日本の金属造形史を美術館的な手法で俯瞰(ふかん)する「メタルズ!」展は、金工のまち・高岡を出発点に全国4市を巡回する。村上館長は「日本人の生活の中で、金属造形がどういう意味合いを持ってきたかを見てもらう場。新たな発想を生むためにも、いろんな見方をしてほしい」と語った。■第1室「二度楽しめる空間」
 村上隆館長が「メタルズ!」展の展示で最も苦労したのは、近現代の工芸作品と具象彫刻を集めた第1室だ。

 工芸は、伝統的な金工技術を踏襲しつつ新しい方向性を追求した作品群。芸術表現の素材として金属を用いた彫刻とは、性質が全く異なる。村上館長は「両者のせめぎ合いを目の当たりにし、本当に悩んだ」と振り返る。

 そこで考えたのが、二つの世界の良さを生かす展示。壁面のガラスケース内には工芸作品を並べ、中央の開けたスペースに彫刻を展示した。

 彫刻は、村上炳人(へいじん)「つめこまれたちえぶくろ」を中心に、12点を円形に配置した。時計や十二支を意識したという。にらみ合うネコ(朝倉文夫「眈々(たんたん)」)とカラス(柳原義達「道標 鴉(からす)」)など、それぞれの作品の目線の先も意識して鑑賞すると面白い。中央の「つめこまれたちえぶくろ」は正面がない全方位的な作品で、磨き上げられた金属部分が周囲の作品を映し出す効果もある。

 村上館長は「一つの空間で2度楽しめる展示になったと思う。ぜひ足を運んで展示の秘密を読み解いてほしい」と話した。(高岡支社編集部・荒木佑子)

 「メタルズ!」展は8月31日まで。高岡市美術館開館20周年・北日本新聞創刊130周年記念。高岡の後、碧南市藤井達吉現代美術館(愛知)、北九州市立自然史・歴史博物館(福岡)、新潟市新津美術館(新潟)を巡回する。
 
ところで、また見落とすところでしたが、「メタルズ」展、昨年、「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展を開催した、愛知碧南藤井達吉現代美術館にも巡回されるのですね。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月11日
 
明治28年(1895)の今日、光雲が、京都で行われた第四回内国勧業博覧会に木彫「氷室翁」を出品し、妙技二等賞、「天鹿馴兎」「睡猫置物」で妙技三等賞を受賞しました。

石川は金沢より、先月から開催されている企画展情報です。 

中村好文 小屋においでよ!

会  : 金沢21世紀美術館 石川県金沢市広坂1丁目2番1号
会  : 2014年4月26日(土) - 8月31日(日)  10:00〜18:00 (金・土曜は20:00まで)
料 金 : 無料
 
概要 (公式サイトから)
建築家・中村好文は、長年にわたってクライアントの暮らしに寄り添った普段着のように居心地のいい住宅をつくってきました。この展覧会は、中村が子供のころから心奪われ、同時に「住宅の原型」として位置づけてきた小屋に関する考察と展示を通じて「住宅とはなにか?」を問い直す企画です。会場は「長期インスタレーションルーム」と「光庭」ですが、光庭には、エネルギー自給自足を目指すひとり暮らし用の小屋「Hanem Hut」を原寸サイズで展示いたします。
3.11以降、エネルギー問題や環境汚染の問題は、ますます避けて通ることのできない重要なテーマとなってきています。この小屋の展覧会が、そうした問題解決への糸口となり、提案となることを願ってやみません。
 
関連書籍 『中村好文 小屋から家へ』 TOTO出版、2013年
 
イメージ 1
 
昨年、乃木坂のTOTOギャラリー・間(ま)さんで開催された企画展の地方巡回です。古今東西の小屋の中から「7つの名作」を紹介するコーナーがあり、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋(高村山荘)も含まれています。 
 
先月から始まっているのですが、つい最近知りました。和歌山の田辺市立美術館で開催中の「宮澤賢治・詩と絵の宇宙 雨ニモマケズの心」同様、知ったのが遅く、面目ありません。
 
さて、知ったのが遅く、関連行事がいくつか終わってしまっていますが、これから開催されるもののみご紹介します。
 
つのだたかし「小屋に捧げるリュートの夕べ」
 日時:5月31日(土)19:00~20:00
 会場:金沢21世紀美術館光庭(雨天の場合、館内別会場)
 参加費:無料
 
「職人衆、Hanem Hutを語る」
 日時:6月14日(土)14:00~16:00(開場13:45)
 会場:金沢21世紀美術館レクチャーホール
 定員:先着80名(予約不要)
 参加費:無料

中村好文×皆川明対談「小屋から学ぶこと」
 日時:8月2日(土)14:00~16:00(開場13:45)
 会場:金沢21世紀美術館シアター21
 定員:180名
 チケット料金:1,000円
 チケット取扱: 金沢21世紀美術館ミュージアムショップ  TEL 076-236-6072
 
「Hanem Hut」内部公開 光庭に展示する「Hanem Hut」の内部を限定公開します。(予約制)
 公開日時:毎週土日 14:00〜18:00
 予約方法:当日13:00より、「Hanem Hut」のある光庭にて予約を受け付けます。
 ※天候等の事情で公開できない場合もございます。あらかじめご了承ください。
 
 
今回の「小屋においでよ!」は、たまたま中村氏のインタビューをネットで見つけて知りました。「高村光太郎」の語が入っていたので検索の網にひっかかりました。
 
毎日、「高村光太郎」「高村光雲」「智恵子抄」等のキーワードでネット上の新着情報を渉猟していますが、限界があります。美術館・文学館などの企画展の地方巡回(特に関東以外)に関する情報収集が今ひとつできていません。何かこの手の情報をうまくゲットできる(キーワード検索などで)いいサイトなどがあれば、ご教示いただけると幸いです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月27日

大正14年(1925)の今日、『東京日日新聞』に、談話筆記「悪趣味を排す」、さらに「自筆」カット「自画像」が掲載されました。
 
これを受けて5月30日に詩人の田内静三にあてた書簡が伝わっています。
 
此間の日日新聞のには全く閉口しました。 画は鉛筆でかいたものをペンか何かでなぞったらしく、記事は記者が勝手に書き上げて意味の正反対の事さへ書いてありました。友達ならば分かるでせうが、甚だ迷惑なものですね。取消正誤を出す程の事でもなし、尚更困ります。
 
こういうケースがあるので注意が必要ですね。

4月2日は高村光太郎の命日でした。
 
東京日比谷松本楼様では、第58回連翹忌を開催し、多くの方にスピーチを頂き、花巻の財団法人高村記念会・高橋卓也さんにもお願いしました。
 
昨年の高村光太郎記念館のプレオープンについて、さらに今年度のさらなる改修計画等についてのお話を頂きました。
 
地元岩手の地方紙、『岩手日日』さんにも記念館改修についての記事が出ています。 

本格オープンに向け改修 高村光太郎記念館(4/05)

 花巻市は、同市太田に2013年5月にプレオープンした高村光太郎記念館の改修を14年度、計画している。晩年を花巻で過ごした詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)を顕彰する唯一の施設として展示内容の充実を図る狙い。15日夜に地元で市民説明会を開き、意見を設計に反映させる。
 同記念館は、光太郎が7年間過ごした小屋「高村山荘」を挟んだ東方の旧花巻歴史民俗資料館を活用した。財団法人高村記念会が運営していた高村記念館の老朽化などに伴い、生誕130年に合わせて昨春、暫定オープン。疎開70年に当たる15年度の本格オープンに向けて、併設する収蔵庫や周辺環境を含めた全体整備を今年度に進める計画。
 改修案では、入館してすぐのスペースを第1展示室としてブロンズ像などを自然との関わりの中で展示。奥の収蔵庫は、作品の劣化を防ぐため左側を第2展示室にして文芸や書画を中心に光太郎の人生と関連付けて紹介。右側は企画展室と、常設展の入れ替え資料などを保管する収蔵室とする計画。
 今年度当初予算に同記念館改修と周辺施設改修として駐車場の舗装やトイレ、遊歩道の改修を合わせ約1億7500万円を計上。市民の意見を取りまとめて設計後、夏ごろをめどに工事着手し、12月から来年3月までは休館にして本格的な改修工事を進めたい考え。
 旧記念館は冬季休館したが、新記念館は通年開館し、初年度入館者数は1万2688人。うち昨年12~3月の冬季4カ月間は1245人だった。温泉客や市内の観光施設を巡る「あったかいなはん花巻号」での立ち寄りが多いという。
 市では、15日午後6時30分から太田振興センターで市民説明会を開いて住民の意見を聞くほか、17~23日(土日除く)には市役所本庁舎市生涯学習交流課でも随時受け付ける。
 
また、市の広報紙『広報はなまき』でも。 

宮沢賢治記念館と高村光太郎記念館 より充実した施設を目指して

  昨年5月、高村山荘近くに新たに市の施設としてプレオープンした高村光太郎記念館。晩年を花巻で過ごした高村光太郎を顕彰し、彫刻家や詩人などとして活躍した功績を広く紹介するため、日本に唯一の高村光太郎の記念館として市内外から多くの方が訪れる施設を目指しています。改修の設計に当たっては、関係者の意見を伺いながら進めてきましたが、さらに市民の皆さんの意見を伺い、設計に反映させたいと考えています。
 今回の改修では、来館者の利便向上のため新たに休憩室を設けるほか、トイレの改修やバリアフリーにも配慮します。また作品保護の観点から収蔵室を備え、展示室は次のように考えています。
▽光太郎の根底にある自然賛歌、自然との共生の姿勢を、光太郎のブロンズ像作品を自然と融和させる演出により表現する『展示室1』
▽光太郎の歩み、苦悩、思想などを背景に生み出された作品の紹介を通して人間・高村光太郎と作品を紹介する『展示室2』
 展示室2は、次の六つのゾーンに分けて展示します。
①東京からみちのく花巻へ②地上のメトロポール(「文化の中心地」の意)を求めて③書の深淵④岩手の人⑤賢治を生みき 我を招きき⑥光太郎六つの面
▽常設展だけでは伝えきれない光太郎を伝える『企画展示室』
ご意見をお聞かせ下さい
■市民説明会
 市民の皆さんの意見を伺い設計に反映させるため、市民説明会を開催します。お気軽に参加下さい・
●高村光太郎記念館改修説明会
【日時】4月15日(火)、午後6時30分
【会場】太田振興センター大広間
■市民の意見をお聞きする期間
 市民説明会に参加できなかった方のために、次のとおり意見を伺います。お気軽にお越しください。
【日時】4月17日(木)~23日(水)、午前9時~正午、午後1時~5時(土日を除く)
【会場】高村光太郎記念館改修について 市役所本庁舎2階生涯学習交流課
 
イメージ 1
 
花巻市では、今年1月の選挙で新市長が誕生し、それに伴って市の組織等が改編されたりしました。市の事業についてもずいぶん風通しがよくなったようです。詳しい情報が入りましたらまたご紹介します。
 
なお、高村記念会高橋様からは、5月15日(木)の高村祭についても情報のご提供がありました。今年は記念講演で、光太郎と交流のあった彫刻家、故・舟越保武氏のご息女、末盛千枝子さんにいらしていただくとのこと。

末盛さんは昨冬、東京代官山のクラブヒルサイドさん主催の読書会「少女は本を読んで大人になる」で講師を務められ、当方も拝聴して参りました。「千枝子」というお名前は光太郎が名付け親とのこと。また興味深いお話が聴けるものと思います。こちらも詳しい情報が入りましたらまたご紹介します。

 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月7日000

平成4年(1992)の今日、大阪市立美術館で「天理秘蔵名品展」が開幕しました。
 
天理大学附属天理図書館、同天理参考館の収蔵品が300点余り展示され、「近代作家の原稿」のコーナーに光太郎の詩「カフエ、ライオンにて」の草稿が並びました。
 
この詩は大正2年(1913)3月、雑誌『趣味』に掲載され、翌年刊行の詩集『道程』にも収録されました。
 
カフェ・ライオンは現在も続く銀座のビヤホール・ライオンの前身です。 
 
 
 

昨日、光太郎が足かけ8年暮らした花巻にある大沢温泉さんについて書きました。今日も関連するネタで行きます。

まず、大沢温泉さんの公式ブログから引用させていただきます。

高村光太郎ゆかりの温泉!

先日、5月15日高村祭がありました。今年は生誕130年ということで、新たに「高村光太郎記念館」が開館しました。
特別講演には女優の「渡辺えり」さんを迎えてのイベントもありました。

大沢温泉は高村光太郎ゆかりの温泉として知られており、山水閣の「牡丹の間」は高村光太郎が宿泊の際には必ずご指定されていたというお部屋です!現在は建て直しましたので復元した形となってますが・・・

そして今年の高村祭の特別講演渡辺えりさんに直筆の書を頂戴いたしました!
お忙しい中ありがとうございます!
館内に展示したいと思います!
 
イメージ 1
 




先月の高村祭の折、記念講演をなさった渡辺えりさん。牡丹の間にご宿泊でした。以前、お父様が高村祭記念講演をなさった際にも牡丹の間にお泊まりになったとのこと。現在、牡丹の間の床の間にはお父様の書かれた色紙が飾られています。
 
そのあたり、渡辺さんのブログに書かれています。さらに高村祭翌日の花巻市文化会館での講演会についても。
 
光太郎が暮らした小屋・高村山荘に隣接する高村記念館さん。リニューアルされて1ヶ月たちました。その後、現地の状況がどうなのか-閑古鳥が鳴いていないかなど-気にかかるところです。来週、また行って参ります。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月20日

昭和16年(1941)の今日、16日から開かれ、委員として出席していた大政翼賛会第一回中央協力会議が最終日を迎えました。
 
光太郎は18日の教育文化に関する第六分科会で第185号議案として「芸術による国威宣揚について」と題し、提案しています。

来週、また花巻に出向くつもりで居ります。
 
そこで、定宿にしている大沢温泉さんで宿を取ろうと思い、ネットでアクセスしました。すると、以下のページが。

宿泊プラン大沢温泉 山水閣 【期間限定】高村光太郎ゆかりの部屋に泊ろう!

部屋タイプ 和室 高村光太郎が愛用した 「牡丹の間」 トイレ付 ※バスなし
高村光太郎が愛用したお部屋を復元したものです。
10畳+6畳+3畳でさらに広縁があり非常にゆったりとしています。
光太郎の書画などあり、当時のままを復元しておりますのでクラシックな感じのお部屋です。
お部屋からは渓流「豊沢川」と四季折々の山々の景色を楽しむことができます。
洗浄器付きトイレ/冷・暖房/金庫/冷蔵庫(持ち込み可能)
 
[ プラン内容 ]
いつもと違った雰囲気を楽しみたい方おすすめ!10畳+6畳+3畳の3間つづきでゆったりくつろげる山水閣に1部屋しかないお部屋。高村光太郎が来館の際にはいつもご指名でご利用いただいていたお部屋を移転復元した記念のお部屋です。新館1階の一番奥にあり離れの様な佇まいの特別室となっております。

今回期間限定につき通常価格から1,575円(税込)引きで販売させていただきます。

豊沢川や四季折々の対岸の景色を堪能でき、高村光太郎お気に入りだったお部屋であなたも芸術家の気分となって過ごしてみませんか?

ご夕食はゆっくり過ごすお部屋食!
お食事は花巻産プラチナポーク(白金豚)を含め月替わりの会席膳 全11品
(4名様までお部屋にお持ちします。5名様以上はお客様だけの個室宴会場でのお食事となります。他のお客様とは一緒になりません)
朝は 朝食会場「松風」にて7:00~9:00までの和洋のバイキングとなります。

由来となった「牡丹」(絵画)は高村光太郎の作品でお部屋の入口にレプリカですが飾ってあります。
また、新築の際復元するにあたり当時の木材や格子などそのまま使用しておりますのでクラシックな感じのお部屋となっております。


大沢温泉さんは、通常の温泉旅館的な「山水閣」、主に長期滞在の湯治客用の「自炊部」、築160年の離れ「菊水館」の三つに分かれています(当方、菊水館を定宿としております)。経営は一緒のようで、サイトのトップページは同じです。
で、山水閣のいわばスイートルームに当たるのが「牡丹の間」。建物自体は近代的にリニューアルされていますが、この部屋は昔、光太郎がよく泊まっていた部屋の部材や調度を随所に使い、当時の面影を残しています。当方、泊まったことはありませんが、中には入ったことがあります。
その部屋が、期間限定プラントいうことで、安くなっているそうです。
とはいってもやはりそこそこの値段ですので、今回も当方は料金の安い菊水館に泊まります。こちらも光太郎が泊まったことがあり、さらに当時の建物のままです。ただ、どの部屋に泊まったのかは定かではありません。
イメージ 1

イメージ 2
菊水館
 
イメージ 3
左奥が山水閣・右手が自炊部
 
イメージ 4
混浴露天風呂・大沢の湯(3館共通)
 
さて、山水閣のプラン「【期間限定】高村光太郎ゆかりの部屋に泊ろう!」。これから花巻にご宿泊予定の方、ぜひご検討ください。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月19日

明治40年(1907)の今日、ニューヨークからイギリスに向け、ホワイトスターラインの豪華客船「オーシヤニック」に乗って、大西洋に出港しました。

乃木坂のTOTOギャラリーで開催中の「中村好文展 小屋においでよ!」。
 
花巻郊外旧太田村山口地区に光太郎が暮らした小屋・高村山荘について取り上げています。企画展会期は6/22(土)までです。
 
イメージ 1
 
リンクして刊行された、中村氏の著書『小屋から家へ』。
 
「毎日新聞」さんに関連する記事が載りました。

読書日記:著者のことば 中村好文さん

2013年06月11日 東京夕刊
 ■中村好文 小屋から家へ(TOTO出版、2310円)
 
 ◇「不便で粗末」から学ぶ
 普段着のように居心地がいい住宅を手掛けて30年。建築家であり、世界の名建築や旅に関するエッセーでも知られる筆者が今回テーマに選んだのは「小屋」。鴨長明や彫刻家の高村光太郎、建築家のル・コルビュジエら、著名人ゆかりの小屋を文章や自筆のイラストで解説。「住まいの原型」だと考える素朴な魅力に焦点を当てた。
 「家との違いを聞かれると難しい。私が考える小屋の条件は狭いこと。間取りで言えばワンルーム。質素な素材で造られているのもポイントです」
 異色なものとしては1962年、太平洋横断の単独航海に成功した堀江謙一さんのヨット「マーメイド号」が登場する。「洋上の小屋。子供の時からあこがれた」。米国の博物館に保存されていると知り、交渉して内部を見学させてもらった。マーメイド号に搭載された食料や日常品を、詳細に描いたイラストが楽しい。
 「小屋好き」は年季が入っている。幼い時にはミシンの台を新聞紙で覆って自分用の「巣」を作り、大人になると国内外の有名無名の小屋を見て歩いた。
 8年前には長野県に、自分や事務所のスタッフが過ごすための小屋を構えた。ガスや水道はなし。たるにためた雨水を風呂に使い、料理は炭火を入れた七輪で。五感をフル稼働させて暮らすうち<生活の知恵がじわりじわりとわき出してくる>。便利さが人間の能力を退化させることに気付くくだりは説得力がある。
 自身が設計した小屋や小住宅も本書で紹介。家と住み手の個性が重なった爽やかな暮らしが浮かぶ。
 本書は元々、東京・乃木坂「TOTOギャラリー・間」で22日まで開催する中村さんの個展に合わせて企画された。会場で注目されているのは原寸大で造られた「ひとり暮らしの小屋」。記者が訪れた日も、中に入ってじっくりと見て回る人が目に付いた。
 「自分と心静かに向き合える場所。小屋にはそんな良さがあると思う。だからこそ、忙しい現代人に魅力的に映るのかもしれません。家は住む人の精神が表れるもの。不便で粗末な小屋暮らしから私たちが学べることは多いのです」


 
【今日は何の日・光太郎】 6月13日

大正3年(1914)の今日、作品を出品していた三笠会主催の「第一回歌箋展覧会」が閉幕しました。
 
……という内容が『高村光太郎全集』別巻の年譜に記載されているのですが、詳細がはっきりしません。三笠会とは何なのか、会場はどこだったのか(おそらく東京だとは思いますが)、などなど。有名な銀座のレストラン・三笠会館が出来るのはもっと後ですし。
 
ただ、翌月一日から十日まで、京都寺町通竹屋町南入の佐々木文具店芸術品展覧会場で同じ「歌箋展覧会」が開かれており、どうも巡回展だったようです。
 
京都展については主催の佐々木文具店が発行した『睡蓮』という小冊子で概要がわかります。それによれば、光太郎他27名の文学者の短歌・俳句が出展されています。『睡蓮』は、それらを活字で載せています。ちなみに『高村光太郎全集』未収録の短歌・俳句がかなり載っており、これを入手したときは快哉を叫びました。ただし、文庫本より小さい28ページの小冊子で4万いくらという値段でした。

001000000

 しかし、「歌箋」がどういう状態のものなのか(便箋のようなものか、あるいはよくある短冊や色紙、扇面の類か)、出品作が27名の自筆なのかなどはやはり不明です。
 
さらに佐々木文具店についても詳細なことがわかりません。
 
「歌箋展覧会」「三笠会」「佐々木文具店」について情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。
 
ただ、国会図書館に所蔵されている当時の新聞のデータを調べたところ、6月の東京?での「歌箋展覧会」を報じた記事があるようですので、近いうちに行って調べてみようと思っています。 
 
イメージ 5
 

昨日は、乃木坂のTOTOギャラリー・間(ま)に行き、こちらで開催中の「中村好文展 小屋においでよ!」を観て参りました。
 
中村好文氏は建築家、TOTOさんは住宅設備機器メーカーとして有名ですね。
 
イメージ 4
 
まず、3階の第一会場に入ると、小屋の形をしたブースが7つ。子どもの頃、近所の空き地に友達と作った「秘密基地」を彷彿とさせ、これだけでワクワクしました。それぞれのブースで、中村氏があこがれ影響を受けてきた古今東西の7つの「小屋」をひとつずつ紹介しています。
 
イメージ 5   イメージ 6
  
そのうちの一つが「高村光太郎の小屋」。光太郎が昭和20年(1945)から27年(1952)までを過ごした花巻郊外の高村山荘です。
 
イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9
 
中に入ると、中村氏による小屋の解説文、図面、イラスト、そして阿部徹雄撮影の小屋内部の写真がパネルで貼り付けられています。さらに、昭和28年(1953)、ブリヂストン美術館作成の美術映画「高村光太郎」(おそらく現存する唯一の光太郎本人が写っている動画)から、小屋に関わる部分の抜粋がモニタで放映されていました。
 
イメージ 1
 
他には「鴨長明の方丈」、「H・D・ソローの小屋」、「猪谷六合雄の小屋」、「立原道造のヒアシンスハウス」、「堀江謙一のマーメイド号」、「ル・コルビジェの休暇小屋」。その紹介の仕方も均一でなく、それぞれに工夫がされていて面白いと感じました。
 
中庭にはこの企画展のために作られた、理想の小屋「Hanem Hut」。
 
イメージ 2

イメージ 3
 
さらに4階の第二会場では、かつて中村氏が設計制作したさまざまな小屋の紹介も。
 
近年足を運んだ中でもトップクラスの非常に面白い企画展でした。それだけ面白い上に入場無料、写真撮影可。申し訳ない気さえしますので、ここでガンガン宣伝いたします。
 
さて、この企画展とリンクして刊行された中村氏の著書『小屋から家へ』。
 
その中に中村氏と、ファッションデザイナーの皆川明氏の対談が収められており、光太郎の小屋にからめて次の一節があります。
 
中村 僕は、小屋的な建物を見たり、そこに入ったりすると、「こういう場所こそが人のすまいの原型なんだ」という想いに取りつかれてしまうんです。おもに住宅の設計をしているので、無意識のうちに「住宅ってなんだろう?」ということをいつも考えているらしく、魅力的な小屋を見かけたり、足を踏み入れたりすると、その問いかけに対してひとつの答えを得た気がするんです。
 
皆川 なるほど。たとえばどんなときに感じました?
 
中村 岩手県の花巻に、高村光太郎がひとり暮らしをしていた小屋が残っていて、それこそ粗末な小屋なんですけど、「人の暮らしの気配のようなもの」がひしひしと感じられます。必要最低限のものしかない暮らしぶりがとてもいさぎよく感じられ、「これでいいじゃないか、これで十分じゃないか」と納得してしまうのです。小屋の定義のひとつに、「すまいの原型が見えること」という項目を加えてもいいかもしれません。
 
皆川 その感じ、よくわかります。小屋の空間の中には最低限の必要なものだけが納まっているということで、余計にそういう気分になれそうな気がしますね。
 
中村 モノが少ないと、そこに日常生活だけでなく、精神生活が入り込む余地があるってことかな。実際問題として、床面積に限りがあると持ち込めるものも決まってきてしまうので、自分にとって本当に必要なものはなんなのか? と考えることを、建物のほうから要求されるということはありますね。
 
さて、「中村好文展 小屋においでよ!」は乃木坂のTOTOギャラリー・間(ま)を会場に、6月22日まで。ぜひ足をお運びください。ついでに花巻郊外の光太郎が暮らした高村山荘自体にも。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月6日

昭和46年(1971)の今日、「高村光太郎詩の会」会報77号(最終号)が発行されました。
 
同会は光太郎と交流のあった詩人・風間光作が主宰し、昭和38年(1963)に結成されました。
 
その後、明治大学や東邦大学などで講師を務められた故・請川利夫氏に運営が移り、「高村光太郎研究会」と改称、年に一度、研究発表会を行っています。現在の主宰は都立高校教諭の野末明氏です。当方も加入しております。
 
光太郎・智恵子について研究したい、という方は是非ご参加ください。ご連絡いただければ仲介いたします。

新刊を取り寄せました。
 
建築家の中村好文さんの著書で、『小屋から家へ』。2013/4/16、TOTO出版、定価2200円+税です。
 
イメージ 1
 
同社のサイトから。
 
本書のテーマは「小屋」。「人のすまいの原型は小屋にある」と考える中村氏が手がけてきた極小の小屋から、小屋の面影を宿した小住宅まで12作品を、雨宮秀也氏の撮り下ろしの写真で紹介します。

また、「古今東西 意中の小屋たち」と題して、中村氏が長年魅了され続けてきた「7つの小屋」を巻頭に紹介します。旅好きの建築家としても知られる中村氏が訪ね歩いてきた世界中の小屋から厳選された「ル・コルビュジエの休暇小屋」など実在する小屋から、「鴨長明の方丈」など歴史上の小屋まで、氏が愛してやまない7つの小屋を通して、小屋の魅力を解き明かします。
 
この「7つの小屋」のうちの一つが、花巻郊外の光太郎が7年暮らした高村光太郎山荘。写真や1/75の図面入りで4ページにわたって紹介されています。
 
イメージ 2

イメージ 3
 
写真は写真家の阿部徹雄(大3~平19)の撮影。昭和26年(1951)に『サン写真新聞』という雑誌に阿部による光太郎訪問記事が掲載され、そのために撮影されたものです。
 
『サン写真新聞』に掲載されなかったものを含め、写真の原板と光太郎からの書簡4通が平成22年に阿部氏の子息宅で見つかり、『岩手日報』で報じられました。その後、ご子息の厚意で、大伸ばしされた写真が花巻の高村光太郎記念会に寄贈され、現在、山荘に飾られています。当方の元にもメールで送っていただきました。
 
この手の山荘内部が大きく写っている写真は珍しく、また、それが掲載されている書籍もあまりありません。是非お買い求めください。
 
また、「7つの小屋」のうち、他に光太郎と交流のあったスキーヤー・猪谷六合雄が群馬の赤城山に建てた小屋も紹介されています。猪谷の実家は赤城山の猪谷旅館。たびたび光太郎が訪れたところで、猪谷の名は光太郎日記にも記されていますし、明治37年(1904)に光太郎が描いたスケッチ帳が『赤城画帖』として昭和31年(1956)に刊行された際、その解説を書いているのが猪谷です。
 
さて、乃木坂の建築・デザイン専門ギャラリー「TOTOギャラリー・間」において、著者の中村好文氏の個展「小屋においでよ!」が開催中です。
 
『小屋から家へ』の出版とリンクしているようで、3階の第1会場では「7つの小屋」の紹介、中庭には中村氏が設計した原寸大の「ひとり暮らし用」の小屋が展示されているとのことです。そこには光太郎山荘のエッセンスも取り入れられているのではないでしょうか。
 
暇を見つけて行ってこようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】5月9日

大正7年(1918)の今日、智恵子の父・長沼今朝吉が歿しました。

これを機に、素封家だった長沼家は没落の道を歩み始めます。

BS朝日の番組「百年名家」を見て、千駄木の光太郎アトリエが空襲で焼け落ちた時のエピソードを思い出しましたので紹介します。
 
6/25のブログで紹介した『爆笑問題の日曜サンデー 27人の証言』に掲載された元日本詩人クラブ会長の寺田弘氏による「証言」です。

イメージ 1
 
 
 空襲で高村光太郎さんの家が焼けたときに、一番最初に駆け付けたのが私なんです。二階の方が燃えていて、誰もいないんです。その二階の燃えていた場所が智恵子さんの居間だったんですけど、そこから炎がどんどん燃えだして、それを高村光太郎さんは、畑の路地のところで、じっと見つめてたんですよね。
 そして、「自分の家が燃えるってのはきれいなもんだね、寺田くん」って。これには驚きましたね。その翌日、焼け跡の後片付けをやっていたら、香の匂いがしたんですよ。高村さんが「ああ、智恵子の伽羅が燃えている」って、非常に懐かしそうに立ち止まったのが、印象的でしたね。
 
それに対する爆笑問題のお二人のコメント。
 
田中 自分の家が燃えているのに。
太田 きれいだねって。
田中 なかなかね、そんなこと言えないじゃないですか。
太田 これは言えないよ。言えないっていうか、ちょっと狂気ですよね。なんでもそうやって芸術家
っていうのはさ。表現者っていう職業はどんなことでもそうやってとらえますよね。ああこれはきれい だとかなんだとかって言ってる場合じゃねえんだ、馬鹿野郎ってことですよね。
田中 まあ、どうなんですかね。思い出の家とか、本当はもっとすごい思いをしてるんでしょうけど。空襲ですもんね。でもそんなときに、そこで、こう言ってしまうという。
太田 言ってしまうというか、本気で感じちゃうところに問題があるんですよ。やっぱりこういう表現者ってどこか異常ですからね。だから普通の生活はできないですよね、こういう人たちは。特にこの 時代の文壇の人たちってのはみんなそうでしょうけどね。
 
当方、焼け落ちるアトリエを見つめる光太郎の姿に、芥川龍之介作「地獄変」の主人公、絵師・良秀の姿が重なります。

ところで『爆笑問題の日曜サンデー 27人の証言』、売れているのでしょうか? 当方の「証言」も掲載されているので気に掛かります。少し前、近所の書店では新刊コーナーに1冊置いてありましたし、高速バスのターミナルがあるので時々立ち寄る浜松町の書店では平積みになっていましたが。

さて、千駄木。予想通り「若大将のゆうゆう散歩 千駄木(後半)」も再放送されるようです。 

若大将のゆうゆう散歩 「千駄木(後半)」

BS朝日  2012年10月23日(火) 17時25分~18時00分
 
今日は昨日にひき続き文京区「千駄木」をお散歩 ▽日本では数少ないレースドール作家の繊細な技 ▽伝統技術でつくる木製風呂桶の父娘職人

番組概要
さあ、若大将と一緒に街に出ませんか?散歩の楽しみ方、お勧めコースをお茶の間に紹介するこの番組。好奇心旺盛な加山さんは永遠の少年。目をキラキラ輝かせながら、街の息づかい、人とのふれあいを体験します。

出演者    加山雄三、生稲晃子、佐分千恵(テレビ朝日アナウンサー)

ぜひ御覧下さい。

福岡に行っている間に録画予約をしておいたテレビ放映を見ました。
 
BS朝日の「百年名家 東京 根津・千駄木~文豪の愛」です。最初に今年11月にオープンする森鷗外記念館の前でのロケ。その後、根津・千駄木は文豪が多く暮らした街だということで、漱石の旧居跡の碑や、宮本百合子旧宅跡の案内板にまじり、光太郎アトリエ跡や青鞜社発祥の地の案内板が映りました。
 
その後はこの一角に残る古い邸宅、店舗からのレポート。メインは若い頃の光太郎が暮らし、後に光太郎の弟、豊周が跡を継いで現在に至る高村家の隣に建つ旧安田楠雄邸でした。大正浪漫あふれる室内の造作、調度に感心いたしました。こちらは公益財団法人・日本ナショナルトラストに寄贈され、一般公開されています。来月に鷗外記念館がオープンしたら併せて行ってみようと思いました。
 
それにしても、指呼の距離にあった光太郎のアトリエは戦災で炎上してしまったのに、こちらは無事だったというのが何よりです(お隣の高村家も無事でした)。
 
東京という街、むろん大都会ですが、実は下手な地方都市よりずっと緑が多い街です。この千駄木近辺などもそうです。数十年前、光太郎や智恵子がここを歩いていたことに思いをはせながら散策してみませんか?
 
そうそう、こんな番組も放送されます。 

2012年10月22日(月) 17時25分~18時00分
 
今日は文京区「千駄木」をお散歩 ▽懐かしいあめ細工の実演販売に加山さん感激! ▽人情味あふれる商店街散策

番組概要
さあ、若大将と一緒に街に出ませんか?散歩の楽しみ方、お勧めコースをお茶の間に紹介するこの番組。好奇心旺盛な加山さんは永遠の少年。目をキラキラ輝かせながら、街の息づかい、人とのふれあいを体験します。

出演者 加山雄三、生稲晃子、佐分千恵(テレビ朝日アナウンサー)


005

 
地上波で今月初めにオンエアがあったのですが、気がつきませんでした。BSでの再放送です。「千駄木(後半)」も放映してほしいものです。

テレビ放映の情報です。気がつくのが遅れ、紹介が遅くなってしまいました。 

百年名家 「東京 根津・千駄木~文豪の愛したお屋敷町~」

 BS朝日1 2012年10月14日(日) 12時00分~12時55分 の放送内容
 
「谷根千(やねせん)」と呼ばれ、親しまれる谷中、根津、千駄木地区。夏目漱石や森鴎外などが居を構え、文豪たちに愛された閑静なお屋敷町を八嶋さんと本上さんが巡ります。

番組内容

最初に訪れたのは千駄木の洋館。ステンドグラスには、当時の社会情勢を反映した戦闘機と戦艦が描かれている。また、女中さんの呼び出し装置など様々な工夫も。そんな邸宅の収納を整理していると意外なものを発見。次に向かったのは、大正8年建築の大邸宅。在来建築技術と西洋技術を融合して建てられた。戦時中の空襲にも焼け残ったこの家にあったのは、なんと防空壕。その入口は、何とも意外な場所に隠されていた。最後に、根津の料理店を訪ねる。文化庁指定登録有形文化財の店内中央には、なんと築百年を超える土蔵が残されていた。新旧の混ざり合った贅沢な空間で、大都会に息づく歴史の重さに心を打たれる二人だった。

番組概要

百年名家~築100年の家を訪ねる旅~▽築100年以上の家屋を訪ね、そこに暮らす家族や街の様子を紹介。今も息づく伝統的な家と生活を守り続ける人々に触れ、生きるヒントや豊かな生活を送るための知恵を探します

出演者

八嶋智人、本上まなみ
 
003


この番組、昨年、震災直前に当方の住まう香取市でロケを行い、追加で震災後の惨状を交えて放送されました。それ以来、親しみを感じている番組です。
 
今回の注目は、番組内容の中にある「大正8年建築の大邸宅」。旧安田楠雄邸というところで、安田財閥に関わります。この家、通称「155番地」=高村家(光太郎実家)のお隣です。そんなわけで、平成21年にはここで「となりの高村さん展」という一風変わった展覧会が開かれました。
 
今回も高村家に関して触れられることを期待します。
 
★第一部『愛ガ咲ク コンサート』
 第二部『智恵子抄』(高村光太郎への愛を一生貫き、罵り、叫び、崩れていった、女の半世)

を観に行って参ります。
 
そこで、「百年名家」は録画予約して出かけます。

↑このページのトップヘ