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一昨日から昨日にかけ、福島浜通り相双地域に行っておりました。

当会の祖・草野心平を顕彰する川内村での「第6回天山・心平の会 かえる忌」、及びいわき市の草野心平生家での没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会」出席のためでしたが、他にも足をのばして参りました。

まずは、圏央道、常磐道と乗り継ぎ、川内村へ行くには常磐富岡インターで下りますが、一つ先の浪江インターまで行って、南相馬市南部の小高地区を目指しました。

そのあたり、今年の7月になって、ようやく原発事故からの避難指示が解除された区域です。しかし、いまだにそれが解除されていない区域も近くにあります。

道々、目に映る光景はこんな感じでした。


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ナビの指示通りに行こうとすると、通行止めになっている箇所がまだありました。何でもない農村風景も広がっているのですが……。

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浪江町と南相馬市の境界あたりでは……

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一見、のどかな放牧風景に見えますが……

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何やらもめている気配ですね……。

さて、南相馬市小高区に入り、目的地に着きました。これです。

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昭和30年(1955)に建立された「開拓碑」。光太郎詩「開拓十周年」が刻まれています。筆跡は光太郎のものではありませんが。

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長い詩なので、三段にわたっています。

 開拓十周年
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 赤松のごぼう根がぐらぐらと
 まだ動きながらあちこち残つていても、
 見わたすかぎりはこの手がひらいた
 十年辛苦の耕地の海だ。
 
 今はもう天地根元造りの小屋はない。
 あそこにあるのはブロツク建築。
 サイロは高く絵のようだし、
 乳も出る、卵もとれる。
 ひようきんものの山羊も鳴き、
 馬こはもとよりわれらの仲間。
 
 こまかい事を思いだすと
 気の遠くなるような長い十年。
 だがまた、こんなに早く十年が
 とぶようにたつとも思わなかつた。
 はじめてここの立木へ斧を入れた時の
 あの悲壮な気持を昨日のように思いだす。

 歓迎されたり、疎外されたり、
 矛盾した取扱いになやみながら
 死ぬかと思い、自滅かと思い、
 また立ちあがり、かじりついて、
 借金を返したり、ふやしたり、006
 ともかくも、かくの通り今日も元気だ。
 
 開拓の精神にとりつかれると
 ただのもうけ仕事は出来なくなる。
 何があつても前進。
 一歩でも未墾の領地につきすすむ
 精神と物質との冒険。
 一生をかけ、二代、三代に望みをかけて
 開拓の鬼となるのがわれらの運命。
 食うものだけは自給したい。
 個人でも、国家でも、
 これなくして真の独立はない。
 そういう天地の理に立つのがわれらだ。
 開拓の危機はいくどでもくぐろう。
 開拓は決して死なん。
 
 開拓に花のさく時、
 開拓に富の蓄積される時、
 国の経済は奥ぶかくなる。
 国の最低線にあえて立つわれら、
 十周年という区切り目を痛感して
 ただ思うのは前方だ。
 足のふみしめるのは現在の地盤だ。
 静かに、つよく、おめずおくせず、
 この運命をおおらかに記念しよう。


碑が建てられた同じ昭和30年(1955)に岩手県盛岡市の県教育会館で行われた、岩手県開拓十周年記念大会に寄せたものです。詩を作ったのは、結核による死の半年前。かつて岩手の太田村で、自らも開拓にあたったり、開拓農民と親しく交わったりした経験を下敷きにしています。

雑誌等に掲載された記録が確認できていませんが、どうやら光太郎の詩稿を凸版印刷した一枚物が作成され、全国の開拓関係者に配布されたらしいことはわかっています。

それを読んで感動したのでしょうか、ここ小高区の金房開拓農業協同組合として、この碑を建立したというわけでしょう。中心人物が平田良衛という人物だったと判明しましたので、今後、光太郎との関わりなど、少し調べてみるつもりです。

それにしても、この地の現状と対比すると、胸が痛みます。


この碑、十数年前に見に行き、今回が2度目でした。海からは遠いので、津波の被害は心配ありませんでしたが、地震の揺れ自体で倒壊していたりしていないだろうかなどと思い、以前にも相馬方面に用があった際に、見に行こうと思ったのですが、前述の通り、今年の夏まで近づけませんでした。もしかすると、行けるだけは行けたのかも知れませんが、通行止めなどのオンパレードで断念しました。

正式に光太郎文学碑として建立されたものではありませんが、光太郎生前の数少ない(確認できている限りでは三基)詩碑の一つです。健在だったので安心しました。

ところが、周囲は前述のような状況です。避難指示が解除になったといっても、ほとんど人に会うこともなく、すれ違う車も除染作業などの関係ばかりでした。

しかし、この詩の精神を踏まえ、また再びこの地を新たに開拓していって欲しいものです。

昔のこの碑の写真と比べると、碑全体がきれいになっているように感じます。もしかすると、地元の皆さんがこの詩の精神を踏まえ……と考えて下さっているのかも知れません。


被災地がこういう状況でありながら、日本政府はインドへの原発輸出を可能にする原子力協定に調印しました。安全神話で作られたメルトダウンする原発、処理に何万年もかかる使用済み核燃料、いまだに故郷に帰れない多くの人々、事故が起きれば取り返しが付かない現実……あきれてものも言えません……。


明日は双葉郡川内村をレポートします。


【折々の歌と句・光太郎】

月黒く大河の上に人の血の流るる世なり魔神の世なり
明治33年(1900) 光太郎18歳

「魔神の世」と感じる福島南相馬でした。

智恵子の故郷・福島二本松で恒例となりつつあるイベントです。 

智恵子の生家二階限定公開

期  日 : 2016年10月,9,10,15,16,22,23,29,30       
           11月3,5,6,12,
13,19,20,23010
時  間 : 午前9時~12時 午後1時~4時
場  所 : 智恵子の生家  二本松市油井字漆原町36
料  金 : 一般410円 団体360円 小・中学生 200円
                     (智恵子記念館観覧料金を含む)

明治初期に建てられ、清酒「花霞」を醸造していた旧長沼家。智恵子を育んだ「生家」であり、通常は立ち入りが制限されているこの「生家」二階を期間限定で公開します。
座敷を通り、階段を上がると、智恵子が過ごした部屋が当時のまま保存されています。


この試みは昨年から始まり、今年もすでに4月、5月に実施されました。秋期間としての開催が、来週からです。

実施日は土・日・祝日。時間は午前と午後の3時間ずつ。昨年、初めて実施された時は案内の方が付いて、もっと短い時間での実施でしたが、今回は長時間解放する、という感じのようです。かえってその方がありがたいと思います。

霞ヶ城公園での菊人形期間に合わせての実施ということになりますが、菊人形は10/10(月)~11/23(水・祝)。こちらも例年智恵子人形が出ていますが、今年はどうなのでしょうか。初日に見に行く予定なので、その後にレポートします。


合わせて智恵子生家に隣接する智恵子記念館では、智恵子紙絵の実物展示も行われます。

智恵子の紙絵実物限定公開

期  日 : 2016年10月2日(日)~11月27日(日)
時  間 : 午前9時~午後4時30分
場  所 : 二本松市智恵子記念館  二本松市油井字漆原町36
料  金 : 一般410円 団体360円 小・中学生 200円     (智恵子生家観覧料金を含む)

こちらも例年行われていますが、今年は企画展「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」の一環としての実施です。下記は『広報にほんまつ』の来月号から。

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ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

落日のはやさおぼゆる峠かな       明治34年(1901) 光太郎19歳

秋分を過ぎ、どんどん日が短くなっています。しかし、「暑さ寒さも彼岸まで」といいながら、ここ数日、関東は蒸し暑い日々です。まとまった雨が多かった先週より暑く感じます。

愛犬(老犬)との散歩中、その暑さに誘われたか、季節外れのクワガタムシを見つけました。

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愛犬(老犬)は興味を示しませんでしたが、家に持って帰ると愛猫(幼猫)の方は興味津々(笑)。

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この後、庭の桜の木に逃がしてやりました。

先週末から昨日にかけ、岩手花巻に行っておりました。土曜日に行われた高村光太郎記念館講座 「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし~」のバスツアー、翌日曜日の第59回高村祭といったオフィシャルな部分は昨日のこのブログでご紹介しました。

それ以外のプライベートな時間も活用し、花巻市内、あちこち回りましたので、本日はそちらをレポートします。

まず、夜行高速バスで花巻に着いた土曜の朝、ツアーの集合時刻まで時間がありましたので、市街北部の花巻北高校さんまで歩きました。

こちらには、彫刻家の高田博厚作の光太郎胸像があります。当方、20年ほど前にも見に来ました。

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同じ型から作ったものは、信州安曇野の豊科近代美術館さん、同じく信州塩尻の古田晃記念館さん、福井市美術館さんにも収蔵されています。そして埼玉県東松山市の「彫刻通り」では野外展示。こちらは光太郎の薫陶を受けた、同市元教育長の田口弘氏のお骨折りで設置されました。

花巻北高さんのものは、台座に光太郎詩「岩手の人」の一節が刻まれたプレートが嵌め込まれています。

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光太郎、今も若い世代へのエールを送り続けています。

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同校は光太郎との直接的な縁はないそうですが、昭和52年(1977)、光太郎精神に共鳴した卒業生保護者の皆さんにより、設置されました。

ちなみに昨日のこのブログでやはり高田博厚作の佐藤隆房像(右上)もご紹介しました。


続いて、バスツアー終了後、花巻高村光太郎記念会事務局の方のご案内で、「山の駅 昭和の学校」さんへ。こちらは廃校となった旧前田小学校さんの校舎を利用し、昭和のレトログッズを展示しているミュージアムです。花巻南温泉峡、大澤温泉さんと鉛温泉さんの中間ぐらいのところに、一昨年オープンしました。

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校舎内を昔の商店街に見立て、約5万点という膨大なレトログッズがところせましと並んでいます。

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左上はダイハツミゼット。一度、運転してみたいものです。その文房具店、右はカメラ屋さんの設定です。

当方、子どもの頃に普通に周囲にあったものばかりで、懐かしさに打たれました。

古本屋さんの設定のコーナーに、光太郎著書がありまして、光太郎関連はそんなものだろうと思っていましたが、さにあらず。帰りがけ、出入り口の壁にこんなものを見つけました。

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銅板を組み合わせて作った大きなプレートで「道程」が刻まれています。こちらは旧前田小学校さんのもので、ある年の卒業記念制作。おそらく児童ひとりひとりが作ったプレートをパッチワークのように繋げてあるのでしょう。

前田小学校さんと光太郎との関連もないようですが、やはり花巻北高さんと同じように、ある意味郷土の偉人の顕彰も兼ねる、というわけですね。


さらに日曜日、高村山荘敷地内での高村祭終了後、花巻温泉に行きました。入浴はせず、あくまで調査です(笑)。

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当方の泊まっていた大澤温泉さんを含む花巻南温泉峡とは山一つ隔てたところにあります。ここは温泉宿を中心とした一大レジャーランドとして、大正12年(1923)に開業した、比較的新しい温泉地です。湯は湯量がやけに多く、無駄にしていた近くの台温泉から引き、花巻電鉄花巻線(鉄道線)が町中心部から延引されました。下は廃線となった花巻電鉄の駅の跡です。

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十万坪の敷地全体を花巻温泉株式会社として経営、スキー場、遊戯場、プール、ゴルフコース、テニスコート、動物園、植物園、貸別荘、傷病軍人療養所など、さまざまな施設が作られました。経営には賢治の一族も関係し、賢治が設計した花壇も作られました。入場無料のバラ園があり、その中に花壇跡の碑、賢治詩碑、復元された花壇がありました。桜並木も賢治の土壌改良技術によって可能となったそうです。ちなみに今年は賢治生誕120年です。

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大澤温泉さんと並び、光太郎はこの花巻温泉にも繁く宿泊しています。光太郎の記録に残っている旅館は、松雲閣、およびその別館、紅葉館(まだ健在。しかし、建物は近代的になっています)という旅館です。格としては松雲閣別館が最も高かったようで、光太郎の談話筆記には以下の記述が見られます。「一番奥にある松雲閣というのが一番大きく、ちょっと高いところにある別館が一番の高級で、皇族だの、大尽様などがお泊まりになる。私なども、そこへ入れられてしまうが、さすがに建築は立派である」。

昭和27年(1952)には、NHKラジオ「朝の訪問」のための、詩人の真壁仁との対談をここ松雲閣別館で録音した他、日記が失われているため詳細は不明ですが、前年の『朝日新聞』岩手版に載った岩手県知事国分謙吉との対談も、ここで行われたと推定できます。

こちらが往時の松雲閣別館。古絵葉書です。

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松雲閣自体は老朽化のため営業を終えましたが、この建物はまだ残っているらしいと知り、探しに行きました。はたして、残っていました。

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ただし、公開はされて居らず、バラ園、そして道路から外観が見えるにとどまります。柵があって近づけません。

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総欅造り、釘を一本も使っていないそうです。


また、昭和25年(1950)には、花巻温泉株式会社の創業者、金田一国士を頌える碑が建立され、光太郎はその碑文である詩「金田一国士頌」を作り(揮毫は書家の太田孝太郎)、その除幕式にも参加しています。光太郎生前の数少ない詩碑の一つです。

この詩碑も20年ぶりに拝見。松雲閣別館のすぐ近くです。

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こちらは除幕式の写真。中央やや左に光太郎。ガタイがやけにいいのですぐわかります(笑)。

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左上に写っているのが除幕された碑です。

以前にも書きましたが、この碑は、花巻農学校跡(現在のぎんどろ公園)に建てられた賢治の「早春」詩碑と、どうやら同じ石材から切り出されたものらしいとのことです。こちらも同じ昭和25年(1950)の建立で、光太郎は詩の選択に関わり、除幕式にも参加しています。

詳しくはこちら


最後に、泊めていただいた大澤温泉さん。

山水閣さん、菊水館さんは、ここ数年で何度か利用しましたが、今回は湯治屋さん(自炊部)に泊まりました。こちらは学生時代以来、30年ぶりです。

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豪華ホテルに慣れている方には絶対にお勧めできません(笑)。「普通の旅館と同じだろう?」という方も、甘いですね(笑)。なにしろ、部屋のカギは存在しません。浴衣もコタツも有料です。隣の声は筒抜け、廊下や階上(当方の部屋は一階でした)を他の人が歩く音が響き渡ります。食事は館内の食堂で摂るか、自炊(共同調理場があります)、もしくは売店でパンやカップ麺など。しかし、風情は大ありです。料金も激安です。

当方、2泊の間、夕食は食堂で、朝食は売店で買ったパンでした。音対策(それが必要だとわかっていたので)は携帯音楽プレーヤー。ヘッドホンでヒーリング系の音楽を聴きながら眠りました。たまにはこういう経験もいいものです(笑)。何より温泉はすばらしいので、2泊の間に8回入ってきました。

以上、花巻レポートを終わります。


【折々の歌と句・光太郎】

白花のリラのさし花さきたわみ石のはだかの肩に触りたり
大正15年(1926) 光太郎44歳

大澤温泉さん、リラ(ライラック)ならぬ遅咲きの桜がまだ咲いていました。澄んだ空には飛行機雲。

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先ほど、2泊4日の行程を終え(夜行高速バスで行きましたので、1泊少ないのです)、岩手花巻より帰って参りました。

本日は、オフィシャルな部分での花巻レポートです。

5/14(土)、花巻市主催の市民講座「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし~」が開催され、それに帯同しました。

地元紙2紙の報道から 

光太郎の足跡たどる 花巻で没後60周年ツアー

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の没後60周年を記念したツアー「高村光太郎の足跡を訪ねる-花巻のくらし」は14日、花巻市内で開かれた。戦禍を逃れて花巻に疎開した際に身を寄せた同市桜町の「二岳荘(にがくそう)」が特別公開され、市民ら約20人が光太郎ゆかりの地を巡った。
 高村光太郎記念館講座として企画。光太郎は、花巻共立病院(現総合花巻病院)元院長の故・佐藤隆房さんの招きで佐藤家の二岳荘に滞在。離れの2階にある4畳半ずつの2部屋で過ごしたといわれ、当時使っていた火鉢や妻智恵子が創作した紙絵などが残されている。
 参加者は「タイムスリップしたみたい」「光太郎さんがここで過ごしたんですね」と大喜び。ボランティアガイドの説明を聞きながら広大な庭園を散策し、当時の生活に思いをはせた。
 ツアーでは光太郎が揮毫(きごう)した宮沢賢治の「雨ニモマケズ」詩碑や同記念館なども見学。同市葛の葛巻秀子さん(65)は「こんなに立派なお屋敷があるとは知らなかった。1928(昭和3)年に建てられたのにモダンな印象。また訪れたい」と雰囲気を楽しんだ。
(2016/05/15 『岩手日報』) 

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細かい話ですが、キャプションに2箇所、誤りがあります。上の写真、こちらに飾られている智恵子の紙絵は複製で、本物は花巻高村光太郎記念館に展示中です。それから下の写真、「光太郎が過ごしたとされる」というあいまいなものではなく、はっきり「光太郎が過ごした」です。 

目と食で〝先生〟思う 高村光太郎没後60周年 足跡巡る記念館講座

 花巻市の高村光太郎没後60周年事業として、高村光太郎記念館講座「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし」が14日、市内で催された。詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)ゆかりの深い地を巡り、東京から花巻に疎開して以来7年に及ぶ思索と農耕自炊の日々を送った偉人に思いをはせた。
 定員いっぱいの市民20人が参加。まなび学園を発着点にバスで移動し、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」詩碑前で光太郎や賢治らに関する資料や作品を展示している桜地人館を見学後、佐藤家の二岳荘と庭園へ。上太田山関振興会館で昼食を取り、高村山荘と記念館を訪れた。
 このうち、光太郎が東京から花巻に疎開した際、花巻共立病院長で交流のあった佐藤隆房(1890~1981年)の招きで身を寄せた部屋が残されている二岳荘は、今回特別に公開された。
 部屋には光太郎が滞在した当時の様子を紹介する写真パネルが展示され、庭園では植栽や茶室「潺湲亭(せんかんてい)」などが散策でき、抹茶の振る舞いも行われた。
 昼食では、光太郎が記した食事のメモを基に太田山口地区の食生活改善推進員協議会が調理した「そば粉パン」、光太郎が「シュークルート」と呼んだ野菜の酢漬けなどが並んだ。同協議会員で記念館職員の新渕和子さん(64)が「そば粉と重曹、みそ、水を混ぜてフライパンで焼くだけで簡単にできる。光太郎先生はバターをつけ、黒蜜を塗って食べたらしい」と紹介。参加者は自分でも作ってみようと手帳に書き留めたり、食べ方をまねたりして味わった。
 締めくくりは、光太郎が暮らした山荘と、2015年4月にリニューアルオープンした記念館の見学。参加者は「冬の山荘は相当寒かったろうに」「地域の人には、かなり慕われていたんだろう」などと当時の暮らしぶりに思いを巡らせていた。
 同市若葉町から夫婦で訪れた男性(72)は「こういう時じゃないと自分たちだけでは見られない場所があったので参加した。佐藤家は敷地の広さ、古い住宅の良さ、設備に驚いた。そば粉パンは思っていたよりおいしかった」と話していた。
(2016/05/15 『岩手日日』)

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上の写真には、当方が写っています(笑)。

記事をお読みいただければ、概要はつかめますね。

下記は帯同しながら撮った写真です。

賢治詩碑。昭和11年(1936)、光太郎が揮毫。さらに当初あった誤字脱字を昭和21年(1946)に訂正しています。

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新緑がきれいでした。

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詩碑近くの桜地人館。光太郎や賢治関連の貴重な資料が展示されています。大半は佐藤隆房が贈られたものです。昔は「佐藤郷志館」という名前でした。
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その庭に立つ佐藤隆房像。光太郎と親しかった高田博厚の作です。

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佐藤隆房邸。詩碑や桜地人館さんからそう遠くありません。ここの離れに光太郎が昭和20年(1945)、1ヶ月滞在しました。その後も太田村から花巻町に出て来た時の拠点にしていました。

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広大な庭。

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咲き誇る牡丹。

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右上は、賢治が取り寄せたという薔薇。ただし、こちらはまだ咲いていませんでした。


この後、旧太田村に移動。昼食をいただきました。

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記事にあるそば粉パンとシュークルートです。

光太郎が暮らした山小屋・高村山荘および高村光太郎記念館。

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この後、一般参加者の皆さんは、バスで市街へ戻り、解散。当方はこちらに残り、事務的打ち合わせ等々。


翌日は、第59回高村祭。明日以降もブログに書くべきネタがてんこ盛りですので、一気にこちらもご紹介してしまいます。

やはり地元紙の報道から。

没後60年、光太郎の情熱しのぶ 花巻で高村祭

 花巻市で晩年を過ごした彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)を顕彰する第59回高村祭は15日、同市太田の高村山荘詩碑前で開かれ、市民ら約300人が青空の下、合唱や朗読で没後60年を迎えた先人をしのんだ。
 花巻高村光太郎記念会(佐藤進会長)などが主催。佐藤会長は「先生は情熱の詩人で戦時中は士気を鼓舞する作品も発表したが、山荘暮らしの7年間は戦争への反省を重ねた。皆さんも当時をしのんでほしい」とあいさつした。
 太田小、西南中、花巻高等看護専門学校の児童生徒が合唱し、詩の朗読では及川波月(はづき)さん(花巻農高3年)が「レモン哀歌」、藤原詳さん(同2年)が「当然事」、花巻高等看護専門学校1年の石川泰(たい)さんが「非常の時」を読み上げた。
 及川さんと藤原さんは「純粋な思いが伝わるように朗読を心がけた」「自然豊かな高村山荘で朗読する貴重な機会をもらった」と語り光太郎に思いをはせた。
(2016/05/16 『岩手日報』)

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”先生”の教え次代が引き継ぐ 高村祭

 花巻高村光太郎記念会と高村記念会山口支部が主催する「第59回高村祭」は15日、花巻市太田の高村山荘詩碑前で行われた。彫刻家で詩人の高村光太郎が、1945年に東京から花巻に疎開してきた日に合わせて毎年実施。詩碑に刻まれた「雪白く積めり」を会場全体で朗読し、古里ゆかりの偉人をしのんだ。
 地元小中学生らが合唱などを披露。いずれも光太郎作の「レモン哀歌」を及川波月さん(花巻農高3年)、「当然事」を藤原詳君(同2年)、「非常の時」を石川泰君(花巻高等看護専門学校1年)が朗読し、光太郎の偉業に思いをはせた。
 2016年は光太郎没後60年、光太郎の妻・智恵子生誕130年の節目の年。特別講演では、祖母の金谷ふゆさんが光太郎のいとこだった盛岡市の加藤千晴さんが「高村光太郎と金谷一族について」と題し、エピソードを披露した。
 同日は約600人が参加。鎌田志栞さん(西南中1年)は「光太郎先生の詩からは自然の豊かさを感じる。太田の風景とも重なるところがあり落ち着く」と話していた。

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以下、やはり当方が撮りました。

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今朝のNHKさんのローカルニュース。

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永続的に続けていっていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

春雨や南へいそぐ旅烏       明治42年(1909) 光太郎27歳 

旅ガラスの当方、このブログを書くために急いで帰って参りました(笑)。

花巻市の広報紙『広報はなまき』の記事です。 

高村光太郎記念館講座 「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし~」

疎開のため花巻に身を寄せた光太郎が滞在した佐藤隆房邸や高村光太郎記念館、高村山荘など、ゆかりの地を巡ります。

【対象】 市内に在住または勤務する方
【日時】 5月14日(土)、午前9時30分~午後3時
【集合場所】 まなび学園
【定員】 20人(抽選)
【受講料】 無料
【申込期限】 5月2日(月)
【問い合わせ・申し込み】 生涯学習課(緯内線418)


翌日には光太郎が7年間を過ごした郊外旧太田村(現・花巻市太田)の山小屋=高村山荘で、第59回高村祭が行われます。こちらはまだ詳細な情報が出ていません。

それとセットで行おう、ということで、メインは佐藤隆房医師邸の公開です。

こちらにある離れは、光太郎が旧太田村の山荘に移るまでの1ヶ月あまりを過ごした場所です。「潺湲楼(せんかんろう)」と命名し、太田村移住後も、花巻町に出て来た時にはここを拠点にすることがたびたびありました。

こちらは光太郎が居た当時の室内。智恵子の紙絵、それから佐藤医師に請われて書いた「彧彧」(「いくいく」または「えきえき」)の書などが写っています(ともに現在は花巻高村光太郎記念館所蔵)。

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下記は現在の様子です。

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昨年暮れに花巻を訪れた際、この計画を聞き、急遽、下見のため中に入れていただきました。

14日当日は、当方も参上します。ただ、今年初めてこういう試みをやるということで、対象はあまり広げずに花巻市内在住及び勤務の方となっています。今後、広く参加を募ったり、他の日程で団体さんの視察等を受け入れたりすることも視野には入れているようですが。

花巻というと、どうしても花巻出身の宮澤賢治の方がメインですが、光太郎が行った賢治のプロデュースの功績も、もっと光が当たってほしいものです。

実は当方、秋にはそのあたりの内容を、花巻で講演いたします。詳細はまた近くなりましたら。


【折々の歌と句・光太郎】

よからずや垣根にちさき名なし草世にさびしきも花の色なり
明治35年(1902) 光太郎20歳

自宅兼事務所の垣根にはこんな花が咲いています。名前が分かりません。

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智恵子の故郷・二本松市で、昨日発行の「広報にほんまつ」3月号に以下の記事が載りました。 

〜新日本歩く道紀行百選「ふるさとの道部門」で認定〜ほんとの空が広がる道

新日本歩く道紀行百選選考委員会が選定している「新日本歩く道紀行百選ふるさとの道」に、二本松駅から霞ヶ城公園まで続く約12キロのコースが認定されました。
ふるさとの道百選には、東北からは7件、福島県からは2件が認定されました。
これから暖かい季節がやってきます。ぜひウォーキングコースとしてご利用ください。
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智恵子生家の裏手、智恵子はもちろん、ここを訪れた光太郎も智恵子とともに歩いたという「智恵子の杜公園」が含まれています。

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新日本歩く道紀行百選」は、道の活用により地域の活力創出を目指す自治体や団体、 企業、個人から広くエントリーを受け付け、同選考委員会の選で決定しています。昨秋には第1期493コースが決定、そこに二本松市の「ほんとの空が広がる道」も選ばれたというわけです。

エントリーはまだ受付中。最終的には10のテーマで100ずつ、計1,000コースの認定を目指しているようです。

また、ウオーキング愛好家の「歩きんぐくらぶ」さんという団体も結成され、この「新日本歩く道紀行100選シリーズ」を通年で歩く企画が用意されています。

さらにBS-TBSさんがこの企画に賛同、「新・日本歩く道紀行」という番組がスタートしました。先月は当方の自宅兼事務所のある千葉県香取市を含む千葉・茨城の水郷地帯を4回連続で取り上げて下さいました。いずれ「ほんとの空が広がる道」も取り上げていただきたいものです。

テレビ、といえば、過日のこのブログでご紹介した「15分でにっぽん百名山 安達太良山」、残念ながら「智恵子抄」がらみの部分はカットされていました。残念に思っておりましたところ、なんと「15分で……」ではなくオリジナルの「にっぽん百名山」の方の安達太良山の回が再放送されます。  

にっぽん百名山「安達太良山」

NHKBSプレミアム 2016年3月7日(月) 19時30分~20時00分 
                                再放送 3月13日(日) 6時30分~7時00分

福島の安達太良山(1700m)、荒々しい火山と、みちのくの穏やかな自然を体感する山旅。登山口の野地温泉からブナなど広葉樹の紅葉に彩られた登山道を抜け、森林限界の低い偽高山帯と呼ばれる見晴らしの良いりょう線へ。最高峰の箕輪山(1728m)を経て、温泉のある山小屋で一泊、翌朝、空に突き出た山頂の姿から乳首山とも呼ばれる安達太良山の山頂をめざす。智恵子抄のエピソードや登山家の田部井淳子氏の誕生秘話も紹介。

出演 林千明   語り 山崎岳彦,吉川未来

こちらではばっちり光太郎智恵子が取り上げられますので、ぜひご覧下さい。

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【折々の歌と句・光太郎】

底の岩底の砂利より走せのぼるあぶくは肌につきて離れず
大正13年(1924) 光太郎42歳

昨日に引き続き、温泉を謳った短歌です。炭酸系の温泉でしょうか。

智恵子の故郷・福島県二本松市からの情報です。

二本松市さんのサイトから。 

「智恵子の生家」二階を期間限定で公開します

明治初期に建てられ、清酒「花霞」を醸造していた旧長沼家。智恵子を育んだ「生家」であり、通常は立ち入りが制限されているこの「生家」二階を期間限定で公開します。
座敷を通り、階段を上がると、智恵子が過ごした部屋が当時のまま保存されています。

この機会に是非ご覧ください。

冬季期間(平成28年2月)  2月の土曜日、日曜日、祝日

公開時間  午前の部 11時00分~12時30分  午後の部 13時30分~15時00分
入館料金  
一般410円 ※20名以上の団体は360円 子ども(小・中学生)200円
                    ※20名以上の団体は150円

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昨年のふくしまデスティネーションキャンペーンにともない、6月に公開を始め、その後、夏休み期間の7・8月、菊人形期間の10・11月にも公開が行われました。

当方は菊人形期間の10月に行って参りました。その際のレポートがこちら

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二階だけでなく、一階部分も歩けます(通常は一階部分、外から見るだけです)。

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智恵子やその血縁者の息吹が感じられます。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

横町の狗まで地図にかいてなし     明治38年(1905) 光太郎23歳

五七五の形をとっていますが、季語はなく、俳句と言うより川柳です。「狗」は犬です。

小説家・山岸荷葉にあてて書かれた絵葉書にしたためられました。犬に驚いて倒れている自転車に乗った男の絵が描かれていますが、光太郎が描いたものではなく、既製品のようです。

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昨日は、銚子の犬吠埼に行って参りました(生活圏内なので、時折行くのですが)。

第一目的地は、「スパ&リゾート犬吠埼太陽の里」。宿泊施設もありますが、泊まりではなく「日帰りスパ一望の湯」に浸かってきました。

単に寒いから温泉、というのもあるのですが、一昨夜、真夜中に犬の散歩をするはめになり、結果、風呂に入るタイミングを失してコタツで寝てしまい、さっぱりしたかったというわけです。割引券もありましたし。

犬吠埼太陽の里さんは、大正元年(1912)、光太郎と智恵子が愛を誓った暁鶏館(現・ぎょうけい館)にほど近いところにあります。元は、伏見宮貞愛親王別邸だったところに建てられたもので、平成22年(2010)に開業しました。

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ペッパーくんがお出迎え。従業員だそうです。

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ゆっくり温泉を堪能し、その後、灯台方面に向かいました。

大正元年(1912)、まず数え30歳の光太郎が油絵を描くために犬吠埼にやってきます。宿泊したのは暁鶏館。すると、それを追って数え27歳の智恵子も犬吠埼に現れます。最初は日本女子大学校時代からの友人・藤井勇(ゆう)、妹のセキと3人で、御風館という宿に泊まっていました。その後、藤井とセキは先に帰り、智恵子は光太郎の泊まっていた暁鶏館に移ります。

二人が結婚の約束をしたのは、翌年の上高地旅行の際だと光太郎は書き残していますが、この時点で、二人は共に生きていくことを決意したと考えられます。

犬吠埼行きに先立って、光太郎は次の詩を書きました。

N――女史に
003
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
あなたがお嫁にゆくなんて
花よりさきに実(み)のなるやうな
種(たね)よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな、そんな理屈に合はない不自然を
どうかしないで居てください
 002
私の芸術を見て下すつた方
芸術の悩みを味つた方
それ故、芸術の価値を知りぬいて居る方

それ故、人間の奥底の見える方
そのあなたが、そのあなたが
――ああ、土用にも雪が降りますね――
お嫁にもうぢき行く相な
 
型のやうな旦那さまと001
まるい字を書くそのあなたと
かう考へてさへ
なぜか私は泣かれます
小鳥のやうに臆病で
大風のやうにわがままな

あなたがお嫁にゆくなんて
 

いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
 
004
なぜさう容易(たやす)く
さあ何と言ひませう――まあ言はば
その身を売る気になれるんでせう
さうです、さうです
あなたは其の身を売るんです
一人の世界から
万人の世界へ
そして、男に負けて子を孕んで
あの醜(みにく)い猿の児を生んで

乳をのませて
おしめを干して
ああ、何という醜悪事でせう
あなたがお嫁にゆくなんて
まるで さう
チシアンの画いた画が
鶴巻町へ買喰ひに出るのです
いや、いや、いや
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
 
私は淋しい、かなしい
何といふ気はないけれど
恰度あなたの下すつた
あのグロキシニアの
大きな花の腐つてゆくのを見るやうな
私を棄てて腐つて行くのを見るやうな
空を旅してゆく鳥の
ゆくゑをじつと見てゐる様な
005
浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
はかない、淋しい、焼けつく様な
それでも恋とはちがひます
――そんな怖(こは)いものぢやない――
サンタマリア!
あの恐ろしい悪魔から私をお護り下さい
ちがひます、ちがひます
何がどうとは素より知らねど
いや、いや、いや
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
006
おまけに
お嫁にゆくなんて
人の男の心のままになるなんて
 
外にはしんしんと雨がふる
男には女の肌を欲しがらせ
女には男こひしくならせるやうな
あの雨が――あをく、くらく、
私を困らせる雨が――


おそらく智恵子は、光太郎を追って犬吠に来る前、この詩を読んだのだと推測されます。


ところで、最初に智恵子が泊まった御風館という宿。こちらは既に残っていません。少し前に、それがあった場所が判明しましたので、行ってみました。灯台の南西、数百㍍の、犬吠埼に行った際には必ず通る道沿いでしたが、そこに御風館があったというのは、少し前まで存じませんでした。

ちなみにこちらは昔の絵葉書です。

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現在は更地と藪になっています。

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一角には廃屋もあり、もしかすると廃業直前の御風館の建物かも知れません。なんとなくそれっぽい作りでした。

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104年前の光太郎智恵子に思いを馳せながら、帰途に就きました。


それにしても銚子は温暖でした。沿道では農家の方々が春キャベツの収穫真っ最中。

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銚子、そして隣の東庄町、さらに隣接する当方の住む香取市では、この時期、イチゴ狩りの最盛期です。ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

夢はみなはかなきものとさもあらむ恋の組絲われ解くと見し
明治34年(1901) 光太郎19歳

智恵子と出会う10年前の作です。与謝野夫妻の新詩社で歌作に励んでいましたが、この時期の恋の歌はどうも架空の恋を謳ったものと思われます。

10年後には智恵子と出会い、こうした気持ちが実感できたのではないでしょうか。

先週土・日の東北行、最終目的地の佐藤邸編です。

一昨日も書きましたが、光太郎は昭和20年(1945)の9月10日~10月17日の一ヶ月余り、花巻桜町の佐藤邸離れで暮らしました。元々昭和20年(1945)に、東京を焼け出されて宮澤賢治の実家に疎開してきたものの、再び空襲の被害に遭ってのことです。当時の当主で賢治の主治医だった佐藤隆房は、光太郎を花巻に招いた張本人の一人でした。

現在も隆房の子息・進氏(花巻高村記念会理事長)夫妻がお住まいですが、ここを来年5月14日(土)、一般公開するということで、その下見。以前から奥様には「機会があったらお寄り下さい」とおっしゃっていただいておりました。

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こちらが元の母屋の正面玄関。昭和初期の建築だそうです。現在は新たに母屋を造られ、そちらで主に生活されているとのこと。とにかく敷地が広大なので、それも可能なのでしょう。

裏手に2階建ての離れがあり、光太郎はこの2階を借りて住んでいました。当方、20年以上前に敷地外から望見したことがありますが、間近で拝見、ましてや内部に入れていただくのは初めてでした。

屋外をぐるりと一周するとこんな感じです。

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すぐ近くを豊沢川が流れ、当時はせせらぎの音がよく聞こえたそうです。そこで、光太郎はこの建物を「潺湲楼(せんかんろう)」と命名しました。「潺湲(せんかん)」とは、水がさらさらと流れるさまです。

さて、いよいよ内部へ。

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正面玄関から入り、渡り廊下的な処を通って離れへ。さらに狭い階段を上がります。すると、四畳半が二間。両側が大きな窓のある廊下になっているのと、ごちゃごちゃ物が置いていないのとで、広く感じられます。

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座卓も当時のもの。それから押し入れには光太郎が使っていたという火鉢もありました。

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下記はここで暮らしていた時か、後に太田村に移ってからのものかよく分かりませんが、この部屋での光太郎です。

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窓からの眺め。

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北側に豊沢川。

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南は母屋の屋根。日当たりも良さそうです。

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このような快適な環境での暮らしを棄て、光太郎は7年間の山小屋暮らしに入ります。他人の家に厄介になるという気苦労は確かにあったでしょうが、ここで暮らし続けていれば、何不自由ない生活だったのに、です。そこに光太郎という人間の生きざまが端的に表されているような気がしました。


その後、母屋の洋間でお茶を戴きました。昔の映画にでも出て来そうなお部屋です。

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ここで撮られた光太郎の写真もあります。左が佐藤隆房です。

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窓外には百日紅の大木。花をつけるとさぞ見事でしょう。

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さらに辞去する前にはお庭も案内して下さいました。こちらは昭和初期、賢治が取り寄せたというバラの子孫。よくぞ残っているものだと感心しました。

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最初に書きましたが、こちらを来年5月14日(土)、一般公開するそうです。詳細が決まりましたらまたお知らせいたします。


というわけで、秋田横手から始まった全ての行程を終え、帰途に就きました。一昨日ご紹介した光太郎も訪れた伊藤屋さん、昨日レポートした光太郎がらみの二つのお寺、そして佐藤邸潺湲楼など、思いがけず訪問することが出来、非常にありがたい限りでした。花巻高村光太郎記念会・高橋事務局長、佐藤様に改めて御礼申し上げます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月17日

昭和15年(1940)の今日、大政翼賛会本部で開催された臨時中央協力会議で「芸術政策の中心」「国宝、特別保護建築物の防空施設」などについて提案、発言をしました。

下記は会議を前に語った光太郎の談話の冒頭部分です。『読売新聞』に掲載されました。

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記事にも名が上げられている大政翼賛会文化部長だった岸田国士が、光太郎を委員として推薦しました。

この時点では、「今回限り」と言っていた光太郎ですが、翌年の第1回(6月)、第2回(12月8日、まさに太平洋戦争開戦の日)の中央協力会議にも出席しました。

12/13(日)、花巻高村光太郎記念会の高橋事務局長にお迎えに来ていただき、旧太田村の高村光太郎記念館に参りました。

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数日前に大雨だったり暖かかったりで、雪はほとんど残っていません。

まずは10月から開催中の企画展「高村光太郎山居七年」(後期)を拝見。旧太田村時代の光太郎の作品や遺品類がいろいろと並んでいます。藁で作られたツマゴ(雪靴)など、季節にこだわったものも。

入り口にはA5判18頁のパンフレット『山居七年 年譜』が置かれています。この企画展のために当方が作成したもので、企画展示室内にパネルとして展示してあるものを、冊子にしてくださいました。光太郎日記、書簡、周辺人物の証言記録などから作成したもので、無料で配布しています。

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こんな感じで18頁です。

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企画展「高村光太郎山居七年」(後期)、2月22日(月)までです。ただし、12/28~1/3が休館です。ぜひ足をお運びください。

その後、隣接する高村山荘へ。基本的に山荘は冬期間閉鎖ですが、役得で中まで入らせていただきました。

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草野心平筆による「無得殿」の扁額。山小屋の廻りを覆う套屋(とうおく)に掲げられています。

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内部には、光太郎がここで暮らしていた頃使っていたものがそのまま残っています。

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ここに入るたびに、粛然とした思いにさせられます。


その後、また高橋事務局長のお車で、昨日も少しご紹介した、この山小屋に入る直前に暮らしていた花巻市街桜町の佐藤家へ。しかし、約束の時間にまだ間があるので、行き道、山荘・記念館近くにある寺院2ヶ所に立ち寄りました。

いずれも光太郎ゆかりのお寺で、まずは音羽山清水寺さん。坂上田村麻呂の勧進による創建ということで、京都の清水寺とつながるお寺です。光太郎は昭和27年(1952)、ここで高村東雲作の聖観音像開眼供養に参加しています。東雲は光太郎の父・光雲の師。前年には東雲の孫に当たる高村晴雲が山小屋を訪れており、その関係もあるようです。

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山門は昭和初期、本堂は江戸時代のものだそうですが、それぞれ立派なものでした。


続いて法音山昌歓寺さん。こちらは光太郎がこの地にいた頃のご住職と親交があり、たびたび訪れたお寺です。毎年、花巻町の松庵寺さんで行っていた光雲・智恵子の法要を、昭和25年(1950)だけはこちらで行っていますし、昭和27年(1952)には、消防団主催の相撲の会を見物したりもしています。

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特筆すべきは、木像十一面観音像。光太郎にその制作を依頼したものの、結局それは果たされず、代わって光雲の弟子筋に当たる森大造が制作しました。昨年、それにまつわる文書が出て来まして、このブログにてご紹介しました。

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いいお顔をなさった立派な仏様です。

こちらはこの像の願主である八重樫甚作の像。やはり森の手になるものだそうです。

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他にも光太郎に絡む品がありそうなので、またゆっくり訪れたいと思っております。皆様も高村山荘・記念館に足をお運びの際はぜひどうぞ。

その後、花巻市桜町の佐藤邸へ。続きは明日。
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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月16日

昭和25年(1950)の今日、新潮社から新潮文庫版『高村光太郎詩集』のための検印紙5,000枚を受け取りました。

昔の書籍は奥付に検印紙といって、著者の印鑑を押したものが貼られていました。検印紙の発行枚数イコール出版部数とカウントし、著者に払う印税の計算のためのものでした。現在はこうしたシステムは廃止されています。

新潮文庫版『高村光太郎詩集』、編者は伊藤信吉で、結局初版はさらにプラス5,000で、一万部だったようです。

現在も版を重ねています。

青森レポートの2回目です。

7月29日、定宿にしている十和田湖山荘さんで、朝、5時前に目覚めました。それでも前夜8時過ぎには眠ってしまったので、睡眠時間は十分です。旅先ではいつもこんな感じです。早速、温泉で朝風呂。その後、朝食は7時半ということなので、その前にいったん宿を出て、あちこち動きました。今回はレンタカーを借りていたので、少し足が伸ばせます。

まず、何はなくとも湖畔の乙女の像。前日は宿に伝えてあったチェックイン予定時刻を過ぎての十和田湖到着で、もう日も暮れていましたので、行っていませんでした。親子連れなど、他にもすでに散策している人がいましたが、いつもの昼間のように混雑はなく、ゆっくり見られました。

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波打ち際には鴨がのんびりと餌を探していました。

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さて、像と対面。昨秋以来、9ヶ月ぶりです。

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その顔は、やはり智恵子を彷彿とさせられます。

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そして若き日に作ったブロンズの「手」にも通じる像の手。

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光太郎は、二人の像の間にできるこの空間に注目してほしい、と語っていました。

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少し引いて、平成6年(1994)に建立された「十和田湖畔の裸像に与ふ」詩碑を通しての眺め。

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こちらが詩碑の碑面。

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その後、近くの十和田神社に参拝、道中安全と、この地の平安を祈願しました。

まだ朝食までには時間があるので、やはり湖畔の宇樽部地区に車を向けました。ここには「東湖館」という宿がかつてあり、昨日レポートした浅虫温泉の「東奥館」同様、光太郎が昭和27年(1952)の下見の際に1泊、乙女の像の除幕式があった翌28年(1953)にも1泊しています。除幕の際は日記には「宇樽部泊」としか書いていないのですが、おそらくここでしょう。

浅虫の「東奥館」はもはや建物自体なくなっていますが、宇樽部の「東湖館」は、昭和50年代ぐらいで営業はやめたものの、当時の建物が残っています。そうと気づかずに何度かその前を通っていたのですが、今回、事前に調べてそれを知り、見に行くことにしていました。

乙女の像のある休屋地区から5㌔㍍あまり、ものの数分で着きました。平成18年(2006)にトンネルが開通したためです。

こちらが東湖館です。

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看板も残っていました。「A級旅館」とあります。当時の格付けでしょうが、それに恥じない立派な造作です。大正13年(1924)の建築で、皇族方や大町桂月なども宿泊したとのこと。また、昭和42年(1967)公開、加山雄三さんや司葉子さんが出演された映画「乱れ雲」のロケに使われたそうです。監督は成瀬巳喜男。前年には「智恵子抄」をモチーフに使い、安達太良山の麓の福島県本宮を舞台にした「こころの山脈」(山岡久乃主演)の監督も務めています。不思議な縁を感じました。

9/3追記「こころの山脈」は吉村公三郎監督でした。まちがいました。

周囲を歩いていろいろな方向から撮影しました。非常にいいレトロな感じです。せっかくの由緒ある建物ですが、現在は廃墟。何とか有効活用する方法はないものでしょうか。

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↓おそらくこの棟に光太郎も宿泊したのではないかと思いました。

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昭和27年(1952)の下見は6月17日。前夜は蔦温泉に1泊し、この日は船で十和田湖を一周しました。翌日も湖を船で渡り、秋田県側の和井内でヒメマス養殖場を見学、休屋の観光ホテルで1泊しています。

昭和28年(1953)の乙女の像除幕に際し、光太郎の近くにいて、下見にも同行したり、像の製作中も何くれとなく世話を焼いたりした草野心平が作った詩「高村光太郎」の一節です。

たしかにおれは十和田の宿屋での晩。智恵子の裸か000をつくろうと決めた。
  (略)
湖の。あの一種の絶景を見て。
あの絶景のなかへなら女の裸をつくりたいと。
それはほんとうにそう思つた。
そしてその晩。
自分の部屋へもどつてきて。電気を消して。
独り寝つかれずにじつとしていたとき。智恵子はおれにささやいた。
この湖のほとりなら。あたくしをつくつて下さい。
そんなささやきをきいた思いをおれがして。いや。おれがきつぱり決めたので智恵子がそんな気持ちになつたのかもしれなかつた。
  (略)
あの十八のモデルのからだを媒体にしておれは智恵子の精神をつくる。
精神は肉体であるその実在を。
かたちにする。


この「十和田の宿屋」というのが、東湖館か、翌日に泊まった休屋の観光ホテルのどちらかです。

追記 東湖館、平成29年(2017)に解体されてしまいました。残念です。

東湖館の前はすぐ湖畔です。

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さて、東湖館を後に、十和田湖山荘に戻りました。帰りはトンネルのできたバイパスでなく、光太郎も車で通ったであろう御倉半島を通る旧道を使いました。途中にあったキャンプ場から撮った宇樽部の集落がこちら。

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さて、宿に戻って朝食、チェックアウト。メインの目的である岩手県花巻市太田地区振興会の皆さんと、十和田湖国立公園協会さんや、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんなど地元関係者との交流会に向け、ふたたび休屋地区に車を走らせました。

会場となっている十和田市の施設「十和田湖観光交流センターぷらっと」に車を駐め、まだ時間があるので周囲を散策しました。

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「ぷらっと」の向かいにある「喫茶憩い」。先日のこのブログでご紹介しましたが、NPO法人十和田奥入瀬郷づくり大学でガイドを務める蝦名隆さんが貸し出した光太郎関連の蔵書が並んでいます。残念ながらまだ開店前でしたので、外から撮らせていただきました。

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秋田県寄りに建つ「十和田ビジターセンター」。初めて足を踏み入れました。

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動植物など、自然科学系の展示がメインなのですが、一角に古い写真が展示してありました。

乙女の像、建立当初の数年間、厳冬期には雪囲いをしていたという話は知っていましたが、このようにしていたと初めて知りました。当方のイメージとは違いました。

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女優の原節子さんが写っている写真もありました。原さんといえば、昭和32年(1957)の東宝映画「智恵子抄」(熊谷久虎監督)での智恵子役です。十和田湖にもいらしていたのか、と驚きました。


花巻の皆さんが到着する時刻が近づきましたので、いざ、「ぷらっと」へ。以下、また明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月31日

昭和30年(1955)の今日、茨城に住む実弟の藤岡孟彦から鉄道便で桃が届きました。


孟彦は光雲の四男ですが、藤岡家に養子に行きました。植物学を修め、戦後には茨城県の鯉淵学園に赴任。こちらは現在も公益財団法人農民教育協会鯉淵学園農業栄養専門学校として続いています。

旧制一高時代には明治の文豪・大町桂月の子息で、昆虫学者となった大町文衛とも机を並べています。大町桂月と言えば、乙女の像は、本来、桂月ら、十和田湖を広く世に紹介したりした三人の顕彰モニュメント。不思議な縁を感じます。

一昨日、昨日に続き、もう一日、福島川内村ネタで行きます。

先週土曜日に行われた「第50回天山祭」の会場となった、天山文庫でのイベント情報です。
川内村の人々と豊かな自然に心を打たれ、毎年のように村を訪れた詩人、草野心平。
川内村は、そんな草野心平を昭和35年に名誉村民に任命。
褒賞として毎年木炭100俵を贈りました。
そのお礼に、今後は草野心平から川内村に、蔵書3,000冊を寄贈。
これを機に村では、文庫設立の話が持ち上がります。
 一本の木、一束の芽、一人ひとりの労力。
 天山文庫は、村びと達の奉仕によって昭和41年7月16日に建てられました。
ちょうど50年前のことです。
50周年の記念として、天山文庫のライトアップを行います。
ライトアップは土日とお盆の期間ですが、約1ヶ月の間行います。

【ライトアップ】016
時 間:日没後~午後9時
期 間:7月-10・11・12・18・19・20・25・26
    8月-1・2・8・9・10・11・12・13・14・15・16
場 所:かわうち草野心平記念館 天山文庫
その他:日程によりステージパフォーマンスが行われる予定です。
    詳しくはお問い合わせください。
 ☆開場内の看板を目印にARカメラ画面をかざしてみよう!
  3Dモリタロウと一緒に記念撮影ができるよ!
 ☆そばビールやガレットの販売も行います。

問合せ先  川内村役場 産業振興課 商工観光係TEL 0240-368-2112

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点灯式は先週金曜日でした。地方紙『福島民報』さんで報道されています。  

50周年の天山文庫ライトアップ 草野心平ゆかり 川内で11日に祭り

 川内村名誉村民の詩人草野心平ゆかりの村内の天山文庫で10日、ライトアップが始まった。天山文庫と天山祭りの50周年を記念し、「光のフォレストナイト」として企画した。
 点灯式では、遠藤雄幸村長が「心平先生と川内村を愛する人に集まっていただき感謝する。ライトアップを楽しんでほしい」とあいさつ。石井芳信天山祭り実行委員長が「祭りの前夜祭として点灯式が行われ、心平先生も喜んでいると思う」と語った。小渕優子衆院議員、横田安男村議会副議長が祝辞を述べた。
 遠藤村長らがスイッチを押すと、130基の発光ダイオード(LED)が天山文庫などを照らした。口笛奏者の柴田晶子さんのライブや現代詩の同人誌「歴程」の会員による心平の詩の朗読も行われた。
 天山祭りは11日午前11時半から天山文庫で催される。隣接する阿武隈民芸館では企画展「心平が愛したかわうち」が8月23日まで開かれる。
 ライトアップは8月16日までの週末を中心に、日没後から午後9時まで行われる。

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昨年のこのブログでご紹介した、ふくしま再生プロジェクトの会さん主催のイベント「ふくしま、ひとしずくの物語 -再生へ祈りを込めて-」(郡山公演も含めて)にご出演された口笛奏者・柴田晶子さんが演奏を披露なさっています。

その点灯式は終わってしまいましたが、8月16日(日)までの下記期間にライトアップが行われます。ぜひ足をお運びください。

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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月14日

昭和24年(1949)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、キャビアを贈られた礼状をしたためました。

相手は舞踊家の藤間節子。この前月に東京帝国劇場で「智恵子抄」の舞踊を発表しています。

光太郎からの礼状、長文なので冒頭のみを紹介します。

昨日運送屋さんが町の駅からはるばる御恵送の小荷物を持つて来てくれました。早速開封いたしましたところ、まことに珍らしい貴重な食料がたくさん出てまゐりました驚きました。 今日の時代にこれだけのものを集められるのは大変なことと存ぜられ、ただ恐縮の外ありませんでした。おそらく東京でも珍しいであらうと思はれるカビヤのびん詰まで在中、そぞろに戦前の頃を思ひ出しました。カビヤの珍味は小生好物中の好物にて、戦前智恵子の健康であつた頃稀に入手して一緒に酒の肴として賞味した記憶があり、なつかしい限りでした。

今朝の『読売新聞』さんの福島版に載った記事です。  

二本松景観 ダブル受賞

◆住民グループの取り組み
住民らによる長年の取り組みが評価され、二本松城跡に近い二本松市竹田根崎地区の景観が日本都市計画学会(東京)の計画設計賞を受賞した。都市づくりパブリックデザインセンターなどの実行委員会が主催する都市景観大賞の都市空間部門の優秀賞にも選ばれたといい、住民らは30日、同市にダブル受賞を報告する。
 いずれも都市計画の進歩に貢献し、良好な都市景観を作り出した人らを表彰する制度。対象となったのは、城跡の東側に延びる旧奥州街道の県道「竹根通り」の景観で、拡幅計画をきっかけに、住民らは2002年、地域の歴史や風土に調和した景観をつくるための協定を結んだ。
具体的には、城跡の石垣や、高村光太郎の「智恵子抄」に収められた「あどけない話」で有名な安達太良山の上の空と調和した街並みを目標にし、広々とした眺めを守るため、原則として建物は3階建てまでとすることを申し合わせた。板塀を設け、屋根は瓦ぶきとするなど、一体感のある外観を目指したという。電柱の地中化も決まり、昨年9月、道路の拡幅や地中化などが終了。十数年に及んだ取り組みが結実し、受賞につながった。参加した住民の1人の高橋淳記(あつのり)さん(60)は、二つの賞をほぼ同時期に受けたことについて喜び、「他の地域でも景観に配慮したまちづくりに取り組む機運が高まればうれしい」と笑顔で語った。


二本松市竹田根崎地区。県道129号線で、二本松霞ヶ城の東に、それぞれ「竹田」「根崎」という交差点があり、そのあたりでしょう。

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西の「竹田」方面から来て、「根崎」の交差点を鍵の手に曲がり、さらに行くと「智恵子の森」地区、そして智恵子の生家・智恵子記念館に至ります。

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このあたりが都市計画・景観の賞を二つ受賞したというニュースです。

調べてみると、先月の地方紙『福島民友』さんにも類似の記事が出ていました。 

二本松・竹根通りが優秀賞 都市景観大賞「都市空間部門」

 東北地方整備局は26日、良好な都市景観を生み出す優れた事例などを表彰する「都市景観大賞」の東北の本年度受賞団体を発表、本県関係は都市空間部門で優秀賞に「二本松市竹田根崎竹根通り沿道地区」が選ばれた。
 本県関係の受賞は、同部門で優秀賞を受賞した昨年度の「小峰城跡・白河駅周辺地区」(白河市)に続き2年連続。同部門に加え、景観教育・普及啓発、景観づくり活動の計3部門に全国から35件の応募があった。各部門で大賞と優秀賞を選考した。
 竹田根崎竹根通り沿道地区は、景観協定に基づく統一感のある街並みや、電線地中化による美しい景観、東日本大震災被災後の地域の復興と再生への希望の象徴となっていることなどが評価された。表彰式は6月、都内で行われる予定。
(2015年5月27日 福島民友ニュース)

ただ、こちらには光太郎智恵子の名などが出ていなかったので、当方の検索の網にはかかっていませんでした。


『読売新聞』さんに紹介された二つの賞のうち、日本都市計画学会さんの計画設計賞に関しては、こちらのサイトをご覧下さい。

計画設計賞
受賞者  竹田根崎まちづくり振興会議
作品名  福島県二本松市竹田根崎竹根通り沿道地区の景観まちづくり
授賞理由
本作品は、福島県道「竹根通り」の拡幅整備計画を契機として発足した「竹田根崎まちづくり振興会議」が中心となる、20 年近くにわたるボトムアップ型景観まちづくりの取組が結実したものである。
当地区では、景観シミュレーションによるワークショップなどを開催し、「ほんとの空とお城山が美しく見える景観づくり協定」を締結し、その後振興会議内に設置された「まち並み委員会」が、協定に基づくデザイン協議を110 回以上繰り返すことで、城下町に相応しい落ち着いた意匠など、ゆるやかなルールのもと、住民個々の意向や個性を尊重した調和のある町並みを生み出している。この成果は「NPO 法人たけねっと」、「NPO 法人桑原さん家」などの住民まちづくり活動との連携や、早稲田大学と芝浦工業大学の研究者と学生、二本松市と福島県関係者の長年の支援に負うところも大きい。
東日本大震災と原発事故による被害とその影響が続く福島県内、二本松市内にあって、「竹根通り景観づくり」は、美しい景観づくりの先に、まちの復興と暮らしの再生の希望を示していることに深い意義がある。よって本作品は、日本都市計画学会計画設計賞に値すると判断した。


もう一つの、都市づくりパブリックデザインセンターさんによる都市景観大賞についてはこちらのサイトに詳しく載っています。

「優秀賞」(公益財団法人 都市づくりパブリックデザインセンター理事長賞)
■地区名:二本松市竹田根崎竹根通り沿道地区
■面積:約9.0 ha
■所在地:福島県二本松市
■応募者:竹田根崎まちづくり振興会議、福島県、二本松市、早稲田大学都市計画研究室芝浦工業大学地域デザイン研究室
■地区の概要:
当地区は、二本松市の中心市街地内であるが、JR二本松駅からは徒歩20分ほどと離れていることもあり、商店街の衰退と人口減少が続いていた。かつての奥州街道である「竹根通り」が幅員18mへ拡幅されることを契機に、魅力的な景観づくりに取り組み始めた。まちづくり活動は住民からなる「竹田根崎まちづくり振興会議」が総括し、行政の支援のもと、住民主導で17年にわたり活動している。大学の支援もあり、模型を使用したワークショップを何度も開催し、まちづくりの計画づくりと街路デザイン、景観づくりを検討してきた。住民は景観協定を締結し、建て替えデザイン協議を110回以上開催してきた。それにより、街路事業と一体となった町並みが完成している。
平成23年3月の東日本大震災と原発事故による低線量放射線被害、風評被害により、当地区も大きな打撃を受けている。そのなかにあって竹根通り景観づくりの完成は、景観の劇的な向上と、それを実現した住民を中心とする関係者の努力で、復興と再生への希望の光と受け取られている。未だ原発事故被害で厳しい状況にあるが、今後は人々が戻り、また新たな産業が生まれることが期待されている。
■審査講評:
とにかく空が広い、道路の両端が山あて、しかも安達太良山と二本松城址、これこそが「ほんとの空とお城山が美しく見える景観づくり協定」という名前の元であることがよくわかる、気持ちの良い道路景観である。全国の多くの道路をみてきたが沿道の建築物の意匠より、何より大事にされてきた空が広いことが、居心地の良さに通じることが印象的であった。また、住民、市、県、そして学識経験者と建築士会、それらの非常に緊密なコラボレーションで、平成9年より長きにわたりまちづくりを作り上げてきた絆を強く感じる。また、110回にわたるデザイン協議にも敬服する。さらには、道路を拡幅したことにより、従来奥にあった蔵が沿道に露出し、展示スペースにしたり、居酒屋にしたり、新たな街のランドマークとして使い、地域の活力を生み出している。道路の拡幅は、ともすれば、街の活気を失いがちであるが、この地区では、見事に、拡幅による洗練された澄み切った空気を感じる街並みが息子世代への牽引に役に立ちそうな気配を感じさせられる、優秀賞に値する景観である。今後の継続にも期待したい。(池邉)

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智恵子の愛した「ほんとの空」まで含めた景観が授賞対象となったかと思うと、喜ばしいことです。東日本大震災からの復興という意味でスポットが当てられるのもよいことでしょう。

しかし、ちょうどこの辺りには、震災から4年経った今も、福島第一原発に近い浪江町の皆さんの住む仮設住宅や、プレハブ校舎の福島県立浪江高等学校津島校なども存在します。この状況が正常な状態であるわけがありません。

『福島民友』さんにあるとおり、二本松の景観が「東日本大震災被災後の地域の復興と再生への希望の象徴」でありながらも、福島が一刻も早く、正常な状態になるようにと願ってやみません。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月30日

昭和57年(1982)の今日、筑摩書房から『定本高村光太郎全詩集』が刊行されました。

光太郎生誕100年の記念出版で、限定700001部、全1,037ページ。『広辞苑』とまではいきませんが、それに近い厚さです。

刊行当時に確認されていた光太郎の詩作品736篇(断片を含む)を編年体で収録しています。

これに先立つ昭和41年(1966)には、新潮社から『高村光太郎全詩集』が刊行されていますが、こちらは光太郎生前に刊行された単行詩集を核として、それらに収められなかったものはその前後に配置するという、いわば紀伝体の編み方でした。

いずれも古書市場で出回っています。光太郎が作った詩のみを読みたい、という方にはお勧めです。

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一昨日、昨日と、新聞報道について書きましたので、今日もその流れで。

光雲、光太郎の名がちらっと出た記事をご紹介します。

まず、『産経新聞』さん。

22日の文化面、「【自作再訪】 澄川喜一さん「そりのあるかたち」 錦帯橋の美しさに惚れ込んで」という記事。

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元東京芸術大学学長で東京スカイツリーのデザイン監修者として知られる彫刻家、澄川喜一さん(84)。47歳のときに誕生した代表作「そりのあるかたち」は、ライフワークとして取り組んできたシリーズだ。反った曲線が特徴の抽象彫刻は、どこか懐かしく親しみがある。代表作誕生の背景には、日本の伝統文化が深く関わっている。

と始まり、昭和53年(1978)、平櫛田中賞を受賞した抽象彫刻「そりのあるかたち」についての話、さらに岩国の錦帯橋、法隆寺の五重塔、東京スカイツリーなどの古今の造型に触れています。

その中で、光雲が主任となって原型が作られた、上野の西郷隆盛像にも言及されました。

公共の場には、周囲の環境に合った作品を創らなければなりません。多くの人が目にするのですから、ひとりよがりの彫刻では駄目なんです。高村光雲は、東京の上野公園の西郷隆盛像を創りました。戦後、軍国主義を一掃するために軍人の銅像がことごとく撤去される中で、西郷さんは残りました。造形もさることながら着流しで犬を連れた庶民的な姿にしたアイデアも良かった。後世に残るものもあれば消えてしまうものもあります。彫刻家の社会に対する責任は重大です。

最後の一文、まさしくその通りですね。


『産経新聞』さん、翌日の教育面には、光太郎の名が。

インテリアデザイナーの小坂竜氏と、お父さんの彫刻家、故・小坂圭二氏を紹介する「父の教え 創作への情熱教わった師匠」という記事です。

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故・小坂圭二氏は、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作に際し、光太郎の助手を務めた彫刻家です。

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その圭二氏の紹介文で、光太郎が引き合いに出されています。

【プロフィル】小坂圭二
 こさか・けいじ 大正7年、青森県生まれ。中国と南太平洋のラバウルで兵役に服す。昭和25年に東京芸術大彫刻科卒業。青山学院中等部の美術教師をしながら彫刻家として活躍。阿部合成や柳原義達らに師事し、高村光太郎の助手を務めた。74歳で死去。


同じくプロフィールの紹介で、光太郎を引き合いにしたのが、『京都新聞』さんの先週の記事。陶芸家バーナード・リーチに関連する記事でした。

東西陶工の縁、百年越え 京都・宇治の一族、リーチ工房に

 20世紀を代表する陶芸家の1人、バーナード・リーチ(1887〜1979年)の母国・英国の工房で登り窯を造った京都・宇治の陶工の一族がこの春、リーチの工房で新たな作陶に挑んだ。近代陶芸の礎を築いた巨匠の工房で、約100年の時を経て再び生み出された東西の美の結晶が27日から京都市内で展示される。
 英国で陶芸に取り組んだのは、宇治で代々続く窯元「朝日焼」の次期当主、松林佑典さん(34)。リーチの工房を支えた陶工松林靏(つる)之助(1894〜1932年)は、13代当主だった曽祖父の弟にあたる。
 靏之助は京都市立陶磁器試験場付属伝習所(現・京都市産業技術研究所)で、後の人間国宝、濱田庄司らに師事。1922年、28歳で英国留学した。リーチと濱田は英南西部セントアイブスで工房を開いたが窯が壊れ、靏之助に窯の築造を依頼した。靏之助は半年がかりで日本式登り窯を造り、京都の陶芸の知識をリーチの弟子たちに教えた。窯は半世紀にわたり使われ、世界で評価される多数の作品が生まれた。
 靏之助は25年に帰国後、38歳の若さで亡くなり、ほぼ無名の陶工だった。京都女子大の前?信也准教授(日本工芸史)が大英博物館で靏之助の茶碗を発見したことから、近年に研究が進んだ。前?准教授は「靏之助がいなければ、今日、私たちの知るリーチはなかった」と高く評価する。
 今年3〜4月の約1カ月間、リーチの工房に滞在した佑典さんは、今も工房の道具が日本由来だったり、釉薬(ゆうやく)の名前が日本語だったりして驚いたという。100年前の姿が残る石造りの工房で、宇治と英国の土を混ぜ、地層や年輪のような味わいのある茶碗など30点を制作した。「異質なものが混ざり合って多様なハーモニーが生まれる。東洋と西洋が交わる普遍的な美を目指した」と話す。
 展示は京都市中京区衣棚通三条上ルの「ちおん舎」で、29日まで。入場無料。28日午後4時半から、前?准教授の講演会もある。朝日焼TEL0774(23)2511。

 ■バーナード・リーチ 英国の陶芸家。幼少期を日本で過ごし、英国に留学中の詩人高村光太郎と出会い、20代で版画家として再来日した。日用品に美を見いだす民芸運動を提唱した柳宗悦と親交が深く、在日中に陶芸にのめり込んだ。東西の美や哲学を融合した作品を発表した。


小坂圭二にせよ、バーナード・リーチにせよ、その紹介に縁の深かった光太郎が引き合いに出され、ありがたいかぎりです。「高村光太郎? 誰、それ?」という状況になってしまうと、こうはいきません。そうならないように、光太郎の名を後世に残す活動に取り組み続けたいと思っています。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月29日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋を訪れた歌人の伊藤岩太郎の持参した画帖に「悠々たる無一物に荒涼の美を満喫せん」と揮毫しました。

伊藤は当時、岩手郡大更村(現・八幡平市)に住んでいました。その後、盛岡に居を構え、自宅の庭に先達の偉業を偲ぶとともに、自分の50年に及ぶ歌道精神の総決算の意味で石川啄木、若山牧水、長塚節、斎藤茂吉、木下利玄、北原白秋の歌碑を建立しました。

伊藤と光太郎のかかわりは、この日の日記にしか確認できませんが、もう少しいろいろあったように思われます。画帖の現物も確認できていません。今後の宿題とします。

「悠々たる……」はこの年に書かれた連作詩「暗愚小伝」中の「終戦」にある「悠々たる無一物に私は荒涼の美を満喫する」の変形。漢文調に語順を変え、送りがなを廃したバージョンの揮毫も複数存在します。

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昭和23年(1948)、光太郎と交流のあった彫刻家・笹村草家人を介し、神田小川町の汁粉屋主人・有賀剛に贈ったと推定されるもの。

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同じ頃、隣村に疎開していたチベット仏教学者・多田等観に贈ったもの。

先月30日、東京は中野区にある、中西利一郎004氏のお宅にお邪魔して参りました。

氏のお父様は、水彩画家の故・中西利雄氏。小磯良平、猪熊弦一郎らと新制作協会を結成しました。同会は昭和11年(1936)、文部省による美術団体統合に異を唱える若き画家達によって結成された団体。後に佐藤忠良、舟越保武らの彫刻家も同人として加わりました。光太郎自身は加わりませんでしたが、近い位置にいた美術家の団体といえます。

右は2年ほど前に見つけたのですが、同会の機関誌的な雑誌『新制作派』の第5号。昭和15年(1940)の発行です。この中に『高村光太郎全集』未収録の「彫刻について」という短い文章が掲載されています。

そして表紙は中西利雄氏の絵です。

その中西利雄氏は、昭和23年(1948)、数え49歳で早世。その直前に竣工していたアトリエは、使われずじまいだったそうです。

その後、せっかくのアトリエを使わないでおくのももったいないということで、貸しアトリエとして使用。昭和26年(1951)頃には、彫刻家のイサム・ノグチが借りています。ノグチはその頃、昨年亡くなった李香蘭こと山口淑子さんと結婚していました。ただし、ノグチ夫妻はここに居住はしていなかったそうです。

その後、昭和27年(1952)の秋から、昭和31年(1956)4月2日まで(途中、一時的に岩手に帰ったり、赤坂山王病院に入院したりした時期もありますが)、花巻郊外太田村から出てきた光太郎がここに居住。「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が制作されました。

裸婦像完成後は再び太田村に帰るつもりでいた光太郎ですが、健康状態がそれを許しませんでした。昭和28年(1953)に一時的に太田村に帰ったものの、また上京、以後、太田村には戻れませんでした。

さらに、光太郎歿後約1年、ここで最初の『高村光太郎全集』の編集が行われました。中心になったのは、当会顧問・北川太一先生、そして草野心平。そして当会の運営する連翹忌の第1回(昭和32年=1957)も、ここで行われています。

さて、中西家アトリエ訪問。当方、外から拝見したことは以前にもあったのですが、中に入れていただいたのは初めてでした。当主の利一郎氏が時折連翹忌にご参加下さっていて、「見にいらっしゃい」的なことをおっしゃってくださっていたのですが、中々機会がありませんでした。

利一郎氏、ひさしぶりに今年の連翹忌にご参加下さり、さらに連翹忌ご常連で、智恵子の学んだ太平洋画会会員の坂本富江さんを交え、今回の訪問が実現しました。

坂本さんとJR中野駅で待ち合わせ、記憶を頼りに歩くこと約10分で到着。

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上記3枚は裏からの眺めです。

表に回るとこうです。住宅密集地なので、超広角レンズでも使わないと全体像はうまく撮影できません。

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訪いを告げ、敷地に入れていただきました。

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瀟洒な建物ですが、もう築70年ほどになりますから、やはり傷みが見られます。

そしていよいよ内部へ。

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故・髙村規氏撮影の光太郎の遺影が出迎えてくれました。

こちらは『高村光太郎全集』に掲載されているアトリエ内部の図面です。

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基本的にはこの通りのままでした。ただし、光太郎が使っていた彫刻の道具類、家具類、身の回りの物などはほとんど残っていません。また、やはり超広角レンズでもなければ全体像は撮れません。

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このあたりに制作中の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が立っていました。

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窓は北向き。造形作家のアトリエでは基本です。

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ここに光太郎が起居し、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を造り、そして最期の時を迎えたかと思うと、「感慨深い」どころではありませんでした。やはりその場所の空気に触れることで、見えてくるものがあります。何が見えたかというと、うまく言葉で表せませんが。

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その後、当時の写真、光太郎が遺した中西利雄夫人宛の書簡、夫人に託した買い物メモなどを拝見しました。いずれも活字になったものやコピー、画像等は拝見したことがありますが、実物は初めてでした。また、光太郎が当時中学生の利一郎氏にくれたお年玉ののし袋――原稿用紙を折りたたんで作り「のし」と書いたもの――には、思わず笑いました。

というわけで、有意義な訪問でした。

しかし、中西家としては、いろいろ課題もあります。やはり築70年ほどで傷みの目立つこの建物を、今後どうするかという問題。あくまで中西利雄のアトリエであって、光太郎のアトリエというわけではないということもありますし。

花巻郊外旧太田村の山小屋は、中尊寺金色堂のように套屋で覆って保存されています。また、福島二本松の智恵子の生家は、大規模補修復元工事を入れました。そうなると、個人の力では不可能ですね。「色即是空」「諸行無常」とは申しますが……。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月8日

昭和20年(1945)の今日、疎開していた花巻の宮澤家で、水彩画「牡丹」を描きました。

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後に花巻病院長・佐藤隆房に送られたこの絵は、現存が確認されている中で、日本画を除いて最大の水彩画です。他にも同様の作品がこの時期に描かれましたが、他は8月10日の花巻空襲の際に焼けてしまいました。

現在、この絵は花巻高村光太郎記念館で開催中の企画展「山居七年」で展示中です。

福島は二本松、智恵子生家・智恵子記念館からの情報です。

まず概略を説明する代わりに地元紙『福島民友』さんの記事を。

「智恵子の生家」限定公開 二本松市合併10周年記念

 詩人・彫刻家高村光太郎の妻で詩集「智恵子抄」で知られる高村智恵子を育んだ二本松市油井の「智恵子の生家」で、智恵子の部屋を含む非公開の2階部分が6月6日から限定公開される。大型観光企画「ふくしまデスティネーションキャンペーン(DC)」や、同市の合併10周年を記念し、公開する。
  智恵子の部屋は収納と一体になった急な階段を上った所にある。大通りに面し、低い天井が当時をしのばせる。また、今回は別の急な階段を上った場所の杜氏(とうじ)などの部屋も新たに公開される。
  限定公開日はDCや夏休み、二本松の菊人形の期間中、冬期間の計47日間。土、日曜日と祝日で、時間は午前11時~午後0時30分、午後1時30分~同3時。入館料は一般410円、高校生以下200円。
  問い合わせは市智恵子記念館(電話0243・22・6151)へ。

  智恵子の生家限定公開日
 【6月】6、7、13、14、20、21、27、28日
 【7月】18、19、20、25、26日
 【8月】1、2、8、9、15、16、22、23日
 【10月】10、11、12、17、18、24、25、31日
 【11月】1、3、7、8、14、15、21、22、23日
 【2月】6、7、11、13、14、20、21、27、28日


通常、立ち入りの出来ない生家二階の智恵子の部屋に入ることができます。また、隣接する智恵子記念館では智恵子紙絵の実物の展示も。

二本松市さんのサイトから。 

「智恵子の生家」二階を期間限定で公開します

明治初期に建てられ、清酒「花霞」を醸造していた旧長沼家。智恵子を育んだ「生家」であり、通常は立ち入りが制限されているこの「生家」二階を期間限定で公開します。
座敷を通り、階段を上がると、智恵子が過ごした部屋が当時のまま保存されています。
また、奇跡と言われる高村智恵子の「紙絵」の実物も期間限定で展示します。この機会に是非ご覧ください。

ふくしまデスティネーションキャンペーン期間(平成27年6月)
 6月の土曜日、日曜日
夏休みシーズン(平成27年7月~8月)
 7月の土曜日、日曜日、祝日
  ※4日(土曜日)、5日(日曜日)、11日(土曜日)、12日(日曜日)は公開しません。
 8月の土曜日、日曜日、祝日
  ※29日(土曜日)、30日(日曜日)は公開しません。
秋の観光シーズン(平成27年10月~11月)
 10月の土曜日、日曜日、祝日
  ※3日(土曜日)、4日(日曜日)は公開しません。
 11月の土曜日、日曜日、祝日
  ※28日(土曜日)、29日(日曜日)は公開しません。
冬季期間(平成28年2月)
 2月の土曜日、日曜日、祝日

公開時間 午前の部 11時00分~12時30分  午後の部 13時30分~15時00分

入館料金  一般410円 ※20名以上の団体は360円  
      高校生以下200円 ※20名以上の団体は150円
休  館  日 水曜日(祝日の場合は、その翌日)

来館者の方へのお願い
 建物内では、必ず係員の指示に従ってください。
 混雑状況により、入場を制限させていただくことがあります。
 明治期の建物のため、窮屈であったり急な箇所がありますので、十分にご注意ください。
 

智恵子の「紙絵」公開期間(予定)

奇跡と言われる高村智恵子の「紙絵」の実物を展示します。
 平成27年6月4日(木曜日)~6月30日(火曜日)
 平成27年10月8日(木曜日)~11月24日(火曜日)

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「場所」のもつ空気感というものは、大事なものです。数十年の時を経ていても、かつて光太郎や智恵子が居たその「場所」に身を置くことで感じられること、新たに見えてくるものもあります。

のちほどレポートしますが、つい先日は、光太郎終焉の場所、中野の中西家アトリエにお邪魔して参りました。中に入れていただいたのは初めてで、感慨ひとしおでした。

今度は智恵子の部屋で、思いを馳せてこようと思っています。皆さんもぜひどうぞ。

それから、隣接する智恵子記念館では、智恵子紙絵の実物の公開。こちらは例年、5月のGWと秋の菊人形期間に合わせて行っていますが、今年は「ふくしまデスティネーションキャンペーン」のからみで、6月と10月だそうです。

複製や画像では感じられない、実物のもつ存在感、迫力といったものを味わってみて下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月2日

昭和48年(1973)の今日、文治堂書店から高村豊周遺稿歌集『清虚集』が刊行されました。

豊周は光太郎の実弟。鋳金の道に進み、いわゆる人間国宝に認無題定されました。

実兄・光太郎同様、文才にも恵まれ、特に短歌は独自の境地を開き、昭和39年(1964)には皇室の歌会始の召人を務めたり、生前には3冊の歌集を刊行したりもしました。

この『清虚集』は、1年前のこの日に亡くなった豊周の遺稿歌集です。解説は盟友とも言える間柄だった草野心平が書きました。

5月15日(金)に行われた花巻高村祭のため、前日から花巻入りし、花巻には2泊しました(もう1泊は仙台)。

14日(木)は鉛温泉藤三旅館さん。昨年先月に続き、3回目の宿泊でした。今回は、㈶花巻高村光太郎記念会さんのご厚意で、昭和23年(1948)に光太郎が泊まった3階の31号室に泊めていただきました。

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リフォームはされているようですが、基本的に昔のままのようで、部材や調度品などは非常にレトロな感じでした。また、非常に天井が高いのが印象的でした。

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窓を開けると、下には豊沢川の清流。

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館内各所にも、レトロなアイテムが随所に見られます。

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深さ約130㌢の自噴岩風呂「白猿の湯」や、渓流沿いの露天風呂など、堪能しました。

よく「枕が変わると寝られない」という方がいらっしゃいますが、当方はそんなことはなく、というか真逆で、「枕が変わると起きていられない」という感覚です。旅先では夕食を摂って一風呂浴びると、もう眠くて仕方がありません。8時から9時にはたいがい眠ってしまいます。その代わり、2時とか3時とか、真夜中に目が覚めます。そこでまた温泉に浸かるとまた眠くなり、朝までぐっすり。また5時、6時くらいに起きて、さらに一風呂。今回の3泊ともそうでした。

2泊目は大沢温泉山水閣さん。こちらも光太郎がよく泊まっており、当方も学生時代から、数え切れないほど泊まっています。ただ、大沢さんは宿が3つに別れており、学生時代は自炊部さん(基本的に湯治客用の木賃宿)、その後は築160年という別館の菊水館さんに泊まっていて、山水閣さんでの宿泊は初めてでした。山水閣さんは少し高級な温泉ホテルという感じです。3館は全て館内でつながっています。

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左奥の白い建物が山水閣さん、右手の古い2棟が自炊部さん。

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こちらが菊水館さん。茅葺きです。下は3館共通の露天風呂、「大沢の湯」です。

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さて、山水閣さんでは、「牡丹の間」という部屋に泊めていただきました。こちらも光太郎ゆかりの部屋です。

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山水閣さん自体が建て替えられた際、光太郎がよく利用した部屋を再現したそうで、部材や調度品は当時のものを転用しているそうです。

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こちらの箪笥、飾りかと思っていたら、ちゃんと浴衣が入っている実用のものでした。

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そして、「光太郎ゆかりの部屋」を前面に押し出しているため、室内には光太郎の書「大地麗」、水彩画「牡丹」の複製が。本物はともに記念館に展示されています。

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床の間には渡辺えりさんのお父様、渡辺正治氏の書。渡辺氏も当方と同じく、高村祭の記念講演講師をなさった際にここに泊まられています。

さらに出てすぐの廊下には、智恵子の紙絵の複製も。

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この部屋はスイートルームの扱いなので、非常に広く、3部屋もあります。

また、やはり窓を開ければ豊沢川の清らかな流れ。鉛温泉さんより下流に位置し、流れも多少穏やかで、この季節、耳を澄ませばカジカガエルの声が聞こえます。

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さらに館内廊下には、光太郎や賢治ゆかりの品々が。光太郎自身の書「顕真実」、仏典の言葉です。さらに渡辺氏同様、高村祭の講師をなさった、鋳金家の故・斎藤明氏、光太郎の実弟・豊周の子息、故・高村規氏の書。

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その他、昨日もご紹介した光太郎写真や、光太郎が訪れた頃の大沢温泉さんの写真などなど。

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廃線となった花巻電鉄の駅が、温泉入り口にかつてあり、その写真です。

こちらでも温泉を堪能しました。それから鉛温泉さん、大沢温泉さんともに料理もすばらしく、おそらく太って帰りました(笑)。

花巻にお越しの際は、ぜひ両館にお泊まり下さい。鉛さんの31号室、大沢さんの牡丹の間、ともにスイートルーム的な部屋ですが、プチ贅沢ということで。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月21日

昭和56年(1981)の今日、佐藤隆房が歿しました。008

佐藤は総合花巻病院の院長を長らく務め、宮澤家ともども、昭和20年(1945)、戦災で焼け出された光太郎を花巻に招くのに一役買いました。

さらに、戦後、太田村に移る前の光太郎を約1ヶ月、自宅離れ(光太郎が「潺湲楼-せんかんろう」と名付けました)に住まわせました。太田村移住後の光太郎は、花巻町に出てきた際には主にここに宿泊しています。

光太郎歿後は顕彰運動を進めるべく、財団法人高村記念会を立ち上げ、その先鞭をつけました。

『高村光太郎山居七年』をはじめ、貴重な光太郎回想も数々残しています。

また、宮澤賢治の主治医だったことでも知られ、賢治の詩「S博士に」のモデルが佐藤だと言われています。

現在の㈶花巻高村光太郎記念会会長、進氏は、佐藤の子息です。

一昨日の高村光太郎記念館リニューアルオープンのため、岩手花巻に行きましたが、オープン前日に花巻入りし、鉛温泉藤三旅館さんに宿泊いたしました。豊沢川の渓流沿い、花巻南温泉峡の奥の方です。
昨年1月に泊めていただいた時以来、2度目の逗留でした。
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少し前にも書きましたが、光太郎もこの鉛温泉藤三旅館さんに泊まっています。確認できている限りでは、昭和23年(1948)に3回、それぞれ一泊しています。同24年(1949)と25年(1950)の日記が失われている他、それ以外の時期にも日記執筆をサボっていることがあるので確認できませんが、もしかするとその間にも泊まっているかもしれません(旅館ではその頃の宿帳は保存していないとのこと)。

その当時の建物もまだ健在。前回は、宿泊前に下調べを十分にして行かず、光太郎がどの部屋に泊まったのかわかりませんでしたが、今回はちゃんと調べてから行きました。

二度目に訪れた昭和23年(1948)5月11日の日記に、以下の記述があります。

午后五時五分の電車にて二ツ堰発、鉛温泉まで。 宿にては村長さんより電話ありたりとて待つてゐたり。此前と同じ室三階三十一号室。畳あたらし。

また、三度目の宿泊となった同月18日の日記では、

二ツ堰より電車にて鉛温泉。 乗車中豪雨降る。後止み、晴れる。温泉にては前と同じ31号室(三階)。

とあり、確認できている3回とも、3階の31号室に泊まったことが分かりました。ちなみに「電車」は花巻電鉄です。

当方の部屋は、同じ3階の85号室。だいぶ番号が離れているので、昔と部屋番号が変わってしまっているのかも、と思いましたが、部屋に備え付けの館内案内を見てみると、ちゃんと「31号室」があり、早速行ってみました。

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当方の部屋は後から建て増しされた棟のようで、光003太郎の泊まった31号室は古い棟の角部屋でした。渡り廊下的な場所からこういう風に見えます。

さらに、帰ってからネットの公式サイトで調べてみると、「寛ぎのゆったり部屋」ということで紹介されていました。

ちなみに20号室という部屋は、田宮虎彦が泊まって小説「銀心中」を執筆したということで、「文人ゆかりの部屋」と紹介されています。

それよりは光太郎が泊まった部屋を前面に押し出すべきだと思うのですが、どうも藤三旅館さんではそのことをご存じないようです。

機会があったら、ぜひこの31号室を予約しようと思います。ただ、このタイプの部屋は、通常、1名での宿泊は受け付けていないようです。どなたかご一緒しませんか(笑)。

前回泊まった時も書きましたが、料理は美味しく、それでいて料金はリーズナブルでした。

それから、深さ約130㌢の「白猿の湯」をはじめ、光太郎も誉めた温泉もやはりグッドでした。1泊で3回入ってきました。当方の好きながっつり熱い湯もあったのが嬉しいところでした。

ちなみに「白猿の湯」については、光太郎日記では以下の通り。昭和23年(1948)4月26日のものです。

昨夕温泉に久しぶりにて入る。深い共同風呂にも入る。泉質よきやうなり。温度余に適す。
(略)
朝五時頃入浴。二三人老人が入り居るのみ。きれい也。

館内あちこちのレトロな雰囲気もいい感じです。

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翌朝、高村光太郎記念館リニューアルオープンに向かう前に、宿の周辺を散歩しました。市街地ではないため、昭和20年代の光太郎がいた頃の雰囲気がまだよく残っているように感じました。

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このあたりも春を迎え、いろいろな花が咲き誇っていました。関東では盛りを過ぎた桜、連翹、さらにカタクリやふきのとう。

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特にカタクリ(すぐ上の画像)が普通に道端に咲いているのは、初めて見たように思いました。

さらに迎えに来ていただいた㈶花巻高村光太郎記念会事務局長さんの車の中からは、やはり道端にミズバショウが咲いているのも見えました。

ちなみに高村光太郎記念館、そして光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)周辺も、花々が咲き乱れていました。

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山荘は、隣接する便所「月光殿」の鞘堂を改築中です。004
右の画像は、記念館前のコブシの花です。

この地域、これから1年中でもっともいい季節となります。ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月30日

昭和22年(1947)の今日、雑誌『農民芸術』に、宮澤賢治がらみの散文「玄米四合の問題」を発表しました。

賢治の「雨ニモマケズ」中の「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」に触れ、次のように述べています。

 私の見るところでは宮澤賢治の食生活は確に彼の身を破り彼の命数を縮めた。宮澤賢治に限らず、かういふ最低食生活をつづけながら激しい仕事をやつてゐたら、誰でも肋膜にかかり、結局肺結核に犯されて倒れるであらう。
(略)
 私は玄米四合の最低から、日本人一般の食水準を高めたい。牛乳飲用と肉食とを大いにすすめたい。日本人の体格を数代に亘って改善したい。消極的健康から積極的健康に日本人を転換させたい。食生活の合理化を実行して此の結核国から結核を駆逐したい。精神力涵養に不可欠な身体力の培養に十全の力をそそぎたい。

賢治を殺し、智恵子を奪い、そして今また、自らの身を冒す結核への憎しみが見て取れます。

昨日は都内を歩き回りました。3回に分けてレポートいたします。

まず、芝増上寺さん。

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4月2日(奇しくも第59回連翹忌の当日)、本堂地下に宝物展示室がオープンし、里帰りを果たした英国ロイヤルコレクション所蔵の「台徳院殿霊廟模型」が、目玉として展示されています。この制作(明治43年=1910)には東京美術学校があたり、光雲も監修者として名を連ねています。

4月2日の『朝日新聞』さんの記事がこちら。

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浜松町駅から歩き、地名の由来ともなった大門をくぐって境内へ入り、本堂を参拝。目指す宝物展示室の入り口付近では、何やら僧侶の皆さんが読経中。密教系の護摩法要のような感じでした。増上寺さんは浄土宗なので「?」と思ってよく見ると、どうやら一般家庭から納められた仏壇のお焚き上げを行っているようでした。

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さて、地下の宝物展示室へ下り、入場料700円也を支払って、中へ。まず正面にドーンと「台徳院殿霊廟模型」。模型というよりもはや小建築です。撮影は禁止なので、いただいたチラシから画像を拝借します。

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これで10分の1スケールだというのですから、焼失した霊廟自体の大きさ、豪壮さはいかばかりであったか、と思いました。

戴いたパンフレットに載っていた昭和20年(1945)当時の境内の伽藍配置はこの通り。台徳院殿霊廟は本堂の南側にありました。現在の本堂も巨大な建物ですが、図面によればそれよりはるかに大きかったことが分かります。

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修復のため取り外された部材や説明パネル、修復の模様を追ったビデオを観、光雲が監修者として関わった意味がよく分かりました。霊廟のエクステリアや内装の、肘木、かえる又、欄間などに施された彫刻も、ちゃんと10分の1スケールで復元されているのです。この仕事は明治末には光雲系の木彫師でないと不可能だったでしょう。

ちなみにこの台徳院殿霊廟、日光東照宮の建築に先駆けて作られたもので、いろいろな意味で東照宮のプロトタイプ的な要素もあったとのことです。

平日にもかかわらず、多くのお客さんがいらしていました。高い知的好奇心を持つ方々が多く存在するというのも、この国の強みの一つですね。

宝物展示室を後に、本堂裏手に廻りました。墓地があり、その一角に納骨堂が建っています。

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この納骨堂内部には地蔵菩薩さまがおわすのですが、そちらも光雲が原型を制作したものだそうです。昭和8年(1933)の建築で、こちらは空襲の被害をまぬがれています。

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扉は時折開いているらしいのですが、残念ながら、昨日は開いておらず、光雲作の地蔵菩薩は見られませんでした。ただ、堂の周囲の四方に銅製の狛犬のような彫刻があり、光雲系の匂いがします。しかし、ざっとネットで調べてみても詳細は不明です。情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただけると幸いです。

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増上寺さんを後に、次なる目的地、新宿に向かいました。以下はまた明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月17日

平成4年(1992)の今日、福島県安達町(当時)が『命と愛のメッセージ』を刊行しました。

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同日開館した智恵子記念館のパンフレット的な刊行物ですが、50ページ超、紙絵を中心に智恵子作品集の要素も持っています。その後発見された智恵子筆のデッサンを収めた改版が平成14年(2002)に発行され、現在も記念館で販売中です。

少し前からぽつぽつ書いていましたが、岩手花巻の高村光太郎記念館のリニューアルオープンについてです。

以下、花巻市のサイトから。

高村光太郎記念館のリニューアルオープンについて

改修工事を行っている高村光太郎記念館の開館日程が決まりましたのでお知らせします。
開館に先立ち記念式典を行う予定です。
なお、高村光太郎記念館は、旧花巻歴史民俗資料館を活用して平成25 年5 月15 日から市営の記念館として暫定的にオープンしていたもので、平成26 年度において全面的に改修を行っていたものです。
記念館の展示は、彫刻をメインに映像や音響などを工夫して光太郎の世界に誘導する「展示室1」と、書や詩などを時代背景とともに解説してテーマ別に理解を深める「展示室2」の2つのゾーン構成となっております。
改修にあたっては、顕彰活動を行っている財団法人花巻高村光太郎記念会や地域の皆さんのご意見を聞きながら進めてきており、今回の記念館整備により、以前より多くの来館者においでいただけることを期待しております。

                記

1  開館日時  平成27年4月28日(火)正午から
2  式典概要  開館日の午前中に式典を実施
    市長あいさつ、来賓祝辞、テープカット等  テープカット後に式典参加者に対し展示説明
3  その他 工事に伴いまなび学園で開催中の「高村光太郎展」は4月15日まで会期を延期します。

なお、式典の内容については、詳しく決まり次第ご案内します。
開館を記念して、28日(火)29日(水・昭和の日)は入場無料。
5月15日(金)、高村山荘 詩碑前で開催される「高村祭」は開館を記念した行事として、記念講演や地域の小中学生による朗読や合唱などを行う予定です。

こちらは今月2日の第59回連翹忌にて配布されたチラシです。

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一昨年の5月に仮オープンとなった高村光太郎記念館。その時点では上記画像の展示室1のスペースのみの使用となっていました。

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それがこれまで使用していなかった奥のスペースも使用、約2倍の面積となり、さらに展示内容も一新されます。

手前の展示室1は「彫刻をメインに、映像や朗読で光太郎の世界に誘導する」というコンセプトです。朗読は声優の堀内賢雄さん。先月、東京水道橋のスタジオにての収録に立ち会って参りました。イメージ映像も流れ、ハイテクな展示となるようです。

展示室2は、書、草稿、著書、遺品などのテーマ別展示がメインです。特に書に関しては、充実しています。また、宮澤賢治や石川啄木など、岩手の人々との関わりについての展示も為されます。この部屋の説明パネルの一部を執筆させていただきました。

さらに上記図面で云うと展示室2の右側が副室となっていて、そちらは1年間のスパンで企画展的に展示を入れ替えます。最初の展示のテーマは「光太郎山居七年」ということで、昭和20年(1945)から同27年(1952)の、この地での光太郎にスポットを当てます。ただし、副室のオープンは来月となります。


おりしもGW。ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月13日

明治45年(1912)の今日、歌人・石川啄木が歿しました。

宮澤賢治と並び、岩手を代表する文学者である石川啄木。光太郎より0103歳年少でしたが、明治45年(1912)の今日、数え27歳で歿しました。その短い生涯の中に、光太郎との接点がありました。

明治35年(1902)、旧制盛岡中学を退学し、上京した啄木は、その2年前には東京美術学校在学中の光太郎も加わっていた、与謝野鉄幹の主宰する新詩社同人となりました。この年11月に東京牛込で開催された新詩社小集(同人の会合)で、二人は初めて出会ったと思われます。当時の啄木の作は、短歌より詩や小説が中心でした。

同38年(1905)4月には、新詩社演劇会が開催され、ドイツの劇作家コッツェブー作の喜劇「放心家(うつかりもの)」、光太郎作の戯曲「青年画家」が上演されました。「放心家」では、主役の軍人を光太郎が演じ、啄木も出演しています。

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啄木は光太郎のアトリエをしばしば訪れていましたが、光太郎は当時の啄木を高く評価していませんでした。「彼の詩は美辞麗句ばかりで青年客気の野心勃々というあくどさがあってどうも私は感心しなかった。」と、昭和23年(1948)の対談で語った他、同様の発言は多くあります。詩でも「いつのことだか忘れたが、/私と話すつもりで来た啄木も、/彫刻一途のお坊ちやんの世間見ずに/すつかりあきらめて帰つていつた。」(「彫刻一途」昭和22年=1947)と記しています。

その後、啄木は盛岡に移り、光太郎は足かけ4年にわたる欧米留学に出、一旦、二人の交流は途絶えます。両者が再会したのは、光太郎帰国後の明治42年(1909)。その前年には、啄木も再上京しています。新詩社の機関誌『明星』は廃刊となり、後継誌『スバル』が啄木を編集人として創刊されていました。留学先のパリからも寄稿をしていた光太郎は、帰国後、詩や評論をどしどし発表します。その関係で、二人はたびたび顔を合わせていたと推定されます。

この頃の啄木は、明治43年(1910)刊行の『一握の砂』に収められた短歌を量産していた時期で、のちに光太郎は「前は才気走つたオツチヨコチヨイみたいな人だった」としながらも、この時期の啄木は「病気になつてから、あの人はうんとあの人の本領になつた」(対談「わが生涯」昭和30年=1955)と語っています。

しかし、病魔に蝕まれた啄木は、明治45年(1912)に還らぬ人となってしまいました。その生がまだ続いていたとしたら、光太郎との間係がどう発展していったのか、興味深いところです。

先月末に、花巻市さんのサイトで、市議会に於ける市長演述がアップされました。

長いので全文は引用しませんが、郊外太田地区の高村光太郎記念館に関する発言もありましたので、そこのみ引用させていただきます。

宮沢賢治記念館と高村光太郎記念館の展示リニューアルについては、平成26年度当初予算に予算計上しておりましたが、市民の意見を十分に反映するために、説明会を開催するとともに、市民の皆様から意見をお聞きするよう指示いたしました。
宮沢賢治記念館と高村光太郎記念館の展示リニューアルは、事業の進捗に若干の遅れが生じておりますが、宮沢賢治記念館は本年4月に、高村光太郎記念館はゴールデンウィーク前後にそれぞれリニューアルオープンする予定となっております。


昭和41年(1969)、光太郎が暮らしていた山小屋(高村山荘)敷地内に建てられた最初の記念館は、施設の老朽化が進み、閉鎖。一昨年の5月、それまで花巻市の歴史民俗資料館だった建物を新たに高村光太郎記念館とし、花巻市営として再スタートしました。ただし、あくまで仮オープンということで、とりあえずのものでした。それが今年の「ゴールデンウィーク前後」にグランドオープンする予定だそうです。

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初代記念館


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現在の記念館


というわけで、現在はリニューアル工事中ですが、上記画像でいうと、手前の建物のみでの展示だったものを、奥のもう一棟も使用することとなり、展示面積は2倍程になります。常設展示以外にも、企画展示を行うスペースも設定されています。展示内容もほぼ固まっています。

そこで、㈶花巻高村光太郎記念会事務局の方が、昨日、当方自宅兼事務所にお見えになり、いろいろと打ち合わせをしました。当方、館内に掲示される説明パネル、展示品のキャプション等の一部を執筆することとなり、早速作成にかかっています。

また、来週には館内の映像や音声で光太郎詩を紹介する「朗読コーナー」の録音のため、東京水道橋に出向いてきます。朗読を担当なさるのは、ベテランの男性声優さんだそうです。楽しみです。


グランドオープンとなりましたら、ぜひぜひ、008ぜひぜひ、足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月6日

平成元年(1989)の今日、PHP研究所から、日野多香子著『冬よ ぼくに来い いちずに美をもとめつづけた高村光太郎』が刊行されました。

「PHP愛と希望のノンフィクション」というジュブナイル(年少者向けの刊行物)シリーズの一冊です。

幼少期からその死までの、光太郎の生涯をわかりやすくまとめたものです。

昨日に引き続き、芝増上寺さんの展示情報です。

『産経新聞』さんで大きく報道されています。 

2代将軍秀忠の墓所「台徳院殿霊廟」模型、日本初公開へ。

 徳川幕府の第2代将軍秀忠の墓所で、70年前の空襲で焼失した国宝建造物「台徳院殿霊廟(れいびょう)」の実像を唯一知ることのできる精巧な模型が英国で見つかり、徳川家康の没後400年目を機に4月から、霊廟のあった増上寺(東京・芝公園)で公開されることになった。
 模型は実物の10分の1(幅約4メートル、奥行き約5メートル、高さ約2メートル)で、1910年(明治43年)にロンドンで開かれた日英博覧会の展示品として当時、東京市が著名な彫刻家、高村光雲ら東京美術学校の専門家の監修で製作した。
 展示後、模型は英王室直属機関のロイヤル・コレクションに渡った。徳川時代の建築の専門家でもある同機関の現代表、ウィリアム・コールドレイク氏が20年前、埋もれていた模型を見つけ、修復に着手。作業が複雑で修復は未完了だが、家康没後400年目の今年、増上寺に貸与する形で公開することになった。
 霊廟は秀忠が没した1632年に建立され、霊廟建築のひな型ともなったが、焼失後はモノクロ写真でしか見ることができなかった。コールドレイク氏は「模型なら質感や色がわかり、当時の専門家の手による作品というだけでも国宝級だ」と話している。

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展示の概要は以下の通りです。

「増上寺宝物展示室」概要
【名 称】増上寺 宝物展示室
【日 付】平成27年4月2日(木)より一般公開
【時 間】10:00~16:00
【休館日】火曜日 *御忌期間中4/2~7は毎日公開。その他臨時公開日あり
【会 場】大本山 増上寺 大殿地下1階「宝物展示室」(旧三縁ホール)
【入館料】一般 700円(税込) *徳川将軍家墓所拝観とのセット券 1,000円(税込)


ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月19日

平成12年(2000)の今日、ソプラノ歌手藍川由美のCD『「國民歌謡~われらの歌~國民合唱」う歌う』がリリースされました。

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昭和15年(1940)に徳山璉の歌で発表された、光太郎作詞、飯田信男作曲の「歩くうた」が収められています。当時の楽譜通りの演奏です。

以前にもご紹介しましたが、藍川さんは歌謡史の研究も兼ね、忘れ去られつつある歌謡曲等の実演に取り組まれています。

東京は芝から、光太郎の父・光雲がらみの情報先の話のため、もうすこし後で記事にしようと思っていましたが、新聞報道がなされていますので、ご紹介します。

芝増上寺さんのサイトから。

増上寺宝物展示室2015年4月2日OPEN

 平成27年は、徳川家康公没後400年にあたります。その記念すべき年に、家康公によって徳川将軍家の菩提寺と定められ発展してきた増上寺では、本堂地下1階に宝物展示室を開設することになりました。

展示の中心となるのは、英国ロイヤルコレクション所蔵の「台徳院殿霊廟模型」です。台徳院殿霊廟は二代秀忠公の墓所として、1632年(寛永9年)、三代将軍家光公によって境内南側に造営された壮大な建築群でした。徳川家霊廟の中で最も壮麗とされる日光東照宮のプロトタイプとなった霊廟で、1930年(昭和5年)に国宝に指定されましたが、1945年(昭和20年)5月の戦災により焼失してしまいました。

この模型は、いまではモノクロ写真でしか往時の姿をしのぶことができない台徳院殿霊廟の主要部分が、10分の1のスケールで製作されたものです。

女王陛下より増上寺へ霊廟模型の長期貸与が決定

  模型の製作は、東京美術学校(現東京芸術大学)が行い、古宇田実教授(建築)、高村光雲教授(彫刻)両名の監修のもと、明治末期の最高の技術をもって、忠実に再現しました。
  英国側がこの模型を日本で展示し、ひろく一般公開する意向を持ち、英国大使を通じて徳川御宗家並びに増上寺への協力依頼により本計画が実現しました。
  展示室を開設し一般公開することは、日英文化交流にとって友好のしるしとなること、そして模型が持つ美術工芸品的、資料的、歴史的価値を多くの人に知っていただける好機だと増上寺では考えています。 

1910年(明治43年)ロンドンで開催された日英博覧会に東京市の展示物として出品。博覧会終了後に英国王室へ贈呈され、ロイヤルコレクションの一つとなり、現在まで英国にて大切に保管されてきたのです。


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英国大使館さんのサイトにも情報が掲載されています。 
明治期の台徳院殿霊廟模型が、こ004の春、日本で初公開されます。
東京の失われた国宝建造物の中でも重要な建築の一つに挙げられる台徳院霊廟の1/10スケール模型が、100年余ぶりに日本に戻りました。英国ロイヤル・コレクションの1つであるこの模型は、徳川家2代将軍、徳川秀忠公(1579-1632)の墓所である台徳院霊廟を再現したものです。エリザベス2世女王陛下のお許しで、日本の職人の手による12ヶ月にわたる丹念な修復作業を経て、当初霊廟が建造されていた東京(かつての江戸)の増上寺にて、長期公開されます。本模型は 徳川家初代将軍、家康公の没後400年を記念した展示(4月2日より一般公開)の中核をなすものです。
台徳院殿霊廟は、1632年、徳川家の菩提寺である増上寺の境内に建造され、その名は秀忠公の法名に因んでいます。本霊廟はその後の霊廟建築におけるひな形の一つとなっており、特にさまざまな場所に施された独特の装飾は大きな影響を与えましたが、1945年、東京への戦時中の爆撃により焼失しました。
模型は1910年にロンドンで開催された日英博覧会のために東京市(当時)が発注したもので、より小型の日本の歴史的建造物模型13点と共に展示されました。高名な彫刻家、高村光雲など東京美術学校(現・東京芸術大学)の専門家による監修の下、当時トップクラスの大工、漆職人、彫刻家らによるチームが製作を担当。幅3.6メートル、奥行き5.4メートル、高さ1.8メートルで、同博覧会のために依頼された大半の模型の5倍の大きさでした。
模型は、台徳院殿霊廟を構成する三棟、本(ほん)殿(でん)、拝殿(はいでん)、相之間(あいのま)を内外にわたり、色彩豊かに細部に至るまで再現しています。屋根は数千枚に及ぶ親指の爪サイズの銅瓦など、素材や技巧にも忠実です。
東京での修復作業は主に本殿部分で、屋根瓦や漆塗りの木の枠組みや扉、御簾、徳川家の家紋、金箔を施した阿弥陀浄土図などの壁画の修理や洗浄などが行われました。須(しゅ)弥壇(みだん)の両端に立つ来迎柱(らいごうばしら)は特に注意深く修復され、霊廟を取り囲む巨大な透(すき)塀(べい)の洗浄と再構築もおこなわれました。   日英博覧会は1910年5月14日から10 月29日までロンドンのホワイトシティで開催され、日本が参加した国際博覧会としては最大規模のものでした。発展を遂げる日本国のイメージを英国に発信し、両国の貿易関係を強化することを目的としていました。この博覧会では日本の工芸・音楽・スポーツ・娯楽のデモンストレーションも行われ、英国王ジョージ5世やメアリー王妃も訪問、来場者は800万人超に達しました。その後、霊廟の模型は国王に贈呈され、長年にわたり王立植物園(キューガーデン)にて一般公開されてきました。
駐日英国大使 ティム・ヒッチンズより:

“長い年月を経て、台徳院の模型が日本に戻ることを非常に喜ばしく思います。2008年に皇太子殿下が訪日された際、模型の来迎柱の一つを増上寺の副住職に贈りました。今回は模型全体が戻ります。英国と日本が協力することで、歴史的にも政治的にも重要かつ非凡な職人技を広く一般に届けることができるという、今後のあり方を象徴的する素晴らしい出来事です。この模型は、炎に消えて取り戻せないと思われた建物を甦らせます。”
ロイヤル・コレクション・トラスト 総責任者 ジョナサン・マースデンより:

“この類まれな模型の存在意義は、オリジナルの建物と敷地の消滅によってさらに高まっています。私はエリザベス2世女王陛下の代理として、ロイヤル・コレクションの一つであるこの見事な作品の管理責任を担っておりますが、ロイヤル・コレクション・トラストと増上寺の素晴らしい提携のおかげで、この模型が最高の職人によって修復され、東京の皆さんに江戸時代の最高建築を十分にご堪能いただけることを嬉しく思います。”
大本山増上寺 友田達祐 執事長より:

“エリザベス2世女王陛下のご好意により、台徳院殿霊廟模型が100年ぶりに里帰りし、4月2日から増上寺において一般公開できますことを、心より喜んでおります。徳川将軍家の菩提寺として発展してきた増上寺の、往時を偲ぶ貴重な資料でもあり、修復・展示実現のため、ご尽力いただきましたロイヤル・コレクション・トラスト、駐日英国大使館はじめ、関係皆様に感謝いたします。”


他にも新聞報道等がなされていますが、長くなりましたので、またご紹介いたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月18日

昭和27年(1952)の今日、光雲高弟の一人、本山白雲が歿しました。

本山は高知出身の士族。明治4年(1871)の生まれで、光太郎より12歳年長でした。旧主のとりなしで光雲に弟子入りし、さらに東京美術学校にも入学、卒業後はそのまま美校に奉職しました。幼い日の光太郎が、共に彫刻修行に励んだ一人です。

昭和4年(1929)に刊行された光雲の談話筆記『光雲懐古談』中の「谷中時代の弟子のこと」から。

 それから、やはり谷中時代の人で、今日は銅像制作で知名の人となつてゐる、本山白雲氏があります。氏は土佐の人、同郷出身の顕官岩村通俊(いはむらみちとし)氏の書生をしてゐて、親を大切にして青年には珍しい人で美術学校入学の目的で私の宅へ参つて弟子になりたいといふことで、内弟子となつてゐました。後に学校に這入りました。今日でも氏は能く昔のことを忘れず、熱さ寒さ盆暮れには必ず挨拶にきてくれます。今では銅像専門の立派な技術を持つた人です。

「銅像専門」とありますが、代表作は郷里005の高知桂浜に立つ、有名な坂本龍馬像です。

ところで、今日、2月18日は、本山以外にも、奇しくも光太郎と関係のある人物多数の命日です。

明治36年(1903)、五代目尾上菊五郎。光太郎は彼のファンで、肖像彫刻も作りました(現存は確認できず)。

昭和14年(1939)、岡本かの子。彫刻科を卒業し、再入学した東京美術学校西洋画科での同級生・岡本一平の妻で、智恵子同様、『青鞜』のメンバーでもありました。

永禄4年(1564)、ミケランジェロ・ブオナローティ。言わずと知れたルネサンスの巨匠です。ロダンと共に、光太郎彫刻の血脈を形作りました。

こうした中で、やはり光太郎との縁の深さを考え、本山を代表にさせてもらいました。

先週土曜日、東京国立博物館黒田記念館を後にして、谷中、根津を経由して徒歩で本郷に向かいました。このエリアには当方の好きなレトロな建物がよく残っており、大好きな街の一つです。
 
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さて、日展の新会館前を過ぎ、現在の谷中6丁目。総持院という小さなお寺があります。このあたりの一角で、少年時代の光太郎とその一家が暮らしていました。明治23年(1890)~同25年(1892)のことです。ただし、光太郎の住居があった場所そのものは道路になってしまっているそうです。
 
明治22年(1889)に、光雲は東京美術学校に奉職することになって、翌年、仲御徒町から谷中に転居、このあたりから通勤していました。光太郎は日暮里小学校(現・第一日暮里小学校)に転校、尋常小学校の課程を終え、高等小学校の課程は下谷小学校に通いました。
 
この谷中での約3年間に、光太郎一家にはさまざま001な出来事がありました。弟の豊周と孟彦(藤岡家に養子)が生まれたのもこの時期です。光雲は帝室技芸員を拝命、楠公銅像の木型制作主任となり、さらにシカゴ万博に出品された重要文化財「老猿」もここで作られました。
 
しかし、光太郎の姉のさくが肺炎で歿したのも、ここ谷中で、光雲は目の中に入れても痛くないほどかわいがっていた娘の死に落胆、つらい思い出の残る谷中を引き払って、千駄木に移ります。
 
さて、光太郎に「谷中の家」という散文があります。昭和14年(1939)、雑誌『新風土』に掲載されました。一部、抜粋します。
 
 家は古風な作りで、表に狐格子の出窓などがあつた。裏は南に面して広い庭があり、すぐ石屋の石置場につづき、その前には総持院といふ小さな不動様のお寺があり、年寄りの法印さまが一人で本尊を守つてゐた。父の家の門柱には隷書で「神仏人像彫刻師一東斎光雲」と書いた木札が物寂びて懸けられてゐたが此は朝かけて夕方とり外すのが例であつた。
 私の少年時代の二三年はここで過された。私は花見寺の上の諏訪神社の前にあつた日暮里小学校に通つてゐた。車屋の友ちやん、花屋の金ちやん、芋屋の勝ち やん、隣のお梅ちやん、さういふ遊び仲間と一緒にあの界隈を遊びまはつた。おとなしい時は通りの空どぶへ踏台を入れて隣のお梅ちやんなどとまま事をした り、石置場でゴミ隠し、かくれんぼをしたりした。男の子が集まると多く谷中の墓地へ押し出して鬼ごつこいくさごつこをやつた。
 
そんなこんなに思いを馳せながら、谷中を通り過ぎ、根津へ。
 
谷中の光太郎旧居周辺は最初から通るつもりでしたが、根津では人の流れに乗って、当初行く予定ではなかった根津神社に参拝しました。このあたりも光太郎がよく歩いた一角ではあります。
 
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その後、本郷に行き、北川太一先生を囲む新年会に参加させていただきました。
 
来年もお招きいただけると思いますので、やはりこのエリアで、光太郎智恵子光雲ゆかりの地などを訪ねようと思っています。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月13日

明治41年(1908)の今日、日本画家・橋本雅邦が歿しました。
 
狩野派の流れを汲む雅邦は、光雲同様、岡倉天心に見出され、初期の東京美術学校絵画科で教鞭を執りました。
 
天心がバッシングされた美術学校事件で、天心と共に辞職、日本美術院を立ち上げる明治31年(1898)まで美術学校に在職、光雲と同僚であった他、彫刻科でも臨画の授業を担当し、光太郎も教わりました。
 
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明治27年(1894)、美校の第2回卒業記念写真から採りました。左から光雲、黒川真頼、岡倉天心、橋本雅邦、川端玉章です。

先週、妻が買い物に行きたいというので、日本橋のCOREDO室町さん、COREDO日本橋さんに連れて行きました。
 
ついで、と言っては何ですが、東京駅丸の内口にある東京ステーションギャラリーさんにも寄りました。現在、「東京駅開業百年記念 東京駅100年の記憶」が開催されています。 
 
このブログで繰り返し書いてきましたが、今年は大正3年(1914)から数えて、光太郎智恵子結婚披露100周年、「道程」100周年です。そして東京駅の開業も同じ大正3年(1914)で100周年ということで、いろいろと記念イベント等がありました。限定Suica発売での大混乱のニュースは記憶に新しいところですね。
 
駅舎も6年にわたる改修工事が行われ、ほぼ開業当時の姿が復元されたということです。
 
で、ステーションギャラリーさんでは、この企画展です。東京駅に関わる美術作品の展示や、文学作品の紹介があるというので、また、妻が意外と鉄道好きなので、寄ってみました。
 
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展示のうち、ジオラマなどは撮影可でした。
 
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美術系では、石井鶴三(版画)、松本竣介(油絵)など、光太郎と交流のあった作家の作品が並んでいました。クロニクル的なコーナーでは、開業当時の駅付近の名所、ということで光雲作の楠公銅像の写真が載った冊子が、そのページが開かれて展示されていました。
 
また、これはちょっと驚いたのですが、つい先日のこのブログでご紹介した昭和27年(1952)12月14日の『週刊朝日』が展示されていたこと。
 
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石川滋彦の描いた東京駅丸の内口風景が表紙に使われていたためです。「この中に光太郎の文章が載っているんだよなぁ」と思いつつ、見ました。しかし、キャプションが「12月14日」ではなく「2月14日」となっていたのには閉口しました。帰りがけにアンケートボックスがあったので指摘してきましたが、その後、訂正されたでしょうか。
 
東京駅の駅舎は、関東大震災や太平洋戦争など、100年の間に何度か危機を迎えたそうです。しかし、そのたび保存の動きが起こり、今に至っています。そして今回の改修では、さらに100年後を見据えての改修がなされたとのこと。すばらしいですね。
 
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こちらはステーションギャラリーさん内部の階段です。当時の煉瓦が残っており、重要文化財です。
 
100年後、当方はもうこの世にいませんが、「東京駅開業200年」と大きく取り上げられているのではないかと想像します。もっとも、100年後にも鉄道というものがあるのかどうか、なんともわかりかねますが。一方の光太郎智恵子。100年後にも「光太郎智恵子結婚200周年」、「『道程』200周年」と、取り上げられていてほしいものです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月29日
 
昭和33年(1958)の今日、画家・石井柏亭が歿しました。
 
石井は光太郎より一つ年長。病気のため中退しましたが、光太郎と同じ東京美術学校に通っていました。また、与謝野夫妻の新詩社や、「パンの会」で光太郎と親しく交わりました。
 
「日本初の印象派宣言」とも言われる、光太郎の有名な評論「緑色の太陽」(明治43年=1910)は、その国や地域に固有の色調(地方色)を重視すべしという石井の論に反駁する、という意味合いもあって書かれました。しかし、仲が悪かったというわけではありませんでした。
 
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上記は明治37年(1904)、上州赤城山でのショット。左から、大井蒼梧、与謝野鉄幹、伊上凡骨、光太郎、石井柏亭、平野万里です。
 
ちなみに柏亭の弟は彫刻家の鶴三。やはり光太郎と親炙しました。上記ステーションギャラリーの企画展に鶴三作の版画も展示されています。

岩手の地方紙、『岩手日日』さんの報道です。 

展示計画概要を説明 花巻市 光太郎記念館改修で (08/27)

 花巻市太田の高村光太郎記念館の展示改修に向けた市による2回目の説明会は25日夜、太田振興センターで開かれた。4月の説明会以降、市に寄せられた意見の検討結果を報告し、主に2014年度事業で進める展示改修の概要を説明した。

 地元の住民ら19人が参加。市生涯学習交流課が展示と施設改修の基本設計や周辺環境整備、運営方法に関わる40件余りの意見・要望への検討案を説明した。

 この中、研究者や学生が調べものをできるスペースを確保してほしいという要望に「事務室や休憩コーナーで対応する」として事務室を当初計画の約1・5倍に広げ、トイレの位置を移す設計変更を説明。高村山荘を望む窓の設置に関する要望には「建物の構造上、実現は困難」と理解を求めた。

 施設は、彫刻作品や映像中心の展示室1を「動」、作品解説と生涯を紹介する展示室2を「静」の空間とし、図書が閲覧できる休憩室、企画展示室も配置。展示室2は、山荘暮らしや県内著名人との関わりなど六つのゾーンで紹介する。

 山荘そばにある智恵子展望台への遊歩道の改修や駐車場舗装工事、屋外公衆トイレ改修、敷地内案内看板の設置のほか、15年度に予定する杉木立の伐採や詩碑前広場の改修案も説明した。

 参加者からは「開館日ごとの日付に合わせて光太郎の日記を紹介しては」「立木はどれを切るかでなく、どれを残すかの発想で取り組むべき」「山荘裏山の地滑り対策を」など貴重な意見や提案が相次いだ。

 細川祥市生涯学習部長は「地元の人たちの思いを大事に相談しながら進めたい」と語った。

 同記念館は、光太郎が晩年の7年間を過ごした高村山荘そばの旧記念館に代わり、近くの旧花巻歴史民俗資料館を活用して13年5月に暫定オープン。市は9月にも展示関係を発注し、10月から施設改修に入り、冬季は閉館して本格工事を進め、年度内の完了を目指す。
 
 
昨日発行の『広報はなまき』に関連情報が出るかと思って、ブログでの紹介を待っていましたが、ざっと見たところ、ありませんでした。
 
 
また、4月のこのブログで、その時点で公開されていた図面を載せましたが、より詳細な図面もPDFでアップされています。
 
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昨秋、施工業者のプロポーザルに委員として参加しましたが、その時点では、さっさと改修を済ませようという、いわば拙速に進める感がありました。しかし、その後、市長さんが替わり、このように住民のみなさんの意見も取り入れてじっくりやっていく方向に転換したとのことで、非常に素晴らしいと思います。これぞ民主主義ですね。
 
現在の記念館昨年5月仮オープンの段階でもかなり充実していますが、いまある展示室のさらに奥、かつて歴史民俗資料館だった頃に収蔵庫として使っていたスペースも第2展示室となるなど、さらに進化してゆきます。
 
ご期待下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月2日
 
昭和51年(1976)の今日、新橋演舞場にて「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」の夜の部で、北條秀司脚本「智恵子抄」が上演されました。
 
智恵子役は有馬稲子さん、光太郎役は今年の初めに亡くなった高橋昌也さんでした。
 
二本松出身の日本画家、故・大山忠作氏が、「智恵子に扮する有馬稲子像」としてこの際の有馬さんを描き、二本松駅前にある大山忠作美術館さんの目玉の一つとなっています。
 
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それが縁で、昨年は同館で有馬さんと、大山画伯のご長女、女優の一色采子さんとのトークショーが実現しましたし、さらにそれが縁で、一色さんは今年の連翹忌にご参加下さいました。
 
このようにして人と人との縁というものが広がって行くのですね。

最近、このブログでご紹介した企画展につき、報道がなされていますので、2件、ご紹介します。いずれも光太郎の名前が入っているものです。
 
まずは、金沢で開催中の「中村好文 小屋においでよ!」 について。 

暮らし、12平方メートルに凝縮 金沢で中村好文の「小屋」展

『朝日新聞』 2014年7月9日 無題
 
 人が暮らせる最小限の空間を追求した建築展「小屋においでよ!」が、金沢市の金沢21世紀美術館で開かれている。建築家の中村好文が寝食、調理、風呂、トイレの機能を12平方メートルに凝縮した。
 
 中村が作った「小屋」は、幅3メートル、奥行き4メートル。だが天井が3メートルと高いせいか、内部は広く感じる。間取りはワンルーム。居間の窓際にソファベッドが造り付けられ、寝室を兼ねている。右手奥に台所があり、勝手口に通じる。左手奥にはシャワーとトイレ。小さなクローゼットもある。
 
 中村は武蔵野美術大在学中から、住宅の設計に興味を持った。悪条件であるほど建築家の能力が問われると考え、いわゆる狭小住宅を好んで設計してきた。今回の作品は「建築というより営巣」。「小屋をテーマに住宅の本質をあぶり出したい」と話す。
 
 設計には、名作といわれる小屋を見てきた経験が生きている。建築家ル・コルビュジエの「休暇小屋」、詩人で彫刻家の高村光太郎が晩年に住んだ岩手県花巻の「山荘」。アメリカの文筆家ソローが「森の生活」で描いた小屋も参考にした。
 
 裏テーマは「エネルギー」だという。屋根に太陽光発電パネルをつけ、一つしかない電灯の電源を賄う仕組み。屋根の上の樽(たる)に雨水をため、シャワーは太陽熱で温めたタンクの水で、炊事は七輪の炭火で。「この家を見て、暮らしを考え直してもらうのが目的。質素で簡素な暮らしを『いいな』と思ってもらえれば」
 
 設計段階のスケッチや図面、ル・コルビュジエ、高村光太郎らの「名作小屋」の模型なども展示している。(安部美香子)
 
 
続いて、高岡市美術館の「メタルズ!-変容する金属の美-」展について。

金属の機能切り口に メタルズ!展-村上隆高岡市美術館長に聞く(下)

北日本新聞』 2014年7月8日003
 
■既成概念取り払う
 高岡市美術館で開かれている「メタルズ!-変容する金属の美」展は、全国の美術館や博物館が所蔵する古代から現代までの約100点の金属造形作品がそろう。企画・監修した村上隆高岡市美術館長がこだわったのは、その「見せ方」だ。時間軸にとらわれず、金属の機能性にスポットを当てた展示とし、これまでにない展覧会を実現させた。

 二条城に飾られていた国宝の釘隠(くぎかくし)、法隆寺伝来の重要文化財「金銅小幡(こんどうしょうばん)」、国内で唯一出土した金製の勾玉(まがたま)…。会場には、歴史的に価値が高い古代や中近世の名品が並ぶ。京都国立博物館学芸部長を務めていた村上館長のネットワークで、高岡に初めてこうした逸品が集うことになった。

 近現代の作品も、美術の教科書でおなじみの高村光太郎「手」や、芥川龍之介が「この首は生きている」と語った逸話が残る中原悌二郎「若きカフカス人」など、多様な作品がそろった。

 村上館長は「美術館、博物館という枠組みを取り払いたかった」と意図を説明する。一般的に、美術館は明治時代以降、博物館は明治以前の作品を展示するケースが多いが、そうした枠組みにとらわれると、金属の多様な美は紹介できない。目指したのは、既成概念に縛られない自由な展覧会だ。

 「お勉強の場にはしたくない」と、時代や年代別に並べることはせず「金属が持つ機能性を大事にして展示の構成を考えた」。金属は硬く強いだけでなく、独特の光沢があり、振動や熱を伝えるなどの特性を持つ。企画展会場の三つの展示室のうち、古代から近代までの金属造形を集めた第2室は「飾り」「響き」「器」など機能別に並べた。

 近現代の作品は機能ではくくりにくいため、第1室に工芸作品と具象彫刻、第3室は抽象的な造形作品を集めた。「時代とともに、金属は道具だけでなく自己表現の素材として用いられるようになる。機能で分けられなくなるのは当然」とし、それぞれの展示室の中で見せ方を工夫した。

 日本の金属造形史を美術館的な手法で俯瞰(ふかん)する「メタルズ!」展は、金工のまち・高岡を出発点に全国4市を巡回する。村上館長は「日本人の生活の中で、金属造形がどういう意味合いを持ってきたかを見てもらう場。新たな発想を生むためにも、いろんな見方をしてほしい」と語った。■第1室「二度楽しめる空間」
 村上隆館長が「メタルズ!」展の展示で最も苦労したのは、近現代の工芸作品と具象彫刻を集めた第1室だ。

 工芸は、伝統的な金工技術を踏襲しつつ新しい方向性を追求した作品群。芸術表現の素材として金属を用いた彫刻とは、性質が全く異なる。村上館長は「両者のせめぎ合いを目の当たりにし、本当に悩んだ」と振り返る。

 そこで考えたのが、二つの世界の良さを生かす展示。壁面のガラスケース内には工芸作品を並べ、中央の開けたスペースに彫刻を展示した。

 彫刻は、村上炳人(へいじん)「つめこまれたちえぶくろ」を中心に、12点を円形に配置した。時計や十二支を意識したという。にらみ合うネコ(朝倉文夫「眈々(たんたん)」)とカラス(柳原義達「道標 鴉(からす)」)など、それぞれの作品の目線の先も意識して鑑賞すると面白い。中央の「つめこまれたちえぶくろ」は正面がない全方位的な作品で、磨き上げられた金属部分が周囲の作品を映し出す効果もある。

 村上館長は「一つの空間で2度楽しめる展示になったと思う。ぜひ足を運んで展示の秘密を読み解いてほしい」と話した。(高岡支社編集部・荒木佑子)

 「メタルズ!」展は8月31日まで。高岡市美術館開館20周年・北日本新聞創刊130周年記念。高岡の後、碧南市藤井達吉現代美術館(愛知)、北九州市立自然史・歴史博物館(福岡)、新潟市新津美術館(新潟)を巡回する。
 
ところで、また見落とすところでしたが、「メタルズ」展、昨年、「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展を開催した、愛知碧南藤井達吉現代美術館にも巡回されるのですね。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月11日
 
明治28年(1895)の今日、光雲が、京都で行われた第四回内国勧業博覧会に木彫「氷室翁」を出品し、妙技二等賞、「天鹿馴兎」「睡猫置物」で妙技三等賞を受賞しました。

石川は金沢より、先月から開催されている企画展情報です。 

中村好文 小屋においでよ!

会  : 金沢21世紀美術館 石川県金沢市広坂1丁目2番1号
会  : 2014年4月26日(土) - 8月31日(日)  10:00〜18:00 (金・土曜は20:00まで)
料 金 : 無料
 
概要 (公式サイトから)
建築家・中村好文は、長年にわたってクライアントの暮らしに寄り添った普段着のように居心地のいい住宅をつくってきました。この展覧会は、中村が子供のころから心奪われ、同時に「住宅の原型」として位置づけてきた小屋に関する考察と展示を通じて「住宅とはなにか?」を問い直す企画です。会場は「長期インスタレーションルーム」と「光庭」ですが、光庭には、エネルギー自給自足を目指すひとり暮らし用の小屋「Hanem Hut」を原寸サイズで展示いたします。
3.11以降、エネルギー問題や環境汚染の問題は、ますます避けて通ることのできない重要なテーマとなってきています。この小屋の展覧会が、そうした問題解決への糸口となり、提案となることを願ってやみません。
 
関連書籍 『中村好文 小屋から家へ』 TOTO出版、2013年
 
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昨年、乃木坂のTOTOギャラリー・間(ま)さんで開催された企画展の地方巡回です。古今東西の小屋の中から「7つの名作」を紹介するコーナーがあり、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋(高村山荘)も含まれています。 
 
先月から始まっているのですが、つい最近知りました。和歌山の田辺市立美術館で開催中の「宮澤賢治・詩と絵の宇宙 雨ニモマケズの心」同様、知ったのが遅く、面目ありません。
 
さて、知ったのが遅く、関連行事がいくつか終わってしまっていますが、これから開催されるもののみご紹介します。
 
つのだたかし「小屋に捧げるリュートの夕べ」
 日時:5月31日(土)19:00~20:00
 会場:金沢21世紀美術館光庭(雨天の場合、館内別会場)
 参加費:無料
 
「職人衆、Hanem Hutを語る」
 日時:6月14日(土)14:00~16:00(開場13:45)
 会場:金沢21世紀美術館レクチャーホール
 定員:先着80名(予約不要)
 参加費:無料

中村好文×皆川明対談「小屋から学ぶこと」
 日時:8月2日(土)14:00~16:00(開場13:45)
 会場:金沢21世紀美術館シアター21
 定員:180名
 チケット料金:1,000円
 チケット取扱: 金沢21世紀美術館ミュージアムショップ  TEL 076-236-6072
 
「Hanem Hut」内部公開 光庭に展示する「Hanem Hut」の内部を限定公開します。(予約制)
 公開日時:毎週土日 14:00〜18:00
 予約方法:当日13:00より、「Hanem Hut」のある光庭にて予約を受け付けます。
 ※天候等の事情で公開できない場合もございます。あらかじめご了承ください。
 
 
今回の「小屋においでよ!」は、たまたま中村氏のインタビューをネットで見つけて知りました。「高村光太郎」の語が入っていたので検索の網にひっかかりました。
 
毎日、「高村光太郎」「高村光雲」「智恵子抄」等のキーワードでネット上の新着情報を渉猟していますが、限界があります。美術館・文学館などの企画展の地方巡回(特に関東以外)に関する情報収集が今ひとつできていません。何かこの手の情報をうまくゲットできる(キーワード検索などで)いいサイトなどがあれば、ご教示いただけると幸いです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月27日

大正14年(1925)の今日、『東京日日新聞』に、談話筆記「悪趣味を排す」、さらに「自筆」カット「自画像」が掲載されました。
 
これを受けて5月30日に詩人の田内静三にあてた書簡が伝わっています。
 
此間の日日新聞のには全く閉口しました。 画は鉛筆でかいたものをペンか何かでなぞったらしく、記事は記者が勝手に書き上げて意味の正反対の事さへ書いてありました。友達ならば分かるでせうが、甚だ迷惑なものですね。取消正誤を出す程の事でもなし、尚更困ります。
 
こういうケースがあるので注意が必要ですね。

4月2日は高村光太郎の命日でした。
 
東京日比谷松本楼様では、第58回連翹忌を開催し、多くの方にスピーチを頂き、花巻の財団法人高村記念会・高橋卓也さんにもお願いしました。
 
昨年の高村光太郎記念館のプレオープンについて、さらに今年度のさらなる改修計画等についてのお話を頂きました。
 
地元岩手の地方紙、『岩手日日』さんにも記念館改修についての記事が出ています。 

本格オープンに向け改修 高村光太郎記念館(4/05)

 花巻市は、同市太田に2013年5月にプレオープンした高村光太郎記念館の改修を14年度、計画している。晩年を花巻で過ごした詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)を顕彰する唯一の施設として展示内容の充実を図る狙い。15日夜に地元で市民説明会を開き、意見を設計に反映させる。
 同記念館は、光太郎が7年間過ごした小屋「高村山荘」を挟んだ東方の旧花巻歴史民俗資料館を活用した。財団法人高村記念会が運営していた高村記念館の老朽化などに伴い、生誕130年に合わせて昨春、暫定オープン。疎開70年に当たる15年度の本格オープンに向けて、併設する収蔵庫や周辺環境を含めた全体整備を今年度に進める計画。
 改修案では、入館してすぐのスペースを第1展示室としてブロンズ像などを自然との関わりの中で展示。奥の収蔵庫は、作品の劣化を防ぐため左側を第2展示室にして文芸や書画を中心に光太郎の人生と関連付けて紹介。右側は企画展室と、常設展の入れ替え資料などを保管する収蔵室とする計画。
 今年度当初予算に同記念館改修と周辺施設改修として駐車場の舗装やトイレ、遊歩道の改修を合わせ約1億7500万円を計上。市民の意見を取りまとめて設計後、夏ごろをめどに工事着手し、12月から来年3月までは休館にして本格的な改修工事を進めたい考え。
 旧記念館は冬季休館したが、新記念館は通年開館し、初年度入館者数は1万2688人。うち昨年12~3月の冬季4カ月間は1245人だった。温泉客や市内の観光施設を巡る「あったかいなはん花巻号」での立ち寄りが多いという。
 市では、15日午後6時30分から太田振興センターで市民説明会を開いて住民の意見を聞くほか、17~23日(土日除く)には市役所本庁舎市生涯学習交流課でも随時受け付ける。
 
また、市の広報紙『広報はなまき』でも。 

宮沢賢治記念館と高村光太郎記念館 より充実した施設を目指して

  昨年5月、高村山荘近くに新たに市の施設としてプレオープンした高村光太郎記念館。晩年を花巻で過ごした高村光太郎を顕彰し、彫刻家や詩人などとして活躍した功績を広く紹介するため、日本に唯一の高村光太郎の記念館として市内外から多くの方が訪れる施設を目指しています。改修の設計に当たっては、関係者の意見を伺いながら進めてきましたが、さらに市民の皆さんの意見を伺い、設計に反映させたいと考えています。
 今回の改修では、来館者の利便向上のため新たに休憩室を設けるほか、トイレの改修やバリアフリーにも配慮します。また作品保護の観点から収蔵室を備え、展示室は次のように考えています。
▽光太郎の根底にある自然賛歌、自然との共生の姿勢を、光太郎のブロンズ像作品を自然と融和させる演出により表現する『展示室1』
▽光太郎の歩み、苦悩、思想などを背景に生み出された作品の紹介を通して人間・高村光太郎と作品を紹介する『展示室2』
 展示室2は、次の六つのゾーンに分けて展示します。
①東京からみちのく花巻へ②地上のメトロポール(「文化の中心地」の意)を求めて③書の深淵④岩手の人⑤賢治を生みき 我を招きき⑥光太郎六つの面
▽常設展だけでは伝えきれない光太郎を伝える『企画展示室』
ご意見をお聞かせ下さい
■市民説明会
 市民の皆さんの意見を伺い設計に反映させるため、市民説明会を開催します。お気軽に参加下さい・
●高村光太郎記念館改修説明会
【日時】4月15日(火)、午後6時30分
【会場】太田振興センター大広間
■市民の意見をお聞きする期間
 市民説明会に参加できなかった方のために、次のとおり意見を伺います。お気軽にお越しください。
【日時】4月17日(木)~23日(水)、午前9時~正午、午後1時~5時(土日を除く)
【会場】高村光太郎記念館改修について 市役所本庁舎2階生涯学習交流課
 
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花巻市では、今年1月の選挙で新市長が誕生し、それに伴って市の組織等が改編されたりしました。市の事業についてもずいぶん風通しがよくなったようです。詳しい情報が入りましたらまたご紹介します。
 
なお、高村記念会高橋様からは、5月15日(木)の高村祭についても情報のご提供がありました。今年は記念講演で、光太郎と交流のあった彫刻家、故・舟越保武氏のご息女、末盛千枝子さんにいらしていただくとのこと。

末盛さんは昨冬、東京代官山のクラブヒルサイドさん主催の読書会「少女は本を読んで大人になる」で講師を務められ、当方も拝聴して参りました。「千枝子」というお名前は光太郎が名付け親とのこと。また興味深いお話が聴けるものと思います。こちらも詳しい情報が入りましたらまたご紹介します。

 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月7日000

平成4年(1992)の今日、大阪市立美術館で「天理秘蔵名品展」が開幕しました。
 
天理大学附属天理図書館、同天理参考館の収蔵品が300点余り展示され、「近代作家の原稿」のコーナーに光太郎の詩「カフエ、ライオンにて」の草稿が並びました。
 
この詩は大正2年(1913)3月、雑誌『趣味』に掲載され、翌年刊行の詩集『道程』にも収録されました。
 
カフェ・ライオンは現在も続く銀座のビヤホール・ライオンの前身です。 
 
 
 

昨日、光太郎が足かけ8年暮らした花巻にある大沢温泉さんについて書きました。今日も関連するネタで行きます。

まず、大沢温泉さんの公式ブログから引用させていただきます。

高村光太郎ゆかりの温泉!

先日、5月15日高村祭がありました。今年は生誕130年ということで、新たに「高村光太郎記念館」が開館しました。
特別講演には女優の「渡辺えり」さんを迎えてのイベントもありました。

大沢温泉は高村光太郎ゆかりの温泉として知られており、山水閣の「牡丹の間」は高村光太郎が宿泊の際には必ずご指定されていたというお部屋です!現在は建て直しましたので復元した形となってますが・・・

そして今年の高村祭の特別講演渡辺えりさんに直筆の書を頂戴いたしました!
お忙しい中ありがとうございます!
館内に展示したいと思います!
 
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先月の高村祭の折、記念講演をなさった渡辺えりさん。牡丹の間にご宿泊でした。以前、お父様が高村祭記念講演をなさった際にも牡丹の間にお泊まりになったとのこと。現在、牡丹の間の床の間にはお父様の書かれた色紙が飾られています。
 
そのあたり、渡辺さんのブログに書かれています。さらに高村祭翌日の花巻市文化会館での講演会についても。
 
光太郎が暮らした小屋・高村山荘に隣接する高村記念館さん。リニューアルされて1ヶ月たちました。その後、現地の状況がどうなのか-閑古鳥が鳴いていないかなど-気にかかるところです。来週、また行って参ります。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月20日

昭和16年(1941)の今日、16日から開かれ、委員として出席していた大政翼賛会第一回中央協力会議が最終日を迎えました。
 
光太郎は18日の教育文化に関する第六分科会で第185号議案として「芸術による国威宣揚について」と題し、提案しています。

来週、また花巻に出向くつもりで居ります。
 
そこで、定宿にしている大沢温泉さんで宿を取ろうと思い、ネットでアクセスしました。すると、以下のページが。

宿泊プラン大沢温泉 山水閣 【期間限定】高村光太郎ゆかりの部屋に泊ろう!

部屋タイプ 和室 高村光太郎が愛用した 「牡丹の間」 トイレ付 ※バスなし
高村光太郎が愛用したお部屋を復元したものです。
10畳+6畳+3畳でさらに広縁があり非常にゆったりとしています。
光太郎の書画などあり、当時のままを復元しておりますのでクラシックな感じのお部屋です。
お部屋からは渓流「豊沢川」と四季折々の山々の景色を楽しむことができます。
洗浄器付きトイレ/冷・暖房/金庫/冷蔵庫(持ち込み可能)
 
[ プラン内容 ]
いつもと違った雰囲気を楽しみたい方おすすめ!10畳+6畳+3畳の3間つづきでゆったりくつろげる山水閣に1部屋しかないお部屋。高村光太郎が来館の際にはいつもご指名でご利用いただいていたお部屋を移転復元した記念のお部屋です。新館1階の一番奥にあり離れの様な佇まいの特別室となっております。

今回期間限定につき通常価格から1,575円(税込)引きで販売させていただきます。

豊沢川や四季折々の対岸の景色を堪能でき、高村光太郎お気に入りだったお部屋であなたも芸術家の気分となって過ごしてみませんか?

ご夕食はゆっくり過ごすお部屋食!
お食事は花巻産プラチナポーク(白金豚)を含め月替わりの会席膳 全11品
(4名様までお部屋にお持ちします。5名様以上はお客様だけの個室宴会場でのお食事となります。他のお客様とは一緒になりません)
朝は 朝食会場「松風」にて7:00~9:00までの和洋のバイキングとなります。

由来となった「牡丹」(絵画)は高村光太郎の作品でお部屋の入口にレプリカですが飾ってあります。
また、新築の際復元するにあたり当時の木材や格子などそのまま使用しておりますのでクラシックな感じのお部屋となっております。


大沢温泉さんは、通常の温泉旅館的な「山水閣」、主に長期滞在の湯治客用の「自炊部」、築160年の離れ「菊水館」の三つに分かれています(当方、菊水館を定宿としております)。経営は一緒のようで、サイトのトップページは同じです。
で、山水閣のいわばスイートルームに当たるのが「牡丹の間」。建物自体は近代的にリニューアルされていますが、この部屋は昔、光太郎がよく泊まっていた部屋の部材や調度を随所に使い、当時の面影を残しています。当方、泊まったことはありませんが、中には入ったことがあります。
その部屋が、期間限定プラントいうことで、安くなっているそうです。
とはいってもやはりそこそこの値段ですので、今回も当方は料金の安い菊水館に泊まります。こちらも光太郎が泊まったことがあり、さらに当時の建物のままです。ただ、どの部屋に泊まったのかは定かではありません。
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菊水館
 
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左奥が山水閣・右手が自炊部
 
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混浴露天風呂・大沢の湯(3館共通)
 
さて、山水閣のプラン「【期間限定】高村光太郎ゆかりの部屋に泊ろう!」。これから花巻にご宿泊予定の方、ぜひご検討ください。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月19日

明治40年(1907)の今日、ニューヨークからイギリスに向け、ホワイトスターラインの豪華客船「オーシヤニック」に乗って、大西洋に出港しました。

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