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中野区の桃園区民活動センターで開催されている『中西利雄・高村光太郎アトリエ』ミニ展示会について、『東京新聞』さんが報じて下さいました。

「水彩画の巨匠」中西利雄アトリエ残したい 中野で有志が企画展 23日まで ゆかりの芸術家や内外装 パネルで紹介

 「水彩画の巨匠」と呼ばれる洋画家の中西利雄(1900~48年)が中野区内に建てたアトリエを伝えるミニ展示会が、近くの桃園区民活動センター(中央4)で開かれている。存続の危機にあり、広く知ってもらおうと企画された。23日まで。
 中西が建てたアトリエでは、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年に暮らし、十和田湖畔にある代表作「乙女の像」の塑像などを制作。設計は建築家の山口文象で、世界的彫刻のイサム・ノグチが住んでいた時期もあり、芸術家らとのゆかりは深い。
 中西の息子が2023年に亡くなった後、保存活用の在り方が問われてきた。展示会は有志による「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」(俳優・劇作家の渡辺えり代表)が主催し、アトリエの内外装やゆかりの人々などをパネル10点ほどで伝える。
 同会の曽我貢誠(こうせい)事務局長(72)は、中西やその家族は積極的に地域の人々と交流し、身近な存在だともした上で、「区民らにアトリエのことを知ってもらいたい」と呼びかけた。
 入場無料。期間中は19日休館。

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アトリエの歴史や文化的価値を説明する曽我貢誠事務局長=中野区で

先週もこのブログで書きましたが
光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を制作し、さらに光太郎終焉の地にして第1回連翹忌会場ともなった中野区の中西利雄アトリエ。昨年「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、保存のための活動を続けていますが、もはや猶予がなく、危機的状況となっています。

主に区民の皆さんにそのあたりを周知したいということで、先月24日から、記事の通り桃園区民活動センターさんでミニ展示を行っています。
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問題のアトリエ、しっかり活用計画を考えて土地ごと買い取って下さるという方(法人さんでも個人の方でも)が現れてくれれば最善です。また、買い取りではなく貸借で、ということも考えられます。活用計画は無理、という場合でも、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」として相談に乗りますし、同会が指定管理者的な立場となることもありでしょう。

現地保存ではなく、土地を提供するので移築して活用したい、というお申し出も次善の策として考えています。その場合、近くであるに越したことはありませんが、たとえ離れた場所であっても、アトリエが烏有に帰すよりはずっとましですし、実際、そうした例も少なからず存在します。

現地やミニ展示をご覧の上、手を挙げて下さる方に現れていただけることを祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】002

山口の小屋は駿河重次郎翁に万事まかせて来ましたから多分時々見てくれてゐることと推察します、

昭和28年(1953)5月6日 
宮沢清六宛書簡より 光太郎71歳

「乙女の像」制作のため、中西アトリエに入って半年余り。その前の7年間、蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋の土地を提供してくれたのが、太田村の長老格の一人・駿河重次郎でした。

上京する際も駿河に小屋の管理を委託、駿河は約束を違えず、湿気のこもる小屋の中に風を入れに行ったりということを怠りませんでした。

さらに昭和31年(1956)の光太郎没後には、宮沢家や佐藤隆房医師、他の村民たちとともに小屋の保存に尽力。そのおかげで小屋は高村山荘として現存しています。

以前にも書きましたが、中西アトリエもそうでなくてはいけないと思うのですが……。

光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を制作し、さらに光太郎終焉の地にして第1回連翹忌会場ともなった中野区の中西利雄アトリエ。昨年「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、保存のための活動を続けていますが、もはや猶予がなく、危機的状況となっています。

そのあたり、十和田湖の西半分を有する秋田県の地方紙『秋田魁新報』さんが報じて下さいました。

高村光太郎が過ごしたアトリエ、解体の危機 十和田湖畔「乙女の像」制作

秋田魁新報1 「智恵子抄」などで知られる詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごし、十和田湖畔にある「乙女の像」塑像も制作した東京・中野のアトリエが解体の危機にある。所有者が亡くなり、管理が難しいためで、保存活動に取り組む秋田市河辺出身の曽我貢誠(こうせい)さん(72)=日本詩人クラブ理事、都内住=は「芸術的にも建築的にも文化的にも貴重な施設。ぜひ古里からも関心を寄せてほしい」と話している。
 アトリエは1948年建設で、斜めの屋根と北側に向いた大きな窓が特徴。施主は洋画家中西利雄(1900~48年)で、設計を建築家山口文象(1902~78年)が手がけた。中西は完成を見ずに亡くなったため、彫刻家イサム・ノグチ(1904~88年)や高村に貸し出された。高村は亡くなるまでの3年半を過ごし、代表作となる乙女の像の塑像を制作した。
   一方、建物を管理していた中西の長男利一郎さんが2023年に他界。築70年超で老朽化もあり、解体の話が浮上した。
 立ち上がったのが利一郎さんと交流のあった曽我さん。昨年4月、有志と会を発足し、後世に残すための企画書を作成したり、中野区へ働きかけたりするなど保存活動を活発化させている。会の代表を務めるのは、劇作家で俳優の渡辺えりさん。高村の半生を基にした戯曲を書いた縁などから引き受けたという。
 曽我さんは秋田高から東京理科大へ進み、卒業後は都内で35年間、公立中学校教員を務めた。「戦意高揚の作品を書き、戦後に責任を感じていた高村が、彫刻制作に没頭したのがこのアトリエ。そうした背景、高村の思いを後世に伝えるためにも大切な歴史的遺産」と保存の意義を語る。
 会によると、3月末までに4355筆の署名を集めた。今後、クラウドファンディングも視野に、本県からの協力、支援も期待している。
 署名は「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」から。 問い合わせは曽我さんTEL090・4422・1534

智恵子への愛、像に託す
 東京生まれの高村光太郎は1945年4月の空襲で自宅が被害に遭い、岩手県花巻市へ疎開。戦後、十和田湖畔に設置する記念碑の制作依頼を機に帰郷し、中野のアトリエで暮らした。
 制作に際し、十和田湖を下見して湖の美しさに感動し、2人の女性が向き合う像のイメージを膨らませたとされる。「二体の背の線を伸ばした三角形が『無限』を表す」などの意図があったという。
 余命が長くないことを意識してか、青森県野辺地町出身の彫刻家小坂圭二を助手に雇い、約8カ月で完成させた。生涯をささげた美、妻・智恵子への愛、平和への願いを像に託したとされる。
 制作中、像の顔は白布で覆われた。完成後に「智恵子夫人の顔」と言われるようになったが、高村は「智恵子だという人があってもいいし、そうでないという人があってもいい。見る人が決めればいい」と答えたという。
秋田魁新報3 秋田魁新報2
個人情報保護の観点などいろいろ制約があり、裏話的な部分は活字にできなかったのでしょうが、見出しの通り「解体の危機」に瀕してしまっています。区としては一銭も金は出さないという方向性です。さらに現地にマンション建設計画があり、もはや猶予がない状況です。

何とか現地での保存活用を最優先にしたいのですが、それも不可能なら移築するのが次善の策ということになります。しかし、移築先として適当な土地のめども立っていません。区として用地を提供してくれるということも無理そうです。となると、近くの企業さん、大学さん、或いは篤志の個人の方でももちろん結構なのですが、「土地を提供しましょう」と声を上げていただけるとありがたいところです。貸借でも構いません。最善なのはアトリエ部分の土地を買い取ってくれる法人さん/個人の方が現れてくれ、移築しないですむことですが。ただし、そうなると億単位の金額が必要でしょう。

我々としましては、アトリエの建物を活用して収益を上げられると見込んでいます。その辺りは建築専門の方々にお願いしたりして、決して夢想ではないさまざまな活用案を練ってあります。実際、同じ中野区内の三岸アトリエ、台東区の旧平櫛田中邸などは、レンタルスペースとして運営されています。音楽や各種パフォーマンスの公演、ギャラリー的な活用、映画などのロケやフォトスタジオ的な使い方もなされています。アトリエを建てた水彩画家・中西利雄や光太郎の記念館・資料館的な運用もありでしょうが、それだと収入は限られてしまうので、そうした機能も持たせつつ、レンタルスペースとして活用するのが最善かと思われます。いっそのこと、古民家カフェ的な態様にしてしまう方法もまったく排除はできません。

移築となると、できれば近い場所が望ましいところです。宮沢賢治の羅須地人協会の建物はそんな例で、元の場所から同じ花巻市内の花巻農業高校さんに移築されました(それとても批判があったやに聞きますが)。近い場所ではなく、遠くに移築された例としては、信州飯田市の柳田國男館さん、茨城県笠間市の春風萬里荘さん(北大路魯山人アトリエ)など。これらはたとえ離れた場所でも、建物が残ったという意味では幸いなのでしょう。

変わった例では、建築家でもあった詩人・立原道造の別荘「ヒアシンスハウス」(さいたま市)。立原の生前にはそれが建てられずに終わり、没後に遺された図面を元に建てられました。同様に中西アトリエも図面を元にどこか別の場所に「復元」ということも考えられますが、そうなると価値はだだ下がりですね。まったく何も無くなるよりはましなのかもしれませんが。

最悪の場合、そうした措置がまったく出来ず、何処にも何も残らないというケース。それだけは何としても避けたいところです。

優先順位を付けてまとめます。

 ① 現地で保存して活用していく
 ② 近くに移築して活用していく
 ③ たとえ遠くでも、建物の保存ができるならということで移築して活用していく
 ④ 図面を元に他の場所に復元し活用していく


いずれの場合でも、かなりの金額がかかります。そのため、クラウドファンディングももちろん考えています。しかし、ゴールが定まらないとCFも立ち上げられません。集まった金額によって、上記①~④のどれに落ち着かせるかを決める、というのもありなのでしょうか?

単なる思いつきでなく、「こういう例を実際に手がけた」など、良いお知恵をお持ちの方、ご協力いただけると幸いです。

【折々のことば・光太郎】

只今は一尺五寸の雛形完了、三尺五寸の試作も完了、目下七尺の像にとりかかりつつあります、すべて順調に運んで居ります、


昭和28年(1953)3月5日 浅沼政規宛書簡より 光太郎71歳

中野の中西アトリエで制作していた「乙女の像」の進捗状況です。「七尺の像」が最終完成作です。

浅沼は、中西アトリエに移る前に光太郎が7年間の蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校長。光太郎没後には、浅沼や宮沢家、佐藤隆房医師、そして旧太田村の村民たちが「高村先生の山小屋を後世に遺さなければ申しわけが立たない」と、お金や労力を出し合い、「高村山荘」として保存、現在も遺っています。中西アトリエもそうでなければならないと考えます。

我々としても「すべて順調に運んで居ります」とご報告できる日が来ることを切に祈っております。

光太郎第二の故郷・岩手県花巻市で、市立図書館さんの移転計画が持ち上がっています。

現在地は光太郎と関わりの深かった宮沢賢治が勤務していた市内若葉町の花巻農学校跡地・ぎんどろ公園に隣接する場所で、同じ敷地内には市の文化会館なども建っています。当方、光太郎が花巻郊外旧太田村在住時の地方紙記事などの調査のため、何度か利用させていただきました。

移転先候補地は、当初6案、それが絞り込まれて2案あったそうです。

まず、市役所に近い旧総合花巻病院跡地(花城町)。同院は賢治の主治医でもあり、光太郎の花巻疎開やその後の7年半にわたる花巻及び旧太田村での生活に物心共に多大な援助をしてくれた佐藤隆房が院長を務めていました。病院は令和元年(2019)に市内御田屋町に移転し、その跡地が候補地の一つでした。

それからJR東北本線花巻駅前という案も。

2つの案を巡っては、どちらも一長一短があり、市内でも意見が分かれていたようで、地元の方のSNS等を見ると、なかなか紛糾していたようです。

市では市民の意見等を聞く機会を設けたりし、さまざまな検討を行った結果、花巻駅前の方で、ということになったそうです。このほど、市のホームページに「新花巻図書館整備基本計画(案)説明資料」がアップされました。
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現在、タケダスポーツさんのある場所のようです。

部外者としては、場所の決定に関しては何も言うことはありません。

で、「新花巻図書館整備基本計画(案)説明資料」。どのように新図書館を運営していくか、そういったコンセプトが述べられており、そちらではなるほどね、と思わせられました。やはり宮沢賢治のお膝元、という部分が前面に押し出されています。

まず「基本方針」。

 本市は、宮沢賢治や萬鉄五郎をはじめとした多くの先人を輩出しています。江戸時代の先人を顕彰した「鶴陰碑(かくいんひ)」に記された人々は、自らの研鑽に精進し学術文化はもとより地域や産業の振興と発展、そして後継者の育成に努力を重ねてきました。花巻には歴史的に学びの風土があり、この精神は私たちも次の世代に受け継いでいかなければなりません。
 新しい花巻図書館の整備にあたっては、市民一人ひとりの生活や活動を支援することを基本的に考えながら、先人が育んできた「学びの精神」を受け継ぎ、図書館が次世代を担う子どもの読書活動を支援し豊かな心を育てる施設として、また情報を地域や産業の創造に結びつける施設として、まちや市民に活力と未来をもたらす図書館を目指して、次の3つを基本方針とします。

郷土の歴史と独自性を大切にし、豊かな市民文化を創造する図書館
 花巻市は輝かしい功績を遺した数多くの先人を輩出しています。この先人達を顕彰し次の時代を担う子どもたちにその精神を継承し、郷土を愛する心を育むことができるよう、郷土資料や先人の資料の充実を図ります。
すべての市民が親しみやすく使いやすい図書館
 幼児、子ども、高齢者、障がい者、すべての市民が気軽に利用できるように、親しみやすく使いやすい施設とします。自然や周辺に調和した明るくゆったりしたスペースとし、読書はもちろんのこと、くつろぎの場でもあり、交流の場ともなる施設とします。
暮らしや仕事、地域の課題解決に役立つ知の情報拠点としての図書館
 これからの図書館は市民の読書や生涯学習を支援するだけでなく、情報を得る場、生活、仕事、教育、産業など各分野の課題解決を図る図書館であることが求められているため、広い分野にわたる資料やレファレンス(検索・相談)機能の充実を図ります。

輩出された「輝かしい功績を遺した数多くの先人」には、花巻出身ではないもの、光太郎も含めて下さっているようです。「蔵書・資料の収集について」という項の中に「宮沢賢治、高村光太郎、萬鉄五郎、新渡戸稲造などの資料を積極的に収集・保存。可能な限り開架閲覧スペースに配架」という一節があります。まぁ、現在の図書館さんでも、光太郎や賢治に関する資料類はかなり所蔵されていて一室が設けられている感じで、それを引き継ぐという部分もあるのでしょうが。

やはり賢治は別格で、「宮沢賢治に関する資料については、市民から、宮沢賢治の出身地にふさわしい図書館としてほしいなどの意見が多いことから、今後出版される図書資料はもちろん、未所蔵で購入可能な資料は古本も含め積極的に収集し、地域(郷土)資料スペースにおいて配架する予定ですが、宮沢賢治専用のスペースを設けることも検討します。また、イーハトーブ館と役割分担をし、現在イーハトーブ館が保有している専門的な研究資料や絶版等入手困難な資料等は、引き続きイーハトーブ館で保有することとし、図書館で閲覧または貸出できるようシステムの構築を検討します。」だそうです。光太郎もそれに準ずる扱いくらいにはしていただきたいところです。

また、「花巻駅前も賢治作品「シグナルとシグナレス」の舞台であり、「銀河鉄道の夜」のモチーフとなった岩手軽便鉄道や花巻電鉄の駅があった場所で賢治ゆかりの地」といった記述も。多少の無理くり感は否めないなと感じつつも「なるほどね」と思いました。

もう一つの候補地だった病院跡地の方は「宮沢賢治ゆかりの地に相応しい図書館以外の公共事業に活用することも考えられる」だそうです。
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とにもかくにも「基本方針」どおり、「先人が育んできた「学びの精神」を受け継ぎ、図書館が次世代を担う子どもの読書活動を支援し豊かな心を育てる施設として、また情報を地域や産業の創造に結びつける施設として、まちや市民に活力と未来をもたらす図書館」実現に向けて頑張っていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

丸ビルの展らん会も御覧下されし由、古いものばかりで殆ど現代的意味はない事でした、

昭和27年(1952)11月26日 吉野秀雄・登美子宛書簡より 光太郎70歳

「丸ビルの展らん会」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため花巻郊外旧太田村から上京したことを記念し、中央公論社の肝煎りで開催された「高村光太郎小品展」。
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意外や意外、光太郎生前唯一の個展でしたが、当の光太郎自身はあまり興味がなかったようです。彫刻の制作年代の説明も無茶苦茶です。「手」は大正7年(1918)、「裸婦坐像」は大正6年(1917)です。

大正2年(1913)、光太郎が先行して滞在、あとから智恵子も後を追って現れ、結婚の約束を果たしたという信州上高地。歩いて登るしかなかった時代、光太郎智恵子も辿った「クラシックルート」にある「岩魚留小屋」に関して、『毎日新聞』さん長野版が、光太郎の名を引きつつ報じています。

歴史ある建物 CFで再生へ 「岩魚留小屋」後世に 松本・徳本峠ルートで有志ら /長野

 長野県松本市安曇の島々地区から徳本(とくごう)峠を経て、北アルプス上高地に至る登山道沿いにある休業中の山小屋「岩魚留(いわなどめ)小屋」の復活を目指すプロジェクトを、県内外の有志が始めた。小屋は明治時代に日本アルプスを世界に紹介した英国人宣教師、ウォルター・ウェストンも利用したという。現在は老朽化が進み、有志はクラウドファンディング(CF)で小屋の改修資金を募る予定。
 市教育委員会によると、徳本峠の東の標高1260メートルにある岩魚留小屋は1911(明治44)年に民間会社が開設し、木造平屋建て66平方メートル。現オーナーの奥原英考さん(71)の体調不良で2012年から休業している。老朽化のため、復活には修繕や電気などインフラ整備が必要になる。
  小屋の前を通る登山道は、1928(昭和3)年に梓川沿いの釜トンネルが開通して車が通るようになるまで、上高地に入る主要路だった。ウェストンや日本山岳会を創立した小島烏水(うすい)をはじめ、小説家の芥川龍之介や詩人の高村光太郎が歩いた近代登山の歴史を刻むクラシックルートで、登山口の島々から上高地の明神まで約20キロ。現在は土砂崩れのため通れなくなっている。
 有志らは昨年11月に「岩魚留小屋再生プロジェクト」を発足させた。代表の塩湯涼さん(29)=京都市出身=は南アルプスの山小屋で働き、島々に昨春移住。奥原さんが後継者を探していると知り、名乗りを上げた。メンバーには建築やデザインの担当者もいる。
 塩湯さんとプロジェクトリーダーの臼井幸代さん(39)は3月末、松本市の登山用品店で講演し、小屋の現状や今後の計画を説明した。塩湯さんは「歴史的価値を持つ小屋を後世に残すため、外観を保ったまま修復する。自然探検など、岩魚留小屋らしい新たな楽しみ方ができるようにしたい」と話した。臼井さんも改修資金の確保に協力を求めた。
 また、島々から徒歩4~5時間の地点にあるこの小屋は、登山者の宿泊・避難場所として安全面でも意義があるとした。今年は現地調査や廃棄物処理、トイレと水場の整備をする予定で、清掃や荷物運び、小屋見学の講習会も計画している。26年に小屋の修繕やインフラ工事に取りかかり、27年の営業再開を目指している。
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画像左奥に映っているのは桂の木です。推定樹齢数百年で、光太郎智恵子も目にしました。のちに光太郎智恵子それぞれ、桂の木の印象を文章に残しています。

「徳本峠の山ふところを埋めてゐた桂の木の黄葉の立派さは忘れ難い。彼女もよくそれを思ひ出して語つた」(光太郎 「智恵子の半生」昭和15年=1940)

「絶ちがたく見える、わがこの親しき人、彼れは黄金に波うつ深山の桂の木」(智恵子 「病間雑記」大正11年=1912)

ここにも一度行ってみたいと思いつつ、果たせないでいます。なかなか半端な気持で行ける場所ではありませんので、しっかり計画を立てて向かわねばなりませんし。

保存の為のクラウドファンディングが立ち上がったら、微力ながら協力させていただくつもりでおります。皆様にも是非よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】002

このたびは友人藤島宇内君のお世話によりお宅のアトリエを拝借出来るやうになり、まことにありがたく、好都合にて、お宅様に対し厚く感謝いたして居ります。来る十月十三日頃参上の運びとなるかと存じますが、又いろいろ御厄介をかけるやうになりますこと恐縮の至ですが、何分お願申上げます。

昭和27年(1952)10月6日
 中西富江宛書簡より 光太郎70歳

光太郎終焉の地となった中西利雄アトリエの持ち主、利雄夫人の富江に宛てた書簡から。

こちらの保存運動も展開中です。よろしくお願い申し上げます。

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため借り受け、光太郎が昭和27年(1952)秋から、一時的に花巻郊外旧太田村に帰村した昭和28年(1953)初冬と、赤坂山王病院に入院した昭和30年(1955)初夏を除き、最晩年の3年半を過ごし、昭和31年(1956)4月2日にここで亡くなった中野区の中西利雄アトリエ

昨年から当方も関わって展開されている保存のための運動につき、「乙女の像」地元の青森の地方紙二紙が報じて下さっています。

まず『デーリー東北』さん、今月初めの掲載でした。

「乙女の像」制作 高村光太郎のアトリエ(東京) 価値ある建築物残したい 所有者死去、進む老朽化 保存する会、支援呼びかけ

 彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごし、十和田湖畔に立つ「乙女の像」を制作した東京・中野のアトリエ。長年管理してきた所有者が2年前に亡くなり、保存が難しくなっている。関係者は「価値ある建築物を残したい」と行政や民間の協力を募るものの、行政支援や資金調達のめどは立っていない。
 高村は戦時中、宮沢賢治のつてを便りに岩手花巻市に疎開。戦後も52年まで過ごし、青森県から乙女の像の制作を依頼されたのを契機に中野のアトリエに移った。高村の顕彰活動を続ける小山弘明さん(東京)は「花巻で作ろうとも考えたが、粘土が凍るなどするので新たに東京で制作場所を探した」とする。
 知り合いに紹介されたのが、洋画家の中西利雄(1900~48年)が建てたアトリエ。死後に完成し、賃貸に出されていた。高村の前に、彫刻家のイサム・ノグチも一時滞在していたという。北から南に傾斜した屋根で、北側に大きな窓を設けており、内外とも白く塗られているのが特徴だ。
 肺結核を患っていた高村は中野に引っ越す頃には病状が悪くなっており、小山さんは「制作にものすごく時間をかける高村が、乙女の像はわずか半年ほどで仕上げている。死が迫るのを意識しながら作ったのではないか」と解説する。野辺地町出身の彫刻家・小坂圭二もこのアトリエで助手を務めた。
 乙女の像の完成後は花巻に帰るつもりだったが、体調を考慮して中野のアトリエに残り、56年4月に亡くなるまで過ごした。その後は中西の長男の利一郎さんが長年にわたってアトリエを管理してきたものの、23年1月に死去。老朽化が進み、家族も管理が難しくなっている。
 このため、昨年2月に利一郎さんと親交があった曽我貢誠さん(東京)らを中心に、俳優の渡辺えりさんを代表として保存する会を設立。署名活動やイベント開催、行政への働きかけなどを行っている。
 曽我さんは「保存には多額の資金が要る。何とかこの場所に貴重なアトリエを残したい」と訴えるものの、現時点で中野区などから前向きな対応は引き出せていない。
 今後は「行政への要望と並行して周辺の大学や民間企業などに支援を呼びかけたい」と粘り強い活動を続ける考えだ。

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ほぼ同一の内容ですが、『東奥日報』さんも昨日報じて下さいました。

十和田湖畔「乙女の像」生んだアトリエが存続の危機 有志ら保存活動 彫刻家・高村光太郎が晩年過ごす

 詩人・彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年、十和田湖畔にある「乙女の像」の塑像を制作した東京・中野のアトリエが存続の危機にある。歴史的に価値の高いこの建物を残そうと、有志らが活動を本格化させた。青森県十和田市関係者からも署名が寄せられているといい、「支援の輪をさらに広げたい」と方策を模索している。
 高村は亡くなるまでの3年半をこのアトリエで暮らした。斜めの屋根と北側に向く大きな窓が印象的だ。内部には高村の写真や当時の椅子が残されていた。
 建物は、洋画家中西利雄(1900~48年)が建設した。設計は戦前戦後に活躍した建築家山口文象。中西はアトリエの完成を見ず亡くなったが、彫刻家イサム・ノグチや高村に貸し出された。建物を管理していた中西の長男・利一郎さんが2023年に他界。解体の話が出る中、有志らが保存活動を始めた。
 利一郎さんの知人で「保存する会」の曽我貢誠さん(72)=東京都=は、詩人の草野心平や佐藤春夫らも訪れた貴重な建物とし、「高村が戦争を賛美する作品を書いた過去の責任を感じながら、像の制作に没頭したという背景もあり、大切な歴史的遺産だ」と保存の意義を強調する。
 会は行政や民間に支援を求めながら、4千筆超の署名を集めてきた。クラウドファンディングも視野に入れており、縁のある青森県民の支援にも期待する。
 会には七戸町出身で都内に住む山田安秀さん(61)も参加している。「乙女の像は十和田湖の思い出の象徴だ。十和田湖は歴代の知事や市町村長の尽力、今年没後100年を迎える大町桂月ら県外出身の恩人のおかげで全国に知られた。脈々と続く歴史の流れにも思いをはせながら、保存の意義を考えたい」と語った。
 署名は「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」のサイト(https://save-atelier-n.jimdosite.com/)から。問い合わせは曽我さん(電話090-4422-1534)へ。
▽「美、愛、平和」 像に託す
 東京生まれの高村光太郎は、妻・智恵子を1938年に亡くした後、空襲に遭い岩手県花巻市に疎開。戦後、青森県から、十和田湖畔に設置する記念碑の制作を依頼されたのを機に、帰京を決意した。
 「高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会」代表の小山弘明さん(60)=千葉県=によると、東京・中野のアトリエは知人らが探し出した。余命がそう長くないと意識していた高村は、それまで使ったことのない助手を雇い、野辺地町出身の彫刻家小坂圭二(1918~92年)が制作を手伝った。
 高村は十和田湖を下見した際、当時の津島文治知事から「自由に創作を」とのお墨付きをもらい、制作に没頭。生涯をささげた「美」、智恵子への愛、平和への願いを像に託したとみられる。小山さんは「半年ほどの驚異的なスピードで作り上げた。自分が倒れた場合の代わりの制作者も指名していたほど」と、高村の当時の情熱を語る。
 完成した像は、十和田湖を世に出した文人大町桂月、知事の武田千代三郎、法奥沢村長の小笠原耕一をたたえ、湖畔に設置された。「乙女の像」として、今も地元の人や観光客に愛されている。
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なかなか保存も単純な話ではありません。単に建物を補修して残すというだけならそうでもないのでしょうが、ただ残すだけでは意味がありません。積極的且つ永続的に「生かす」ことが肝要です。何もない建物だけを公開したところで仕方がありませんし、ちょっとした展示を行い「××記念館」としたところでそう多くの来場者が来るとも思えません。「××記念館」という形にしている古建築が全国にありますが、そういったところは行政が管理運営を行い、採算度外視に近い形もまぁ許されるという状況でしょうが、中野区はそういう方向での支援は行ってくれません。

となると、レンタルスペースなどとして運用し、収益を上げ、それで運用していくしかないのかな、と考えています。その母体をどうするか、どのように使ってもらうか、そうそう借り手が現れるか、最低限の人件費や維持管理費等をまかなえる収益が上げられるかなどなど課題は山積しています。マッチング等を使って希望者を募り、民間で買い取ってもらい、流行りの古民家カフェ的な運用というのもありかもしれませんが、無茶苦茶な使い方をされるのも困りますし。

単なる思いつきでなく、実現可能性を充分に伴う解決策のご提案、さらにはご支援のお申し出、お待ちしております。

【折々のことば・光太郎】

何も持たず、仕事用のヘラだけ持つてゆくつもりです。留守中は村の人に小屋の管理をたのみます、来年原型完成次第又山に帰つて来る筈です。

昭和27年(1952)7月23日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎70歳

さすがに「ヘラだけ」というわけにも行きませんでしたが、それでも中西アトリエにはせいぜい洋服等を送ったくらいで、ほとんどの家財道具や蔵書などは花巻郊外旧太田村の山小屋に残し、布団や調理器具など必要なものは都内で調達しました。住民票もそのままでした。

しかし、もはや山小屋暮らしに耐えられる健康状態ではなくなり、「乙女の像」完成後に一時的に帰村したものの、結局は中西アトリエに戻ることになり、終焉を迎えるわけです。

昨日は東京都中野区で、講演会「中西利雄 人と作品」を拝聴致しました。中西利雄は明治33年(1900)生まれの水彩画家。昭和23年(1948)、自身のため、建築家の山口文象に設計を依頼し、中野に建てたアトリエの竣工間際に急逝しました。せっかく建てられたアトリエは、遺族の手によって貸しアトリエとして運用され、昭和27年(1952)10月から光太郎もここを借り、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」をここで制作、昭和31年(1956)にここで歿しました。翌年の第一回連翹忌もここで執り行われました。

そのアトリエの元々の施主だった、中西利雄をメインに据えた講演会でした。会場は中野区産業振興センターさん。
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講師は茨城県近代美術館首席学芸員・山口和子氏。
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定員60名ということで聴講者を募ったのですが、飛び込みで来られた方も多く、また、我々スタッフは別枠でしたので、キャパ100ほどの会場がほぼ満席でした。
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昨年11月に近くのなかのZEROさんで開催した「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」の関連行事として行った講演会のうち、近代建築史家・内田青蔵氏と建築家の伊郷吉信氏による「水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」の際にもそうでしたが、当方、中西や我が国水彩画の歴史についてはそれほど詳しくなく、「なるほど、そうだったのか」の連続でした。

まず、中西以前。短命に終わった明治期の工部美術学校、その後の東京美術学校などでの水彩画の取り組み。
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元々の出発点が、油彩を描くための下書き的に水彩、さらに東京美術学校ではその過程もすっ飛ばして木炭デッサンからいきなり油彩という手順が主流となり、水彩画があまり定着しなかったそうで、きちんとした作品としての水彩画を描く画家が少なかったというようなお話。

その流れもあって、現代でも水彩は油彩より一段下に見られ続けているわけですが、考えてみれば素材や手法によって作品の価値が判断されるというのもおかしな話ではありますね。油彩だろうが水彩だろうが、いいものはいいわけですし、油彩だからというだけでありがたがるというのも変な話です。

そうした中で、水彩でもいいものが描けると頑張ったのが、中西ら。
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特に中西は不透明水彩(グヮッシュ)を活用するなどし、「水彩画の革新者」と称されるようになったそうで。その中西のパリ留学中の話、公設展への反撥から新制作派を旗揚げしたいきさつなども、非常に興味深い内容でした。
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そして、今日最初に書いた、中西歿後に光太郎がアトリエを借りた件についても。

当方も幹事となり、アトリエの保存運動を展開しておりますが、元々の施主・中西についてももっともっとその功績が世に知られてほしいものだと、今さらながらに感じさせられました。

皆様方に置かれましても、改めましてご協力いただけますようお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

今年の初雪がやつて来て二尺近くつもりました。まだ降つてゐます。雪の中から白菜やキヤベツを掘り出して囲ふやら穴蔵の始末で大忙がしです。


昭和26年(1951)11月26日 草野心平宛書簡より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。この年は雪の降り始めが早く、11月中に既に大雪。ただ、12月に入ると逆にあまり降雪は多くなかったようです。

1年後の冬は東京中野で迎えることになるとは、この時点の光太郎には思いもよらなかったでしょう。

今日のお題は「地方紙及び自治体等広報誌より」とさせていただきました。

まずは地方紙、といっても『東京新聞』さんですが、東京も一地方ですね。光太郎終焉の地・中野区の山口文象設計による貸しアトリエの元々の施工者だった新制作派の水彩画家・中西利雄についての講演会予告記事です。

水彩画の革新者・中西利雄の生涯や芸術を深掘り 中野で15日に講演会

 東京都中野区ゆかりの水彩画家で「水彩画の革新者」と呼ばれた中西利雄(1900~48)の生涯や芸術を掘り下げる講演会「中西利雄 人と作品」が15日、中野区産業振興センター3階(中野2)で開かれる。「中野たてもの応援団」主催。
 中西利雄は現在の中央区生まれ。27年東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科卒業。関東大震災後、中野区内に居を構えた。近代的水彩画法を編み出したことで昭和の水彩画史に足跡を残した。
 現在も区内に残るアトリエは、後に詩人で彫刻家の高村光太郎が晩年滞在し、制作の場として利用した。建築家ら有志が、アトリエの保存に向けて「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、保存活動を続けている。
 講師は中西利雄研究の第一人者で、茨城県近代美術館の山口和子主席学芸員。
 午後2~4時、定員60人。参加無料。事前申し込みは同応援団の十川(そがわ)さん=メール=y-sogawa@tubu.jp、電090(8056)0327=へ。

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続いては、岐阜県白川町さんの広報誌『広報しらかわ』今月号に載った『町立図書館 楽集館だより』から。

館長だより▼2月に寄せて

 寒さ厳しい2月になりました。旧暦名では如月(きさらぎ)です。寒い時期、衣(ころも)を更(さら)に重ね着すると言う意味から「衣更着」(きさらぎ)と言うようになったという説があります。そこで厳しい寒さで連想されるのが高村光太郎の詩『冬が来た』です。「きっぱりと冬が来た」で始まる光太郎の詩は鋭利な刃物を連想させるような、透き通る簡潔な表現で、冬をよく表しています。彫刻家でもある光太郎は余分なものを削ぎ落とす作業を通して「冬よ僕に来い」と冬と対峙している鋭い姿勢を見せています。読み手の襟を正すような冬を代表する詩です。
 また冬は空気が澄んで星が綺麗に見える季節です。寒さで丸まった背中を伸ばして空を見上げてみましょう。凍てついた空に無窮の宇宙を感じることと思います。そこでお薦めするのが宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』です。(星まつりの夜のお話なので季節は違いますが)列車に乗りながらの星めぐりは空想を駆り立てることと思います。『銀河鉄道999』や『千と千尋の神隠し』は『銀河鉄道の夜』の影響を受けた作品です。それだけ魅力ある作品と言えるでしょう。
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「冬が来た」というより、もういいから行ってくれ! という時期ですが(笑)。

光太郎と縁の深い宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」にも言及。たしかにこの時期、星がきれいですね。当方、毎朝「朝メシよこせ~」と言う愛猫に夜明け前に起こされ、ベランダからまだ明けやらぬ星空を眺めますが、千葉の田舎ですので光害もほとんどなく、よく晴れた日にはゆっくりと空を横切る人工衛星も見えるくらいです。

もう1件、長崎県雲仙市さんの広報誌『広報うんぜん』、やはり今月号です。

ぽつり(広報担当の独り言)

 年男の誓いを書いたのが2年前。あっという間に50になる年を迎えてしまった。こんな勢いで年を取るとは。中学時代に習った高村光太郎の「道程」が、最近やけに脳裏をかすめる。
 「僕の前に道はない僕の後ろに道は出来る」。常に開拓者であれと、エールのような言葉と受け取っていた。自分の後ろにはどんな道が出来ているんだろう。怖くて振り返ることができない。20代、30代のころに見ていた50代の先輩は、もっと凜として堂々として、「ザ・大人」という雰囲気の人ばかりで、ずっと背中を追いかけていた。今、自分がそんな大人になれているだろうか。私の背中は、後輩の目にどう映っているだろうか。
 恐る恐る20代の同僚にぼやいてみた。返ってきたのは「それに気付くだけでも成長しているってことじゃないですかね」ですって。参った。慰めにも似た悟りの言葉。俺より大人じゃん。そうだ、振り返るにはまだ早い。「やたらと計算するのは棺桶に近くなってからでも、十分出来るぜLIFE IS ON MY BEAT」。高村光太郎からの氷室京介コンボ。中学時代から変わらぬ脳みそと心意気だけで全力疾走することを、1カ月遅れの年初の誓いとします。(亮)
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広報担当氏、「道程」から氷室京介さんの「ON MY BEAT」を連想なさっていますが、世代の違いでしょうか、当方は中島みゆきさんの「断崖-親愛なる者へ-」を連想します。「走り続けていなけりゃ倒れちまう/自転車みたいなこの命転がして/息はきれぎれそれでも走れ/走りやめたらガラクタと呼ぶだけだ、この世では」(笑)。

岐阜県白川町さんにしても、長崎県雲仙市さんにしても、光太郎とは関わりのない街です。それでもこうして取り上げていただき、ありがたいかぎりです。他の自治体の方々もよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

上の原の写真は皆焼かれてしまつたのでせう。あの湯の小屋の入浴中の写真などおもしろかつたですが。 九年もたつたとは小生にも感じられません。


昭和26年(1951)10月31日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎69歳

戦時中の昭和17年(1942)10月、詩人の西山、同じく風間光作と3人で群馬県の宝川温泉から湯の小屋温泉を訪れた思い出に関わります。光太郎、宝川温泉の方は昭和4年(1929)に続き、2度目の訪問でした。

下記は宝川温泉でのショット。一緒に写っているのは宿の主人・鈴木重郎。西山か風間のどちらかがシャッターを切りました。光太郎の手元にも同じ写真があったはずですが、戦災で焼けてしまいました。光太郎の入浴中の写真、ぜひ見てみたかったと思いました(笑)。
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下記は湯の小屋温泉の古絵葉書。
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光太郎が訪れた当時、鄙びた温泉地でしたが、バブル期にはリゾートホテル、ペンション等も建ち、今も宿の軒数は多く存在します。ただ、バブル崩壊後に廃業した所も多いそうです。逆に、廃校となった分校の木造校舎を使った宿も新たにオープンしたりしています。由緒がありそうなのは「照葉荘」という宿。重厚な木造和風建築で、おそらくここに光太郎が逗留したのではないかと思われますが、詳細は不明です。泉質は単純泉、高温の湯で知られ、一帯は奥州藤原氏ゆかりの落人部落との伝説があります。

風間の回想に依れば、光太郎が語った話として、最初に光太郎が訪れた昭和4年(1929)、宝川から湯の小屋までの山道を、熊と遭遇した際のために日本刀を腰に差して歩いたとのこと。さすがに東京から刀を持って汽車に乗って行ったとも思えず、宝川で借りたのではないでしょうか。古武士のような風貌の光太郎、帯刀姿もさまになっていたのではないかと思われます(笑)。






















当方も幹事を務めさせていただいている「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」が協力して行う講演会です。光太郎終焉の地・中野区の山口文象設計による貸しアトリエの元々の施工者だった新制作派の水彩画家・中西利雄について。当然、光太郎やアトリエの保存運動にも関わる内容となるでしょう。主催は中野たてもの応援団さんです。

講演会「中西利雄 人と作品」

期 日 : 2025年2月15日(土)
会 場 : 中野区産業振興センター 東京都中野区中野 2-13-14
時 間 : 14:00~16:00
料 金 : 無料
講 師 : 茨城県近代美術館首席学芸員 山口和子氏

昨年11月10日から11月18日まで開催された「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」展示会&講演会には多くの皆様にご参加いただきました。その後、中西アトリエの施主であった画家中西利雄についてもっと知りたいというリクエストにより、講演会を開催することになりました。皆さまのご参加をお待ちしております。

桃園川緑道沿いに片流れ屋根の簡素なアトリエが残されています。これは第二次大戦中の建物疎開でアトリエを壊された中西利雄が、その再建のため着工させたものです。しかし中西は病のためアトリエの完成直前に死去。後に高村光太郎が制作の場としました。関東大震災後当地に住み、水彩画の革新者といわれた中西利雄についてご紹介いただきます。
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アトリエの保存運動に関しては、以下をご覧下さい。

 「高村光太郎ゆかりのアトリエ@中野」。
 都内レポート 東京書作展選抜作家展2024/中野アトリエ保存委員会。
 「光太郎のアトリエ残す 所有者死去 関係者が知恵」。
 『中野・中西家と光太郎』。
 中野アトリエ保存運動関連、署名をお願いいたします。
 文治堂書店『とんぼ』第十八号 その2 中西利雄アトリエ保存。
 中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会 意見交換会。
 中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会ホームページ開設。
 中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会 署名用紙。
 「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」。
 本日開幕です、「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会。
 閉幕まであと4日「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会動画。
 『東京新聞』TOKYO発2024年NEWSその後 1月12日掲載 高村光太郎ゆかりのアトリエ危機。

皆様のご参加、心よりお待ち申し上げております。

【折々のことば・光太郎】

道程初版の「志」「し」の仮名遣ひは内藤鋠策君の趣味によるもので、行の頭に来るものはすべて「志」を使ひ、下に来るものは「し」を使つたのです。下らぬ好みですから、どちらでもいいです。


昭和26年(1951)8月20日 草野心平宛書簡より 光太郎69歳

中央公論社版『高村光太郎選集』の編集に当たっていた、当会の祖・心平からのレファレンス依頼への返答です。

明治・大正の頃は、活字の場合でも変体仮名的に使う場合がありました。「し」を「志」、「こ」を「古」などで。光太郎自身も書き癖で「み」を片仮名の「ミ」とすることが多くありました。書の場合には「お」が「於」、「ひ」に「比」をあてる場合なども。

初版『道程』(大正3年=1914)での「志」、該当箇所はこんな感じです。
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このブログサイトでご紹介すべき昨年いろいろあった事柄のうち、主なものは昨年のうちに何とかご紹介し終えましたが、中には越年となり申し訳なく思うものも。

そのうち『東京新聞』さんで12月27日(土)に掲載された記事。

TOKYO発2024年NEWSその後 1月12日掲載 高村光太郎ゆかりのアトリエ危機 俳優・渡辺えりさんら尽力 保存活動

 2024年も残りわずか。TOKYO発では今年も街のトレンドや知られざる地域の歴史、ヒューマンストーリーなど、多彩な話題を取り上げてきた。今日は「その後」を――。
 中野区に残る、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883〜1956年)ゆかりのアトリエの所有者が亡くなり、存続の危機にあると1月12日に紹介した。
 アトリエは洋画家の中西利雄(1900~48年)が建てた。光太郎は晩年の52~56年に暮らし、十和田湖畔にある代表作「乙女の像」の塑像などを制作した。
 記事の掲載後、若手建築家をはじめ、さまざまな立場の人から保存・活用法の提案が寄せられたという。有志らは4月、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、署名活動を始めた。
 会の代表に就いたのは、俳優で劇作家の渡辺えりさん。えりさんの父は生前光太郎と交流があり、えりさん自身も光太郎の半生をもとに戯曲を書いた縁などから引き受けたという。
 11月、会は区内でアトリエを紹介する展示を行い、講演会を開催。えりさんは「光太郎の肌合いが残る場所が中野区にあるのはすごいこと。何とかいい形で保存できないか」と語り、「生きるための糧の一つとして文化芸術がある」と理解を求めた。
 今後、会は区への働きかけや新たな講演会の企画など、地道に活動を続ける。署名への協力などは会の名前で検索。
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昨年1月12日の記事はこちら

中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」サイトはこちら。当方も幹事を務めさせていただいております。こちらからインターネット署名も可能ですので、よろしくお願い申し上げます。

アトリエを紹介する展示」は11月10日(土)~19日(月)の日程で行いました。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 本日開幕です、「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会。
 閉幕まであと4日「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会動画。

新たな講演会」は、2月15日(土)の予定です。詳細が決まりましたらまたお知らせいたしますが、とりあえず中西利雄に特化した内容となるとのこと。

また、クラウドファンディングを立ち上げ、ご支援を募ることも視野に入れております。そうなりました場合には、ぜひともよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

小生旧臘来肋間神経痛といふ厄介なものにひつかかり、一ヶ月近く小屋を留守にいたし、病院長さん邸や温泉などに滞在、最近、雪中を橇で帰つてまゐりましたがまだ病気は残つてゐます、字を書くと病気にひびくのでテガミや原稿がかけずにゐます、


昭和26年(1951)2月26日 西出大三宛書簡より 光太郎69歳

肋間神経痛」は結核性のもの。結核も抗生物質の普及により、戦前ほどは怖れられる病ではなくなりましたが、さりとてもはや完治は不能でした。約5年後には光太郎の命を奪います。

病院長さん」は、宮沢賢治の主治医でもあった佐藤隆房、「温泉」は大沢温泉さん。1月23日から2月2日まで、かなり長く滞在しました。

平成31年(2019)に起きた大火災からの修復工事が終わり、12月8日(日)に一般公開が再開されたパリ・ノートルダム大聖堂と、大正10年(1921)に留学中の体験をベースに書かれた光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」に関わる件で、2つ。

まずは『産経新聞』さん、12月11日(水)掲載のコラム。

<産経抄>「連帯」もたらす福音となるか、再建かなったノートルダム大聖堂

002高村光太郎といえば、亡き妻をしのぶ純愛の詩集『智恵子抄』が思い浮かぶ。智恵子と出会ったのは明治44(1911)年の暮れだった。光太郎はしかし、その2年前まで滞在していたパリで、ある〝女性〟に心を奪われていた。▼ご執心だったようで、その人のもとへ日参したと打ち明けてもいる。<外套(がいとう)の襟を立てて横しぶきのこの雨にぬれながら、あなたを見上げてゐるのはわたくしです。毎日一度はきつとここへ来るわたくしです。あの日本人です>と詩の一節にある。▼その女性はいまも、「私たちの貴婦人」の名で人々に愛されている。ノートルダム大聖堂である。光太郎がありせば、思いを寄せた人の悲運と恋敵の多さに色を失ったかもしれない。5年前の火事で尖塔(せんとう)などが焼けた後、悲嘆は世界に広がり1300億円を超す寄付が集まった。▼再建を記念して開かれた先日の式典では、各国首脳やトランプ米次期大統領らが列席した。ポピュリズムの台頭で政治的な窮地に立つフランスのマクロン大統領は、大聖堂を「連帯」の象徴として位置づけようとした節がある。現実はどうだろう。▼光太郎が滞在した頃のパリは、あらゆる人種や思想、芸術文化に寛容な街だった。いまのフランスは移民の増加で社会がひずみ、少数与党の内閣が総辞職するなど政治も混乱する。心のよりどころとされる大聖堂の再建を横目に、人々を分かつ亀裂の修復は簡単ではないようだ。▼大聖堂前の広場には、距離の起点となる道路元標が置かれている。いわばフランスの中心点である。大聖堂は再び、迷走する社会の結び目となるだろうか。今年は、わが国をはじめ世界各地でも政治が揺れた。できれば、再建の福音にあやかりたいものである。

せっかくの復旧が政治的な駆け引きの道具にされることの無いようにしてほしいものですが……。

続いて白水社さんから出ている雑誌『ふらんす』今月号。「世界遺産、ノートルダム大聖堂」という特集が組まれ、建築史がご専門の三宅理一・東京理科大学客員教授と仏文学者の鹿島茂氏の玉稿、日本科学未来館さんで開催中の「特別展 パリ・ノートルダム大聖堂展 タブレットを手に巡る時空の旅」のレポートが載っています。
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そのうち、鹿島氏の「ノートルダム大聖堂と原始の森」が、「雨にうたるるカテドラル」考察を含みます。氏が注目されたのは、「あの日本人です。」のリフレイン。「日本人」の語がなければパリジャンが書いた詩といっても通る「普遍性」があるとし、「あの日本人です」と繰り返すことで「特殊性」も併せ持つ詩だ、というご指摘。さらに今回焼け落ちた木造部分から「原始の森」へと発想を飛ばし、「森」といえば日本人、的な。

三宅氏の「よみがえるノートルダム大聖堂」も、建築大好き人間としては実に興味深い内容でした。元々がどういう建築だったのか、火災の状況や修復の過程など、わかりやすくまとめられていました。

ところで雑誌『ふらんす』さん。かつては光太郎も寄稿したことのある雑誌で、その意味でも驚きました。失礼ながらまだ健在だったんだ、と。『中央公論』さん、『文藝春秋』さん、『婦人之友』さんなど、そうした例は他にもありますが、それらと異なり、不躾とは存じますがメジャーな雑誌ではありませんので。

光太郎の寄稿は昭和16年(1941)6月の第17巻第6号。「日夏耿之介著 英吉利浪曼象徴詩風を読んで」という短文でした。それに先立つ同12年8月の第13巻第8号広告欄に出たアーサー・シモンズ著、宍戸儀一訳「象徴主義の文学」広告にも光太郎の短評が出ていますが、こちらは寄稿という訳ではない感じです。

で、今月号が第99巻第12号。末永く続いて欲しいものです。末永く、といえば、ノートルダム大聖堂自体も、もちろんです。

【折々のことば・光太郎】

もう山も秋、明月にはひとりで酒をくみ、雉子の飛ぶ羽音をききながら心ゆくまで観月しました、数里に及ぶススキの原はまるで海です、


昭和25年(1950)9月30日 藤間節子宛書簡より 光太郎68歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺の森、光太郎はパリ郊外のフォンテーヌブローの森になぞらえることもありました。

先週の話になりますが、妻と二人で茨城県笠間市に行きました。

別に笠間でなくてもよかったのですが、妻のリクエストが以下の通りで、そうなると笠間かな、というわけで。
 ① 気合いの入ったモンブランが食べたい
 ② 美味しい新蕎麦が食べたい
 ③ 御朱印が欲しい
 ④ 紅葉も見たい

笠間は以前にも何度か足を運びました。昨年にはやはり妻と隣接する水戸市の偕楽園さんで梅を見た後、笠間に移動して、光雲・光太郎父子の作品も出ていた茨城県陶芸美術館さんでの「生誕150年記念 板谷波山の陶芸 帝室のマエストロによる至高のわざ」を拝観。それ以外にも笠間稲荷さん、常陸国出雲大社さんに御朱印をもらいに行ったりしたこともありました。また、自分一人では日動美術館さんにお邪魔したことも。千葉の自宅兼事務所から車で1時間程です。

さて、まずは旧岩間町の愛宕神社さんに。
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この日、午前中は霧が深く、その分神秘的といえば神秘的でしたが、晴れていたら見えたはずの関東平野の眺望が拝めず、そこは残念でした。

入母屋造の大きな拝殿と、奥には流造の本殿。拝殿の飾り彫刻も見事でした。左右に鶴でしょうか。
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その上、中央には龍。しかし濃霧でよく見えませんでした。
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拝殿に入れていただくと、この地に残る天狗伝説にちなみ、奉納された巨大な天狗面が多数。
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妻はこちらで御朱印を頂き、ミッション③はクリア。

さらに本殿奥の摂社と思われる飯綱神社さんには銅製の見事な六角殿が。
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ちょうど先日、荒川区で「鋳造のまち日暮里—銅像の近代—」展を観覧したばかりで、興味深く拝見しました。江戸期には既にここにあったそうですが。

下山して笠間駅近くへ。スマホの検索画面で探した蕎麦屋さんを見つけ、ミッション②もクリア。

続いてミッション④、紅葉を見に、ということで、日動美術館さんの分館と位置づけられている「春風萬里荘」さんへ。北大路魯山人が北鎌倉でアトリエとして使っていた農家建築です。昭和40年(1965)に笠間に移築されました。

ちなみにイサム・ノグチは魯山人に陶芸を学ぶため、元々この建物のあった北鎌倉に移り、それまで借りていた中西利雄アトリエの契約を解除しました。その後に光太郎が「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、同アトリエに入ったといういわくもあります。
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魯山人と光太郎、明治16年(1883)の同年生まれです。しかも、誕生日が光太郎は3月13日、魯山人は3月23日と10日しか違いません。ところが、二人の間に直接的な交流は無かったようで、『高村光太郎全集』に魯山人の名は見あたりません。どこかで顔を合わせたりしたことはあるんじゃないかな、などとは思うのですが。

また、直接の縁はなくとも、中西利雄・高村光太郎アトリエの保存運動のからみもあり、この手の建築は見ておきたいと常々考えております。

そんなことを考えながら受付の券売機で入場券1,000円×2を購入し、少し歩いて建物へ。
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この段階ですでに紅葉が見事です。
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茅葺きの屋根が実にいい感じですし、破風まで茅葺きとは恐れ入りました。

入口に掲げられた扁額を見て、仰天。
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署名をたしかめるまでもなく、見た瞬間に、当会の祖・草野心平の字です。
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建物内には額に写す前の直筆も掲げられていました。
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そういえば、日動美術館さん本体にも心平の扁額があったっけと思い出しました。日動画廊の創業者、長谷川仁と交流があったのでしょう。

直筆の方にはキャプションも。
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ここで光太郎や宮澤賢治、萩原朔太郎の名を目にするとは思っていませんでした。

ちなみに玄関の扁額の上、破風の下には貂(てん)の木彫。最初、猫かと思ったのですが、しげしげ見ていたら係員の方が貂だと教えて下さいました。
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さて、改めて建物内。

魯山人が実用していたという衣桁。
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こちらもいい感じの木彫が施されています。

魯山人の陶芸作品。
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唐獅子の釘隠や杉戸などは当時のものなのでしょう。
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芹沢銈介の幅、中村不折の書などはあとから日動さんによって持ち込まれたものかな、と思いました。
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庭もいい感じでした。
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正面向かって右側の茶室は魯山人の設計だそうで。
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逆サイドには元々厩だったエリア。同じ屋根の下に厩があるのは東北の曲屋に似ています。
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素朴なステンドグラス。左は内側から、右は屋外から撮影しました。
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ここには日動さんによる様々な彫刻作品が展示されていて、それは存じませんでした。
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左上は朝倉文夫、右上で藤井浩佑、左下が澤田政廣、右下には北村四海。それぞれ光雲・光太郎父子と大なり小なりの縁はありました。
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さらに奥には魯山人作の、何と便器(笑)。
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ひととおり内部を拝見した後、外の庭園へ。
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少し離れた場所には長屋門もありました。
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そんなこんなでミッション④、紅葉もクリア。

最後にミッション①、「気合いの入ったモンブラン」。道の駅かさまさんでいただきました。ただし、ここはセコく、二人で一つ(笑)。
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素麺か冷や麦のように見えますが、特産の栗がふんだんに練り込まれています。美味でした。

茨城県、都道府県魅力度ランキングでは毎回のように最下位ですが、こういういいところもいろいろあります。ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

一、お茶  [七月廿五日発送] 一、クマゼミ[シヤンシヤン蟬] 一、香水線香 右受領候也 七月廿八日 クマゼミ無事到着、立派です、

昭和25年(1950)7月28日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎68歳

「クマゼミ」は木彫にしたいということで、関東には生息していませんので、静岡にいた澤田(『智恵子抄版元の龍星閣主』)に送ってくれるよう、戦時中から頼んでいました。

11月10日(日)~18日(月)の日程で開催しました「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。

中野たてもの応援団さん主催で、当方も幹事に名を連ねています中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会の協賛。保存運動の起こっている、光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた展示でした。

地味な展示であまり宣伝も行き届かず、大盛況とは行きませんでしたが、それでもそれなりに多くの方にお越し頂き、有り難く存じました。会期中に『東京新聞』さんに取り上げていただいたのも大きかったようです。

個人的にも必死に宣伝しましたところ、旧知の皆さん、SNSで繋がっている方々などの御来臨を賜り、恐縮至極でした。また、新たに人脈を広げることもでき、嬉しい限りです。

関連行事として2本の講演が行われ、その模様がYouTubeに上がっています。SNSにはアップしましたが、こちらのサイトには出していなかったので、貼り付けておきます。

まず
11月10日(日)、劇作家・俳優にして中西アトリエを保存する会代表の渡辺えりさんと、当方によるトークショー「連翹の花咲く窓辺……高村光太郎と中西利雄を語る」。



さらに、11月11日(月)、建築がご専門のお二人、内田青蔵氏(近代建築史家・中野たてもの応援団団長)、伊郷吉信氏(建築家・自由建築研究所・伝統技法研究会)によるご講演「中西アトリエの魅力…水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」。


アトリエ保存のための一石を投じたことになっていれば、と願っております。

また、来月には中野区役所新庁舎ロビーにおきまして、今回展示したもろもろのうち、解説パネルをセレクトしての展示が行われる方向です。また詳細が入りましたらご紹介致します。

【折々のことば・光太郎】

独学の人は自分免許が危険です、ひとりでいい気になってゐる事が怖いです、

昭和25年(1950)6月17日 多田政介宛書簡より 光太郎68歳

なるほど、肝に銘じます。

保存運動の起こっている、光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた、中野たてもの応援団さん主催の展覧会「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」、折り返しを過ぎまして、今日を含めてあと4日となりました。

初日(11月10日(日))には関連行事としまして、
劇作家・俳優にして中西アトリエを保存する会代表の渡辺えりさんと、当方によるトークショー

その翌日、11月11日(月)には、
建築がご専門のお二人、内田青蔵氏(近代建築史家・中野たてもの応援団団長)、伊郷吉信氏(建築家・自由建築研究所・伝統技法研究会)によるご講演「中西アトリエの魅力…水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」が行われました。
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内田氏は主にアトリエ設計者である建築家・山口文象に関して。

伊郷氏は施主だった水彩画家・中西利雄と、完成したアトリエについて。
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山口と中西利雄に関しては、当方もあまり詳しくありませんので、実に参考になりました。

下記は展示されているパネルをプリントアウトしたもの。
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展示と言えば、アトリエに関しては詳細な図面等も展示してあります。
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模型も。
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渡辺えりさんとお父さまの光太郎や中西アトリエに関するコーナーも新設しました。
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昨日の『東京新聞』さん。

「存続危機のアトリエ知って」 中野で企画展 18日まで 高村光太郎も晩年滞在

 中野区内に点在するアトリエ建築を紹介する企画展「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」が、中野ZERO西館2階の美術ギャラリー(中野2)で開かれている。18日まで。
 中野には、戦前から若い芸術家らが豊かな風景を求めて移り住み、制作活動の場として多くのアトリエが建てられた。企画展は、アトリエの記録を残そうと、区内で歴史的建造物の保存や調査活動をする市民団体「中野たてもの応援団」が集めた資料など50点を展示する。2019年に続き2回目。
 区内に残る十数ヶ所のアトリエをパネル形式で紹介。中でも大正から昭和に活躍した洋画家で「水彩画の巨匠」と呼ばれた中西利雄(1900〜48年)のアトリエ(中野3)については、写真や図面、模型なども展示して詳しく解説している。
 中西のアトリエは、一方向に傾斜する片流れ屋根の木造一部2階建て。天井が高く、日光が安定して差し込むよう北側に大きな窓があるのが特徴だ。詩人で彫刻家の高村光太郎(1883〜1956年)が晩年の3年半滞在し、代表作「乙女の像」の塑像を制作した。光太郎をしのぶことができる建築は都内では中西アトリエが唯一とされ、貴重な建築という。光太郎の手紙やデッサンなども並ぶ。
 同団事務局の十川(そがわ)百合子さんは「中西アトリエをはじめ多くのアトリエが所有者が亡くなるなどして存続の危機にある。今も街の中に残るアトリエをギャラリーなどとして活用できたら」と話している。
 入場無料。午前10時〜午後6時(最終日は午後4時まで)。会場では中西アトリエ保存を求める署名も受け付けている。

無題2無題
昨日、といえば、中野区長さんもいらっしゃいました。
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11月18日(月)まで。通常、18:00までですが、最終日は撤収作業のため公開は16:00で打ち切ります。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

イサム ノグチ氏来朝の由で愉快ですがやはり小生は東京へ行けさうもありません。同氏のオブジエは立派だと思ひます。


昭和25年(1950)5月29日 笹村草家人宛書簡より 光太郎68歳

彫刻家イサム・ノグチは、明治37年(1904)、詩人にして英文学者の野口米次郎と、アメリカ人作家レオニー・ギルモアとの間に、アメリカロサンゼルスで生まれました。父は光太郎とも交流があり、後年、ノグチ自身も光太郎の知遇を得ることとなりました。

3歳の時に来日し、幼少期を日本で過ごし、造型作家となることを夢見るようになって、14歳で再渡米、周囲の勧めもあり彫刻の道へと進みます。かつて光太郎が留学中にその助手を務めた彫刻家ガットソン・ボーグラムに弟子入りするも、そりが合わず訣別して独立。パリに留学してコンスタンティン・ブランクーシに師事。その後はニューヨークに拠点を置きつつ、日本を訪れて陶芸を学ぶなどしました。太平洋戦争開戦後は日系人ということで収容所生活も経験。スパイや二重スパイの嫌疑をかけられ、多大な苦労をしたとのこと。

戦後、昭和25年(1950)に再来日し、同36年(1961)まで日本に滞在。その間、李香蘭こと山口淑子と結婚、一時、中西アトリエを借りて彫刻制作を行いました。彫刻以外にもアメリカ時代からインテリアデザインに興味を持ち、日本で丹下健三、谷口吉郎らの建築家と親しく交わって、庭園設計なども行った他、採用されなかったものの広島の原爆慰霊碑の設計にも取り組みます。また、中西アトリエを出て鎌倉に移り、北大路魯山人に陶芸を学んだりもしています。

その後に光太郎が中西アトリエを借りたわけです。

昨日開幕した、保存運動の起こっている、光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた、中野たてもの応援団さん主催の展覧会「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱの関連行事として企画した、渡辺えりさんと当方によるトークショー的な講演会、「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」。つつがなく終わりました。
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高村光太郎とは何者だ? というような話から、実際に生前の光太郎と交流がおありだった戦時中や戦後の御両親のお話、お父さまが連翹忌や花巻の高村祭にご参加下さったお話、ご自身も小さい頃から光太郎詩を子守唄代わりに聞かされて育ったお話、舞台やテレビで光太郎を取り上げたお話、そして中西利雄アトリエを受け継がれた子息・利一郎氏とのご交流、さらにはその中西利雄アトリエを保存していこうじゃないかというようなお話などなど。

当方はPCでスライドショーの操作をしながらだったので座らせていただきましたが、えりさんはスクリーンの前にずっと立ちっぱなしで熱く語られた約2時間でした。

聴かれた方にはおおむね好評だったようで、胸をなで下ろしております。

ところで、ここで書くべきかどうか……とも思ったのですが、書きます。

えりさん、お母さまがご危篤ということで、故郷の山形に帰ってらしたのですが昨日はこのイベントのために上京。そしてイベント終了後の20時38分、そのお母さまが亡くなったそうです。
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そのお母さまのお話もしていただきました。戦後の昭和25年(1950)11月、若かりしお母さまは蓄膿症の手術を受け、山形の病院に入院されていたそうです。すると、御結婚前だったお父さまが病院の窓から現れ「高村光太郎先生の講演会が山形でこれから開かれるから、聴きに行こう」と、お母さまを病院から半分無理矢理連れ出したとのこと。その講演自体は音響が良くなく、あまり聴き取れなかったそうですが、お母さまもお父さまの影響で、光太郎ファンとなられ、のちに還暦の祝の引き出物には光太郎の詩集『智恵子抄』を皆さんに配られたなどというお話も。

お母さまの最期に立ち会わせて上げられなかったという意味で、えりさんには誠に申し訳ないのですが、それでも、こうして御両親のお話をなさったその日に亡くなられたお母さま、先に逝かれたお父さまともども、きっとえりさんに「よくやった」とおっしゃって下さっているのでは、と思います。

以下は昨日のスライドショーからの画像。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

尚、「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」の関連行事としての講演会第二弾、建築家の内田青蔵氏(近代建築史家・中野たてもの応援団団長)、伊郷吉信氏(建築家・自由建築研究所・伝統技法研究会)によるご講演「中西アトリエの魅力…水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」が、本日18:30~で、アトリエ展会場のなかのZEROさんにて行われます。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小生明日花巻に出で、明後日役場の二階で美術講話をいたす事になつて居ります、地方に居りますとかやうの事も已むを得ぬ場合が時々ございます、


昭和25年(1950)5月12日 松下英麿宛書簡より 光太郎68歳

光太郎、自分は戦争責任を恥じての蟄居中なので、あまり人前に出るのは気が進まないという感じでしたが、その人品骨柄を慕う人々から「ぜひご講演を」という依頼は引きも切りませんでした。

光太郎が講演を行った当時の花巻町役場の建物、移築されて現存しています。
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保存運動の起こっている、光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた、中野たてもの応援団さん主催の展覧会「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」、本日開幕です(11月18日(月)まで)。

昨日は会場のなかのZEROさん西館美術ギャラリーにて、展示物の搬入と会場設営を行いました。

作業風景。
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壁面にはパネル展示で、中西利雄ついて、建築としての中西利雄アトリエの解説、中西利雄の没後に貸しアトリエとなってから借りたイサム・ノグチ、光太郎について。
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それから、光太郎をメインに据えて下さると云うことで、中西家からお借りしたものプラス当方手持ちの品々を持ち込みました。
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展示ケースも4台ありましたので、そちらにも。
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彫刻家としての光太郎関連。
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詩人としての側面から。
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中西アトリエでの光太郎。
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他の美術家のアトリエについてもパネル展示で。
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今日は初日ですが、いきなり14:30からこの場で関連行事としてのトークショー「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」を行います。劇作家・俳優にして中西アトリエを保存する会代表の渡辺えりさんと、当方による丁々発止(笑)。

さらに11月11日(月)、18:30~20:30には、建築がご専門のお二人、内田青蔵氏(近代建築史家・中野たてもの応援団団長)、伊郷吉信氏(建築家・自由建築研究所・伝統技法研究会)によるご講演「中西アトリエの魅力…水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」。

すべて入場無料です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小生ますます山男となり、最低生活をよろこんで居ります、低きに居るものの幸を味つてゐます、


昭和25年(1950)4月27日 宅野田夫宛書簡より 光太郎68歳

言葉通り、上級国民としてではなく、最底辺に近い暮らしから世の中を見つめ続けていました。

2年半後に「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、中野の中西利雄アトリエに入りますが、この時点ではまだそうなることなど夢にも思っていなかったと考えられます。

少し先の話なのですが、ガンガン宣伝してくれと云う話ですので……。

中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ

期 日 : 2024年11月10日(日)~11月18日(月)
会 場 : なかのZERO西館美術ギャラリー2F 東京都中野区中野2丁目9-7
時 間 : 10:00~18:00 最終日のみ16:00まで
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

中野には創作活動の場であるアトリエが多くはありませんが残っています。残念ながら前回の展示会後に取り壊されてしまったものもあります。

桃園川緑道沿いに片流れ屋根の簡素なアトリエがありますが、ここで高村光太郎が「乙女の像」を制作しました。

アトリエという建築の魅力、活躍した人々をご紹介します。

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関連講演会
 各回定員60名 定員に達し次第締め切ります 無料
 
  ① 『連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る』
    11月10日(日) 14:30~16:30  会場:なかのZERO
     渡辺えり(劇作家・俳優・中西アトリエを保存する会代表)
     小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)

  
  ② 『中西アトリエの魅力…水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について』
    11月11日(月) 18:30~20:30 会場:なかのZERO
     内田青蔵(近代建築史家・中野たてもの応援団団長)
     伊郷吉信(建築家・自由建築研究所・伝統技法研究会)001


申込 : メール y-sogawa@tubu.jp

     申込フォーム 
     右記QRコード 

     電話 090-8056-0327(ソガワ)

というわけで、保存運動の起こっている光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた展覧会です。主催は中野たてもの応援団さん。

他に三岸好太郎・節子、棟方志功、彫刻家の木下繁、同じく長谷川昂、画家の萩原英雄らのアトリエ、土日画廊という歴史的建造物などについてのパネル展示が為されます。

中西利雄アトリエは、中西本人、それから中西没後に貸しアトリエとなってから借りたイサム・ノグチ、そして光太郎についてのパネル展示。さらに特に光太郎を大きく扱って下さるとのことで、当方手持ちの史料を大量にお貸しします。真作で彫刻(ブロンズレリーフ)や書簡、『道程』などの著書、複製ですが原稿、デッサン、色紙などなど。

また、関連行事としての講演会。初日の11月10日(日)に渡辺えりさんと当方で「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」と題したトークショー。当方が水を向け、渡辺さんにいろいろと語っていただき、専門的なところは捕捉、スクリーンにスライドショーを投影しつつ行います。

翌11月11日(月)には建築専門のお二人から建築としての中西アトリエのお話。個人的にはこれが実に楽しみです。

展覧会、講演会とも無料。ぜひ足をお運び下さい。これで中西アトリエ保存運動に大きく弾みを付けたいと存じますので。

【折々のことば・光太郎】

都会の人は殊に時々登山するといいと思ひます。登山の清らかなたのしみは比較するものもないやうです。


昭和24年(1949)8月24日 髙村規宛書簡より光太郎67歳

令甥・規氏の埼玉の低山に登ったという書簡への返信の一節です。若き日の光太郎はクラシックルートを歩いて信州上高地まで上ったり、上州赤城山にも再三登ったりしました。上州といえば山間部をほぼくまなくトレッキングし、法師、草津、湯檜曾、川古、磯部、伊香保、四万、水上、宝川などの温泉を踏破しています。

今年はじめから活動を始めました「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」。光太郎終焉の地にして、第一回連翹忌会場ともなった中野区の中西利雄アトリエの保存のための組織です。先頃、会としてのホームページも出来、去る9月4日(水)には5度目くらいの会合を開き、今後の活動等について確認いたしました。

再来週くらいには詳細情報を出せるかと存じますが、11月には中野区内でアトリエに関する企画展示を行うことに決定しました。関連行事として建築家の方による中西利雄アトリエの歴史的価値、設計者の山口文象について等のご講演、会の代表・渡辺えりさんと当方による光太郎や中西アトリエをとりまくもろもろについてのトークショーなどが予定されております。

ホームページ上では保存に賛同して下さる方に署名をお願いしており、電子署名、紙媒体による署名と双方を用意してあります。さらにカラー版のフライヤーを兼ねた署名用紙を作って下さった会員の方がいらっしゃいまして、下に載せておきます。
フライヤー
署名用紙カラー
事業所さんや店舗さん等の場合、可能であれば裏表で印刷していただいて、カウンターなどに置いていただき、いらした方に署名をお願いしていただけると助かります。

適当なところでFAXまたはスキャンデータでお送り下さるか、さらに用紙そのものを下記あて郵送して下さっても結構です。

 〒113-0031 文京区根津2-37-4-801 曽我貢誠

さらには保存運動につき、SNS他、さまざまな形で「こんな動きがあるよ」と拡散していただければ幸いです。各種マスメディアさん等の取材も大歓迎です。

中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会
Home | save-atelier-n (jimdosite.com)

どうぞよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

六月十一日には先日お送りした原稿にある通り裏山の展望台に立つて南方はるかに東京の空を眺めませふ。あなたの舞踊にのり移つた智恵子の事を思ひませう。帝劇で若し眼のあたりあなたの舞踊を見たら小生の眼は涙でくもつてしまふでせう。

昭和24年(1949)5月23日 藤間節子宛書簡より 光太郎67歳

六月十一日」は、舞踊家の藤間節子(のち黛節子と改名)が、帝国劇場で「智恵子抄」を含むリサイタルを行う日です。「原稿」はそのパンフレットに掲載されました。
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若干先の話ですが、申込締め切りが近いもので……。

第2回 文(ふみ)の京(みやこ)ガイドツアー 「Bーぐる」がゆく本郷台地~須藤公園から六義園~

期 日 : 2024年9月28日(土)
会 場 : (集合)須藤公園―島薗邸―旧安田楠雄邸庭園―宮本百合子旧居跡―
      高村光太郎旧居跡―動坂遺跡―鷹匠屋敷跡―天祖神社―名主屋敷―富士神社―
      東洋文庫―六義園(解散) 全行程約2㎞
時 間 : 10:00~11:30
料 金 : 無料(六義園内庭園ガイドツアー 一般300円、各種割引等ありは自由参加)
〆 切 : 9月10日(火) 電子申請又は往復はがき
       〒112-0003 文京区春日1-16-21シビックセンター1階文京区観光インフォメーション

須藤公園を出発し、Bーぐるの路線に沿って、六義園まで区公認の観光ガイドが案内します。
※1グループ2人まで ※事前に申込フォームの「ご利用にあたってのお願い」を確認のこと
※天候等により中止の場合あり
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「「Bーぐる」って何だ?」と思って調べたところ、文京区内を循環するコミュニティバスだそうでした。「文京区(Bunkyouku)」を「ぐるぐる」で「Bーぐる」。なるほど。で、それに乗って巡るのかと思いきや、全行程徒歩だそうです。「B―ぐるの通るコースを歩く」というコンセプトだとのこと。

区公認のガイドの方が同行されて、各ポイントの説明をして下さるそうです。文京区さん、そういうシステムが整っているという時点で、素晴らしいと思います。他の市区町村さんも参考にしていただきたいところです。自分のエリア内にある文化財等に無関心な自治体の何と多いことか。

そういう意味では「自治体ガチャ」というワードが思い浮かびます。元々は国会でも取り上げられた、子育て支援等の自治体間格差を指す語ですが、文化行政などについても言えるような気がします。子育て支援等で困る場合には、隣の自治体に引っ越すとかもありでしょうが(実際、そんなこんなで人口減少に歯止めが掛からない自治体、そこからどんどん人が流入している自治体がそれぞれ自宅兼事務所近くにありまして)、建造物等の文化財はその場所から動かすことが難しいので(これも、とある件をイメージして書いています。勘の鋭い方はお判りですね(笑))。

閑話休題。今回のガイドツアー、千駄木五丁目の光太郎旧居跡も行程に含まれています。昭和20年(1945)4月の空襲で灰燼に帰したアトリエ兼住居があった場所。
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戦後しばらくは更地で、玄関にあった大谷石の石段の残骸などは残っていたそうですが、その後、月極駐車場となっていた期間が長く、さらに現在は宅地になってしまっています。当時を偲ぶよすがは文京区さんの建てた案内板のみとなってしまいました。
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ついでにいうと、この手の案内板も、文京区では充実しています。

すぐ近くにはやはり今回の行程に入っている宮本百合子旧居跡。
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それから、こちらは今回の行程には含まれていませんが、団子坂上の「青鞜社発祥の地」。
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団子坂自体も。
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「青鞜」のそれと団子坂のそれには光太郎や智恵子の名が記されています。

このあたりもやっぱり「自治体ガチャ」ですかね(笑)。

それから、光太郎や宮本百合子の旧居跡の前には旧安田楠雄邸庭園がコースに含まれています。こちらは光太郎アトリエと指呼の距離ながら空襲の被害を免れ、健在です。
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ちなみに現在放送中のNHKさんの朝ドラ「虎に翼」のロケにも使われているそうです。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

頃日御尽力の県下国宝保存の運動は大に賛成でございます。一般の協力を望んで居ります。
昭和24年(1949)3月30日 森口多里宛書簡より 光太郎67歳

森口多里は美術評論家。昭和22年(1947)に開校した岩手県立工芸美術学校の初代校長を務めました。本来の業務以外にも文化財保護に尽力し、光太郎もそれに賛同していました。こういう人物がいないと文化財保存というのは弾みが付かないのでしょう。

今年はじめから活動を始めました「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」。光太郎終焉の地にして、第一回連翹忌会場ともなった中野区のアトリエの保存のための組織です。

このたび、会としてのホームページが立ち上がりました。
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会の世話役であらせられる日本詩人クラブ理事の曽我貢誠氏が手配して下さり、そのあたりにお詳しいという同クラブご所属の詩人・遠藤ヒツジ氏に作成していただきました。多謝。

中野のアトリエ、もともとは恐らく光太郎とも面識のあった水彩画家・中西利雄が、建築家の山口文象に設計を依頼して自分用に建てたものでした。しかし、その完成とほぼ時を同じくして中西は急逝。昭和23年(1948)のことです。
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せっかく建てたアトリエを活用しないのはもったいないと、中西夫人が貸しアトリエとして運用することになり、彫刻家のイサム・ノグチが最初の借り手となりました。その後、昭和27年(1952)、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作を青森県から依頼された光太郎が、花巻郊外旧太田村の山小屋では制作が不可能なため、このアトリエを借りることとなりました。

そこで、「乙女の像」石膏原型はここで作られたわけです。ホームページのトップ画像は中西アトリエで制作中の光太郎。また、ホームページ内「ギャラリー」の項には、助手の小坂圭二と写った写真など他の画像も掲載されています。

光太郎、像の除幕後、一時的に旧太田村に2週間程帰村したり、宿痾の肺結核のため昭和30年(1955)には赤坂山王病院に2ヶ月程入院したりしましたが、それ以外はこのアトリエで起居しました。当初の目論見では、寒い冬場はこのアトリエで過ごし、春になったら岩手へと、二重生活を考えていたようなのですが、健康状態がそれを許しませんでした。もはや帰村は叶わないと悟った入院時には、住民票もこのアトリエに移してしまいました。

そして亡くなったのが昭和31年(1956)4月2日。最晩年の約3年半、このアトリエで過ごしたことになります。その間、中西夫人や子息の利一郎氏らが何くれとなく光太郎の世話をして下さり、子や孫の居なかった光太郎にとって、中西家の人々は家族同然だったようです。

光太郎没後もアトリエはしばらく借り続けられ(おそらく実弟の豊周が費用を負担したのでしょう)、当会の祖・草野心平や、当会顧問だった北川太一先生らによる最初の『高村光太郎全集』編集室として使われました。そして昭和32年(1957)4月2日、第一回連翹忌の会場ともなりました。

昨年、利一郎氏が亡くなり、このアトリエが存続の危機です。お父さまが光太郎と交流があり、ご自身も利一郎氏と親しかった渡辺えりさんに代表を務めていただき、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を結成しました。003

今後、保存に向けてのさまざまな活動を行っていきますが、皆様方にも御支援を賜りたく存じます。ホームページ内には署名の項があり、既に紙媒体で署名していただいた方はブッキングしてしまいますので結構ですが、SNS等で拡散していただきたく存じます。不鮮明ですが、QRコードも載せておきます。

なにとぞよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

音楽だけは山ではきけず、時々ひどくききたくなります。


昭和24年(1949)3月23日 西岡文子宛書簡より 光太郎67歳

この年、電線は村人に引いてもらったので、やがてラジオを入手、音楽も聴けるようになりますが、まだ先の話です。

一昨日、兵庫県たつの市の霞城館・矢野勘治記念館企画展「三木露風と交流のあった人々」を拝見して参りましたが、その前後の様子を。

同館周辺が重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、古い街並みが広がっています。
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その中に三木露風の生家もありました。
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無料で内部が公開されていました。ありがたし。

造りとしては武家屋敷風。そこで邸内には甲冑やら槍やらも何気に飾られていました。
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露風肖像写真。
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露風肉筆。
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ちょっと前に話題となった、露風と宮沢賢治のつながりに関わる新聞記事。
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別棟の離れ。
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ただし、両親が離婚したため、露風がここで過ごしたのは幼少期のみだそうで。

その後に移ったという場所も意外と近くでした。
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しかし、建物は建て替わっているようで「跡」。それでも門などは昔の面影を残しているのではないかと思われました。

その他、露風がらみでは、露風も訪れたであろうという店舗。なんとこれで現役の新刊書店です。
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内部。
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その他にも、江戸から昭和戦前と思われる建造物がたくさんあり、古建築好きの当方としてはテンションアゲアゲでした。

霞城館さん近くの武家屋敷資料館さん。こちらも入場無料。
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天井が低い造作です。賊が襲ってきても刀が振りかぶれないようにしてあるわけで、防衛第一に考えられた造りです。

欄間の彫刻。素朴なものですが、かえって温かみを感じます。
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下は移転する前、山城だった頃の龍野城。

移転された龍野城。
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江戸初期には山麓に移されて平山城に。野面積みの石垣がいい感じでした。

上の画像の欄間は城下を流れる揖保川だそうで。

この地がかの高級そうめん「揖保乃糸」の発祥の地、商標名は揖保川から採ったとのことで、赤面ものですが、当方、存じませんでした。
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その他、街並みの風景。
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「なまこ壁」や「うだつ」。
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「うだつ」に煉瓦が使われているのは初めて見ました。

こんな感じで純和風でもないところがたまりません。お約束の洋館や擬洋館もあり、飽きが来ません。
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自宅兼事務所のある千葉県香取市佐原地区も同じく重要伝統的建造物群保存地区に指定されていますが、当地は商都ですのでまた雰囲気が異なり、興味深く拝見しました。

こんな街です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生誕生日のお祝とて抹茶チヨコレートにんべんの鰹節やら珍らしいタバコ等いただいたので大によろこびました。今朝は早速お茶をたてました。池田園のお茶中々よく感謝しました。それからクールといふのをのんでみましたが、珍らしい涼しい味でうまいと思ひました。

昭和24年(1949)3月13日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎67歳

光太郎、誕生日を迎え、満66歳となりました(上記「光太郎67歳」は数え年です)。

その祝いを兼ねて贈られた品々、鰹節のにんべんさんやお茶の池田園さんは健在ですね。「クール」は「KOOL」、こちらも健在のアメリカのメンソール煙草です。そこで「涼しい味」。日本で正式に販売が始まったのは昭和35年(1960)頃ですが、進駐軍の関係で入手できたのでしょうか。

光太郎も目にしたであろう建造物です。

一昨日の『朝日新聞』さん千葉版から。

国登録有形文化財に旧下総御料牧場貴賓館など10件を答申

 国の文化審議会は先月、千葉県成田市の旧下総御料牧場(三里塚記念公園)の貴賓館と防空壕(ごう)など計10件を国登録有形文化財(建造物)に登録するよう文部科学相に答申した。登録されれば県内の国登録有形文化財(建造物)は315件になる。
 ほかには、市川市の勝家住宅主屋と稲荷社、我孫子市の榎本家住宅主屋と離れ、北土蔵、釜場、正門、稲荷社。
 成田市によると、旧下総御料牧場貴賓館は、明治政府が招聘(しょうへい)した「お雇い外国人」の官舎として現在の富里市に明治9(1876)年に建てた純和風住宅がもと。同21(1888)年に三里塚に移築後、大正期に貴賓館となり、各国大使の接待や皇族の宿泊に利用された。成田空港の建設に伴って牧場の移転が決定し、払い下げを受けた成田市が大正期の姿に復元修理した。
 木造平屋建てで、内部には洋間のホールを配し、北面は上下窓を開けた独特の外観。
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 防空壕は鉄筋コンクリート造りで、主室の壁は厚さ70センチと、戦時下の緊張を伝えている。
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 市川市によると、勝家住宅は、東京の地主だった勝家が関東大震災を機に市川に移住し、昭和11(1936)年ごろに建てたとされ、主屋は平屋建ての近代和風住宅。洋間の応接室や座敷、仏間を配し、座敷の床周りには紫檀(したん)や赤松を用い、琵琶床と付書院を備えるなど凝った意匠になっている。精緻(せいち)な造りの稲荷社も同時期に建てられたとみられる。
 我孫子市によると、榎本家住宅は、利根川の水運業(船問屋)を生業にしていた榎本家が主屋などを昭和初期に建てたとされる。榎本家は明治期から大正期にかけて町長や衆院議員を輩出しており、同市の歴史を伝える上でも重要な建築物とされる。主屋は木造2階建ての寄せ棟造りで、その周囲に立つ離れなど五つの建造物も今回の対象になった。

三里塚御料牧場は明治8年(1875)に開場した下総牧羊場を前身とし、同18年(1885)、当時の宮内省が直轄化、成田空港の建設工事に伴い、昭和44年(1969)に栃木県の那須に移転するまで存続していました。牧場としては閉鎖された後も、今回指定された貴賓館や御料牧場事務所は保存され、三里塚記念公園として市民の憩いの場の一つとなっています。元々桜の名所でしたし、マロニエの巨木による並木も見事です。
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そこからほど近い場所に、第一期『明星』時代からの光太郎の親友であった水野葉舟が移り住んだことから、大正末に光太郎も牧場を訪問、詩「春駒」を作り、その後もたびたび訪れました。昭和52年(1977)には公園内、貴賓館の庭に「春駒」の光太郎自筆稿を元にした詩碑も建立されています。
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これと対を為すように葉舟の歌碑も。元々は最晩年の光太郎が揮毫を頼まれたものですが、もはや健康状態がそれを許さず、二人と交流のあった窪田空穂が代わって筆を執りました。
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また、旧事務所は御料牧場記念館として当時の様々な史料を展示している他、小規模ながら葉舟や光太郎に関する展示も為されています。この建物も文化財指定がなされればなおよかったのですが……。
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防空壕も同じ敷地内。平成23年(2011)に一般公開が始まり、当方も一度内部を見せていただきました。皇室用と云うことで一般のそれとはけた違いの強度、まるでシェルターでした。ただし、実際に使われたことはなかったそうです。
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産業遺産、戦争遺跡、そして文学散歩のコースとしての複合遺産とも言える場所です。ぜひ足をお運び下さい。ただ、公共交通機関ですと、かつてあった鉄道は廃線となり、バスやタクシーしかありません。JRさんなり京成さんなりの成田駅までいらしていただければ、当方、隣町ですので自家用車でご案内いたします(要予約(笑))。

【折々のことば・光太郎】018

智恵子作の筆は珍宝と存じ、忝く御礼申上げます。あの筆の穂は黒松の花芽です。


昭和23年(1948)10月21日
 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

文言通りに読めば、智恵子が作った筆をもらった礼です。宮崎の妻は智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子でしたので、おそらく春子が智恵子の形見として持っていたものだったのでしょう。「黒松」は九十九里浜の防風林でしょうか。

花巻高村光太郎記念館さんには、光太郎が生前使っていた筆が7本ばかり収蔵、展示されていますが、この時の筆がそこに含まれているのかどうか、不明です。

昨日は東京都中野区に行っておりました。光太郎終焉の地にして、昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった、建築家・山口文象設計になるの中西利雄アトリエ保存運動「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」の4回目の会合でして。

少し早めに行き、中野駅南口近く、旧桃園町を歩きました。最晩年の昭和29年(1954)以降、外出もままならなくなった光太郎が貸しアトリエの大家さんだった中西利雄夫人に託した膨大な買い物などを頼むメモが残されていて、その中に下記の地図が含まれています。通常の地図と同じく北が上、右上の方が中野駅方面で、左下の「中西」と書いてあるところがアトリエです。
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現代の地図では下記の紫の枠内、左下の☆がアトリエです。
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およそ70年経って、書かれている様々なお店がどうなっているのか、地図を片手に歩いてみました。先月、「夢のれんプロデュースvol.7 【哄笑ー智恵子、ゼームス坂病院にてー】」を拝見した折にも歩きましたが、その際は光太郎の書いた地図については失念していました。

さて、まず地図右上の「薬局」。瀟洒な会計学院の建物になっていました。
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昭和27年(1952)に中野に移ってから、常に健康を害していた光太郎。様々な薬品の購入を中西夫人に託しましたが、おそらくここで買われたものが多かったはず。
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薬局のはす向かいに「豆腐屋」。おそらくこちらが元は豆腐屋さんだったのではないかというお店(左下)。古民家カフェになっていました。
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右上は光太郎の地図で「果物」と書かれているお店。こちらのみ、光太郎の地図と同じ業種で存続していました。ただし、建物は建て替わっています。

そのお隣は光太郎の地図では「魚ヤ」ですが、現在はリサイクル着物店。光太郎メモに最も頻出する「神田屋肉屋」と「八百屋」、さらには「スワン」(洋品店だったそうです)、「松屋酒屋」、「時計屋」はまったく痕跡がありません。普通の民家になっていたりでした。
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そのあたりに古そうな和菓子屋さんがあったので、聞き込み調査をしましたが、こちらのお店は創業60年程だそうで、光太郎が居た70年前には未だ開業していなかったとのこと。
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光太郎地図で「フミヤ」となっているところは、現在はコンビニに。
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やはり70年という時間の経過を感じざるを得ませんでした。

逆に、光太郎の書いた地図やメモには記載がありませんが、古いものも。

公民館的な。
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それから、戦争遺跡と言えるでしょう。戦時中の昭和18年(1943)建立の石碑。
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ついでですので、中西アトリエにも行きました。
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PXL_20240710_084151737とにかくこの建物は残さにゃいかん、と、決意を新たに致しました。

その後、中野駅北口に回り、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」会合会場のスマイル中野さんへ。

代表の渡辺えりさん、実務の中心の曽我貢誠氏のもと、現状報告やら今後の活動についてやらのもろもろ。

会のメンバーその他があちこちでお願いしている保存に賛同するという署名はおよそ1,200名分集まったそうです。海外からも届けられているとのことで、感謝に堪えません。

今後、アトリエの所有者である中西家の意向確認、それから関係団体との交渉など、まだまだ課題が山積の状況です。
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署名につきましては、まだまだ受付中。このブログサイト内のこちらのリンク、それから下記画像等をご参照の上、ご協力いただければ幸いです。
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また、当方、今後も様々な場所に出没し、行った先々で署名をお願いいたします。そうした際にも快くご協力いただければ幸いに存じます。

さらに、健全な意図の元に「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」で活動してみたいという方もウェルカムです。曽我氏までご連絡下さい。

【折々のことば・光太郎】

盛岡に於ける美術工芸学校の創設発足は本年を記念する最も意義ふかき事業と存ぜられます、幸に貴下の如き適任者が当県に居られてその創業の際に之が鞅掌にあたられる事此上なきよろこびです。この有望な岩手の美術工芸をどこまでももり立て育て上げて下さい。岩手は確かに日本のホープです。


昭和23年(1948)4月18日 森口多里宛書簡より 光太郎66歳

戦前から光太郎と交流のあった美術史家・森口は、この年開校した県立美術工芸学校の初代校長に就任しました。岩手で暮らし始めて丸三年近く経った光太郎、「岩手は確かに日本のホープです。」とまで書くようになりました。

昨日、年に2回発行されている文治堂書店さんのPR誌を兼ねた文芸同人誌的な『とんぼ』最新号中の当方の連載についてご紹介しました。今号では、建築家・山口文象の設計になる、光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存運動に関しても複数箇所で触れられています。

まず、会の代表、渡辺えりさんの名で、大きく広告的な内容で1ページまるまる。題して「高村光太郎終焉の地、「中西アトリエ」保存活動にご協力を」。
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それ以外にも、会の中心人物にして日本詩人クラブ理事・曽我貢誠氏の4ページに亘る長詩「光太郎爺さんと連翹と――中西利一郎氏の話から――」。さらに曽我氏、エッセイ的な「最も大切な物は朽ちやすい」(1ページ)でも。ともにアトリエの所有者であらせられた故・中西利一郎氏との思い出が根幹です。

奥付画像を載せておきます。ご入用の方、1部600円だそうですが、お申し込み下さい。また、文治堂さんのサイトからも注文可です。
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さて、アトリエ保存に関してですが、6月1日(土)、NHKさんの東北6県向けの情報番組「ウイークエンド東北」でも取り上げて下さいました。
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まずは4月2日(火)、日比谷松本楼さんで開催した当会主催の連翹忌でのロケ。
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息巻く渡辺えりさん(笑)。

「あそこのアトリエ」とは何ぞや? ということで、現地取材。
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ここに最晩年の光太郎がいたんだよ、ということで。
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下の画像は、アトリエで中西氏が保管されていた写真です。背景はアトリエの外壁。この写真、当方も初めて見ました。
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しかしこのアトリエ、老朽化が目立ち……という紹介。
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多少順番が前後していますが、アトリエロケの後は、東北各地で光太郎や智恵子の顕彰に当たられている人々のご紹介。

まずは智恵子の故郷・福島二本松。
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こちらで智恵子顕彰にあたられている「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」さん熊谷代表。
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同会主催の「第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂の集い~」の際、智恵子生家での撮影でした。

続いて、花巻でのロケが入りますが、諸事情により、明日に回します。

最後に光太郎最後の大作「乙女の像」が据えられた十和田湖。この像の塑像原型が中野のアトリエで制作されました。
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こちらでボランティアガイドを務められている吉崎明子さん。当方、さんざんお世話になった方です。お元気そうで何よりでした。
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光太郎が像に込めた思いの中には、15年戦争と、さらに戦後の混乱期を生きた光太郎の平和に対する希求も含まれているということで、吉崎さん、自らの戦争体験と重ね合わせ……。
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そして、アトリエ。
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ちなみに十和田湖畔の観光交流センター「ぷらっと」には、光太郎コーナーもあり、平成30年(2018)には、中野のアトリエで像の制作の際に実際に使われた大きな彫刻用の回転台が寄贈され、展示中です。

割愛した花巻編では、主に「食」を通じて光太郎顕彰に取り組まれているやつかの森LLCさんの井形幸江さんがご出演。そちらは実際のやつかの森さんの最新の活動と合わせ、明日、ご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

日報社からもらつた一級酒一升は元日に皆のんでしまひました。一級酒といつてもまるでたわいの無い酒で一升のんでもさつぱり陶然としませんでしたが、それでも何となくめでたい気がしました。


昭和23年(1948)1月6日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

戦後間もない時期で、酒の品質などもまだあまりよくなかったのかも知れませんが、それにしても一升とは……(笑)。

6月2日(日)、文京区立森鷗外記念館さんで特別展「教壇に立った鷗外先生」を拝見した後、同じ文京区内のトッパンホールさんへ。
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こちらでアマチュア男声合唱団のコール淡水・東京(CTT)さんの第11回定期演奏会を拝聴しました。
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3ステ構成。すべて次郎丸智希氏という方の作・編曲です。
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1stステージは、紀貫之の「土佐日記」に曲を付けた作品。続いて、ザ・ビートルズのヒットナンバーのアレンジ。ともに男声合唱ならではの曲作りになっていたように感じました。

そして最終ステージが「雨にうたるるカテドラル」。同名の光太郎詩(大正10年=1921)をテキストにしたもので、演奏時間30分近く。大作といっていい感じでした。
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原詩が110行もある長大なもので、どう料理するのかな、と思っておりました。110行を一字一句変えずそのまま使うのもありですが、次郎丸氏、そうはなさいませんでした。
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上記画像の太字の部分のみが歌詞として使われていました。かなり思い切って切り捨てた部分もありますね。その代わり、特徴的なフレーズはリフレイン。ですので全体の分量はやはり多く、演奏時間30分近くになっているわけです。なるほど、そういう手もありか、と思いました。

そして全体を4部構成とし、4分の4から4分の3のワルツ調、さらに8分の6も取り入れ、いろいろ変化をつけていました。楽譜を見ればさらに「ああ、ここでこういう工夫をしているのか」というのがある程度見えるのですが、残念ながら当方の音楽レベルでは一度聴いただけだと細かなことはわかりません。

歌われたコール淡水さん、ちょうど20人だったと思います。それで最低限の人数かな、という感じでした。それより少ないアンサンブル的な編成になるとちょっと迫力不足になりそうな……。逆に4、50人の大編成でグワーッと鳴らすともっと「吹きつのるあめかぜ」感が出たかな、と、無い物ねだり。まぁ、それでもいい感じでした。

終演後、次郎丸氏と少しお話をさせていただきました。他にも曲を付けたい光太郎詩がたくさんあるとのこと。ありがたし。その一つが「氷上戯技」(大正14年=1925)だそうです。光太郎、明治末のパリ留学時代になぜかアイススケートにはまり、リンクに通っていたそうで、そうした経験を元にアイススケートをモチーフとして書いた詩です。ぜひ実現していただきたいものです。

再び「雨にうたるるカテドラル」。言わずもがなですが、やはりパリのノートルダム大聖堂を謳った詩です。コール淡水さんの演奏会中、指揮者の永原恵三氏がMCでおっしゃっていましたが、たまたま今年、平成31年(2019)の火災で焼け落ちた部分の修復が完了するとのこと。

それを受けて、お台場の日本科学未来館さんでは、今秋、「特別展 パリ・ノートルダム大聖堂展 タブレットを手に巡る時空の旅」を開催予定です。これまで世界16都市を巡回した展覧会だそうで、さすがにそれだと「雨にうたるるカテドラル」は触れられないかな、という気がしますが、とりあえず。

さて、コール淡水さん、次郎丸氏、今後のさらなるご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

これはいそぎませんから、御面倒ながら東京へ出たついでにお願いたします。 村上忠敬著「全天星図」定価八〇円〒一二円 銀座西八の八、恒星社厚生閣出版 又以前神田三省堂で売出してゐた「星座早見表」が今日あるかどうか、調べていただき度、又あつたら送つていただき度存じます。


昭和22年(1947)11月17日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、現代でも光害とはほぼ無縁の場所ですが、戦後すぐのこの時期には、恐ろしいほどの星空が拝めたことでしょう。戦前から天文にはある程度興味を持っていた光太郎、さらにそれがつのったようです。

光太郎終焉の地にして、昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった、建築家・山口文象設計になる中野区の中西利雄アトリエの保存運動の関係です。

1月に『東京新聞』さん、2月には『読売新聞』さんが報じて下さいまして、保存に向けての関係者会合を既に3回行いました。ちなみに会の代表には、亡きお父さまが光太郎と交流がおありだった、劇作家・女優の渡辺えりさんにお願いしました。

その席上、中野区やその周辺にご在住の方々から「中野にこういう建築が残っているとは知らなかった」という声も聞かれました。さらに「知らない人が多いだろう」とも。確かにそうでしょう。現在は単に民家の敷地の一部に建っているだけで、外部に説明板やらは設置されていませんし、一般公開も基本的には行っていませんので。

ただ、『東京新聞』さんや『読売新聞』さんの記事で、関心を持って下さった方も少なからずいらっしゃるようで、中には保存運動に関わりたいと申し出て下さって、会合に参加されるようになった方もいらっしゃいます。ありがたいかぎりです。

また、先日、会のメンバーの方から、中野区内のギャラリー兼カフェの入口に『東京新聞』さんの記事が貼られてあるのをたまたま見かけた、と、画像入りでお知らせを頂きました。これも実にありがたく存じました。
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茶房・靑蛾さん。東中野です。元々は戦後すぐに新宿で喫茶店として開業されたお店ですが、創業者の方の没後、中野に移転してギャラリーのみだったのが、近年、茶房としても復活されたとのこと。

その創業者のご息女に当たる方、令和2年(2020)に、光太郎から実弟の道利に宛てたローマからの絵はがき(明治42年=1909)を、花巻高村光太郎記念館さんにご寄贈下さいました。こちらは一昨年、同館で開催された企画展示「光太郎、海を航る」の際に展示されました。

そういう方のお店ですので、光太郎関連、これは、ということで記事を掲げて下さっているようです。

それにしても、アトリエ保存、なかなか難しい問題です。単に建物を修復して保存する、というだけではただ建物の寿命を延ばすだけで、いずれまたどうするかということになってしまいます。修復・保存した上で「活用」の方法などを考えて行かなくてはなりません。

もはや個人でどうこうできるレベルではなく、そうなると、行政の支援がほしいところです。理想を言えば敷地ごと区が買い取って下さって、区立のなにがしかの施設として運営していただくという方法(区立が不可能なら、NPO法人さんなどに委ねることもありましょうが)、或いは現地での保存が無理ということであれば、次善の策ですが、移転しての保存、活用。それにしても支援を受けたく存じます。

幸い、区議さんの中には理解を示して下さり、区への働きかけを少しずつ進められている方もいらっしゃるとのこと。

それでも、「この建物を残すとことについて、これだけたくさんの人々の声が上がっていますよ」という後ろ盾が無ければ、というお話です。

そこで、会として署名を集め始めています。当会としましても、4月2日(火)に開催いたしました連翹忌にご参集下さった皆さんに用紙を配付したり、その際にご欠席だった関係の方々や、全国の少しでも光太郎に関わりのありそうな文学館さん/美術館さんなどに用紙を発送したりいたしました。また、4月22日(月)の、信州安曇野での碌山忌にお集まりの方々に署名していただいております。

さらに、署名を集めたいと存じますので、ご賛同下さる方は、下記画像をプリントアウトしてご協力下さい。アナログで申し訳ありませんが、手書きでお願いいたします。電子署名、PDF形式でフォーマットを引っぱり出すなどということが、このサイトでは不可能でして。いずれ会としてのHPを立ち上げ、そちらからいろいろできるようにすることになると思うのですが、それまでの繋ぎです。
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手書きでご署名下さいましたら、可能な方はスキャンしていただき、メールの添付ファイルで、そうでない方はFAXや郵送で、とりまとめ役の曽我貢誠氏(日本詩人クラブ理事)までお願いいたします。宛先は用紙の下部に記入してあります。特に〆切り等は設けておりません。

よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

姉の命日には焼香、取り立ての胡瓜茄子等供へました。 今年は母の廿三回忌なので十月九日松庵寺で法要を営みます。


昭和22年(1947)9月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

光太郎には姉が二人いましたが、いずれも早世しています。ここでいう「姉」は、長姉・さく(咲/咲子とも)。光太郎より6歳年長でした。狩野派の日本画を学び、かなりの腕前で将来を嘱望されていましたが、明治25年(1892)、数え16歳で病没しました。さくの描いた幼き日の光太郎像が現存しています。
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50年以上前の姉の命日やら、母の回忌までよく記憶しているものだと思いました。父・光雲には芸術上の行き方で反発することが多かった光太郎ですが、そういった部分を抜きにすれば家族思いだったことがうかがえます。

光太郎終焉の地にして、昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動の関係で、昨日も上京しておりました。

行き先は「三岸アトリエ/アトリエM」さん。画家の三岸好太郎(明36=1903~昭9=1934)・節子(明38=1905~平11=1999)夫妻のアトリエで、不定期に開催される一般公開の日に当たっていました。先日、中西アトリエ保存意見交換会の第3回会合がやはり中野区で行われ、その席上で話題に上り、光太郎と三岸夫妻の直接の交流は確認できていませんが、同じ中野区ということもあり、足を運んだ次第です。
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現地は鷺宮の住宅街で、カーナビは新青梅街道から信号のない交差点を右に入って数十㍍と指示。「えっ、こんなとこ入ってくの?」というような狭い路地でした。駐車スペースはなく、アトリエ前を通り過ぎて突き当たりを左折、数百㍍行ったところに三井のリパークを見つけて愛車を置き、歩きました。立地条件的には中西アトリエと似たような感じです。
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建物は昭和9年(1934)竣工、設計は山脇巌。山脇はドイツのバウハウスで学んだ建築家です。現在の外観は戦時中の空襲による被害の修理で手が入っていますので、一見するとバウハウス感があまりないのですが、古写真を見ると竣工当時はコッテコテのバウハウス風ですね。昭和9年(1934)当時、かなり目をひいたのではないでしょうか。
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早速、内部へ。三岸夫妻の令孫に当たられる山本愛子様が対応して下さいました。
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入口を入ると、まず応接スペースとして使われていたエントランス。
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節子の写真も。
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左手の小部屋を通り抜けると、広々としたアトリエです。
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まず驚いたのが、窓が南面していること。通常、アトリエは北から採光するものです。南からの陽光は時刻によってかなり変わってしまうので。なぜこうなっているのか、山本様もよくわからないとのことでした。
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節子と好太郎、波乱に充ちた二人の生涯にしばし思いを馳せました。節子の方はつい先月、テレビ東京さん系の「新美の巨人たち」でも取り上げられましたし。

エントランスとの間の小部屋、螺旋階段を上がった二階部分の座敷、廊下、中庭等も拝見。
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アトリエ内の古写真。上でご紹介した外観同様、無料でいただけるポストカードです。
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気になるこのアトリエの活用法について、山本様に伺いました。この手の建築、単に保存するだけでなく、どう活用するかが肝心です。

すると、「三岸アトリエ/アトリエM」というのがこちらの正式名称で、レンタルス多ジオ的な活用が為されているとのこと。
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ここで撮影が行われた写真が載っているというファッション誌を拝見。なるほど、いい感じでした。現代の写真スタジオでは醸し出しようのない、有機的な空気感というか何というか、そういうものが感じられる写真が掲載されていました。その点、南面の窓から差し込む光がいい方向に作用しているようです。

それから、さらに驚いたのが、映画の撮影でも使われたというお話。吉高由里子さん、横浜流星さん主演の「きみの瞳(め)が問いかけている」(令和2年=2020)でした。
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2月にやはり吉高さん主演の映画「風よ あらしよ 劇場版」を拝見したばかりでしたので、なおさら驚きました。

いわゆる「聖地巡礼」でこちらを訪れる方もいらっしゃるそうで、それも驚きでした。

それ以外にもギャラリーや講演会の会場、さらに予約制ながらカフェとしても活用されているとのこと。維持管理していくランニングコストという部分を考えると、ご苦労が覗えました。国の登録有形文化財指定は受けているものの、それによる経済的なメリットはないとのことでしたし。

光太郎の使った中西アトリエ、保存が為されたとしても、どのように活用していくべきなのか、ほんとに大きな課題だな、と感じました。

火のない所に煙は立てるわけにもいかないので、かつては中西アトリエの保存にからめた記述は避けてきましたが、当方、各地の「○○生家」や古建築を使った「××記念館」などを数十個所廻りましたその裏側には、それらがどのような経過でそこに存在しているのか、維持管理運営などをいかにして行っているのか、その母体は、原資は、などといった点からの興味もありました。いずれ中西アトリエでもそうした動きが起こるかも、という推測の元に、でした。

現実にアトリエ保存運動が起きて一枚噛ませていただくことになり、そうした点への興味・関心がますますつのっております。

今後は特に光太郎智恵子・光雲らとの縁故はあまり考えず、そうしたスポットを折に触れて見て回ろうと思っております。「ぜひここは見ておいた方がいいよ」という場所がありましたら、ご教示いただけると幸いです。

それから「三岸アトリエ/アトリエM」の公開、5月5日(日)と5月11日(土)にも開催されるそうです。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

昨日開墾にゐる復員者の青年から配給の蚊帳を譲つてもらひました。青年は二帳持つてゐるので不用との事でした。六尺-八尺の一人用白蚊帳で中々よろしく、代金二百六十円。今日としてはやすいと思ひます。


昭和22年(1947)7月16日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、山裾ですので湿気が多く、ボウフラもかなりわいていたのでは、と思われます。

それにしても、今さらながらにこの小屋が光太郎没後に村人達や花巻病院長・佐藤隆房(初代花巻高村記念会理事長)、宮沢家などの尽力によって保存されるにいたり、現代まで残されていることに感慨深い思いです。

光太郎終焉の地にして、昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動に関わり、急遽出版された書籍です。

中野・中西家と光太郎

2024年4月2日 勝畑耕一 著  小山弘明 監修  文治堂書店 定価400円+税

目次001
 中西利雄と水彩画
  一 明治期の水彩画について
  二 真野紀太郎との出会い
  三 二人の小山を知る
  四 牛込区水道町界隈
  五 東京美術学校に入学
  六 震災後に中野区・桃園へ
  七 「白山丸」でマルセイユへ
  八 渡欧の四年間
  九 『優駿出場』が帝展特選に
  一〇 結婚・作品集の刊行
  一一 戦争が始まる
  一二 絵を描く喜びを再び
  一三 襲い来る病魔
 光太郎とアトリエ
  一四 昭和二十年の光太郎
  一五 花巻での宮沢家・佐藤家との関り
  一六 賢治没後の清六、心平、光太郎の絆
  一七 山荘での七年間
  一八 十和田湖「乙女の像」制作
  一九 中西家との交友
  二〇 雪の日にアトリエで逝去


当方、「監修」とクレジットされています。とりあえず校正をした程度ですが。

前半は中野のアトリエを建てた新制作派の水彩画家・中西利雄(明33=1900~昭23=1948)の評伝。当方、中西についてはそれほど詳しくはなかったので、「なるほど、こういう人物だったのか」という感じでした。日本に於ける水彩画の普及・発展に果たした役割は大きなものがありました。惜しむらくは数え49歳での早世。戦後となり、これから戦時中の空白を取りもどそう、という時期でしたし。

その結果、主なき新築のアトリエが遺され、貸しアトリエとなったわけで、イサム・ノグチ、そして光太郎が店子(たなこ)となりました。

後半は中西アトリエでの光太郎、というか、そこに入るに至る経緯を含めて終戦の年・昭和20年(1945)からの光太郎についてです。

全44ページと厚いものではありませんが、見開き2ページの片側には必ず中西作品の写真や当時の古写真、古地図等の図版が入り、理解の手助けとなっていて、内容は濃い感じです。

4月2日(火)、日比谷松本楼さんでの第68回連翹忌の集いの際、参会の皆様には配付されたようです(当方、主催者でありながら資料の袋詰めは他の皆さんにほとんどやっていただき、詳しく把握していません)。他に30部程頂いて帰りまして(現物支給が「監修」ギャラです(笑))、その後、連翹忌の欠席者や全国の文学館・美術館さん等のうち、関わりが深そうなところへは、他の配付資料ともども発送している最中です。

ご入用の方、文治堂書店さんへお申し込み下さい。

【折々のことば・光太郎】

五月十五日は小生が花巻にはじめて疎開して来た記念日なので、宮沢邸に御礼言上の為花巻に出で、数日間滞在、やつと山へ帰つて来ました。


昭和22年(1947)5月26日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳

東京を離れてまる二年が経過、というわけです。

最近、光太郎終焉の地にして、第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動に一枚かませていただいており、芸術家ゆかりの建造物の保存活用などについていろいろ調べています。なかなか一筋縄ではいかない問題です。ケースバイケースですし。

そんな中で保存活用がうまくいっている例として、台東区上野桜木に現存する「平櫛田中邸」があります。光太郎の父、光雲の高弟・平櫛田中が使っていたアトリエ兼住居で、大正8年(1919)に竣工、昭和45年(1970)に平櫛が小平市に移るまで使われました。

小平にも移転後の旧居が保存されていて、隣接する小平市平櫛田中彫刻美術館さんと併せて何度か足を運びましたが、上野の方は未踏です。令和元年(2019)にはジャズシンガー・潮見佳世乃さんの「歌物語コンサート 智恵子抄」公演がここであって、ご案内も頂いたのですが、智恵子故郷福島二本松に行く用があって欠礼しました。

さて、その平櫛田中邸でダンスパフォーマンスの公演があります。

旧平櫛田中邸 de タコダンス

期 日 : 2024年4月5日(金)~4月7日(日)
会 場 : 平櫛田中邸 東京都台東区上野桜木2-20-3
時 間 : 4月5日 19:30〜 4月6日 13:00〜 / 18:00〜 4月7日 18:00〜
料 金 : 一般 3000円 U-25 2000円 当日 3500円

作・出演/木原萌花

ダンサー・表現者であり、演出も行う木原萌花さんが、『他者から見た自己』をテーマにソロパフォーマンス〝タコダンス〟を披露するイベントが開催されます。

舞台は彫刻家・平櫛田中の元住居兼アトリエ「旧平櫛田中邸」。3日間で4公演での開催となります。

“タコダンス”とは、踊りを軸にパフォーマンスやプロデュースを展開する表現者、木原萌花(きはらももか)さんが、クラシックバレエを習い始めた幼少時代に独自に踊っていたタコのようなダンスのこと。

タコ=他己(たこ)という意味も掛け合わせており、他人から見た自分を主題に置いたダンス表現だそうです。

『他者や自然とのつながりに意識を向け、自分が外の世界と繋がっていると感じられる時、人は固く閉じていた「自己」の鎧から解放され、少し軽くなった自分を発見できるのではないか?』そんな仮定から「自分に集中しない」ダンスを魅せます。
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平櫛邸の様子も見てみたいところですし、また建築保存の関係の方もいらっしゃるようならそのあたりのお話も伺いたいと思っておりますので、行って参ります。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

何しろ花といふものは画や彫刻と違つて自然そのものを取つて来てそれに人間が手を加へるものなので恐ろしいやうでもあり、又よく自然の心にきく事が出来た時は人間の思量以上のものが現前するものと思へます。自然の美は中々人間並でない超常識のものですから、之を相手にする者は一通りでない智慧と情熱と力とがいるわけです。


昭和22年(1947)3月9日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎65歳

華道について述べた一節です。

光太郎終焉の地にして、第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動について、1月の『東京新聞』さんに続き、『読売新聞』さんでもご紹介下さいました。X(旧ツイッター)やフェイスブックではシェアしておいたのですが、こちらでも取り上げさせていただきます。

光太郎のアトリエ残す 所有者死去 関係者が知恵

 詩集「智恵子抄」などで知られる詩人、彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごした中野区にあるアトリエを保存しようと、関係者が動き出している。昨年1月にアトリエの所有者が亡くなり、管理が難しくなっているためで、関係者らは「歴史的に価値のある大切なアトリエをなんとか残したい」と知恵を絞っている。
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■「乙女の像」制作
 高村は下谷区(現在の台東区)生まれ。文京区千駄木にアトリエを構えたが、戦災で住居は焼失し、岩手県花巻市に疎開した。中野区のアトリエには戦後の1952年に移り、亡くなるまでの約4年間を過ごした。青森県の十和田湖畔に立つ彫刻の代表作「乙女の像」の塑像もここで制作したという。
 アトリエは、斜めの屋根が特徴的な木造一部2階建て。施工主は洋画家の中西利雄(1900~48年)で、建築家の山口文象(1902~78年)が設計を務めた。建物は中西が亡くなった48年に完成したため、貸しアトリエとして使われ、高村だけでなく、彫刻家のイサム・ノグチ(1904~88年)らも滞在していたという。
 完成から70年以上が経過したアトリエは、青系の色だった外壁が白くなったが、造りはほとんど変わっていない。縦約3メートル、横約2・5メートルの大きな窓は当時のままで、高村の親戚に当たる桜井美佐さん(60)は「光太郎も同じ窓から外の景色を見ていたのだと実感できて感動する。都内ではゆかりの建物は珍しく、貴重だ」と強調する。
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■「企画書」を作成
 しかし、アトリエを管理していた中西の息子の利一郎さんが昨年1月に亡くなった。建物の老朽化は進み、アトリエは現在非公開になっている。利一郎さんの妻の文江さん(73)は「維持費もかかるし、このまま残しておくのは危ない。公的な機関が動いてくれればいいが、そうでなければ壊すしかない」と頭を悩ます。
 そこで立ち上がったのが、利一郎さんと親交があった日本詩人クラブ理事の曽我貢誠さん(71)だ。曽我さんはアトリエを後世に残すための「企画書」を作成。曽我さんら有志は、アトリエの保存に向けた組織設立を模索している。
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■CF活用視野
 老朽化した建物の保存を巡っては、明治時代の作家・樋口一葉(1872~96年)が通ったとされる文京区本郷の「旧伊勢屋質店」も解体の危機に陥った建物の一つ。元の所有者が「個人で維持するのは限界」と売却の意向を示したが、2015年に跡見学園女子大(文京区)が取得し、現在は週末を中心に内部を一般公開している。
 曽我さんも、アトリエを改修した後、高村らゆかりのある芸術家の資料を展示するスペースを設けることを想定している。中野区や都などへの働きかけのほか、クラウドファンディング(CF)の活用も視野に入れているという。
 曽我さんは「高村や中西の芸術や歴史を後世に残すためにも、アトリエは非常に価値があるものだ。中西家に負担をかけずに、なんとか保存できるやり方を考えていきたい」と話している。
 保存方法の提案や問い合わせは曽我さん(090・4422・1534)へ。

曽我氏を中心としたこの運動の会合、先月、初めて行われましたが、来週また開催されるので出席して参ります。

先月も書きましたが、この手の件に関し、良いお知恵をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。曽我氏メールは以下の通りです。sogakousei@mva.biglobe.ne.jp

【折々のことば・光太郎】

五日には小生花巻町に出かけ、松庵寺と申す浄土宗の古刹にて、智恵子の命日と亡父十三回忌の法要をいとなみました。かかる遠方の土地にて焼香されるとは智恵子も父も思ひかけなかつた事でせう。現時の有為転変はまるで物語をよむやうです。小生健康、好適の季節に朝夕心爽やかに勉強してゐます。早く世の中が直つてアトリヱ建築の出来る日の来る事が待たれます。


昭和21年(1946)10月13日 椛澤ふみ子宛書簡より 光太郎64歳

既に前年から、後の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」につながる「智恵子観音」の構想はありましたが、さすがに七尺もの大作という予定ではなかったようです。

昭和27年(1952)になって、「乙女の像」建立計画が具体化すると、花巻郊外旧太田村では資材の調達なども不可能ということで、再上京、中野のアトリエに入ることになります。

昨日は都内に出ておりました。

まずは六本木の国立新美術館さんで、書道展「東京書作展選抜作家展2024」を拝観。書家の菊地雪渓氏からご案内を頂いていたのですが、最終日前日となってしまいました。
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その菊地氏の作。
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杜甫の漢詩を書かれたものだそうで。相変わらず雄渾な筆遣いです。

この手の書道展、必ずといっていいほど、光太郎詩文を題材に書かれる方がいらっしゃり、今回も存じ上げない方でしたが、2点。ありがたし。

詩としての光太郎代表作の一つ、「道程」(大正3年=1914)。
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詩「潮を吹く鯨」(昭和12年=1937)。こちらは大幅でした。
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昭和6年(1931)、『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を執筆するため船で訪れた三陸海岸での体験を元にした詩です。
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昭和14年(1939)、河出書房刊行の『現代詩集』に掲載されましたが、それが初出かどうか不明です。

その他、以前に光太郎詩文を書かれた皆さんの作なども拝見。眼福でした。

六本木を後に、中野に向かいました。次なる目的地は西武新宿線沼袋駅近くの新井区民活動センターさん。
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光太郎終焉の地・旧中野桃園町の貸しアトリエの保存運動が起きており、その会合に呼ばれて参上いたしました。
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戦後、水彩画家の中西利雄が建てたものの中西が急死し、貸しアトリエとなっていた建造物で、光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、昭和27年(1952)にここに入りました。像の完成後はまた花巻郊外旧太田村に帰るつもりで、実際に像の除幕後に一時帰村したのですが、健康状態がもはや山村での独居自炊に耐えられず、結局は再々上京、ここで亡くなりました。

利雄の子息・利一郎氏が昨年亡くなり、なるべくご遺族の負担にならないようにするにはどうすれば……というわけで、利一郎氏と交流の深かった文治堂書店さん社主・勝畑耕一氏、日本詩人クラブの曽我貢誠氏らが中心となって始まりました。文治堂書店さんサイト内に企画書リンクが貼ってあります。

お二人以外に他に利一郎氏と親しかった方、建築家の方、中野たてもの応援団の方などがご参加。
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やはり利一郎氏と親しく、アトリエにも足を運ばれた渡辺えりさんも。
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現状の報告と、今後、どうすれば八方丸く収まるのかについての意見交換など。

会場の使用時刻を過ぎてからは近くの喫茶店に移り、そちらでも。
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こういった件に関し、良いお知恵をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。曽我氏メールが以下の通りです。sogakousei@mva.biglobe.ne.jp

来月にも会合を持つこととなりました。また追ってご報告いたします。

【折々のことば・光太郎】

まつたくあなたの言はれる通り、戦争中は彫刻を護るために詩が安全弁乃至防壁になり過ぎたと思ひます。決していい加減ではなかつたのですが。この事はいまに書かうと思つてゐます。


昭和21年(1946)9月18日 福永武彦宛書簡より 光太郎64歳

翌年に雑誌『展望』へ発表した、幼少期から戦後までの半生を振り返る連作詩「暗愚小伝」全20篇の構想にかかっており、それを指すと思われます。

昨日は光太郎終焉の地・中野の中西利雄アトリエに保存運動が起きている件をご紹介しました。

今日は逆の件を。先月5日、『朝日新聞』さん夕刊に出た記事です。

戦前のまま、時とまったアトリエ 老朽化、近く取り壊し 木彫家・三木宗策が使用

015 東京都北区の路地の奥に、木彫家、三木宗策(そうさく)(1891~1945)が使ったアトリエが残されている。戦前のアトリエが現存するのは珍しく、木彫の像を制作するための石膏(せっこう)原型も保存されていた。当時の息づかいが聞こえてきそうなアトリエだが、老朽化のため、近く取り壊されることが決まった。
 「まるでそこだけ時間が止まっているようでした。見上げた高い屋根裏と上の棚に並んだ石膏(せっこう)の原型から、70年のときを超えて作家の存在を感じました」
 福島県郡山市美術館の中山恵理学芸員は2015年初秋、アトリエに初めて入ったときの感動をそう話す。その年、地元出身だった三木の没後70年展を企画していた。準備が大詰めを迎えたころ、アトリエが現存することを親族から教えられた。

高さ6㍍の吹き抜け
 建物は木造2階建てで、北面の大きなガラス窓の木枠にはツタがからまり、年月を感じさせる。アトリエは約30平方㍍の床面から2階の屋根裏まで吹き抜けの空間構造で、最高部まで高さは 6㍍を超す。
 郡山市出身の三木は14歳で上京し、高村光雲門下の山本瑞雲(ずいうん)に学んだ。22歳で独立。代表作は、全体の高さが3㍍を超える燈明(とうみょう)寺(東京都江戸川区)の本尊・不動明王だ。45(昭和20)年11月、疎開先の郡山市で53歳で病死した。
 東京芸術大学の調査によると、アトリエの建築年代は大正末から昭和初めとされる。三木の次男で美術評論家・三木多聞(1929~2018)の著書「三木宗策の木彫」によると、三木は19(大正8)年までにこの地に転入し、その後、アトリエ付き住宅を建てたらしい。

大空襲の戦火も免れ
 アトリエは、23(大正12)年の関東大震災にも耐えたという話が遺族に伝わる。だが、確実なのは、45(昭和20)年4月13~14日、現在の豊島区、北区、荒川区にかけての米軍による「城北大空襲」の戦火を免れたことだ。
 戦後は子ども部屋や書架など遺族の生活空間として使われてきたという。次第にアトリエとしての存在も家族以外からは忘れられた。
 連絡を受けた中山学芸員ら彫刻関係者らは、残された石膏原型などを郡山市内の施設に運び出し、一時保管した。同美術館ではアトリエの記録や資料の調査をしたのち、所蔵先について検討するという。
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残った石膏原型50点
 いまのところ、アトリエに残された石膏原型約50点のうち、10点は現存する作品の原型、6点は写真だけが残る作品の原型だと確認された。所在不明だった木彫「傷つきたる鳥人」(40年)もみつかった。
 調査にかかわった彫刻家・修復家の藤曲隆哉さんによると、三木は、最初に粘土で塑像(そぞう)を制作したのち石膏原型をつくり、星取り機を用いて木彫の完成作をつくる手順で制作していたという。原型にいくつかの点(星)をうち、その点を星取り機で木に写し取り、空間上の点の位置関係を頼りに彫る。
 藤曲さんは「石膏原型は資料の域を超えることはない」としながらも、「作家本人の純粋な手が入っている。完成作品と原型を比較する価値はあると考えられる」と話している。

三木宗策は、記事にあるとおり、光太郎の父・光雲の孫弟子です。孫弟子ではありますが、光雲との合作もありました。

光雲とゆかりの深い、文京区の金龍山大圓寺さんに、昭和4年(1929)から同8年(1933)にかけて七尊の木彫観音像が寄進され、そのうち五尊は光雲と山本瑞雲(光雲高弟にして宗策の直接の師)、二尊が光雲と宗策の合作という扱いでした。こうした場合、合作という条、メインに鑿を振るったのは瑞雲や宗策なのでは、と思われます。
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これら七観音は戦災で全て焼失、聖観音像のみ鋳銅されたものが大圓寺さん境内に露座でおわしますが、それぞれの胎内仏は現存します。七観音それぞれの開眼供養の際、胎内仏のコピーが鋳銅で造られ、檀家や寄進者に配付されました。像高10㌢弱の懐中仏です。そのうち「准胝(じゅんてい)観音」の鋳銅が花巻市に寄贈され、一昨年、花巻高村光太郎記念館さんで行われた企画展示「高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」に出品されました。

その後、七観音すべてがセットで売りに出ているのを見つけ、購入しました。上記十一面観音、千手観音の懐中仏がこちら。
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この件はまた後日、ご紹介いたします。

その宗策の使っていたアトリエが取り壊されるということで、記事が出たのは先月初めでしたから、既に解体済みかもと思われます。

この記事で知ったのですが、宗策の次男が故・三木多聞氏。昭和46年(1971)、至文堂さん刊行の『近代の美術 第7号 高村光太郎』の編者を務められたほか、光雲、光太郎に触れた論考をいろいろ書かれていました。かつて連翹忌にもご参加下さったそうです。
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お素人さんではない多聞氏が子息だったにもかかわらず、アトリエ保存という話にならなかったということを考えると、今回の取り壊しの件、仕方がないといえばそれまでなのかもしれません……。余人にはうかがい知れぬ事情等、いろいろあるでしょうし……。

そう考えると、昨日ご紹介した光太郎ゆかりの中野のアトリエ保存の件も、もちろんきちんと保存・活用が為されればそれに越したことはないのですが、なかなか難しいのかな、という感じですね……。

また詳しい情報が入りましたらご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

「北方風物」は先日拝受、小生の素描はインキで画きたるため印刷によく出なかつたものと見え甚だ生彩を欠いてすみませんでした。


昭和21年(1946)4月27日 更科源蔵宛書簡より 光太郎64歳

光太郎、7年間の花巻郊外旧太田村の山小屋暮らしの中で、折に触れ身の回りの自然や道具類などをスケッチし続けました。『北方風物』は、詩人の更科源蔵が北海道で刊行していた雑誌です。
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