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展覧会情報のご紹介を続けてきましたので、もう1件。

美しいユートピア 理想の地を夢みた近代日本の群像

期 日 : 2026年1月15日(木)~3月22日(日)
      前期1月15日(木)~2月17日(火) 後期2月19日(木)~3月22日(日)
会 場 : パナソニック汐留美術館 港区東新橋1-5-1 パナソニック東京汐留ビル4階
時 間 : 10:00~18:00 2月6日(金)、3月6日(金)、20(金)、21 (土)は午後8時まで開館
休 館 : 毎週水曜日 ただし2月11日と3月18日は開館
料 金 : 一般 1,200円 65歳以上 1,100円 大学生・高校生 700円 中学生以下 無料
      土曜日・日曜日・祝日は日時指定予約(平日は予約不要)

ユートピアは、イギリスの思想家トマス・モアの小説タイトルで、「どこにもない場所」を意味します。同じくイギリスの社会思想家、ウィリアム・モリスは自著『ユートピア便り』の中で、暮らしと芸術の総合を唱え、今ここにある課題をみつめ、どこにもない理想を夢みています。その思想が紹介された20世紀の日本でも、ユートピアは暮らしをめぐる課題と理想となりました。そして20世紀を通じあらゆる場所で、美術、工芸、建築など幅広いジャンルを結ぶ共同体が模索されます。新時代の異文化体験を通して近代化しつつあった日本は、かつての日本でもなく、同時代の世界のどこにもない場所だったのです。

この展覧会では暮らしにまつわる過去をたずね、未来を夢みるさまざまな運動を、「ユートピア」と呼びます。そして「美しさ」にまつわる芸術、装飾工芸、建築デザインにテーマを絞り、暮らしの中の「美しいユートピア」をみつめます。さらに「美しいユートピア」の歴史をたずねるだけでなく、未来への手がかりとします。美しい暮らしを求める20世紀日本のユートピアをたずね、当時の来るべき世界を振り返り、今日のユートピアを思い描く方法を探ります。

第1章 ユートピアへの憧れ 
 西欧に憧れ、アジアにめざめる。
雑誌『白樺』、「民藝」運動などから20世紀日本の理想主義が芽生える
 ジョン・ラスキン、ウィリアム・モリスの影響を受けた20世紀日本の理想主義を紹介します。20世紀初頭の大正デモクラシーに象徴される当時の日本では「民」が一つのキーワードでした。西欧美術に憧れ、自由と個性を尊重し自らのルーツを振り返った雑誌『白樺』。その白樺派同人たちの交流の中から柳宗悦が中心となり、民衆の暮らしの中の美を説いた「民藝」運動は、「民」をめぐる前後の理想主義を代表します。

第2章 たずね求める 周縁、国外でのフィールドワーク
 民家研究、民具調査など「民」をめぐるフィールドワークが、ジャンルや国境を越えてミュージアムを育む
 近代化するみずからの足元をみつめた、民家や民具などをめぐるフィールドワークを紹介します。農山漁村や周辺地域、民族をたずねる交流はジャンルや国境を越えて、失われてゆく「民」を記録し、未来へつなぐ「ミュージアム」を育みました。渋沢敬三が計画し今和次郎や蔵田周忠(ちかただ)も参画した国立の民族学博物館構想の図面も展示いたします。

第3章 夢みる 都市と郊外のコミュニティ
 関東大震災後、郊外アトリエや芸術家村が生まれる。その交友から「新人画会」が理想を戦後へつなぐ
 蔵田周忠や立原道造など、建築家や詩人、芸術家による関東大震災後の郊外アトリエや芸術家コロニーへの夢を紹介します。1920年代の都市化と鉄道網の発達は郊外住宅地の発達を促しました。分離派建築会の会員であった蔵田は、モリスに倣った田園のユートピアを目指し、世田谷や杉並に文学者や芸術家たちが集って住むモダンで快適なコミュニティを設計しました。同時期、アトリエ村の一つ、池袋モンパルナスの交友に始まる「新人画会」の理想はのちに戦後美術の出発点とされました。

第4章 試みる それぞれの「郷土」で
 山本鼎、宮沢賢治、竹久夢二、ブルーノ・タウト…郷土や「ドリームランド」で表現者の実践が始まる
 山本鼎の農民芸術運動や宮沢賢治の活動、竹久夢二、ブルーノ・タウトの美術工芸運動は、「ドリームランド」としての「ふるさと」に、美しい暮らしをもたらす協働の実践でした。同時代、前後して官民による郷土改良や産業化が始まりました。山本鼎の日本農民美術研究所で制作された工芸品やそのデザイン画、宮沢賢治によるドローイング、タウトデザインによる工芸品などを展示します。

第5章 ふりかえる/よみがえる ユートピアのゆくえ
 戦後復興をデザインする芸術・建築と、「失われてゆく世界」を記録し未来への手がかりを求める運動が前後して生まれ…
 戦後まもなく、芸術、建築による都市再生に着手した群馬県高崎の文化活動家・井上房一郎と、彼に協力した建築家レーモンド夫妻や磯崎新。そして高度経済成長期の大きく変貌する都市と社会で向かうべき方向を模索して、日本の伝統的な共同体を実測調査し図面化した60年代後半からの「デザイン・サーヴェイ」。それらの動きは芸術と民衆の力を原動力に未来への手がかりをつかもうとしたものです。
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関連行事

ミュージアムコンサート「美しいユートピアをたずねて」
展覧会で紹介する群馬音楽ホールを拠点とする群馬交響楽団の演奏、そして音楽と美術と建築をめぐるトークをお楽しみいただくコンサートです。2回とも同じ内容です。

Program エリック・サティ:ジュ・トゥ・ヴー/ピアソラ:リベルタンゴ 他
出 演 群馬交響楽団 弦楽カルテット
トーク 服部想之介(声優)
日時 2月7日(土)
 ①午後1時30分~午後2時10分(開場午後1時)
 ②午後4時~午後4時40分(開場午後 3時30分)
定 員 各回110名、要予約
聴講費 無料(ただし本展の観覧券が必要です)
会場 パナソニック東京汐留ビル 5階ホール
*未就学児はご遠慮ください。
*展覧会観覧には、事前の日時指定予約が必要です。

展覧会記念講演会「祖父、清六から聞いた宮澤賢治」
宮澤賢治の8歳年下の弟、祖父清六から聞いた「賢治さんの美術、宗教、科学に対しての考え方。日常での様子。
自分へ向けて書いた『雨ニモマケズ…』の願い。」を、残された資料、家族写真などをスクリーンに映しながらお話しいただきます。

講 師 宮澤和樹氏(宮澤賢治、8歳下の実弟清六の孫、株式会社林風舎代表取締役)
日 時 2月14日(土)午後2時~午後3時30分(開場午後1時30分)
定 員 150名、要予約
聴講費 無料(ただし本展の観覧券が必要です)
会 場 パナソニック東京汐留ビル 5階ホール
*未就学児はご遠慮ください。
*展覧会観覧には、事前の日時指定予約が必要です。

キーワードは「ユートピア」。この国にそれを現出しようと活動した人々の軌跡を追うもので、一種の地政学な要素を含みつつ、しかしその対象が特定の地域ではなく架空の「ユートピア」。なるほど、そういうアプローチもありか、と感じました。

光太郎に関しても軽く関わります。「第1章 ユートピアへの憧れ」で白樺派が取り上げられ、光太郎も写った「白樺創刊十周年記念写真」(大正8年=1919)が出ます。それから「第4章 試みる それぞれの「郷土」で」には宮沢賢治関連の展示品(賢治記念館や林風舎さんの所蔵品)がたくさん並びますので、光太郎も寄稿した雑誌『農民芸術』など。
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他にも出品目録に依れば賢治関連で、現代の賢治著書に装画をした吉井忠による絵画「花巻豊里町 宮沢政次郎氏(賢治父)宅」が「第2章 たずね求める 周縁、国外でのフィールドワーク」に出品されます。「豊里町」は「豊沢町」の誤植ではないかと思うのですが……。誤植と言えば、「グスコーブドリ」とすべきところも「グスコンブドリ」となっています。当方、賢治に関してそれほど詳しいわけではないのでよくわかりませんが、最初の構想では「グスコンブドリ」だったとか、そういうわけではありませんよね。

賢治関連が多数出品ということで、関連行事として賢治実弟・清六令孫の和樹氏による講演が予定されています。ちょうどその1週間後には花巻で、賢治の親友だった藤原嘉藤治の顕彰をなさっている瀬川正子氏、それから当方と3人でのトークイベントも企画されており、和樹氏、大忙しですね。

どうせならその日に拝見に伺おうかと日程を調整しております。皆様もぜひどうぞ。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)15 『現代の彫刻』岩波講座世界文学第七回配本

昭和8年(1933)6月5日 岩波書店 高村光太郎著
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目次
 実技家の場合 概観 二つの源流について 時間的一瞥 フランスの彫刻 ブルデル
 マイヨル デスピオ ベルナアル 「ぢか彫り」騒動 穏健群 形式主義群団 ドイツの彫刻
 イギリスの彫刻 残余の諸国

「岩波講座世界文学」はいわゆる分冊もの。光太郎はこれ以外にも長沼重隆や辰野隆らとの共著で第9回配本『近代作家論』にも執筆しています(のちほどご紹介します)。

50余ページのペーパーバックですが、ロダン亡き後の世界の彫刻界についての非常にわかりやすい概論です。

このところ新聞記事ネタが続いていますので、続けます。

昨日の『読売新聞』さん他、地方紙でも同じ記事が出ていました。

[岩手のお風呂2026⑦大沢温泉「湯治屋」]冬の自然美墨絵の世界 文化人魅了 心安らぐ情緒

 しんしんと雪が降る昨年12月上旬、大沢温泉「湯治屋」(花巻市)の本館には、続々と温泉客が入っていった。古い日本家屋のようなたたずまいの本館の建築年代はわかっていないが、板敷きの廊下や障子などは昭和の趣を残し、どこか郷愁を感じさせる。
 窓から雪の様子を眺めながら廊下を歩くと、奥にあるのが混浴の大露天風呂「大沢の湯」だ。風呂にゆっくり肩までつかって景色を眺めると、粉雪の白と、山々の墨色といった美しい自然のコントラストが広がる。眼下に流れる豊沢川や、川をまたぐ「曲り橋」、川の奥にある 茅葺かやぶ き建築のギャラリー「菊水舘」も含め、まるで絵画のような風景にほれぼれする。
 「3月にも来たんだけど、この雪景色が見たくてリピーターになったよ」。神奈川県から訪れた男性(66)はリラックスした表情でそう話す。この自然が数々の温泉客を魅了してきたのだろう。
 ずっと変わらぬ冬景色はもちろん、弱アルカリ性で無色透明の湯は保温性が高く、一度入浴すれば体の中から湧き出る温かさが長く続くという。
 大沢の湯は約1200年前に坂上田村麻呂が傷を癒やしたという伝説が残り、江戸末期には盛岡藩主・南部利剛が湯治に訪れたという由緒ある温泉だ。
 数々の文化人にも愛されてきた。幼い頃に何度も訪れた花巻出身の宮沢賢治は、教師時代に生徒たちを連れて来たこともある。戦時中に花巻に疎開していた彫刻家の高村光太郎は戦後もたびたび足を運び、「本当の温泉の味がする」と評した。
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 大沢温泉は、古い建物の「湯治屋」と新しい旅館「山水閣」、ギャラリー「菊水舘」の三つからなる。近年ではスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーらも湯治屋を定期的に訪れているといい、その縁からジブリ関連の企画展が開催されている。
 湯治屋の支配人・西村真之介さん(53)は、「人の息づかいや人間らしさが感じられる」と魅力を語る。かつては農家や漁業者が仕事が一息ついた冬の時期に数週間投宿して体を休めた。滞在中は海の幸と山の幸などを物々交換したり、漁業者は来期に向けて漁網を手直ししたりし、英気を養っていたという。そうした湯治文化が今につながっており、当時の建物が残る湯治屋では名残を感じられる。
 「変わらぬ文化と自然、そして大沢の湯。絶対の自信があります」と、西村さんは胸を張る。せわしない世間を一時忘れ、心を安らげる力が温泉にはある。

畳の部屋余韻に浸って 
 温泉や公衆浴場は入浴はもちろん、その後の「余韻」に浸るのも 醍醐だいご 味だ。すぐ帰るなんてもったいない。
 湯治屋の待合室は畳の部屋で、温泉を堪能した後、ここで寝っ転がるのが至福の時間だ。1人だったらぼんやりとするのもいいし、友人と訪れたら卓を囲んで会話を楽しむのもいい。漫画もテレビもあり、ゆったりとした時間を過ごすことができる。
 壁にかかっているのは、宮沢賢治が幼い頃に大沢温泉を訪れた100年以上も前の写真。岩手の偉人もこの温泉に触れたのかと、感慨深い思いになった。
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戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中、光太郎が何度も宿泊した大沢温泉さんの紹介記事です。

当方も花巻出張の際には可能な限りこちらを利用させていただいております。現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の「高村光太郎花巻疎開80年企画展 光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」の関係で、先月も泊めていただきました。次回は同展関連行事のトークイベントのため来月お邪魔します。

豊沢川添いの雪見の露天風呂は格別ですし、記事の最後に紹介されている畳の部屋もマストです。当方、着いた日には夕方、それから朝と、ここで地元紙『岩手日報』さんや『岩手日日』さんに目を通すのがルーティンです。

皆様方も是非どうぞ。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)10 『天上の炎』

大正14年(1925)3月25日 新しき村出版部 エミイル・ヹルハアラン著 高村光太郎訳
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目次
 序詩 未来 新しい都 昔の信仰 私の眼よ 誇 機械 熱烈な生活 港の突堤で
 今日の人に
 健康 死者 問題 機会 トンネル 波止場で 私の都 わが友風景 木蔦
 東西南北 森
 花の方へ 並木の第一樹 散歩 或る夕暮の路ゆく人に 題跋詩 私の集

大正10年(1921)刊行の『明るい時』に続き、ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレン(1855~1916)の詩集の翻訳です。

元々、函とカバーが付いていましたが、手持ちのものには欠けています。完全な状態のものはほとんど市場に出ません。

しばらく訳書の紹介が続きましたが、共著を除いて翻訳以外はしばらく出版されませんでした。大正期には光太郎自身、「翻訳をやると一番安全に金になつたから、たとえば「ロダンの言葉」なども一つは生活のために書いた」(「遍歴の日」昭和26年=1951)と述懐しています。

今日明日と、遡って旧臘中の報道をご紹介します。

まず、12月28日(日)付けの『朝日新聞』さん岩手版。

花巻の鉛温泉・藤三旅館本館と白猿の湯 国登録有形文化財に

 多くの文豪が滞在、執筆したことでも有名な岩手県花巻市の鉛温泉・藤三旅館本館と白猿(しろざる)の湯が、国登録有形文化財(建造物)に登録される見通しになった。国の文化審議会が11月、文部科学相に答申した。
   藤三旅館本館は豊沢川沿いに建つ1941年建築の木造3階建て。南面東寄りに唐破風(からはふ)造りの玄関が突出し、入母屋(いりもや)屋根になっている。内部は各階の廊下の南北に客室が並んでいる。
 岩盤をくりぬいた白猿の湯は深さが1・3メートルあり、浴槽に立って入る。浴槽の周囲の床は石敷きで重厚な造り。上部は吹き抜けで開放的な雰囲気だ。
 県内の登録有形文化財(建造物)は今回を含めて111件になる。
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花巻の有形文化財建築といえば、ここと山一つはさんだ花巻温泉さんの旧松雲閣別館、市街地の旧菊池家住宅西洋館と、それぞれ光太郎の足跡が残る建造物です。そして今回も。「多くの文豪が滞在」とあるうちの一人が光太郎です。戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中、確認出来ている限り、昭和23年(1948)に3回、一泊ずつ宿泊しています。

まず4月25日の日記。

朝、村長さん来訪、どこかへ一緒に遊びにゆきたしと誘はる。今日円万寺観音山の祭に行く予定の旨答へる。午后村長さんも観音山に来て夕方より鉛温泉に一泊する事約束。(略)四時頃村長さん奥さん尋ね来る、五時辞去。 奥さんと共に二ツ堰。村長さんも自転車でくる。共に鉛温泉行。七時過着、入浴、酒、夜食。

「観音山」は親しくなった僧侶にして仏教学者の多田等観が暮らしていた山、「二ツ堰」は当時鉛温泉方面に走っていた花巻電鉄の駅です。「尋ね」は「訪ね」の誤記ですね。

翌26日。

昨夕温泉に久しぶりにて入る。深い共同浴場にも入る。泉質よきやうなり。温度余に適す。 沼田の吉二さんといふ人村長さんを訪ね来り、濁酒一升もらひ皆でのむ。 吉二さん(村の肴配給掛)と同宿。朝五時頃入浴。二三人老人が入り居るのみ。きれい也。

続いて5月11日。

午后五時五分の電車にて二ツ堰発、鉛温泉まで。 宿にては村長さんより電話ありたりとて待つてゐたり。此前と同じ室三階三十一号室。畳あたらし。 入浴、抹茶、夕飯後又抹茶、甚だ快適なり。入浴客も少し。椛沢さんも喜ぶ。 夜宿の主人と帳場の老人話にくる。史跡の話などきかせる。椛沢さん詩の朗読をしてきかせる、夜十一時半に至る。自然風呂の方の温泉に入浴。一人も客無し。十二時頃ねる。 セキも多く出ずよくやすむ。 雨もふらず。心地よし。

「椛沢さん」は椛沢佳乃子。戦時中からの知り合いで、東京から訪ねてきたお茶の先生です。

翌12日。

朝七時頃までねてゐる。 入浴。 朝食後抹茶。 午后一時十七分の電車にてかへる事にきめ、中食をたのむ。談話、休憩、入浴、十二時中食丼なり。会計をすます。五百円と少し。少々やす過ぎると思ひしが帰宅後うけとりを調べると宿料一人分のみ記入しあり。余の分をとらざりしと見ゆ。宿の主人電車まで送り来る。県道が秋田大曲の方へ開ける由語る。今は客二百名位。八月には千名余になる由。

「三階三十一号室」には当方も一度泊めていただきました。ほぼ当時のままのようでした。

さらに5月18日。

午后支度して宮崎さんと一緒に出かけ、二ツ堰より電車にて鉛温泉。 乗車中豪雨降る。後止み、晴れる。温泉にては前と同じ31号室(三階)。宮崎さんも喜ばる。鉛の共同風呂に入浴。この湯甚だよろし。あまり混雑せず。持参の玉露を入れたりする。休憩。 夜食時濁酒半分ばかりのむ。 幾度か入浴、十時頃ねる。

「宮崎さん」は姻戚の茨城在住だった詩人・宮崎稔です。

翌朝。

午前八時〇七分の電車にて花巻西公園まで。弁当のむすびをもらふ。宿にて米を少し返却し来る。会計全部にて435円也。

確認出来ているのはこの三泊ですが、昭和24年(1949)と25年(1950)の日記が失われている他、それ以外の時期にも日記が抜けている時期もぽつぽつあり、もう少し多いかもしれません。

生前最後の談話筆記「花巻温泉」でも、大沢温泉さん、台温泉さんなどとともに鉛温泉さんに詳しく触れています。

 花巻の駅から一時間かかって、やっとたどりつく四つ目の駅、鉛温泉は、かなり上った山奥の湯で、今はラッセルがあるから心配はないが、私がいた頃は雪が降ると電車が止って厄介だった。
 鉛温泉の湯は昔から名湯とされている。非常に大きな湯舟が一軒別棟でできていて、一杯の人が入っている。その様を小高い所から見下せるが、まるで大根が干してあるように人間の像がズラリと並んで、それは壮観である。
 たいていの温泉は引湯だが、鉛はじかに湯が湧いている。湯の起りの底の砂利を足でかき廻すとプクプクあぶくが出てきて身体中にくつついてピチンとはねるのも面白いが、大変薬効のある湯といわれている。
 昔は男女混浴で、お百姓さんや、土地の娘さんや、都会の客などがみんな一緒に湯を愉しんでいたが、だんだんに警察がうるさくなって、「男女区別しなけりやいかん」ということで、形式的に羽目を立てた。が、これがまた一層湯を愉しくした。
 はじめのうちは男女両方に分れて入っているが、土地の女というのが男以上に逞しくて、湯に入りながら盛んにいいノドをきかせる。と、男の方はこれに合せて音頭をとりだし、しまいに掛け合いで歌をはじめ、片方が歌うと片方が音頭をとるというわけで、羽目をドンドンと叩くからたまらない、羽目がはずれて大騒ぎになる。なんとも云えない愉しさだ。
 宿もこんな山の中によく建つたと驚くような大きなもので、鉄筋コンクリート建である。


この「鉄筋コンクリート建」が、今回、有形文化財登録になるという本館と思われますが、冒頭の記事では「木造」となっています。思うに純粋な木造ではなく、コンクリートとの折衷ではないかと。

ちなみに『朝日』さんでは暮れに報じていてその時点で気づいたのですが、既に11月には地元で報道が為されていました。

IBC岩手放送さんのローカルニュース。

鉛温泉・藤三旅館と白猿の湯が国の登録有形文化財に 岩手・花巻市

 岩手県花巻市の鉛温泉にある旅館と浴室用の建物2件が、新たに国の登録有形文化財に登録されることになりました。
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 国の登録有形文化財に登録されるのは、花巻市鉛の「鉛温泉藤三旅館本館」です。この建物は1941年に建てられ突き出した玄関の屋根が曲線の美しい唐破風造(からはふづくり)となっています。
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 もう1件は、この旅館の浴室用の建物「白猿の湯」です。建設時期は昭和の前期で、中には岩盤をくり抜いた深さ約1.3メートルの大浴槽があり、上が吹き抜けとなっています。県内にある国の登録有形文化財は、今回を含め111件となります。
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『朝日』さんに戻りますが、「多くの文豪が滞在、執筆したことでも有名」とあるうち、「滞在」には宮沢賢治が含まれます。童話「なめとこ山の熊」に「腹の痛いのにも利けば傷もなほる。鉛の湯の入口になめとこ山の熊の胆ありといふ昔からの看板もかかつてゐる」という記述があります。元々、藤三旅館の経営者だった藤井家は宮沢家とは親戚関係でした。熊といえば、つい先日、宿泊した際には白猿の湯ではない豊沢川沿いの露天風呂で熊とニアミスがあり肝を冷やしました。

また「執筆」は田宮虎彦。「銀心中」という短編小説はこの宿をモデルにし、ここで書かれたそうで、公式サイトでもそのあたりが紹介されています。忘れ去られつつある作家に光を当てるのも大事ですが、先述のようにいろいろ書き残している光太郎ももっと前面に押し出していただきたいのですが……。

ところで、光太郎が泊まったというと、鉛温泉さんよりやや南の大沢温泉さん。こちらの自炊部は江戸時代の建築ですし、光太郎も愛した露天風呂「大沢の湯」も歴史あるなかなかの風情で、一説には能舞台を模した造りとも言われているようです。こちらもぜひ有形文化財登録を目指してほしいものです。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)7 『回想のゴツホ』

大正10年(1921)4月22日 叢文閣 エリザベツト・ゴツホ著 高村光太郎訳
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目次
 小序 
 一 準備
 二 はじまり
 三 再び仏蘭西へ
 四 をはり
 附録 ゴオガンに宛てた手紙 最後に就てのゴオガンの手紙 略年譜 挿画目録

フィンセント・ヴァン・ゴッホの妹であるエリザベットによる兄の回想録です。

これも本来カバー付きですが、手元のものはカバーが欠けています。カバー付きが市場に出ることはまずありませんので半分諦めているのですが、若松英輔氏のモクレン文庫さんで数年前に出ました。その稀少価値をご存じなかったのか、超廉価で。気づいた時には既に売れていました。

今週末から11月ですね。毎年そうなのですが「芸術の秋」ということで、関連するイベントが集中しています。「怒濤の11月」という感じです(笑)。既にこのブログで取り上げ開催中である諸館の企画展示や各種イベントも継続、さらにこれからご紹介すべき事項も20件を下りません。そこで関連するようなものは一括して扱わせていただきます。

今日のキーワードは「ライトアップ」。3件ご紹介します。

まず、光太郎の親友・碌山荻原守衛の個人美術館にして、光太郎ブロンズ彫刻も多数展示して下さっている信州安曇野碌山美術館さん。

碌山美術館 秋の紅葉ライトアップ

期 日 : 2025年11月1日(土) 雨天中止
会 場 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 17:00~19:00
料 金 : 無料

展示室は碌山館のみご覧いただけます。
暖かい服装でお出かけください。昨年は雨で中止でしたので晴れるといいな~
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通常の閉館後、無料開放だそうで。ただし複数ある展示棟のうちの本館にあたる碌山館のみライトアップ及び内部の観覧が可となります。

昨年は降雨のため中止となってしまったので、今年こそは、ですね。フライヤー画像は一昨年のものと思われます。建築家・今井兼次の設計になる教会風のロマネスク様式が実にいい感じですね。

開催順に、続いては福島二本松の智恵子生家。10月5日(日)、智恵子忌日の「レモンの日」に続いて2回目の開催です。

蘇る智恵子season3~生家のライトアップ~

期 日 : 2025年11月16日(日)
会 場 : 智恵子生家 福島県二本松市油井字漆原町36
時 間 : 17:00~20:00
料 金 : 無料
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こちらも通常の閉館後、無料開放となりますが、ライトアップ自体は館外から観る形になる感じです。開催中の「高村智恵子レモン祭」最終日を飾るイベント、といった位置づけのようです。

最後は京都から。

浄土宗総本山知恩院 秋のライトアップ

期 日 : 2025年11月19日(水)~12月7日(日)
会 場 : 浄土宗総本山知恩院 京都市東山区林下町400
時 間 : 17:30~21:30
料 金 : 大人800円 小中学生400円
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知恩院さんでは毎年、春と秋にライトアップが為され、光太郎の父・光雲が主任となって作られた露座のブロンズ聖観音菩薩像も照らし出されています。
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こちらは期間が長く、関連行事等も充実しています。当方、ライトアップの時期には行ったことがありませんが、令和4年(2022)に妻がお友達と行きまして、画像を京都から送ってもらいました。自分でも行きたいのですが、先述の通り「怒濤の11月」で、あちこち飛びまわらなければなりませんで、なかなか京都までは足が向きません。

皆様はそれぞれぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

それ故此の正確な返相に忠実なら、モデルの実相は、皮相の再現でなくて、内面から発して来る様に見える。全体の確実、面の正確、芸術品の生命は其処から出て来ます。


光太郎訳 ロダン「ロダンの手帳 クラデル編」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

「辺相」は、ほぼ「輪郭線」と同じ意味で、光太郎の造語と言われています。

今年度の文化勲章/文化功労者の発表がありました。

時事通信さん。

王貞治さんら8人文化勲章 功労者に野沢雅子さんら、声優初

 政府は17日、2025年度の文化勲章を、元プロ野球選手・監督で現ソフトバンク球団会長の王貞治氏(85)、ノーベル化学賞受賞が決まった京都大特別教授の北川進氏(74)ら8人に贈ると決めた。
 文化功労者にはアニメ「ドラゴンボール」シリーズの孫悟空役などで知られる声優の野沢雅子=本名塚田雅子=氏(88)、漫画家の竹宮恵子氏(75)、建築家の坂茂氏(68)ら計21人を選んだ。声優の文化功労者は初で、女性の功労者は過去最多だった昨年度と同じ6人。文化勲章を受ける北川氏は同時に功労者にも選ばれた。
 文化勲章の親授式は11月3日に皇居で、文化功労者の顕彰式は同4日に東京都内のホテルで行われる。
 文化勲章を受けるのは他に、歌舞伎俳優の片岡仁左衛門=本名片岡孝夫(81)▽心臓血管外科学の川島康生(95)▽民俗学の小松和彦(78)▽ファッションデザイナーのコシノジュンコ=本名鈴木順子(86)▽美術評論の辻惟雄(93)▽有機合成化学の山本尚(82)の各氏。
 他の功労者は、美術家のイケムラレイコ=本名池村玲子(74)▽陶芸家の伊勢崎淳=本名伊勢崎惇(89)▽落語家の柳家さん喬=本名稲葉稔(77)▽小説家・評論家の水村美苗=本名岩井美苗(74)▽柔道の上村春樹(74)▽泌尿器科学の垣添忠生(84)▽文化人類学の小長谷有紀(67)▽高分子化学の沢本光男(73)▽日本料理家の高橋英一(86)▽舞踊家の田中泯=本名田中捷史(80)▽新内節三味線の新内仲三郎=本名角田富章(85)▽演劇の野田秀樹(69)▽レスリングの福田富昭(83)▽半導体デバイス工学の三浦道子(76)▽感染症学の満屋裕明(75)▽文化人類学の山下晋司(76)▽政治学の渡辺浩(79)の各氏。
 ノーベル賞受賞が決まった人は、文化勲章・功労者に選ばれるのが慣例。今年、生理学・医学賞に選ばれた大阪大特任教授の坂口志文氏(74)は2017年に功労者となり、19年に文化勲章を受章している。

このうち、文化勲章を受章される片岡仁左衛門氏は、本名の「片岡孝夫」で活動されていた昭和48年(1973)、NHKさんの「銀河テレビ小説 生きて愛して」(全30回)で、主役の光太郎役を演じられました。
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第1回放映冒頭部分は、花巻郊外旧太田村という設定でした。上画像は蟄居生活を送っていた山小屋(高村山荘)で、当会の祖・草野心平(前田吟さん)に、沈痛な面持ちで戦時中の翼賛活動を悔いる話をしているという場面。一転して朗らかな笑顔の下画像は、山小屋近くの分教場で、子供たちを相手にしているシーン。当然と言えば当然ですが、この二つの表情のギャップだけでも演技の幅がしのばれますね。

ちなみに「銀河テレビ小説 生きて愛して」、ヒロインの智恵子役は大空真弓さん、他に荻原守衛役は寺田農さん、まだ新人だった水沢アキさんが、智恵子の妹・セキの役でした。さらにいうなら、仁左衛門さんのお嬢さん・片岡京子さんは平成12年(2000)、津村節子氏原作の舞台「智恵子飛ぶ」で、智恵子役を演じられました。元々、某大物女優が智恵子役だったところ、その女優が身内の薬物事件逮捕で急遽降板し、セキ役だった京子さんが智恵子役に抜擢という事情がありましたが、それでも父子で時を経て光太郎智恵子役を演じたという稀有な例でした。

仁左衛門さんインタビュー等。やはり時事通信さんから(以下同じ)。

「子孫への置き土産に」 文化勲章の片岡仁左衛門さん

012 「自分が好きでしていることで、こんなに大きな評価を頂けて幸せ。子孫への置き土産になる」。
 文化勲章に選ばれた歌舞伎俳優の片岡仁左衛門さん(81)は、柔和な笑みを浮かべて喜びを語った。
 1998年、大病を克服し十五代目仁左衛門を襲名。「神さまが命を下さった責任感」を胸に、芸の伝承に尽くしてきた。「お客さまに受け入れられている空気が伝わってきたときはうれしい」と芝居の醍醐味(だいごみ)を口にする。
 「菅原伝授手習鑑」の菅丞相をはじめ多くの当たり役を持つが、「役を掘り下げるといまだに発見がある」と強調。「文化勲章の質を落とさないよう、なお一層精進する」と力強く語った。 
片岡 仁左衛門氏(かたおか・にざえもん、本名片岡孝夫=かたおか・たかお)歌舞伎俳優。人気と実力を兼ね備えた俳優として長年優れた成果を挙げ、関係団体でも要職を歴任するなど歌舞伎界の振興に貢献。06年紫綬褒章、15年人間国宝。大阪府出身。81歳。


文化勲章と同時に発表された文化功労者には、今年2月に発表された日本芸術院の新会員に続き、脚本家の野田秀樹氏と建築家の坂茂氏も選出されました。

野田氏は登場人物が智恵子のみの一人芝居で、最近も全国各地で様々な劇団や個人の方によって上演され続けている「売り言葉」を書かれました。初演は平成14年(2002)、大竹しのぶさんが智恵子でした。

「芝居が好き」の一心で 文化功労者の野田秀樹さん

014 「『芝居が好き』という一心で作品を作ってきた」。劇作家の野田秀樹さん(69)は、文化功労者の決定を受けてコメントを出し、演劇人としての半世紀を振り返った。
 東京大在学中の1976年に劇団「夢の遊眠社」を結成し、80年代の小劇場ブームをけん引。奇想天外な物語と躍動感あふれる舞台で観客を魅了した。解散後は、海外の演劇人との共作や歌舞伎など他ジャンルの創作にも精力的に取り組む。
 独特な言葉遊びが野田戯曲の妙味。「『文化功労者=ぶんかこうろうしや』が、頑迷な『文化殺し屋=ぶんかころしや』にならないよう」精進するとユーモラスにつづった。
 野田 秀樹氏(のだ・ひでき)劇作家・演出家・俳優。ジャンルを超えた多彩な創作を展開し、劇作、演出、演技全てで傑出した才能を発揮。演劇における国際交流の業績でも高い評価を得た。11年紫綬褒章。長崎県出身。69歳。

坂氏は、光太郎ゆかりの地にして、毎年「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町のJR石巻線女川駅駅舎を東日本大震災後の平成27年(2015)に設計されました。

「住環境の改善が責任」 文化功労者の坂茂さん

015 「住環境で困っている人がいたら、それを改善するのは当たり前の責任」。文化功労者に選ばれた建築家の坂茂さん(68)は、世界の著名建築を手掛ける一方、仮設住宅の建設など被災地支援をライフワークとしてきたことで知られる。
避難所の間仕切りを、安価で丈夫な「紙管」で開発するなどの活動を続けてきた。阪神大震災の避難所で「被災者が雑魚寝する悲惨な状況を見た」のがきっかけだった。
 来年度中の設置が見込まれる「防災庁」の行方が気がかりという。「僕ほど世界の被災地を見てきた建築家はいないと思う。絶対に必要な省庁で、お手伝いして何とか良いシステムをつくりたい」と強調した。
 坂 茂氏(ばん・しげる)建築家。リサイクルや焼却が可能な紙製パイプ「紙管」を活用するなど、特徴的な建築で国際的に注目を集めた。災害時には建築の知見を生かした支援活動も展開し、世界から称賛を受けている。14年プリツカー賞、17年紫綬褒章。東京都出身。68歳。


他の受賞者の皆さんを含め、関係の方々の今後のますますのご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

――自分が何かをやる事さへ確かなら、少し位待つたつて何でも無い。たつたひとつの彫像でも押し出せる。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 フレデリク ロートン筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

意外と下積み時代の長かったロダンならではの言です。光太郎もそうでしたし。

今回受賞が決まった方々の中にも、世に認められるまでけっこうかかったという方もいらっしゃるような気がします。

昨日に引き続き、光太郎終焉の地、中野区の中西利雄アトリエ解体に伴う新聞報道を。

『東京新聞』さん。

高村光太郎やイサム・ノグチも活動した「中西アトリエ」、存続目指し解体 「後世に伝えたい」思い新たに

 「水彩画の巨匠」と呼ばれた洋画家、中西利雄(1900〜48年)が東京都中野区に建てたアトリエが老朽化などで解体されることとなり、1日から工事が始まった。保存の動きもあり移築先などは未定だが、建築部材を残し再建に希望をつなぐ。
◆洋画家・中西利雄のアトリエとして山口文象が設計
 工事は柱や梁(はり)、窓枠などの建具を再利用できるように残す「部材保存解体」で実施。1日は建具や照明、水道の設備などを取り外す作業が行われた。
 アトリエは1948年、建築家の山口文象(1902〜78年)の設計で建てられ、戦後間もない時期のモダニズム建築の先駆けとされる。中西は完成した年に死去し、貸しアトリエとなった。詩人で彫刻家の高村光太郎(1883〜1956年)が『乙女の像』を制作し、彫刻家のイサム・ノグチ(1904〜88年)も滞在した。
 管理は長年、中西の長男・利一郎さんが担ってきた。2023年に亡くなった後、妻の文江さん(74)が相続。壁がはがれ落ちるなど危険になったため、解体が決まった。
◆移築先は未定だけれど、調査・記録し建築部材を保存
 1日に始まった解体工事には、文江さんや、保存に動いた団体職員らが立ち会った。作業は重要建築の解体実績がある風基建設(新宿区)が、10月末までの予定で行う。
 解体が迫った9月下旬には、有志の建築士5人がアトリエで壁や天井の構造、建築部材の長さなどを細かく調査、記録し、解体と再建への準備を整えた。
 参加した建築士の伊郷吉信さん(72)は「後世の人に、このアトリエを設計した建築家や、ここで制作した芸術家のことを知ってもらいたい。そういう思いで総力を結集した」と語った。
 アトリエは老朽化が進むとともに存続が危ぶまれた。2024年には、保存を望む建築家や文化人らが「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」(俳優・劇作家の渡辺えり代表)を発足し、現地保存の道を模索したが、今年8月に断念した。
◆設計に関わった98歳建築家も参加、感慨深げに
 その後、価値ある住宅建築の継承に取り組む一般社団法人「住宅遺産トラスト」(世田谷区)が建物の所有者の仲介などを引き受け、移築保存への希望がつながった。
 文江さんは「これだけの人が協力してくれるとは思わなかった。アトリエに対して熱い思いを持っていた利一郎もうれしいと思う」と喜ぶ。
 アトリエを設計した山口文象の弟子だった建築家、小町和義さん(98)=東京都八王子市=は10代から山口の事務所で働き、実際に設計図を引いた人物だ。
 取材に「モノが少なくて建てるのも大変な時代で、苦労しながら節(ふし)のある板とか柱を集めた。簡素だけど、丈夫な材料でできた、しっかりしたアトリエ」と胸を張り、保存の動きに「よかった」とうれしそうにつぶやいた。
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保存のために建築部材を整理しながら解体が始まったアトリエ=1日、東京都中野区で
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解体に備えた調査で建物の構造や部材を記録する建築士ら=9月24日、東京都中野区で
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中西利雄が建て、高村光太郎らが滞在したアトリエ=1日、東京都中野区で

続いて『秋田魁新報』さん。

高村光太郎ゆかりの都内アトリエ、解体へ 十和田湖畔の「乙女の像」制作

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごし、十和田湖畔にある「乙女の像」塑像も制作した東京・中野のアトリエが解体されることになった。保存活動に取り組んできた秋田市河辺出身の曽我貢誠さん(72)=日本詩人クラブ理事、都内住=は「現地からアトリエは姿を消すが、移築も視野に検討を進めている」とし、部材を保管しながら建物の再建を目指すという。
 アトリエは1948年建設で、斜めの屋根と北側に向いた大きな窓が特徴。施主は洋画家中西利雄(1900~48年)、設計を建築家山口文象(1902~78年)が手がけた。中西は完成を見ずに亡くなったため、彫刻家イサム・ノグチ(1904~88年)や高村らに貸し出された。高村は亡くなるまでの3年半を過ごした。
 中西の長男利一郎さんが長年、アトリエを管理してきたが2023年に他界。老朽化もあり解体の話が浮上する中、利一郎さんと交流のあった曽我さんが昨春、有志と会を立ち上げて署名集めや行政への要望など保存活動を行ってきた。
 曽我さんは「多くの支援を受けながら現地保存の道を模索したが、さまざまな条件もあり断念せざるを得なかった」と話す。現地では今月1日から、柱や梁(はり)、窓枠などの建具を再利用できるように残す「部材保存解体」の作業が始まっている。
 9月26、27日には解体前のアトリエ見学会が行われ、集まった人たちがその姿を目に焼き付け、思い出などを語り合っていた。
 保存活動に携わった神奈川大建築学部の内田青藏特任教授(72)=大館市出身=はアトリエについて、戦後間もない時期のモダニズム建築の特徴がみられる貴重な建物と評価。「再建の可能性が残されたのは意義深い。部材の傷みもみられるが、よりよい形で再現されてほしい」と期待した。
秋田魁新報4
秋田魁新報5
今後の移築先の確保、さらに場合によっては活用法を考えるなど、まだまだ課題は山積しています。

よいお知恵や提案をお持ちの方、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」曽我氏までご連絡下さい。save.atelier.n@gmail.com

【折々のことば・光太郎】

――芸術とは自然が人間に映つたものです。肝腎な事は鏡をみがく事です。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 フレデリク ロートン筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

なるほど、曇った鏡では正しい姿を映せませんね。

保存運動を継続しております東京中野区の中西利雄アトリエ。昭和27年(1952)から光太郎が居住し、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」などを制作し、昭和31年(1956)4月2日、その終焉の地となった建物です。設計はモダニズム建築家の山口文象があたりました。

解体が決定し、先月末には関係者対象の内覧が行われました。すでに解体工事が始まっていますが、消滅は回避、解体した部材は保管され、移築先を探すという状況になりました。

その件や今後の見通しについて新聞各紙で報じて下さっています。掲載順に2日に分けてご紹介いたします。まず、「乙女の像」地元の青森県の地方紙2紙。

『東奥日報』さん。

「乙女の像」高村光太郎晩年の拠点 東京・中野 保存目指す有志 見学会

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年、「乙女の像」の塑像を制作した東京・中野のアトリエを巡り、移築を視野に入れた検討が進んでいる。10月にも移築に向けた解体作業が始まり、建物の部材は一時保管されるという。26日、保存を目指してきた有志による見学会が行われ、集まった人たちがその姿を目に焼き付けた。
 アトリエは洋画家中西利雄(1900~48年)が建築、48年に完成した。高村は52年秋から亡くなるまでの3年半を過ごし、十和田湖畔(十和田市)にある「乙女の像」の塑像制作に情熱を注いだ。
 移築に向けた動きには、歴史的、文化的に貴重な住宅建築の継承に取り組む「住宅遺産トラスト」が(東京)が関わり、まずは解体に着手する方向となった。完成から80年近くが経過したアトリエは老朽化が進み、現地での保存が困難な状況になっていたという。
 アトリエは中西の長男・利一郎さん(故人)が大切に管理してきた。高村とも親交があったといい、利一郎さんの妻・文江さん(74)は「中西利雄や高村を好きな方たちがここでたくさんの思い出をつくった。夫の思いが生かされる方向になれば一区切りがつきます」と述べた。
 保存に向けては、都内の有志らが会を立ち上げ、署名集めや行政への要望などを行ってきた経緯がある。
 同日、現地を訪れた建築士の十川百合子さん(71)は「アトリエは戦後の建材が不足する中で建てられたが、工夫が凝らされている。さまざまな文化人が集った歴史があり、後世に伝えるためにも、より良い形で再現されてほしい」と期待した。

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同じく『デーリー東北』さん。

高村光太郎アトリエ解体へ 「乙女の像」制作 都内 老朽化、部材や資料は保管 文化的価値継承へ移築模索も

 彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が十和田湖畔にある「乙女の像」を制作した東京・中野のアトリエが、部材などを保管した上で10月に解体されることになった。有志が建物の保存に向けて尽力してきたが、老朽化が進行して困難に。一方、解体後の移築を模索する動きもあり、関係者は文化的価値の継承を願っている。
 アトリエは、洋画家の中西利雄(1900~48年)が使用する予定で建てられたが、亡くなった直後に完成。貸し出されていたところ、岩手県花巻市で過ごしていた高村が青森県から乙女の像の制作を依頼されたのをきっかけに52年に移り、亡くなるまでの間、制作の拠点とした。高村の前には世界的な彫刻家のイサム・ノグチも使用している。
 高村の死後は、中西の長男の利一郎さんが守り継いできた。ただ、2年前に死去してからは管理が難しくなり、利一郎さんの妻・文江さん(74)は「耐震性などを考えると危険な建物でもあった」と語る。
 有志でつくる「アトリエを保存する会」が行政に協力を要請したり、建物内で文化的な交流活動を行ったりしてきたが、現在地に残すことはかなわなかった。
 だが急転直下、歴史的価値のある住宅建築の継承に取り組む「住宅遺産トラスト」(東京都)が所有者と相談し、都内の建設会社が解体された柱などの部材や建物内にあった資料を一時保管することになった。場所や時期は未定だが、移築に向けた動きもあり、保存する会の曽我貢誠さん(同)は「完全になくなるわけではないということで、ほっとしている」と胸をなで下ろす。
 同会には保存を望む5千通以上の署名が寄せられている。曽我さんは移築の実現に期待を寄せ、「若者が想像力を育むような場所になれば」と願う。
 文江さんも「必要な物は保管してもらえる。主人の思いに応えられる道が見えて良かった」と話した。
 解体工事が行われるのを前に、26日は関係者がアトリエを訪れ、往時に思いをはせた。高村の研究を続けてきた小山弘明さん(千葉県)は「移築などで活用される方向でお願いしたい。(貴重な建築物を)継承していく一つのモデルケースになれば」と語った。

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いろいろセンシティブな問題があり、詳細は書けませんが、現状、こういうことになっています、ということで。

以前も書きましたが、移築後の活用方法については追々考えていくとして、まずは場所。大学さん、美術館/文学館さんなど、或いは篤志の個人の方でも結構です。できれば近くであるに越したことはないのですが、離れた場所でも仕方がないでしょう。保存会世話役の曽我貢誠氏メアドが以下の通り。save.atelier.n@gmail.com
よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

――彩色と彫刻と何の関係もありません。光と陰とがあれば彫刻家は沢山です。若し其の構造的表現が正しければ。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 フレデリク ロートン筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

一般にブロンズの塑像や、大理石彫刻などには彩色を施しません。木彫の場合には大理石とは異なり彩色されることがあって、光太郎も行っていますが、それとて最小限です。彩色されていなくても、色彩を感じさせる彫刻でなければ……ということでしょう。

光太郎終焉の地にして記念すべき第一回連翹忌会場ともなった、中野区の中西利雄アトリエ。モダニズム建築家・山口文象の設計です。一昨年からその保存運動に取り組んでいます。

文治堂書店『とんぼ』第17号/「中西利雄アトリエを後世に残すために」企画書。
「高村光太郎ゆかりのアトリエ@中野」。
『中野・中西家と光太郎』。
中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会 意見交換会。
中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会 署名用紙。
「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
閉幕まであと4日「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
『東京新聞』TOKYO発2024年NEWSその後 1月12日掲載 高村光太郎ゆかりのアトリエ危機。
中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会レポート。

現地保存にむけ、多くの皆さんが署名して下さったり、展示やイベントなどの関連行事にもご協力いただいたりしましたが、様々な理由で移設の方向で舵を切ることとなりました。

その後、住宅遺産トラストさんのご協力をいただけることになり、いったん解体して部材を保管し、移する方向で動いております。

そこで、関係者のみが参加しての内覧会を解体前に行うこととなり、9月26日(金)、27日(土)の2日間、ともに午後、開催いたしました。54平米の小さな建物でキャパに制約があり、申しわけありませんがクローズドでの実施とし、このブログでは告知できませんでした。

撮影してきた画像を載せます。

まず正面方向からの外観。
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採光のため北側に大きく作られた窓。
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東側、そして南側の外観。
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窓枠は北側以外はサッシに換えられています。
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そして内部。
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二階、というか、ロフトのような空間があり、そこから俯瞰しました。右手が北側になります。右上のあたりで光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が制作されました。
キャプション「中西アトリエにて 「乙女の像」制作風景」① キャプション「中西アトリエにて 「乙女の像」制作風景」②
ちなみに像を据えた回転台は、助手を務めた青森県出身の彫刻家・小坂圭二、さらに小坂の弟子にあたる北村洋文氏へと受け継がれ、北村氏から十和田湖観光交流センター・ぷらっとに寄贈されました。
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ロフト部分。ここに上がったのは初めてでした。
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下から見上げるとこんな感じ。
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施工主の中西利雄の意向で作られた空間で、ここに弦楽アンサンブルの演奏者に入ってもらい、階下のアトリエ部分でダンスパーティーなどとという構想があったそうです。実現はしませんでしたが。

玄関脇、奥の小部屋など。
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中西利雄蔵書類。
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中西利雄はこのアトリエの完成直前の昭和23年(1948)に亡くなり、戦後の混乱期ゆえ、光太郎のようにアトリエを戦災失ったりした芸術家の需要があるだろうと、中西夫人が貸しアトリエとして運用することにしました。光太郎の前には、イサム・ノグチがここを使い、昭和27年(1952)から昭和31年(1956)まで光太郎。その後、画家の陶山侃に貸し出されたとのこと。

光太郎が居た間、実弟で鋳金の人間国宝・髙村豊周、その子息で写真家となった髙村規氏、当会の祖・草野心平、当会顧問であらせられた北川太一先生などをはじめ交流のあった人々が連日、ここを訪れました。「乙女の像」依頼主の津島文治青森県知事、県と光太郎を仲介した佐藤春夫、「乙女の像」を含む一帯の公園を設計した建築家・谷口吉郎、光太郎の花巻疎開に尽力した宮沢清六や佐藤隆房医師、画家の難波田龍起、写真家・田沼武能、光太郎の古い親友で陶芸家のバーナード・リーチ、伝説の道具鍛冶・千代鶴是秀、文学方面では亀井勝一郎や高見順、尾崎喜八、親友だった水野葉舟子息でのちに総務庁長官や建設大臣を歴任した水野清、芸能関係でも長岡輝子、初代水谷八重子、ラジオパーソナリティーの秋山ちえ子などなど。

そうした人々の息づかいも感じられる空間でした。

移築後の活用方法については追々考えていくとして、まずは場所。大学さん、美術館/文学館さんなど、或いは篤志の個人の方でも結構です。できれば近くであるに越したことはないのですが、離れた場所でも仕方がないでしょう。

保存会世話役の曽我貢誠氏メアドが以下の通り。save.atelier.n@gmail.com

よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

人間が自分を育てるのです。神性あるものは自然です。神とはわれわれの事です。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

わけのわからない新興宗教の教祖様のように「我こそは神」なり、というわけではなく、全ての人間は心の中に「神」のような部分、いわば「良心」を持っていて、その声に従うことが大切だ、ということでしょうか。ある種の性善説ですね。

保存運動を展開している、光太郎終焉の地、中野区の中西利雄アトリエ関連です。

協同組合伝統技法研究会さんという建築関係の組織があり、そちらの会報『伝統技法』の第52号が6月に発行されています。同会サイトには先月末に情報がアップされました。

会報52号 発行しました

会報52号を発行しました!

今回の目次は
●杉並に残る民家 高橋 政則
●婦人之友社社屋に学ぶ〜引き継がれた有機的建築 伊郷 吉信
●髙井鴻山記念館の張付壁 大平 茂男
●村野家住宅の茅葺き屋根の修理 大平 茂男
●飯田喜四郎先生が1月4日に亡くなられました 大平 茂男
●文化財建造物の保存修理に思うこと 大平 秀和
●中西利雄・高村光太郎アトリエを後世へ 十川

となっております。
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サイト上の情報ではなぜか執筆者名が苗字しか書かれていませんが、当方も所属する中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会の中心メンバーのお一人、十川百合子さんによる「中西利雄・高村光太郎アトリエを後世へ」という文章が6ページにわたって掲載されています。
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施主である水彩画家・中西利雄のプロフィール、当該アトリエについて、ここを借りた光太郎とのからみ、そしてこれまでの保存運動の報告等。

奥付画像を載せておきます。必要な方、ご参考までに。
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ところで、アトリエについて、非常に残念なご報告があります。

現所有者の意向で、10月から11月頃に解体されることが決定したそうです。

これまで、中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会としては、現地での保存をまず第一に考えて交渉等を重ねて参りましたが、力及ばずでした。

そこで今後はプランB・次善の策として、どこか適当な場所に移築、という方向で動かざるを得ません。その移転候補地等も全く白紙に近い状態です。モダニズム建築家・山口文象設計という建造物としての重要性だけでなく、光太郎終焉の地という付加価値があるため、できれば近くにと思いますが、それも不可能であれば離れた場所でも仕方がないでしょう。信州飯田市の柳田國男館さん、茨城県笠間市の春風萬里荘さん(北大路魯山人アトリエ)などがそうした例ですが、まったくゼロになってしまうよりどれだけましか、ということになります。

移築後の活用方法については追々考えていくとして、まずは場所。大学さん、美術館/文学館さんなど、或いは篤志の個人の方でも結構です。場所さえ提供していただければ、あとは何とかできそうな構想にはなっています。

保存会世話役の曽我貢誠氏メアドが以下の通り。save.atelier.n@gmail.com

よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

小生の容態はさつぱりよくなりませんが少しづつ原稿を書いて居ます原稿が書けなくなる日もあることでせう


昭和31年(1956)1月31日 宮崎春子宛書簡より 光太郎74歳

余命2ヶ月あまり、ほぼ病臥の生活となりましたが、調子のさほと悪くない時は原稿執筆も行っていました。詩では前年暮れには『読売新聞』に寄稿した「生命の大河」、同じく『中部日本新聞』などの三者連合に「開びゃく以来の新年」、NHKラジオに「お正月の不思議」。散文は雑誌『新潮』、『みづゑ』、『家の光』、『国立博物館ニュース』、『地上』、『旅行の手帖』などに。

中野区の桃園区民活動センターで開催されている『中西利雄・高村光太郎アトリエ』ミニ展示会について、『東京新聞』さんが報じて下さいました。

「水彩画の巨匠」中西利雄アトリエ残したい 中野で有志が企画展 23日まで ゆかりの芸術家や内外装 パネルで紹介

 「水彩画の巨匠」と呼ばれる洋画家の中西利雄(1900~48年)が中野区内に建てたアトリエを伝えるミニ展示会が、近くの桃園区民活動センター(中央4)で開かれている。存続の危機にあり、広く知ってもらおうと企画された。23日まで。
 中西が建てたアトリエでは、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年に暮らし、十和田湖畔にある代表作「乙女の像」の塑像などを制作。設計は建築家の山口文象で、世界的彫刻のイサム・ノグチが住んでいた時期もあり、芸術家らとのゆかりは深い。
 中西の息子が2023年に亡くなった後、保存活用の在り方が問われてきた。展示会は有志による「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」(俳優・劇作家の渡辺えり代表)が主催し、アトリエの内外装やゆかりの人々などをパネル10点ほどで伝える。
 同会の曽我貢誠(こうせい)事務局長(72)は、中西やその家族は積極的に地域の人々と交流し、身近な存在だともした上で、「区民らにアトリエのことを知ってもらいたい」と呼びかけた。
 入場無料。期間中は19日休館。

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アトリエの歴史や文化的価値を説明する曽我貢誠事務局長=中野区で

先週もこのブログで書きましたが
光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を制作し、さらに光太郎終焉の地にして第1回連翹忌会場ともなった中野区の中西利雄アトリエ。昨年「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、保存のための活動を続けていますが、もはや猶予がなく、危機的状況となっています。

主に区民の皆さんにそのあたりを周知したいということで、先月24日から、記事の通り桃園区民活動センターさんでミニ展示を行っています。
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問題のアトリエ、しっかり活用計画を考えて土地ごと買い取って下さるという方(法人さんでも個人の方でも)が現れてくれれば最善です。また、買い取りではなく貸借で、ということも考えられます。活用計画は無理、という場合でも、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」として相談に乗りますし、同会が指定管理者的な立場となることもありでしょう。

現地保存ではなく、土地を提供するので移築して活用したい、というお申し出も次善の策として考えています。その場合、近くであるに越したことはありませんが、たとえ離れた場所であっても、アトリエが烏有に帰すよりはずっとましですし、実際、そうした例も少なからず存在します。

現地やミニ展示をご覧の上、手を挙げて下さる方に現れていただけることを祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】002

山口の小屋は駿河重次郎翁に万事まかせて来ましたから多分時々見てくれてゐることと推察します、

昭和28年(1953)5月6日 
宮沢清六宛書簡より 光太郎71歳

「乙女の像」制作のため、中西アトリエに入って半年余り。その前の7年間、蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋の土地を提供してくれたのが、太田村の長老格の一人・駿河重次郎でした。

上京する際も駿河に小屋の管理を委託、駿河は約束を違えず、湿気のこもる小屋の中に風を入れに行ったりということを怠りませんでした。

さらに昭和31年(1956)の光太郎没後には、宮沢家や佐藤隆房医師、他の村民たちとともに小屋の保存に尽力。そのおかげで小屋は高村山荘として現存しています。

以前にも書きましたが、中西アトリエもそうでなくてはいけないと思うのですが……。

光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を制作し、さらに光太郎終焉の地にして第1回連翹忌会場ともなった中野区の中西利雄アトリエ。昨年「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、保存のための活動を続けていますが、もはや猶予がなく、危機的状況となっています。

そのあたり、十和田湖の西半分を有する秋田県の地方紙『秋田魁新報』さんが報じて下さいました。

高村光太郎が過ごしたアトリエ、解体の危機 十和田湖畔「乙女の像」制作

秋田魁新報1 「智恵子抄」などで知られる詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごし、十和田湖畔にある「乙女の像」塑像も制作した東京・中野のアトリエが解体の危機にある。所有者が亡くなり、管理が難しいためで、保存活動に取り組む秋田市河辺出身の曽我貢誠(こうせい)さん(72)=日本詩人クラブ理事、都内住=は「芸術的にも建築的にも文化的にも貴重な施設。ぜひ古里からも関心を寄せてほしい」と話している。
 アトリエは1948年建設で、斜めの屋根と北側に向いた大きな窓が特徴。施主は洋画家中西利雄(1900~48年)で、設計を建築家山口文象(1902~78年)が手がけた。中西は完成を見ずに亡くなったため、彫刻家イサム・ノグチ(1904~88年)や高村に貸し出された。高村は亡くなるまでの3年半を過ごし、代表作となる乙女の像の塑像を制作した。
   一方、建物を管理していた中西の長男利一郎さんが2023年に他界。築70年超で老朽化もあり、解体の話が浮上した。
 立ち上がったのが利一郎さんと交流のあった曽我さん。昨年4月、有志と会を発足し、後世に残すための企画書を作成したり、中野区へ働きかけたりするなど保存活動を活発化させている。会の代表を務めるのは、劇作家で俳優の渡辺えりさん。高村の半生を基にした戯曲を書いた縁などから引き受けたという。
 曽我さんは秋田高から東京理科大へ進み、卒業後は都内で35年間、公立中学校教員を務めた。「戦意高揚の作品を書き、戦後に責任を感じていた高村が、彫刻制作に没頭したのがこのアトリエ。そうした背景、高村の思いを後世に伝えるためにも大切な歴史的遺産」と保存の意義を語る。
 会によると、3月末までに4355筆の署名を集めた。今後、クラウドファンディングも視野に、本県からの協力、支援も期待している。
 署名は「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」から。 問い合わせは曽我さんTEL090・4422・1534

智恵子への愛、像に託す
 東京生まれの高村光太郎は1945年4月の空襲で自宅が被害に遭い、岩手県花巻市へ疎開。戦後、十和田湖畔に設置する記念碑の制作依頼を機に帰郷し、中野のアトリエで暮らした。
 制作に際し、十和田湖を下見して湖の美しさに感動し、2人の女性が向き合う像のイメージを膨らませたとされる。「二体の背の線を伸ばした三角形が『無限』を表す」などの意図があったという。
 余命が長くないことを意識してか、青森県野辺地町出身の彫刻家小坂圭二を助手に雇い、約8カ月で完成させた。生涯をささげた美、妻・智恵子への愛、平和への願いを像に託したとされる。
 制作中、像の顔は白布で覆われた。完成後に「智恵子夫人の顔」と言われるようになったが、高村は「智恵子だという人があってもいいし、そうでないという人があってもいい。見る人が決めればいい」と答えたという。
秋田魁新報3 秋田魁新報2
個人情報保護の観点などいろいろ制約があり、裏話的な部分は活字にできなかったのでしょうが、見出しの通り「解体の危機」に瀕してしまっています。区としては一銭も金は出さないという方向性です。さらに現地にマンション建設計画があり、もはや猶予がない状況です。

何とか現地での保存活用を最優先にしたいのですが、それも不可能なら移築するのが次善の策ということになります。しかし、移築先として適当な土地のめども立っていません。区として用地を提供してくれるということも無理そうです。となると、近くの企業さん、大学さん、或いは篤志の個人の方でももちろん結構なのですが、「土地を提供しましょう」と声を上げていただけるとありがたいところです。貸借でも構いません。最善なのはアトリエ部分の土地を買い取ってくれる法人さん/個人の方が現れてくれ、移築しないですむことですが。ただし、そうなると億単位の金額が必要でしょう。

我々としましては、アトリエの建物を活用して収益を上げられると見込んでいます。その辺りは建築専門の方々にお願いしたりして、決して夢想ではないさまざまな活用案を練ってあります。実際、同じ中野区内の三岸アトリエ、台東区の旧平櫛田中邸などは、レンタルスペースとして運営されています。音楽や各種パフォーマンスの公演、ギャラリー的な活用、映画などのロケやフォトスタジオ的な使い方もなされています。アトリエを建てた水彩画家・中西利雄や光太郎の記念館・資料館的な運用もありでしょうが、それだと収入は限られてしまうので、そうした機能も持たせつつ、レンタルスペースとして活用するのが最善かと思われます。いっそのこと、古民家カフェ的な態様にしてしまう方法もまったく排除はできません。

移築となると、できれば近い場所が望ましいところです。宮沢賢治の羅須地人協会の建物はそんな例で、元の場所から同じ花巻市内の花巻農業高校さんに移築されました(それとても批判があったやに聞きますが)。近い場所ではなく、遠くに移築された例としては、信州飯田市の柳田國男館さん、茨城県笠間市の春風萬里荘さん(北大路魯山人アトリエ)など。これらはたとえ離れた場所でも、建物が残ったという意味では幸いなのでしょう。

変わった例では、建築家でもあった詩人・立原道造の別荘「ヒアシンスハウス」(さいたま市)。立原の生前にはそれが建てられずに終わり、没後に遺された図面を元に建てられました。同様に中西アトリエも図面を元にどこか別の場所に「復元」ということも考えられますが、そうなると価値はだだ下がりですね。まったく何も無くなるよりはましなのかもしれませんが。

最悪の場合、そうした措置がまったく出来ず、何処にも何も残らないというケース。それだけは何としても避けたいところです。

優先順位を付けてまとめます。

 ① 現地で保存して活用していく
 ② 近くに移築して活用していく
 ③ たとえ遠くでも、建物の保存ができるならということで移築して活用していく
 ④ 図面を元に他の場所に復元し活用していく


いずれの場合でも、かなりの金額がかかります。そのため、クラウドファンディングももちろん考えています。しかし、ゴールが定まらないとCFも立ち上げられません。集まった金額によって、上記①~④のどれに落ち着かせるかを決める、というのもありなのでしょうか?

単なる思いつきでなく、「こういう例を実際に手がけた」など、良いお知恵をお持ちの方、ご協力いただけると幸いです。

【折々のことば・光太郎】

只今は一尺五寸の雛形完了、三尺五寸の試作も完了、目下七尺の像にとりかかりつつあります、すべて順調に運んで居ります、


昭和28年(1953)3月5日 浅沼政規宛書簡より 光太郎71歳

中野の中西アトリエで制作していた「乙女の像」の進捗状況です。「七尺の像」が最終完成作です。

浅沼は、中西アトリエに移る前に光太郎が7年間の蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校長。光太郎没後には、浅沼や宮沢家、佐藤隆房医師、そして旧太田村の村民たちが「高村先生の山小屋を後世に遺さなければ申しわけが立たない」と、お金や労力を出し合い、「高村山荘」として保存、現在も遺っています。中西アトリエもそうでなければならないと考えます。

我々としても「すべて順調に運んで居ります」とご報告できる日が来ることを切に祈っております。

光太郎第二の故郷・岩手県花巻市で、市立図書館さんの移転計画が持ち上がっています。

現在地は光太郎と関わりの深かった宮沢賢治が勤務していた市内若葉町の花巻農学校跡地・ぎんどろ公園に隣接する場所で、同じ敷地内には市の文化会館なども建っています。当方、光太郎が花巻郊外旧太田村在住時の地方紙記事などの調査のため、何度か利用させていただきました。

移転先候補地は、当初6案、それが絞り込まれて2案あったそうです。

まず、市役所に近い旧総合花巻病院跡地(花城町)。同院は賢治の主治医でもあり、光太郎の花巻疎開やその後の7年半にわたる花巻及び旧太田村での生活に物心共に多大な援助をしてくれた佐藤隆房が院長を務めていました。病院は令和元年(2019)に市内御田屋町に移転し、その跡地が候補地の一つでした。

それからJR東北本線花巻駅前という案も。

2つの案を巡っては、どちらも一長一短があり、市内でも意見が分かれていたようで、地元の方のSNS等を見ると、なかなか紛糾していたようです。

市では市民の意見等を聞く機会を設けたりし、さまざまな検討を行った結果、花巻駅前の方で、ということになったそうです。このほど、市のホームページに「新花巻図書館整備基本計画(案)説明資料」がアップされました。
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現在、タケダスポーツさんのある場所のようです。

部外者としては、場所の決定に関しては何も言うことはありません。

で、「新花巻図書館整備基本計画(案)説明資料」。どのように新図書館を運営していくか、そういったコンセプトが述べられており、そちらではなるほどね、と思わせられました。やはり宮沢賢治のお膝元、という部分が前面に押し出されています。

まず「基本方針」。

 本市は、宮沢賢治や萬鉄五郎をはじめとした多くの先人を輩出しています。江戸時代の先人を顕彰した「鶴陰碑(かくいんひ)」に記された人々は、自らの研鑽に精進し学術文化はもとより地域や産業の振興と発展、そして後継者の育成に努力を重ねてきました。花巻には歴史的に学びの風土があり、この精神は私たちも次の世代に受け継いでいかなければなりません。
 新しい花巻図書館の整備にあたっては、市民一人ひとりの生活や活動を支援することを基本的に考えながら、先人が育んできた「学びの精神」を受け継ぎ、図書館が次世代を担う子どもの読書活動を支援し豊かな心を育てる施設として、また情報を地域や産業の創造に結びつける施設として、まちや市民に活力と未来をもたらす図書館を目指して、次の3つを基本方針とします。

郷土の歴史と独自性を大切にし、豊かな市民文化を創造する図書館
 花巻市は輝かしい功績を遺した数多くの先人を輩出しています。この先人達を顕彰し次の時代を担う子どもたちにその精神を継承し、郷土を愛する心を育むことができるよう、郷土資料や先人の資料の充実を図ります。
すべての市民が親しみやすく使いやすい図書館
 幼児、子ども、高齢者、障がい者、すべての市民が気軽に利用できるように、親しみやすく使いやすい施設とします。自然や周辺に調和した明るくゆったりしたスペースとし、読書はもちろんのこと、くつろぎの場でもあり、交流の場ともなる施設とします。
暮らしや仕事、地域の課題解決に役立つ知の情報拠点としての図書館
 これからの図書館は市民の読書や生涯学習を支援するだけでなく、情報を得る場、生活、仕事、教育、産業など各分野の課題解決を図る図書館であることが求められているため、広い分野にわたる資料やレファレンス(検索・相談)機能の充実を図ります。

輩出された「輝かしい功績を遺した数多くの先人」には、花巻出身ではないもの、光太郎も含めて下さっているようです。「蔵書・資料の収集について」という項の中に「宮沢賢治、高村光太郎、萬鉄五郎、新渡戸稲造などの資料を積極的に収集・保存。可能な限り開架閲覧スペースに配架」という一節があります。まぁ、現在の図書館さんでも、光太郎や賢治に関する資料類はかなり所蔵されていて一室が設けられている感じで、それを引き継ぐという部分もあるのでしょうが。

やはり賢治は別格で、「宮沢賢治に関する資料については、市民から、宮沢賢治の出身地にふさわしい図書館としてほしいなどの意見が多いことから、今後出版される図書資料はもちろん、未所蔵で購入可能な資料は古本も含め積極的に収集し、地域(郷土)資料スペースにおいて配架する予定ですが、宮沢賢治専用のスペースを設けることも検討します。また、イーハトーブ館と役割分担をし、現在イーハトーブ館が保有している専門的な研究資料や絶版等入手困難な資料等は、引き続きイーハトーブ館で保有することとし、図書館で閲覧または貸出できるようシステムの構築を検討します。」だそうです。光太郎もそれに準ずる扱いくらいにはしていただきたいところです。

また、「花巻駅前も賢治作品「シグナルとシグナレス」の舞台であり、「銀河鉄道の夜」のモチーフとなった岩手軽便鉄道や花巻電鉄の駅があった場所で賢治ゆかりの地」といった記述も。多少の無理くり感は否めないなと感じつつも「なるほどね」と思いました。

もう一つの候補地だった病院跡地の方は「宮沢賢治ゆかりの地に相応しい図書館以外の公共事業に活用することも考えられる」だそうです。
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とにもかくにも「基本方針」どおり、「先人が育んできた「学びの精神」を受け継ぎ、図書館が次世代を担う子どもの読書活動を支援し豊かな心を育てる施設として、また情報を地域や産業の創造に結びつける施設として、まちや市民に活力と未来をもたらす図書館」実現に向けて頑張っていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

丸ビルの展らん会も御覧下されし由、古いものばかりで殆ど現代的意味はない事でした、

昭和27年(1952)11月26日 吉野秀雄・登美子宛書簡より 光太郎70歳

「丸ビルの展らん会」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため花巻郊外旧太田村から上京したことを記念し、中央公論社の肝煎りで開催された「高村光太郎小品展」。
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意外や意外、光太郎生前唯一の個展でしたが、当の光太郎自身はあまり興味がなかったようです。彫刻の制作年代の説明も無茶苦茶です。「手」は大正7年(1918)、「裸婦坐像」は大正6年(1917)です。

大正2年(1913)、光太郎が先行して滞在、あとから智恵子も後を追って現れ、結婚の約束を果たしたという信州上高地。歩いて登るしかなかった時代、光太郎智恵子も辿った「クラシックルート」にある「岩魚留小屋」に関して、『毎日新聞』さん長野版が、光太郎の名を引きつつ報じています。

歴史ある建物 CFで再生へ 「岩魚留小屋」後世に 松本・徳本峠ルートで有志ら /長野

 長野県松本市安曇の島々地区から徳本(とくごう)峠を経て、北アルプス上高地に至る登山道沿いにある休業中の山小屋「岩魚留(いわなどめ)小屋」の復活を目指すプロジェクトを、県内外の有志が始めた。小屋は明治時代に日本アルプスを世界に紹介した英国人宣教師、ウォルター・ウェストンも利用したという。現在は老朽化が進み、有志はクラウドファンディング(CF)で小屋の改修資金を募る予定。
 市教育委員会によると、徳本峠の東の標高1260メートルにある岩魚留小屋は1911(明治44)年に民間会社が開設し、木造平屋建て66平方メートル。現オーナーの奥原英考さん(71)の体調不良で2012年から休業している。老朽化のため、復活には修繕や電気などインフラ整備が必要になる。
  小屋の前を通る登山道は、1928(昭和3)年に梓川沿いの釜トンネルが開通して車が通るようになるまで、上高地に入る主要路だった。ウェストンや日本山岳会を創立した小島烏水(うすい)をはじめ、小説家の芥川龍之介や詩人の高村光太郎が歩いた近代登山の歴史を刻むクラシックルートで、登山口の島々から上高地の明神まで約20キロ。現在は土砂崩れのため通れなくなっている。
 有志らは昨年11月に「岩魚留小屋再生プロジェクト」を発足させた。代表の塩湯涼さん(29)=京都市出身=は南アルプスの山小屋で働き、島々に昨春移住。奥原さんが後継者を探していると知り、名乗りを上げた。メンバーには建築やデザインの担当者もいる。
 塩湯さんとプロジェクトリーダーの臼井幸代さん(39)は3月末、松本市の登山用品店で講演し、小屋の現状や今後の計画を説明した。塩湯さんは「歴史的価値を持つ小屋を後世に残すため、外観を保ったまま修復する。自然探検など、岩魚留小屋らしい新たな楽しみ方ができるようにしたい」と話した。臼井さんも改修資金の確保に協力を求めた。
 また、島々から徒歩4~5時間の地点にあるこの小屋は、登山者の宿泊・避難場所として安全面でも意義があるとした。今年は現地調査や廃棄物処理、トイレと水場の整備をする予定で、清掃や荷物運び、小屋見学の講習会も計画している。26年に小屋の修繕やインフラ工事に取りかかり、27年の営業再開を目指している。
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画像左奥に映っているのは桂の木です。推定樹齢数百年で、光太郎智恵子も目にしました。のちに光太郎智恵子それぞれ、桂の木の印象を文章に残しています。

「徳本峠の山ふところを埋めてゐた桂の木の黄葉の立派さは忘れ難い。彼女もよくそれを思ひ出して語つた」(光太郎 「智恵子の半生」昭和15年=1940)

「絶ちがたく見える、わがこの親しき人、彼れは黄金に波うつ深山の桂の木」(智恵子 「病間雑記」大正11年=1912)

ここにも一度行ってみたいと思いつつ、果たせないでいます。なかなか半端な気持で行ける場所ではありませんので、しっかり計画を立てて向かわねばなりませんし。

保存の為のクラウドファンディングが立ち上がったら、微力ながら協力させていただくつもりでおります。皆様にも是非よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】002

このたびは友人藤島宇内君のお世話によりお宅のアトリエを拝借出来るやうになり、まことにありがたく、好都合にて、お宅様に対し厚く感謝いたして居ります。来る十月十三日頃参上の運びとなるかと存じますが、又いろいろ御厄介をかけるやうになりますこと恐縮の至ですが、何分お願申上げます。

昭和27年(1952)10月6日
 中西富江宛書簡より 光太郎70歳

光太郎終焉の地となった中西利雄アトリエの持ち主、利雄夫人の富江に宛てた書簡から。

こちらの保存運動も展開中です。よろしくお願い申し上げます。

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため借り受け、光太郎が昭和27年(1952)秋から、一時的に花巻郊外旧太田村に帰村した昭和28年(1953)初冬と、赤坂山王病院に入院した昭和30年(1955)初夏を除き、最晩年の3年半を過ごし、昭和31年(1956)4月2日にここで亡くなった中野区の中西利雄アトリエ

昨年から当方も関わって展開されている保存のための運動につき、「乙女の像」地元の青森の地方紙二紙が報じて下さっています。

まず『デーリー東北』さん、今月初めの掲載でした。

「乙女の像」制作 高村光太郎のアトリエ(東京) 価値ある建築物残したい 所有者死去、進む老朽化 保存する会、支援呼びかけ

 彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごし、十和田湖畔に立つ「乙女の像」を制作した東京・中野のアトリエ。長年管理してきた所有者が2年前に亡くなり、保存が難しくなっている。関係者は「価値ある建築物を残したい」と行政や民間の協力を募るものの、行政支援や資金調達のめどは立っていない。
 高村は戦時中、宮沢賢治のつてを便りに岩手花巻市に疎開。戦後も52年まで過ごし、青森県から乙女の像の制作を依頼されたのを契機に中野のアトリエに移った。高村の顕彰活動を続ける小山弘明さん(東京)は「花巻で作ろうとも考えたが、粘土が凍るなどするので新たに東京で制作場所を探した」とする。
 知り合いに紹介されたのが、洋画家の中西利雄(1900~48年)が建てたアトリエ。死後に完成し、賃貸に出されていた。高村の前に、彫刻家のイサム・ノグチも一時滞在していたという。北から南に傾斜した屋根で、北側に大きな窓を設けており、内外とも白く塗られているのが特徴だ。
 肺結核を患っていた高村は中野に引っ越す頃には病状が悪くなっており、小山さんは「制作にものすごく時間をかける高村が、乙女の像はわずか半年ほどで仕上げている。死が迫るのを意識しながら作ったのではないか」と解説する。野辺地町出身の彫刻家・小坂圭二もこのアトリエで助手を務めた。
 乙女の像の完成後は花巻に帰るつもりだったが、体調を考慮して中野のアトリエに残り、56年4月に亡くなるまで過ごした。その後は中西の長男の利一郎さんが長年にわたってアトリエを管理してきたものの、23年1月に死去。老朽化が進み、家族も管理が難しくなっている。
 このため、昨年2月に利一郎さんと親交があった曽我貢誠さん(東京)らを中心に、俳優の渡辺えりさんを代表として保存する会を設立。署名活動やイベント開催、行政への働きかけなどを行っている。
 曽我さんは「保存には多額の資金が要る。何とかこの場所に貴重なアトリエを残したい」と訴えるものの、現時点で中野区などから前向きな対応は引き出せていない。
 今後は「行政への要望と並行して周辺の大学や民間企業などに支援を呼びかけたい」と粘り強い活動を続ける考えだ。

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ほぼ同一の内容ですが、『東奥日報』さんも昨日報じて下さいました。

十和田湖畔「乙女の像」生んだアトリエが存続の危機 有志ら保存活動 彫刻家・高村光太郎が晩年過ごす

 詩人・彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年、十和田湖畔にある「乙女の像」の塑像を制作した東京・中野のアトリエが存続の危機にある。歴史的に価値の高いこの建物を残そうと、有志らが活動を本格化させた。青森県十和田市関係者からも署名が寄せられているといい、「支援の輪をさらに広げたい」と方策を模索している。
 高村は亡くなるまでの3年半をこのアトリエで暮らした。斜めの屋根と北側に向く大きな窓が印象的だ。内部には高村の写真や当時の椅子が残されていた。
 建物は、洋画家中西利雄(1900~48年)が建設した。設計は戦前戦後に活躍した建築家山口文象。中西はアトリエの完成を見ず亡くなったが、彫刻家イサム・ノグチや高村に貸し出された。建物を管理していた中西の長男・利一郎さんが2023年に他界。解体の話が出る中、有志らが保存活動を始めた。
 利一郎さんの知人で「保存する会」の曽我貢誠さん(72)=東京都=は、詩人の草野心平や佐藤春夫らも訪れた貴重な建物とし、「高村が戦争を賛美する作品を書いた過去の責任を感じながら、像の制作に没頭したという背景もあり、大切な歴史的遺産だ」と保存の意義を強調する。
 会は行政や民間に支援を求めながら、4千筆超の署名を集めてきた。クラウドファンディングも視野に入れており、縁のある青森県民の支援にも期待する。
 会には七戸町出身で都内に住む山田安秀さん(61)も参加している。「乙女の像は十和田湖の思い出の象徴だ。十和田湖は歴代の知事や市町村長の尽力、今年没後100年を迎える大町桂月ら県外出身の恩人のおかげで全国に知られた。脈々と続く歴史の流れにも思いをはせながら、保存の意義を考えたい」と語った。
 署名は「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」のサイト(https://save-atelier-n.jimdosite.com/)から。問い合わせは曽我さん(電話090-4422-1534)へ。
▽「美、愛、平和」 像に託す
 東京生まれの高村光太郎は、妻・智恵子を1938年に亡くした後、空襲に遭い岩手県花巻市に疎開。戦後、青森県から、十和田湖畔に設置する記念碑の制作を依頼されたのを機に、帰京を決意した。
 「高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会」代表の小山弘明さん(60)=千葉県=によると、東京・中野のアトリエは知人らが探し出した。余命がそう長くないと意識していた高村は、それまで使ったことのない助手を雇い、野辺地町出身の彫刻家小坂圭二(1918~92年)が制作を手伝った。
 高村は十和田湖を下見した際、当時の津島文治知事から「自由に創作を」とのお墨付きをもらい、制作に没頭。生涯をささげた「美」、智恵子への愛、平和への願いを像に託したとみられる。小山さんは「半年ほどの驚異的なスピードで作り上げた。自分が倒れた場合の代わりの制作者も指名していたほど」と、高村の当時の情熱を語る。
 完成した像は、十和田湖を世に出した文人大町桂月、知事の武田千代三郎、法奥沢村長の小笠原耕一をたたえ、湖畔に設置された。「乙女の像」として、今も地元の人や観光客に愛されている。
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なかなか保存も単純な話ではありません。単に建物を補修して残すというだけならそうでもないのでしょうが、ただ残すだけでは意味がありません。積極的且つ永続的に「生かす」ことが肝要です。何もない建物だけを公開したところで仕方がありませんし、ちょっとした展示を行い「××記念館」としたところでそう多くの来場者が来るとも思えません。「××記念館」という形にしている古建築が全国にありますが、そういったところは行政が管理運営を行い、採算度外視に近い形もまぁ許されるという状況でしょうが、中野区はそういう方向での支援は行ってくれません。

となると、レンタルスペースなどとして運用し、収益を上げ、それで運用していくしかないのかな、と考えています。その母体をどうするか、どのように使ってもらうか、そうそう借り手が現れるか、最低限の人件費や維持管理費等をまかなえる収益が上げられるかなどなど課題は山積しています。マッチング等を使って希望者を募り、民間で買い取ってもらい、流行りの古民家カフェ的な運用というのもありかもしれませんが、無茶苦茶な使い方をされるのも困りますし。

単なる思いつきでなく、実現可能性を充分に伴う解決策のご提案、さらにはご支援のお申し出、お待ちしております。

【折々のことば・光太郎】

何も持たず、仕事用のヘラだけ持つてゆくつもりです。留守中は村の人に小屋の管理をたのみます、来年原型完成次第又山に帰つて来る筈です。

昭和27年(1952)7月23日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎70歳

さすがに「ヘラだけ」というわけにも行きませんでしたが、それでも中西アトリエにはせいぜい洋服等を送ったくらいで、ほとんどの家財道具や蔵書などは花巻郊外旧太田村の山小屋に残し、布団や調理器具など必要なものは都内で調達しました。住民票もそのままでした。

しかし、もはや山小屋暮らしに耐えられる健康状態ではなくなり、「乙女の像」完成後に一時的に帰村したものの、結局は中西アトリエに戻ることになり、終焉を迎えるわけです。

昨日は東京都中野区で、講演会「中西利雄 人と作品」を拝聴致しました。中西利雄は明治33年(1900)生まれの水彩画家。昭和23年(1948)、自身のため、建築家の山口文象に設計を依頼し、中野に建てたアトリエの竣工間際に急逝しました。せっかく建てられたアトリエは、遺族の手によって貸しアトリエとして運用され、昭和27年(1952)10月から光太郎もここを借り、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」をここで制作、昭和31年(1956)にここで歿しました。翌年の第一回連翹忌もここで執り行われました。

そのアトリエの元々の施主だった、中西利雄をメインに据えた講演会でした。会場は中野区産業振興センターさん。
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講師は茨城県近代美術館首席学芸員・山口和子氏。
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定員60名ということで聴講者を募ったのですが、飛び込みで来られた方も多く、また、我々スタッフは別枠でしたので、キャパ100ほどの会場がほぼ満席でした。
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昨年11月に近くのなかのZEROさんで開催した「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」の関連行事として行った講演会のうち、近代建築史家・内田青蔵氏と建築家の伊郷吉信氏による「水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」の際にもそうでしたが、当方、中西や我が国水彩画の歴史についてはそれほど詳しくなく、「なるほど、そうだったのか」の連続でした。

まず、中西以前。短命に終わった明治期の工部美術学校、その後の東京美術学校などでの水彩画の取り組み。
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元々の出発点が、油彩を描くための下書き的に水彩、さらに東京美術学校ではその過程もすっ飛ばして木炭デッサンからいきなり油彩という手順が主流となり、水彩画があまり定着しなかったそうで、きちんとした作品としての水彩画を描く画家が少なかったというようなお話。

その流れもあって、現代でも水彩は油彩より一段下に見られ続けているわけですが、考えてみれば素材や手法によって作品の価値が判断されるというのもおかしな話ではありますね。油彩だろうが水彩だろうが、いいものはいいわけですし、油彩だからというだけでありがたがるというのも変な話です。

そうした中で、水彩でもいいものが描けると頑張ったのが、中西ら。
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特に中西は不透明水彩(グヮッシュ)を活用するなどし、「水彩画の革新者」と称されるようになったそうで。その中西のパリ留学中の話、公設展への反撥から新制作派を旗揚げしたいきさつなども、非常に興味深い内容でした。
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そして、今日最初に書いた、中西歿後に光太郎がアトリエを借りた件についても。

当方も幹事となり、アトリエの保存運動を展開しておりますが、元々の施主・中西についてももっともっとその功績が世に知られてほしいものだと、今さらながらに感じさせられました。

皆様方に置かれましても、改めましてご協力いただけますようお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

今年の初雪がやつて来て二尺近くつもりました。まだ降つてゐます。雪の中から白菜やキヤベツを掘り出して囲ふやら穴蔵の始末で大忙がしです。


昭和26年(1951)11月26日 草野心平宛書簡より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。この年は雪の降り始めが早く、11月中に既に大雪。ただ、12月に入ると逆にあまり降雪は多くなかったようです。

1年後の冬は東京中野で迎えることになるとは、この時点の光太郎には思いもよらなかったでしょう。

今日のお題は「地方紙及び自治体等広報誌より」とさせていただきました。

まずは地方紙、といっても『東京新聞』さんですが、東京も一地方ですね。光太郎終焉の地・中野区の山口文象設計による貸しアトリエの元々の施工者だった新制作派の水彩画家・中西利雄についての講演会予告記事です。

水彩画の革新者・中西利雄の生涯や芸術を深掘り 中野で15日に講演会

 東京都中野区ゆかりの水彩画家で「水彩画の革新者」と呼ばれた中西利雄(1900~48)の生涯や芸術を掘り下げる講演会「中西利雄 人と作品」が15日、中野区産業振興センター3階(中野2)で開かれる。「中野たてもの応援団」主催。
 中西利雄は現在の中央区生まれ。27年東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科卒業。関東大震災後、中野区内に居を構えた。近代的水彩画法を編み出したことで昭和の水彩画史に足跡を残した。
 現在も区内に残るアトリエは、後に詩人で彫刻家の高村光太郎が晩年滞在し、制作の場として利用した。建築家ら有志が、アトリエの保存に向けて「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、保存活動を続けている。
 講師は中西利雄研究の第一人者で、茨城県近代美術館の山口和子主席学芸員。
 午後2~4時、定員60人。参加無料。事前申し込みは同応援団の十川(そがわ)さん=メール=y-sogawa@tubu.jp、電090(8056)0327=へ。

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続いては、岐阜県白川町さんの広報誌『広報しらかわ』今月号に載った『町立図書館 楽集館だより』から。

館長だより▼2月に寄せて

 寒さ厳しい2月になりました。旧暦名では如月(きさらぎ)です。寒い時期、衣(ころも)を更(さら)に重ね着すると言う意味から「衣更着」(きさらぎ)と言うようになったという説があります。そこで厳しい寒さで連想されるのが高村光太郎の詩『冬が来た』です。「きっぱりと冬が来た」で始まる光太郎の詩は鋭利な刃物を連想させるような、透き通る簡潔な表現で、冬をよく表しています。彫刻家でもある光太郎は余分なものを削ぎ落とす作業を通して「冬よ僕に来い」と冬と対峙している鋭い姿勢を見せています。読み手の襟を正すような冬を代表する詩です。
 また冬は空気が澄んで星が綺麗に見える季節です。寒さで丸まった背中を伸ばして空を見上げてみましょう。凍てついた空に無窮の宇宙を感じることと思います。そこでお薦めするのが宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』です。(星まつりの夜のお話なので季節は違いますが)列車に乗りながらの星めぐりは空想を駆り立てることと思います。『銀河鉄道999』や『千と千尋の神隠し』は『銀河鉄道の夜』の影響を受けた作品です。それだけ魅力ある作品と言えるでしょう。
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「冬が来た」というより、もういいから行ってくれ! という時期ですが(笑)。

光太郎と縁の深い宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」にも言及。たしかにこの時期、星がきれいですね。当方、毎朝「朝メシよこせ~」と言う愛猫に夜明け前に起こされ、ベランダからまだ明けやらぬ星空を眺めますが、千葉の田舎ですので光害もほとんどなく、よく晴れた日にはゆっくりと空を横切る人工衛星も見えるくらいです。

もう1件、長崎県雲仙市さんの広報誌『広報うんぜん』、やはり今月号です。

ぽつり(広報担当の独り言)

 年男の誓いを書いたのが2年前。あっという間に50になる年を迎えてしまった。こんな勢いで年を取るとは。中学時代に習った高村光太郎の「道程」が、最近やけに脳裏をかすめる。
 「僕の前に道はない僕の後ろに道は出来る」。常に開拓者であれと、エールのような言葉と受け取っていた。自分の後ろにはどんな道が出来ているんだろう。怖くて振り返ることができない。20代、30代のころに見ていた50代の先輩は、もっと凜として堂々として、「ザ・大人」という雰囲気の人ばかりで、ずっと背中を追いかけていた。今、自分がそんな大人になれているだろうか。私の背中は、後輩の目にどう映っているだろうか。
 恐る恐る20代の同僚にぼやいてみた。返ってきたのは「それに気付くだけでも成長しているってことじゃないですかね」ですって。参った。慰めにも似た悟りの言葉。俺より大人じゃん。そうだ、振り返るにはまだ早い。「やたらと計算するのは棺桶に近くなってからでも、十分出来るぜLIFE IS ON MY BEAT」。高村光太郎からの氷室京介コンボ。中学時代から変わらぬ脳みそと心意気だけで全力疾走することを、1カ月遅れの年初の誓いとします。(亮)
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広報担当氏、「道程」から氷室京介さんの「ON MY BEAT」を連想なさっていますが、世代の違いでしょうか、当方は中島みゆきさんの「断崖-親愛なる者へ-」を連想します。「走り続けていなけりゃ倒れちまう/自転車みたいなこの命転がして/息はきれぎれそれでも走れ/走りやめたらガラクタと呼ぶだけだ、この世では」(笑)。

岐阜県白川町さんにしても、長崎県雲仙市さんにしても、光太郎とは関わりのない街です。それでもこうして取り上げていただき、ありがたいかぎりです。他の自治体の方々もよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

上の原の写真は皆焼かれてしまつたのでせう。あの湯の小屋の入浴中の写真などおもしろかつたですが。 九年もたつたとは小生にも感じられません。


昭和26年(1951)10月31日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎69歳

戦時中の昭和17年(1942)10月、詩人の西山、同じく風間光作と3人で群馬県の宝川温泉から湯の小屋温泉を訪れた思い出に関わります。光太郎、宝川温泉の方は昭和4年(1929)に続き、2度目の訪問でした。

下記は宝川温泉でのショット。一緒に写っているのは宿の主人・鈴木重郎。西山か風間のどちらかがシャッターを切りました。光太郎の手元にも同じ写真があったはずですが、戦災で焼けてしまいました。光太郎の入浴中の写真、ぜひ見てみたかったと思いました(笑)。
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下記は湯の小屋温泉の古絵葉書。
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光太郎が訪れた当時、鄙びた温泉地でしたが、バブル期にはリゾートホテル、ペンション等も建ち、今も宿の軒数は多く存在します。ただ、バブル崩壊後に廃業した所も多いそうです。逆に、廃校となった分校の木造校舎を使った宿も新たにオープンしたりしています。由緒がありそうなのは「照葉荘」という宿。重厚な木造和風建築で、おそらくここに光太郎が逗留したのではないかと思われますが、詳細は不明です。泉質は単純泉、高温の湯で知られ、一帯は奥州藤原氏ゆかりの落人部落との伝説があります。

風間の回想に依れば、光太郎が語った話として、最初に光太郎が訪れた昭和4年(1929)、宝川から湯の小屋までの山道を、熊と遭遇した際のために日本刀を腰に差して歩いたとのこと。さすがに東京から刀を持って汽車に乗って行ったとも思えず、宝川で借りたのではないでしょうか。古武士のような風貌の光太郎、帯刀姿もさまになっていたのではないかと思われます(笑)。






















当方も幹事を務めさせていただいている「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」が協力して行う講演会です。光太郎終焉の地・中野区の山口文象設計による貸しアトリエの元々の施工者だった新制作派の水彩画家・中西利雄について。当然、光太郎やアトリエの保存運動にも関わる内容となるでしょう。主催は中野たてもの応援団さんです。

講演会「中西利雄 人と作品」

期 日 : 2025年2月15日(土)
会 場 : 中野区産業振興センター 東京都中野区中野 2-13-14
時 間 : 14:00~16:00
料 金 : 無料
講 師 : 茨城県近代美術館首席学芸員 山口和子氏

昨年11月10日から11月18日まで開催された「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」展示会&講演会には多くの皆様にご参加いただきました。その後、中西アトリエの施主であった画家中西利雄についてもっと知りたいというリクエストにより、講演会を開催することになりました。皆さまのご参加をお待ちしております。

桃園川緑道沿いに片流れ屋根の簡素なアトリエが残されています。これは第二次大戦中の建物疎開でアトリエを壊された中西利雄が、その再建のため着工させたものです。しかし中西は病のためアトリエの完成直前に死去。後に高村光太郎が制作の場としました。関東大震災後当地に住み、水彩画の革新者といわれた中西利雄についてご紹介いただきます。
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アトリエの保存運動に関しては、以下をご覧下さい。

 「高村光太郎ゆかりのアトリエ@中野」。
 都内レポート 東京書作展選抜作家展2024/中野アトリエ保存委員会。
 「光太郎のアトリエ残す 所有者死去 関係者が知恵」。
 『中野・中西家と光太郎』。
 中野アトリエ保存運動関連、署名をお願いいたします。
 文治堂書店『とんぼ』第十八号 その2 中西利雄アトリエ保存。
 中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会 意見交換会。
 中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会ホームページ開設。
 中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会 署名用紙。
 「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」。
 本日開幕です、「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会。
 閉幕まであと4日「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会動画。
 『東京新聞』TOKYO発2024年NEWSその後 1月12日掲載 高村光太郎ゆかりのアトリエ危機。

皆様のご参加、心よりお待ち申し上げております。

【折々のことば・光太郎】

道程初版の「志」「し」の仮名遣ひは内藤鋠策君の趣味によるもので、行の頭に来るものはすべて「志」を使ひ、下に来るものは「し」を使つたのです。下らぬ好みですから、どちらでもいいです。


昭和26年(1951)8月20日 草野心平宛書簡より 光太郎69歳

中央公論社版『高村光太郎選集』の編集に当たっていた、当会の祖・心平からのレファレンス依頼への返答です。

明治・大正の頃は、活字の場合でも変体仮名的に使う場合がありました。「し」を「志」、「こ」を「古」などで。光太郎自身も書き癖で「み」を片仮名の「ミ」とすることが多くありました。書の場合には「お」が「於」、「ひ」に「比」をあてる場合なども。

初版『道程』(大正3年=1914)での「志」、該当箇所はこんな感じです。
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このブログサイトでご紹介すべき昨年いろいろあった事柄のうち、主なものは昨年のうちに何とかご紹介し終えましたが、中には越年となり申し訳なく思うものも。

そのうち『東京新聞』さんで12月27日(土)に掲載された記事。

TOKYO発2024年NEWSその後 1月12日掲載 高村光太郎ゆかりのアトリエ危機 俳優・渡辺えりさんら尽力 保存活動

 2024年も残りわずか。TOKYO発では今年も街のトレンドや知られざる地域の歴史、ヒューマンストーリーなど、多彩な話題を取り上げてきた。今日は「その後」を――。
 中野区に残る、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883〜1956年)ゆかりのアトリエの所有者が亡くなり、存続の危機にあると1月12日に紹介した。
 アトリエは洋画家の中西利雄(1900~48年)が建てた。光太郎は晩年の52~56年に暮らし、十和田湖畔にある代表作「乙女の像」の塑像などを制作した。
 記事の掲載後、若手建築家をはじめ、さまざまな立場の人から保存・活用法の提案が寄せられたという。有志らは4月、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、署名活動を始めた。
 会の代表に就いたのは、俳優で劇作家の渡辺えりさん。えりさんの父は生前光太郎と交流があり、えりさん自身も光太郎の半生をもとに戯曲を書いた縁などから引き受けたという。
 11月、会は区内でアトリエを紹介する展示を行い、講演会を開催。えりさんは「光太郎の肌合いが残る場所が中野区にあるのはすごいこと。何とかいい形で保存できないか」と語り、「生きるための糧の一つとして文化芸術がある」と理解を求めた。
 今後、会は区への働きかけや新たな講演会の企画など、地道に活動を続ける。署名への協力などは会の名前で検索。
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昨年1月12日の記事はこちら

中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」サイトはこちら。当方も幹事を務めさせていただいております。こちらからインターネット署名も可能ですので、よろしくお願い申し上げます。

アトリエを紹介する展示」は11月10日(土)~19日(月)の日程で行いました。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 本日開幕です、「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会。
 閉幕まであと4日「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会動画。

新たな講演会」は、2月15日(土)の予定です。詳細が決まりましたらまたお知らせいたしますが、とりあえず中西利雄に特化した内容となるとのこと。

また、クラウドファンディングを立ち上げ、ご支援を募ることも視野に入れております。そうなりました場合には、ぜひともよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

小生旧臘来肋間神経痛といふ厄介なものにひつかかり、一ヶ月近く小屋を留守にいたし、病院長さん邸や温泉などに滞在、最近、雪中を橇で帰つてまゐりましたがまだ病気は残つてゐます、字を書くと病気にひびくのでテガミや原稿がかけずにゐます、


昭和26年(1951)2月26日 西出大三宛書簡より 光太郎69歳

肋間神経痛」は結核性のもの。結核も抗生物質の普及により、戦前ほどは怖れられる病ではなくなりましたが、さりとてもはや完治は不能でした。約5年後には光太郎の命を奪います。

病院長さん」は、宮沢賢治の主治医でもあった佐藤隆房、「温泉」は大沢温泉さん。1月23日から2月2日まで、かなり長く滞在しました。

平成31年(2019)に起きた大火災からの修復工事が終わり、12月8日(日)に一般公開が再開されたパリ・ノートルダム大聖堂と、大正10年(1921)に留学中の体験をベースに書かれた光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」に関わる件で、2つ。

まずは『産経新聞』さん、12月11日(水)掲載のコラム。

<産経抄>「連帯」もたらす福音となるか、再建かなったノートルダム大聖堂

002高村光太郎といえば、亡き妻をしのぶ純愛の詩集『智恵子抄』が思い浮かぶ。智恵子と出会ったのは明治44(1911)年の暮れだった。光太郎はしかし、その2年前まで滞在していたパリで、ある〝女性〟に心を奪われていた。▼ご執心だったようで、その人のもとへ日参したと打ち明けてもいる。<外套(がいとう)の襟を立てて横しぶきのこの雨にぬれながら、あなたを見上げてゐるのはわたくしです。毎日一度はきつとここへ来るわたくしです。あの日本人です>と詩の一節にある。▼その女性はいまも、「私たちの貴婦人」の名で人々に愛されている。ノートルダム大聖堂である。光太郎がありせば、思いを寄せた人の悲運と恋敵の多さに色を失ったかもしれない。5年前の火事で尖塔(せんとう)などが焼けた後、悲嘆は世界に広がり1300億円を超す寄付が集まった。▼再建を記念して開かれた先日の式典では、各国首脳やトランプ米次期大統領らが列席した。ポピュリズムの台頭で政治的な窮地に立つフランスのマクロン大統領は、大聖堂を「連帯」の象徴として位置づけようとした節がある。現実はどうだろう。▼光太郎が滞在した頃のパリは、あらゆる人種や思想、芸術文化に寛容な街だった。いまのフランスは移民の増加で社会がひずみ、少数与党の内閣が総辞職するなど政治も混乱する。心のよりどころとされる大聖堂の再建を横目に、人々を分かつ亀裂の修復は簡単ではないようだ。▼大聖堂前の広場には、距離の起点となる道路元標が置かれている。いわばフランスの中心点である。大聖堂は再び、迷走する社会の結び目となるだろうか。今年は、わが国をはじめ世界各地でも政治が揺れた。できれば、再建の福音にあやかりたいものである。

せっかくの復旧が政治的な駆け引きの道具にされることの無いようにしてほしいものですが……。

続いて白水社さんから出ている雑誌『ふらんす』今月号。「世界遺産、ノートルダム大聖堂」という特集が組まれ、建築史がご専門の三宅理一・東京理科大学客員教授と仏文学者の鹿島茂氏の玉稿、日本科学未来館さんで開催中の「特別展 パリ・ノートルダム大聖堂展 タブレットを手に巡る時空の旅」のレポートが載っています。
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そのうち、鹿島氏の「ノートルダム大聖堂と原始の森」が、「雨にうたるるカテドラル」考察を含みます。氏が注目されたのは、「あの日本人です。」のリフレイン。「日本人」の語がなければパリジャンが書いた詩といっても通る「普遍性」があるとし、「あの日本人です」と繰り返すことで「特殊性」も併せ持つ詩だ、というご指摘。さらに今回焼け落ちた木造部分から「原始の森」へと発想を飛ばし、「森」といえば日本人、的な。

三宅氏の「よみがえるノートルダム大聖堂」も、建築大好き人間としては実に興味深い内容でした。元々がどういう建築だったのか、火災の状況や修復の過程など、わかりやすくまとめられていました。

ところで雑誌『ふらんす』さん。かつては光太郎も寄稿したことのある雑誌で、その意味でも驚きました。失礼ながらまだ健在だったんだ、と。『中央公論』さん、『文藝春秋』さん、『婦人之友』さんなど、そうした例は他にもありますが、それらと異なり、不躾とは存じますがメジャーな雑誌ではありませんので。

光太郎の寄稿は昭和16年(1941)6月の第17巻第6号。「日夏耿之介著 英吉利浪曼象徴詩風を読んで」という短文でした。それに先立つ同12年8月の第13巻第8号広告欄に出たアーサー・シモンズ著、宍戸儀一訳「象徴主義の文学」広告にも光太郎の短評が出ていますが、こちらは寄稿という訳ではない感じです。

で、今月号が第99巻第12号。末永く続いて欲しいものです。末永く、といえば、ノートルダム大聖堂自体も、もちろんです。

【折々のことば・光太郎】

もう山も秋、明月にはひとりで酒をくみ、雉子の飛ぶ羽音をききながら心ゆくまで観月しました、数里に及ぶススキの原はまるで海です、


昭和25年(1950)9月30日 藤間節子宛書簡より 光太郎68歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺の森、光太郎はパリ郊外のフォンテーヌブローの森になぞらえることもありました。

先週の話になりますが、妻と二人で茨城県笠間市に行きました。

別に笠間でなくてもよかったのですが、妻のリクエストが以下の通りで、そうなると笠間かな、というわけで。
 ① 気合いの入ったモンブランが食べたい
 ② 美味しい新蕎麦が食べたい
 ③ 御朱印が欲しい
 ④ 紅葉も見たい

笠間は以前にも何度か足を運びました。昨年にはやはり妻と隣接する水戸市の偕楽園さんで梅を見た後、笠間に移動して、光雲・光太郎父子の作品も出ていた茨城県陶芸美術館さんでの「生誕150年記念 板谷波山の陶芸 帝室のマエストロによる至高のわざ」を拝観。それ以外にも笠間稲荷さん、常陸国出雲大社さんに御朱印をもらいに行ったりしたこともありました。また、自分一人では日動美術館さんにお邪魔したことも。千葉の自宅兼事務所から車で1時間程です。

さて、まずは旧岩間町の愛宕神社さんに。
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この日、午前中は霧が深く、その分神秘的といえば神秘的でしたが、晴れていたら見えたはずの関東平野の眺望が拝めず、そこは残念でした。

入母屋造の大きな拝殿と、奥には流造の本殿。拝殿の飾り彫刻も見事でした。左右に鶴でしょうか。
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その上、中央には龍。しかし濃霧でよく見えませんでした。
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拝殿に入れていただくと、この地に残る天狗伝説にちなみ、奉納された巨大な天狗面が多数。
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妻はこちらで御朱印を頂き、ミッション③はクリア。

さらに本殿奥の摂社と思われる飯綱神社さんには銅製の見事な六角殿が。
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ちょうど先日、荒川区で「鋳造のまち日暮里—銅像の近代—」展を観覧したばかりで、興味深く拝見しました。江戸期には既にここにあったそうですが。

下山して笠間駅近くへ。スマホの検索画面で探した蕎麦屋さんを見つけ、ミッション②もクリア。

続いてミッション④、紅葉を見に、ということで、日動美術館さんの分館と位置づけられている「春風萬里荘」さんへ。北大路魯山人が北鎌倉でアトリエとして使っていた農家建築です。昭和40年(1965)に笠間に移築されました。

ちなみにイサム・ノグチは魯山人に陶芸を学ぶため、元々この建物のあった北鎌倉に移り、それまで借りていた中西利雄アトリエの契約を解除しました。その後に光太郎が「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、同アトリエに入ったといういわくもあります。
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魯山人と光太郎、明治16年(1883)の同年生まれです。しかも、誕生日が光太郎は3月13日、魯山人は3月23日と10日しか違いません。ところが、二人の間に直接的な交流は無かったようで、『高村光太郎全集』に魯山人の名は見あたりません。どこかで顔を合わせたりしたことはあるんじゃないかな、などとは思うのですが。

また、直接の縁はなくとも、中西利雄・高村光太郎アトリエの保存運動のからみもあり、この手の建築は見ておきたいと常々考えております。

そんなことを考えながら受付の券売機で入場券1,000円×2を購入し、少し歩いて建物へ。
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この段階ですでに紅葉が見事です。
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茅葺きの屋根が実にいい感じですし、破風まで茅葺きとは恐れ入りました。

入口に掲げられた扁額を見て、仰天。
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署名をたしかめるまでもなく、見た瞬間に、当会の祖・草野心平の字です。
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建物内には額に写す前の直筆も掲げられていました。
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そういえば、日動美術館さん本体にも心平の扁額があったっけと思い出しました。日動画廊の創業者、長谷川仁と交流があったのでしょう。

直筆の方にはキャプションも。
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ここで光太郎や宮澤賢治、萩原朔太郎の名を目にするとは思っていませんでした。

ちなみに玄関の扁額の上、破風の下には貂(てん)の木彫。最初、猫かと思ったのですが、しげしげ見ていたら係員の方が貂だと教えて下さいました。
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さて、改めて建物内。

魯山人が実用していたという衣桁。
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こちらもいい感じの木彫が施されています。

魯山人の陶芸作品。
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唐獅子の釘隠や杉戸などは当時のものなのでしょう。
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芹沢銈介の幅、中村不折の書などはあとから日動さんによって持ち込まれたものかな、と思いました。
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庭もいい感じでした。
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正面向かって右側の茶室は魯山人の設計だそうで。
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逆サイドには元々厩だったエリア。同じ屋根の下に厩があるのは東北の曲屋に似ています。
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素朴なステンドグラス。左は内側から、右は屋外から撮影しました。
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ここには日動さんによる様々な彫刻作品が展示されていて、それは存じませんでした。
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左上は朝倉文夫、右上で藤井浩佑、左下が澤田政廣、右下には北村四海。それぞれ光雲・光太郎父子と大なり小なりの縁はありました。
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さらに奥には魯山人作の、何と便器(笑)。
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ひととおり内部を拝見した後、外の庭園へ。
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少し離れた場所には長屋門もありました。
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そんなこんなでミッション④、紅葉もクリア。

最後にミッション①、「気合いの入ったモンブラン」。道の駅かさまさんでいただきました。ただし、ここはセコく、二人で一つ(笑)。
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素麺か冷や麦のように見えますが、特産の栗がふんだんに練り込まれています。美味でした。

茨城県、都道府県魅力度ランキングでは毎回のように最下位ですが、こういういいところもいろいろあります。ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

一、お茶  [七月廿五日発送] 一、クマゼミ[シヤンシヤン蟬] 一、香水線香 右受領候也 七月廿八日 クマゼミ無事到着、立派です、

昭和25年(1950)7月28日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎68歳

「クマゼミ」は木彫にしたいということで、関東には生息していませんので、静岡にいた澤田(『智恵子抄版元の龍星閣主』)に送ってくれるよう、戦時中から頼んでいました。

11月10日(日)~18日(月)の日程で開催しました「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。

中野たてもの応援団さん主催で、当方も幹事に名を連ねています中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会の協賛。保存運動の起こっている、光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた展示でした。

地味な展示であまり宣伝も行き届かず、大盛況とは行きませんでしたが、それでもそれなりに多くの方にお越し頂き、有り難く存じました。会期中に『東京新聞』さんに取り上げていただいたのも大きかったようです。

個人的にも必死に宣伝しましたところ、旧知の皆さん、SNSで繋がっている方々などの御来臨を賜り、恐縮至極でした。また、新たに人脈を広げることもでき、嬉しい限りです。

関連行事として2本の講演が行われ、その模様がYouTubeに上がっています。SNSにはアップしましたが、こちらのサイトには出していなかったので、貼り付けておきます。

まず
11月10日(日)、劇作家・俳優にして中西アトリエを保存する会代表の渡辺えりさんと、当方によるトークショー「連翹の花咲く窓辺……高村光太郎と中西利雄を語る」。



さらに、11月11日(月)、建築がご専門のお二人、内田青蔵氏(近代建築史家・中野たてもの応援団団長)、伊郷吉信氏(建築家・自由建築研究所・伝統技法研究会)によるご講演「中西アトリエの魅力…水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」。


アトリエ保存のための一石を投じたことになっていれば、と願っております。

また、来月には中野区役所新庁舎ロビーにおきまして、今回展示したもろもろのうち、解説パネルをセレクトしての展示が行われる方向です。また詳細が入りましたらご紹介致します。

【折々のことば・光太郎】

独学の人は自分免許が危険です、ひとりでいい気になってゐる事が怖いです、

昭和25年(1950)6月17日 多田政介宛書簡より 光太郎68歳

なるほど、肝に銘じます。

保存運動の起こっている、光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた、中野たてもの応援団さん主催の展覧会「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」、折り返しを過ぎまして、今日を含めてあと4日となりました。

初日(11月10日(日))には関連行事としまして、
劇作家・俳優にして中西アトリエを保存する会代表の渡辺えりさんと、当方によるトークショー

その翌日、11月11日(月)には、
建築がご専門のお二人、内田青蔵氏(近代建築史家・中野たてもの応援団団長)、伊郷吉信氏(建築家・自由建築研究所・伝統技法研究会)によるご講演「中西アトリエの魅力…水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」が行われました。
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内田氏は主にアトリエ設計者である建築家・山口文象に関して。

伊郷氏は施主だった水彩画家・中西利雄と、完成したアトリエについて。
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山口と中西利雄に関しては、当方もあまり詳しくありませんので、実に参考になりました。

下記は展示されているパネルをプリントアウトしたもの。
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展示と言えば、アトリエに関しては詳細な図面等も展示してあります。
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模型も。
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渡辺えりさんとお父さまの光太郎や中西アトリエに関するコーナーも新設しました。
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昨日の『東京新聞』さん。

「存続危機のアトリエ知って」 中野で企画展 18日まで 高村光太郎も晩年滞在

 中野区内に点在するアトリエ建築を紹介する企画展「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」が、中野ZERO西館2階の美術ギャラリー(中野2)で開かれている。18日まで。
 中野には、戦前から若い芸術家らが豊かな風景を求めて移り住み、制作活動の場として多くのアトリエが建てられた。企画展は、アトリエの記録を残そうと、区内で歴史的建造物の保存や調査活動をする市民団体「中野たてもの応援団」が集めた資料など50点を展示する。2019年に続き2回目。
 区内に残る十数ヶ所のアトリエをパネル形式で紹介。中でも大正から昭和に活躍した洋画家で「水彩画の巨匠」と呼ばれた中西利雄(1900〜48年)のアトリエ(中野3)については、写真や図面、模型なども展示して詳しく解説している。
 中西のアトリエは、一方向に傾斜する片流れ屋根の木造一部2階建て。天井が高く、日光が安定して差し込むよう北側に大きな窓があるのが特徴だ。詩人で彫刻家の高村光太郎(1883〜1956年)が晩年の3年半滞在し、代表作「乙女の像」の塑像を制作した。光太郎をしのぶことができる建築は都内では中西アトリエが唯一とされ、貴重な建築という。光太郎の手紙やデッサンなども並ぶ。
 同団事務局の十川(そがわ)百合子さんは「中西アトリエをはじめ多くのアトリエが所有者が亡くなるなどして存続の危機にある。今も街の中に残るアトリエをギャラリーなどとして活用できたら」と話している。
 入場無料。午前10時〜午後6時(最終日は午後4時まで)。会場では中西アトリエ保存を求める署名も受け付けている。

無題2無題
昨日、といえば、中野区長さんもいらっしゃいました。
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11月18日(月)まで。通常、18:00までですが、最終日は撤収作業のため公開は16:00で打ち切ります。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

イサム ノグチ氏来朝の由で愉快ですがやはり小生は東京へ行けさうもありません。同氏のオブジエは立派だと思ひます。


昭和25年(1950)5月29日 笹村草家人宛書簡より 光太郎68歳

彫刻家イサム・ノグチは、明治37年(1904)、詩人にして英文学者の野口米次郎と、アメリカ人作家レオニー・ギルモアとの間に、アメリカロサンゼルスで生まれました。父は光太郎とも交流があり、後年、ノグチ自身も光太郎の知遇を得ることとなりました。

3歳の時に来日し、幼少期を日本で過ごし、造型作家となることを夢見るようになって、14歳で再渡米、周囲の勧めもあり彫刻の道へと進みます。かつて光太郎が留学中にその助手を務めた彫刻家ガットソン・ボーグラムに弟子入りするも、そりが合わず訣別して独立。パリに留学してコンスタンティン・ブランクーシに師事。その後はニューヨークに拠点を置きつつ、日本を訪れて陶芸を学ぶなどしました。太平洋戦争開戦後は日系人ということで収容所生活も経験。スパイや二重スパイの嫌疑をかけられ、多大な苦労をしたとのこと。

戦後、昭和25年(1950)に再来日し、同36年(1961)まで日本に滞在。その間、李香蘭こと山口淑子と結婚、一時、中西アトリエを借りて彫刻制作を行いました。彫刻以外にもアメリカ時代からインテリアデザインに興味を持ち、日本で丹下健三、谷口吉郎らの建築家と親しく交わって、庭園設計なども行った他、採用されなかったものの広島の原爆慰霊碑の設計にも取り組みます。また、中西アトリエを出て鎌倉に移り、北大路魯山人に陶芸を学んだりもしています。

その後に光太郎が中西アトリエを借りたわけです。

昨日開幕した、保存運動の起こっている、光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた、中野たてもの応援団さん主催の展覧会「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱの関連行事として企画した、渡辺えりさんと当方によるトークショー的な講演会、「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」。つつがなく終わりました。
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高村光太郎とは何者だ? というような話から、実際に生前の光太郎と交流がおありだった戦時中や戦後の御両親のお話、お父さまが連翹忌や花巻の高村祭にご参加下さったお話、ご自身も小さい頃から光太郎詩を子守唄代わりに聞かされて育ったお話、舞台やテレビで光太郎を取り上げたお話、そして中西利雄アトリエを受け継がれた子息・利一郎氏とのご交流、さらにはその中西利雄アトリエを保存していこうじゃないかというようなお話などなど。

当方はPCでスライドショーの操作をしながらだったので座らせていただきましたが、えりさんはスクリーンの前にずっと立ちっぱなしで熱く語られた約2時間でした。

聴かれた方にはおおむね好評だったようで、胸をなで下ろしております。

ところで、ここで書くべきかどうか……とも思ったのですが、書きます。

えりさん、お母さまがご危篤ということで、故郷の山形に帰ってらしたのですが昨日はこのイベントのために上京。そしてイベント終了後の20時38分、そのお母さまが亡くなったそうです。
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そのお母さまのお話もしていただきました。戦後の昭和25年(1950)11月、若かりしお母さまは蓄膿症の手術を受け、山形の病院に入院されていたそうです。すると、御結婚前だったお父さまが病院の窓から現れ「高村光太郎先生の講演会が山形でこれから開かれるから、聴きに行こう」と、お母さまを病院から半分無理矢理連れ出したとのこと。その講演自体は音響が良くなく、あまり聴き取れなかったそうですが、お母さまもお父さまの影響で、光太郎ファンとなられ、のちに還暦の祝の引き出物には光太郎の詩集『智恵子抄』を皆さんに配られたなどというお話も。

お母さまの最期に立ち会わせて上げられなかったという意味で、えりさんには誠に申し訳ないのですが、それでも、こうして御両親のお話をなさったその日に亡くなられたお母さま、先に逝かれたお父さまともども、きっとえりさんに「よくやった」とおっしゃって下さっているのでは、と思います。

以下は昨日のスライドショーからの画像。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

尚、「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」の関連行事としての講演会第二弾、建築家の内田青蔵氏(近代建築史家・中野たてもの応援団団長)、伊郷吉信氏(建築家・自由建築研究所・伝統技法研究会)によるご講演「中西アトリエの魅力…水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」が、本日18:30~で、アトリエ展会場のなかのZEROさんにて行われます。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小生明日花巻に出で、明後日役場の二階で美術講話をいたす事になつて居ります、地方に居りますとかやうの事も已むを得ぬ場合が時々ございます、


昭和25年(1950)5月12日 松下英麿宛書簡より 光太郎68歳

光太郎、自分は戦争責任を恥じての蟄居中なので、あまり人前に出るのは気が進まないという感じでしたが、その人品骨柄を慕う人々から「ぜひご講演を」という依頼は引きも切りませんでした。

光太郎が講演を行った当時の花巻町役場の建物、移築されて現存しています。
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保存運動の起こっている、光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた、中野たてもの応援団さん主催の展覧会「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」、本日開幕です(11月18日(月)まで)。

昨日は会場のなかのZEROさん西館美術ギャラリーにて、展示物の搬入と会場設営を行いました。

作業風景。
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壁面にはパネル展示で、中西利雄ついて、建築としての中西利雄アトリエの解説、中西利雄の没後に貸しアトリエとなってから借りたイサム・ノグチ、光太郎について。
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それから、光太郎をメインに据えて下さると云うことで、中西家からお借りしたものプラス当方手持ちの品々を持ち込みました。
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展示ケースも4台ありましたので、そちらにも。
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彫刻家としての光太郎関連。
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詩人としての側面から。
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中西アトリエでの光太郎。
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他の美術家のアトリエについてもパネル展示で。
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今日は初日ですが、いきなり14:30からこの場で関連行事としてのトークショー「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」を行います。劇作家・俳優にして中西アトリエを保存する会代表の渡辺えりさんと、当方による丁々発止(笑)。

さらに11月11日(月)、18:30~20:30には、建築がご専門のお二人、内田青蔵氏(近代建築史家・中野たてもの応援団団長)、伊郷吉信氏(建築家・自由建築研究所・伝統技法研究会)によるご講演「中西アトリエの魅力…水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」。

すべて入場無料です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小生ますます山男となり、最低生活をよろこんで居ります、低きに居るものの幸を味つてゐます、


昭和25年(1950)4月27日 宅野田夫宛書簡より 光太郎68歳

言葉通り、上級国民としてではなく、最底辺に近い暮らしから世の中を見つめ続けていました。

2年半後に「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、中野の中西利雄アトリエに入りますが、この時点ではまだそうなることなど夢にも思っていなかったと考えられます。

少し先の話なのですが、ガンガン宣伝してくれと云う話ですので……。

中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ

期 日 : 2024年11月10日(日)~11月18日(月)
会 場 : なかのZERO西館美術ギャラリー2F 東京都中野区中野2丁目9-7
時 間 : 10:00~18:00 最終日のみ16:00まで
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

中野には創作活動の場であるアトリエが多くはありませんが残っています。残念ながら前回の展示会後に取り壊されてしまったものもあります。

桃園川緑道沿いに片流れ屋根の簡素なアトリエがありますが、ここで高村光太郎が「乙女の像」を制作しました。

アトリエという建築の魅力、活躍した人々をご紹介します。

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関連講演会
 各回定員60名 定員に達し次第締め切ります 無料
 
  ① 『連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る』
    11月10日(日) 14:30~16:30  会場:なかのZERO
     渡辺えり(劇作家・俳優・中西アトリエを保存する会代表)
     小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)

  
  ② 『中西アトリエの魅力…水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について』
    11月11日(月) 18:30~20:30 会場:なかのZERO
     内田青蔵(近代建築史家・中野たてもの応援団団長)
     伊郷吉信(建築家・自由建築研究所・伝統技法研究会)001


申込 : メール y-sogawa@tubu.jp

     申込フォーム 
     右記QRコード 

     電話 090-8056-0327(ソガワ)

というわけで、保存運動の起こっている光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた展覧会です。主催は中野たてもの応援団さん。

他に三岸好太郎・節子、棟方志功、彫刻家の木下繁、同じく長谷川昂、画家の萩原英雄らのアトリエ、土日画廊という歴史的建造物などについてのパネル展示が為されます。

中西利雄アトリエは、中西本人、それから中西没後に貸しアトリエとなってから借りたイサム・ノグチ、そして光太郎についてのパネル展示。さらに特に光太郎を大きく扱って下さるとのことで、当方手持ちの史料を大量にお貸しします。真作で彫刻(ブロンズレリーフ)や書簡、『道程』などの著書、複製ですが原稿、デッサン、色紙などなど。

また、関連行事としての講演会。初日の11月10日(日)に渡辺えりさんと当方で「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」と題したトークショー。当方が水を向け、渡辺さんにいろいろと語っていただき、専門的なところは捕捉、スクリーンにスライドショーを投影しつつ行います。

翌11月11日(月)には建築専門のお二人から建築としての中西アトリエのお話。個人的にはこれが実に楽しみです。

展覧会、講演会とも無料。ぜひ足をお運び下さい。これで中西アトリエ保存運動に大きく弾みを付けたいと存じますので。

【折々のことば・光太郎】

都会の人は殊に時々登山するといいと思ひます。登山の清らかなたのしみは比較するものもないやうです。


昭和24年(1949)8月24日 髙村規宛書簡より光太郎67歳

令甥・規氏の埼玉の低山に登ったという書簡への返信の一節です。若き日の光太郎はクラシックルートを歩いて信州上高地まで上ったり、上州赤城山にも再三登ったりしました。上州といえば山間部をほぼくまなくトレッキングし、法師、草津、湯檜曾、川古、磯部、伊香保、四万、水上、宝川などの温泉を踏破しています。

今年はじめから活動を始めました「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」。光太郎終焉の地にして、第一回連翹忌会場ともなった中野区の中西利雄アトリエの保存のための組織です。先頃、会としてのホームページも出来、去る9月4日(水)には5度目くらいの会合を開き、今後の活動等について確認いたしました。

再来週くらいには詳細情報を出せるかと存じますが、11月には中野区内でアトリエに関する企画展示を行うことに決定しました。関連行事として建築家の方による中西利雄アトリエの歴史的価値、設計者の山口文象について等のご講演、会の代表・渡辺えりさんと当方による光太郎や中西アトリエをとりまくもろもろについてのトークショーなどが予定されております。

ホームページ上では保存に賛同して下さる方に署名をお願いしており、電子署名、紙媒体による署名と双方を用意してあります。さらにカラー版のフライヤーを兼ねた署名用紙を作って下さった会員の方がいらっしゃいまして、下に載せておきます。
フライヤー
署名用紙カラー
事業所さんや店舗さん等の場合、可能であれば裏表で印刷していただいて、カウンターなどに置いていただき、いらした方に署名をお願いしていただけると助かります。

適当なところでFAXまたはスキャンデータでお送り下さるか、さらに用紙そのものを下記あて郵送して下さっても結構です。

 〒113-0031 文京区根津2-37-4-801 曽我貢誠

さらには保存運動につき、SNS他、さまざまな形で「こんな動きがあるよ」と拡散していただければ幸いです。各種マスメディアさん等の取材も大歓迎です。

中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会
Home | save-atelier-n (jimdosite.com)

どうぞよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

六月十一日には先日お送りした原稿にある通り裏山の展望台に立つて南方はるかに東京の空を眺めませふ。あなたの舞踊にのり移つた智恵子の事を思ひませう。帝劇で若し眼のあたりあなたの舞踊を見たら小生の眼は涙でくもつてしまふでせう。

昭和24年(1949)5月23日 藤間節子宛書簡より 光太郎67歳

六月十一日」は、舞踊家の藤間節子(のち黛節子と改名)が、帝国劇場で「智恵子抄」を含むリサイタルを行う日です。「原稿」はそのパンフレットに掲載されました。
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若干先の話ですが、申込締め切りが近いもので……。

第2回 文(ふみ)の京(みやこ)ガイドツアー 「Bーぐる」がゆく本郷台地~須藤公園から六義園~

期 日 : 2024年9月28日(土)
会 場 : (集合)須藤公園―島薗邸―旧安田楠雄邸庭園―宮本百合子旧居跡―
      高村光太郎旧居跡―動坂遺跡―鷹匠屋敷跡―天祖神社―名主屋敷―富士神社―
      東洋文庫―六義園(解散) 全行程約2㎞
時 間 : 10:00~11:30
料 金 : 無料(六義園内庭園ガイドツアー 一般300円、各種割引等ありは自由参加)
〆 切 : 9月10日(火) 電子申請又は往復はがき
       〒112-0003 文京区春日1-16-21シビックセンター1階文京区観光インフォメーション

須藤公園を出発し、Bーぐるの路線に沿って、六義園まで区公認の観光ガイドが案内します。
※1グループ2人まで ※事前に申込フォームの「ご利用にあたってのお願い」を確認のこと
※天候等により中止の場合あり
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「「Bーぐる」って何だ?」と思って調べたところ、文京区内を循環するコミュニティバスだそうでした。「文京区(Bunkyouku)」を「ぐるぐる」で「Bーぐる」。なるほど。で、それに乗って巡るのかと思いきや、全行程徒歩だそうです。「B―ぐるの通るコースを歩く」というコンセプトだとのこと。

区公認のガイドの方が同行されて、各ポイントの説明をして下さるそうです。文京区さん、そういうシステムが整っているという時点で、素晴らしいと思います。他の市区町村さんも参考にしていただきたいところです。自分のエリア内にある文化財等に無関心な自治体の何と多いことか。

そういう意味では「自治体ガチャ」というワードが思い浮かびます。元々は国会でも取り上げられた、子育て支援等の自治体間格差を指す語ですが、文化行政などについても言えるような気がします。子育て支援等で困る場合には、隣の自治体に引っ越すとかもありでしょうが(実際、そんなこんなで人口減少に歯止めが掛からない自治体、そこからどんどん人が流入している自治体がそれぞれ自宅兼事務所近くにありまして)、建造物等の文化財はその場所から動かすことが難しいので(これも、とある件をイメージして書いています。勘の鋭い方はお判りですね(笑))。

閑話休題。今回のガイドツアー、千駄木五丁目の光太郎旧居跡も行程に含まれています。昭和20年(1945)4月の空襲で灰燼に帰したアトリエ兼住居があった場所。
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戦後しばらくは更地で、玄関にあった大谷石の石段の残骸などは残っていたそうですが、その後、月極駐車場となっていた期間が長く、さらに現在は宅地になってしまっています。当時を偲ぶよすがは文京区さんの建てた案内板のみとなってしまいました。
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ついでにいうと、この手の案内板も、文京区では充実しています。

すぐ近くにはやはり今回の行程に入っている宮本百合子旧居跡。
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それから、こちらは今回の行程には含まれていませんが、団子坂上の「青鞜社発祥の地」。
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団子坂自体も。
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「青鞜」のそれと団子坂のそれには光太郎や智恵子の名が記されています。

このあたりもやっぱり「自治体ガチャ」ですかね(笑)。

それから、光太郎や宮本百合子の旧居跡の前には旧安田楠雄邸庭園がコースに含まれています。こちらは光太郎アトリエと指呼の距離ながら空襲の被害を免れ、健在です。
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ちなみに現在放送中のNHKさんの朝ドラ「虎に翼」のロケにも使われているそうです。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

頃日御尽力の県下国宝保存の運動は大に賛成でございます。一般の協力を望んで居ります。
昭和24年(1949)3月30日 森口多里宛書簡より 光太郎67歳

森口多里は美術評論家。昭和22年(1947)に開校した岩手県立工芸美術学校の初代校長を務めました。本来の業務以外にも文化財保護に尽力し、光太郎もそれに賛同していました。こういう人物がいないと文化財保存というのは弾みが付かないのでしょう。

今年はじめから活動を始めました「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」。光太郎終焉の地にして、第一回連翹忌会場ともなった中野区のアトリエの保存のための組織です。

このたび、会としてのホームページが立ち上がりました。
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会の世話役であらせられる日本詩人クラブ理事の曽我貢誠氏が手配して下さり、そのあたりにお詳しいという同クラブご所属の詩人・遠藤ヒツジ氏に作成していただきました。多謝。

中野のアトリエ、もともとは恐らく光太郎とも面識のあった水彩画家・中西利雄が、建築家の山口文象に設計を依頼して自分用に建てたものでした。しかし、その完成とほぼ時を同じくして中西は急逝。昭和23年(1948)のことです。
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せっかく建てたアトリエを活用しないのはもったいないと、中西夫人が貸しアトリエとして運用することになり、彫刻家のイサム・ノグチが最初の借り手となりました。その後、昭和27年(1952)、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作を青森県から依頼された光太郎が、花巻郊外旧太田村の山小屋では制作が不可能なため、このアトリエを借りることとなりました。

そこで、「乙女の像」石膏原型はここで作られたわけです。ホームページのトップ画像は中西アトリエで制作中の光太郎。また、ホームページ内「ギャラリー」の項には、助手の小坂圭二と写った写真など他の画像も掲載されています。

光太郎、像の除幕後、一時的に旧太田村に2週間程帰村したり、宿痾の肺結核のため昭和30年(1955)には赤坂山王病院に2ヶ月程入院したりしましたが、それ以外はこのアトリエで起居しました。当初の目論見では、寒い冬場はこのアトリエで過ごし、春になったら岩手へと、二重生活を考えていたようなのですが、健康状態がそれを許しませんでした。もはや帰村は叶わないと悟った入院時には、住民票もこのアトリエに移してしまいました。

そして亡くなったのが昭和31年(1956)4月2日。最晩年の約3年半、このアトリエで過ごしたことになります。その間、中西夫人や子息の利一郎氏らが何くれとなく光太郎の世話をして下さり、子や孫の居なかった光太郎にとって、中西家の人々は家族同然だったようです。

光太郎没後もアトリエはしばらく借り続けられ(おそらく実弟の豊周が費用を負担したのでしょう)、当会の祖・草野心平や、当会顧問だった北川太一先生らによる最初の『高村光太郎全集』編集室として使われました。そして昭和32年(1957)4月2日、第一回連翹忌の会場ともなりました。

昨年、利一郎氏が亡くなり、このアトリエが存続の危機です。お父さまが光太郎と交流があり、ご自身も利一郎氏と親しかった渡辺えりさんに代表を務めていただき、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を結成しました。003

今後、保存に向けてのさまざまな活動を行っていきますが、皆様方にも御支援を賜りたく存じます。ホームページ内には署名の項があり、既に紙媒体で署名していただいた方はブッキングしてしまいますので結構ですが、SNS等で拡散していただきたく存じます。不鮮明ですが、QRコードも載せておきます。

なにとぞよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

音楽だけは山ではきけず、時々ひどくききたくなります。


昭和24年(1949)3月23日 西岡文子宛書簡より 光太郎67歳

この年、電線は村人に引いてもらったので、やがてラジオを入手、音楽も聴けるようになりますが、まだ先の話です。

一昨日、兵庫県たつの市の霞城館・矢野勘治記念館企画展「三木露風と交流のあった人々」を拝見して参りましたが、その前後の様子を。

同館周辺が重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、古い街並みが広がっています。
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その中に三木露風の生家もありました。
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無料で内部が公開されていました。ありがたし。

造りとしては武家屋敷風。そこで邸内には甲冑やら槍やらも何気に飾られていました。
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露風肖像写真。
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露風肉筆。
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ちょっと前に話題となった、露風と宮沢賢治のつながりに関わる新聞記事。
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別棟の離れ。
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ただし、両親が離婚したため、露風がここで過ごしたのは幼少期のみだそうで。

その後に移ったという場所も意外と近くでした。
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しかし、建物は建て替わっているようで「跡」。それでも門などは昔の面影を残しているのではないかと思われました。

その他、露風がらみでは、露風も訪れたであろうという店舗。なんとこれで現役の新刊書店です。
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内部。
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その他にも、江戸から昭和戦前と思われる建造物がたくさんあり、古建築好きの当方としてはテンションアゲアゲでした。

霞城館さん近くの武家屋敷資料館さん。こちらも入場無料。
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天井が低い造作です。賊が襲ってきても刀が振りかぶれないようにしてあるわけで、防衛第一に考えられた造りです。

欄間の彫刻。素朴なものですが、かえって温かみを感じます。
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下は移転する前、山城だった頃の龍野城。

移転された龍野城。
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江戸初期には山麓に移されて平山城に。野面積みの石垣がいい感じでした。

上の画像の欄間は城下を流れる揖保川だそうで。

この地がかの高級そうめん「揖保乃糸」の発祥の地、商標名は揖保川から採ったとのことで、赤面ものですが、当方、存じませんでした。
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その他、街並みの風景。
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「なまこ壁」や「うだつ」。
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「うだつ」に煉瓦が使われているのは初めて見ました。

こんな感じで純和風でもないところがたまりません。お約束の洋館や擬洋館もあり、飽きが来ません。
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自宅兼事務所のある千葉県香取市佐原地区も同じく重要伝統的建造物群保存地区に指定されていますが、当地は商都ですのでまた雰囲気が異なり、興味深く拝見しました。

こんな街です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生誕生日のお祝とて抹茶チヨコレートにんべんの鰹節やら珍らしいタバコ等いただいたので大によろこびました。今朝は早速お茶をたてました。池田園のお茶中々よく感謝しました。それからクールといふのをのんでみましたが、珍らしい涼しい味でうまいと思ひました。

昭和24年(1949)3月13日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎67歳

光太郎、誕生日を迎え、満66歳となりました(上記「光太郎67歳」は数え年です)。

その祝いを兼ねて贈られた品々、鰹節のにんべんさんやお茶の池田園さんは健在ですね。「クール」は「KOOL」、こちらも健在のアメリカのメンソール煙草です。そこで「涼しい味」。日本で正式に販売が始まったのは昭和35年(1960)頃ですが、進駐軍の関係で入手できたのでしょうか。

光太郎も目にしたであろう建造物です。

一昨日の『朝日新聞』さん千葉版から。

国登録有形文化財に旧下総御料牧場貴賓館など10件を答申

 国の文化審議会は先月、千葉県成田市の旧下総御料牧場(三里塚記念公園)の貴賓館と防空壕(ごう)など計10件を国登録有形文化財(建造物)に登録するよう文部科学相に答申した。登録されれば県内の国登録有形文化財(建造物)は315件になる。
 ほかには、市川市の勝家住宅主屋と稲荷社、我孫子市の榎本家住宅主屋と離れ、北土蔵、釜場、正門、稲荷社。
 成田市によると、旧下総御料牧場貴賓館は、明治政府が招聘(しょうへい)した「お雇い外国人」の官舎として現在の富里市に明治9(1876)年に建てた純和風住宅がもと。同21(1888)年に三里塚に移築後、大正期に貴賓館となり、各国大使の接待や皇族の宿泊に利用された。成田空港の建設に伴って牧場の移転が決定し、払い下げを受けた成田市が大正期の姿に復元修理した。
 木造平屋建てで、内部には洋間のホールを配し、北面は上下窓を開けた独特の外観。
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 防空壕は鉄筋コンクリート造りで、主室の壁は厚さ70センチと、戦時下の緊張を伝えている。
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 市川市によると、勝家住宅は、東京の地主だった勝家が関東大震災を機に市川に移住し、昭和11(1936)年ごろに建てたとされ、主屋は平屋建ての近代和風住宅。洋間の応接室や座敷、仏間を配し、座敷の床周りには紫檀(したん)や赤松を用い、琵琶床と付書院を備えるなど凝った意匠になっている。精緻(せいち)な造りの稲荷社も同時期に建てられたとみられる。
 我孫子市によると、榎本家住宅は、利根川の水運業(船問屋)を生業にしていた榎本家が主屋などを昭和初期に建てたとされる。榎本家は明治期から大正期にかけて町長や衆院議員を輩出しており、同市の歴史を伝える上でも重要な建築物とされる。主屋は木造2階建ての寄せ棟造りで、その周囲に立つ離れなど五つの建造物も今回の対象になった。

三里塚御料牧場は明治8年(1875)に開場した下総牧羊場を前身とし、同18年(1885)、当時の宮内省が直轄化、成田空港の建設工事に伴い、昭和44年(1969)に栃木県の那須に移転するまで存続していました。牧場としては閉鎖された後も、今回指定された貴賓館や御料牧場事務所は保存され、三里塚記念公園として市民の憩いの場の一つとなっています。元々桜の名所でしたし、マロニエの巨木による並木も見事です。
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そこからほど近い場所に、第一期『明星』時代からの光太郎の親友であった水野葉舟が移り住んだことから、大正末に光太郎も牧場を訪問、詩「春駒」を作り、その後もたびたび訪れました。昭和52年(1977)には公園内、貴賓館の庭に「春駒」の光太郎自筆稿を元にした詩碑も建立されています。
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これと対を為すように葉舟の歌碑も。元々は最晩年の光太郎が揮毫を頼まれたものですが、もはや健康状態がそれを許さず、二人と交流のあった窪田空穂が代わって筆を執りました。
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また、旧事務所は御料牧場記念館として当時の様々な史料を展示している他、小規模ながら葉舟や光太郎に関する展示も為されています。この建物も文化財指定がなされればなおよかったのですが……。
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防空壕も同じ敷地内。平成23年(2011)に一般公開が始まり、当方も一度内部を見せていただきました。皇室用と云うことで一般のそれとはけた違いの強度、まるでシェルターでした。ただし、実際に使われたことはなかったそうです。
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産業遺産、戦争遺跡、そして文学散歩のコースとしての複合遺産とも言える場所です。ぜひ足をお運び下さい。ただ、公共交通機関ですと、かつてあった鉄道は廃線となり、バスやタクシーしかありません。JRさんなり京成さんなりの成田駅までいらしていただければ、当方、隣町ですので自家用車でご案内いたします(要予約(笑))。

【折々のことば・光太郎】018

智恵子作の筆は珍宝と存じ、忝く御礼申上げます。あの筆の穂は黒松の花芽です。


昭和23年(1948)10月21日
 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

文言通りに読めば、智恵子が作った筆をもらった礼です。宮崎の妻は智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子でしたので、おそらく春子が智恵子の形見として持っていたものだったのでしょう。「黒松」は九十九里浜の防風林でしょうか。

花巻高村光太郎記念館さんには、光太郎が生前使っていた筆が7本ばかり収蔵、展示されていますが、この時の筆がそこに含まれているのかどうか、不明です。

昨日は東京都中野区に行っておりました。光太郎終焉の地にして、昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった、建築家・山口文象設計になるの中西利雄アトリエ保存運動「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」の4回目の会合でして。

少し早めに行き、中野駅南口近く、旧桃園町を歩きました。最晩年の昭和29年(1954)以降、外出もままならなくなった光太郎が貸しアトリエの大家さんだった中西利雄夫人に託した膨大な買い物などを頼むメモが残されていて、その中に下記の地図が含まれています。通常の地図と同じく北が上、右上の方が中野駅方面で、左下の「中西」と書いてあるところがアトリエです。
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現代の地図では下記の紫の枠内、左下の☆がアトリエです。
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およそ70年経って、書かれている様々なお店がどうなっているのか、地図を片手に歩いてみました。先月、「夢のれんプロデュースvol.7 【哄笑ー智恵子、ゼームス坂病院にてー】」を拝見した折にも歩きましたが、その際は光太郎の書いた地図については失念していました。

さて、まず地図右上の「薬局」。瀟洒な会計学院の建物になっていました。
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昭和27年(1952)に中野に移ってから、常に健康を害していた光太郎。様々な薬品の購入を中西夫人に託しましたが、おそらくここで買われたものが多かったはず。
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薬局のはす向かいに「豆腐屋」。おそらくこちらが元は豆腐屋さんだったのではないかというお店(左下)。古民家カフェになっていました。
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右上は光太郎の地図で「果物」と書かれているお店。こちらのみ、光太郎の地図と同じ業種で存続していました。ただし、建物は建て替わっています。

そのお隣は光太郎の地図では「魚ヤ」ですが、現在はリサイクル着物店。光太郎メモに最も頻出する「神田屋肉屋」と「八百屋」、さらには「スワン」(洋品店だったそうです)、「松屋酒屋」、「時計屋」はまったく痕跡がありません。普通の民家になっていたりでした。
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そのあたりに古そうな和菓子屋さんがあったので、聞き込み調査をしましたが、こちらのお店は創業60年程だそうで、光太郎が居た70年前には未だ開業していなかったとのこと。
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光太郎地図で「フミヤ」となっているところは、現在はコンビニに。
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やはり70年という時間の経過を感じざるを得ませんでした。

逆に、光太郎の書いた地図やメモには記載がありませんが、古いものも。

公民館的な。
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それから、戦争遺跡と言えるでしょう。戦時中の昭和18年(1943)建立の石碑。
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ついでですので、中西アトリエにも行きました。
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PXL_20240710_084151737とにかくこの建物は残さにゃいかん、と、決意を新たに致しました。

その後、中野駅北口に回り、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」会合会場のスマイル中野さんへ。

代表の渡辺えりさん、実務の中心の曽我貢誠氏のもと、現状報告やら今後の活動についてやらのもろもろ。

会のメンバーその他があちこちでお願いしている保存に賛同するという署名はおよそ1,200名分集まったそうです。海外からも届けられているとのことで、感謝に堪えません。

今後、アトリエの所有者である中西家の意向確認、それから関係団体との交渉など、まだまだ課題が山積の状況です。
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署名につきましては、まだまだ受付中。このブログサイト内のこちらのリンク、それから下記画像等をご参照の上、ご協力いただければ幸いです。
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また、当方、今後も様々な場所に出没し、行った先々で署名をお願いいたします。そうした際にも快くご協力いただければ幸いに存じます。

さらに、健全な意図の元に「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」で活動してみたいという方もウェルカムです。曽我氏までご連絡下さい。

【折々のことば・光太郎】

盛岡に於ける美術工芸学校の創設発足は本年を記念する最も意義ふかき事業と存ぜられます、幸に貴下の如き適任者が当県に居られてその創業の際に之が鞅掌にあたられる事此上なきよろこびです。この有望な岩手の美術工芸をどこまでももり立て育て上げて下さい。岩手は確かに日本のホープです。


昭和23年(1948)4月18日 森口多里宛書簡より 光太郎66歳

戦前から光太郎と交流のあった美術史家・森口は、この年開校した県立美術工芸学校の初代校長に就任しました。岩手で暮らし始めて丸三年近く経った光太郎、「岩手は確かに日本のホープです。」とまで書くようになりました。

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