先月30日の『朝日新聞』さん新潟版から。
山梨県旧一宮村(現・笛吹市)に生まれた野沢一(1904~45)は「森の生活 ウォールデン」を著して自然の一部として生きることを説いた米国の思想家ヘンリー・ソロー(1847~62)に感化され、卒業直前だった法政大学を中退。1929(昭和4)年に四尾連湖(しびれこ)畔に移り住み、約5年暮らした。作品は詩集「木葉童子(こっぱどうじ)詩経」にまとめられ、詩人・高村光太郎が序文を寄せている。湖畔の森の中で詩作し、自然との合一を志向する作風から「森の詩人」と呼ばれている。
湖畔から、エメラルドグリーンの湖水のきらめきを左手の樹間に見ながら登山道を15分ほど歩くと、野沢の文学碑に着く。
「とこしえに しびれ湖と たたえられてあれよ」。碑に刻まれた詩を詠じた頃と、湖の姿はそんなに変わってはいないだろう。
東京在住の詩人で日本詩人クラブ理事の曽我貢誠さん(71)は、10年以上前から年に1度は、湖畔の山荘「水明荘」に投宿するのを楽しみにしている。
「火薬の臭いが漂っていた時代にあって、現代を先取りしたかのような詩を思い、野沢も過ごした自然の中で命の洗濯をする」と話す。
水明荘は、曽祖父から4代目となる北島水絵子さん(51)と、慎介さん(47)の夫婦が営む。
水明荘が湖の対岸で運営するキャンプ場へテントなどの荷物を運ぶには、手押しの一輪車などを使って湖を約10分かけて半周するか、人力のボートで横断するしかない。だが「その不便さを含め、『豊かに何もない場所』を提供しています。それを大事にしていきたい」と水絵子さんは話す。
このキャンプ場に年に8~10回は訪れるという、東京の50代の自営業男性は、たった1人での「ソロキャンプ」を楽しむ。火をたいて作った食事を食べたり、色鉛筆で風景をスケッチしたり、後はボーッと過ごす。「静かなんだけど、無音じゃない。鳥の鳴き声や魚のはねる水音など、豊かな自然の発する音が、ストレートに感じられるのがいい」
時間が止まっているかのような湖畔だが、新しい時代の波紋も伝わってきた。
数年前、キャンプをテーマにした人気アニメ『ゆるキャン△』で、四尾連湖がモデルになった。
それ以来、アニメのモデル地を訪れる「聖地巡礼」として、キャンプ場を利用したり、水明荘の湖に臨むテラスで「ホットチャイ」を飲んだりするアニメファンが、外国人もまじえて増えているという。
〈アクセス〉中央道甲府南インターチェンジから車で約40分、JR身延線市川大門駅からタクシーで約30分。標高850メートルにある周囲1.2キロの山上湖。周辺は1959年に県立自然後援に指定された。水明荘(055・272・1030)が湖畔で宿泊施設とキャンプ場を運営している。
一時、光太郎と僅かな関わりのあった詩人・野沢一に関して、山梨県市川三郷町の四尾連湖が取り上げられました。
ちなみに記事に登場する「東京在住の詩人で日本詩人クラブ理事の曽我貢誠さん(71)」は、光太郎終焉の地にして昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった中野区ののの言い出しっぺなので「ありゃま」という感じでした。
ただ、記事中で野沢の詩集『木葉童子詩経』(昭和9年=1934)に「詩人・高村光太郎が序文を寄せている」とあるのは誤りです。平成17年(2005)に文治堂書店さんから覆刻された『木葉童子詩経』で光太郎の「木葉童子の手紙」が序文的に巻頭に配されています(昭和51年=1976にも文治堂さんから覆刻が出ましたが、そちらは確認していません)が、これは昭和15年(1940)の雑誌『歴程』(草野心平主宰)に載った半連載的な「某月某日」の一篇で、序文というわけではありません。
『木葉童子詩経』に野沢は光太郎に触れた詩も収録しました。
長すぎるこの世に生きて
確かに何処かにはずつと高いものがゐる
霧の中に射して来る夕陽の様なものがある
然しそれは私には解らない
解らないが居る様な気はする
案外の人が黙つて持つてゐるかも知れない
寺田寅彦氏、芥川氏、直哉氏、漱石氏、節氏、子規氏、
百穂氏、かう言ふ人は芸術的なものをもつて私にせまる
そして高村光太郎と言ふ人は
小さい様に冷たく匂ふ
けれどもこう言ふ人を離れて
私はしばし しびれの山にこもつてみる
其処には何があつたか
色は匂へど散りぬるを――
(以下略)
野沢は『木葉童子詩経』を送り、光太郎は礼状を認(したた)めました。
その他、光太郎と野沢の関わりは、野沢が昭和14年(1939)から翌年にかけ、面識もない光太郎に書簡を300通余り送ったこと。その件を「某月某日」に書いています。光太郎も何度か返信はしました。確認できているのは先の1通を含めて2通のみで、いずれも山梨県立文学観さんに所蔵されています。
二人に直接の面識はおそらく無かったのではないかと思われます。しかし、『木葉童子詩経』に記された四尾連湖での生活ぶりは、光太郎の心に深く刻まれたように思われます。それが戦後の花巻郊外旧太田村での山小屋暮らしをするという決断に影響を与えたような。もっとも、光太郎周辺には、辺境で活動していた人物は野沢以外にも水野葉舟、更科源蔵ら、複数居ましたが。
四尾連湖、当方は平成29年(2017)に足を運びました。その際のレポートがこちら。その頃はまだアニメ「ゆるキャン△」は放映されて居らず(原作の漫画は既に出ていましたが)、「聖地巡礼」的な人も見かけませんでした。現在はインバウンドの人々も訪れているのですね。
山梨県に於ける「ゆるキャン△」の経済効果はかなりのものだそうですし、過日訪れた中野区の三岸アトリエ/アトリエMさんも、吉高由里子さん、横浜流星さん主演の映画「きみの瞳(め)が問いかけている」(令和2年=2020)のロケで使われたため「聖地巡礼」で訪れる方もいらっしゃるとのこと。
それらが一過性のもので終わらないように、と願う次第です。
【折々のことば・光太郎】
北海道旅行の件、ゆきたいのは今でも山々なのですが、一番大きな故障は身体的な不安です。 少しつめて仕事したり、畑が過ぎると血をはく習慣が出来たやうで、此処其上汽車に長くのると肺炎を起す懸念が濃厚です。
更科は戦前には弟子屈で開墾に取り組みながら文学活動を行っていました。この頃は札幌在住で、花巻郊外旧太田村の光太郎の元も訪れ、逆に光太郎に北海道へ来ませんか的な誘いをしばしばかけていました。
「四本の尾を連ねた竜がすむ」のがその名の由来という、山上にたたずむ神秘の湖。かつて、湖畔の丸太小屋で自炊生活をしながら詩を作り続けた男がいた。
山梨県旧一宮村(現・笛吹市)に生まれた野沢一(1904~45)は「森の生活 ウォールデン」を著して自然の一部として生きることを説いた米国の思想家ヘンリー・ソロー(1847~62)に感化され、卒業直前だった法政大学を中退。1929(昭和4)年に四尾連湖(しびれこ)畔に移り住み、約5年暮らした。作品は詩集「木葉童子(こっぱどうじ)詩経」にまとめられ、詩人・高村光太郎が序文を寄せている。湖畔の森の中で詩作し、自然との合一を志向する作風から「森の詩人」と呼ばれている。
湖畔から、エメラルドグリーンの湖水のきらめきを左手の樹間に見ながら登山道を15分ほど歩くと、野沢の文学碑に着く。
「とこしえに しびれ湖と たたえられてあれよ」。碑に刻まれた詩を詠じた頃と、湖の姿はそんなに変わってはいないだろう。
東京在住の詩人で日本詩人クラブ理事の曽我貢誠さん(71)は、10年以上前から年に1度は、湖畔の山荘「水明荘」に投宿するのを楽しみにしている。
「火薬の臭いが漂っていた時代にあって、現代を先取りしたかのような詩を思い、野沢も過ごした自然の中で命の洗濯をする」と話す。
水明荘は、曽祖父から4代目となる北島水絵子さん(51)と、慎介さん(47)の夫婦が営む。
水明荘が湖の対岸で運営するキャンプ場へテントなどの荷物を運ぶには、手押しの一輪車などを使って湖を約10分かけて半周するか、人力のボートで横断するしかない。だが「その不便さを含め、『豊かに何もない場所』を提供しています。それを大事にしていきたい」と水絵子さんは話す。
このキャンプ場に年に8~10回は訪れるという、東京の50代の自営業男性は、たった1人での「ソロキャンプ」を楽しむ。火をたいて作った食事を食べたり、色鉛筆で風景をスケッチしたり、後はボーッと過ごす。「静かなんだけど、無音じゃない。鳥の鳴き声や魚のはねる水音など、豊かな自然の発する音が、ストレートに感じられるのがいい」
時間が止まっているかのような湖畔だが、新しい時代の波紋も伝わってきた。
数年前、キャンプをテーマにした人気アニメ『ゆるキャン△』で、四尾連湖がモデルになった。
それ以来、アニメのモデル地を訪れる「聖地巡礼」として、キャンプ場を利用したり、水明荘の湖に臨むテラスで「ホットチャイ」を飲んだりするアニメファンが、外国人もまじえて増えているという。
〈アクセス〉中央道甲府南インターチェンジから車で約40分、JR身延線市川大門駅からタクシーで約30分。標高850メートルにある周囲1.2キロの山上湖。周辺は1959年に県立自然後援に指定された。水明荘(055・272・1030)が湖畔で宿泊施設とキャンプ場を運営している。
一時、光太郎と僅かな関わりのあった詩人・野沢一に関して、山梨県市川三郷町の四尾連湖が取り上げられました。
ちなみに記事に登場する「東京在住の詩人で日本詩人クラブ理事の曽我貢誠さん(71)」は、光太郎終焉の地にして昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった中野区ののの言い出しっぺなので「ありゃま」という感じでした。
ただ、記事中で野沢の詩集『木葉童子詩経』(昭和9年=1934)に「詩人・高村光太郎が序文を寄せている」とあるのは誤りです。平成17年(2005)に文治堂書店さんから覆刻された『木葉童子詩経』で光太郎の「木葉童子の手紙」が序文的に巻頭に配されています(昭和51年=1976にも文治堂さんから覆刻が出ましたが、そちらは確認していません)が、これは昭和15年(1940)の雑誌『歴程』(草野心平主宰)に載った半連載的な「某月某日」の一篇で、序文というわけではありません。
『木葉童子詩経』に野沢は光太郎に触れた詩も収録しました。
長すぎるこの世に生きて
確かに何処かにはずつと高いものがゐる
霧の中に射して来る夕陽の様なものがある
然しそれは私には解らない
解らないが居る様な気はする
案外の人が黙つて持つてゐるかも知れない
寺田寅彦氏、芥川氏、直哉氏、漱石氏、節氏、子規氏、
百穂氏、かう言ふ人は芸術的なものをもつて私にせまる
そして高村光太郎と言ふ人は
小さい様に冷たく匂ふ
けれどもこう言ふ人を離れて
私はしばし しびれの山にこもつてみる
其処には何があつたか
色は匂へど散りぬるを――
(以下略)
野沢は『木葉童子詩経』を送り、光太郎は礼状を認(したた)めました。
その他、光太郎と野沢の関わりは、野沢が昭和14年(1939)から翌年にかけ、面識もない光太郎に書簡を300通余り送ったこと。その件を「某月某日」に書いています。光太郎も何度か返信はしました。確認できているのは先の1通を含めて2通のみで、いずれも山梨県立文学観さんに所蔵されています。
二人に直接の面識はおそらく無かったのではないかと思われます。しかし、『木葉童子詩経』に記された四尾連湖での生活ぶりは、光太郎の心に深く刻まれたように思われます。それが戦後の花巻郊外旧太田村での山小屋暮らしをするという決断に影響を与えたような。もっとも、光太郎周辺には、辺境で活動していた人物は野沢以外にも水野葉舟、更科源蔵ら、複数居ましたが。
四尾連湖、当方は平成29年(2017)に足を運びました。その際のレポートがこちら。その頃はまだアニメ「ゆるキャン△」は放映されて居らず(原作の漫画は既に出ていましたが)、「聖地巡礼」的な人も見かけませんでした。現在はインバウンドの人々も訪れているのですね。
山梨県に於ける「ゆるキャン△」の経済効果はかなりのものだそうですし、過日訪れた中野区の三岸アトリエ/アトリエMさんも、吉高由里子さん、横浜流星さん主演の映画「きみの瞳(め)が問いかけている」(令和2年=2020)のロケで使われたため「聖地巡礼」で訪れる方もいらっしゃるとのこと。
それらが一過性のもので終わらないように、と願う次第です。
【折々のことば・光太郎】
北海道旅行の件、ゆきたいのは今でも山々なのですが、一番大きな故障は身体的な不安です。 少しつめて仕事したり、畑が過ぎると血をはく習慣が出来たやうで、此処其上汽車に長くのると肺炎を起す懸念が濃厚です。
昭和22年(1947)8月12日 更科源蔵宛書簡より 光太郎65歳
更科は戦前には弟子屈で開墾に取り組みながら文学活動を行っていました。この頃は札幌在住で、花巻郊外旧太田村の光太郎の元も訪れ、逆に光太郎に北海道へ来ませんか的な誘いをしばしばかけていました。