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東日本大震災で甚大な被害を受けた光太郎ゆかりの宮城県女川町に、光太郎文学碑の精神を受け継いで建てられた「いのちの石碑」関連で、建立の中心メンバーだった元中学生と先生が、高知県の学校さんで特別授業という件。6月14日(金)には、いの町の伊野中学校さんで行われたことをご紹介しましたが、翌日、同県東洋町の中学校さんでも同様の防災授業を実施なさいました。

ミヤギテレビさんのローカルニュース。

<高知県で防災の講演>『震災』の教訓伝える<いのちの石碑>活動した宮城の中学校卒業生 『南海トラフ』の津波から命を守るためにー

『東日本大震災』後、宮城・女川町で避難の教訓を伝える<いのちの石碑>を建てる活動を行った中学校の卒業生が、高知県の中学校で防災の講演を行った。
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『南海トラフ』の津波から命を守るためにー。伝えたのは日ごろの備えと地域の絆づくりだ。

 宮城県から800キロ以上離れた高知県東部、徳島県との県境にある東洋町。海からすぐ近くにある全校生徒17人の甲浦中学校に、6月 震災の教訓を伝えるため宮城県から訪れた人がいる。
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 女川町出身・伊藤唯さん
「こんにちは。さっき紹介してもらいました伊藤唯と申します。よろしくお願いします」
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女川町出身の伊藤唯さんと、震災当時 女川町の中学校教員だった阿部一彦さん。

甲浦中学校の教員が防災研修で去年女川町を訪れた縁で、伊藤さんと阿部さんは地域の防災を考える講演会に招かれた。
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「机の下に潜ったんだけれど、揺れがすごいの。しがみついているのも必死だし、状況が理解できなくて。高台にある総合体育館に避難して、その時に津波を見たんだけれど、生き延びた後なんていったらいいかわからないけれど、必死だったので、何かを考えて行動することができない」
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『東日本大震災』の津波で、宮城・女川町は800人以上が犠牲となり、町は壊滅的な被害を受けた。
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一方の、高知・東洋町は『南海トラフ』の最大クラスの地震が発生した場合、5分後には最初の津波が到達し、最大19メートルの浸水想定となっている。
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津波避難タワーの建設など対策が進められているが、高知県の被害想定では東洋町の津波による犠牲者は人口の半分近く、1000人にのぼると推計されている。
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伊藤さんは、震災直後に入学した中学校で同級生と一緒に命を守る防災活動を行った。

女川1000年後のいのちを守る会 伊藤唯さん
「1・絆を深める、 2・高台に避難できるまちづくり、 3・記録に残す。3つの対策を考えました」
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避難の教訓を、記録として1000年後まで伝えたい。
生徒自ら募金活動を行い、女川町の各浜の最高津波到達地点より高い場所に避難の目印として<いのちの石碑>を建てる活動を行った。
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女川1000年後のいのちを守る会 阿部一彦さん
「一番知っているのは、住んでいるみなさんなんです。自分たちの感覚で、こうしたいと言って絆とか高台とか記憶に残すことをやった。みなさんには、また別のやり方がある」

甲浦中学校では、大きな地震がきたら徒歩で10分ほどの小学校の裏山へ避難する計画だ。
津波到達まで時間が限られる中での避難行動。

震災当時の体験を聞いて、生徒たちは命を守るため自分たちにできることを考えた。

甲浦中学校の生徒
「地域の人と絆を深めて、どうすればいい?もし災害が起きて絆を深めていたら避難しやすいし…」
「(運動会などで)誰でも高齢者でも遊べるボッチャとかそういうゲームをしたらいい」
「高台に避難できるまちづくりをしたい」
「地域との交流活動をもっと増やして、もし災害が起きて避難した後も、交流があって助けてくれたりストレスが減ったらいいと思いました」
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生徒たちが考えたのは、地域の人と一緒に避難するための日ごろからの絆づくりだった。

女川1000年後のいのちを守る会 伊藤唯さん
「いま私がやっているのは、みんなもやってほしいんだけれど、家族の安否がわからなくて3日も4日もわからないと、いろんなことを考えます。私は、今東京に住んでいるんだけれど、家族と離れているので、毎日連絡をとって明日どこにいるの、明日何をしているとか確認するようにしている。それを知っていると災害が起きた時に、今あそこにいると言っていたから大丈夫だなとかわかって安心できる」
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もしもに備えて日頃からできることをー。宮城・女川町から高知へ伝える教訓だ。

甲浦中学校 鶴和節子校長
「自分一人でできることは限りがある。まわりのひと、きょう来ている保護者の方、行政の方、地域のみなさんと一緒に進めたい」
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甲浦中学校 生松莉子さん
「自分の想像しているより地震がきたらつらいんだと思った。まだ家具の固定とか、夜地震が起こったときの対策もあまりしていないので、横にすぐ逃げられるように、靴を置いたりしておくとか対策をもっとしておきたい」

宮城・女川町の高台で津波避難の教訓を伝える<いのちの石碑>。
教訓が、全国の人の心の中に刻まれるように、これからも伝え続ける。
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女川1000年後のいのちを守る会 阿部一彦さん
「命は大事だよということは、もちろんだけれど、自分でやってみよう、何かできるのではと少しでも思ってもらえればそれでいい」

女川1000年後のいのちを守る会 伊藤唯さん
「震災のこと、防災のこと、学ぶことを楽しんでもらえればいいと思う。一歩踏み出す勇気、自分にもなにかできるんじゃないかと思ってほしかった。実行してもらえれば嬉しい」

遠く高知まで出向かれてお話しをなさったお二人には頭が下がりますし、予想される南海トラフ地震に向けて対策を取ろうとされている高知県の学校さんも素晴らしいと思います。

ただ、ひっかかったのは、「高知県の被害想定では東洋町の津波による犠牲者は人口の半分近く、1000人にのぼると推計されている」という一節。言葉尻をとらえるわけではありませんが、「事前の対策が不十分であれば」的な但し書きを附け、「犠牲者ゼロを目指して万全の対策を行う」といった方向性でなければいけないのではないでしょうか。「言われなくてもやってるよ」ということかもしれませんが……。

こうした動きが全国に広まって欲しいものだと、改めて思う次第です。

【折々のことば・光太郎】

鶏が卵を抱いてゐる由、たのしみでせう。こちらの山の中では鶏をかつても皆狐にとられてしまひます。狐は夜来てうまくとつてゆきます。


昭和23年(948)3月28日 高村美津枝宛書簡より 光太郎66歳

駒込林町の光太郎実家で暮らす令姪に送ったはがきから。まだ食糧事情の不安定だった昭和23年(1948)当時、都内の屋敷町でも鶏を飼うなどしていたのですね。光太郎が隠棲していた花巻郊外旧太田村では養鶏は不可能という理由、なるほどね、という感じでした。

004東日本大震災後、光太郎ゆかりの地、宮城県女川町で建てられた全21基の「いのちの石碑」。津波対策として避難の目印となるランドマークです。同町に平成3年(1991)に立てられた光太郎文学碑に倣い、建設費用は当時の中学生たちが募金で集めたもので、いわば光太郎文学碑の精神を受け継ぐ活動です。

この活動、令和3年(2021)にオンラインで開催された「第5回国連水と災害に関する特別会合」の中で、天皇陛下がご紹介。また、令和元年(2019)にはNHKさん制作のドラマ「女川 いのちの坂道」でモチーフとなるなどもしています。その他、防災の観点から、あちこちで紹介されています。

建設の中心メンバーの中には、女川町で毎年8月に開催されている「女川光太郎祭」に複数年参加され、光太郎詩文を朗読して下さった方もいらっしゃいます。

先週の『高知新聞』さん。

自分も、周囲の命も守ろう 「いのちの石碑」建立進める宮城・女川の被災体験者、いの町伊野中で授業

 宮城県女川町で東日本大震災の津波被害の教訓を伝える「いのちの石碑」を建立した元中学生と恩師が14日、いの町の伊野中学校で防災授業を行い、自身や周囲の命を守る大切さを生徒に訴えた。
 女川町は2011年3月に14・8メートルの津波に襲われ人口の約1割の827人が犠牲になった。発生直後に地元中学に入学した生徒らが、後世の人の命を守ろうと石碑建立を発案。募金活動を行い、13年から町内の高台21地点に建てた。
 今回は発案者の一人、伊藤唯さん(26)=横浜市=と共に取り組んだ教諭の阿部一彦さん(58)=現・石巻市立北上中校長=が来高。約220人を前に伊藤さんは「机の脚を持っていないと耐えられない揺れで、訳が分からなかった」「朝起きて『夢ではなかった』と気付く生活だった」と当時の体験を紹介。生徒から「生きているうちにやりたいことは?」と質問されると「震災後、小さな後悔が積み重なった。だからやりたいことは全部やります」と宣言した。
 阿部さんは「目的は石碑を建てるのではなく、絆をつくることだ」と説明。「隣の人にできることを何かやってと種をまきに来た。行動を起こすには勇気が必要だが、ぜひ一歩踏み出して」と呼びかけた。
 伊野中3年の岡田あんじさん(14)は「生きていることの大切さを実感した。絆を深められるよう、地域で交流できる場をつくりたい」と話していた。
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中心メンバーの皆さん、石碑を建てて終わりではなく、このように活動を紹介したり、防災への呼びかけを行ったりなさっています。今年3月には地元の母校での特別授業の様子が大きく報じられました。今回は遠く高知まで出向かれてのご活動。頭が下がります。

逆に各地の学校さんが校外学習修学旅行等で女川町を訪れて中心メンバーのお話を聞く、ということもありました。ただ、ごく最近、そうした報道を目にしなくなりまして、そうした機会が減ったからなのか、それとも当たり前に行われるようになって報道しきれていないのか、後者であればいいと思うのですが……。

いずれにしても、関係者の皆さん、今後ともこうした活動を続けられることを希望いたします。また、全国の学校関係者さんその他、ご参考にしていただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

いただいたあの素晴らしい鮎はあれから二日間に亘つて見事な御馳走になりました。骨は夜間たづねて来る狐にやりました。


昭和23年(1948)1月13日 照井登久子宛書簡より 光太郎66歳

同じ書簡の終末部分には「兎と狐とキツツキとを友達にして雪の山もたのしい日がつづきます」としたためてあります。

画像は昨年、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)附近で撮影したキツネの足跡です。
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少し前ですが、今月7日『読売新聞』さんの高知版から

岡本弥太しのぶ朗読 香南で児童ら 一絃琴の演奏も

 香南市香我美町出身で、「南海の宮沢賢治」とも評される詩人・岡本弥太(1899~1942年)をしのぶ行事が6日、出身地近くの峯本神社であり、児童や住民ら約30人が、詩を朗読するなどして功績をたたえた。
 地元で教職に就きながら詩作を続け、生前に発表した詩集「瀧(たき)」が注目された。 同神社には、高村光太郎揮毫(きごう)の詩碑があり、命日(2日)に近いこの日の式典には、四女の藤田泰子さん(85)や孫の岡本龍太さん(62)らが参列した。
 龍太さんは、弥太をみとった弟子の随想を紹介。地元の香我美小児童が、代表作「白牡丹図」「ふゆの月」を一絃(げん)琴の演奏や朗読で披露した。高知高専の佐藤元紀講師(37)は、両作品について、時の流れを客観的に見ていることや、苦しい生活の中でも無邪気な幼子への哀切が表現されていることなどを解説した。
 実行委の松山繁副委員長(84)は「短い生涯に残した多くの功績を、若い人に継承したい」と話した。
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3年前にも同じイベントの記事が『読売』さんに出て、ご紹介しました。毎年開催されているようですが、光太郎の名が出ないとなかなかこちらも気付きません。

岡本は高知出身の詩人で、光太郎と直接会ったことはなかったようですが、記事にもある生前唯一の詩集『瀧』を贈り、光太郎からの礼状が届けられたりしました。その記憶があったのかどうか、没後5年経った昭和22年(1947)、高知に岡本の詩碑が建立されることとなり、光太郎がその代表作「白牡丹図」を揮毫しました。
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上記は20数年前、この碑を見るためだけに羽田から高知へ飛び、撮ってきた画像です。ちなみに帰路は高知から伊丹空港へ。大阪市の御堂筋に寄って光太郎作の「十和田湖畔の裸婦群像の為の中型試作」(「みちのく」と題されています)を新幹線で見て帰りましたが。

光太郎が他者の作品を揮毫し、碑になったものは、この碑と花巻の宮沢賢治詩碑(「雨ニモマケズ」碑)しか現存が確認できていません。その他、かつて栃木県に佐藤隆房の短歌を刻んだ歌碑がありましたが、地元の無理解のため撤去されてしまいました。白牡丹図碑は地元でも大切にされているようで、ありがたいことです。

碑のある峯本神社さんでのイベント以外に、「岡本弥太詩賞」の表彰式も、同じ日に行われていました。こちらは『高知新聞』さんから

岡本弥太詩賞 吉岡さん(福岡市)峯本神社で弥太祭も 香南市

003 香南市香我美町岸本生まれの詩人、岡本弥太(1899~1942年)をたたえる「岡本弥太詩賞」の表彰式が6日、岸本防災コミュニティセンターで行われた。特選には吉岡幸一さん(55)=福岡市=の「砂浜」が選ばれた。
 岡本弥太は教職の傍ら詩を詠み、32年に出版した生前唯一の詩集「瀧」は中央詩壇で高い評価を受けた。詩賞は2017年に創設され、今回は全国から244作品の応募があった。
 表彰式では、受賞者が作品を朗読。特選作は、一人の男が海岸で砂粒を一粒ずつ、いとおしい人の骨を拾うように拾っては透明な瓶に落とす情景を描写。吉岡さんが静かに詠み上げた。
 この日は近くの峯本神社で弥太の命日(2日)に合わせた「弥太祭」もあり、約30人が参加。地元児童による詩の朗読や、一絃琴の演奏で弥太をしのんだ。弥太の孫の岡本龍太さん(62)=高知市=は「地元の方々も毎年よくしてくれてありがたい。これからも弥太の研究を続けたい」と話していた。
 その他の主な受賞者は次の皆さん。
▽一般の部奨励賞=空見タイガ(大阪府)▽学生の部奨励賞=河渕真菜(高知市)

各地で行われているこうした先人の顕彰を旨とするイベント、当会主催の連翹忌にしてもそうですが、マンネリとの戦いという部分もありますし、さりとて途切れさせるわけにも行かずですし、頭の痛いところですね。特にコロナ禍の昨今、もはや会食を伴う形での開催は難しくなっています。連翹忌のありかたも考え直す時期なのかも知れません。皆様のご意見を賜りたく存じます。


【折々のことば・光太郎】

宮沢家、院長さん等皆して見送り。


昭和20年(1945)10月17日の日記より 光太郎63歳

佐藤隆房邸に約1ヶ月厄介になったあと、いよいよ郊外太田村に移った記述です。ここからまた1ヶ月は山口分教場に寝泊まりし、鉱山の飯場小屋を移築してもらった山小屋(高村山荘)の整備にかかりました。
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昨日も隣町の図書館さんに行っておりました。PCで各種データベースを検索できるコーナーが再開しまして、このところ週イチ程の頻度で通っています。

先週、先々週は、国会図書館さんのデジタルデータのうち、自宅兼事務所ではアクセスできないものを閲覧しましたが、昨日は、主要新聞さんの記事で、やはり自宅兼事務所では読めない地方版の記事などを調べ参りました。数日間、それらをご紹介します。

まず、『読売新聞』さんの高知県版に5月10日(日)に掲載された記事。光太郎の父・光雲の弟子の一人、高知出身の本山白雲(もとやまはくうん)についてです。 

内面や存在感 リアルに わがまちの偉人 龍馬像作った本山白雲

 太平洋を見つめるようにたたずむ、高知市・桂浜004の坂本龍馬像は、高知県民のシンボルとなっている。心酔する高知の青年が全国に呼びかけて建造資金を集め、1928年に完成させたストーリーで知られるこの像を手がけたのは、宿毛市出身の彫刻家本山白雲(本名=辰吉、1871~1952年)=写真=だ。
 同市立宿毛歴史館の矢木伸欣館長は「白雲の作品は、外見だけでなく、ポーズや表情を通して、写真では出せないモデルの内面や存在感を引き出した」と評する。この像が、龍馬を慕う人の心を引き寄せ続ける秘密も、そこにありそうだ。高さ5.3㍍、台座を含めると13.4㍍になる偉丈夫ぶり、太平洋に向けられたまなざしや口元、その居ずまいそのものが、坂本龍馬という偉人のイメージを形作る。
 
幼少時地蔵眺め続ける
 白雲は、土佐藩宿毛領の家臣の家に生まれ、子供の頃から美術に興味を持っていたという。特に造型にひかれていたのか、自宅近くの“お地蔵さん”を飽きずに眺めていたというエピソードが残る。10代半ばで、「彫刻家になる」と決心して上京。主筋の前領主伊賀陽太郎(1851~97年)を頼り、有名な彫刻家高村光雲(1852~1934年)に引き合わせてもらった。
 住み込みで師事し、「白雲」の名を受け、さま002ざまなコンクールで受賞するなど力をつけた。木彫りを主とする師と異なり、西洋から伝わったばかりの銅像制作に力を入れた。母校・東京美術学校の講師を務め、彫刻家としての評価が高まった白雲に声をかけたのが、宿毛出身で、北海道開拓に尽力した岩村通俊男爵(1840~1915年)だった。「明治を創り出した人たちを銅像で後世に伝えたい」
 これをきっかけに、白雲の元には、明治の元勲たちをはじめ、軍人、実業家、歴史上の人物などの銅像制作依頼が次々舞い込んだ。国会議事堂に残る伊藤博文像も、白雲の手によるものだ。手がけた銅像は数百体に及ぶとされ、多作ぶりに「銅像屋」と陰口もあった。だが、白雲に銅像を制作してもらうことが、ステータスにもなっていたという。
 太平洋戦争の戦局が厳しくなると、作品の多くは、寺の釣り鐘などとともに砲弾の材料として供出された。県内で残ったのは、海援隊や陸援隊を率いて軍に評価されていた龍馬像や中岡慎太郎像(室戸市)など、わずかだ。当時の白雲の内心を、「父は空襲があった夜、銅像の石膏製の原型を淡々と素手でたたき割り、母は無言で手を合わせていた」と、息子が伝えている。

漫画家・横山隆一も指導
 明治維新以降、東京で名を上げた宿毛出身者の中には、同郷の後輩の面倒を見るという美風があった。伊賀が白雲を支え、白雲もまた1907年、在京の土佐出身の芸術家たちと「土陽美術会」を結成。親交を深め、後輩たちを指導した。高知を代表する漫画家の横山隆一(1909~2001)もその一人だ。そんなつながりが明治から昭和にかけての政財界、文化、宗教など多彩な分野で活躍した20人あまりを、宿毛市から送り出したのだ。
 晩年、白雲は「彫刻家として大成したのは、お地蔵様のおかげ」と、宿毛市役所の北側にある城山墓地の地蔵堂に地蔵像を奉納したという。中には、白雲が贈ったとされる地蔵像が、今も安置されている。

高知桂浜の龍馬像作者・本山白雲。光雲の弟子の一人として、アウトラインは存じ上げていましたが、この記事を読んで、より人物像が明確になりました。

以前にもこのブログに書きましたが、光雲の白雲評、コピペします。

やはり谷中時代の人で、今日は銅像制作で知名の人となつてゐる、本山白雲氏があります。氏は土佐の人、同郷出身の顕官岩村通俊(いはむらみちとし)氏の書生をしてゐて、親を大切にして青年には珍しい人で美術学校入学の目的で私の宅へ参つて弟子になりたいといふことで、内弟子となつてゐました。後に学校に這入りました。今日でも氏は能く昔のことを忘れず、熱さ寒さ盆暮れには必ず挨拶にきてくれます。今では銅像専門の立派な技術を持つた人です。(『光雲懐古談』昭和4年=1929)

ちなみに岩村通俊は、東京美術学校教授だった岩村透の伯父に当たり、その関係で白雲の美校入学につながったのでしょう。岩村透は、光雲に「あなたの生涯最大の傑作は、息子の光太郎君だ」と言ったり、光太郎に留学を強く勧めたりした人物です。

当方、白雲の作品は、高知桂浜の坂本龍馬像をはじめ、何点か拝見しましたが、特に印象に残っているのは、盛岡の岩手県公会堂前にある原敬像(昭和26年=1951)です。

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ここにこれがあるというのを失念していて、たまたま通りがかって見つけました。

光太郎がこれをけちょんけちょんに(死語ですね(笑))けなしています。というか、これに限らず、白雲の胸像制作方法に関してですが、体の部分はレディーメードで顔だけその人物、胸の勲章も既に型が出来上がっていて貼り付けてある、時にその人物が貰わなかったはずの勲章までおまけしてつけている、など。光太郎、幼い頃、腕力の強かった白雲によくおんぶしてもらったそうですが、それとこれとは別、ということですね。

一般的に言えば、銅像は、「誰作ったか」より「誰作ったか」が優先される世界です。それはある意味、仕方がないことなのかも知れません。しかし、やはり作者の名も残していくべきでしょう。特に地方出身の作家の場合、やはり地方紙や主要新聞の地方版など、その人物の紹介をもっとお願いしたいものです。そういう意味で、この読売さんの記事はなかなかヒットだったと思います。


【折々のことば・光太郎】

いやしいことは決して為ないがいい。さもしい心は決して起こさぬがいい。品性を尚ぶ風が瀰漫したら、どんなに国民一般が生活しやすくなるかしれない。
散文「決戦時生活の基礎倫理」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

敗色濃厚となった時期の文章ですので、基本的には窮乏生活にも我慢して耐えろ、というコンセプトですが、部分的にはこのようにいいことも書いてあります。

永田町に巣喰う魑魅魍魎、そこから垂れ流される利権(見直しが発表されたナントカキャンペーンのような)や優遇(ナントカを見る会、など)に蟻のように群がる品性下劣な輩に叩きつけたいところです(笑)。

昨日の『朝日新聞』さん、高知版から。 

高知)「客が一人でも上映」 山の中の映画館・大心劇場

 ウグイスのさえずりが里山に響く。周囲1キロに000集落もない。「山の中の映画館」と呼ばれる「大心(だいしん)劇場」(高知県安田町内京坊)を館主の小松秀吉さん(68)は38年間、続けてきた。なぜ、そんな不便な場所で営業を続けるのか。
 ――開館のきっかけは
 父親が約2キロ先の街中で、1954年から映画館を経営していた。テレビの普及で利用客が減り、休館状態となった。当初は取り壊す予定だったが、父親が自宅の敷地内に移築すると決断した。82年に「大心劇場」の名で開館。30歳だった自分が館主となった。
――なぜ移築したのですか
 昭和の映画館を残すのと、映画館が好きな息子の私のためという二つの思いが、父親にあったのだろう。以前の映画館では、3歳のころからステージや客席が遊び場。中学、高校時代は夏、冬休みにアルバイト感覚で、自分でフィルムを借りて上映していた。大阪の大学に進学後も、映画館巡りは欠かさなかった。
 ――よく開館に踏み切った
 最初は、昭和の映画館を体感できる博物館を始めるつもりだった。映写機やスクリーン、昭和の映画のポスターも200枚は集めていたから。旅先でここを知った旅行客に寄ってもらえるかもって。でも、県内で次々と単館の映画館が姿を消すのを見ちゃうとね。設備がそろっているのに、なぜ上映しないのかと、思うようになった。
 ――経営はどうでしたか
 当初は父親の印鑑の営業などを手伝い、上映で赤字が出てもその収入で補?(ほてん)した。10年ぐらい前から黒字になり、次回のフィルム代くらいは出るようになった。
 ――どうやって黒字に
 人とのつながりだ。大学時代に映画館ともう一つ夢中になったのがギターの弾き語り。「豆電球」の名前で地域の秋祭りなどで歌っている。そこで知り合った人に映画館を紹介する。そのうち、来館者が県内外に100人できた。
 家族経営なのでかかるのは電気代やフィルム代。一週間の上映で100人入れば黒字。客が足らないと「あんたが100人目よ」と100人の誰かに連絡すると、本当に来てくれる。
 ――音響がいいと聞きました
 フィルム映写機のドキュメンタリー映画「旅する映写機」で取材を受けた時、音響スタッフが館内のスピーカーや新しいアンプなどを使ってドルビーデジタルサラウンドを出せるよう再構築してくれた。館は木造で音の反響が柔らかい。大音量で音が外に漏れても文句をいう家はない。
 ――新型コロナウイルスの影響で休業3カ月後の今月、再開。最初の上映映画は「上を向いて歩こう」でした
 お客の顔を見ると本当にうれしかった。(坂本)九ちゃんの歌が流れた時は、涙も出たし、これからも上映する覚悟が持てた。知らない者同士が、同じ空間の中で映画から一人ひとり力をもらう。映画館の醍醐(だいご)味やね。(今林弘)
     ◇
 こまつ・しゅうきち 高知県安田町出身。映画館とその隣で喫茶「豆でんきゅう」を経営。大心劇場(0887・38・7062)は、懐かしい日本映画を中心に1作品約1週間の期間で1日2回(午後1時、7時)、月2作品を上映。客席84席。次回上映は6月27日~7月4日の「智恵子抄」。詳細はホームページ(http://wwwc.pikara.ne.jp/mamedenkyu/別ウインドウで開きます)。


5月のこのブログでご紹介
させていただいた、高知県安田町のミニシアター、大心劇場さん。コロナがなければ3月に昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん、丹波哲郎さん主演)を上映して下さる予定でした。今月から営業を再開され、最初は昭和37年(1962)の日活映画「上を向いて歩こう」(舛田利雄監督・坂本九さん主演)を上映。続く再開2本目が、延期措置となった「智恵子抄」だそうです。 

昭和の名作。感動の大公開!! 智恵子抄002

期 日 : 2020年6月27日(土)~7月4日(土)
会 場 : 大心劇場 高知県安芸郡安田町内京坊992-1
時 間 : 1回目昼1時より 2回目夜7時より
料 金 : 1,500円

<監督>中村 登 <原作>佐藤 春夫/高村 光太郎
<出演者>岩下 志麻、丹波 哲郎、ほか
<作品紹介>美しく清らかな純愛をうたう感動無限の最高名篇

画像は3月公開予定時のものです。日程ご注意ください。

光太郎役の故・丹波哲郎さんは、ご自分で最も気に入っていた出演作の一つだそうですし、若き日の岩下志麻さん演じる智恵子の鬼気迫る様子、見応えのある作品です。

また、個人的な理由になりますが、おそらく当方自宅兼事務所のある千葉県香取市佐原地区でもロケが行われており(冒頭近くの「パンの会」のシーン)、感慨深いものがあります。

それにしても、『朝日新聞』さんの記事を読み、経営されている小松秀吉氏の「意気」に感動しました。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

言葉はまた着物の裂れ地と同じく、聯絡や関係が大切なのであつて、一部分のものではない。前後の関係、時間の関係に依つてその美が生れるのだから、その均衡に対する鋭い感じがないと、たていとばかり利いて横糸の弱いものが出来上つたりしてしまふ。

談話筆記「ことばの美に就いて」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

彫刻家としての造型感覚が、言葉を紡ぐ上でも有効に作用していた光太郎ならではのとらえ方ですね。

昨日は青森の『東奥日報』さんから、コロナ禍による十和田湖の現状についての記事を紹介いたしましたが、本日は同様の件で、『高知新聞』さんから。 

コロナなかりせば… 大心劇場(安田町)上映まで歯食いしばる

 新型コロナウイルスの感染拡大により、高知県内でもさまざまなイベントが中止に追い込まれ、活動の自粛を余儀なくされている。コロナ禍がなければ、にぎわっていたであろう「あんな催し」「こんな取り組み」を紹介。次回にかける関係者の思いと共に、随時紹介していく。
 高知県安芸郡安田町内京坊の「大心劇場」は月に1、2本の映画を上映する、山の中の映画館だ。昭和30年代の純愛もの、任侠劇、高知ロケが行われた近作など上映作は多彩。だが、3月初旬から休館を余儀なくされている。
 座った途端、懐かしさでほっとする客席。周囲は、往年の映画ポスターがぐるり囲む。
 「映画の中でしかなかったものが、現実になった。朝起きて、『夢で良かった』じゃない世界になったね」。コロナ禍をこう表現するのは、館主の小松秀吉さん(68)。上映は、国道55号や町内に掲げる名物の手描き看板が知らせてくれるが、今は姿を消している。

 劇場は映画上映だけの場所ではない。併設するステージでは、シンガー・ソングライターとして「豆電球」の名で活動する小松さんが歌ったり、プロの歌手が登壇。2018年10月には、双子の歌手「こまどり姉妹」が30年ぶりに来町。トークと歌声を披露した。
 年号が改まる2019年4月30日夜は常連客ら約30人がカウントダウンイベントに参加。昭和の開館から三つ目の時代の幕開けを祝った。

 今年からは旅行会社のツアーの巡り先にもなっていたという大心劇場。小松さんは「今はじっと我慢するしかない。山の中に映画を見に来てくれるお客さんに力をもらってきた。東部の映画の灯は絶対に守っていく」。山の湧き水で溶いたペンキを手に、上映を待つ映画の看板作りに取り掛かった。(北原省吾)

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(左)上映日が未定の「智恵子抄」(中村登監督)の看板前に立つ小松秀吉さん。「ヒーローじゃなく、マスクが世界を救ってるね、今は」
(右)令和の幕開けを祝う常連客ら(2019年5月1日未明)003

待ち遠しいね~ 安田町のゆるキャラ 安田朗(あんたろう)
 レトロな大心劇場の再開が待ち遠しいね~。町にはほかにも、おいしいごはん屋さんとか、おやつを売りゆう所があるきん、落ち着いたらぜひ遊びにきてよ~。ぼくもまたいろんな所へ安田町のPRしに行くきん、会いにきてね~!

高知県安田町の大心劇場さん。写真のキャプションにあるとおり、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん、丹波哲郎さん主演)を、この3月に上映して下さる予定でした。

3月に、このブログでご紹介しようと、途中まで005記事を書きました。ところが、観覧料金が大心さんのHPに記載されていなかったので、電話で問い合わせてみたところ、おそらく記事にある小松さんでしょう、「あー、ホームページはまだ直してないんですけど、新型コロナで無期限延期にしたんですわ」とのことでした。「ありゃま」という感じでした。右は予定されていた上映のポスターです。

まさに見出しの通り「コロナなかりせば」ですね。ちなみに「せ」は助動詞「き」の未然形、そこにプラス助詞「ば」ですから反実仮想の用法です。

油断は禁物ですが、徐々に緊急事態宣言の解除が進むようで、「智恵子抄」の上映も遠くない日に実現して欲しいものです。観覧料金は1,500円だそうです。

こうした大心さんのようなミニシアターが存続の危機、という報道が為されたのは先月くらいだったでしょうか。その後、どうなっているかと調べてみましたところ、クラウドファンディング「ミニシアター・エイド(Mini-Theater AID)基金」なるものが立ち上がり、支援の輪が広がっているようです。

同様に、全国の新刊書店さん、古書店さんを支援する「ブックストア・エイド基金」も展開中です。素晴らしい!

「不要不急」と、とかく後回しにされがちな文化芸術分野ですが、そうしたものが一切無い世界を想像してみて下さい。当方には耐えられません。

466億円もの予算を組んで、「不要不急」どころか「不要」でしかない、しかも利権の匂いのプンプンするものを配るより、こうした部分に予算を廻せ、きちんと制度を整備しろ、と言いたくなりますね。制度と言えば、同じく「不要不急」どころか「不要」でしかない、いや、「有害」な法案は拙速に強行採決されそうな勢いですが……。


【折々のことば・光太郎】

桐葉亭々   短句揮毫  戦後期?

「亭々」は「ていてい」。樹木が葉を繁らせ、高々と聳えるさまです。桐は実は樹木というより草に近いのだそうですが(だから成長が早く、軽いのだそうで)、そろそろ紫の可憐な花があちこちで見られているのではないでしょうか。

「亭々」、寡聞にして当方は存じない言葉でした。明治人にとってはあたりまえの言葉だったのか、それとも光太郎のボキャブラリーが豊富だったのか、どちらなのでしょうか。

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