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新刊、400ページ超の労作です。

日本人美術家のパリ 1878-1942

2023年2月8日 和田博文著 平凡社 定価5,000円+税

19世紀後半から20世紀前半にかけ、黒田清輝や藤田嗣治など多くの日本人美術家がパリを訪れた。彼らの活動の記録から、当時の美術界の動向や異国の地での葛藤を明らかにする。

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目次

プロローグ 「芸術の都」パリへ
Ⅰ 世紀末のパリ、東京美術学校西洋画科、パリ万国博覧会
 1 洋画の曙――黒田清輝と久米桂一郎
 2 ラファエル・コラン――印象派の陰に隠れた外光派
 3 天真道場から東京美術学校西洋画科・白馬会へ
 4 日清戦争後の帝国意識と、美術に要請された競争力
 5 一九〇〇年パリ万国博覧会が開幕する
 6 鏡としてのナショナル・ギャラリー――和田英作の「素人」意識
 7 高村光太郎「根付の国」と、欧米の日本美術
 8 オテル・スフローのパンテオン会、グレの巴会
 9 カンパーニュ・プルミエール街、マダム・ルロワの下宿
 10 模写で行う名画展覧会、裏返される裸体画
 11 ルノワールと山下新太郎、ロダンと荻原守衛
 12 イタリアの教会芸術、イギリスの水彩画
Ⅱ ポスト・インプレッショニスムと第一次世界大戦
 1 パリの白樺派と、幻に終わったロダン展覧会
 2 ルノワールとポスト・インプレッショニスム
 3 マティス、セザンヌ、ゴッホ、モネと、アヴァンギャルドの擡頭
 4 アカデミーからアトリエへ――満谷国四郎と安井曾太郎
 5 クローズリー・デ・リラ、シテ・ファルギエール、テアトル街
 6 ルーヴル美術館の採光、カモンド・コレクションの開場式
 7 ブルターニュで追体験するゴーギャン、ヴェトイユで想起するモネ
 8 ヨーロッパの美術館――イタリア、イギリス、スペイン
 9 東京の美術館建設問題と裸体画問題
 10 第一次世界大戦勃発とパリからの避難者
 11 戦時ヨーロッパからの通信――黒田重太郎・長谷川昇・寺崎武男
 12 リヨンで模写した青山熊治、赤十字に志願した川島理一郎
Ⅲ 「黄金の二〇年代」と日本人のコレクション
 1 第一次世界大戦後のパリと、日本人美術家数の増加
 2 公文書が語る美術家数の変化、クラマールの中山巍と小島善太郎
 3 サロン・ドートンヌで日本部が開設される
 4 カモンド・コレクションの印象派、ペルラン・コレクションのセザンヌ
 5 模写で探る画家の秘密、模写が可能にした展覧会
 6 オテル・ドルーオの競売、松方幸次郎のコレクション
 7 児島虎次郎が蒐集した大原美術館の収蔵品
 8 遠ざかる印象派と、晩年のモネを訪ねた正宗得三郎・黒田清
 9 フォービズムの波と、マティスの深い色彩
 10 佐伯祐三、愛娘と共にフランスに死す
 11 石黒敬七が日本語新聞を創刊する――『巴里週報』『巴里新報』Ⅰ
Ⅳ エコール・ド・パリ、モンパルナスの狂騒、日本人社会
 1 エコール・ド・パリと、その周縁の美術家たち
 2 モンマルトルからモンパルナスへ――「芸術の都」の中心地
 3 単独者への道――パリの美術家・美術学生七万人の中で
 4 ルーヴル美術館が藤田嗣治の作品を所蔵する
 5 日本人美術家数の増加と、日本人同士の交流
 6 在巴日本美術家展覧会――『巴里週報』『巴里週報』Ⅱ
 7 ツーリズムの季節と、日本イメージ――『巴里週報』『巴里新報』Ⅲ
 8 福島コレクションのピカソ、ドラン、マティス
 9 内紛と分裂――巴里日本美術協会(福島派)と仏蘭西日本美術家協会(薩摩派)
 10 ブルターニュの長谷川路可、プロヴァンスの林倭衛
 11 ヴェネツィアとフィレンツェ――中世のルネサンス美術
Ⅴ 世界恐慌から一九三〇年代へ
 1 恐慌前夜――好景気と   絵画価格の高騰
 2 ロマン・ロランの胸像を制作した高田博厚、ドランと画架を並べた佐分真
 3 システィーナ礼拝堂で大の字になった佐伯祐三、列車に乗り遅れた岡田三郎助
 4 モンパルナスから日本人美術家の姿が消えた
 5 異郷の日本人の光と闇――貧困と客死
 6 ローマとベルリンの日本美術展覧会――横山大観・速水御舟・平福百穂
 7 パリの日本現代版画展――ジャポニスム脱却の試み
 8 ルオーがパリの福島繁太郎宅で、自作に筆を入れる
 9 フランスの個人コレクション、日本の個人コレクション
 10 美術館問題、西洋近代絵画展覧会、模写の活用
 11 日本の美術界の衝撃――エポック・メーキングな福島コレクション展
 12 シュールレアリスム、巴里・東京新興美術同盟、巴里新興美術展覧会
Ⅵ 戦争の跫音とパリ脱出
 1 スペイン内戦、ドイツ軍の無差別爆撃、ピカソの「ゲルニカ」
 2 武者小路実篤の絵行脚、伊原宇三郎のゴッホ所縁のイーゼル
 3 欧州旅行の発着点ナポリ、有島生馬が見た日伊文化交流
 4 一九三〇年代末の巴里日本美術家展覧会と長期滞在者
 5 ヒトラーのドイツ、ムッソリーニのイタリア
 6 第二次世界大戦勃発と、ルーヴル美術館の美術品避難
 7 パリ陥落と日本人の脱出、パリに留まった日本人
エピローグ 二〇一二年のパリから
パリ在留日本人数と日本人美術家等数(1907~1940年)
関連年表
主要参考文献
人名索引

Ⅰ 世紀末のパリ、東京美術学校西洋画科、パリ万国博覧会」中に「7 高村光太郎「根付の国」と、欧米の日本美術」という項がある他、随所で光太郎に言及されています。

また、光太郎と同時期に留学していた面々や、日本で光太郎と交流の深かった美術家たちにも触れられています。

パリというトポスにおける編年体的な俯瞰の方法で、流れがつかめますし、流れの中での光太郎の位置づけという意味では、眼からウロコの部分もありました。一人の作家を「点」で捉えるのではなく、その作家を含む「線」を意識することの重要さを改めて感じています。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

さて僕がLondonからParisに来て既に半年はたつた。仏蘭西といふ国の真価が外見よりも遙かに大なのににも驚いたし、一般の国民が他国に比して確かに一歩進んだ地盤に立つて居るのにも感心した。仏蘭西に斯かる文芸の出来るのも不思議は更に無い。よく人が仏蘭西の美術も漸く衰へて、此から遠からず世界の美術の中心が亜米利加の方へ移るだらうなどゝいふが、其の言の誤つて居るのは来てみると直ぐに解る。仏蘭西の美術は漸く衰へる所では無い。此れから益々発展しやうとして居るのだ。


明治42年(1909)1月(推定) 水野葉舟書簡より 光太郎27歳

光太郎のフランス、パリへの認識がよく表されています。

岩手から学会情報です。

岩手大学人文社会科学部【宮沢賢治いわて学センター】第16回研究会

期 日 : 2022年12月22日(木)
会 場 : 岩手大学学生センターA棟1階G19教室 岩手県盛岡市上田3-18-8
       & オンライン(WebExウェビナー使用)
時 間 : 17:00~18:00
料 金 : 無料

講 師 : エリック・ブノワ 氏(ボルドー・モンテーニュ大学教授/フランス文学)
      中里まき子氏(岩手大学人文社会科学部准教授/フランス文学)
演 題 : 高村光太郎と宮沢賢治の喪のエクリチュール:『智恵子抄』仏訳体験に触れながら

 講師は、本学部と交流協定を結んでいるフランスのボルドー・モンテーニュ大学教授のエリック・ブノワ氏(フランス文学)と本学部准教授の中里まき子氏(フランス文学)です。
 主たるトピックは、昨年中里氏がブノワ氏の協力を得てフランスのボルドー大学出版から上梓なさった、高村光太郎『智恵子抄』の仏訳版 Poèmes à Chieko についてです。まず、中里氏による日本語での講話、次にブノワ氏によるフランス語の講話(通訳は中里氏)という構成となります。
 今回はコロナ禍下ではありますが、講師方のご希望により、対面とオンライン併用のハイフレックス形式での開催となります。会場へ直接お越しいただく場合もオンラインでの申込が必要となりますので、下記、ご確認宜しくお願い申し上げます。皆さまのご参加を心よりお待ちしております。
 なお、コロナ禍拡大の影響により、オンラインのみの開催となる可能性もあります。その節は速やかに大学および学部HPやML等でお知らせいたします。悪しからずご了解ください。

☞【登録リンク】
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仏訳智恵子抄『 Poèmes à Chieko』は、昨年4月に刊行されました。それを記念して、今回と同じく訳者の中里まき子氏、エリック・ブノワ氏によるご発表「『智恵子抄』仏訳(TAKAMURA Kôtarô, Poèmes à Chieko)の刊行をめぐって」が、日本比較文学会東北支部さんの「第23回比較文学研究会」の中で、昨年7月に行われています。

今回はさらに宮沢賢治もからめてのお話になるとのこと。オンラインでの試聴も可だそうです。ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

<夕方モデルさんくる 結婚後はじめて、元気なり、>


昭和30年(1955)8月19日の日記より 光太郎73歳

「モデルさん」は旧姓藤井照子。昭和27年(1952)から翌年にかけ、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のモデルを務めました。結婚を機にモデル業はやめ、品川の方に住んでいたようです。以前から書いていますが、いまだご存命なのかどうか、不明です。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。


まず、新刊の小説です。

非愛の海

2021年10月6日 野樹優著 つむぎ書房 定価1,600円+税

反体制という青春があった。 此の国で人を愛するのは偽善で堕落だ。いや腐敗だ。俺たちはインテリではなかったのかと見せかけの自由に苛立つ戦後生まれのかれらが為そうとした希望のテロルとは何か。そして令和のこの時、孫世代が運命のように過酷な現実と出会う。これほど知性の愛を問いかけた文学はあったろうか。反抗は学問なのだ、と孤絶の闇を噛む愛の幻想(かげろう)。
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作者の野樹優氏、「小野寺聰」名義で演劇公演の脚本、演出などもなさっています。小野寺氏というのがご本名なのだと思われます。

一昨年、渋谷で公演のあった「長編詩劇・高村光太郎の生涯 愛炎の荒野。雪が舞う、」の脚本、演出をされていて、終演後には当方自宅兼事務所までお電話を下さいました。そして今回、御著をお送り下さったという訳で、恐縮しております。

物語は、戦後の混乱期、昭和40年代(と思われる時期)、現代を舞台としています。このうち、昭和40年代(と思われる時期)に、ノンセクト(死語ですね(笑))の左翼学生たちが、旧華族の令嬢を誘拐し、身代金ではなく、天皇が自らの戦争責任を表明することを要求する、というくだりがあります。それが上記の「見せかけの自由に苛立つ戦後生まれのかれらが為そうとした希望のテロル」です。誘拐、といっても、誘拐された後の令嬢が、彼らの計画に共鳴し、「共犯者」となることを提案したりと、一筋縄ではいかないのですが……。

その左翼学生たちと令嬢の会話の中に、ちらっと光太郎智恵子。
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あり余る過剰な才能を、光太郎との生活の中で発揮しきれず、心を病んでしまった智恵子。同様に、あり余る過剰な才能を、閉塞する時代の中で発揮しきれなかった学生たち(主人公的な学生は、詩や映画などの方面でその一部を発揮してはいましたが)。結局は挫折してゆくことになっていきます。

新刊紹介ついでにもう一冊。

4月にフランスで刊行された仏訳『智恵子抄』、『Poèmes à Chieko』。その後、紀伊國屋さんで注文可となり、取り寄せてもらいました。
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当方、仏語はほぼほぼお手上げですが、何と、見開きで光太郎の原詩が日本語で載っており、こりゃいいや、という感じでした。
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詩の選択は、新潮文庫版『智恵子抄』(昭和31年=1956)が底本となっており、戦後の詩篇も含まれています。散文「智恵子の半生」も。しかし、「智恵子の半生」と、それから冒頭20頁ほど、光太郎智恵子の簡略な評伝となっているようですが、そちらは仏語のみでした。散文「九十九里浜の初夏」、同じく「智恵子の切抜絵」は割愛されていました。

それぞれぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

藤間さんの為短文をかく。

昭和26年(1951)4月19日の日記より 光太郎69歳

「藤間さん」は舞踊家の藤間節子(のち、黛節子)。

「智恵子抄」の二次創作として光太郎が唯一許し、光太郎生前に実際に上演されたたのが、藤間による舞踊化のみでした。昭和24年(1949)と翌年のことでした。
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その後の「智恵子抄」がらみでない公演のパンフレットにも、光太郎は短文を寄せ、日記にあるのもそのうちの一篇「山より」です。

本日も新刊紹介です。

高田博厚=ロマン・ロラン往復書簡 回想録『分水嶺』補遺

2021年10月30日 髙橋純編訳 吉夏社 定価2,600円+税

残されていた「師弟」の交流記録1931‐44。1931年より長くパリに暮らした彫刻家・高田と、彼に信頼を置いていたロラン。新発見となる、当時の二人が交わした23通に及ぶ往復書簡に見る「師弟」の記録。ナチス・ドイツ支配下のフランスに留まり、在仏新聞記者協会の役職にもあった日本人彫刻家による希有な時代の証言、さらに後年綴られた高田回想録『分水嶺』を補完するものでもある。高田のパリ時代、「ロランによる小林多喜二虐殺抗議文」を巡る論考なども収載。

目次
編訳者まえがき
序 発見された二十三通の手紙
高田博厚=ロマン・ロラン往復書簡
付論 多喜二とロマン・ロラン―高田博厚が伝えた「幻の抗議文」について
付録 ロマン・ロランの日記抜粋
   ロマン・ロランに届いた一通の日本語の手紙
   レオンドゥーベル友の会の「趣意書」   
   「世界最小新聞社社長」――新聞記者高田の回想
   高田博厚「ロマン・ロラン」(一九三六年執筆)
年譜
解説――高田博厚の「詩と真実」

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高田博厚は、明治末に早世した碌山荻原守衛を除けば、光太郎が唯一高く評価した同時代の邦人彫刻家です。光太郎は、高田の無名時代からその才能をいち早く見抜き、渡仏のための援助等も惜しみませんでした。

高田も、光太郎の影響で絵画から彫刻に転じ、光太郎の援助もあって渡仏、時代に翻弄されつつも、世界的に名声を得るに至りました。

そして、ロマン・ロラン。光太郎も早くからロランを敬愛し、大正2年(1913)には、日本で最初の『ジャン・クリストフ』の訳を発表しました。また、同11年(1922)から翌年にかけ、戯曲『リリユリ』を翻訳、同13年(1924)には単行本として上梓しています。

そして1大正15年(1926)、片山敏彦、尾崎喜八、さらに高田らと共に「ロマン・ロラン友の会」を結成しました。唯一確認できている、光太郎と高田が一緒に写った写真も、「ロマン・ロラン友の会」でのものです。後列左から二人目が光太郎、前列一番右に高田。前列中央は、フランスの作家、シャルル・ヴィルドラック夫妻です。
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高田は昭和6年(1931)の渡仏後、ロランと実際に会い、驚くべきことに、ロランは自らの胸像制作をまだ無名だった高田に依頼します。それまでフランスのどの彫刻家に対しても、その申し入れを断り続けていたのに、です。

そして昭和6年(1931)からロランが歿する昭和19年(1944)まで、二人の間で書簡のやりとりも為されました。その往復書簡が、パリのフランス国立図書館の「ロマン・ロラン寄贈資料庫」に保管されており、訳者・髙橋氏がそれを確認、この書籍で初公開なさったというわけです。ロランから高田宛の書簡は、おそらくロラン夫人が夫の没後、ロランの書いた物を散逸させないため、高田から譲り受けたのであろうとのことでした。

残念ながら、二人の往復書簡の中には光太郎の名は出て来ませんが(「序 発見された二十三通の手紙」では、光太郎にも言及されています)、二人の偉大な芸術家の魂の交流の様子は、興味深く拝読させていただきました。

ぜひお買い求め下さい。

高田博厚というと、光太郎像を含む高田の肖像彫刻32体が並ぶ「彫刻プロムナード」が整備されている埼玉県東松山市で、毎年、高田の彫刻展が開催されています。今年の展示は10月28日(木)からでした。
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こちらもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

澤田伊四郎氏来訪、食パン沢山、其他食品いろいろもらふ。今夜学校へ泊る由、尚100,000円もらふ。小屋増築についてスルガさん、院長さん等と相談して東京へかへる由。

昭和26年(1951)4月2日の日記より 光太郎69歳

澤田伊四郎氏」は、出版社・龍星閣主。戦前に詩集『智恵子抄』を出版し、戦時の休業から社業を再開した昭和25年(1950)には、詩文集『智恵子抄その後』、翌26年(1951)1月には、『智恵子抄』の戦後新版を出版しました。明確な印税制を採って居らず、「100,000円」は、これらに対する「御礼」として支払われたものです。

それでも尚、光太郎の取り分が足りないということで、小屋の増築費用も龍星閣で持つことになりました。

詩人で朗読等の活動もなさっている宮尾壽里子様005から、文芸同人誌『青い花』の最新号が届きました。

これまでも光太郎智恵子に関するエッセイや論考等を同誌にたびたび寄稿なさっていて、その都度お送りいただいております。恐縮です。

『青い花』-「断片的私見『智恵子抄』とその周辺」。
『青い花』第78号。
文芸同人誌『青い花』第79号。
文芸同人誌『青い花』第81号。
文芸同人誌『青い花』第90号/『月刊絵手紙』2018年9月号。

宮尾様、一昨年に智恵子の故郷・二本松で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」で大賞に輝くなど、朗読系の活動も広く為されています。昨年は連翹忌にても朗読をご披露いただきました。

「2016年 フルムーン朗読サロン IN 汐留」レポート。 
第5回 春うららの朗読会。 
朗読会「響きあう詩と朗読」。 
高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会レポート。 
第63回連翹忌レポート。 

さて、今回の『青い花』、宮尾様によるエッセイ「巴里 パリ PARIS(一)」が掲載されています。

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006昨年の6月、フランスにお一人で行かれたそうで、そのレポートです。パリ以外にもモンサンミッシェルについても記述があります。

宮尾様がドゴール空港に降り立たれたのが、6月11日。明治41年(1908)、光太郎が留学の最終目的地と定めたパリに着いた同じ日です。

ちなみに、数年前に発見した『高村光太郎全集』未収録の随筆「海の思出」により、パリ以前に滞在していたイギリスからは、ニューへブン(英)――ディエップ(仏)間の航路を使って海峡を渡ったことが初めて確認できました。

宮尾様、パリでは光太郎が暮らしたモンパルナスのカンパーニュ・プルミエール通り17番地のアトリエ跡を訪れられたそうで、うらやましい限りです。当方もいずれは、と思っておりますが。

それから、パリに行かれるというので、事前に、これも数年前に発見した『高村光太郎全集』未収録の「曽遊紀念帖」という光太郎のパリレポートのコピーをお送りしましたところ、そちらに掲載されているメディシス(メヂチ)の噴水(Fontaine de Medicis)などにも足を運ばれm感慨にひたられたとのこと。テルミン奏者の大西ようこさんが渡仏された際もそうでしたが、お役に立てて幸いでした。

『青い花』、ご入用の方は下記まで。

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【折々のことば・光太郎】

僕の画室へは月が大窓から室一ぱいにさし込んで来る。遠くの方を馬車の馬の蹄の音がきこえる許りで今夜は至つて静かだ。かういふ晩には僕はいつも地球の廻転する音が聞える様に感じてならない。

散文「仏蘭西だより――水野葉舟への手紙――」より
明治42年(1909) 光太郎27歳

パリのカンパーニュ・プルミエール通り17番地のアトリエでの感懐を、親友・水野葉舟に書き送った文章の一節です。

先週土曜日の『朝日新聞』さんの書評面で、新潮文庫版『高村光太郎詩集』が取り上げられました。「ひもとく」という、基本、新刊ではなく過去の書籍を紹介するコーナーです。過日のパリ・ノートルダム大聖堂での火災にからめてでした。

(ひもとく)ノートルダム大聖堂 永遠への足場、固める再建へ

 四月一五日のパリのノートルダム大聖堂火災のあと、フランス・メディアがこぞって話題にしたのは、ユゴーの歴史小説『ノートル=ダム・ド・パリ』だった。確かにそこには、この火事を予見していたような場面が出てくる。
 「人びとはみな目をあげて、教会の頂上を見あげた。目にはいったのは不思議な光景だった。中央の円花窓(えんかそう)よりも高く、いちばん高いところにある回廊の頂上には、大きな炎があかあかとして、二つの鐘楼のあいだを、渦巻く火花をとび散らせながら立ちのぼっていた」
 これはしかし、実際の火事の描写ではない。小説の登場人物で、異形の鐘番カジモドが、寺院に逃げ込んできた流浪の美少女エスメラルダを追っ手の暴徒から守ろうと、その場にあった木材を塔の上から眼下の広場に投げ落とし、溶かした鉛で火をつけている光景が火災のように見えたというのだ。
 この小説が一八三一年の発表当時の人びとを何よりも驚かせたのは、フランス・カトリックの総本山であるノートルダム大聖堂を、堂々と反カトリック的な舞台にしてみせたことだった。エスメラルダに邪恋し、思いをとげるために手段を選ばない司教補佐クロード・フロロの、破廉恥なふるまいが物語の軸だったものだから、ローマ教皇庁からたちまち禁書にされた。

 ■空白埋める文学
 今度の火災後、フランスのテレビ局の特番を動画で見ていたら、旧知の歴史家ピエール・ノラが大聖堂の建物自体がこの小説の影の主人公だと指摘していた。確かにユゴーは敬意をこめ、無数の石工が数世紀にわたって営々として築き上げたこの建物の歴史、外観、内部、塔からの眺望、全体の魔力を見事に語っている。ノラはまた、後陣の尖塔(せんとう)が火だるまになって崩壊したとき、マンハッタンのツインタワー・ビル炎上のときに似た衝撃を受けたと語っていた。
 テロと失火、災厄の原因の違いにもかかわらず、同じことを感じたのは彼だけではない。あのとき、誰しも無意識のうちにもっている永続性への漠然とした信頼が瞬時に揺らぎ、言葉を失った。その空白を埋める手がかりを求める人びとが、宗教や国籍とは無関係に、過去の文学に目を向けたのだった。
 こうした心の動きのことを、森有正はすでに半世紀前の『遙(はる)かなノートル・ダム』で、「体験」から「経験」への促しとして捉えていた。彼は十数年間ノートルダムのそばに暮らしながら、大体は浅薄なものにとどまりかねない「体験」を「定義」できるような言葉をみつけ、確固とした「経験」に変えることに腐心していた。そんな彼の目に、この大聖堂は個々人の生を本当にかけがえのないものとする「経験」という概念の美しい化身と映っていた。

 ■19世紀にも修繕
 森有正よりさらに半世紀前、高村光太郎が「雨にうたるるカテドラル」で崇敬の対象としたのもノートルダム大聖堂だった。「ノオトルダム ド パリのカテドラル、/あなたを見上げたいばかりにぬれて来ました、/あなたにさはりたいばかりに、」。そして詩人はこの寺院に「真理と誠実との永遠への大足場」を見るとともに、当然のようにカジモドとエスメラルダのことを思い浮かべている。
 実は反教権的だった大革命のあと、ノートルダムは荒れはて、十九世紀の四〇年代になってこの度崩壊した尖塔をふくむ修繕が始まったのだが、これには文学作品の力に加え、国の歴史記念物保存委員としてのユゴーの貢献があった。新たな修繕は、今言われている一過性の次期パリ五輪のためではなく、是非「永遠への大足場」を固めるものになってほしい。

 ◇にしなが・よしなり 東京外国語大学名誉教授(仏文学) 44年生まれ。著書に『「レ・ミゼラブル」の世界』『カミュの言葉』など。

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詩「雨にうたるるカテドラル」(大正10年=1921)が掲載されているということで、新潮文庫版の『高村光太郎詩集』が取り上げられています。

初版は昭和25年(1950)、光太郎存命中でした。編集は光太郎と交流のあった伊藤信吉が務めています。昭和43年(1968)の第33刷で改版となりました。同41年(1966)、同じ新潮社さんから刊行された『高村光太郎全詩集』との整合を図ったためと思われます。こちらの編集にも伊藤が携わっていました。他には当会の祖・草野心平、当会顧問・北川太一先生、そしてやはり光太郎と交流の深かった尾崎喜八でした。

現在流通している版も、昭和43年(1968)改版を踏襲しているのだと思われますが、平成14年(2002)からは新潮文庫として活字のサイズを9.25ポイント(創刊時は7.5ポイント)と大きくしていますので、そのあたりの改訂があったかも知れません。おそらくそれに伴い、カバーも智恵子紙絵を使用したデザインに変更されたのではないでしょうか。

ちなみに当方、新潮文庫版『高村光太郎詩集』は2冊持っています。

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左は昭和51年(1976)の第46刷。現在、数千冊ある光太郎関連蔵書のうちの記念すべき入手第2号です。第1号は同じ新潮文庫版『智恵子抄』。当時は小学生でしたが、まさかその後、自分が光太郎顕彰方面に進むとは夢想だにしていませんでした(笑)。ちなみに消費税などという無粋なものがなかった当時の定価は200円ぽっきりでした。

右は平成12年(2000)の第87刷。ミレニアムということで、「新潮文庫20世紀の100冊」というキャンペーンがあり、その1冊に選ばれ、スペシャルカバーが付けられて販売されました。しかし、中身は従前通り。ただ、カバー裏表紙面に関川夏央氏による書き下ろし特別解説が付いています。この時点では定価400円+税でした。現在は税込み529円ということになっています。

新潮文庫版以外で、「雨にうたるるカテドラル」が収録されている文庫版の光太郎詩集、さらに絶版になっていないもの、となると、他に3種類あります。

岩波文庫版『高村光太郎詩集』。初版はやはり光太郎生前の昭和30年(1955)で、光太郎自身の校訂が入っています。編集は光太郎と交流の深かった美術史家・奥平英雄でした。現在の定価は600円+税です。

集英社文庫で『レモン哀歌 高村光太郎詩集』。平成3年(1991)初版。林静一氏が表紙絵を描いています。同じく476円+税。

それから角川春樹事務所さん発行のハルキ文庫『高村光太郎詩集』も絶版にはなっていないようです。平成16年(2004)初版で、税込み734円。

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あとは文庫版としては絶版になってしまっているようです。角川文庫、社会思想社現代教養文庫、旺文社文庫、中公文庫にそれぞれラインナップがあったのですが。ただ、古書市場には出ているでしょう。

現在も出ているもの、細々とでも、版を重ねていってもらいたいものです。


【折々のことば・光太郎】

人間の手による生命の創造が可能になつても、生きて動き、生れて死ぬいのちがこの世にある限り、人間は芸術によるいのちの創造を決してやめないだらう。
散文「生命の創造 ――アトリエにて8――」より
 昭和30年(1955) 光太郎73歳

主に造形芸術を指しての言ですが、言葉による詩のような芸術でも、同じことが言えるような気がします。

昨日の午前中、パリからショッキングなニュースが。 

ノートルダム大聖堂で火災 93mの塔が焼け落ちる

 フランスのパリ中心部にある世界的な観光名所、ノートルダム大聖堂で15日午後7時ごろ(現地時間)、火災が発生し、教会の尖塔(せんとう)などが燃え落ちるなどの甚大な被害が出た。仏メディアによると、当時は大規模な改修工事が行われており、その足場付近から出火した可能性があるという。
 AFP通信によると、消防当局は火災は午後6時50分ごろに発生したと説明。現場では、大気汚染で汚れた聖堂をきれいにするための改修工事が数カ月前から行われており、屋根に取り付けられた足場部分から燃え広がった可能性があるという。火は屋根付近を中心に瞬く間に燃え広がり、大聖堂は炎と煙に包まれ、出火から1時間後には、高さ93メートルの尖塔も焼け落ちた。出火から4時間たった午後11時も燃え続けている。同日夜、現場で記者会見したローラン・ヌニェス内務副大臣は、「ノートルダムを救えるのか、現時点では見通しが立たない」と語った。消防士数人が負傷したという。
 セーヌ川に挟まれたシテ島に立つノートルダム大聖堂は、12世紀に建造が始まり、改修や増築を繰り返した。1991年には周辺の歴史的建築物などとともにユネスコの世界文化遺産に登録された。年間1200万人が訪れるパリ屈指の観光名所として知られ、日本人観光客も多く訪れる。
(『朝日新聞』)

夕方の報道では鎮火とのことでしたが、人的被害を含め、どの程度の被害が出たのか、まだ詳しいところがよくわかりません。既報では、尖塔が焼けて崩れ落ちたり、消火に当たった消防士の方が重傷を負ったりということだそうですが、亡くなった方はいないことを祈ります。

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ノートルダム000大聖堂といえば、エッフェル塔や凱旋門などと並ぶパリのシンボルの一つ。のみならず、フランスの道路原標はここに設置されていて、まさにパリはここから発展した場所でもあります。明治41年(1908)から翌年にかけ、欧米留学でパリに滞在していた光太郎も足繁く通いました。

右は、明治41年(1908)8月、パリの光太郎が、パリに移る前に滞在していたロンドンでの留学仲間だった彫刻家の畑正吉に送った大聖堂の絵葉書です。焼け落ちたという尖塔はこの裏側になります。

よく見ると、下の方、歩いている人物は写真以外に光太郎が描き込んでいます。さらに「こんな形で歩いてるんでせう」の一言も書き添えられています。

下って大正10年(1921)、光太郎はパリ時代を回想し、復刊成った与謝野夫妻の『明星』に、110行にもわたる長大な詩を寄稿しました。題して「雨にうたるるカテドラル」。「カテドラル」は仏語の「cathedrale」、「大聖堂」を意味します。

ちなみにこの詩は、光太郎に遅れてパリに留学、というか住み着いた東京美術学校の同級生・藤田嗣治を主人公とした映画「FOUJITA」(平成27年=2015)で引用されました。

     雨にうたるるカテドラル

 おう又吹きつのるあめかぜ。
 外套の襟を立てて横しぶきのこの雨にぬれながら、
 あなたを見上げてゐるのはわたくしです。
 毎日一度はきつとここへ来るわたくしです。
 あの日本人です。
 けさ、
 夜明方から急にあれ出した恐ろしい嵐が、
 今巴里の果から果を吹きまくつてゐます。
 わたくしにはまだこの土地の方角が分かりません。
 イイル ド フランスに荒れ狂つてゐるこの嵐の顔がどちらを向いてゐるかさへ知りません。
 ただわたくしは今日も此処に立つて、
 ノオトルダム ド パリのカテドラル、
 あなたを見上げたいばかりにぬれて来ました、
 あなたにさはりたいばかりに、
 あなたの石のはだに人しれず接吻したいばかりに。
  
 おう又吹きつのるあめかぜ。
 もう朝のカフエの時刻だのに
 さつきポン ヌウフから見れば、
 セエヌ河の船は皆小狗のやうに河べりに繋がれたままです。
 秋の色にかがやく河岸(かし)の並木のやさしいプラタンの葉は、
 鷹に追はれた頬白の群のやう、
 きらきらぱらぱら飛びまよつてゐます。
 あなたのうしろのマロニエは、
 ひろげた枝のあたまをもまれるたびに
 むく鳥いろの葉を空に舞ひ上げます。
 逆に吹きおろす雨のしぶきでそれがまた
 矢のやうに広場の敷石につきあたつて砕けます。
 広場はいちめん、模様のやうに
 流れる銀の水と金茶焦茶の木の葉の小島とで一ぱいです。
 そして毛あなにひびく土砂降の音です。
 何かの吼える音きしむ音です。
 人間が声をひそめると
 巴里中の人間以外のものが一斉に声を合せて叫び出しました。
 外套に金いろのプラタンの葉を浴びながら
 わたくしはその中に立つてゐます。
 嵐はわたくしの国日本でもこのやうです。
 ただ聳え立つあなたの姿を見ないだけです。
    
 おうノオトルダム、ノオトルダム、
 岩のやうな山のやうな鷲のやうなうづくまる獅子のやうなカテドラル、
 灝気(かうき)の中の暗礁、
 巴里の角柱(かくちゆう)、
 目つぶしの雨のつぶてに密封され、
 平手打の風の息吹(いぶき)をまともにうけて、
 おう眼の前に聳え立つノオトルダム ド パリ、
 あなたを見上げてゐるのはわたくしです。
 あの日本人です。
 わたくしの心は今あなたを見て身ぶるひします。
 あなたのこの悲壮劇に似た姿を目にして、
 はるか遠くの国から来たわかものの胸はいつぱいです。
 何の故かまるで知らず心の高鳴りは
 空中の叫喚に声を合せてただをののくばかりに響きます。
  
 おう又吹きつのるあめかぜ。
 出来ることならあなたの存在を吹き消して
 もとの虚空(こくう)に返さうとするかのやうなこの天然四元のたけりやう。
 けぶつて燐光を発する雨の乱立(らんたつ)。
 あなたのいただきを斑らにかすめて飛ぶ雲の鱗。
 鐘楼の柱一本でもへし折らうと執念(しふね)くからみつく旋風のあふり。
 薔薇窓のダンテルにぶつけ、はじけ、ながれ、羽ばたく無数の小さな光つたエルフ。
 しぶきの間に見えかくれるあの高い建築べりのガルグイユのばけものだけが、
 飛びかはすエルフの群(むれ)を引きうけて、
 前足を上げ首をのばし、
 歯をむき出して燃える噴水の息をふきかけてゐます。
 不思議な石の聖徒の幾列は異様な手つきをして互にうなづき、
 横手の巨大な支壁(アルブウタン)はいつもながらの二の腕を見せてゐます。
 その斜めに弧線をゑがく幾本かの腕に
 おう何といふあめかぜの集中。
 ミサの日のオルグのとどろきを其処に聞きます。
 あのほそく高い尖塔のさきの鶏はどうしてゐるでせう。
 はためく水の幔まくが今は四方を張りつめました。
 その中にあなたは立つ。
  
 おう又吹きつのるあめかぜ。
 その中で
 八世紀間の重みにがつしりと立つカテドラル、
 昔の信ある人人の手で一つづつ積まれ刻まれた幾億の石のかたまり。
 真理と誠実との永遠への大足場。
 あなたはただ黙つて立つ、
 吹きあてる嵐の力のぢつと受けて立つ。
 あなたは天然の力の強さを知つてゐる、
 しかも大地のゆるがぬ限りあめかぜの跳梁に身をまかせる心の落着を持つてゐる。
 おう錆びた、雨にかがやく灰いろと鉄いろの石のはだ、
 それにさはるわたくしの手は
 まるでエスメラルダの白い手の甲にふれたかのやう。
 そのエスメラルダにつながる怪物
 嵐をよろこぶせむしのクワジモトがそこらのくりかたの蔭にに潜んでゐます。
 あの醜いむくろに盛られた正義の魂、
 堅靭な力、
 傷くる者、打つ者、非を行はうとする者、蔑視する者
 ましてけちな人の口(くち)の端(は)を黙つて背にうけ
 おのれを微塵にして神につかへる、
 おうあの怪物をあなたこそ生んだのです。
 せむしでない、奇怪でない、もつと明るいもつと日常のクワジモトが、
 あなたの荘厳なしかも掩ひかばふ母の愛に満ちたやさしい胸に育(はぐく)まれて、
 あれからどのくらゐ生れた事でせう。
   
 おう雨にうたるるカテドラル。
 息をついて吹きつのるあめかぜの急調に
 俄然とおろした一瞬の指揮棒、
 天空のすべての楽器は混乱して
 今そのまはりに旋回する乱舞曲。
 おうかかる時黙り返つて聳え立つカテドラル、
 嵐になやむ巴里の家家をぢつと見守るカテドラル、
 今此処で、
 あなたの角石(かどいし)に両手をあてて熱い頬(ほ)を
 あなたのはだにぴつたり寄せかけてゐる者をぶしつけとお思ひ下さいますな、
 酔へる者なるわたくしです。
 あの日本人です。


パリで伝統に裏打ちされた本物の芸術や、そこからさらに進んだ世界最先端の芸術に触れた光太郎。そこに限りない憧憬を抱きつつも、故国日本との目もくらむほどの落差を思い知らされ、打ちのめされました。そんな折には、ノートルダム大聖堂を訪れ、その石の肌に触れ、心を落ち着けたというのです。

もっとも、大聖堂あるいは焼け落ちたという尖塔に登った際には、進むべき道の困難さを感じての絶望に似た思いのあまり、幻覚に襲われたりもしていたようです。やはり留学仲間だった有島生馬の回想から。

 高村君はどうも神秘的な人で、吾々カムパーニユ街の仲間は「高村の神懸り」とあだ名をつけた。(略)時に姿を見せると、巴里の空を、ノトルダムの上から、飛べさうな気がした話や、セエヌ河が真つ赤な血を流してゐた話や、そんな神懸り的な事を真面目でぽつりぽつり云つた。

何はともあれ、光太郎にとって、パリといえば真っ先にノートルダム大聖堂。そこでの大規模火災ということで、胸が痛みますが、被害が壊滅的なものでないことを祈ります。


【折々のことば・光太郎】

煮え返るやうな若い時代の連中で毎日進んで行くといふやうな時代だから、二三日遭はないと何処かしら解らなくなつて了ふといふ風な毎日を送つてゐた。だから殆と毎日遭つてゐたと言つていい位顔を会せて議論したり描いたりしたものだ。あんな猛烈な時代といふものは尠いだらうと思ふ。

談話筆記「回想録 二」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

パリから帰って、岸田劉生、木村荘八らと結成したヒユウザン会(のちフユウザン会)時代の思い出です。

昨年、歿後百年を記念して公開されたフランス映画「ロダン カミーユと永遠のアトリエ」のDVDが今月発売となり、入手、拝見しました。 

ロダン カミーユと永遠のアトリエ

2018年5月2日 コムストック・グループ 定価3,800円+税

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創った。愛した。それが人生だった。天才彫刻家ロダン没後100年記念作!
 1880年パリ。彫刻家オーギュスト・ロダンは40歳にしてようやく国から注文を受ける。そのとき制作したのが、後に《接吻》や《考える人》と並び彼の代表作となる《地獄の門》である。その頃、内妻ローズと暮らしていたロダンは、弟子入りを願う若いカミーユ・クローデルと出会う。 才能溢れるカミーユに魅せられた彼は、すぐに彼女を自分の助手とし、そして愛人とした。その後10年に渡って、二人は情熱的に愛し合い、お互いを尊敬しつつも複雑な関係が続く。二人の関係が破局を迎えると、ロダンは創作活動にのめり込んでいく。感覚的欲望を呼び起こす彼の作品には賛否両論が巻き起こり…。
 
《考える人》《地獄の門》で名高い彫刻家オーギュスト・ロダンの半生を、没後100年を記念して忠実に描いた伝記映画。
 近代彫刻家の父”と称されるロダンの没後100年を記念し、パリ・ロダン美術館の全面協力で製作された本作は、ロダンの製作過程の細部まで再現し、人間関係や当時のエピソードからロダンの内面まで掘り下げ映画化された。国立西洋美術館(《地獄の門》を常設展示)で、没後100年を記念した特別イベントを開催。今後も、横浜美術館で「ヌード NUDE ―英国テート・コレクションより」が開催され、その目玉として、ロダンの大理石彫刻 《接吻》 が日本初公開される。【2018年3月24日(土)~6月24日(日)】

ロダンと愛弟子カミーユ・クローデルの愛と葛藤の物語を官能的に描く。
 イザベラ・アジャーニ主演映画の大ヒットで人気の高い女流彫刻家カミーユ・クローデルの波乱に満ちた生き様がロダン視点で描かれる本作。カミーユが去った後ロダンは、愛をぶつけるようにモデルたちとの官能的な絡み合いを繰り広げていく。愛と苦悩の日々の末、近代彫刻の父が創り上げた最高傑作誕生の瞬間とは・・・ 監督は男女の激しい愛憎と心のかけひきの描写に定評のあるフランスの巨匠ジャック・ドワイヨン。主演は『ティエリー・トグルドーの憂鬱』でカンヌ国際映画祭、セザール賞の主演男優賞をW受賞したヨーロッパきっての演技派ヴァンサン・ランドン。


その若き弟子、カミーユ・クローデルとの愛憎を軸に、光太郎が終生敬愛した鬼才ロダンの彫刻にかける執念が描かれます。

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代表作「地獄の門」の制作中のシーンから始まります。

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門の一部、現在、横浜美術館さんで開催中の「ヌード NUDE  ―英国テート・コレクションより」で、大理石に写した像が目玉として展示されている「接吻」を前にする二人。今後の二人を暗示していることはいうまでもありません。

激しく求め合う二人ですが、ロダンは長年連れ添った内縁の妻、ローズ・ブーレと別れることも出来ません。

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彫刻の部分でも師の影から抜け出せず、カミーユの苦悩は深まり、やがて精神崩壊をきたします。ただ、以前も書きましたが、心を病んだ悲惨なカミーユの姿は、映画では描かれませんでした。象徴的に使われていたのが、カミーユの彫刻「分別盛り」の一部、「嘆願する女」。物語の終盤、ロダンが画廊でこれを見るシーンで、二人の関係の修復不可能な破綻、その後のカミーユの運命が暗示されました。

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他の登場人物として、モネやセザンヌ、光太郎が訳した『ロダンの言葉』の原典の一部を書いたオクターヴ・ミルボー。

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光太郎も岐阜まで会いに行った、日本人女優・花子

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ロダンの秘書も務めた詩人のリルケ。

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カミーユとの関係が破綻した後も、ある意味ロダンの肥やしとして必要だった若い女性たち。

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そして、人物以外にも、人物以上の存在感を放つ彫刻作品の数々。

「ヴィクトル・ユーゴー」。

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「カレーの市民」。

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「地獄の門」と、その一部の「考える人」。

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「ダナイード」。

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カミーユの「ワルツ」。

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そして「バルザック」。

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この「バルザック」において、ロダンはもはや「時代」を突き抜けてしまったという描き方になっていました。ラストシーンは、現代の箱根彫刻の森美術館さん。子供達が「バルザック」を使って「だるまさんが転んだ」で遊んでいます。時代を超え、国を超え、愛されるロダン作品、という演出でしょうか。

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ロダンは芸術家としては超一流、ところが人としては……という描写、しかし、そうでなければ生み出せなかった偉大な彫刻群、という意図も感じられます。光太郎に観せたかった一作です。

せひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

ロダンの作を見れば、直ちに人間を見る事が出来る。生きた人間に接した時よりも更に人間的な人間の力を見る事が出来る。

散文「MÉDITATIONS SUR LE MAÎTRE」より
明治43年(1910) 光太郎28歳

光太郎がロダンを評した文章のうち、初期のものの一つです。

このコーナー、筑摩書房『高村光太郎全集』からほぼ掲載順に言葉を拾っていますが、今回はロダンがらみの内容ということで、若干順番を変えさせていただきました。

光太郎が終生敬愛した彫刻家、オーギュスト・ロダンがらみです。

まずは米国発のニュース。

ロダン作のナポレオン胸像、米市庁舎で偶然発見 80年間誰も気づかず

【AFP=時事】近代彫刻の父と称される彫刻家オーギュスト・ロダン(Auguste Rodin)が制作したフランス皇帝ナポレオン・ボナパルト(Napoleon Bonaparte)の胸像が米東海岸のとある町の市庁舎で数十年にわたりひっそりと眠っていた──。このほど、その発見について初めて報じられた。

 白い大理石の胸像は、ニュージャージー(New Jersey)州マディソン(Madison)の市庁舎で見つかった。制作者不明のまま80年間、台座の上に置かれていたのだという。

 同市は2014年、所有する美術品の目録を作成するため、美術史を勉強する22歳の学生を採用した。学生は、一目でロダンのスタイルとわかる胸像に「A. Rodin」のサインが入っていることに気が付いた。

 この胸像に好奇心を抱き、学生はすぐに確認作業を開始。専門家らに相談し、過去の保存記録を徹底的に調べ、最終的にロダン研究の権威でパリ(Paris)を拠点とする「Comite Auguste Rodin」に助言を求めた。

 謎はすぐに解けた。同団体が収集した資料の中から写真が見つかり、その写真には長らく紛失したと考えられていた胸像とロダンが一緒に写っていたのだ。そして2015年9月、胸像を鑑定するために専門家がマディソンの市庁舎を訪れた。鑑定作業は数十秒で終わった。胸像は1904年、ニューヨーク(New York)州の著名弁護士の妻から制作を依頼されたもので、400万~1200万ドル(約4億6000万~13億7000万円)の価値があると分かった。

 ロダンの胸像と判明してから約2年が経過して、今回その発見について初めて発表された。窃盗などの恐れがあるとの理由でこれまで秘密にされていたのだという。フィラデルフィア美術館(Philadelphia Museum of Art)に移されることも併せて発表された。【翻訳編集】 AFPBB News
2017年10月25日

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こういうことがあるのですねぇ。しかし、「400万~1200万ドル」とは……。まぁ、大理石の一点ものですから、そのくらいしてもおかしくないのでしょう。

見つかったのは数年前のようですが、今年はロダン歿後100年ということで、不思議な因縁を感じます。

歿後100年ということで、再び注目の集まるロダン。テレビ番組でも取り上げられます。

ザ・プロファイラー 夢と野望の人生 「彫刻に“生命”を刻んだ男~オーギュスト・ロダン~」

NHKBSプレミアム 2017年11月2日(木) 21時00分~22時00分

岡田准一がMCを務める歴史エンターテインメント。「考える人」「地獄の門」で知られ、今年、没後100年を迎える彫刻家ロダン。30歳をすぎても、貧乏生活から抜け出すことができず、苦悩に満ちた日々を送った。こだわったのは「男の裸」。ところが、名声を得た後、1人の女性との関係をきっかけに、女性像や愛をテーマとした作品を発表するように。だが、その女性との関係は悲劇的な結末に。人間味あふれる人生に迫る。

司 会 岡田准一
ゲスト 鹿島茂,若村麻由美,篠原勝之

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そして、映画でも。

ロダン カミーユと永遠のアトリエ

公  開 : 2017年11月11日(土)より 全国ロードショー
場  所 : 新宿ピカデリーBunkamuraル・シネマ ほか
出  演 : ヴァンサン・ランドン (オーギュスト・ロダン)
         イジア・イジュラン (カミーユ・クローデル) 他
監  督 : ジャック・ドワイヨン 
配  給 : 松竹、コムストック・グループ
上映時間 : 120分

「地獄の門」「考える人」などの作品で知られ、「近代彫刻の父」と称される19世紀フランスの彫刻家オーギュスト・ロダンの没後100年を記念して製作された伝記映画。弟子入りを切望する女性彫刻家カミーユ・クローデルと出会ったロダンが、彼女の才能と魅力に惹かれていく姿を描く。

1880年、パリ。40歳の彫刻家オーギュスト・ロダンはようやく国から作品制作を依頼されるようになり、後に代表作となる「地獄の門」を生み出していく。その頃、内妻ローズと暮らしていたロダンだったが、弟子入りを願う女性カミーユ・クローデルが現れ、彼女の才能に魅せられたロダンはクローデルを助手にし、やがて愛人関係になっていくが……。

「ティエリー・トグルドーの憂鬱」でカンヌ国際映画祭主演男優賞を受賞したヴァンサン・ランドンがロダンに扮し、カミーユ・クローデルをフランスで歌手としても活躍しているイジア・イジュランが演じた。監督・脚本は「ポネット」の名匠ジャック・ドワイヨン。


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それぞれ、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

今放たれて翼を伸ばし、 かなしいおのれの真実を見て、 三列の羽さへ失ひ、 眼に暗緑の盲点をちらつかせ、 四方の壁の崩れた廃墟に それでも静かに息をして ただ前方の広漠に向ふといふ さういふ一つの愚劣の典型。
詩「典型」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

「典型」は、光太郎自身。明治・大正・昭和を生き、忠君愛国の精神で塗り固められ、戦時中には道を誤った「愚劣の典型」だというのです。

昨日ご紹介した「偶作」同様、「それでもやれることをやろう」といった建設的な方向にベクトルが向いていた点は、高く評価されて然るべきだと思います。

光太郎の朋友・荻原守衛の談話筆記が載った古い雑誌を入手しました。

『商業界』という雑誌で、明治43年(1910)1月1日発行の臨時増刊号。「世界見物」という副題です。

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その名の通り、世界各地のレポート、観光案内などから成り、そのうち、フランスを紹介する項の中に、守衛による「仏蘭西の美術学生」と題する談話筆記が載っていました。

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守衛は海外留学でアメリカとフランスを行ったり来たりしており、滞仏していたのは、明治36年(1903)から翌年にかけてと、同39年(1906)から翌年にかけてです。39年の夏頃、ニューヨークで光太郎と知り合っています。守衛2度目の滞仏中は、光太郎はまだニューヨーク、そしてロンドンでしたが、ロンドンに移ってからは、パリの守衛とお互いに行き来しています。

そういうわけで、光太郎も見たであろう同じパリの風俗が、ほぼリアルタイムで語られており、非常に興味深く拝読しました。光太郎自身にもパリの回想や、守衛のこれと同じような雑誌への寄稿もありますが、それを補うような内容でした(守衛以外の人物が書いたパリの様子も)。

守衛は同43年(1910)、数え32歳の若さで病歿します。その翌年、雑誌等に発表された文章を集めた『彫刻真髄』という書籍が刊行されました。光太郎が雑誌『方寸』に寄せた追悼文「死んだ荻原君」なども掲載されています。
「仏蘭西の美術学生」は、『彫刻真髄』には漏れていますが、信州安曇野碌山美術館さんの学芸員氏によれば、同館元館長の仁科惇氏の書かれた『荻原碌山 その生の軌跡』(昭和52年=1977)の中で紹介されているということでした。

で、もともとその予定で購入したので、『商業界』、碌山美術館さんに転送しました。あるべきものがあるべきところに収まって、良かったと思います。

碌山美術館さんといえば、先の話ですが、12月2日(土)に、美術講座「ストーブを囲んで 「荻原守衛と高村光太郎の交友」を語る」が開催されます。パネルディスカッション的なものですが、それほど肩のこらない企画です。当方にパネリスト的な依頼があり、喜んでお引き受けいたしました。近くなりましたらまたご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

その詩を戦地の同胞がよんだ。 人はそれをよんで死に立ち向かつた。 その詩を毎日読みかへすと家郷へ書き送つた 潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

連作詩「暗愚小伝」断片の「わが詩をよみて人死に就けり」より
 昭和22年(1947) 光太郎65歳

昨日同様、連作詩「暗愚小伝」全20篇を構想する中で、結局は没になった一篇から。終戦の年からの、花巻郊外旧太田村での、自虐に等しい7年間の山小屋生活を送らざるを得なかった理由、それが凝縮された一節です。

昨日のロンドンに続き、パリです。テルミン奏者の大西ようこさんが、フランス南部のエクス=アン=プロヴァンス、そしてパリでコンサートをなさり、それならぜひ光太郎ゆかりの地にいらして、写真を撮ってきてくださいと事前にお願いしておきました。

そして、無事帰国されたとメールを頂きました。以下、現地の画像を大西さんのブログから転載させていただきます。


まずは光太郎が住んだ下宿。光太郎が満を持してパリに移り住んだのは、明治41年(1908)6月のことでした。パリではモンパルナスのカンパーニュ・プルミエール通り17番地のアトリエに住みました。

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画像右上に「17番地」を表すプレートが写っていますね。同じ建物にはロダンと交友のあった詩人リルケが住み、ロダン本人もここを訪ねています。また、隣の通りにはロマン・ロランも住んでいました。

光太郎はアトリエに近いアカデミー・ド・ラ・グランド・ショーミエール(Académie de la Grande Chaumière)に籍を置きましたが、それ以外に語学の習得のため、日本語と仏語の交換教授をしていた「ノルトリンゲル女史」の手引きでフランス近代詩を教わったそうです。ヴェルレーヌやボードレールの詩作態度にうたれ、のちの詩作の原点がここにもあります。

ちなみにこの「ノルトリンゲル女史」に関して005は、従来、バーナード・リーチの紹介で知り合ったという程度しか分かっていませんでしたが、ジャポニズム学会所属桂木紫穂氏の調査により、『失われた時を求めて』で有名なマルセル・プルーストと親交のあった美術研究家・金属造形作家マリー・ノードリンガー(1876~1961)であることが判明しています。光太郎より7歳年上のマリーと光太郎、淡いロマンスもあったようです。

それ以外に、パリでの光太郎は、あちこち見物に歩いていました。帰国後の明治45年(1912)に発行された雑誌『旅行』に寄せた「曽遊紀念帖」という文章を数年前に見つけていたので、そのコピーを大西さんに渡しておきましたところ、そこに登場するほとんどの場所を廻って下さいました。

パンテオン(Panthéon de Paris)。18世紀後半にサント=ジュヌヴィエーヴ教会として建設され、後にアレクサンドル・デュマ、ヴィクトル・ユーゴー、ジャン=ジャック・ルソー、ヴォルテールらフランスの偉人たちを祀る霊廟となった建物です。かつてはここの前庭に、ロダンの「考える人」が設置されていました。現在はロダン美術館に移されています。光太郎が初めて見た「考える人」の実物でした。

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リュクサンブール公園内にあるメディシスの噴水(Fontaine de Medicis)。1624年の制作です。

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サンミツシエルの噴水。サンミッシェル通り(Saint-Michel)沿いはカルチェ・ラタン地区(Quartier Latin)と呼ばれている学生街。ソルボンヌ大学を中心に広がり、その昔、大学では ラテン語が使われていたことにより「ラテン語の地区」という意味に由来します。

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サント・シャペル教会 (Sainte chapelle)。「聖なる礼拝堂」という意味で、フランスのパリ中心部、シテ島にあるゴシック建築の教会堂です。

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オペラ座(Théâtre National de l'Opéra, Paris)。フランスを代表するオペラ劇場で、1669年設立の王立音楽アカデミーが起源。その後たびたび名称変更、移転を繰り返しました。現在の壮麗な大歌劇場は1875年、ガルニエの設計で完成、ガルニエ宮ともよばれています。

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「曽遊紀念帖」にはこんな記述も。

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この写真の場所は、つい最近気がつきましたが、昭和61年(1986)、第30回連翹忌が開催されたカフェ、クロズリー・デ・リラ(La Closerie des Lilas)でした。光太郎の下宿にも近く、画家のモネ、ルノワール、アングル、ピカソ、詩人のアポリネール、さらにはレーニンやトロツキーもここによく来たそうです。


大西さんのブログには、転用させていただいた以外にも、たくさんの画像と楽しいレポート。当方もますます行きたくなりました。さらに昨日ご紹介したロンドン、それからその前に光太郎が1年あまり居たニューヨーク、そして留学からの帰国直前の明治42年(1909)春に旅したスイスやイタリアの諸都市、ぜひとも廻ってみたいものです。いつのことになるやら……ですが(笑)。


【折々のことば・光太郎】

たつた一度何かを新しく見てください あなたの心に美がのりうつると あなたの眼は時間の裏空間の外をも見ます どんなに切なく辛(つら)く悲しい日にも この美はあなたの味方になります

詩「手紙に添へて」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

絶唱「レモン哀歌」をはじめ、後に光太郎詩文を数多く掲載してくれる、若い女性向けの雑誌『新女苑』への、確認できている限り初の寄稿です。暗い世相にも負けず、心に美を持つことの大切さを説いています。

詩人の豊岡史朗氏から文芸同人誌『虹』が届きました。毎号送って下さっていて、さらに創刊号~第3号第4号第5号第6号と、ほぼ毎号、氏による光太郎がらみの文章が掲載されており、ありがたく存じます。

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今号では「<高村光太郎論> 光太郎とパリ」。光太郎が明治41年(1908)から翌年にかけ、3年余に及ぶ欧米留学の最後に滞在したパリとの関わりを述べられています。

パリ時代を回想して作られた詩文がかなり網羅されており、短い稿の中ですっきりまとまっています。連作詩「暗愚小伝」中の「パリ」(昭和22年=1947)、随筆「遍歴の日」(同26年=1951)、長詩「雨にうたるるカテドラル」(大正10年=1921)、談話筆記「パリの祭」(明治42年=1909)、翌年のやはり談話筆記で「フランスから帰つて」、随筆「出さずにしまつた手紙の一束」(同43年=1910)、同じく「よろこびの歌」(昭和14年=1939)、さらには光太郎の実弟・豊周の回想も引かれています。

また、巻末の「パリの思い出」でも光太郎に触れられている箇所がありました。

当方は未だパリには行けずにおります。いずれ光太郎の辿った道のり、ニューヨーク、ロンドン、パリ、そしてスイスとイタリアの諸都市を廻ろうとは考えておりますが、いつになることやら(笑)。

パリといえば、親しくさせていただいているテルミン奏者の大西ようこさんが、先週、フランスのエクス=アン=プロヴァンスでコンサートをなされ、パリにも廻るとのことで、ぜひ光太郎が住んでいたカンパーニュ・プルミエル通り17番地界隈に行ってみて下さいと、資料をお渡し、画像を撮ってきて下さいとお願いもしました。そろそろ帰国されると思いますので、期待しております。

過日は、今年の連翹忌に初めてご参加下さった方から、ロンドンの光太郎ゆかりの場所を廻って来られたということで、多くの画像がメールで届きました。そちらも併せてご紹介しようと思っております。

ご期待下さい。


【折々のことば・光太郎】

人間商売さらりとやめて もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の うしろ姿がぽつんと見える。

詩「千鳥と遊ぶ智恵子」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

舞台は3年前、智恵子の母・センと、妹・セツの一家が移り住んでおり、それを頼って心を病んだ智恵子が半年ほど預けられた、千葉の九十九里浜です。「智恵子抄」中の絶唱の一つとして、広く人口に膾炙している詩ですね。

ところが、「智恵子抄」に収められてしまうとそれが見えないのですが、この年の雑誌『改造』に初出発表された段階では、「詩五篇」の総題で連作詩のような形を取っていました。他の四篇は、やはり「智恵子抄」に収められた「値(あ)ひがたき智恵子」(明日、ご紹介します)、一昨日と昨日ご紹介した「よしきり鮫」、「マント狒狒」、そして割愛しますが「象」。後三篇は連作詩「猛獣篇」に含まれるものです。

「人間商売さらりとやめ」た智恵子は、もはや「猛獣」に近いものと認識されていたのかもしれません。ただし、光太郎曰くの「猛獣」は、獰猛な獣ということではなく、妖怪やら鯰やら駝鳥やらを含み、人間界に箴言、警句を発する者として捉えられています。

とすると、智恵子の発する箴言や警句は、そこまで智恵子を追い込んだ光太郎に対して向けられていると言えるのではないでしょうか。それを受けて光太郎は、それまでの世間との交わりを極力経っての芸術三昧的な生き方から、積極的に世の人々と交わる方向に舵を切ります。その世の中がどんどん泥沼の戦時体制に入っていったのが、光太郎にとっての悲劇でした。

日曜日に拝見して参りました、小平市平櫛田中彫刻美術館さんの特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」。図録が販売されていましたので購入して参りました。A4判158ページ、なかなか充実した図録でした。

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作品図版は展覧会の構成に従い、「生命の芸術」、「不完全の美」、「手(Hand)」、「醜の中の美」、「群像表現」、「アッサンブラージュ」、「変貌するロダニズム」、「あとに続く作家たち」、「人体構造の追求―ロダン《バルザック》と平櫛田中《鏡獅子試作裸像》との比較から」、「ロダンへの反発」、「リプロデュースとマケット―ロダン《地獄の門》を中心に―」の、それぞれの小題にまとめられています。

その後に出品作家のプロフィール。さらに関連論文。

まずは日曜日に開催された関連行事の美術講座「ロダンと近代日本彫刻」の講師で、今回の特別展の中心と成られた同館学芸員・藤井明氏の「荻原守衛帰国以前の国内におけるロダン受容について」。

ロダン本人から「あなたは私の弟子だ」とお墨付きをもらった荻原守衛が、海外留学から帰国したのは明治41年(1908)。それ以降、日本国内でロダンの名が浸透していきますが、それ以前のロダン受容に的を絞った考察です。どうも東京美術学校関係者に限定される形で、かなり早い時期からロダンの存在が知られていたことが紹介されています。

明治23年(1890)に、同校で岡倉天心が行った講義「泰西美術史」の中に、既にその名が見えています。そして、同38年(1905)、海外留学に出る前年の光太郎が、雑誌『日本美術』に発表した「アウグスト ロダン作「バプテスマのヨハネ」」という評論を大きく取り上げて下さっています。『高村光太郎全集』第7巻に収録されていますが、当方、その存在を失念していました。『日本美術』では、「ヨハ子」と表記されていますが、これは変体仮名的な表記で「子」は「ネ」。十二支の「子・丑・寅・卯・辰・巳」の「子」です。明治末年にはまだ仮名表記も確立していません。したがって、『高村光太郎全集』では、仮名とみなして「ヨハネ」の表記を採っています。

余談になりますが、光太郎、仮名の「し」も、時折、変体仮名的に「志」で表す時がありました。「しま志た」のように。こういったケースも、『高村光太郎全集』では仮名表記と見なし、通常の「し」に置き換えています。

余談ついでにもう一つ。この評論はロダン出世作の「青銅時代」に続く大作「洗礼者ヨハネ」(明治13年=1880)を紹介するものですが、この「洗礼者ヨハネ」、光太郎晩年の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」との関連が夙に指摘されています。すなわち、それぞれこういうポーズをとった場合に、上がるはずの後ろ足の踵が上がっていない点です。これが上がっていると、見た目には非常に不安定になります。具象彫刻として一般的な技法なのかもしれませんが。

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閑話休題。この評論が、一般向けにロダンを国内で紹介した最も早い例だというので、驚きました。これまで、ロダン受容を論じる論文等で、この評論がほとんど紹介されてこなかったそうで、そういわれてみればそうだな、という感じでした。そこで当方も、この評論の存在を失念していました。

続いて、今週土曜日に関連行事として講演「歿後100年。本当のロダンをご存知ですか?」をなさる日本大学芸術学部の髙橋幸次教授の「ロダンとは誰なのか、そして何なのか」。端的にまとめられたロダン評伝で、手っ取り早くロダンその人を知るにはもってこいです。

さらに、静岡県立美術館学芸員の南美幸氏の「フランスにおける日本人のロダン作品体験 1900年~1918年―文献からの分析・整理」。荻原守衛、光太郎ら12人の日本人芸術家が、フランスで実際に見たであろうロダン作品の一覧を表にしています。面白い試みだと思いました。しかし、光太郎に関しては、参照されている文献が少なく、実際に光太郎が見たとされているのは「ジャン=ポール・ローランスの胸像」のみ。疑念が残ります。

そして、いつもお世話になっている碌山美術館の武井敏学芸員による「笹村草家人のロダン感」。笹村は師の石井鶴三ともども荻原守衛や光太郎に私淑し、戦後、花巻郊外太田村の山小屋に隠遁中の光太郎を訪ねたりもしている彫刻家で、興味深く拝読しました。

資料編として、「ロダン年譜」、「ロダンと日本 関連年譜」、光太郎の「アウグスト ロダン作「バプテスマのヨハ子」全文、さまざまな彫刻家のロダン評などの抜粋「ロダンへの言葉」、「参考文献」。

実に充実の内容で、これで2,000円は超お買い得です(笑)。

同展は3月12日(日)までの開催。ぜひ足をお運びの上、図録もご購入下さい。


【折々のことば・光太郎】

ロダンを嫌ふのが 進んだ人人の合言葉。 今こそ心置きなく あのロダンを讃嘆しよう。

「とげとげなエピグラム」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

王道を歩く者は、王道を歩くがゆえに批判に晒されることが多々あります。ロダンも例外ではありませんでした。その地位が確立した後は、もはやロダンは古い、と。そして、その手の王道批判こそが知識人の証しのように考えられることがありますね。

そんな中で、あえて「あのロダンを讃嘆しよう」とする光太郎。軽佻浮薄な批判には与しないと宣言しているわけです。ただ、光太郎のロダン崇拝も、猿まね的なものや、狂信的・盲従的なものではなく、尊敬はするが、自分の北極星は彼とは別の所にある、としています。また、光太郎は彫刻のロダン以外にも、文学方面のロマン・ロランやホイットマンなど、ある意味同じように王道を歩みながら、それゆえ批判にもさらされる先達に対して同様の発言をしています。いずれまたそういう文言を紹介します。

ところで、光太郎自身もそういう憂き目にあっていますね。「光太郎は古い」と。生前もそうでしたし、現代においてもです。最近も、昨年発行された雑誌に載った辛口の批評で知られる文芸評論家のセンセイの光太郎批判が、今年になってある新書におさめられたようです。そこには全くといっていいほど、光太郎ら、そこで取り上げている人物に対するリスペクトの念が読み取れません。さらに云うなら、リスペクトの念がないから詳しく調べるということもしないのでしょう、出版事情等に関し、事実誤認だらけです。そういうものはこのブログではご紹介していません。あしからず。

年が改まりまして、自宅兼事務所に貼ってあったカレンダーを、今年のものに一新しました。ありがたいことに、いろいろな事業所さん等が無料で下さるカレンダーで、家じゅうの主要な場所はまかなえています。

このブログを書いているパソコン脇の壁には、『朝日新聞』の販売店さんから戴いた実用一点張りのカレンダー。予定等を書き込むのに最適です。

書斎には妻が購入している化粧品店さんからのカレンダー。明治41年(1908)から翌年にかけ、光太郎が留学で滞在していたモンパルナスに近い、パリ7区で活動されているフラワーデザイナー、エリック・ショヴァン氏のフラワーアレンジメント作品をあしらっています。

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バックには光太郎も愛したパリの風景が。いい感じです。

自動車保険の会社さんが持ってきて下さったカレンダーは、日本各地の風景。十和田湖に近い蔦沼の写真も使われていました。

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ちなみにこの手の大きな紙を広げていると、必ず邪魔しに来るやつがいます(笑)。

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さて、十和田といえば、十和田市の民生部まちづくり支援課さんからカレンダーが送られてきました。このところ毎年戴いているのですが、十和田市ご出身の写真家・和田光弘氏が撮影された、十和田の四季折々の写真を使った「十和田市観光カレンダー 季色彩々」です。

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2ヶ月で1枚になっていますが、いきなり1・2月のページに光太郎作の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。

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表紙にも同じ写真が使われていました。

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手前に写っている雪灯籠からして、毎年2月に開催されているイベント「十和田湖冬物語」の際のものと思われます。「乙女の像」のライトアップも為されているようです。幻想的なショットですね。こちらはもったいなくて使えません。このまま保存しようと思っております。

今年の「十和田湖冬物語」につきましては、また近くなりましたら詳細をお伝えいたします。


ところで、トイレに貼ったカレンダーには、こんなことが書いてありました。

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平成29年は「昭和92年」「大正106年」だそうです。ちなみに明治に換算すると、ちょうど明治150年ですね。全国にはまだまだ明治生まれの方もご存命と思われますが、いつまでもお元気でいてほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

ああ、走るべき道を教へよ 為すべき事を知らしめよ 氷河の底は火の如くに痛し 痛し、痛し
詩「寂寥」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

欧米留学からの帰朝後、父・光雲を頂点とする旧態依然たる日本彫刻界との対立を余儀なくされ、悶々とする日々を送っていた頃の作です。「パンの会」などのデカダンスにはまりながらも、そうした自分を醒めた目で見ているもう一人の自分がいて、これではいけない、と常に警告を発していました。

このあたりが後の無頼派との大きな相違ですね。

一昨日からの新刊紹介の流れで。

現代詩研究 第75号

2015/09/05 現代詩研究会

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福島二本松在住の渡辺元蔵氏主宰の現代詩研究会発行の同人誌です。毎号送って下さっており、ありがたいかぎりです。

発行元の所在地が二本松ということで、毎号のように光太郎智恵子関連の記事が何かしら載っています。今号は智恵子のまち夢くらぶの熊谷健一代表による「「高村光太郎留学の地芸術の都パリ研修」報告」。

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当方、成田空港までお見送りに行きましたが、昨年10月、智恵子のまち夢くらぶの皆さん、総勢7名でのパリでの光太郎足跡訪問レポートです。

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同人誌の発行にしても、足跡をたどる旅にしても、こうした地道な活動には頭が下がります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月13日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、カスリーン台風に伴う豪雨による被害を受けました。

カスリーン台風(キャサリン台風とも)は、死者1,077名、行方不明者853名を数える大きな被害をもたらしました。この数字は、昭和以降で記録が残っているうち、5番目の多さです。今回の東日本大豪雨同様、関東では堤防が決壊し(利根川、荒川)、東北でも光太郎の住む岩手で109人の死者が出たそうです。

太田村では前日から9月15日にかけ、かなりの雨量で、山小屋周辺も河川の増水による道路冠水、橋の流失などの被害が出ています。この日には光太郎の山小屋は夜間の豪雨で雨漏り、その後も小屋の廻りが冠水、畑のキュウリの棚が壊れたり、橋の流失によって郵便がしばらく届かなかったりといった被害を受けています。

天災はどうしても起こってしまいます。しかしそこに人災の要素が加わらないようにしていきたいものです。今回の東日本大豪雨でも、原発事故による除染で出た廃棄物を入れた袋が流失、というニュースも伝わっています。こういったことも「想定外」で済まされてしまうのでしょうか。

福島は二本松で智恵子顕彰活動をされている智恵子のまち夢くらぶ代表の熊谷氏から、パリ研修のレポートをいただきました。
 
10月27日から11月3日までの行程で、「高村光太郎留学の地芸術の都パリ研修」と銘打ち、光太郎が住んでいたアパルトマン兼アトリエ、光太郎が訪れた場所、光太郎と関係の深い人物ゆかりの場所などを廻られたそうです。
 
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こちらは光太郎が暮らしていた建物。
 
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Boulevard de Raspail (ラスパイユ大通り)とRue Campagne-Premièr(カンパーニュ・プルミエール通り)の交わるあたりです。
 
光太郎が暮らしていた明治41年(1908)から42年(1909)頃、同じ建物の階上にはリルケが住み、ロダンもここを訪れていました。また、近くにはロマン・ロランも住み、「ジャン・クリストフ」を書いていたとのこと。
 
光太郎はアトリエに近いアカデミーグランショミエール(L'académie de la Grande Chaumière)に籍を置き、クロッキーを学びましたが、もっぱら見物に歩き回っていたといいます。
 
数年前に、光太郎帰国後の明治45年(1912)に雑誌『旅行』に載せた「曽遊紀念帖」という文章を見つけました。
 
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これを読むと、パリで何をやってたんだ? と突っ込みたくなりますが、こうした雰囲気のパリと、伝統と格式に縛られた日本のあまりの差異に打ちのめされ、かえって何もできないでいたのです。
 
いずれ当方もゆっくりとパリでの光太郎の足跡を追ってみたいと思っています。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月1日
 
平成19年(2007)の今日、テレビ東京系「美の巨人たち」で、「高村光太郎 彫刻 手」が放映されました。
 
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メインは大正期のブロンズ「手」でしたが、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)の手にも触れました。
 
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地方紙で光太郎智恵子関連、3件ヒットしています。
 

復興願い演奏会 郡山

福島民報 11月24日(月)9時14分配信
 
 ふくしま再生プロジェクトの会(代表・田母神顯二郎=けんじろう=明治大文学部教授)主催のイベント「ふくしま、ひとしずくの物語~再生への祈りを込めて」は23日、福島県郡山市のビッグアイ・市民交流プラザで開かれた。
 同会は、朗読やコンサートを通して被災者らに癒やしと憩いの場を提供。県外でチャリティーイベントを実施し、福島の現状を伝える活動を続けている。
 今回は、第一部で世界的口笛奏者の柴田晶子さんとメジャーデビューしているピアニスト松田光弘さん、本県出身で仮設住宅への慰問などを続けているバイオリニスト山本智美さんの3人によるミニ・コンサートを開催した。第二部では智恵子抄の朗読と、10月に東京都で実施したイベントの際に、県民に向けて寄せられた応援メッセージの紹介などが行われた。
 市内の仮設住宅の住民らも含め参加した約70人は、心に染みるコンサートの音色や朗読に静かに聞き入っていた。
 
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また、同じ『福島民報』さんでは、当方が成田空港まで見送りに行った、智恵子のまち夢くらぶさんパリ研修についても報道されました。 

智恵子ファンがフランスへ

福島民報11月25日(火)10時24分配信
 
 福島県二本松市の市民団体「智恵子のまち夢くらぶ」は発会10周年を記念し、8日間の日程でフランス・パリを視察した。
 高村智恵子生誕の地・二本松で、智恵子と彫刻家・詩人で夫の光太郎の遺徳を顕彰している。今回は光太郎留学の地を一目見ようと視察を企画した。エッフェル塔やパリ滞在中に暮らしていた住宅、美術館などを訪れた。
 代表の熊谷健一さんは「町じゅうが博物館のようで、パリの人は日常的に文化芸術に触れている。私たちも見習いたい」と夢を語っていた。
 
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こういうこともニュースになるんですねぇ。
 
 
最後に「報道」というわけではないのですが、『神戸新聞』さんの一面コラムです。

正平調 2014・11・21

パラパラ漫画、である。ノートや教科書の隅に小さな絵を描いて、めくっていくと絵が動く。国語や算数の授業が、さらに高校の物理も大学の経済学も、図工の時間と化した覚えが、ないとは言わない◆このパラパラ漫画を使ったアニメ作品で今、引っ張りだこなのがお笑いタレントの鉄拳さんだ。NHKの朝の連続ドラマ「あまちゃん」に出てきたアニメと言えば、思い浮かぶ方も多いだろう◆インタビューを読むと、手書きにこだわり、1分間のアニメを作るのにおよそ360枚を描くという。1作品で最低2千枚というから、これは職人技の手仕事である◆その鉄拳さんのアニメが、きょうからJR西日本の駅や車内の画面で流れる。忘年会シーズンを前に、転落事故防止キャンペーンに一役買うそうだ。この冬はディズニーの新作宣伝も手がける多忙ぶりで、お笑いの方は休業中とか◆手仕事のイメージから、勝手に工房のような仕事場を想像してみる。例えば、高村光太郎の詩集「をぢさんの詩」にあるような。「冬日さす南の窓に坐(ざ)して蝉(せみ)を彫る/時処をわすれ時代をわすれ人をわすれ呼吸をわすれる」(「蝉を彫る」より)◆呼吸をわすれた作家の周りを、ゆったり時間が流れる。作品に、見る人がふと立ち止まる一こまを刻むために。パラパラ漫画の奥深さよ。
 
鉄拳さんと光太郎を結びつけるという発想は当方にはありませんでした(笑)。
 
引用されている詩「蝉を彫る」は昭和15年(1940)の作。すでに智恵子亡く、孤独なアトリエでの一コマです。
 
    蝉を彫る
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冬日さす南の窓に坐して蝉を彫る。
乾いて枯れて手に軽いみんみん蝉は
およそ生きの身のいやしさを絶ち、
物をくふ口すらその所在を知らない。
蝉は天平机(てんぴやうづくゑ)の一角に這ふ。
わたくしは羽を見る。
もろく薄く透明な天のかけら、
この蟲類の持つ霊気の翼は
ゆるやかになだれて追らず、
黒と緑に装ふ甲冑をほのかに包む。
わたくしの刻む檜の肌から
木の香たかく立つて部屋に満ちる。
時処をわすれ時代をわすれ
人をわすれ呼吸をわすれる。
この四畳半と呼びなす仕事揚が
天の何処かに浮いてるやうだ。
 
画像は昨年開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」千葉展のポスターです。
 
ところで『神戸新聞』さんの「正平調」では、たび たび光太郎に触れて下さっています。お書きになっている方が光太郎ファンなのでしょうか?
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月26日
 
昭和46年(1971)の今日、新橋演舞場で開催されていた「新派十一月公演」が千秋楽を迎えました。
 
昼の部で、北條秀司脚本、初代水谷八重子さん主演の「智恵子抄」が演目に入っていました。
 
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板橋区在住の坂本富江さまから情報を頂きました。
 
『東京新聞』さんにノンフィクション作家・大野芳さんの「幻の女優 マダム・ハナコ」という連載があるとのことで、切り抜きも送って下さいました。
 
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だいぶ前のこのブログでご紹介しましたが、「ハナコ」とは明治末から大正にかけ、欧州各地で日本人一座を率いて公演を続け、各地で絶賛された日本人女優です。
 
明治元年(1868)、岐阜県の生まれ。本名・000太田ひさ。旅芸人一座の子役、芸妓、二度の結婚失敗を経て、明治34年(1901)、流れ着いた横浜で見たコペンハーゲン博覧会での日本人踊り子募集の広告を見て、渡欧。以後、寄せ集めの一座を組み、欧州各地を公演。非常な人気を博しました。明治39年(1906)、ロダンの目にとまり、彫刻作品のモデルを務めます。
 
花子とロダンとの交流は、大正6年(1917)のロダン死去まで続き、ロダンが作った花子の彫刻は数十点。大正10年(1921)、花子はそのうち2点を入手し帰国、岐阜に帰ります。
 
ロダンと関わった数少ない日本人の一人というわけで、昭和2年(1927)、光太郎が岐阜の花子を訪問。この時の様子は同じ年、光太郎が刊行した評伝『ロダン』に描かれています。
 
昭和20年(1945)、花子、死去。やがて人々から忘れ去られていきます。
 
大野さんの「幻の女優 マダム・ハナコ」、ドナルド・キーンさんによる花子遺族の訪問を軸に描かれていますが、光太郎と花子の交流についても触れられています。連載の6回目にあたる4/22には、光太郎から花子宛の書簡の写真が掲載されていました。
 
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さて、ネットでいろいろ調べてみたところ、大野さんの「幻の女優 マダム・ハナコ」は系列の『中日新聞』さんでも連載されているようですし、新潮社さんから刊行されている雑誌『新潮45』の4月号に大野さんの同名の記事が載っています(早速注文しました)。
 
「花子」といえば朝ドラの「花子とアン」での村岡花子さんが旬ですが、もう一人の「花子」にも注目していただきたいものです。ちなみに余談になりますが、「花子とアン」、当方の住む千葉県香取市でもロケが行われています。 吉高由里子さん演じるヒロインの花子が、初恋の相手の帝大生に別れを告げるシーンや、花子のお父さん役の伊原剛志さんが社会主義伝道をしているシーンなど。
 
さて、記事を送って下さった坂本富江さんは、智恵子も所属していた太平洋画会の後身・太平洋美術会さんの会員です。来月には第110回太平洋展が開催され、坂本さんは智恵子の故郷・二本松に近い三春の滝桜の絵を出品なさるとのこと。
 
会場は六本木の国立新美術館、会期は5/14(水)~26(月)です。ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】4月27日

明治24年(1891)の今日、光雲が東京美術学校から「楠正成銅像」模型主任を命ぜられました。
 
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今週土曜日(4/19)、地上波テレビ東京系の「美の巨人たち」にて、カミーユ・クローデルがメインで扱われます。 

美の巨人たち カミーユ・クローデル『ワルツ』

地上波テレビ東京系 2014年4月19日(土)  22時00分~22時30分
BSジャパン 2014年5月14日(水) 22時54分~23時24分
 
番組内容
今日の作品はカミーユ・クローデル作『ワルツ』。高さ45cm程のブロンズ像、男女がワルツを踊る姿は躍動感に溢れています。ところが、どこか危うく不安定。なぜ倒れそうな程に傾いているのか?師であり愛人であったロダンへの想い、そして苦悩…そこには彼女の葛藤と決意が込められていました。また作品誕生にまつわる偉大な音楽家とは?困難な時代を生きた女性彫刻家カミーユ、作品に込められた情愛、プライド、悲しみに迫ります。
 
ナレーター 小林薫
 
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以前にも書きましたが、カミーユは、光太郎が敬無題愛していたロダンの弟子にして愛人です。
 
それなりに才能に恵まれていながら、偉大なる師の蔭で、「しょせんはロダンの猿真似」と酷評され、ロダンにも捨てられ、最期は精神病院で寂しく歿するという、何やら智恵子を彷彿とさせられる生涯でした。
 
今回扱われる「ワルツ」という作品も、そういう背景抜きには語れない作品のようです。地上波テレ東系が受信できない地域の方、BS放送で来月オンエアされます。ぜひご覧下さい。
 
もう一人、ロダンの弟子といえば、光太郎の親友だった荻原守衛(カミーユほど長い間、直接に指導を受けたわけではありませんが)。
 
来週火曜日(4/22)は守衛の命日・碌山忌です。信州安曇野の碌山美術館にて、碌山忌の集いが開かれます。
 
詳細は以下の通り。

碌山忌(104回忌)

2014年4月22日(火)

会場:碌山美術館(入場無料)
 ミュージアムトーク 10時30分 14時30分
 碌山忌コンサート(館庭) 13時30分~15時30分
 墓参  16時~
 研究発表会 17時~17時45分 杜江館2階
 「イタリア・エジプト日記と旅スケッチの考察」同館学芸員・武井敏氏
 碌山を偲ぶ会  18時15分~ グズベリーハウス
 
碌山忌記念講演会 2014年4月27日(日) 13時30分~15時
「日本彫刻史上の橋本平八」 毛利伊知郎氏(三重県立美術館長) 杜江館2階
 
昨年の碌山忌は、何と雪でした。まさか今年は大丈夫だとは思いますが……。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月16日000

平成11年(1999)の今日、文化庁特別会議室において平成11年第4回文化財保護審議会が開催され、光雲の木彫「老猿」を重要文化財に指定する旨の答申がなされました。
 
この年は近代の作品の指定が多く、同時に指定されたのは、黒田清輝の油絵「湖畔」、土田麦僊の日本画「絹本著色湯女図」、同じく村上華岳で「絹本著色日高河清姫図」などでした。
 
そういえば、今年の2月に「美の巨人たち」で取り上げられた守衛の「」(石膏原型)も昭和42年(1967)に重要文化財に指定されています。
 
いずれ光太郎の彫刻もそうした指定を受けて欲しいものです。

昨日は、ロダン作の彫刻「カレーの市民」にからめ、作者の意図と展示の方法といった点について述べました。せっかくの作者の意図が反映されないような展示の仕方は避けてほしいものです。
 
同様に、作者の意図と出来上がった作品との間に齟齬が生じるケースがもう一つあります。「鋳造(ちゅうぞう)」に関する問題です。
 
一口に「彫刻」といっても、大まかに分けて二種類の作り方があります。二種類、という点を強調した場合、「彫刻」ではなく「彫塑(ちょうそ)」といいます。「彫」と「塑」に分かれるということです。
 
一つは、材料となる木や石を彫って作る方法。余計な部分をそぎ落として行くわけで、マイナスの方向にベクトルが向きます。これが「彫」。出来た作品は「彫像」と呼びます。
 
もう一つは「塑」。粘土を積み重ねて作る方法です。こちらはゼロの状態からどんどんプラスしていくわけです。出来た作品は「彫像」に対して「塑像」と呼びます。
 
そう考えると、全く逆のプロセスですね。ロダンにしても光太郎にしても、「彫」、「塑」、両方に取り組んでいます。ただ、ロダン、というかミケランジェロやベルニーニなど西洋の「彫」は主に大理石であるのに対し、光太郎や光雲など日本の「彫」は主に木を使うという違いはあります。
 
「彫」の場合は、通常、最初から完成まで、作者自身の手で行われます。ただし、光雲の場合、弟子が大部分を作り、仕上げだけ光雲が担当、それで「光雲作」のクレジットが入るということもあったそうです。もちろん弟子にも代価が入るのですが。光太郎は弟子は取らない主義でしたから、そういうことはなかったようです。
 
ところが「塑」の場合は、作者が手がけるのは粘土で原型を作るところまでというのが通例です。その後、石膏で型を取り、金属(ブロンズなど)を流し込んで(これを「鋳造」といいます)完成となるのですが、鋳造は専門の鋳金家が行うのが普通です。光太郎の弟、豊周(とよちか)は人間国宝にも指定された鋳金家で、大部分の光太郎塑像の鋳造を手がけています。
 
光太郎に対しての豊周のように、気心の知れた鋳金家が仕事をしてくれれば、作者の意図がかなり反映された鋳造になるのでしょうが、作者の死後に無関係の鋳金家によって鋳造されたものなどはその限りではないようです。
 
高村光太郎研究会から年刊刊行されている『高村光太郎研究』第33号に載った大阪の西浦基氏の「彫刻に燃える-ロダンとロダンに師事した荻原守衛とロダンに私淑した高村光太郎と-」によれば、ロダン彫刻にそういうケースがあるとのこと。
 
下の画像は氏からいただいたフランスのロダン美術館にある「接吻」の写真です。
 
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男の右の掌は、女の腿にしっかりと密着しています。ところが、日本に来ている「接吻」のブロンズ(ロダン死後の鋳造)では、この掌が浮いていて、指先だけが触れているようにしか見えないというのです。作のモチーフがモチーフだけに、この手の位置は重要な意味を持ちます。それが反映されていない鋳造では……。
 
もっとも、市場に出回っているブロンズの塑像の中には、原型から型を取ったのではなく、既に出来たブロンズからさらに型を取り、鋳造した粗悪なものもあるとの話を聞いたことがあります。当然、細部は甘くなりますね。そういうインチキにだまされないようにしたいものです。

昨日に引き続き、「彫刻」と「視点」の問題を。
 
「カレーの市民」。ロダンの代表作の一つで、1895年(明治28年)に序幕された6人の群像です。「カレー」はフランス北部、ドーバー海峡に面した都市です。
 
光太郎の「オオギユスト ロダン」(昭和2年=1927 『高村光太郎全集』第7巻)から、像の背景と制作時のエピソードを以下に。
 
彼が「地獄の門」の諸彫刻に熱中してゐる間にフランスの一関門カレエ市に十四世紀に於ける市の恩人ユスタアシユ ド サンピエルの記念像を建てる議が起つた。其話をカレエ市在住の一友から聞かされ、いろいろの曲折のあつた後、雛形を提出して、結局依頼される事になつた。ルグロやカザンの骨折が大に力になつたのだといふ。十四世紀の中葉、カレエ市を包囲した英国王エドワアドⅢ世が市の頑強な抵抗に腹を立てて、市を破壊しようとした時、残酷な条件通り身を犠牲にする事を決心して市民を救つた当年の義民の伝を年代記で読んだロダンはひどく其主題に打たれた。犠牲に立つた者は一人でなくして六人であつた。ロダンは一人の銅像の製作費で六人を作る事を申出で、十年かかつて「カレエの市民」を完成した。
 
さて、下の画像は大阪の西浦氏からいただいた、フランス・カレー市庁舎前に設置された「カレーの市民」の写真です。台座の高さが低いのがお判りになるでしょうか。
 
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再び光太郎の「オオギユスト ロダン」から。
 
ロダンは此群像をカレエ市庁の階段の上の石畳へ置いて通行する者と同列の親密感を得させたいと考へた。
 
いわゆる英雄や偉人の肖像とは違い、街を救った義民の群像ということで、高い台座の上に見上げる形でなく、見る人の目線の高さに配置する事をロダンは望んだというのです。彫刻自体も、6人の中には、頭を抱えて苦悩するポーズの人もいます。見る人に「あなたたちと同じ普通の人なんだよ」というメッセージを放っているわけです。
 
こうしたロダンの考えのもと、現在のカレー市庁前の「カレーの市民」は、画像のように低い台座に設置されているのです。
 
しかし、完成当初はそうしたロダンの考えは容れられず、1924年(大正13年)までは、通例に従って高い台座上に設置されていたとのこと。「芸術の国」、フランスでさえそうだったのですね。
 
「カレーの市民」、同じ型から12基が鋳造され、世界各地に散らばっています。おおむねロダンの意図通り、低い位置での展示が為されているようです。さらにアメリカでは、これが「ロダンの真意だ」と、6人をバラバラに配置し、その間を人が歩けるようにした展示をしている所もあります。当方、よく調べていないので、本当にそれがロダンの真意かどうかは判りません。詳しい方はご教授いただけるとありがたいのですが……。
 
12基のうちの一つは、上野の国立西洋美術館前庭にあります。多くは語りませんが、ここのものは「高い台座」の上に「鎮座ましまして」いらっしゃいます。多くは語りませんが……。

カミーユ・クローデル。
 
昨日御紹介した「ロダン翁病篤し」に名前があったロダンの弟子の一人だった女性です。1864年の生まれ。この名前が出てくると、当方、胸を締め付けられる思いがします。
 
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光太郎が昭和2年(1927)に書き下ろしで刊行したアルス美術叢書『ロダン』から。
 
クロオデル嬢は詩人クロオデルの同胞、嬢自身もロダンの弟子となつて優秀な彫刻を作つてゐる。書くことを許せ。彼女の美はロダンの心を捉へ、一時ロダンをして彼女の許へ走らしめた。ロダン夫人は後年当時の苦痛を思出してはよくロダンに述懐した相である。「でもお前を一番愛してゐたのさ、だつて今だに其処にゐるのはお前ぢやないか、ロオズ、」と其度にロダンは慰めた。クロオデル嬢は巴里の北二十五里程あるシヤトオ チエリイの近くから出て来てロダンの弟子となり、直ぐ才能を表はして「祖母」で三等賞を取つたりしたが、後にロダンと別れてから健康を害し、ヸル エヴラアルに閉囚せられてゐたといふ。ロダンの一生に於ける悲しい記憶の一つである。
 
光太郎は婉曲に書いていますが、「健康を害し」は「精神を病んで」という意味です。
 
19歳の時に42歳のロダンに弟子入りし、激しい恋に落ち、ロダンの子供を身ごもります。しかしロダンには内妻ローズ・ブーレが既にいました。結果、中絶。
 
光太郎は「優秀な彫刻を作つてゐる」と好意的に表しています。実際、ロダンの作品の助手としても腕をふるっていましたが、彼女単独の作品は、同時代のフランスでは「ロダンの猿まね」という評もありました。
 
そうしたもろもろが積み重なって、精神に破綻を来したのです。
 
これは彼女の代表作の一つ「分別盛り」。
 
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左の男性はロダン。よく見るとその背後から覆い被さる老婆が男を連れて行こうとしています。この老婆がローズ。そして右の取りすがる女性がカミーユ自身です。悲しい彫刻です……。
 
彼女が入院したのはかなり劣悪な環境だった病院でした。そこで「ロダンが彫刻のアイディアを盗みに来る」との妄想にとりつかれていたとのこと。実に30年の入院を経て、恢復することなく、1943年、歿。
 
ある意味、智恵子を連想させませんか?
 
光太郎にはロダンのように三角関係的な話は表だってはありませんが、巨大な才能の前につぶされてしまった才能、という意味ではロダンとカミーユ、光太郎と智恵子は相似形を形作っています。
 
芸術の世界とは、かくも恐ろしい物なのですね……。

一昨日の国会図書館での調査で見つけた、『高村光太郎全集』等未収録の作品を御紹介します。
 
大正6年(1917)2月2日の『東京日日新聞』に載った談話です。内容はロダンに関して。ロダンはこの年11月に亡くなりますが、その前から何度か重病説が報じられ、これもその時のものです。
 
ロダン翁病篤し 大まかな芸術の主 作品は晩年に一転して静に成て来た
 
『ロダンは千八百四十年巴里の生れで本年十一月十四日で満七十七歳になる。工芸学校に入学し、昼はルーブル美術館に、夜は図書館に通ひ、尚動物彫刻の大家バリに学んで刻苦精励し十七歳で卒業し、一人前になつて芸術家といふよりは職人の生活に入つた。
 在学中三度まで美術家の登竜門なるボザー(官立美術学校)の入学試験を受けたが、三度まで素描で落第し終に断念したが、晩年この事を人に語つては「あの時落第したのは実に幸福だつた」と述懐した。彼の職人生活はかなり長く具に辛酸を嘗めた。
 其間の仕事といふのは噴水の装飾とか壁縁の装飾の石膏細工であつたが、その下らない仕事こそ後年立派な果実を結ぶ根を養つたのであつた。廿三歳の時シヤンバーニユの田舎娘なるローズと結婚し翌年彼の有名な「鼻の潰れた男」をサロンに出して美事に刎られた。
 それは無論出来の悪い為では無く当時の審査官の固持せる美の標準からは醜悪極まる物に見えたのであつた。其の證拠には三年後のサロンで同じ物が立派に通過した、
 普仏戦争の最中白耳義に出稼ぎし白耳義にはその当時の作品が沢山残つてゐる。卅六歳の時までその国に滞在して、問題の作品「黄銅時代」を作り掛けたのも其頃だつた。「黄銅時代」は等身大の男の立像で、人間の精神の覚醒を象徴したので足一本に半年も費やした苦心の作だつたが、仏国へ帰つてサロンに出品すると一旦授賞を決定され間も無く取消された。といふのは余りに真に迫つてゐた為、生きてゐる人間の身体に型をあてて取つた詐欺的の作品といふ誤解を受けたからだ。
 其うち彼の真の技倆を認める人が多くなつて、四十歳の時同一の物をサロンに再び出して三等賞を受け先年の寃が雪がれた上政府に買上られ、今はルクサンブール美術館にある。この時代から彼の製作の速力は増大し、毎年多数の傑作を産んで其名声は漸次世界的になつた。続いて出たのが『聖ジヨンの説教』『アダム』『イヴ』ポルトロワイヤル庭園にあるユーゴーの記念像等である。
 装飾美術館のダンテの門を飾るべき『フランチエスカの群像』『三人の影』『思想』等をも作つた。ダンテの門は中止になり、『思想』は彼の希望に依りパンテオンの前に安置されたが、これはダンテの神曲の中の地獄へ落ち行く人から思ひ付いたもので彼の代表作と呼ばれてゐる。
 文豪バルザツクの記念像を頼まれ、似てゐないといふので刎ねられたこともあつた。その頃から彼の作風は一転化を来たして大まかな綜合的な芸術となりだんだん単純に静かになつて来た。彼には女弟子クローデル、男弟子エミール・ブールデルの他に余り有名な弟子はない。』
 

00311月にロダンが亡くなった際にも、光太郎の追悼談話があちこちに掲載されましたが、重病説の時に語った談話は今回が初めての発見でした。
 
ロダンの生涯が簡潔に、しかし押さえるべき点はきちんと押さえた上で語られています。途中に出てくる「ダンテの門」というのは「地獄の門」、「思想」というのが「考える人」です。
 
「廿三歳の時シヤンバーニユの田舎娘なるローズと結婚し」とありますが、それは事実婚ということで、その時点では入籍していません。もちろんそれは光太郎も知っていました。
 
二人が入籍したのは、この談話が掲載される直前の1月29日。その点に関する記述がないため、この時点では光太郎もそれは知らなかったようです。前年に軽い脳溢血を起こしたロダンは、以後健康に不安を抱え、同じく病気がちとなったローズとの入籍を果たしたのだそうです。しかしそれもむなしく、ローズは2月14日に歿し、ロダンの健康もすぐれません。結局、先に書いたとおり、ロダンはこの年11月に亡くなります。
 
事実婚というのは、フランスではさほど珍しいことではなかったようです。サルトルとボーボワールなどもそうでした。
 
実は光太郎と智恵子もそうです。結婚披露宴は大正3年(1914)の12月でしたが、入籍したのは智恵子の統合失調症がのっぴきならぬところまで行ってしまった昭和8年(1933)です。これは自分に万一のことがあった時の智恵子の身分保障といった意味合いもあったようです。光太郎、ロダンの真似をしたというわけではないのでしょうが、おそらく頭の片隅にはロダン夫妻の事はあったと思います。
 
光太郎とロダン、他にもたどった軌跡に奇しくも共通点があります。それは先の談話の最後に書かれている「女弟子クローデル」について。そのあたりを明日のブログに書きましょう。

国立西洋美術館の「手の痕跡」展にからめ、光太郎とロダンのかかわりについて述べてみます。
 
筑摩書房発行『高村光太郎全集』の第7巻には、単行書にもなった評伝「オオギユスト ロダン」をはじめ、ロダンについて書かれた光太郎の評論等が数多く掲載されています。それらを読むと、光太郎がロダンによって眼を開かれ、多大な影響を受けたことが見て取れます。
 
 ロダン程、円く、大きく、自然そのものの感じを私に起させる芸術家は、ルネサンス以降に無い。埃及(エジプト)や希臘(ギリシャ)には此の「大きさ」を感じさせる芸術が尠くないが、しかし神経がまるで違ふからわれわれ自身の悩みと喜びとを同じ様に分つてくれない。此点になると、ロダンの芸術は如何にも肉身の気がする。われわれの手を取つてくれる様だ。そしてロダン其人の生活が息のやうにわれわれにかかつてくる。あらゆる善い意味に於て特に近代的だと思はせられる。何千年の歴史がロダンの中に煮つめられてゐるのを感じる。皆生きて来てゐる。人類の歩みをまざまざと見る。(「ロダンの死を聞いて」大正7年=1918)
 
しかし、光太郎もロダンを頭から肯定しつくしているわけではありません。いったん受け入れた上で、自分なりに咀嚼し、そこから独自の境地を導き出さねばただの猿真似になってしまいます。
 
限りなく彼を崇敬する私も、彼を全部承認するわけにはゆかない。むしろ承認しない部分の方が多いかも知れない。私は彼と趣味を異にする。此入口が既にちがふ。彼の堪へ得る所に私の堪へ得ないものがある。美の観念に就ても指針が必ずしも同じでない。私の北極星は彼と別な天空に現れる。(「オオギユスト ロダン」昭和2年=1927)
 
たしかに光太郎の彫刻世界は、ロダンそのものではありません。しかし、光太郎が大見得を切った程にロダンを超えられたか、というと決してそうも思えません。ただし、それは才能の問題ではなく、光太郎に架せられたもろもろの制約のせいという気もします。
 
ロダンによって眼を開かされ、留学から帰国した明治末期は、父・光雲をはじめとする古い彫刻が主流で、新しい彫刻が受け入れられる素地がありませんでした。その後も生活不如意や智恵子の統合失調症発症、そして泥沼の戦争による物資欠乏、戦後には戦争協力を恥じての山小屋生活での彫刻封印。ようやくそうした制約から解き放たれた老境には、もはや身体がついてゆかなくなってしまいます。
 
もし光太郎に、自由に彫刻制作に専念できる環境が与えられていたら、と残念に思います。
 
最後に、今回の「手の痕跡」展の出品作の中から、光太郎と同じことをやっている、というより光太郎が同じことをやっているという手法を発見しましたので。それを紹介します。
 
下の画像は、今回の出品作のうちの一つ「説教する洗礼者ヨハネ」の足です。解説板には以下のように書いてありました。「歩くという動きにたいして身体の各部分の形は不自然に見える。開いた両足には体重の移動がなく、人間が前進する動きではない。」
 
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たしかに両方のかかとがべたっと地面に着いています。歩いている足としては、これではおかしいのです。
 
また、解説板には以下の記述もありました。「右肩の関節の位置は解剖学的に正確とはいえず、よく見ると腕も異常に長い。」。つまり随所が人体としてありえない形状なのです。しかし、この彫刻は一見してそのような感じを与えません。これはどういうことなのでしょうか。
 
答えはやはり解説板から。「部分的に見ると不自然な身体の各部は、統合されたときに美しいシルエットと強い説得力をもって観者に訴えかける。」ということなのです。
 
さて、光太郎。下の画像は最晩年の十和田湖畔の裸婦像です。
 
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「説教する洗礼者ヨハネ」同様、両足のかかとがべたっと地面に着いています。ここには光太郎の意図があります。この点について、光太郎曰く、
 
あの像では後の足をスーツとひいているが、あの場合には踵が上るのが本当なんだけれども(立ち上がつて姿態を作り)こういうふうにわざと地につけている。彫刻ではそういう不自然をわざとやるんです。あれが踵が上つていたら、ごくつまらなくなる。そういうところに彫刻の造型の意味があります。(「高村氏制作の苦心語る ”見て貰えば判ります” 像の意味は言わぬが花」昭和28年=1953)
 
ロダンの意図と全く同じですね。これは意識してロダンの手法を取り入れたのか、そうでないのかは何とも言えません(光太郎は当然、「説教する洗礼者ヨハネ」は見ていますが)。また、当方は門外漢なのでよくわかりませんが、人体彫刻としてこういう手法はロダン、光太郎に限らず、お約束の基本なのかも知れません。詳しい方、ご教授願えれば幸いです。
 
彫刻も漫然と見るのではなく、こういう点などに注意して見ることも大切だな、と改めて感じた「手の痕跡」展でした。
 
以上、「手の痕跡」展レポートを終わります。

閲覧数が2,000を超えました。ありがとうございます。
 
ロダンとの関わり、影響といった点について論じた書籍紹介のとりあえず最終回です。

荻原守衛と日本の近代彫刻-ロダンの系譜

昭和60年(1985)4月6日 埼玉県立近代美術館編・発行 定価記載無し

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埼玉県立美術館さんでの同名の企画展図録です。メインは碌山荻原守衛ですが、守衛と交流があり、やはりロダンの影響を受けた光太郎、戸張孤雁、中原悌二郎ら、そしてロダンそのものの作品も出品されました。収録されている論考、中村傳三郎氏「荻原守衛と日本の近代彫刻」、三木多聞氏「ロダンと近代彫刻」、坂本哲男氏「中村屋をめぐる美術家たち-荻原守衛と相馬黒光を中心に」、伊豆井秀一氏「日本における「近代彫刻」」の四編、短いながらもそれぞれに的を得た感心させられるものです。 

日本彫刻の近代

 平成19年(2007)8月23日 淡交社美術企画部編 淡交社発行 定価2,476円+税

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東京国立近代美術館他二館での同名の企画展(こちらは当方も見に行きました)の公式カタログです。図録としての部分はもちろん、解説が非常に充実している厚冊です。昨日紹介した芸術の森美術館編「20世紀・日本彫刻物語」同様、およそ百年の日本近代彫刻を概観、さらに平成の彫刻まで扱っています。光太郎に関しては、ロダンとの関わりも触れられていますが、塑像より木彫の方に重きが置かれているかな、という感じです。
 
やはり少し古いものですのですし、美術館の企画展図録、カタログですので、古書店サイト、またはAmazonなどでも中古品の販売をご利用下さい。または、必ずご返却いただけるのであれば当方手持ちの資料は基本的にお貸しします。お声がけ下さい。

今日も光太郎とロダンとの関わり、影響といった点について論じた書籍を紹介します。 

日本の近代美術11 近代の彫刻

平成6年(1994)4月20日 酒井忠康編 大月書店発行 定価2,718円+税

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全12巻から成る「日本の近代美術」の11巻目です。総論として酒井忠康氏の「近代の彫刻」、各論として光雲の「老猿」、光太郎の「腕」をはじめ、荻原守衛、藤川勇造ら10人の彫刻家の代表作を紹介し、簡単な評伝を収録しています。光太郎の項の担当は堀元彰氏。やはりロダンの影響、そしてロダンを超えようとする工夫などについて論じられています。図版多数。 

20世紀・日本彫刻物語

平成12年(2000)5月27日 芸術の森美術館編 札幌市芸術文化財団発行 定価記載無し

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札幌・芸術の森美術館さんでの同名の企画展図録、というより解説書です。図版はもちろん、解説の文章が充実しています。光雲ら前の世代の彫刻家から始まり、高田博厚、佐藤忠良ら次の世代までを網羅しています。光太郎や守衛世代の作家については「生命の形」と題し、ロダンの影響が述べられています。
 
やはり少し古いものですので、新刊で手に入れるのは難しいかもしれません。古書店サイト、またはAmazonなどでも中古品の販売がある場合がありますので、そちらをご利用下さい。または、必ずご返却いただけるのであれば当方手持ちの資料は基本的にお貸しします。お声がけ下さい。

このところ、光太郎の翻訳書『ロダンの言葉』に触れています。そこで、何回かに分けて手持ちの資料の中から、光太郎とロダンとの関わり、影響といった点について論じた書籍を紹介しましょう。
 
ちなみに「これでブログのネタ、何日かもつぞ」とけしからんことも考えています。5月初めにこのブログを開設して以来、1日も休まず更新していますが、何せ光太郎・智恵子・光雲のネタだけで毎日毎日書くとなると、ネタ探しに苦労する時もあります。そうこうしているうちに、困った時はテーマを決めて手持ちの資料の紹介にあてればいいと気づきました。当方手持ちの光太郎関連資料、おそらく2,000点を超えています(ある意味しょうもないものを含めてですが)。1回に2点ずつ紹介したとしても1,000回超。3年くらいはもちますね(笑)。 

近代彫刻 生命の造型 -ロダニズムの青春-

 昭和60年(1985)6月20日 東珠樹著 美術公論社発行 定価1,800円+税

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第一部では、光太郎、荻原守衛、中原悌二郎といった近代日本彫刻家がロダンから受けた影響。第二部では『白樺』や他の美術雑誌などに見るロダン受容の系譜。第三部は「日本に来たロダンの彫刻」というわけで、例の花子関連にも言及しています。 

異貌の美術史 日本近代の作家たち

平成元年(1989)7月25日 瀬木慎一著 青土社発行 定価2524円+税

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雑誌『芸術公論』に連載された「作家評価の根本問題」をベースに、書き下ろしや他の書籍等に発表された文章をまとめたものということです。彫刻家に限らず、中村彝、梅原龍三郎、岸田劉生などの洋画家、小川芋銭や竹久夢二といった日本画家にも言及しています。光太郎に関してはずばり「高村光太郎におけるロダン」。図版が豊富に使われている点も嬉しい一冊です。
 
どちらも少し古いものですので、新刊で手に入れるのは難しいかもしれません。古書店サイト、またはAmazonさんなどでも中古品の販売がある場合がありますので、そちらをご利用下さい。  
 
または、必ずご返却いただけるのであれば当方手持ちの資料は基本的にお貸しします。お声がけ下さい。

昨日、光太郎の翻訳書『ロダンの言葉』に触れましたので、もう少し。
 
光太郎の著書、というか訳書ですが、『ロダンの言葉』正・続2冊があり、これは光太郎の代表的な業績を挙げる場合にはよく掲げられるものです。
 
正は大正5年11月に阿蘭陀書房から、続は同9年5月に叢文閣から上梓されました。光太郎が敬愛していたロダンが、折にふれて語った言葉などをまとめたものです。単行書としてまとめられる前は、『帝国文学』『アルス』『白樺』などに断続的に発表されています。
 
昭和30年代には新潮文庫に正続2冊、少し前までは岩波文庫に『ロダンの言葉抄』というラインナップがあったのですが、絶版となって久しい状態です。筑摩書房発行の『高村光太郎全集』第16巻に全文が収録されていますが、手軽に読みたい場合、最近のものとしては以下の書籍が刊行されています。 

ロダンの言葉 覆刻

 平成17年(2005)12月1日 沖積舎 定価6,800円+税

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写真製版により、正続2冊をそのまま覆刻したものです。続の方はオリジナルからの覆刻のようですが、正の方は昭和4年(1929)刊行の普及版からの覆刻のようです。金原宏行氏の解説がついています。 

 平成19年(2007)5月10日 講談社文芸文庫 講談社 定価1,300円+税

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正の方のみ収録されています。湯原かの子氏の解説、光太郎の略年譜、著書目録がついています。
 
前回も紹介しましたが、光太郎の弟で、鋳金家として人間国宝にもなった高村豊周の「光太郎回想」によれば、「兄がロダンの言葉を集めて、ああいう形式で本にまとめることをどこから思いついたか、考えてみると、少し唐突のようだが僕は「論語」ではないかと思っている」「文章の区切りが大変短い。どんなに長くても数頁にしか渉らないから、読んでいて疲れないし、理解しやすい。ことに本を読む習慣の少なかった美術学生にとって、これは有難かった。」とのことです。
 
是非ご一読を。

一週間前に行ってきた練馬区立美術館の<N+N展関連美術講座>「触れる 高村光太郎「触覚の世界」から」で講演された日本大学芸術学部美術学科教授の髙橋幸次氏から、同大学の「芸術学部紀要」の抜き刷りということで、玉稿を頂きました。有り難い限りです。まだ昨夕届いたばかりで、熟読していませんが、読むのが楽しみです。

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第45号抜刷 ロダン研究Ⅰ-「ロダンの言葉」成立の前提- 平成19年3月
第47号抜刷 ロダン研究Ⅱ-ジュディット・クラデルとフレディック・ロートン- 平成20年3月
第48号抜刷 ロダン研究Ⅲ-バートレットのロダン:高村光太郎のルドルフ・ダークス- 平成20年9月
第50号抜刷 ロダン研究Ⅳ-モークレールのロダン- 平成21年9月
第51号抜刷 ロダン研究Ⅴ-ポール・グセル(上)- 平成22年3月
第52号抜刷 ロダン研究Ⅴ-ポール・グセル(下)- 平成22年9月
第53号抜刷 ロダン研究Ⅵ-コキヨのロダン- 平成23年3月
第54号抜刷 ロダン研究Ⅶ-マルセル・ティレルのロダン- 平成24年3月
 
光太郎の著書、というか訳書ですが、『ロダンの言葉』正・続2冊があり、これは光太郎の代表的な業績を挙げる場合にはよく掲げられるものです。
 
正は大正5年11月に阿蘭陀書房から、続は同9年5月に叢文閣から上梓されました。光太郎が敬愛していたロダンが、折にふれて語った言葉などをまとめたものです。単行書としてまとめられる前は、『帝国文学』『アルス』『白樺』などに断続的に発表されています。
 
光太郎の弟で、鋳金家として人間国宝にもなった高村豊周の「光太郎回想」によれば、「上野の美術学校では、主だった学生はみなあの本を持っていて、クリスチャンの学生がバイブルを読むように、学生達に大きな強い感化を与えている。実際、バイブルを持つように若い学生は「ロダンの言葉」を抱えて歩いていた。その感化も表面的、技巧的にではなしに、もっと深いところで、彫刻のみならず、絵でも建築でも、あらゆる芸術に通ずるものの見方、芸術家の根本で人々の心を動かした。」「あの本は芸術学生を益しただけでなく、深く人生そのものを考え、生きようとする多くの人々を益していると思われる。だからあの本の影響の範囲は思いがけないほど広く、まるで分野の違う人が、若い頃にあの本を読んだ感動を語っている」とのことです。身内による身びいきという部分を差し引いても、ほぼ正確に当時の状況を物語っていると思われます。

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画像は当方手持ちの正続2冊をスキャンしたものですが、劣化防止の為パラフィン紙で覆ってあります。そのため白っぽい不鮮明な画像になっています。すみません。
 
原典としては、ロダンの母国フランスで『ロダンの言葉』という書籍があったわけではなく、色々な人が筆録したロダンの談話などの集成です。
 
髙橋氏の「ロダン研究」は、その「色々な人」-主にロダンの秘書-について、原典にあたりつつ、それぞれのロダンとの関わりや、光太郎がどのように取り上げているかなどが論じられているようです。
 
当方、文学畑の出身ですので、こういう美術史に関わる研究紀要の類を目にする機会はそう多くありません。しかし、この分野での「事実」の追究の仕方には常々感心させられています。自戒を込めてですが、文学畑の論考はどうも「事実」の追究に甘さがあり、恣意的な言葉尻の解釈に終始してしまう場合が多いと感じています。そういう意味で、髙橋氏の「ロダン研究」、熟読するのが楽しみです。
 
こうした紀要の類は、発行元に問い合わせるか、あるいは国会図書館等でも蔵書がある場合があり、国会図書館では「論文検索」で調べる事ができますし、うまくいくとネット上でPDFファイルで閲覧が可能です。

新刊情報です。 

盗作か? 森鴎外の『花子』

下八十五著 文芸社 平成24年7月15日(まだ7/15になっていませんが奥付記載の日付です) 定価1,600円+税

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最初に断っておきますが、これは、あくまで小説です。光太郎を含め、登場人物のほとんどが実在の人物ですし、書かれている出来事の大半も事実ですが、あくまで小説です。
 
内容を紹介する前に、主要登場人物をめぐる史実を説明しておかなければならないでしょう。
 
台風の目となるのは、女優・花子。実在の人物なのですが、ご存知でしょうか。
 
明治元年、岐阜県の生まれ。本名・太田ひさ。旅芸人一座の子役、芸妓、二度の結婚失敗を経て、明治34年(1901)、流れ着いた横浜で見たコペンハーゲン博覧会での日本人踊り子募集の広告を見て、渡欧。以後、寄せ集めの一座を組み、欧州各地を公演。非常な人気を博しました。明治39年、ロダンの目にとまり、彫刻作品のモデルを務めます。
 
ここでもう一人のキーパーソン、森鷗外。明治43年、雑誌『三田文学』に短編小説「花子」を発表。花子が初めてロダンのアトリエを訪れた際の様子が、通訳として同行した日本人留学生「久保田某」の視点で描かれています。
 
花子とロダンとの交流は、大正六年のロダン死去まで続き、ロダンが作った花子の彫刻は数十点。大正十年、そのうち2点を入手し帰国、岐阜に帰ります。昭和2年、光太郎が岐阜の花子を訪問。この時の様子は同じ年、光太郎が刊行したロダンの評伝に描かれています。昭和20年、花子、死去。やがて人々から忘れ去られていきます。
 
ここまでは史実です。
 
さて、この「盗作か? 森鴎外の『花子』」、冒頭に書きましたがあくまで小説です。小説なので虚実ない交ぜになっています。明治43年に発表された鷗外の小説「花子」に登場する通訳の「久保田某」のモデルが、鷗外の家で書生兼鷗外の長男・於菟(おと)の家庭教師であった大久保栄という人物で、「花子」は大久保の手記の盗作あるいは剽窃ではないか、という仮説が検証されていきます。
 
謎解きの探偵役、前半は光太郎です。昭和2年、岐阜の花子を訪れる前に森於菟の家に立ち寄った光太郎は、於菟から件(くだん)の仮説を聞かされ、謎解きを依頼されます。しかし光太郎は踏み込んだ調査が出来ずあえなく帰京(ある意味情けない!)。調査は光太郎死後、光太郎旧知の元新聞記者・山岡(著者の下氏がモデルです)に引き継がれ、実に百年近い歳月を経て、真実が明るみになる、というストーリーです。ネタバレになるのでオチはここには書きませんが。
 
全四百余ページの大作です。あくまで小説ですが、山岡が、花子や大久保の出自やら現在の子孫やらを捜し当て、当時の状況を解明していくくだりなどは、おそらくほぼ著者・下氏の調査体験の通りと思われ、非常な労苦に頭が下がります。現在刊行されている花子の評伝の類は、下氏の調査結果を基にしています。
 
全四百余ページの大作ですが、当方、2日で読破しました。皆さんも是非お買い求め下さい。
 
ただ、本書を読む前に、鷗外の「花子」、光太郎の「オオギユスト ロダン」中の「十七.小さい花子(プチトアナコ)」を先に読んでおくことをお勧めします。鷗外の花子は「青空文庫」で、光太郎の方はアルス刊の『ロダン』、筑摩書房『高村光太郎全集』第七巻、あるいは春秋社版『高村光太郎選集3』に掲載されています。後の二つは大きめの公共図書館なら置いてあると思います。

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明日も花子ネタで行ってみようと思っています。

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