テレビ放映情報です。

ニッポン美景めぐり 十和田・奥入瀬

BSフジ 2021年7月18日(日) 24:30~24:55 =7月19日(月) 0:30~0:55

日本の美しい景観を求めて、俳優・和合真一がカメラ片手に日本各地をめぐる旅番組。
今回の旅先は、青森県の十和田市。十和田ビジターセンターで十和田湖の歴史を学ぶ。名産のひめます料理やご当地グルメを味わう。美しい景勝地、奥入瀬渓流を散策。大自然が生んだニッポンの美景をご紹介。

旅人:和合真一 ナレーター:服部潤
000
003
004
光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」(昭和28年=1953)が取り上げられます。

グルメ的な部分では、十和田バラ焼き、ヒメマスの塩焼きなどが紹介されるとのこと。

もう1件、今日の放映ですし、光太郎などに関わらないかも知れませんが、光太郎ゆかりの地、宮城県女川町を舞台とした番組です。

いのちは末来を憶えてる 〜震災10年の、あくる日から〜

BSフジ 2021年7月17日(土) 15:00〜15:55

東日本大震災から10年。新たな歩みを始めた被災地の復興から“復幸”へと進もうとする姿を紹介する。番組から誕生した鎮魂と未来への歌を、宮城県女川町で平原綾香が歌唱。今年3月、東京・渋谷のスタジオで平原綾香が新曲のレコーディングに臨んだ。曲名は「いのちは未来を憶えてる」。時制に矛盾があるようにも思えるこの曲、作詞は大物・松井五郎、プロデュースは平原を高校生時代に見出した新田和長、作曲はデビュー曲「Jupiter」でプロデュースと編曲を担当した坂本昌之。

工業デザイナーとして名を上げていた中川聰(さとし)は、東日本大震災が起きるとすぐに東京から被災地へと向かった。ユニバーサルデザインを手がける中で知り合った多くの視覚障がい者たちが気になったためだ。しかし、実際に足を運んで心配になったのは、被災した子供たちのことだった。気持ちがどんどん内に入り込んでいることを直感したため、美術教師の経験を生かし、絵や短い文章で外に吐き出してもらうことにした。避難所や学校で対話しながら集めた作品は、震災2ヶ月後にはニューヨークで展示され、世界に向けてのメッセージ発信を始めた。この活動は「Hug Japan」と命名された。震災10年を迎えた今年、その時の子供たちに彼が会いたくなったのは、単なる懐かしみからだけではない。つらい過去があったからこそ、前向きに未来へと向かえている面があるのではないか、実際に会って確かめてみたい、そう考えたのである。

フリーアナウンサー笠井信輔にとって、今年はリベンジの年でもあった。震災直後に被災地入りし、以来、毎年欠かさなかった取材に、昨年は自らが生死の境をさまよう大病を患って出向けなかったからだ。命の重さをより深く知った彼の耳に飛び込んで来たのは、「Hug Japan」の10年ぶり再起動への誘いだった。番組では、笠井ばかりでなく、平原も「Hug Japan」参加者を訪ねる旅に出る。中川も懐かしい再会を果たす。

旅の途中、笠井がこの10年間の取材を通じて交流を深めた人たちと、ばったり出会うシーンも見ものだ。そして、それぞれに被災者の過去と未来を共有した3人は、女川町での公開収録の場で地元の方々を前にその思いを語り合う。

<出演者>笠井信輔 平原綾香 中川聰 <ナレーション>近藤サト
005
006
女川で光太郎、といえば、このブログでもたびたび取り上げている、「いのちの石碑」。震災後に、当時の中学生たちが中心となって、津波からの避難の際に目印となるランドマークとして、女川町内に建て続けられている石碑です。

昭和6年(1931)の光太郎の女川来訪を記念する「高村光太郎文学碑」――東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって、昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して建てられたもの――の精神を受け継ぎ、費用全額は寄付で集められました。

先だっては、天皇陛下自らが、オンラインで開かれた「第5回国連水と災害に関する特別会合」中の講演で、「いのちの石碑」についても触れられています。

それから、有料のCS放送で、その「いのちの石碑」が取り上げられます。通常、このブログではCS放送はご紹介していないのですが、今回は特別に。

旅チャンネル「のんが行く!東北ふれあい旅」#4 宮城 女川

CS旅チャンネル 2021年7月24日(土) 21:00~21:30(以後、繰り返し放映)

旅チャンネルでは、東日本大震災における被災地域の復旧・復興に繋がるよう、2011年より東北地方の各地域を紹介する旅番組を制作、放送し続けることで東北地方を観光の面で応援してまいりました。
東日本大震災から丸十年経った2021年。東北地方に縁のある女優・のんが、東北地方の被災地を訪ね、現地で街の復興に取り組む同世代の女性たちの案内で各地を巡る模様を全4話シリーズで特別番組として放送。

この度の最後にのんが訪れたのは、宮城県女川。女川で生まれ育った二児のママでもある案内役とまず向かったのは、案内役が震災当時勤務していた病院。病院から自宅が流されるのを間近に見たという当時の話などを聞く。そしていのちの石碑や元女川交番などの震災遺構に触れた後、新しくできた街の中心施設に向かいます。旅の最後は地元の子供たちとの触れ合いを楽しみます。東北の未来に思いを馳せます。
007
009
008


光太郎文学碑のかたわらにある、震災遺構旧女川交番も取り上げられます。

契約されている方は、ぜひご覧下さい。契約していなくとも、現時点での予定では、8月末までに12回ほど繰り返し放映されるようで、うまくいけば無料放送の日にあたるかな、と思っております。

【折々のことば・光太郎】

午前盛岡美術工芸学校開校式への祝辞を書く。


昭和23年(1948)4月29日の日記より 光太郎66歳

盛岡美術工芸学校」は、変遷を経て、現。・岩手大学。光太郎と縁の深い深沢省三・紅子夫妻、舟越保武らが教壇に立ち、光太郎もたびたび同校を訪れました。光太郎を名誉教授に、という話もありましたが、光太郎は固辞したそうです。

この日に書いた祝辞は、『高村光太郎全集』第11巻に収録されていますが、同校教授だった佐々木一郎著の『岩手の美術と共に歩んで』(昭和62年=1987)には、直筆原稿の画像が収められています。
010