頼んでおいた新刊が届きました。
やがて来る時局に絡められつつある高村光太郎、モダニズムの隘路に囚われゆく横光利一、原日本を求め危うい道を行く堀辰雄――。
モダニズムからダダイズム、シュルレアリスムまでヨーロッパ文化が怒涛のようにもたらされ、渦巻いた1920年代。高村光太郎・横光利一・堀辰雄・中原中也・小林秀雄・西脇順三郎・瀧口修造・中川一政・古賀春江・芥川龍之介・谷崎潤一郎・萩原朔太郎・宮沢賢治ら、あまたの作家たち、詩人たちがそれぞれの青春を生きていた帝都東京を、1923年9月1日、関東大震災が襲う──。転換する時代と文学者の運命を描く力作。目次
著者の岡本勝人氏は、『週刊読書人』さんで40年間書評を担当なさっていたそうで、そうしたご経験に基づく幅広い視点から論が展開されているように思われました。
「世紀末」とありますが、19世紀、20世紀といった括りでの「世紀末」では当然なく、明治から十五年戦争へと移りゆく過渡期としての「世紀末」という設定です。
一九二〇年代に端を発するヨーロッパ・モダニズムや社会主義思想の受け入れには、同時代的な受容もあれば、時間的な遅延を伴う受容もあり、日本的偏差を踏まえた選択的受容もあったであろう。加えて日本では、関東大震災という文明史的な歴史の断層があった。(略)一九三〇年代から四〇年代については、日本ファシズムに収斂していく政治と文学の暗い狭間の光景として、比較的多くの人によって語られてきた。あまり語られることのなかった一九二〇年代は、明治憲法下という限界を蔵しながらも、大正期に発生した自由な文化の萌芽の一面を見事なまでに垣間見せてくれる。百年後の今日からみたとき、この時代がどのような絵像を結ぶか、本書で検証してみたい。(はじめに)
一九三〇年代という時代は、かつて十五年戦争といわれた戦時期に直接的につながり、全体として、反省的に論ぜられることが多かった。しかし一九二〇年代は、未熟ではあるが、大正と昭和期にまたがる生成の途上の時代として、現代がもう一度その歴史から学びなおすことのできる問題点と経験知を内蔵する時代である。(萩原朔太郎と宮沢賢治の東京志向)
取り上げられている各文学者の「一九二〇年代」を中心に、それまでの過程、そこかで培われたものがその後にどういう影響を及ぼしたかなどが、幅広く論じられています。
光太郎についても、同様です。光太郎にとっての「一九二〇年代」は、智恵子との同棲生活が比較的安定し、関東大震災を契機に再び始めた木彫が世に受け入れられ、詩の分野でも、「雨にうたるるカテドラル」などの力強い作品を発表していた時期でした。そこに到るまでの明治末の欧米留学や、帰朝後のパンの会、フユウザン会などでの活動や智恵子との邂逅、一九三〇年代以降の翼賛活動や、戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活等までを俯瞰しています。太田村で書かれた、自らの半生を振り返る連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)の詩篇が効果的に引用され、章全体で、簡略な光太郎評伝とも成っています。
また、目次からも類推できると存じますが、他の作家の項にも、たびたび光太郎が登場しますし、光太郎と交流の深かった面々についても興味深く拝読しました。
ただ、蛇足ながら、光太郎の書き下ろし評伝『ロダン』(昭和2年=1927)を「翻訳」とするなどの事実誤認や、誤字(上記帯文の「絡め」も「搦め」ですね)等が多いのが残念です。また「参考文献」の項が一切無いのですが、どうも『高村光太郎全集』も、全21巻+別巻1の増補改訂版でなく、全18巻の旧版を使われているようで……。
そうした点は目をつぶるとして、労作、好著です。ぜひお買い求めを。
【折々のことば・光太郎】
朝はれる。 十時頃までねてゐる。 セキまだ出る。 冬三ヶ月間の温泉泊りをしきりに考へる。
「セキ」は宿痾の肺結核によるもので、前後には血痰に関する記述もあります。「冬三ヶ月間の温泉泊り」は、これも前後の記述から、大沢温泉さんの湯治部や、花巻温泉さんに当時あった、コテージ的な貸別荘などを想定していたことがわかります。確かに農閑期でもある厳冬には、電線も引かれていない山小屋にこだわる必要性もあまりなかったわけで、弱気になることもありました。しかし、結局は、この山小屋で丸7年を過ごすことになります。
1920年代の東京 高村光太郎、横光利一、堀辰雄
2021年6月30日 岡本勝人著 左右社 定価2,400円+税関東大震災に揺られる日本の〈世紀末〉を文学者たちはどう生きたのか?
やがて来る時局に絡められつつある高村光太郎、モダニズムの隘路に囚われゆく横光利一、原日本を求め危うい道を行く堀辰雄――。
モダニズムからダダイズム、シュルレアリスムまでヨーロッパ文化が怒涛のようにもたらされ、渦巻いた1920年代。高村光太郎・横光利一・堀辰雄・中原中也・小林秀雄・西脇順三郎・瀧口修造・中川一政・古賀春江・芥川龍之介・谷崎潤一郎・萩原朔太郎・宮沢賢治ら、あまたの作家たち、詩人たちがそれぞれの青春を生きていた帝都東京を、1923年9月1日、関東大震災が襲う──。転換する時代と文学者の運命を描く力作。
はじめに
Ⅰ 一九二〇年代とはいかなる時代か
1大正の大震災 2モダニズムのあけぼの 3『四季』と新しい文学運動
4中原中也と小林秀雄
Ⅱ 大震災と改元
1関東大震災 2中川一政と古賀春江 3大正文学考 4震災からの復興
5「昭和」への改元 6大正から昭和へ続くもの 7堀辰雄と軽井沢
8一九二〇年代東京
Ⅲ 芥川龍之介と谷崎潤一郎の震災余燼
5「昭和」への改元 6大正から昭和へ続くもの 7堀辰雄と軽井沢
8一九二〇年代東京
Ⅲ 芥川龍之介と谷崎潤一郎の震災余燼
1「パンの会」と一九二〇年代 2谷崎潤一郎の文体
3「パンの会」と谷崎、そして佐藤春夫
4佐藤春夫の『我が一九二二年 詩文集』、「秋刀魚(さんま)の歌」
5近代詩の成熟 6一九二〇年代の地方出身者と東京 7草野心平と高橋信吉
Ⅳ 高村光太郎の造形芸術
1新帰朝者としての光太郎 2一九二〇年代の光太郎 3光太郎と智恵子
4光太郎の戦後へ 5高村光太郎の芸術の総体 6戦後の「典型」
3「パンの会」と谷崎、そして佐藤春夫
4佐藤春夫の『我が一九二二年 詩文集』、「秋刀魚(さんま)の歌」
5近代詩の成熟 6一九二〇年代の地方出身者と東京 7草野心平と高橋信吉
Ⅳ 高村光太郎の造形芸術
1新帰朝者としての光太郎 2一九二〇年代の光太郎 3光太郎と智恵子
4光太郎の戦後へ 5高村光太郎の芸術の総体 6戦後の「典型」
Ⅴ 横光利一のモダニズム
1横光利一とその出発 2上海 3横光利一の詩と散文 4横光利一と北川冬彦、宮沢賢治
5横光利一の悲劇とその解読
Ⅵ 堀辰雄の文学空間
1一九二〇年代の堀辰雄 2軽井沢「美しい村・風立ちぬ」と堀辰雄
1一九二〇年代の堀辰雄 2軽井沢「美しい村・風立ちぬ」と堀辰雄
3堀辰雄の『幼年時代』と下町 4カロッサとリルケ 5再び堀辰雄の下町
6堀辰雄をめぐる文学風景 7堀辰雄のフローラ 8日本的深化と大和路の旅
9堀辰雄の表現主義
6堀辰雄をめぐる文学風景 7堀辰雄のフローラ 8日本的深化と大和路の旅
9堀辰雄の表現主義
Ⅶ 萩原朔太郎と宮沢賢治の東京志向
1一九二〇年代と現在 2萩原朔太郎の彼方へ 3朔太郎の移動
4宮沢賢治の移動の時代とオノマトペ 5自然災害と仏教思想
6朔太郎と賢治、ふたりの「世紀末」 7「有」の詩人と「無」の詩人
8「垂直性」と「水平性」
1一九二〇年代と現在 2萩原朔太郎の彼方へ 3朔太郎の移動
4宮沢賢治の移動の時代とオノマトペ 5自然災害と仏教思想
6朔太郎と賢治、ふたりの「世紀末」 7「有」の詩人と「無」の詩人
8「垂直性」と「水平性」
Ⅷ 一九二〇年代という世紀末
1混沌とする文化状況のなかで 2歴史と文学 3パウンドとフェノロサ
4一九二〇年代という世紀末
4一九二〇年代という世紀末
おわりに
著者の岡本勝人氏は、『週刊読書人』さんで40年間書評を担当なさっていたそうで、そうしたご経験に基づく幅広い視点から論が展開されているように思われました。
「世紀末」とありますが、19世紀、20世紀といった括りでの「世紀末」では当然なく、明治から十五年戦争へと移りゆく過渡期としての「世紀末」という設定です。
一九二〇年代に端を発するヨーロッパ・モダニズムや社会主義思想の受け入れには、同時代的な受容もあれば、時間的な遅延を伴う受容もあり、日本的偏差を踏まえた選択的受容もあったであろう。加えて日本では、関東大震災という文明史的な歴史の断層があった。(略)一九三〇年代から四〇年代については、日本ファシズムに収斂していく政治と文学の暗い狭間の光景として、比較的多くの人によって語られてきた。あまり語られることのなかった一九二〇年代は、明治憲法下という限界を蔵しながらも、大正期に発生した自由な文化の萌芽の一面を見事なまでに垣間見せてくれる。百年後の今日からみたとき、この時代がどのような絵像を結ぶか、本書で検証してみたい。(はじめに)
一九三〇年代という時代は、かつて十五年戦争といわれた戦時期に直接的につながり、全体として、反省的に論ぜられることが多かった。しかし一九二〇年代は、未熟ではあるが、大正と昭和期にまたがる生成の途上の時代として、現代がもう一度その歴史から学びなおすことのできる問題点と経験知を内蔵する時代である。(萩原朔太郎と宮沢賢治の東京志向)
取り上げられている各文学者の「一九二〇年代」を中心に、それまでの過程、そこかで培われたものがその後にどういう影響を及ぼしたかなどが、幅広く論じられています。
光太郎についても、同様です。光太郎にとっての「一九二〇年代」は、智恵子との同棲生活が比較的安定し、関東大震災を契機に再び始めた木彫が世に受け入れられ、詩の分野でも、「雨にうたるるカテドラル」などの力強い作品を発表していた時期でした。そこに到るまでの明治末の欧米留学や、帰朝後のパンの会、フユウザン会などでの活動や智恵子との邂逅、一九三〇年代以降の翼賛活動や、戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活等までを俯瞰しています。太田村で書かれた、自らの半生を振り返る連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)の詩篇が効果的に引用され、章全体で、簡略な光太郎評伝とも成っています。
また、目次からも類推できると存じますが、他の作家の項にも、たびたび光太郎が登場しますし、光太郎と交流の深かった面々についても興味深く拝読しました。
ただ、蛇足ながら、光太郎の書き下ろし評伝『ロダン』(昭和2年=1927)を「翻訳」とするなどの事実誤認や、誤字(上記帯文の「絡め」も「搦め」ですね)等が多いのが残念です。また「参考文献」の項が一切無いのですが、どうも『高村光太郎全集』も、全21巻+別巻1の増補改訂版でなく、全18巻の旧版を使われているようで……。
そうした点は目をつぶるとして、労作、好著です。ぜひお買い求めを。
【折々のことば・光太郎】
朝はれる。 十時頃までねてゐる。 セキまだ出る。 冬三ヶ月間の温泉泊りをしきりに考へる。
昭和23年(1948)3月17日の日記より 光太郎66歳
「セキ」は宿痾の肺結核によるもので、前後には血痰に関する記述もあります。「冬三ヶ月間の温泉泊り」は、これも前後の記述から、大沢温泉さんの湯治部や、花巻温泉さんに当時あった、コテージ的な貸別荘などを想定していたことがわかります。確かに農閑期でもある厳冬には、電線も引かれていない山小屋にこだわる必要性もあまりなかったわけで、弱気になることもありました。しかし、結局は、この山小屋で丸7年を過ごすことになります。