『読売新聞』さんの和歌山版から。

県立近代美術館50周年 コレクションの名品 <13>江戸の粋 版画にとどめ

002 画面中央に涼しげな表情をした着物姿の女性が立つ。髪に手をやり、鏡の前で身だしなみを整えている姿だろうか。背景には水路沿いの風景が、枠の中に表される。
 タイトルの「よし町」は江戸時代から続く東京の花街のひとつ。本作は、花街の女性と東京の風景を組み合わせた連作「東京十二景」のうち、最初に刊行された作品である。
 この連作は、明治時代に入り江戸の文物が失われゆくなか、浮世絵の伝統の衰退が見るに忍びない、として刊行が企画された。風情ある町に電柱が立ち並ぶ風景は、「江戸」から「東京」への移りかわりを象徴している。
 絵は石井柏亭(はくてい)(1882~1958年)が描くが、木版に起こしたのは、超絶技巧を持つ彫師の伊上(いがみ)凡骨(1875~1933年)。絵師と彫師の共作が作品の質を高めている。版元、つまり刊行を手がけたのは高村光太郎(1883~1956年)が開いた日本最初の画廊、琅玕洞(ろうかんろう)であった。
 描かれた女性は、柏亭と馴染みであった芸妓の「五郎丸」。絵からも凜(りん)とした美しさが伝わる。本作完成後、柏亭は渡欧するが、長く会えなくなる画家に対し、彼女は餞別(せんべつ)としてパレットナイフを贈った。
 画家が日々使う道具であり、ナイフと言いながら「切れない」ものであるから選んだのだという。そんな 艶(つや)やかなエピソードもまた、江戸の粋を示している。
 現在開催中の「もうひとつの世界」展で紹介している。

琅玕洞」は「ろうかんろう」ではなく「ろうかんどう」なのですが、ま、仕方ありますまい。前年に欧米留学から帰朝した光太郎が、明治43年(1910)に、自らの生活のため、また、志を同じくする芸術家仲間の作品を世に知らしめるため、神田淡路町に開いた日本初といわれる本格的画廊です。名前の由来は、アンデルセン作・森鷗外訳『即興詩人』の中に出てくるイタリア・カプリ島の観光名所から。これは現在では「青の洞窟」というのが一般的です。
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琅玕洞では、光太郎と親しかった柳敬助や斎藤与里、浜田葆光などの個展を開催したり、やはり交流のあった与謝野晶子の短冊や、工芸家・藤井達吉の作品などを販売したりましたが、経営的にはまるで成り立たず、わずか1年で画家の大槻弍雄(つぐお)に譲渡されます。光太郎は北海道に渡り、酪農のかたわら、彫刻や絵画を制作する生活を考えました。ただ、実際に札幌郊外の月寒まで行ってみたものの、少しの資本ではどうにもならないと知り、すぐにすごすごと帰京しています。琅玕洞パリ支店、という構想もあったのですが、当然、果たせませんでした。
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光太郎のエッセイ「ヒウザン会とパンの会」(昭和11年=1936)から。

 私が神田の小川町に琅玕洞と言ふギヤラリーを開いたのもその頃のことで、家賃は三十円位、緑色の鮮かな壁紙を貼り、洋画や彫刻や工芸品を陳列したのであるが、一種の権威を持つて、陳列品は総て私の見識によつて充分に吟味したもののみであつた。
 店番は私の弟に任し切りであつたが、店で一番よく売れたのは、当時の文壇、画壇諸名家の短冊で、一枚一円で飛ぶやうな売れ行きであつた。これは総て私たちの飲み代となつた。
 私はこの琅玕洞で気に入つた画家の個展を屡開催した。(勿論手数料も会場費も取らず、売り上げの総ては作家に進呈した。)中でも評判のよかつたのは岸田劉生、柳敬助、正宗得三郎、津田青楓諸氏の個展であつた。

007琅玕洞の出納簿的なものが残っており、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』別巻に、資料として掲載されています。

その中に、記事で紹介されている石井柏亭の版画「東京十二景」に関しても、記述があります。まず明治43年(1910)、柏亭に、「よし町」200枚の仕入れ代金として25円支払ったことから始まり、何枚売れたとか何枚追加で仕入れたとか。木下杢太郎、水野葉舟、柳敬助ら、親しい面々には進呈しています。武者小路実篤は、「進呈」の文字が二重線で消されており、購入してくれたようです。続いて、同じ「東京十二景」中の「柳ばし」に関しても、同様の記述。

「東京十二景」は、この後、柏亭の渡欧によって中断し、大正4年(1915)から再開します。しかし、7点が追加されたところで終わり、「十二景」には届きませんでした。

「よし町」と「柳ばし」、確かに光太郎の琅玕洞で販売されましたが、記事にある「版元」という語はちょっと引っかかるかな、という感じはします。「版元」というと、写楽や歌麿らに対する蔦屋重三郎というイメージで、販売だけでなく、プロデュースも手がけていた感じです。光太郎はそこまでは行わず、単に販売に手を貸した、というだけのように思われます。蔦重のように、「琅玕洞」のロゴを入れることもありませんでしたし。

石井柏亭、光太郎より一つ年長の画家です。芸術運動「パンの会」などを通じ、光太郎とは親しく交流しました。いわゆる「地方色論争」で光太郎とやり合い、その過程で光太郎による「日本初の印象派宣言」とも言われる評論「緑色の太陽」が書かれました。そういう意味では「論敵」ではあったものの、「仇敵」ではありませんでした。柏亭の弟の彫刻家・石井鶴三も、後年まで光太郎と交流を続けています。

「よし町」の彫師、伊上凡骨も、光太郎と親しかった人物です。「パンの会」会場の一つだった、鎧橋のメイゾン鴻乃巣のメニューは、光太郎が絵を描き、凡骨が彫っています。

明治37年(1904)には、柏亭、凡骨、光太郎、その他新詩社の面々で上州赤城山登山。
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左から、大井蒼梧、与謝野鉄幹、凡骨、光太郎、柏亭、平野万里です。また、写真は確認できていませんが、三人は大正10年(1921)の新詩社房州旅行でも同道しています。

さらに言うなら、明治38年(1905)に開催された「第一回新詩社演劇会」で、光太郎作の戯曲「青年画家」が上演され、柏亭、凡骨ともに出演しています。

ここまで書いて、「あ、詩の中にも柏亭と凡骨が登場したっけな」と思いだし、調べてみました。明治43年(1910)の「PRÉSENTATION」という詩で、「パンの会」の狂騒を描いた作品です。長い詩なので、最初の三分の一ほどのみ引用します。

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パンの提灯が酒壺から吹く風に揺れて、
ゆらりと動き、はらりと動く。
バルガモオの匂と、巴旦杏の匂と、
ヘリオトロオプと、ポムペイア。
味噌歯の雛妓(おしやく)が四人(よつたり)、
足を揃へて、声を揃へて、
えい、えい、ええいやさ、
と踊れば、
久菊も、五郎丸も、凡骨も、猿之助も、010
真つ赤になつて酔うたり。
歓楽の鬼や、刺青や、河内屋与兵衛や、
百円の無尽や、
生の種や、
郷土色彩(ロオカルカラア)や、坐せる女や、
綴れの錦か、ゴブランの絨毯か、
織られたり、とんからりと。

すると、これまで気がつかないでスルーしていたのですが、「五郎丸」。柏亭の「よし町」のモデルです。「おお!」という感じでした。

凡骨は「凡骨」、柏亭は「郷土色彩(ロオカルカラア)」。いわゆる「地方色論争」で、柏亭が、絵画では日本固有の色彩(地方色)を使用すべきだ、と論じたことを茶化しての表現です。ちなみに「歓楽の鬼」は長田秀雄、「刺青」は谷崎潤一郎、「河内屋与兵衛」は吉井勇です。

「古き良き時代」という感じですね。

【折々のことば・光太郎】

大正屋にてニンニク等、他にてリユツクサツク(吹張町の洋品店)バケツ等(鍛治町店)など買ひ、二時三十一分西花巻発の電車にてかへる。


昭和23年(1948)1月31日の日記より 光太郎66歳

久しぶりに花巻町中心街に出て、買い物をした記録です。蟄居生活を送っていた郊外太田村では、こんなものもなかなか入手できませんでした。