畠山智行氏。俳優兼「津軽弁ロックシンガー」だそうです。
光太郎詩「道程」(大正3年=1914)インスパイアの曲を作られ、動画投稿サイトYouTubeにアップなさいました。
光太郎詩「道程」(大正3年=1914)インスパイアの曲を作られ、動画投稿サイトYouTubeにアップなさいました。
昨年567(コロナ)が始まってあまり歌えなかったこの歌 今年も歌って行きます 津軽弁ロックシンガー始めて6年目に突入しました 色んな事がありました 全国車で下道で移動 歌も活動も全て獣道でした その思いを高村光太郎さんの道程を津軽弁で朗読し(道、津軽弁でけんどと言います)歌にしました
内容は 他人と同じ人生は嫌で生きて来た だから自分が切り開いた自分の道(人生)だ 今振り返った時辛い時苦しい時 あなたが私を支えてくれた この道はみんなの道だ こんな内容の歌です
(畠山氏ブログより)
実際の投稿動画がこちら。
歌の前に、津軽弁による「道程」朗読が入ります。
その後の歌も、「going my way」的な内容で、だから最初に「道程」か、という感じでした。
津軽弁ということもあり、高木恭造の詩を想起しました。
畠山氏の作品の方が、格段にポジティブですが、DNAを揺さぶられるというか、何というか、そういう部分では同じ根っこを感じます。
ちなみに今日は、ジャズシンガー・潮見佳世乃さんの「歌物語コンサート 智恵子抄・羽衣伝説」を聴いて参ります。
こうした2次創作によって、光太郎智恵子の世界を広めていただくことは大歓迎です(健全な精神に基づくリスペクトが伴うことが条件ですが)。各分野の表現者の皆様、よろしくお願い申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
「智恵子抄」三冊白玉書房より届く。
白玉書房版『智恵子抄』。昭和19年(1944)太平洋戦争の激化により、オリジナル『智恵子抄』(昭和16年=1941)版元の龍星閣が休業、昭和25年(1950)に再興し、翌年には『智恵子抄』復元版を出版しますが、その間、昭和22年(1947)から白玉書房版が刊行されていました。昭和25年(1950)の第5刷まで確認できています。
(畠山氏ブログより)
実際の投稿動画がこちら。
歌の前に、津軽弁による「道程」朗読が入ります。
わのめさけんどねぇ 僕の前に道はない
わの後さけんど出来ら 僕の後ろに道は出来る
うおりゃ!!自然よ ああ、自然よ
とっちゃよ 父よ
わがおがらへでけだ 僕を一人立ちにさせた
うんだでぐでっけぇとっちゃよ 広大な父よ
わがらまなぐばはなさねんでまもてけ 僕から目を離さないで守る事をせよ
むったどとちゃの気迫ば 常に父の気魄を
わさぁぱんぱんにしてけ 僕に充たせよ
この果でねぇけんどの行ぎさぎさぁ この遠い道程のため
このめねぇ生様の行ぐどごさぁ この遠い道程のため
その後の歌も、「going my way」的な内容で、だから最初に「道程」か、という感じでした。
津軽弁ということもあり、高木恭造の詩を想起しました。
畠山氏の作品の方が、格段にポジティブですが、DNAを揺さぶられるというか、何というか、そういう部分では同じ根っこを感じます。
ちなみに今日は、ジャズシンガー・潮見佳世乃さんの「歌物語コンサート 智恵子抄・羽衣伝説」を聴いて参ります。
こうした2次創作によって、光太郎智恵子の世界を広めていただくことは大歓迎です(健全な精神に基づくリスペクトが伴うことが条件ですが)。各分野の表現者の皆様、よろしくお願い申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
「智恵子抄」三冊白玉書房より届く。
昭和23年(1948)1月3日の日記より
光太郎66歳
光太郎66歳
白玉書房版『智恵子抄』。昭和19年(1944)太平洋戦争の激化により、オリジナル『智恵子抄』(昭和16年=1941)版元の龍星閣が休業、昭和25年(1950)に再興し、翌年には『智恵子抄』復元版を出版しますが、その間、昭和22年(1947)から白玉書房版が刊行されていました。昭和25年(1950)の第5刷まで確認できています。
オリジナル『智恵子抄』に、「松庵寺」(昭和20年=1945)、「報告」(同21年=1946)の2篇が補われましたでした。どちらも智恵子の命日(10月5日)に書かれたものです。
ただ、白玉書房社主の鎌田敬止は、そもそもの版元である龍星閣の澤田伊四郎と十分に連絡を取っていなかったようで、この出版には若干のトラブルが生じました。