新刊です。
はじめに
第一章 花子の生い立ち 一八六八-一九〇二年
見送りもない旅立ち/二〇歳上の男性に身請けされる/小泉との別れ/
芸者としてヨーロッパへ
第二章 「マダム花子」の誕生 一九〇二-一九〇六年
異国に一人残る/ドイツで女優としてデビュー/貴婦人たちに危機を助けられて/
ロンドンで端役から主役へ/花子とハラキリ
第三章 ロダンのモデルとなる
ロダンとの出会い/「死の顔」ができるまで/
花子が見たロダンとロダンが見た花子/森鷗外の『花子』
第四章 各国の舞台に立つマダム花子 一九〇七-一九一二年
二度のアメリカ公演/ヨーロッパでの成功/日本に伝えられた舞台の模様/
吉川の死/夫の死を乗り越えて
第五章 名声を博したマダム花子 一九一二-一九二一年
ロシアの演劇人たちを惹きつけた花子/映画の出演依頼と戦争の勃発/
ロンドンでの大成功/連合国の俳優たちと共演を果たす/一四年ぶりの日本帰国/
旅の終わり
結び 花子の縁者・澤田助太郎ご夫妻書面インタビュー
注
おわりに
主な参考文献
「花子」は本名太田ひさ。確認できている限り、ロダンの彫刻モデルを務めた唯一の日本人です。日本人女優の嚆矢の一人で、明治末から大正にかけ欧米各地で公演を行い、ジャポニスムブームを背景に現地では非常に好評を博しました。しかし、日本では目立った活動を行わなかったこともあり、ほぼほぼ忘れられかけている存在です。
昭和2年(1927)、評伝『ロダン』を書き下ろしで刊行するに際し、光太郎が岐阜にいた花子のもとを訪れてインタビューも行っています。その模様は『ロダン』の最終章「十七、「小さい花子(プチトアナコ)」」として掲載されました。それに先立つ明治43年(1910)には、森鷗外が短編小説「花子」を書いてもいます。
平成20年(2008)には、一宮市尾西歴史民俗資料館さんで「特別展花子とロダン-知られざる日本人女優と彫刻の巨匠との出会い-」、平成30年(2018)には、花子の故郷の岐阜県図書館さんで「花子 ロダンのモデルになった明治の女性」展が開催され、光太郎から花子に宛てた書簡や名刺なども展示されました。
これまでにも、まとまった花子の評伝等は何冊か刊行されています。
まず、花子の妹の令孫に当たる元岐阜女子大学教授の澤田助太郎氏による『プチト・アナコ』(昭和58年=1983 中日出版社)。翌年に英語版が刊行され、さらに平成8年(1996)には増補版として『ロダンと花子』と改題の上、上梓されました。
それから岐阜県さんが県として刊行した『マンガで見る日本真ん中面白人物史シリーズ3 花子 ロダンに愛された国際女優』(平成12年=2000 澤田助太郎原案 里中満智子構成 大石エリー作画)。漫画とあなどるなかれ、非常に良く描けています。平成30年(2018)には、ノンフィクション作家・大野芳氏による『ロダンを魅了した幻の大女優マダム・ハナコ』。また、評伝ではありませんが、小説『盗作か? 森鴎外の『花子』』(平成24年=2012 下八十五著 文芸社)でも、花子について紹介されています。
その他、当方未見ですが、資延勲氏という方が、『マルセイユのロダンと花子』(平成13年=2001 文芸社)、『ロダンと花子―ヨーロッパを翔けた日本人女優の知られざる生涯』(平成17年=2005 文芸社)という書籍を出されています。探せば他にもあるかも知れません。
で、今回の『マダム花子』。著者の根岸氏は演劇史がご専門ということで、当時の現地報道等を詳しく分析され、欧米各地での花子公演の様子が詳述されています。「女優」という視点で花子を見るには恰好の書と言えましょう。図版等も豊富で、これまで見たことがなかったな、というような写真も数多く掲載されていました。
花子がロダンのモデルを務めた際の記述ももちろんありますが、メインはやはり公演関係の考察なのかな、という感じでした。昭和2年(1927)の光太郎の花子訪問についても触れられていますが、2頁ほどでした(笑)。ただ、ロダン関連では光太郎の訳した『ロダンの言葉』が随所に引かれています。
花子、数奇な運命に翻弄されながらも、力強く生きた女性です。もっともっと知られてしかるべき存在とも思われます。『マダム花子』ぜひお買い求めを。
【折々のことば・光太郎】
午后雪かきを道路の外れの堰のところまでする。路に棒を立てて標にする。
ここまでが道だという標識としての棒ですね。そうやらないと、雪の下に埋もれている側溝などに落ちる危険性があり、雪国では現代でも行われている習慣です。
こうして花巻郊外旧太田村での蟄居生活、3年目が終わります。
マダム花子
2021年6月10日 根岸理子著 論創社 定価1800円+税Who is HANAKO? ロダンの唯一の日本人モデル、森鷗外の小説「花子」のヒロイン、そして、世界的に活躍するアーティストの先駆者でもあるマダム花子(1868-1945)とは、いかなる女性であったのか―。
目次著者紹介
ロンドン大学SOAS(School of Oriental and African Studies )大学院博士課程修了。PhD。現在、東京大学教養学部LAP 特任研究員。専門は近代日本演劇。
論文・著書:「マダム花子―『日本』を伝えた国際女優―」(『演劇学論集』第53号、2011年11月)、『井上ひさしの演劇』(共著、翰林書房、2012年)、『演劇のジャポニスム』(共著、森話社、2017年)、『革命伝説・宮本研の劇世界』(共著、社会評論社、2017 年)、『漱石辞典』(共著、翰林書房、2017年)他。
はじめに
第一章 花子の生い立ち 一八六八-一九〇二年
見送りもない旅立ち/二〇歳上の男性に身請けされる/小泉との別れ/
芸者としてヨーロッパへ
第二章 「マダム花子」の誕生 一九〇二-一九〇六年
異国に一人残る/ドイツで女優としてデビュー/貴婦人たちに危機を助けられて/
ロンドンで端役から主役へ/花子とハラキリ
第三章 ロダンのモデルとなる
ロダンとの出会い/「死の顔」ができるまで/
花子が見たロダンとロダンが見た花子/森鷗外の『花子』
第四章 各国の舞台に立つマダム花子 一九〇七-一九一二年
二度のアメリカ公演/ヨーロッパでの成功/日本に伝えられた舞台の模様/
吉川の死/夫の死を乗り越えて
第五章 名声を博したマダム花子 一九一二-一九二一年
ロシアの演劇人たちを惹きつけた花子/映画の出演依頼と戦争の勃発/
ロンドンでの大成功/連合国の俳優たちと共演を果たす/一四年ぶりの日本帰国/
旅の終わり
結び 花子の縁者・澤田助太郎ご夫妻書面インタビュー
注
おわりに
主な参考文献
「花子」は本名太田ひさ。確認できている限り、ロダンの彫刻モデルを務めた唯一の日本人です。日本人女優の嚆矢の一人で、明治末から大正にかけ欧米各地で公演を行い、ジャポニスムブームを背景に現地では非常に好評を博しました。しかし、日本では目立った活動を行わなかったこともあり、ほぼほぼ忘れられかけている存在です。
昭和2年(1927)、評伝『ロダン』を書き下ろしで刊行するに際し、光太郎が岐阜にいた花子のもとを訪れてインタビューも行っています。その模様は『ロダン』の最終章「十七、「小さい花子(プチトアナコ)」」として掲載されました。それに先立つ明治43年(1910)には、森鷗外が短編小説「花子」を書いてもいます。
平成20年(2008)には、一宮市尾西歴史民俗資料館さんで「特別展花子とロダン-知られざる日本人女優と彫刻の巨匠との出会い-」、平成30年(2018)には、花子の故郷の岐阜県図書館さんで「花子 ロダンのモデルになった明治の女性」展が開催され、光太郎から花子に宛てた書簡や名刺なども展示されました。
これまでにも、まとまった花子の評伝等は何冊か刊行されています。
まず、花子の妹の令孫に当たる元岐阜女子大学教授の澤田助太郎氏による『プチト・アナコ』(昭和58年=1983 中日出版社)。翌年に英語版が刊行され、さらに平成8年(1996)には増補版として『ロダンと花子』と改題の上、上梓されました。
それから岐阜県さんが県として刊行した『マンガで見る日本真ん中面白人物史シリーズ3 花子 ロダンに愛された国際女優』(平成12年=2000 澤田助太郎原案 里中満智子構成 大石エリー作画)。漫画とあなどるなかれ、非常に良く描けています。平成30年(2018)には、ノンフィクション作家・大野芳氏による『ロダンを魅了した幻の大女優マダム・ハナコ』。また、評伝ではありませんが、小説『盗作か? 森鴎外の『花子』』(平成24年=2012 下八十五著 文芸社)でも、花子について紹介されています。
その他、当方未見ですが、資延勲氏という方が、『マルセイユのロダンと花子』(平成13年=2001 文芸社)、『ロダンと花子―ヨーロッパを翔けた日本人女優の知られざる生涯』(平成17年=2005 文芸社)という書籍を出されています。探せば他にもあるかも知れません。
で、今回の『マダム花子』。著者の根岸氏は演劇史がご専門ということで、当時の現地報道等を詳しく分析され、欧米各地での花子公演の様子が詳述されています。「女優」という視点で花子を見るには恰好の書と言えましょう。図版等も豊富で、これまで見たことがなかったな、というような写真も数多く掲載されていました。
花子がロダンのモデルを務めた際の記述ももちろんありますが、メインはやはり公演関係の考察なのかな、という感じでした。昭和2年(1927)の光太郎の花子訪問についても触れられていますが、2頁ほどでした(笑)。ただ、ロダン関連では光太郎の訳した『ロダンの言葉』が随所に引かれています。
花子、数奇な運命に翻弄されながらも、力強く生きた女性です。もっともっと知られてしかるべき存在とも思われます。『マダム花子』ぜひお買い求めを。
【折々のことば・光太郎】
午后雪かきを道路の外れの堰のところまでする。路に棒を立てて標にする。
昭和22年(1947)12月31日の日記より 光太郎65歳
ここまでが道だという標識としての棒ですね。そうやらないと、雪の下に埋もれている側溝などに落ちる危険性があり、雪国では現代でも行われている習慣です。
こうして花巻郊外旧太田村での蟄居生活、3年目が終わります。