3件ご紹介します。
今回は、阿波踊りの掛け声をご紹介します。ほかに、博士と助詞/僕の前に道はない「道程」高村光太郎、あいだのじいさん/砂糖と塩のあいだ、はんじえ/おむすび→ごぼう、名文を言ってみよう!/雨ニモマケズ、うた「しったかぶり」。
6月3日(木)に放映のあった回の再放送です。
新コーナー「博士と助詞」で、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)が取り上げられました。
「助詞」ということで、「に」が、次々と……
なるほど、こうやって助詞による文脈全体の意味の違いを表そうと、そういう意図なのですね。しかし、「僕の前だけ道はない」は、ちょっと嫌ですね(笑)。
続いて、智恵子の故郷・福島二本松から。
古い建物のカフェがあれば全国どこへでも。ふだんはうだつの上がらない青年・真田ハルは実は人気のカフェブロガー!ゆったり流れる時間、地元の人たちとの出会い、全国の“ふるカフェ”の魅力を描きます。
福島・二本松城の敷地の中に見つけた、ビックリな洋館カフェ。古代ギリシャの建築様式と装飾が見事な部屋に急角度の美しい屋根。おススメのスコーン片手に大満足のハル!
その名も「8月カフェ」さんだそうです。「築100年」とのことで、ぴったり100年なら大正10年(1921)竣工ということになります。
場所的には、JR二本松駅から霞ヶ城方面へ続く「久保丁坂」の途中。平成28年(2016)に開催された「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」展の会場となった、二本松市歴史資料館さんのすぐ近くです。したがって、愛車で何度もこの道を通りましたが、こんな建物があったとは気づきませんでした。
智恵子生家/智恵子記念館も近いといえば近いところです(歩くとなるとちょっとありますが)。大正10年(1921)というと、智恵子は光太郎と既に結婚し、東京駒込林町のアトリエ兼住居で暮らしていた時期ですが、光太郎曰く「私と同棲してからも一年に三四箇月は郷里の家に帰つてゐた。田舎の空気を吸つて来なければ身体が保たないのであつた。」(「智恵子の半生」昭和15年=1940)ということでしたので、この建物を目にしていた可能性もあると思います。
また、上記地図で、2本東側の亀谷坂(竹田坂)には、智恵子の母・センの生まれた安斎家がありました。
今度、二本松に行く際には立ち寄ってみようと思います。
もう1件。
■先祖がもらった<武田信玄>謎の書…ナゼ家康印が?衝撃値■近代彫刻の巨匠作…<聖徳太子>像に超絶鑑定額■昼の司会…<石井亮次>のお宝&声優も仰天…おもちゃ大会■
日本近代彫刻の巨人のお宝が登場。富山で造り酒屋を営んでいた祖父は大の骨董好きで、家にはいつもたくさんの骨董品が飾られていた。小学校高学年の頃、祖母がこのお宝を見せてくれ、「これは将来譲るからね。これを大事にすればご利益に恵まれるよ」と言われた。その後、祖父母の家に行く度、このお宝に手を合わせていたところ、第一志望だった東京大学に現役合格し、就職活動でも希望していた日本銀行に就職することができた。将来このお宝を受け継ぐことになる孫が小学校高学年になったので、改めて価値を確かめたい。果して結果は!?
初回放映は今年2月、その後、系列のBSテレ東さんで先月放映がありました。光太郎の父・光雲作の聖徳太子孝養像が出ます。
ネタバレで申し訳ありませんが、鑑定価格は堂々の1,500万円。
光雲を紹介するVが、素晴らしい出来でした。
関東地方ご在住で、まだ御覧になっていない方、ぜひどうぞ。
上記の「にほんごであそぼ」と「ふるカフェ系 ハルさんの休日」は、全国放映だと思いますので、皆ざま、ぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
正午に日影さしたるにより障子に日時計を改め記す。
日時計は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋の、南側の障子に書かれていました。外側に紐で縛った石をつるし、その紐の影が障子に映る仕組みです。紐を吊す位置を前後させたりしながら、季節の変化に対応していたと思われます。
昭和24年(1949)になって、電線が引かれ、ラジオを山小屋で聴けるようになるまで、この日時計がメインでした。
にほんごであそぼ「祭りのかけごえ」
NHK Eテレ 2021年6月17日(木) 17:00~17:10(3月29日から放送時間が変わりました 木・金は夕方のみの放送となります。)今回は、阿波踊りの掛け声をご紹介します。ほかに、博士と助詞/僕の前に道はない「道程」高村光太郎、あいだのじいさん/砂糖と塩のあいだ、はんじえ/おむすび→ごぼう、名文を言ってみよう!/雨ニモマケズ、うた「しったかぶり」。
6月3日(木)に放映のあった回の再放送です。
新コーナー「博士と助詞」で、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)が取り上げられました。
「助詞」ということで、「に」が、次々と……
なるほど、こうやって助詞による文脈全体の意味の違いを表そうと、そういう意図なのですね。しかし、「僕の前だけ道はない」は、ちょっと嫌ですね(笑)。
続いて、智恵子の故郷・福島二本松から。
ふるカフェ系 ハルさんの休日「福島・二本松〜城郭内の素敵な洋館カフェ!」
NHK Eテレ 2021年6月17日(木) 22:30〜22:55 再放送6月20日(日) 18:30〜18:55古い建物のカフェがあれば全国どこへでも。ふだんはうだつの上がらない青年・真田ハルは実は人気のカフェブロガー!ゆったり流れる時間、地元の人たちとの出会い、全国の“ふるカフェ”の魅力を描きます。
福島・二本松城の敷地の中に見つけた、ビックリな洋館カフェ。古代ギリシャの建築様式と装飾が見事な部屋に急角度の美しい屋根。おススメのスコーン片手に大満足のハル!
明治初期、戊辰戦争の激戦地と知られた二本松城。広い敷地の中に立つ、謎の洋館付き住宅のカフェ。入ってみれば古代ギリシャの建築と装飾が随所に散りばめられている。アカンサスなど見事な室内装飾と美しいギャンブレラ屋根、そしてドイツ壁。ヨーロッパ中のおしゃれな建築様式を活かしたこの建物、一体、誰が建てたのか?店主からの依頼で、ハルが洋館を調査。果たして、謎は解き明かされるのか?探偵ハルのカフェ探検はいかに?
【出演】渡部豪太
こんなシャレオツなカフェが、二本松にあったのか? と思って調べたところ、今年3月オープンだそうで、存じませんでした。その名も「8月カフェ」さんだそうです。「築100年」とのことで、ぴったり100年なら大正10年(1921)竣工ということになります。
場所的には、JR二本松駅から霞ヶ城方面へ続く「久保丁坂」の途中。平成28年(2016)に開催された「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」展の会場となった、二本松市歴史資料館さんのすぐ近くです。したがって、愛車で何度もこの道を通りましたが、こんな建物があったとは気づきませんでした。
智恵子生家/智恵子記念館も近いといえば近いところです(歩くとなるとちょっとありますが)。大正10年(1921)というと、智恵子は光太郎と既に結婚し、東京駒込林町のアトリエ兼住居で暮らしていた時期ですが、光太郎曰く「私と同棲してからも一年に三四箇月は郷里の家に帰つてゐた。田舎の空気を吸つて来なければ身体が保たないのであつた。」(「智恵子の半生」昭和15年=1940)ということでしたので、この建物を目にしていた可能性もあると思います。
また、上記地図で、2本東側の亀谷坂(竹田坂)には、智恵子の母・センの生まれた安斎家がありました。
今度、二本松に行く際には立ち寄ってみようと思います。
もう1件。
開運!なんでも鑑定団【武田信玄の秘宝&巨匠の聖徳太子像に超ド級鑑定額】
地上波テレビ東京 2021年6月20日(日) 12:54〜14:00■先祖がもらった<武田信玄>謎の書…ナゼ家康印が?衝撃値■近代彫刻の巨匠作…<聖徳太子>像に超絶鑑定額■昼の司会…<石井亮次>のお宝&声優も仰天…おもちゃ大会■
日本近代彫刻の巨人のお宝が登場。富山で造り酒屋を営んでいた祖父は大の骨董好きで、家にはいつもたくさんの骨董品が飾られていた。小学校高学年の頃、祖母がこのお宝を見せてくれ、「これは将来譲るからね。これを大事にすればご利益に恵まれるよ」と言われた。その後、祖父母の家に行く度、このお宝に手を合わせていたところ、第一志望だった東京大学に現役合格し、就職活動でも希望していた日本銀行に就職することができた。将来このお宝を受け継ぐことになる孫が小学校高学年になったので、改めて価値を確かめたい。果して結果は!?
【MC】今田耕司、福澤朗 【ゲスト】石井亮次
【アシスタント】片渕茜(テレビ東京アナウンサー)
【出張鑑定】おもちゃ鑑定大会
【出張なんでも鑑定団レポーター】原口あきまさ
【出張なんでも鑑定団コメンテーター】西村知美
【ナレーター】銀河万丈、冨永みーな
初回放映は今年2月、その後、系列のBSテレ東さんで先月放映がありました。光太郎の父・光雲作の聖徳太子孝養像が出ます。
ネタバレで申し訳ありませんが、鑑定価格は堂々の1,500万円。
光雲を紹介するVが、素晴らしい出来でした。
関東地方ご在住で、まだ御覧になっていない方、ぜひどうぞ。
上記の「にほんごであそぼ」と「ふるカフェ系 ハルさんの休日」は、全国放映だと思いますので、皆ざま、ぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
正午に日影さしたるにより障子に日時計を改め記す。
昭和22年(1947)12月15日の日記より 光太郎65歳
日時計は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋の、南側の障子に書かれていました。外側に紐で縛った石をつるし、その紐の影が障子に映る仕組みです。紐を吊す位置を前後させたりしながら、季節の変化に対応していたと思われます。
昭和24年(1949)になって、電線が引かれ、ラジオを山小屋で聴けるようになるまで、この日時計がメインでした。