新型コロナに振り回されてしっまたのですね……。

明治末から大正にかけ、智恵子が所属した太平洋画会の後身の太平洋美術会さん。毎年、六本木の国立新美術館さんで大規模な展覧会を行っていましたが、昨年はコロナ禍のため中止。今年は5月12日(水)~24日(月)の会期で開催できるという方向で、作品の公募、審査、そして搬入、さらに会場での展示まで済んだそうなのですが、緊急事態宣言延長の際、公立美術館等への休業要請を解除するのしないののドタバタ(5/12から再開予定が一転して5/31まで休館延長)があり、それに巻き込まれてしまって開催できずだったとのこと。関係者の皆さんの落胆ぶりが目に浮かびます。

5/12~24、今にして思えば、ピンポイントでエアポケットの時期にあたってしまったわけで、残念としか言いようがありませんね。トーハクさんで鳴り物入りで始まった「鳥獣戯画展」も影響を受けましたが、こちらはもともと会期が長い設定だったので、今月に入ってから再開できました(ちなみに常設展の方では、光雲の「老猿」、それから珍しく光太郎木彫「鯰」と「魴鮄(ほうぼう)」も出ているそうです)。
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展示の一般公開は出来なかったものの、審査まで終了していたとのことで、今年の第116回太平洋展は実施した、ということにしたそうです。

図録も制作されていまして、先日、同会事務局よりご寄贈いただきました。多謝。
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同会には、智恵子に憧れて同会に加入された、『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』のご著者・坂本富江さんがいらっしゃいます。坂本さん、同展にはおおむね智恵子の故郷・二本松やその近隣地域を描いた作品を出品なさっていますが、今回も三春町の滝桜と思われる作品などを出されていました。
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それから、図録の巻末に「太平洋美術館縁の物故作家」。以前の図録では、この項は抄録的な感じで、載っている名前も少なかったのですが、同会の歴史の検証が進んだようで、ボリュームアップしていました。そして、以前はなかった智恵子の名も。
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当会顧問だった故・北川太一先生制作の智恵子年譜に拠れば、智恵子は明治40年(1907)に日本女子大学校を卒業し、太平洋画会に通い始めたとなっていますが、同会の資料では明治38年(1905)加入となっています。学生時代から通っていたということも十分考えられます。また、北川先生制作の年譜では、大正7年(1918)の項で、智恵子が彫刻制作にトライし始めた的な記述があります。この年に同会の彫刻部に加わったというのは確かなようです。

智恵子以外にも、碌山荻原守衛をはじめ、光太郎とも縁のあった名前がずらり。「えっ、この人もか」という名前もありますが、あまり詳しく書くと「お前、そんなことも知らなかったのか?」と言われそうなので、書きません(笑)。

来年以降、旧に復することを願って已みません(「いません」ではありません。「やみません」です(笑))。

【折々のことば・光太郎】

星が出ると、オリオン、大犬等の壮観、 夜半くもる。


昭和22年(1947)12月8日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。都会でも冬の星空は他の季節に比べればきれいなものですので、おそらく本当に「壮観」としかいいようのないものだったのではないでしょうか。