まずは『北海道新聞』さん。一昨日の掲載でした。
引用されている「美の日本的源泉」は、「日本美の源泉」の原題で、『婦人公論』の昭和17年7月号から12月号に連載された評論です。戦後、中央公論社刊の『高村光太郎選集』に収める際、光太郎の意志で改題されました。「青空文庫」さんに入っていますので、ぜひお読み下さい。引用箇所は、連載の第2回にあたる「法隆寺金堂の壁画」から採られています。
書かれたのが戦時中、しかもミッドウェー海戦での大敗直後なので、「土壇場」の一語や、「危い、きはどい時機」、「其の禍」あたりにはそうした背景が反映されています。
コラムの後半部分で述べられている人物については、論評するのも馬鹿馬鹿しいほどなので、割愛します。一言だけ言わせていただければ、「コロナ禍」という「土壇場」、「危い、きはどい時機」に、いったい何を考えているんだか……ですね。
もう1件、光太郎には触れられていませんが、『福井新聞』さん。やはり一昨日です。
山本和夫、光太郎と交流があり、山本の『武漢攻略戦記 山ゆかば』(昭和14年=1939)の題字を光太郎が揮毫していますし、山本が編んだアンソロジー『野戦詩集』(昭和16年=1941)に対する好意的な論評も書きました。こちらは『高村光太郎全集』解題では、当会の祖・草野心平主宰の雑誌『歴程』を初出としていますが、それ以前に『読売新聞』に発表され、『歴程』に転載されたことが判明しています。
当方、寡聞にして戦後の山本の活動ぶりは存じませんでしたが、花巻郊外旧太田村の山小屋に蟄居した光太郎や、それからコラムにも名が出ている作曲家・古関裕而同様、悔恨の日々を送ったとのこと。失礼ながら、「山本和夫」、全国区では忘れられかけている名だと存じますが、故郷・福井で、顕彰の機運を高めていってほしいものです。
【折々のことば・光太郎】
終日雪ふる。時々霏々としてふり、遠方がけむるやうに見える。一尺近くつもる。寒さ加はる。
12月あたまにして、既にこの状況。やはり厳しい暮らしでした。
卓上四季 土壇場の美
日本は建国以来、国運上の危機に不世出の大人物が現れるという。その一人が、土壇場に押し詰められたような推古天皇の時代の聖徳太子であると高村光太郎が「美の日本的源泉」に書いている▼とりわけ「日本美顕揚の御遺蹟は大和法隆寺に不滅の光を放つ」と称賛。金堂壁画は「大陸文化を摂取しながら日本独特の美の源泉を濁らしめず」と評価した。瀬戸際が浮き彫りにする人の真価だ▼それに比べて見苦しい身の処し方である。きのう議員辞職願が認められた菅原一秀前経済産業相のことだ。地元で祝儀などの名目で現金を配った疑いが報じられていた。東京地検特捜部は近く、公職選挙法違反の疑いで略式起訴する方針という▼起訴相当とした検察審査会の議決を受けた東京地検特捜部の再捜査期限が迫っていた。疑惑発覚から1年半余り。追い込まれた土壇場での辞職願だった▼菅原氏は「おわび申し上げる」というだけで説明は不十分と言わざるを得ない。国会の場で説明を尽くすべきだった▼本人は返上の意向だが、賞与にあたる期末手当の満額支給も批判の的に。過去の公選法違反事件で辞職が情状酌量による公民権停止の期間短縮につながった例もある。この期に及んでの辞職理由も説明が欠かせまい。土壇場の語源は江戸期の罪人が自らの墓穴を掘ってできる土盛り場にある。進退窮まる場面で遁走(とんそう)するようではあまりに醜い。引用されている「美の日本的源泉」は、「日本美の源泉」の原題で、『婦人公論』の昭和17年7月号から12月号に連載された評論です。戦後、中央公論社刊の『高村光太郎選集』に収める際、光太郎の意志で改題されました。「青空文庫」さんに入っていますので、ぜひお読み下さい。引用箇所は、連載の第2回にあたる「法隆寺金堂の壁画」から採られています。
書かれたのが戦時中、しかもミッドウェー海戦での大敗直後なので、「土壇場」の一語や、「危い、きはどい時機」、「其の禍」あたりにはそうした背景が反映されています。
コラムの後半部分で述べられている人物については、論評するのも馬鹿馬鹿しいほどなので、割愛します。一言だけ言わせていただければ、「コロナ禍」という「土壇場」、「危い、きはどい時機」に、いったい何を考えているんだか……ですね。
もう1件、光太郎には触れられていませんが、『福井新聞』さん。やはり一昨日です。
越山若水
小浜市出身の詩人で児童文学者の山本和夫さんは太平洋戦争の開戦と同時期に、ビルマ(現ミャンマー)に向かう。旧日本陸軍の報道班員で戦意高揚を求められながらも、持ち前のヒューマニズムにあふれる手記を著している▼報道班員には作家、画家らが選ばれ、同じ班員に坂井市三国町出身の小説家で詩人、高見順もいた。班員の手記をまとめ出版された「大東亜戦争 陸軍報道班員手記 ビルマ戡定(かんてい)戦」に、山本さんの「金のパゴダ」がある▼「ビルマ人の魂の故郷はパゴダである」と書き出す。パゴダは英語で仏塔のことだ。美しく輝く金の寺塔を眺めつづる。「私は戦争の破壊と悲惨のみを見に来たのでは決してない。私は日本人あるひは東洋の人の美しさを見に来てゐるのだ。私は次の時代に茂るであらう愛と平和の芽生えを見に来てゐるのだ」▼戦争末期には、朝ドラ「エール」の主人公だった古関裕而もビルマに派遣されており終戦後、自責の念にかられている。山本さんも同じく苦悩の末、児童文学の世界の扉を開く▼ミャンマーでは国軍によるクーデターから4カ月が過ぎたが、打開策は見えない。山本さんは戦後、自著の「燃える湖」で主人公の山村少尉に訴えさせている。「平和な日本を築いてくれ。おれはそういう時代がくるのを確信する」。没後25年の山本さんの願いがミャンマーにも届いてほしい。山本和夫、光太郎と交流があり、山本の『武漢攻略戦記 山ゆかば』(昭和14年=1939)の題字を光太郎が揮毫していますし、山本が編んだアンソロジー『野戦詩集』(昭和16年=1941)に対する好意的な論評も書きました。こちらは『高村光太郎全集』解題では、当会の祖・草野心平主宰の雑誌『歴程』を初出としていますが、それ以前に『読売新聞』に発表され、『歴程』に転載されたことが判明しています。
当方、寡聞にして戦後の山本の活動ぶりは存じませんでしたが、花巻郊外旧太田村の山小屋に蟄居した光太郎や、それからコラムにも名が出ている作曲家・古関裕而同様、悔恨の日々を送ったとのこと。失礼ながら、「山本和夫」、全国区では忘れられかけている名だと存じますが、故郷・福井で、顕彰の機運を高めていってほしいものです。
【折々のことば・光太郎】
終日雪ふる。時々霏々としてふり、遠方がけむるやうに見える。一尺近くつもる。寒さ加はる。
昭和22年(1947)12月4日の日記より 光太郎65歳
12月あたまにして、既にこの状況。やはり厳しい暮らしでした。