昨日は、新潟県長岡市に行っておりました。当方、通過したことは何度かありますが、長岡で足を止めるのは初でした。
メインの目的地は、駒形十吉記念美術館さん。
駒形十吉は長岡経済界の重鎮で、美術にも造詣が深く、そのコレクションを収めた美術館です。
こちらでは現在「駒形十吉生誕120年 駒形コレクションの原点」展が開催中。光太郎の書や写真(それも当方未見と思われるもの)が出ているというので、拝見に伺った次第です。
書は昭和12年(1937)、この地で「高村光雲遺作木彫展観」が開催された時のものでした。同10年(1935)に歿した光雲の作品が長岡近辺に多数あり、駒形を含む美術愛好家の団体「風羅会」が主催となって、常盤楼という料亭を会場に、一日限定で行ったものです。「駒形十吉生誕120年 駒形コレクションの原点」展を報じた新聞記事から画像を採りました。
書き下すと、「ちちよけふ子は長岡のはつなつにいとどこほしくおん作を見し」。同作は『高村光太郎全集』第11巻に掲載されていますが、そちらでは「父」「初夏」が漢字表記です。お話しさせていただいた同館学芸員さんによると、「風羅会」メンバーそれぞれに色紙を贈ったというので、表記の異同があったのでしょう。
光太郎写真は2種類展示されており、そのうち同じ記事に掲載されたのがこちら。
「高村光雲遺作木彫展観」の2年後、長岡を再訪した折の撮影です。場所はキャプションのとおり、長岡市郊外の悠久山公園にある蒼柴(あおし)神社さん。
もう1枚は、おそらく「高村光雲遺作木彫展観」の際、会場となった常盤楼の庭(?)で撮影された立ち姿の写真でした。
双方、撮影は松木喜之七。駒形と同じく「風羅会」メンバーで、光太郎に「鯉」の木彫を依頼した人物です。しかし「鯉」は完成せず、光太郎は代わりに「鯰」を贈りました。松木は写真撮影も趣味としていたそうです。
それから、「高村光雲遺作木彫展観」について報じた当時の地方紙『北越新報』の記事コピーも展示されていました。光太郎の談話が掲載されており、『高村光太郎全集』未収録のもので、驚愕しました。学芸員さんに頼み込んで、コピーを頂きました。来年4月発行の『高村光太郎研究』所収予定の当方の連載「光太郎遺珠」(『高村光太郎全集』遺漏作品の紹介)に全文を掲載します。
また、その記事には不鮮明ながら「高村光雲遺作木彫展観」会場内の写真も。これも初見で、興味深く拝見しました。
さらには展示のキャプションの中に、駒形の著書の中に光太郎に関する記述がなされているものがある、的な記載があり、帰ってから早速当該書籍を注文しました。
そんなこんなで、予想外の大収穫でした。
駒形十吉記念美術館さんに行く前、かつて常盤楼や松木喜之七宅のあったであろう辺りを廻りました。ところどころに古そうな建物も残ってはいましたが、明治・大正という感じではありませんでした。それもそのはず、この辺りが太平洋戦争時に空襲の被害が最もひどかったようでした。
ちょうどその一角に、山本五十六記念館や、山本記念公園。山本五十六もこの地の出身で、駒形の兄は山本と同級だったそうです。美術館にも山本の書が複数展示されていました。ちなみに光太郎、戦時中の翼賛詩「提督戦死」(昭和18年=1943)、「山本元帥国葬」(同)などで山本を謳っています。
ちなみに戦争といえば、先述の松木喜之七。大戦末期に、もういい年だったにもかかわらず根こそぎ動員で徴発され、台湾沖で戦死したとのことです。光太郎は戦後になってその追悼文を書いています。
時間軸が行ったり来たりになりますが、駒形十吉記念美術館さん拝観のあと、長岡駅前から路線バスで悠久山に足を運びました。光太郎、昭和12年(1937)と同14年(1939)の2度の長岡来訪で、共にここを訪れています。
小高い丘のような形状で、途中に蒼柴(あおし)神社さん。上記光太郎写真はここで撮影されています。
例によってこの地の鎮護、自分のためには道中安全を祈願しました。
かたわらに「忠犬しろ神社」。長岡藩のお殿様の愛犬「しろ」が祀られていました。長岡と江戸を自主的に往復したという凄いわんこです。
4月に17歳で逝ってしまった柴犬系雑種の愛犬を思い出し(決して「忠犬」ではありませんでしたが(笑))、「そっちにうちの犬が行ったので、よろしく」と手を合わせて参りました。
神社のさらに先、標高の高い所には、芝生の広場や小動物園、郷土資料館など。
コロナ禍のためでしょうか、いずれも閉鎖中でした。
光太郎に「悠久山の一本欅」という随筆があります。2度目の長岡来訪のあとに書かれたもので、芝生広場のあたりで見事な欅の大木を見て、感動したという内容です。非常に目立つ独立樹だというので、探してみたのですが、それらしき木は見つかりませんでした。欅(と思われる木)は何本かあったのですが、光太郎の記述とは合いません。
まぁ、それにしても、常盤楼のあった辺りもそうですが、80余年前、光太郎もここを歩いたのだ、と思うと、感慨深いものがありました。
この後、またバスで長岡駅まで戻り、帰路に就きました。長岡には、光太郎のブロンズを展示しているという菊盛記念美術館さんもあるのですが、そちらは割愛しました。
同じ新潟には、智恵子の足跡も残っていますし、智恵子の実家の長沼酒造を興した祖父の長沼次助は田上がルーツです。光太郎も長岡以外に赤倉や直江津、さらに佐渡にも足を運んでいます。いずれそうした関係の場所も、廻ってみたいと思っております。
以上、新潟レポートを終わります。
【折々のことば・光太郎】
藤島宇内氏来訪。今日花巻着、関登久也氏宅に寄りて来りし由。十字屋よりバタ半斤。昭森社森谷氏よりサントリーヰスキー一本托されしとて持参。
藤島宇内は、当会の祖・草野心平の『歴程』同人。のちに光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作(昭和27年=1952~同28年=1953)に際し、いろいろ骨折ってくれました。この日が戦時中以来の久闊でした。
メインの目的地は、駒形十吉記念美術館さん。
駒形十吉は長岡経済界の重鎮で、美術にも造詣が深く、そのコレクションを収めた美術館です。
こちらでは現在「駒形十吉生誕120年 駒形コレクションの原点」展が開催中。光太郎の書や写真(それも当方未見と思われるもの)が出ているというので、拝見に伺った次第です。
書は昭和12年(1937)、この地で「高村光雲遺作木彫展観」が開催された時のものでした。同10年(1935)に歿した光雲の作品が長岡近辺に多数あり、駒形を含む美術愛好家の団体「風羅会」が主催となって、常盤楼という料亭を会場に、一日限定で行ったものです。「駒形十吉生誕120年 駒形コレクションの原点」展を報じた新聞記事から画像を採りました。
書き下すと、「ちちよけふ子は長岡のはつなつにいとどこほしくおん作を見し」。同作は『高村光太郎全集』第11巻に掲載されていますが、そちらでは「父」「初夏」が漢字表記です。お話しさせていただいた同館学芸員さんによると、「風羅会」メンバーそれぞれに色紙を贈ったというので、表記の異同があったのでしょう。
光太郎写真は2種類展示されており、そのうち同じ記事に掲載されたのがこちら。
「高村光雲遺作木彫展観」の2年後、長岡を再訪した折の撮影です。場所はキャプションのとおり、長岡市郊外の悠久山公園にある蒼柴(あおし)神社さん。
もう1枚は、おそらく「高村光雲遺作木彫展観」の際、会場となった常盤楼の庭(?)で撮影された立ち姿の写真でした。
双方、撮影は松木喜之七。駒形と同じく「風羅会」メンバーで、光太郎に「鯉」の木彫を依頼した人物です。しかし「鯉」は完成せず、光太郎は代わりに「鯰」を贈りました。松木は写真撮影も趣味としていたそうです。
それから、「高村光雲遺作木彫展観」について報じた当時の地方紙『北越新報』の記事コピーも展示されていました。光太郎の談話が掲載されており、『高村光太郎全集』未収録のもので、驚愕しました。学芸員さんに頼み込んで、コピーを頂きました。来年4月発行の『高村光太郎研究』所収予定の当方の連載「光太郎遺珠」(『高村光太郎全集』遺漏作品の紹介)に全文を掲載します。
また、その記事には不鮮明ながら「高村光雲遺作木彫展観」会場内の写真も。これも初見で、興味深く拝見しました。
さらには展示のキャプションの中に、駒形の著書の中に光太郎に関する記述がなされているものがある、的な記載があり、帰ってから早速当該書籍を注文しました。
そんなこんなで、予想外の大収穫でした。
駒形十吉記念美術館さんに行く前、かつて常盤楼や松木喜之七宅のあったであろう辺りを廻りました。ところどころに古そうな建物も残ってはいましたが、明治・大正という感じではありませんでした。それもそのはず、この辺りが太平洋戦争時に空襲の被害が最もひどかったようでした。
ちょうどその一角に、山本五十六記念館や、山本記念公園。山本五十六もこの地の出身で、駒形の兄は山本と同級だったそうです。美術館にも山本の書が複数展示されていました。ちなみに光太郎、戦時中の翼賛詩「提督戦死」(昭和18年=1943)、「山本元帥国葬」(同)などで山本を謳っています。
ちなみに戦争といえば、先述の松木喜之七。大戦末期に、もういい年だったにもかかわらず根こそぎ動員で徴発され、台湾沖で戦死したとのことです。光太郎は戦後になってその追悼文を書いています。
時間軸が行ったり来たりになりますが、駒形十吉記念美術館さん拝観のあと、長岡駅前から路線バスで悠久山に足を運びました。光太郎、昭和12年(1937)と同14年(1939)の2度の長岡来訪で、共にここを訪れています。
小高い丘のような形状で、途中に蒼柴(あおし)神社さん。上記光太郎写真はここで撮影されています。
例によってこの地の鎮護、自分のためには道中安全を祈願しました。
かたわらに「忠犬しろ神社」。長岡藩のお殿様の愛犬「しろ」が祀られていました。長岡と江戸を自主的に往復したという凄いわんこです。
4月に17歳で逝ってしまった柴犬系雑種の愛犬を思い出し(決して「忠犬」ではありませんでしたが(笑))、「そっちにうちの犬が行ったので、よろしく」と手を合わせて参りました。
神社のさらに先、標高の高い所には、芝生の広場や小動物園、郷土資料館など。
コロナ禍のためでしょうか、いずれも閉鎖中でした。
光太郎に「悠久山の一本欅」という随筆があります。2度目の長岡来訪のあとに書かれたもので、芝生広場のあたりで見事な欅の大木を見て、感動したという内容です。非常に目立つ独立樹だというので、探してみたのですが、それらしき木は見つかりませんでした。欅(と思われる木)は何本かあったのですが、光太郎の記述とは合いません。
まぁ、それにしても、常盤楼のあった辺りもそうですが、80余年前、光太郎もここを歩いたのだ、と思うと、感慨深いものがありました。
この後、またバスで長岡駅まで戻り、帰路に就きました。長岡には、光太郎のブロンズを展示しているという菊盛記念美術館さんもあるのですが、そちらは割愛しました。
同じ新潟には、智恵子の足跡も残っていますし、智恵子の実家の長沼酒造を興した祖父の長沼次助は田上がルーツです。光太郎も長岡以外に赤倉や直江津、さらに佐渡にも足を運んでいます。いずれそうした関係の場所も、廻ってみたいと思っております。
以上、新潟レポートを終わります。
【折々のことば・光太郎】
藤島宇内氏来訪。今日花巻着、関登久也氏宅に寄りて来りし由。十字屋よりバタ半斤。昭森社森谷氏よりサントリーヰスキー一本托されしとて持参。
昭和22年(1947)11月30日の日記より 光太郎65歳
藤島宇内は、当会の祖・草野心平の『歴程』同人。のちに光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作(昭和27年=1952~同28年=1953)に際し、いろいろ骨折ってくれました。この日が戦時中以来の久闊でした。