日本初の女性だけによる雑誌『青鞜』を創刊し、その創刊号の表紙絵を智恵子に依頼した平塚らいてう。智恵子と同じ日本女子大学校家政学部で一学年上、テニス仲間でもありました。
そのらいてう、昨日が忌日、しかも没後50年ということで、いろいろなところで取り上げられています。
まず『朝日新聞』さん。5月21日(金)の掲載でした。
同じ共同通信さんで「平塚らいてう、没後50年 別姓先駆者、抑圧と闘う」という記事も出ているのですが、ネット上では閲覧できませんでした。
らいてうの女性問題に関する活動等についても、いろいろと。
『高知新聞』さん一面コラム。昨日の掲載です。
『日本農業新聞』さん、同じく昨日の一面コラム。
元祖「#わきまえない女」とでもいいましょうか、らいてうの提唱した様々な課題や提言は、現代まで連綿と受け継がれているような気がします。しかし、それが実現されているかというと、否、ですね。
五輪に関しても、元トップが女性蔑視発言で辞任し、鳴り物入りであとを継いだ女性新会長もすっかり影が薄く、さらに新会長の元のポストの後任も女性ですが、こちらは頓珍漢(「漢」は「おとこ」ですが(笑))。しかし、「だから女性は……」ではなく、個人の資質や体制の問題のように思われます。
らいてう没後50年を機に、こうした議論が高まることも期待したいものです。
【折々のことば・光太郎】
古代錦のやうな秋晴のケンランな完全な一日。風なく、空気うつとりとしづまる。山の紅葉さびて青天に映え、日光あたたかに草を色に染めてゐる。
何気ない自然の描写も実に詩的ですね。
そのらいてう、昨日が忌日、しかも没後50年ということで、いろいろなところで取り上げられています。
まず『朝日新聞』さん。5月21日(金)の掲載でした。
没後50年の平塚らいてう、日記ににじむ平和への信念
女性解放運動家の平塚らいてう(1886~1971)の未公開の日記が見つかり、一部を長野県上田市の資料館「らいてうの家」で公開している。女性が平和問題に積極的に声を上げるべきだ、との信念がうかがえる。24日で、らいてう没後50年となる。
日記は48~50年の日付でノートに書かれ、らいてうの孫にあたる東京の男性が自宅で保管していた。主に文筆活動や生活についてつづられ、その一部のコピー数点を展示している。
戦後の連合国軍占領下の50年4月13日には、「平和問題、講和問題について、婦人の総意を代表する声明を国内及び国外に、今こそしなければならない瞬間だとこの数日しきりに思い悩む」と吐露。こうした意思は同年6月、女性の立場からいかなる戦争にも加担しないことを宣言した「非武装国日本女性の講和問題についての希望要項」の公表につながった。
女性史研究で知られ、NPO法人「平塚らいてうの会」(東京)の米田佐代子会長(らいてうの家館長)によると、50年当時は講和条約の締結に向けて政治的な発言をする女性はほとんどいなかったという。「再軍備か非武装かの議論の分かれ道で、戦争でつらい体験をした女性こそが、戦争反対の声をあげる重要性を発信したかったのだろう。記述からは、1人でもんもんと考えていた様子が見て取れる」と読み解く。
こうした大まかな経緯については、らいてうに関する書物で明らかになっているが、米田会長は「らいてうの直筆資料で裏付けられた意義は大きい」と指摘。7月11日に、米田会長がらいてうの家で資料の解説を予定している。
らいてうの家は冬季閉鎖し、今年は4月24日にオープンした。毎週土、日、月曜の午前10時半~午後4時(夏季は午後5時まで)に開館。入館に500円程度の運営協力金を求めている。
同じ件、共同通信さんは、既に先月、報じていました。長野・上田市の記念館 らいてうの未公開日記を公開
女性解放運動家の平塚らいてう(1886~1971年)の足跡をたどる記念館「らいてうの家」(長野県上田市)が冬季休館を終え、24日開館した。例年期間限定でオープンしている。らいてうの死去から5月で半世紀となる今年は、平和問題に対する考えをつづった未公開の日記の複製が初めて公開されており、注目を集めそうだ。
日記の50年4月13日の欄には「平和問題、講和問題について、婦人の総意を代表する声明を国内及び国外に、今こそしなければならない〇〇(判読不能)だとこの数日しきりに思ひ悩む」と、平和問題に対して女性が声を上げる必要性を記していた。
見出しだけ読んだ時点で、「『青鞜』創刊の頃の日記で、智恵子や光太郎に言及されているといいな」と思ったのですが、残念ながら戦後のものでした。それでも一級の資料ですが。同じ共同通信さんで「平塚らいてう、没後50年 別姓先駆者、抑圧と闘う」という記事も出ているのですが、ネット上では閲覧できませんでした。
らいてうの女性問題に関する活動等についても、いろいろと。
『高知新聞』さん一面コラム。昨日の掲載です。
小社会 110年前の主張
平塚らいてうは明治から昭和にかけ、女性解放運動で活躍した。特に「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった」の評論はよく知られる。
明治末期の1911年、女性のための文芸誌「青鞜(せいとう)」の創刊号に発刊の辞として掲載された。「今、女性は月である。他に依(よ)って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼(あお)白い顔の月である」と続く。
女性が男性に依存せざるを得ない、病んだ世と訴えたかったのだろう。ちょうど110年になる。成熟した国なら歴史的な主張になっていなければならないが、現実は衝撃的だ。いまの日本社会にもそのまま通用してしまう。
世界経済フォーラムが公表する経済や教育などによる国際的な男女格差比較。日本は今春も先進国最低の120位だった。しかも、事態はより深刻になっているのではないか。コロナ禍で失業を余儀なくされた女性は男性よりもはるかに多いからだ。
ドメスティックバイオレンス(DV)相談件数も昨年度急増し、過去最多になった。内閣府の有識者研究会は、コロナ禍で増える女性のDV被害や自殺への対策を早急に強化するよう政府に提言している。
らいてうは主張の最後をこう締めくくった。「烈(はげ)しく欲求することは事実を産む最も確実な真原因である」。1世紀以上欲求しても遅々として改善しない格差。いま変える気がなければ、未来も変わらない教訓である。きょうはらいてうの没後50年。
『日本農業新聞』さん、同じく昨日の一面コラム。
四季 「元始、女性は太陽であった」
「元始、女性は太陽であった」と、平塚らいてうが人間としての女性の解放を唱えてから今年で110年、亡くなってからきょうで50年になる▽出産・育児を体験し「次世代を産み育てる労働には経済的裏付けがもてないという社会の現状に疑問」を抱いたと、孫の奥村直史さんが『平塚らいてう その思想と孫から見た素顔』につづる▽ これが、家庭労働に経済的価値を認め育児に国が報酬を、との主張につながった。新憲法下「育児の社会化」は進んだが、コロナ禍は子育て中の女性の雇用と収入の不安定さをあぶり出した▽農村はどうか。『農家女性の戦後史 日本農業新聞「 女の階段」の五十年』は、財布を握るしゅうとからミルク代をもらえず子どもの命を守るために「ミルク泥棒」をしたことや、臨月でも休めず稲刈りをしたその晩に出産したことなど「農家女性が抱える不条理さ」を記録。著者の姉歯曉駒沢大学教授は「 程度の差こそあれ、今もなお、女性たちを苦しめ続ける日本社会の宿痾(しゅくあ)そのもの」と記す▽らいてうは亡くなる年の正月、色紙にこう書いた。「命とくらしをまもる みんなのたたかいの中から 平和な未来が生まれる 新しい太陽がのぼる」。「みんな」に男は入っているか。自問する。元祖「#わきまえない女」とでもいいましょうか、らいてうの提唱した様々な課題や提言は、現代まで連綿と受け継がれているような気がします。しかし、それが実現されているかというと、否、ですね。
五輪に関しても、元トップが女性蔑視発言で辞任し、鳴り物入りであとを継いだ女性新会長もすっかり影が薄く、さらに新会長の元のポストの後任も女性ですが、こちらは頓珍漢(「漢」は「おとこ」ですが(笑))。しかし、「だから女性は……」ではなく、個人の資質や体制の問題のように思われます。
らいてう没後50年を機に、こうした議論が高まることも期待したいものです。
【折々のことば・光太郎】
古代錦のやうな秋晴のケンランな完全な一日。風なく、空気うつとりとしづまる。山の紅葉さびて青天に映え、日光あたたかに草を色に染めてゐる。
昭和22年(1947)10月31日の日記より 光太郎65歳
何気ない自然の描写も実に詩的ですね。