光太郎第二の故郷とも云うべき岩手県花巻市で起業された「やつかの森LLC」さんに関する報道。『岩手日報』さんには一週間程前に出ましたが、『岩手日日』さんで、一昨日報じられました。内容的にはかぶりますが、ご紹介します。

光太郎の食卓再現 顕彰合同会社やつかのもり 日記、書簡基にカレンダー

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の顕彰活動などに取り組む花巻市轟木の合同会社やつかのもり(藤原正代表)は、「光太郎の食卓カレンダー」を作製した。カレンダーには光太郎の食卓を再現した写真、エピソード、食を通じた相関図を掲載。同社ではカレンダーが光太郎に親しみを持つきっかけになることを願う。
 光太郎は1945(昭和20)年の空襲で東京のアトリエを失い、同年5月に宮沢賢治の実家を頼り花巻に疎開。終戦後は旧太田村山口の山小屋で約7年間、 独居自炊の生活をしながら住民と交流した。
 同社は藤原代表(69)と地元の女性社員8人で組織。アカシアの天ぷら、 ショートケーキ、トマトケチャップを使った鍋など、カレンダーに掲載されている料理は光太郎の日記や書簡に残っている記録からイメージして再現した。
 光太郎は欧米への留学経験もあることから、オリーブオイル、オーストラリア産のチーズ、アンチョビなど当時の花巻としては珍しい食材も出てくる。光太郎に手作りジャムやケーキを届けた盛岡スコーレ高校の創立者である吉田幾世さんら、食を通じて交流した県人も紹介している。
 藤原代表は「当時の文献 を見ると高村光太郎は牛肉なども食べており、かなりの食通だったことが分かる。カレンダーで高村光太郎をより身近に感じてもらい、記念館などに足を運ぶ人が増えてくれれば」と期待する。
 カレンダーは5月始まりで、見開きA3判、税込み800円。作製した500部のうち、限定100部を販売。道の駅はなまき西南で購入できる。
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記事にある「光太郎の食卓カレンダー」は、花巻まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』さんに連載中の「光太郎レシピ」に使われた写真を元に構成されたもので、光太郎の日記や書簡、随筆、周辺人物の回想文に出てくるものを、現代風にアレンジしたもの。

『マチココ』さん連載に関しては、時折、当方にレファレンス依頼があり、その意味ではちょっとだけ関わらせていただいております。

少し前には「「醢」って何ですか?」。光太郎の日記に「醢」という文字があるそうで。
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調べてみましたところ、「醢」は「かい」と読み、「兎醢」で「とかい」と読むようです。訓読みでは「ししびしお」、「しおから」などと読むとのこと。中国料理系で、「醢」は魚肉、鶏肉、獣肉などを塩と麹に漬けて発酵させたものだそうです。元々は原材料名+「醢」と表記したそうで、日本の平安時代の文献にも「兎醢」「魚醢」「鹿醢」「宍醢」(宍=肉)などの語が見られるということです。どんな感じの料理なのか、今一つイメージが湧きにくいのですが……。塩辛に近いものなのでしょうか。身が兎肉で。

「魚醢」は「魚醤」とほぼ同義だそうで、「魚醤」は醤油のルーツの一つとされ、当方生活圏内の銚子市などでも販売されています。読み方は「ぎょしょう」ですが、「ひしお」と読む場合もあります。

ところで、当方、ワープロソフトは昭和のフロッピーディスクの頃から(笑)「一太郎」を使い続けています。文書作製の際の細かな設定等は「ワード」だと、やってやれないことはないのでしょうが、当方、そのスキルがありません。「一太郎」はかなり極めたので、ほぼお手の物です。最近のニュースでは、法案の作成ミスが、官公庁で「すでに民間では“過去の遺物”となった「一太郎」をまだ使っている」ことが原因だ、というのがありましたが。「一太郎」だろうが「ワード」だろうが、ミスは生じると思うのですが……。

したがって、当方の使っている日本語辞書は「ATOK」。別にジャストシステムさんを擁護する訳ではありませんが、明らかに日本語変換に関しては「IME」より数段上です。上記の「醢」も、「ATOK」では「ひしお」と入力して変換すれば、初期設定の時点で「醤醢」が出て来ます。「IME」では出来ませんでした(何か方法があるのかもしれませんが)。なぜか最も一般的でないであろう「醓」は出て来ます。
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まぁ、はっきり言うと、光太郎等、近代の文献の引用を行うためには、「IME」は使い物にならないという感じですね。一般の方々が普通の文書を作成する分には問題ないのでしょうが。

閑話休題、「光太郎の食卓カレンダー」、「やつかの森LLC」さんサイトから注文できます。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

午后サダミさんと同道及川善三氏来訪、茸狩の由。初対面、メーレー夫人の毛布を見らる。

昭和22年(1947)10月26日の日記より 光太郎65歳

「及川善三」は「及川全三」の誤りです。岩手にホームスパンを根付かせた及川の弟子の一人が、「サダミさん」こと駿河定見(光太郎の山小屋近くの住人)の姪、戸来サツ子でした。サツ子から、光太郎が所蔵するエセル・メレ作の毛布のことを聞いた及川が訪ねてきたというわけですね。