5月2日(日)の『読売新聞』さん岡山版から。

田中美術館 スケール大きく 新館建設始まる 井原の彫刻家顕彰 アトリエなど検討

 「おとこざかりは百から百から」としたため、86歳で完成させた代表作「鏡獅子」(木彫彩色)で知られる井原市出身の彫刻家・平櫛田中(ひらくしでんちゅう 1872~1979年)を顕彰する市立田中美術館の新館建設工事が始まった。現在、休館中の同美術館敷地内で進められている。開館は2023年4月予定で、地元ファンは「田中のスケールの大きな生き方と作品は市民の誇り」と開館を待ち望んでいる。
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 新館は3階建て延べ3600平方㍍で、彫刻制作の体験教室を開催できるスペースや、プロの彫刻家が制作できるアトリエなどを検討している。休館中の建物(3階建て)も一部を改装して新館と接続し、使用する。事業費約14億円。
 手先が器用だった田中は、13歳まで後月郡(現・井原市)で育ち、大阪の小間物問屋に奉公に出た。やがて、大阪の人形師に師事。20歳代半ばで上京し、彫刻家・高村光雲に教えを請うた。
 鋭い観察眼で人間味あふれる作品を多く制作。1944~52年には東京美術学校(現・東京芸術大)の教授も務めた。
 現在、東京の国立劇場ロビーに飾られる「鏡獅子」(高さ約2㍍)は、六代目尾上菊五郎をモデルにした大作で、視線の向きなどを変えながら納得のいく形を追求し、制作に約20年を費やした。「2億円で買い取るという申し出を断り、国に寄贈した」とのエピソードも残る。
 故郷への思慕は強く、井原市内の学校に自作を贈るなどし、後に知られる「いま やらねば いつ できる わしが やらねば たれが やる」の書が掲げられた学校もあったという。
 小学校でこの言葉を学んだという井原鉄道・井原駅の市観光案内所勤務の北田利恵さん(56)は、「この言葉は、幼い頃から私たちを奮い立たせてくれました。私たちの誇りです」と話す。
 市立田中美術館は、田中が90歳で文化勲章を受章した後の69年に前身の田中館として開館。73年に現在の名称に改め、83年に今休館中の建物をオープンさせた。
 木彫や石こう像、ブロンズ像など所蔵作品は、ゆかりの品を含め約1000点で、年間約1万3000人が訪れる。老朽化が進んだことから、新館建設や改装が決まった。
 工事の安全祈願祭が4月14日にあり、くわ入れをした大舌勲市長は「新しい美術館が井原に生まれ育った人たちの誇りとして伝えられ、一度行ってみたいと言われる美術館にしたい」とあいさつした。
 井原駅のギャラリーでは、「鏡獅子」の原型となった石こう像など4作品が展示されている。同美術館学芸員の青木寛明さん(50)は「いいものを作る努力を惜しまず、107歳まで現役を貫いた。尊敬できる人物です」と話す。
 同美術館は昨年末から休館中。問い合わせは同館(0866・62・8787)へ。


岡山県井原市の市立田中美術館さん。光雲に師事した平櫛田中の作品群を常設展示するほか、やはり彫刻の企画展が多く、平成25年(2013)には「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」を他2館との巡回で、昨年には「没後110年 荻原守衛〈碌山〉―ロダンに学んだ若き天才彫刻家―」を単独で、それぞれ開催して下さっています。

新館の開館はまだまだ先のようですが、いずれはまた光太郎、それから田中の師である光雲がらみの企画展等が開催されることを期待します。

【折々のことば・光太郎】

朝八時過、朝日新聞記者自転車でくる。中島橋渡れず、県道の報から来た由。今朝五時に起きて来たとの事。新岩手日報にたのまれて廿一日の賢治の命日の為に賢治について談話筆記したしといふ。三十分ばかり話す。


昭和22年(1947)9月17日の日記より 光太郎65歳

この談話筆記、『高村光太郎全集』には漏れていましたが、数年前に見つけました。
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「中島橋渡れず」は、この数日前までの豪雨のせいでした。