状況をわかりやすくするために、KFB福島放送さんのローカルニュースから。

宮沢賢治直筆の手紙も展示 収蔵資料展「寺田弘」

福島県郡山市出身の詩人故寺田弘(てらだ・ひろし)さんの直筆の詩などを集めた資料展が開かれています。

004
会場には遺族から寄贈された資料など140点が展示されています。
寺田さんは著名な詩人たちと交流していて16歳で同人誌を創刊するなど早熟な詩人として知られています。
中には宮沢賢治が、亡くなる16日前に書いた手紙や高村光太郎から贈られた掛け軸など貴重な資料も展示されています。
005
資料展はこおりやま文学の森資料館で開かれています。
003
一昨年、寄贈の際の報道があり、そのうちに展示があるだろう、と思っておりましたところ、おお、いよいよか、というわけでした。

しかし、報道の映像を見て、唖然としました。
000
「高村光太郎から贈られた掛け軸」として紹介されたうち、向かって右、「あれが阿多多羅山 あのひかるのが阿武隈川」と、詩「樹下の二人」(大正12年=1923)の有名なリフレインが書かれたもの、これは完全に複製です。

元は、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、詩集『智恵子抄』の見返しに揮毫してもらったもの。
006
上の画像は、平成28年(2016)、二本松市の歴史資料館さんで開催された「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」の際の展示です。
001
光太郎歿後に、そこから版を起こし、色紙や軸装のものなどの複製が作られました。軸装の方は、やはり二本松市の智恵子生家の座敷にも、複製だと判った上で掲げられています。また、二本松霞ヶ城にある昭和35年(1960)建立の智恵子抄碑のブロンズパネルも、ここから文字を起こしました。
007
もう1点の「いくら廻されても針は天極をさす」の方は、真筆であることを期待します。

光太郎、この短句を好んで書き、類例の画像がいくつか手元にあります。下のものが最も有名なもので、昭和44年(1969)、求龍堂さんから刊行された『高村光太郎賞記念作品集 天極をさす』の題字もここから採りました。こちらは「まはされても」のくだりが仮名書き。「針は」の「は」が変体仮名風にカタカナの「ハ」。
002
郡山で展示されているものは、「廻されても」と、漢字、「は」は「は」で平仮名になっています。そこで、上記の書からの複製ではないことが判ります。

ただ、昭和55年(1980)に、六耀社さんから「いくら廻されても……」の書幅複製が販売されたという記録があり、「廻されても」と漢字になっているのが気がかりです。もしかすると、これなのかな、と。

近いうちに行って確認してみたいと思っております。

展示についての詳細は、以下の通り。

収蔵資料展「寺田 弘」

期 日 : 2021年4月24日(土)~6月13日(日)
会 場 : こおりやま文学の森 郡山文学資料館 福島県郡山市豊田町3-5
時 間 : 午前10時~午後5時
休 館 : 毎週月曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 〈個人〉一般 200円 高校・大学生等 100円         
              〈団体〉一般 150円 高校・大学生等  70円
                中学生以下・65歳以上・障害者手帳をお持ちの方は無料

こおりやま文学の森資料館には数多くの文学資料が収蔵されています。収蔵資料展は、新たに購入したものや寄贈されたものなどの未公開資料を中心に選出し、普段目にする機会が少ない貴重な資料を広く市民に紹介するものです。
 
今回は、郡山市出身の詩人で平成 25年に死去した寺田弘の資料を、ご遺族からの寄贈により収蔵した原稿や詩集を中心に、宮沢賢治の書簡、高村光太郎の掛け軸などを紹介します。

【折々のことば・光太郎】

深澤さんに「ホメラレモセズ苦ニモサレズ」揮毫を渡す。龍一氏よりたのまれしもの。
昭和22年(1947)8月9日の日記より 光太郎65歳

「深澤さん」は、画家の深澤紅子。この日、盛岡「婦人之友」友の会の女性陣40名程と共に、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村を訪れました。

「龍一氏」は、深澤紅子子息。東京美術学校彫刻科に在籍されていた昭和18年(1943)、学徒出陣に際し、駒込林町の光太郎アトリエ兼住居を三人の先輩方と共に訪れ、激励の言葉をもらったそうです。光太郎はその際の様子を、同年、詩「四人の学生」に綴りました。

海軍で各地を転々とされた龍一氏、最終的には人間魚雷「海龍」を擁する特攻隊に配属されたそうですが、出撃命令が出る直前に終戦となり、無事、復員しました。

龍一氏、平成27年(2015)の連翹忌にご参加下さりましたが、平成30年(2018)に亡くなられました
008
こちらが深澤家に残されている光太郎の書。日記にある書か、或いはのち、昭和25年(1950)に光太郎が深澤家を訪問した際に書かれたものと思われます。

昨年、富山県水墨美術館さんで開催予定だった「「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」展にて、本邦初公開の筈でしたが、コロナ禍のため中止。展示作品の選択、借り受け交渉など、1年以上にわたって協力させていただいただけに、実に残念に思っておりましたところ、今年10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。こちらも出品されるはずです。