東日本大震災後、宮城県女川町で建設が続く、津波対策として避難の目印となるランドマーク「いのちの石碑」。同町に平成3年(1991)に立てられた光太郎文学碑を範とし、建設費用は募金で集めたもので、いわば光太郎文学碑の精神を受け継ぐ活動です。
先月中旬の『毎日小学生新聞』さんで、そのプロジェクトが大きく取り上げられました。
五七五で向き合う
みんなで共有できる
国語科教諭として、女川一中での俳句づくりの授業を担当しました。そのころはまだ東日本大震災の発生直後で、自分も次女を亡くしていたから「今の状況を言葉にさせていいのか」という思いがありました。けれどみんな、すぐに指を折り始め、ぴたっと合う言葉を探し出した。生徒が詠んだ句の中で、「見たことない 女川町を 受けとめる」は「受け入れる」ではちょっと違うし、「ありがとう 今度は私が 頑張るね」も「頑張るよ」ではないところに気持が表われている。言葉ってすごいなと思いましたね。
確かに、「言葉」というもの、不思議な力がありますね。悲しみや苦しみ、悩みなどを言葉として吐き出せば楽になることもあれば、逆に改めて言葉にして感情を確認することで、よりその感情が昂ぶることもあるような気もします。
記事で紹介されている『女川一中生の句 あの日から』についてはこちら。
先月中旬の『毎日小学生新聞』さんで、そのプロジェクトが大きく取り上げられました。
東日本大震災と防災について考える「『あの日』に学なぶ」第5回は、「国語」<上>、「被災者の心」です。震災の後、被災した人たちは、思いを俳句や作文などの言葉ことばで表現することで、「あの日」の出来事や大切な人との別れ、自分の内面と向き合いました。それらの言葉は、震災が被災者の心に刻んだ傷の深さと、人の強さを教えてくれます。【百武信幸】
五七五で向き合う
宮城県女川町は、津波で町の建物の7割が完全にこわされ、ほとんどの人が被災者になりました。灰色の景色の中で新学期をむかえた町立女川第一中学校(現・女川中学校)の全校生徒は2011年5月、心にうかんだものを自由に詠む俳句づくりに挑みました。先生も生徒もおそるおそる取り組んだ授業でしたが、生徒たちはすぐに五七五の言葉探しを始めました。
生まれた句の一つが「見上げれば がれきの上に こいのぼり」です。句を詠んだのは当時は中学3年生だった原泉美さん(24)。津波で家が流され、ショックや落ち着かない避難所生活で、体調をくずしていた時のことでした。
その少し前、車の窓越しに見た景色が頭にうかびました。港の近く、父親がぎりぎり助かった観光物産施設「マリンパル女川」の上に泳ぐこいのぼり。教室には家族を亡くした同級生が何人もいて、かける言葉が見つからない日々が続いていました。自分もつらい。でも「家しかなくしていない私」が詠むならと考え、「見上れば」に「ポジティブ(前向き)に『上を向いて生きよう』との思いを込めた」と言います。
自らを奮い立たたせる句でもあったそうです。その後、NHKラジオの国際放送で海外に発信され、はげましを込めた詩が世界中から集まりました。
泉美さんは今、被災後の経験から体の健康について学び、東京都内の保育園で栄養士をしています。
句碑で避難呼びかけ
その他の句も震災の年の5月か11月に詠まれたものです。「女川一中生の句 あの日から」(小野智美編)という本に、句が詠よまれた一つ一つの背景が書かれています。当時の中学生たちはその後、「1000年後の命を守りたい」と募金活動をして、町内全21地区に高台への避難を呼びかける石碑を建てています。地区によって違う俳句を選び、あの時、震災と向むき合った子どもたちの思いも未来に伝えようとしています。
▽見上げれば がれきの上に こいのぼり
▽見上げれば がれきの上に こいのぼり
▽ただいまと 聞きたい声が 聞こえない
▽夢だけは 壊せなかった 大震災
▽工事中 沈む私の 応援歌
▽うらんでも うらみきれない 青い海

国語科教諭として、女川一中での俳句づくりの授業を担当しました。そのころはまだ東日本大震災の発生直後で、自分も次女を亡くしていたから「今の状況を言葉にさせていいのか」という思いがありました。けれどみんな、すぐに指を折り始め、ぴたっと合う言葉を探し出した。生徒が詠んだ句の中で、「見たことない 女川町を 受けとめる」は「受け入れる」ではちょっと違うし、「ありがとう 今度は私が 頑張るね」も「頑張るよ」ではないところに気持が表われている。言葉ってすごいなと思いましたね。
震災後に気づいたのは、実は震災後にみつけようとした言葉は教科書にあった、ということです。「夏草や 兵どもが 夢の跡」も「国破れて山河あり」も、がれきだらけの女川の風景と同じ。当時使っていた中学3年ねんの教科書の始まりは、中島みゆきさんの「永久欠番」の歌詞で「どんな立場の人であろうと いつかはこの世におさらばをする」とか「順序にルールはあるけど ルールには必ず反則もある」なんて書いてある。被災した後、特別な授業をしなきゃ、なんてあまり考える必要はないのかもしれない。
俳句は短いから、みんなで共有できるのがいい。彼らが高校生になった時に聞いてみると、俳句づくりの授業を通じて「1人じゃない」とか「こんなふうに考えてもいいのか」と思えたと言っていました。つらい経験は言葉にしてもいいし、しなくてもいい。ただ、言葉にしたい時にできる機会を作るのが学校の役割りです。
ただし、これは震災が起きてからすることです。起きる前にどうするか。高知県でいっしょに防災教育の講演をした慶応大学の大木聖子准教授は、「防災小説」というユニークな取り組みをしています。防災小説は、子どもたちに災害が起きたと想像してもらい、自のがたりにするというもの。防災ぼうさいは「みんな助かってよかった」というハッピーエンドじゃなきゃだめなんです。
プロフィル
1963年、宮城県石巻市(旧河北町)生まれ。震災で石巻市立大川小学校6年生だった次女を亡くしました。2015年3月に教員を退職。「大川伝承の会」共同代表として地元で語り部活動に取り組み、全国で講演をしています。
確かに、「言葉」というもの、不思議な力がありますね。悲しみや苦しみ、悩みなどを言葉として吐き出せば楽になることもあれば、逆に改めて言葉にして感情を確認することで、よりその感情が昂ぶることもあるような気もします。
記事で紹介されている『女川一中生の句 あの日から』についてはこちら。
【折々のことば・光太郎】
午前校長さん宅訪問、 大正屋にておみやげをかふ。
午前校長さん宅訪問、 大正屋にておみやげをかふ。
昭和22年(1947)5月18日の日記より 光太郎65歳