3月19日(金)、展覧会ハシゴの2つめは、東京駅構内の東京ステーションギャラリーさん。
こちらでは「没後70年 南薫造」が開催中です。
先週3月14日(日)、NHK Eテレさんの「アートシーン」で取り上げられました。
光太郎から南に宛てた明治40年(1907)の葉書が展示されていました。
昨夕引越し申し候。
ポリテクニツクの直ぐ側候へば学校の
御帰りがけにても御寄り被下度候。午後
二時頃には小生大抵帰宅致し居候。
夜は大方在宅
の筈に候。
光
高村光太郎
描かれている絵は、近くの酒場のギャルソンかなにかでしょうか。または日本の蕎麦屋の出前持ちのようにも見えますが。
「ポリテクニツク」は、チェルシー・ポリテクニック。アカデミックな美術学校ではなく、さまざまな技芸を教える学校でした。
「引越し」は、元はロンドンのパトニー地区にいたのが、チェルシー地区に移ったことを表します。チェルシーでは、やはり留学仲間の白瀧幾之助とルームシェアをしていましたし、近くにはバーナード・リーチが住んでいました。
この頃の南は、
光太郎はその後、パリに移って明治42年(1909)に帰国、南は同43年(1910)、アメリカ経由で日本に帰りました。
「木版」は、光太郎が神田淡路町で経営していた画廊・琅玕洞で展示されました。
南はまた、装幀も手がけていました。『白樺』の「ロダン号」。光太郎も寄稿し、日本に於けるロダン受容の、一つのエポックメーキングとして語り継がれていますが、この表紙が南の装幀で、これは存じませんでした。その他、やはり光太郎が寄稿していた『美術新報』や『詩歌』でも、南が装幀を行っています。
光太郎は光太郎で、やはり明治43年(1910)、『南薫造、有島壬生馬滞欧記念絵画展覧会目録』のために、「南薫造君の絵画」という一文を寄せています。
ただ、大正初め以後は、疎遠になったようです。確認できている限りでは、光太郎が南に送った書簡の最後のものは、大正元年(1912)11月3日付けのもの。何か行き違いがあって、南の機嫌を損ねたことを謝る内容になっています。
それ以前、文展の評などで南の出品作について、光太郎が新聞雑誌にいろいろ言及していますが、好意的な評もする反面、歯に衣着せぬ物言いも為されていて、その辺りが疎遠になった一つの原因かとも思われます。
晩年(南は光太郎より早く昭和25年=1950に歿しています)の南は、郷里広島で活動。
当方、南の絵は、多くの作家の作品を集めた展覧会で、数える程しか見たことがなかったため、今回、まとめて見ることができ、なるほど、という感じでした。いろいろな意味で「なるほど」ですが……。
図録は250ページ近い労作です。いったいに、ステーションギャラリーさんで行われる展覧会の図録は、かなり厚冊のものが多く、値がはりますが(今回のものは2,400円也)、それだけに素晴らしいものです。
「没後70年 南薫造」、ステーションギャラリーさんでは4月11日(日)まで。その後、4月20日(火)〜6月13日(日)で広島県立美術館さん、7月3日(土)〜8月29日(日)には久留米市美術館/石橋正二郎記念館さんに巡回だそうです。
ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
電話は東京から岩手に移転できるなら欲し。出来ないなら不要、随意に処分せられたしと書く、
駒込林町の実家に暮らす実弟・豊周へ送る書簡の内容の一部です。昔は固定電話の加入権というのが、一つの財産といった意味合いがありました。それを担保にしての借金というのも、比較的近年まで行われていたようです。
この時期に光太郎が電話を欲しがっていたというのは、意外といえば意外でした。この時点ではまだ蟄居中の花巻郊外旧太田村の山小屋には、電気すら通っていませんでしたし。ただ、結局電話は設置されずじまいでした。
こちらでは「没後70年 南薫造」が開催中です。
先週3月14日(日)、NHK Eテレさんの「アートシーン」で取り上げられました。
ポリテクニツクの直ぐ側候へば学校の
御帰りがけにても御寄り被下度候。午後
二時頃には小生大抵帰宅致し居候。
夜は大方在宅
の筈に候。
光
高村光太郎
描かれている絵は、近くの酒場のギャルソンかなにかでしょうか。または日本の蕎麦屋の出前持ちのようにも見えますが。
「ポリテクニツク」は、チェルシー・ポリテクニック。アカデミックな美術学校ではなく、さまざまな技芸を教える学校でした。
「引越し」は、元はロンドンのパトニー地区にいたのが、チェルシー地区に移ったことを表します。チェルシーでは、やはり留学仲間の白瀧幾之助とルームシェアをしていましたし、近くにはバーナード・リーチが住んでいました。
この頃の南は、
光太郎はその後、パリに移って明治42年(1909)に帰国、南は同43年(1910)、アメリカ経由で日本に帰りました。
「木版」は、光太郎が神田淡路町で経営していた画廊・琅玕洞で展示されました。
南はまた、装幀も手がけていました。『白樺』の「ロダン号」。光太郎も寄稿し、日本に於けるロダン受容の、一つのエポックメーキングとして語り継がれていますが、この表紙が南の装幀で、これは存じませんでした。その他、やはり光太郎が寄稿していた『美術新報』や『詩歌』でも、南が装幀を行っています。
光太郎は光太郎で、やはり明治43年(1910)、『南薫造、有島壬生馬滞欧記念絵画展覧会目録』のために、「南薫造君の絵画」という一文を寄せています。
ただ、大正初め以後は、疎遠になったようです。確認できている限りでは、光太郎が南に送った書簡の最後のものは、大正元年(1912)11月3日付けのもの。何か行き違いがあって、南の機嫌を損ねたことを謝る内容になっています。
それ以前、文展の評などで南の出品作について、光太郎が新聞雑誌にいろいろ言及していますが、好意的な評もする反面、歯に衣着せぬ物言いも為されていて、その辺りが疎遠になった一つの原因かとも思われます。
晩年(南は光太郎より早く昭和25年=1950に歿しています)の南は、郷里広島で活動。
当方、南の絵は、多くの作家の作品を集めた展覧会で、数える程しか見たことがなかったため、今回、まとめて見ることができ、なるほど、という感じでした。いろいろな意味で「なるほど」ですが……。
図録は250ページ近い労作です。いったいに、ステーションギャラリーさんで行われる展覧会の図録は、かなり厚冊のものが多く、値がはりますが(今回のものは2,400円也)、それだけに素晴らしいものです。
「没後70年 南薫造」、ステーションギャラリーさんでは4月11日(日)まで。その後、4月20日(火)〜6月13日(日)で広島県立美術館さん、7月3日(土)〜8月29日(日)には久留米市美術館/石橋正二郎記念館さんに巡回だそうです。
ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
電話は東京から岩手に移転できるなら欲し。出来ないなら不要、随意に処分せられたしと書く、
昭和22年(1947)3月6日の日記より 光太郎65歳
駒込林町の実家に暮らす実弟・豊周へ送る書簡の内容の一部です。昔は固定電話の加入権というのが、一つの財産といった意味合いがありました。それを担保にしての借金というのも、比較的近年まで行われていたようです。
この時期に光太郎が電話を欲しがっていたというのは、意外といえば意外でした。この時点ではまだ蟄居中の花巻郊外旧太田村の山小屋には、電気すら通っていませんでしたし。ただ、結局電話は設置されずじまいでした。