3.11が近づいてきました。今年は震災から10年ということで、各種メディアも、例年より取り上げられる回数が多いようです。
あの日、女川光太郎の会事務局長であらせられた貝(佐々木)廣さんが、津波に呑まれて亡くなってから、はや10年……。月日の経つのは早いものです……。
その貝さんが奔走されて、平成3年(1991)、女川町の海岸公園に建てられ、津波で横倒しになった後、昨年再建された光太郎文学碑について、昨日の『夕刊フジ』さんが大きく取り上げて下さいました。
智博さん、昨年も「NNNドキュメント東日本大震災9年 約束 ~それぞれの道~」に出演されました。その際には、平成31年(2019)の台風19号の際、被災地のボランティアをなさっていたことも取り上げられ、頭の下がる思いでした。
もう1件、「いのちの石碑」が取り上げられます。
東日本大震災から10年▽取材記者が見た被災地の歩み▽宮城・女川町「千年後の命を守る〜いのちの石碑」▽岩手・大槌町「心の支えは震災の年に生まれた双子〜自転車店の10年」▽福島・大熊町“じじい部隊”リーダー語る「原発は憎めない〜複雑な胸中」
一昨日発行の女川町さんの広報誌『広報おながわ』でも紹介されました。表紙にドーンと草彅さんと吉田羊さん。自治体の広報誌らしからぬ、ですが(笑)。
それぞれ、ぜひご覧下さい。
【折々のことば・光太郎】
昨夜ポスターカラーで描いた紙製の日ノ丸の旗を雪の中に立てる。
詩「この年」(昭和25年=1950)にも同様の記述があります。
以前、この詩をご紹介した時の記事からコピペします。
あの日、女川光太郎の会事務局長であらせられた貝(佐々木)廣さんが、津波に呑まれて亡くなってから、はや10年……。月日の経つのは早いものです……。
その貝さんが奔走されて、平成3年(1991)、女川町の海岸公園に建てられ、津波で横倒しになった後、昨年再建された光太郎文学碑について、昨日の『夕刊フジ』さんが大きく取り上げて下さいました。
【ぶらり、ぶんがく。本と歩く】津波被害からの復興に思い巡らす 高村光太郎「三陸廻り」 宮城県女川町・高村光太郎文学碑
出張先の宮城県女川町で、大きな碑を見つけた。震災遺構として整備された旧女川交番に立ち寄ろうと港に車を止めたら、駐車場のわきにある巨大な岩が目に留まった。碑面には、彫刻家としても文筆家としても知られる高村光太郎(1883~1956年)の文章と絵が彫られていた。
〈古さびた女川の町が夜になると急に立ち上る。ただ海から来た人々への夜の饗宴の為にのみあるかと思う程、此の小さな町が一斉に一個の盛り場となる〉
ネットで調べると「三陸廻り」という随筆の一節だった。昭和6(1931)年に時事新報に10回掲載された紀行文で、石巻から金華山、女川、気仙沼、釜石、宮古などを旅したという。平成3(91)年に建立されたこの文学碑は、東日本大震災で倒れはしたものの流されずに残った。町の再整備が進んで、再建されたそうだ。
10年前の3月11日。女川に押し寄せた津波の高さは20メートルに達した。高台にある病院の1階まで冠水して、市街地は壊滅。港からその病院を見上げると、人々を襲った津波のとんでもない大きさを実感して、へたり込みそうになる。とはいえ再建は少しずつ進んでいる。かさ上げした土地に女川駅が再建され、駅前にはシーパルピア女川という商業施設が整備された。観光客の姿もあった。
〈女川は極めて小さな、まだ寂しい港町だが、新興の気力が海岸には満ちている〉
文学碑にはそんな一節も刻まれていたが、町はまた立ち上がろうとしている。
帰宅後に「三陸廻り」の全文を読みたくなって、文芸評論家の北川太一が著した『光太郎智恵子うつくしきもの』を入手した。そこで知ったのが、光太郎が旅した昭和6年は、2万人以上が犠牲になった明治三陸地震の35年後だったということだ。被災地が活気を取り戻してきた時期にあたる。
旅人の視点で景色や暮らしが生き生きと描かれる「三陸廻り」にも、ちらほらと災後の意識が浮かび上がる。釜石では自然の調和力に思いを巡らせ〈自然と人工とは衝突とはいえない程一方が大きい〉。宮古については〈海溝に異変のあるたび大海嘯(つなみ)の害をうける〉ので、海岸を避けて街が作られたと推察し、〈裏が今は表になっている〉と記した。光太郎も死者を想っただろうか。いま三陸を歩く私たちが「あの日」を想うように。 (阿蘇望)
この碑が多くの人々の募金によって建立されたことに倣い、震災後に避難の目安となるランドマークとして建てられ続けている「いのちの石碑」についての、仙台に本社を置く『河北新報』さんの記事。
最愛の人を失い、遺された父と子どもたちは震災とどう向き合い、どう生きてきたのか。彼らを支えたものは何だったのか。ある家族の10年を見つめ、震災遺族の今を伝えます。
<ストーリーズ>1000年先の命を守る碑に/鈴木智博さん(21)宮城県女川町
「自分たちの活動が形となり、石碑ができた時はすごくうれしかった」。
東日本大震災の津波で大きな被害を受けた宮城県女川町の高台に造成された住宅地。「いのちの石碑」と刻まれた碑のそばで、大学生鈴木智博さん(21)が思い返した。
震災当時は女川二小6年。漁港のある集落に家族7人で暮らしていた。津波で祖父母と母を亡くした。
その年、入学した女川中の社会科の授業で「1000年先の命を津波から守ろう」と生徒たちから石碑を建てる案が出た。周囲に勧められリーダー役を引き受けた。活動は保護者や地域に広がった。
13年11月、女川中の敷地内に1基目が完成した。「世界中から多くの支援がもらえて感謝しかなかった」。約300人の関係者が集まる中、生徒の先頭に立って除幕の綱を引いた。
町内21カ所に建てられる予定の石碑は、津波到達地点より高い場所にある。現在は18基。教訓や震災を詠んだ俳句も刻まれる。
「夢だけは 壊せなかった 大震災」。鈴木さんは石碑に刻まれた俳句の一つを口にした。「今後、1000年に一度の大災害があっても石碑より上に逃げ、みんなの命が救われてほしい」。改めて石碑を見つめた。
鈴木さん、テレビにも出演されます。テレメンタリー2021「“3.11”を忘れない83 震災家族〜遺された父と子の10年〜」
地上波テレビ朝日 2021年3月7日(日) 04:30〜05:00最愛の人を失い、遺された父と子どもたちは震災とどう向き合い、どう生きてきたのか。彼らを支えたものは何だったのか。ある家族の10年を見つめ、震災遺族の今を伝えます。
死者・行方不明者が約2万2000人に上る東日本大震災。宮城県は、被災した自治体の中で最も多い犠牲者が出ました。
女川町の漁師・鈴木高利さんは、津波で両親と妻・智子さんを失いました。遺されたのは長男・智博君、長女・奈桜さん、そして当時まだ2歳だった次女・柚葉ちゃん。7人家族が突然4人家族になって10年。子どもたちが成長するに伴って接し方にも悩みながら、高利さんは男手一つで子どもたちを育ててきました。
今、智博君と奈桜さんは仙台市の大学に通う学生です。智博君は震災を語り継ぎ、津波が襲った故郷に石碑を建てる活動を続けています。奈桜さんは「保育士」になるために勉強中です。まだ2歳だった柚葉ちゃんは、この春、中学生になります。
最愛の人を突然失い、遺された父と子どもたちは震災とどう向き合い、どう生きてきたのかー。彼らを支えたものは何だったのかー。ある家族が歩んだ10年を見つめ、震災遺族の今を伝えます。
◇ナレーター 滝藤賢一
◇制作 東日本放送
智博さん、昨年も「NNNドキュメント東日本大震災9年 約束 ~それぞれの道~」に出演されました。その際には、平成31年(2019)の台風19号の際、被災地のボランティアをなさっていたことも取り上げられ、頭の下がる思いでした。
もう1件、「いのちの石碑」が取り上げられます。
news every.特別版 未来へつなぐ〜私たちの10年〜
地上波日本テレビ 2021年3月6日(土) 16:00〜16:55東日本大震災から10年▽取材記者が見た被災地の歩み▽宮城・女川町「千年後の命を守る〜いのちの石碑」▽岩手・大槌町「心の支えは震災の年に生まれた双子〜自転車店の10年」▽福島・大熊町“じじい部隊”リーダー語る「原発は憎めない〜複雑な胸中」
【メインキャスター】藤井貴彦(日本テレビアナウンサー)
【サブキャスター】 中島芽生(日本テレビアナウンサー)
三浦裕紀(テレビ岩手記者) 藤田耕司(ミヤギテレビ記者)
緒方太郎(福島中央テレビキャスター)
そして、3月6日(土)には、過日ご紹介した草彅剛さん主演の「宮城発地域ドラマ ペペロンチーノ」。緒方太郎(福島中央テレビキャスター)
一昨日発行の女川町さんの広報誌『広報おながわ』でも紹介されました。表紙にドーンと草彅さんと吉田羊さん。自治体の広報誌らしからぬ、ですが(笑)。
それぞれ、ぜひご覧下さい。
【折々のことば・光太郎】
昨夜ポスターカラーで描いた紙製の日ノ丸の旗を雪の中に立てる。
昭和22年(1947)1月1日の日記より 光太郎65歳
詩「この年」(昭和25年=1950)にも同様の記述があります。
この年
日の丸の旗を立てようと思ふ。
わたくしの日の丸は原稿紙。
原稿紙の裏表へポスタア・カラアで
あかいまんまるを描くだけだ。
それをのりで棒のさきにはり、
入口のつもつた雪にさすだけだ。
だがたつた一枚の日の丸で、
パリにもロンドンにもワシントンにも
モスクワにも北京にも来る新年と
はつきり同じ新年がここに来る。
人類がかかげる一つの意慾。
何と烈しい人類の已みがたい意慾が
ぎつしり此の新年につまつてゐるのだ。
以前、この詩をご紹介した時の記事からコピペします。
その若き日には、西洋諸国とのあまりの落差に絶望し、「根付の国」などの詩でさんざんにこきおろした日本。
老境に入ってからは15年戦争の嵐の中で、「神の国」とたたえねばならなかった日本。
そうした一切のくびきから解放され、真に自由な心境に至った光太郎にとって、この国はむやみに否定すべきものでもなく、過剰に肯定すべきものでもなく、もはや世界の中の日本なのです。
素直な心持ちで「原稿紙」の「日の丸」を雪の中に掲げる光太郎。激動の生涯、その終わり近くになって到達した境地です。