過日ご紹介しました、光太郎智恵子も登場する小説『風よあらしよ』。『朝日新聞』さんの西部版に書評が出ましたのでご紹介します。先月20日の掲載でした。
村山さんの談話にある「政府のあり方やまわりの思考停止が野枝が生きた100年前にぐっと近づいてしまった」、まさにそうですね。
それにしても、最後の画像にある野枝の墓、こんな状態なのか、と思いました。
「風よあらしよ」、ぜひお買い求め下さい。
【折々のことば・光太郎】
詩碑の加筆は三日にしたき旨院長さんに伝言をたのむ。
「院長」さんは佐藤隆房、伝言を頼んだ相手は、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋をひょっこり訪れた宮沢清六、「詩碑」は昭和11年(1936)、光太郎が揮毫した宮沢賢治の「雨ニモマケズ」詩碑です。
まだ東京にいた最初の揮毫の際、花巻から送られてきた原稿の通りに揮毫したところ、賢治が手帳に書いた通りでなかった箇所が複数ありました。
花巻高村光太郎記念会会長であらせられた故・佐藤進氏著『賢治の花園―花巻共立病院をめぐる光太郎・隆房―』(地方公論社 平成5年=1993)から。
「ヒドリ/ヒデリ」の改編については、さる高名な宗教学者の方が、詩碑の揮毫を光太郎がしたから光太郎の仕業だ、と、まったくお門違いの珍説をまことしやかに語っており、それを真に受けた記述がネット上にも氾濫していて、超迷惑です。
婦人解放に取り組み、関東大震災の混乱のさなかに28歳で憲兵に虐殺された女性活動家、伊藤野枝(のえ)に、光があてられている。弾圧や批判に屈せず女性のために論陣を張ったが、奔放な生き様に偏って見られることもあった。森喜朗氏の女性蔑視発言が議論を呼ぶなか、今こそ野枝のような存在が必要という声が上がっている。
伊藤野枝(1895~1923)は福岡県今宿村(現在の福岡市・今宿)に生を受け、苦学のすえ上野高等女学校に進学。後に平塚らいてうから引き継ぐ雑誌「青鞜」では「新しき女の道」などの文書を発表した。青鞜休刊後も「娘たちは男の妻として準備される教育から解放されなければならない」などと女中、女郎、女工の解放を訴えて活動した。米国のアナーキストでフェミニストのエマ・ゴールドマンの著作の翻訳にも取り組んだ。
震災の約2週間後、夫で思想家の大杉栄とおいで6歳の橘宗一とともに、甘粕正彦ら憲兵隊に虐殺され井戸に葬られた。思想が政府に害をなすと見なされた。国に盾突いたとして死後も冷遇され、業績に比べ複数の男性と離縁したことなどが注目されがちだった。
野枝を題材にした小説「風よあらしよ」(集英社)を2020年9月に出版したのは、直木賞作家の村山由佳さん。「理想とする社会のため自分の幸せを振り捨ててでも行動したところに女性として励まされた」と話す。
「取材し連載を書いて本が出る3年ほどの間に、政府のあり方やまわりの思考停止が野枝が生きた100年前にぐっと近づいてしまった」。虐殺された当時、甘粕を正当化する声が出るなど野枝が世間に冷遇されたことに触れ「今でもそのままなのはかわいそう。権力者に物が言いにくくなっている今こそ、時代が野枝や大杉を必要としているのではないか」と話す。
福岡市在住の自営業、古瀬かなこさん(42)は数年前から、野枝の生涯についての勉強会を開いている。野枝は日本初の女性社会主義団体に参画した。メーデーに参加した女性が警官に暴行されると、出しゃばるなと言うだろうが婦人はそんな圧力ははね返す、と文章を発表した。古瀬さんは「弾圧の中で女性差別の本質を突いた野枝の言葉に共感する」という。命日となる昨年9月16日には、手作りの野枝のTシャツを着て街頭に立ち、野枝について話をした。
自分自身、脱原発などの訴えを続けてきたが「女性の権利を求める100年前の野枝に背中を押されてきた」と話す。森氏の女性蔑視発言に「今更驚かないが、ありえない発言。野枝がいたら雑誌で特集を組んだり、街頭で先頭に立って批判したりしたと思う」。没後100年にあたる2023年に、功績を振り返るシンポジウムや記念碑の建立を考えている。
野枝のおじで庇護者(ひごしゃ)でもあった代準介(だいじゅんすけ)のひ孫と結婚した福岡市の矢野寛治さん(72)は「男系社会の厳しい環境で、よお頑張ったですよ」と話す。野枝は時の内務大臣後藤新平にも「あなたは一国の為政者でも私よりは弱い」と書いた書簡を送り、ひるまずに持論を展開した。文筆家の矢野さんは12年に家に伝わる代直筆の自叙伝をひもとき「伊藤野枝と代準介」を書き起こした。
福岡市西区今宿町の山中に、野枝の無銘碑の墓がある。矢野さんによると、無銘碑は代が野枝たちの死後の翌年に生家に近い浜辺に建てたが、追われるように転々として現在の場所に落ち着いたという。
今は当初あった立派な台座もない。矢野さんは「男が女を下に見る風潮は今も残っている」と話す。「野枝さんはそれを打ち破ろうと一生懸命活動した人。やった仕事をちゃんと見てほしい」と語る。
昨年の刊行直後にも、いろいろなメディアに書評が出たのでしょうが、このブログでこの書籍をご紹介したのが遅くなりましたので、遡っての引用は割愛させていただきます。村山さんの談話にある「政府のあり方やまわりの思考停止が野枝が生きた100年前にぐっと近づいてしまった」、まさにそうですね。
それにしても、最後の画像にある野枝の墓、こんな状態なのか、と思いました。
「風よあらしよ」、ぜひお買い求め下さい。
【折々のことば・光太郎】
詩碑の加筆は三日にしたき旨院長さんに伝言をたのむ。
昭和21年(1946)10月29日の日記より 光太郎64歳
まだ東京にいた最初の揮毫の際、花巻から送られてきた原稿の通りに揮毫したところ、賢治が手帳に書いた通りでなかった箇所が複数ありました。
花巻高村光太郎記念会会長であらせられた故・佐藤進氏著『賢治の花園―花巻共立病院をめぐる光太郎・隆房―』(地方公論社 平成5年=1993)から。
以前よりの懸案ではありましたが、賢治さんの詩碑に脱字があったり誤字があったりしているので、これを改めたいとお願いしたところ、高村先生が詩碑に直接加筆され追刻することになり、その心ぐみでそろそろ寒くなった東北の十一月の一日に山から出かけ、私の家に来ました。
一日おいた三日の朝です。東北の十一月、既に肌寒く、吐く息が白々と見える冴えた冷い朝でした。高村先生に清六さんと父と私とがお供をして桜の詩碑に行きました。着いてみると、先にこの賢治の詩碑を彫った石工の今藤清六さんが、先に来て、詩碑の前に板をさしわたした簡単な足場を作っておき、そのかたわらで焚火をしていました。
先生はおもむろに碑を眺め、やがて足場に上り、今、加筆をはじめようとしています。
万象静寂の中に、人も静まり気動かず、冷気肌をおおい、立ち上る煙のみがその静寂を破っているばかりです。先生は筆を取り、『松ノ』『ソノ』『行ツテ』を加筆し、『バウ』を『ボー』とわきに書き替えました。つづいて裏に父が「昭和二十一年十一月三日追刻」と書き入れました。
「ヒドリ/ヒデリ」の改編については、さる高名な宗教学者の方が、詩碑の揮毫を光太郎がしたから光太郎の仕業だ、と、まったくお門違いの珍説をまことしやかに語っており、それを真に受けた記述がネット上にも氾濫していて、超迷惑です。