000昨日は銚子の犬吠埼周辺に行っておりました。生活圏ではあるのですが、昨年からコロナ禍のため不要不急の外出は控え続けており、久しぶりでした。

昨年、福島二本松で開催された「智恵子講座2020」で講師を務めさせていただいた折、ご聴講下さった、都内からお越しの「かたりと」のお二人(津軽三味線の小池純一郎氏、奥様で朗読家の北原久仁香さん)と、今秋、「智恵子抄」をメインとしたコラボ公演を都内で開催することになり、その打ち合わせです。

光太郎智恵子ゆかりの犬吠埼を訪れたいというお二人のご希望もあり、光太郎智恵子が大正元年(1912)に泊まった宿である暁鶏館(現・ぎょうけい館)さんをご紹介しました。お二人は土曜の夜からご宿泊、当方は日曜(昨日)の朝にお伺いした次第です。

ちなみに「かたりと」のお二人、来月には二本松でやはり「智恵子抄」のご公演。近くなりましたらまたご紹介します。

ぎょうけい館さんに行く前に立ち寄った、光太郎智恵子が歩いた君ヶ浜から見た犬吠埼灯台。智恵子没後の昭和15年(1940)に書かれた光太郎の随筆「智恵子の半生」には、「君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまったく子供であった。」とあります。
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いざ、ぎょうけい館さんへ。君ヶ浜と反対方向、灯台の南側です。

追記 ぎょうけい館さんは令和5年(2023)1月をもって廃業、建物も取り壊されました。
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こちらのロビーで、お二人と打ち合わせ。どういう方向性だか、具体的に見えてきました。

その後、お二人を御案内して、周辺を散策。
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昔、生け簀だった石組み。ここで泳がせておいた魚を宿泊客に供していたそうです。

当方手持ちの戦前の絵葉書。海側から撮影されたものです。
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暁鶏館全景はこんな感じでした。右の方の棟は後から建て増しされたもののようで、さらに古い絵葉書には写っていません。
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KIMG4672奇岩列石の連なる遊歩道を通り、灯台へ。しかし、残念ながらコロナ禍のため、1月8日から公開は中止しているとのこと。せっかく昨年には国の重要文化財に指定されたのに、残念です。

竣工は明治7年(1874)。暁鶏館の創業と同じ年です。大正元年(1912)に訪れた光太郎智恵子も、この灯台を見上げたかと思うと、感無量ですが……。できれば99段の階段を上って、上からの絶景を見たかったのですが、いたしかたありません。他の観光客の方々も残念そうでした。

左下は、灯台のあたりからみた君ヶ浜。
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逆方向、ぎょうけい館さん。
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ぎょうけい館さんに歩いて戻る途中、建物の取り壊し工事が為されていました。おそらく、大正元年(1912)に、智恵子が妹・セキ、友人の藤井勇(ユウ)とともに最初に泊まった御風館(ぎょふうかん)のあった場所です。御風館自体はかなり早く廃業し、大正期の建物も現存せず、取り壊されていたのは昭和戦後期の建物と思われます。
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やはり古絵葉書。キャプションにはありませんが、手前の屋根が御風館です。
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その後、当方の車にお二人を乗せ、犬吠の南、長崎方面へ。光太郎詩「犬吠の太郎」に謳われた、「長崎の太郎」こと、阿部清助の墓に詣でました。

   犬吠の太郎KIMG4680
 
 太郎、太郎
 犬吠(いぬぼう)の太郎、馬鹿の太郎

 けふも海が鳴つてゐる
 娘曲馬のびらを担(かつ)いで
 ブリキの鑵を棒ちぎれで
 ステテレカンカンとお前がたたけば
 様子のいいお前がたたけば
 海の波がごうと鳴つて歯をむき出すよ
 
 ね
 今日も鳴つてゐる、海が――
 あの曲馬のお染さんは
 あの海の波へ乗つて
 あの海のさきのさきの方へ
 とつくの昔いつちまつた
 「こんな苦塩じみた銚子は大きらひ
 太郎さんもおさらば」つて
 お前と海とはその時からの
 あの暴風(しけ)の晩、曲馬の山師(やし)の夜逃げした、あの時からの仲たがひさね
 ね、そら
 けふも鳴つてゐる、歯をむき出してKIMG4681
 お前をおどかすつもりで
 浅はかな海がね

 太郎、太郎
 犬吠の太郎、馬鹿の太郎
 さうだ、さうだ
 もつとたたけ、ブリキの鑵を
 ステテレカンカンと
 そして其のいい様子を
 海の向うのお染さんに見せてやれ 001

 いくら鳴つても海は海
 お前の足もとへも届くんぢやない
 いくら大きくつても海は海
 お前は何てつても口がきける
 いくら青くつても、いくら強くつても
 海はやつぱり海だもの
 お前の方が勝つだらうよ
 勝つだらうよ002

 太郎、太郎
 犬吠の太郎、馬鹿の太郎 

 海に負けずに、ブリキの鑵を
 しつかりたたいた
 ステテレカンカンと
 それやれステテレカンカンと―― 

版画は隣町・旭市ご出身の版画家、土屋金司氏の作になるものです。詩を刻んだ方は、ぎょうけい館さんのロビーにも展示されています。

太郎は暁鶏館で働いていた、当時で言うと下男。本名は阿部清助。父は会津藩士だったそうですが、知的障害があったようで、現代では差別的表現になりますが「馬鹿の太郎」と呼ばれていました。しかし、皆から愛されるキャラだったようです。昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(丹波哲郎さん、岩下志麻さん主演)では、故・石立鉄男さんが演じていました。

光太郎、太郎の(ややこしいですね(笑))鮮烈な印象が後々まで残っていたようで、昭和3年(1928)に書かれた詩「何をまだ指してゐるのだ」にも太郎が登場します。

続いて、犬吠埼の背後、愛宕山へ。銚子で最も標高が高く、「地球の丸く見える丘展望館」が整備されています。灯台に上れなかったので、その代わりに、です。

早咲きの、おそらく河津桜ではないでしょうか、もう咲いていました。
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展望台からの眺め。
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めずらしくよく晴れていて、風もあまりなく、こんな好条件は滅多にありません。

館内に展示されていた、吉田初三郎作の鳥瞰図のコピー。
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銚子の歴史、文化等に関する説明板。
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文学関係。
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光太郎の碑は無いのですが(ぜひ建てて欲しいものですけれど)、光太郎智恵子に関する説明は書かれています。
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さらに、すぐ近くの「風のアトリエ」さんというレストランで昼食。数年ぶりに行きましたが、相変わらず料理が美味でした。

ついでにいうなら、こちらは昔からなぜかヤギさんを飼っており……。
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小池氏、ずいぶんなつかれていました(笑)。

この後、車で都内に帰られるお二人を、ぎょうけい館さんまで送り届けました。
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不要不急の外出を避けている毎日で、ひさびさにのどかな陽光の下、歩き回って、実にいい気分でした。以前は、愛犬と共に朝夕けっこう歩いていたのですが、愛犬が17歳となり、もうあまり歩けなくなってしまったので、散歩は徒歩30秒の公園まで自分が抱っこしていき、数分間歩かせる程度になってしまったため、なおさらです。
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少しでも早く、コロナ禍の終息、収束を願います。

【折々のことば・光太郎】

夜食に久しぶりで牛鍋をやる。酒ののこりをのみ、牛肉五十匁ほど、葱、キヤベツ入にて美味限りなし。米久をおもひ出す。

昭和21年(1946)10月28日の日記より 光太郎64歳

米久」は浅草に現存する牛鍋屋です。大正10年(1921)には、「米久の晩餐」という長大な詩も書きましたし、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京した昭和27年(1952)には、早速、久しぶりにここを訪れています。