岩手盛岡の地方紙『盛岡タイムス』さんの記事から。
まず「詩魂万機」の書。『高村光太郎全集』第二十巻、「短句」の項に掲載がありますが、故・北川太一先生が書かれた解題の部分に詳しい説明がなく、詳細は不明でした。まぁ、おそらくこういう形で誰かに贈られた書から採ったのだろうとは予想していましたが、盛岡の学校の先生に贈ったものだったか、という感じでした。
ちなみに毎日このブログの最後に書いている【折々のことば・光太郎】で、出典不明のまま、昨年5月16日に紹介していました。
記事にある北川先生が書かれた鑑定書的な「記」。「「詩魂萬機」は光太郎の造語で、その世界観を表白するもの。これを揮毫せる他例を知らない」まったくその通りです。
それにしても、ある意味、物凄い書です。高級な筆で、墨をたっぷり含ませ、流れるように書かれた優雅な書、などといった評は一切当てはまりません。この大きさの紙に書くには細すぎる筆で、まるでギチッ、ギチッと音を立てながら、木を彫るかのような書き方ですね。それでいて、恐ろしい気魄が感じられます。画像で見ただけで涙が出そうになりました……。
いつ書かれたものか、詳細は不明です。ただ、消去法的に考えると、やはり日記が失われている昭和24年(1949)、25年(1950)かな、という気がします。それ以外の年でしたら、日記に佐藤憲政氏のために揮毫、といった記述が有ってしかるべきですので。
『高村光太郎全集』に、佐藤憲政氏の名は5回出て来ています。
まず書簡。憲政氏宛のものが一通。昭和25年(1950)11月20日付けでした。
おてがみ拝見、
先日は御来訪、おかげで思はぬ浅酌閑談の快を味ひました、山にては御らんの通りの生活ゆゑまるでお構ひも出来ませんが時にお越し下さらばいつでも炉辺に招じまゐらせます、尤もこれからは少々雪がつもり過ぎますが、
おそらくこれが記事にある「山荘で訪問を受けた光太郎が後日、憲政さんに宛てて書いた書簡」「再訪を願うような文面」なのでしょう。
前述の通り、昭和25年(1950)の日記は失われていますが、その分、郵便物の授受を記録した「通信事項」は掲載されており、11月19日に「佐藤憲政氏よりテカミ」、11月21日に「佐藤憲政氏に返ハカキ(大慈寺小学校長)」とあります。
日記では、昭和27年(1952)9月5日。
十時頃盛岡大慈寺小学校長佐藤憲政氏来訪、ひる頃まで談話、別に用事なし、
「別に用事なし」にはクスリとさせられました。
さらに意外なことに、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京した後の昭和29年(1954)1月15日。
盛岡大慈寺小学校長さん佐藤氏くる、
光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエに来たというのは、出張か何かのついでだったのでしょうか。
これらを総合して勘案すると、「詩魂万機」の書、昭和25年(1950)の書簡で「先日は御来訪」とある時に書いて渡したと考えるのが、妥当なような気がします。
もっとも、日記に佐藤氏の名を添えずに「詩魂万機」を書いたという記述があるかも知れません。幸い、【折々のことば・光太郎】のために、また日記を最初から読み返している最中ですので、継続して調査していきましょう。
それにしても、光太郎の肉筆の書がある小学校、何とも贅沢な話です。それが死蔵とならないよう、先生方には活用の方向を考えていっていただきたいものですね。
【折々のことば・光太郎】
はじめて美味の南瓜にあたる。鶴首甚だ甘味に富み、質もうまし。種子を取る。来年大につくらん。一顆、鍋に一ぱい。此間中試食用の南瓜みな不味なりしが、これにて安心。
花巻郊外旧太田村の山小屋で栽培していたカボチャ。それまでに収穫していた別種のものはあまり美味しくなかったと書かれていましたが、鶴首のカボチャを初めて収穫し、食べたところ、大当たり(笑)。その喜びが文面から伝わってきます。
言葉の深さ知って 佐藤智一校長 祖父から受け継いだ書を桜城小に寄贈へ 高村光太郎の「詩魂萬機」
盛岡市立桜城小(児童356人)の佐藤智一校長(60)は、祖父で同校第6代校長の故・佐藤憲政さんから受け継いだ高村光太郎(1883~1956)の書「詩魂萬機」を同校に寄贈する。1950(昭和25)年冬、当時大慈寺小校長だった憲政さんが、花巻市太田(当時・稗貫郡太田村山口)の山荘に暮らしていた光太郎を訪ね、揮毫(きごう)してもらった。盛岡市内の自宅に70年ほど保管していたが、佐藤校長が3月の定年退職を前に寄贈することに。「子どもたちには、高村光太郎の言葉を通じてたくさんの詩に親しみ、言葉の深さを味わってほしい」と願う。
憲政さんは1895(明治28)年生まれ。岩手師範学校本科(現岩手大教育学部)卒。戦中から戦後の42~46(昭和17~21)年度に桜城小校長を務めた。同小は憲政さん、佐藤校長の母校で、佐藤校長の祖母のフヨさんも教員として勤めた。同校が国語教育に重点をおいていることから、「お世話になった学校の教育に役立つことができれば、祖父も喜んでくれると思う」と感謝の気持ちを託した。
「詩魂萬機」の書は、細身の筆を執って彫り付けるように書かれている。
「詩魂」は、「詩をつくる心、詩で表現しようとする心」の意があるが、書に添えられた研究者の北川太一さん(故人)の記によると、「詩魂萬機」は光太郎の造語で、その世界観を表白するもの。「これを揮毫せる他例を知らない」とも記されている。
光太郎の「彫刻十箇條」(1926・大正15年)の冒頭には、「彫刻の本性は立體感にあり。しかも彫刻のいのちは詩魂にあり。」との一文がある。
佐藤校長は「この書を通じて〝詩魂〟という言葉を知ったが、物事の本質を極めようとする心や、そこから得られる感動という解釈もできると感じた。子どもたちには物事を深く掘り下げ、『本物とは何か』を考える心を持ってほしい」と語った。
佐藤校長の自宅には、山荘で訪問を受けた光太郎が後日、憲政さんに宛てて書いた書簡も残っており、再訪を願うような文面に二人の温かな出会いがにじむ。
書は佐藤校長が全校児童に紹介した。
3月11日まで校長室前に展示し、来校した保護者らにも公開する予定。
驚きました。まず「詩魂万機」の書。『高村光太郎全集』第二十巻、「短句」の項に掲載がありますが、故・北川太一先生が書かれた解題の部分に詳しい説明がなく、詳細は不明でした。まぁ、おそらくこういう形で誰かに贈られた書から採ったのだろうとは予想していましたが、盛岡の学校の先生に贈ったものだったか、という感じでした。
ちなみに毎日このブログの最後に書いている【折々のことば・光太郎】で、出典不明のまま、昨年5月16日に紹介していました。
記事にある北川先生が書かれた鑑定書的な「記」。「「詩魂萬機」は光太郎の造語で、その世界観を表白するもの。これを揮毫せる他例を知らない」まったくその通りです。
それにしても、ある意味、物凄い書です。高級な筆で、墨をたっぷり含ませ、流れるように書かれた優雅な書、などといった評は一切当てはまりません。この大きさの紙に書くには細すぎる筆で、まるでギチッ、ギチッと音を立てながら、木を彫るかのような書き方ですね。それでいて、恐ろしい気魄が感じられます。画像で見ただけで涙が出そうになりました……。
いつ書かれたものか、詳細は不明です。ただ、消去法的に考えると、やはり日記が失われている昭和24年(1949)、25年(1950)かな、という気がします。それ以外の年でしたら、日記に佐藤憲政氏のために揮毫、といった記述が有ってしかるべきですので。
『高村光太郎全集』に、佐藤憲政氏の名は5回出て来ています。
まず書簡。憲政氏宛のものが一通。昭和25年(1950)11月20日付けでした。
おてがみ拝見、
先日は御来訪、おかげで思はぬ浅酌閑談の快を味ひました、山にては御らんの通りの生活ゆゑまるでお構ひも出来ませんが時にお越し下さらばいつでも炉辺に招じまゐらせます、尤もこれからは少々雪がつもり過ぎますが、
おそらくこれが記事にある「山荘で訪問を受けた光太郎が後日、憲政さんに宛てて書いた書簡」「再訪を願うような文面」なのでしょう。
前述の通り、昭和25年(1950)の日記は失われていますが、その分、郵便物の授受を記録した「通信事項」は掲載されており、11月19日に「佐藤憲政氏よりテカミ」、11月21日に「佐藤憲政氏に返ハカキ(大慈寺小学校長)」とあります。
日記では、昭和27年(1952)9月5日。
十時頃盛岡大慈寺小学校長佐藤憲政氏来訪、ひる頃まで談話、別に用事なし、
「別に用事なし」にはクスリとさせられました。
さらに意外なことに、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京した後の昭和29年(1954)1月15日。
盛岡大慈寺小学校長さん佐藤氏くる、
光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエに来たというのは、出張か何かのついでだったのでしょうか。
これらを総合して勘案すると、「詩魂万機」の書、昭和25年(1950)の書簡で「先日は御来訪」とある時に書いて渡したと考えるのが、妥当なような気がします。
もっとも、日記に佐藤氏の名を添えずに「詩魂万機」を書いたという記述があるかも知れません。幸い、【折々のことば・光太郎】のために、また日記を最初から読み返している最中ですので、継続して調査していきましょう。
それにしても、光太郎の肉筆の書がある小学校、何とも贅沢な話です。それが死蔵とならないよう、先生方には活用の方向を考えていっていただきたいものですね。
【折々のことば・光太郎】
はじめて美味の南瓜にあたる。鶴首甚だ甘味に富み、質もうまし。種子を取る。来年大につくらん。一顆、鍋に一ぱい。此間中試食用の南瓜みな不味なりしが、これにて安心。
昭和21年(1946)10月15日の日記より 光太郎64歳
花巻郊外旧太田村の山小屋で栽培していたカボチャ。それまでに収穫していた別種のものはあまり美味しくなかったと書かれていましたが、鶴首のカボチャを初めて収穫し、食べたところ、大当たり(笑)。その喜びが文面から伝わってきます。