古いというほど古い訳ではありませんが、こんな書籍を入手しました。
昭和62年(1987)刊行の『岩手の美術と共に歩んで』。著者は岩手大学名誉教授であらせられた画家の故・佐々木一郎氏(大正3年=1914~平成21年=2009)。版元の記載がなく、おそらく自費出版と思われます。
先頃、花巻駅前の「やすらぎの像」について書きました時に、作者の故・池田次男氏が岩手県立美術工芸学校に学ばれたことを知り、同校について調査中、この書籍の存在を知りました。
佐々木氏は同校の活動を通じて光太郎とも親しく、『高村光太郎全集』にその名が頻出します。さらにこの書籍に光太郎に関する回想等が載っているということですので、購入しました。
手元に届き、開いてみてまず驚いたのは、巻頭のグラビアページ。昭和23年(1948)、美術工芸学校開校の際に光太郎が寄せた、原稿用紙4枚にわたる祝辞がそのままの形で掲載されていました。
祝辞自体は『高村光太郎全集』第11巻に収録されており、初めて読んだわけではありませんが、光太郎の文字で読むと、また違った印象でした。
そして、光太郎の写真。
キャプションがなく、正確な日付が不明ですが、右に写っている式次第が「校舎落成式次第」となっており、おそらく開校の翌年・昭和24年(1949)の11月17日です。光太郎は前年の開校式には欠席しましたが、校舎落成式には出席したというのが初めて確認できました。というのは、この年の光太郎日記が失われており、11月に盛岡に行っていたことは分かっていたものの、詳細な行動が今一つ不明であるためです。
また、別の日の写真。
こちらのキャプションは「高村光太郎先生の講演」とのみ書かれており、年月日は不明です。光太郎が同校で講演(講話)をしたのは、確認できている限り、上記の昭和24年(1949)の11月以外に、昭和25年(1950)の1月と5月、昭和27年(1952)の7月です。手前に写っている生徒たちの服装、夏服と冬服が混在していることから、昭和25年(1950)5月がもっともあり得るかな、という感じですね。
こんな写真も。
「校舎落成作品展での高村先生」だそうで。すると、最初の写真と同じ昭和24年(1949)ですね。この写真は花巻高村光太郎記念館さんの説明パネルにも使われていた記憶があります。
グラビアページ以外の本文でも、光太郎に関して随所に触れられています。上記の光太郎が寄せた開校式祝辞、同じく光太郎による「第一回卒業式によせて」(昭和26年=1951)は全文が収録されていますし、「高村先生との出会い」「美校と高村先生」という項があります。
こんな一節が。光太郎が暮らしていた花巻郊外旧太田村の山小屋を訪問した際の記述です。
或日、先生をたずねた時、先生はまだやすんでおられた。掛布団の上に軍隊用の毛布をかけられ、その上を茣蓙で覆うておられたが、すき間からの雪が、休んでおられる先生の体のとおりうっすらと白く積っていて、何とごあいさつしたらよいものか、言葉も出なかった。
寝ている布団にもうっすらと雪が積もることがあった、というエピソードの具体的な証言です。
それから、喀血した血の溜まった洗面器を見せられたことも紹介されています。いつも接していた村人や花巻町の人々などには、結核の件は秘匿していた光太郎も、時折訪ねてくるだけの佐々木氏には隠さなかったのですね。
その他、美術工芸学校に関わったりした、様々な岩手の美術家たちのエピソード等が語られています。深沢省三・紅子夫妻、舟越保武、森口多里、堀江赳、萬鉄五郎などなど。さらに当方も何度か足を運んだ盛岡市の岩手県立美術館が開館に至るまでの経緯なども。
「岩手は美の世界でも日本のホープだと思っている」という光太郎の言葉が引かれています。たしかに、ある意味そういう部分があるのだな、と納得させられる書籍でした。
古書市場等にて入手可能です。ぜひお買い求めを。
【折々のことば・光太郎】
尚二十日清潔法検査日につき十九日に掃除しておくやうにとの事。
山小屋を訪れた村人からの伝言です。「清潔法検査」は、伝染病予防などのため、地域の自治会や市町村の担当者が各戸を廻って衛生状態等を点検したことだそうです。
昭和62年(1987)刊行の『岩手の美術と共に歩んで』。著者は岩手大学名誉教授であらせられた画家の故・佐々木一郎氏(大正3年=1914~平成21年=2009)。版元の記載がなく、おそらく自費出版と思われます。
先頃、花巻駅前の「やすらぎの像」について書きました時に、作者の故・池田次男氏が岩手県立美術工芸学校に学ばれたことを知り、同校について調査中、この書籍の存在を知りました。
佐々木氏は同校の活動を通じて光太郎とも親しく、『高村光太郎全集』にその名が頻出します。さらにこの書籍に光太郎に関する回想等が載っているということですので、購入しました。
手元に届き、開いてみてまず驚いたのは、巻頭のグラビアページ。昭和23年(1948)、美術工芸学校開校の際に光太郎が寄せた、原稿用紙4枚にわたる祝辞がそのままの形で掲載されていました。
祝辞自体は『高村光太郎全集』第11巻に収録されており、初めて読んだわけではありませんが、光太郎の文字で読むと、また違った印象でした。
そして、光太郎の写真。
キャプションがなく、正確な日付が不明ですが、右に写っている式次第が「校舎落成式次第」となっており、おそらく開校の翌年・昭和24年(1949)の11月17日です。光太郎は前年の開校式には欠席しましたが、校舎落成式には出席したというのが初めて確認できました。というのは、この年の光太郎日記が失われており、11月に盛岡に行っていたことは分かっていたものの、詳細な行動が今一つ不明であるためです。
また、別の日の写真。
こちらのキャプションは「高村光太郎先生の講演」とのみ書かれており、年月日は不明です。光太郎が同校で講演(講話)をしたのは、確認できている限り、上記の昭和24年(1949)の11月以外に、昭和25年(1950)の1月と5月、昭和27年(1952)の7月です。手前に写っている生徒たちの服装、夏服と冬服が混在していることから、昭和25年(1950)5月がもっともあり得るかな、という感じですね。
こんな写真も。
「校舎落成作品展での高村先生」だそうで。すると、最初の写真と同じ昭和24年(1949)ですね。この写真は花巻高村光太郎記念館さんの説明パネルにも使われていた記憶があります。
グラビアページ以外の本文でも、光太郎に関して随所に触れられています。上記の光太郎が寄せた開校式祝辞、同じく光太郎による「第一回卒業式によせて」(昭和26年=1951)は全文が収録されていますし、「高村先生との出会い」「美校と高村先生」という項があります。
こんな一節が。光太郎が暮らしていた花巻郊外旧太田村の山小屋を訪問した際の記述です。
或日、先生をたずねた時、先生はまだやすんでおられた。掛布団の上に軍隊用の毛布をかけられ、その上を茣蓙で覆うておられたが、すき間からの雪が、休んでおられる先生の体のとおりうっすらと白く積っていて、何とごあいさつしたらよいものか、言葉も出なかった。
寝ている布団にもうっすらと雪が積もることがあった、というエピソードの具体的な証言です。
それから、喀血した血の溜まった洗面器を見せられたことも紹介されています。いつも接していた村人や花巻町の人々などには、結核の件は秘匿していた光太郎も、時折訪ねてくるだけの佐々木氏には隠さなかったのですね。
その他、美術工芸学校に関わったりした、様々な岩手の美術家たちのエピソード等が語られています。深沢省三・紅子夫妻、舟越保武、森口多里、堀江赳、萬鉄五郎などなど。さらに当方も何度か足を運んだ盛岡市の岩手県立美術館が開館に至るまでの経緯なども。
「岩手は美の世界でも日本のホープだと思っている」という光太郎の言葉が引かれています。たしかに、ある意味そういう部分があるのだな、と納得させられる書籍でした。
古書市場等にて入手可能です。ぜひお買い求めを。
【折々のことば・光太郎】
尚二十日清潔法検査日につき十九日に掃除しておくやうにとの事。
昭和21年(1946)9月17日の日記より 光太郎64歳
山小屋を訪れた村人からの伝言です。「清潔法検査」は、伝染病予防などのため、地域の自治会や市町村の担当者が各戸を廻って衛生状態等を点検したことだそうです。