コロナ禍の明けやらぬ中、やはりイベント等の開催が少なく、相変わらずこのブログもネタ不足です。

これまでもこうした際にたびたびそうしてきましたが、またネタが集まるまでの数日間、「最近手に入れた古いもの」をご紹介します。

新刊書籍等と異なり、皆様が同じものを入手しにくいものとは存じますが、「こういうものもあったんだ」ということで。

今日は光太郎の父・光雲がらみの品々を。

まず、こちら。戦前の絵葉書です。
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光雲作の仏像で、現在の韓国ソウルにあった春畝山博文寺(しゅんぽざんはくぶんじ)の本尊・釈迦如来像です。

博文寺は、初代韓国統監で、明治42年(1909)にハルビンで暗殺された伊藤博文の二十三回忌を記念し、昭和7年(1932)に建てられた寺院。山号の「春畝」も伊藤の号です。その本尊の制作を光雲が依頼され、手がけました。完成は翌昭和8年(1933)。光雲が歿する前年です。

下の画像は、かなり前に入手したものですが、上野松坂屋で行われた開眼供養の模様を撮ったキャビネ版の写真。光雲も写っています。
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裏にはリーフレットが貼り付けてありました。
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曰く、

◎博文寺本尊佛開眼式
日鮮融和の大道場として故伊藤博文公に縁故ある官民有志の発起で、昨年十月に京城に落成を見た曹洞宗春畝山博文寺に納められる本尊佛は、過般来斯界の権威高村光雲翁が製作中であつたが、此程漸く等身大に及ぶ釈迦如来像を完成、十七日午前十時より伊藤公記念会主催で上野松坂屋で開眼供養を行つた。
写真は、完成した如来像と参列の高村光雲、今井田朝鮮政務総監、児玉秀雄伯

絵葉書は像を正面から大写しにしたもので、この像の写真として、このアングルのものは見たことがなく、これは貴重だと思い、購入しました。

時折、ネットオークションなどでこれを含む博文寺としての絵葉書セットが出ていますが、セットになると1万円近くの値。当方が入手したのは釈迦如来像の一枚だけ千円ぽっきりで出ていたもので、安く手に入ってラッキーでした。

ところでこの像本体は、現在はどうなっているのか、当方寡聞にして存じません。おそらく現存していないのではないのかと思うのですが、情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。

光雲がらみでもう1点。
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おそらく明治後半の錦絵です。題して「東京名所 上野公園雪景」。

雪景がメインですが、ワイプ画面的に西郷隆盛像。言わずもがなですが、東京美術学校として依頼を受け、光雲が主任となって制作されたものです。除幕は明治31年(1898)でした。
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錦絵作者は、左下に「巨泉」の落款があり、大阪出身の川崎巨泉と思われます。

こちらはかなり前に入手したものですが、やはり巨泉による「東京名所 楠公乃銅像 桔梗御門」。やはり光雲が主任となって制作された楠木正成像が描かれています。
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こちらは枠外に「明治三十一年一月一日印刷」とあり、年代がはっきりしています。上記「上野公園雪景」と比べ、「東京名所」の部分のロゴが同一ですし、紙のサイズも同じですので、同じ頃、同じ版元なのではと思われます。

この手の西郷像と楠公像の錦絵の類、10枚程集まりました。詳細は未定ですが、今秋、花巻高村光太郎記念館さんで、昨年も展示された光雲作の「鈿女命」をまた出す計画があり、その際にこれらをお貸しして一緒に並べてもらう予定です。

詳細が決まりましたら、またご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

真壁さんより昨日テカミ来り、切抜絵の複製の見本封入。甚だ不出来にて話にならず、今泉さん等も延期と定め居る由につき同意の返事を出す。

昭和21年(1946)9月16日の日記より 光太郎64歳

戦後になると、智恵子紙絵を画集として出版する計画が持ち上がりました。「真壁さん」は智恵子紙絵を疎開させていた山形の詩人・真壁仁。「今泉さん」は真壁と同郷の美術評論家で、各種美術雑誌の編集に関わっていた今泉篤男です。

智恵子の紙絵、当時の製版・印刷の技術では、光太郎の納得のいくものが出来ず、雑誌に散発的に掲載されたり、展覧会図録に載ったりはしましたが、単独の画集として刊行されたのは光太郎歿後のことでした。