光太郎智恵子が登場しているとは存じませんで、新刊、といっても5ヶ月近く経ってしまいましたが……。
風よ あらしよ
2020年9月25日 村山由佳著 集英社 定価2,000円+税【祝!本の雑誌が選ぶ2020年度ベスト10第1位】
どんな恋愛小説もかなわない不滅の同志愛の物語。いま、蘇る伊藤野枝と大杉栄。震えがとまらない。
姜尚中さん(東京大学名誉教授)
ページが熱を帯びている。火照った肌の匂いがする。二十八年の生涯を疾走した伊藤野枝の、圧倒的な存在感。百年前の女たちの息遣いを、耳元に感じた。
小島慶子さん(エッセイスト)
時を超えて、伊藤野枝たちの情熱が昨日今日のことのように胸に迫り、これはむしろ未来の女たちに必要な物語だと思った。
島本理生さん(作家)
明治・大正を駆け抜けた、アナキストで婦人解放運動家の伊藤野枝。生涯で三人の男と〈結婚〉、七人の子を産み、関東大震災後に憲兵隊の甘粕正彦らの手により虐殺される――。その短くも熱情にあふれた人生が、野枝自身、そして二番目の夫でダダイストの辻潤、三番目の夫でかけがえのない同志・大杉栄、野枝を『青鞜』に招き入れた平塚らいてう、四角関係の果てに大杉を刺した神近市子らの眼差しを通して、鮮やかによみがえる。著者渾身の大作。
[主な登場人物]
伊藤野枝…婦人解放運動家。二十八年の生涯で三度〈結婚〉、七人の子を産む。
辻 潤…翻訳家。教師として野枝と出会い、恋愛関係に。
大杉 栄…アナキスト。妻と恋人がいながら野枝に強く惹かれていく。
平塚らいてう…野枝の手紙に心を動かされ『青鞜』に引き入れる。
神近市子…新聞記者。四角関係の果てに日蔭茶屋で大杉を刺す。
後藤新平…政治家。内務大臣、東京市長などを歴任。
甘粕正彦…憲兵大尉。関東大震災後、大杉・野枝らを捕縛。
【著者略歴】
村山由佳(むらやま・ゆか)
1964年東京都生まれ。立教大学文学部卒。会社勤務などを経て作家デビュー。1993年『天使の卵――エンジェルス・エッグ』で小説すばる新人賞、2003年『星々の舟』で直木賞、2009年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、柴田錬三郎賞、島清恋愛文学賞を受賞。
【目次】
序 章 天地無情
第 一 章 野心
第 二 章 突破口
第 三 章 初恋
第 四 章 見えない檻
第 五 章 出奔
第 六 章 窮鳥
第 七 章 山、動く
第 八 章 動揺
第 九 章 眼の男
第 十 章 義憤
第十一章 裏切り
第十二章 女ふたり
第十三章 子棄て
第十四章 日蔭の茶屋にて
第十五章 自由あれ
第十六章 果たし状
第十七章 革命の歌
第十八章 婦人の反抗
第十九章 行方不明
第二十章 愛国
終 章 終わらない夏
『青鞜』社員でもあった、伊藤野枝の評伝小説です。序章は大正12年(1923)9月、関東大震災の場面。その後、第一章からは明治28年(1895)の野枝の誕生以後をほぼ時系列を追って展開します。
野枝はとにかく向学心に燃え、貧しい家庭に生まれながらも周囲を強引に説得し、上野高等女学校に進学、卒業時に無理矢理意に沿わない結婚を強いられるも婚家を飛び出し、女学校の教師だった辻潤と結ばれ、『青鞜』に参加。発起人の平塚らいてうが編集から離れると、それを引き継ぎます。するとアナキスト・大杉栄と知り合い、たちまちその魅力に惹かれ、辻と別れて大杉の元へ。しかし大杉は「自由恋愛」を標榜し、野枝以外にも二人の女性との関係を続けます。そのうちの一人、神近市子に大杉が刺され(いわゆる「日蔭茶屋事件」)、一命を取り留めた大杉とともに無政府主義運動にのめり込む野枝。やがて関東大震災、そして、そのどさくさで大杉もろとも憲兵隊に拘引され……。
何というか、「火の玉」のような女性です。永遠の厨二病的な傾向や、自分もそうされてきたにも関わらず、我が子に対するネグレクト(結局、そういう部分は連鎖するのでしょうか)、そして辻や大杉らとの四角関係、五角関係など、決して手放しでほめられる生き方をしていなかった部分も多いのですが、確かにその生の軌跡には鮮やかな、そして烈しい光芒……。
野枝が『青鞜』に加わったのは、智恵子が『青鞜』から離れたあとで、おそらく直接の面識はないものと思われます。そこで、この小説が出ていたのは存じておりましたが、智恵子は登場しないだろうと思い、購入せずにいました。ところが、そうでないと知り、慌てて購入して読んだ次第です。
「第七章 山、動く」で明治44年(1911)の『青鞜』発刊前後も描かれており、数え26歳の智恵子。
「明」は「はる」と読み、らいてうの本名です。「智恵」が智恵子。智恵子の戸籍名はカタカナで「チヱ」ですが、この頃、多くの女性が勝手に漢字を当てたり、「子」をつけたりした名を自称しています。与謝野晶子も本名は「しよう」。旧仮名遣いですので拗音でも「よ」は大きな「よ」、したがって読み方は「しょう」。そこで「晶」の字をあて、「子」をつけて「晶子」、さらに訓読みにして「あきこ」です。
閑話休題。感心したのは、神奈川県立近代美術館長・水沢勉氏により明らかにされた、智恵子の手になる『青鞜』表紙絵が、ウィーン分離派の作家、ヨーゼフ・エンゲルハルトの寄木細工を模写したものであること、そうした転用が普通であったことがしっかり記されている点。こうした最近の研究成果を取り入れていらっしゃる村山さん、さすがです。どうも「老大家」と称される人々の御著書には、そうした姿勢が欠けています。
「第十九章 行方不明」には、光太郎も登場していました。
当会の祖・草野心平や、親交の深かった彫刻家・高田博厚などの影響もあったのではないでしょうか、光太郎、大正後半から昭和初めにかけては、プロレタリア文学者と言えるような立ち位置にいました。大杉の義弟・近藤憲二の主宰する『労働運動』編集部に、ブロンズの代表作「手」を寄贈しようとしたエピソード。大正10年(1921)の、知る人ぞ知る話です。
光太郎が歿した直後(昭和31年=1956)、近藤は『クロハタ』に「高村光太郎氏のこと」と題する追悼的な一文を寄せ、この時の模様を語っています。当会発行の冊子『光太郎資料43』に載せましたが、全文は以下の通り。
村山さん、この文章にも目を通されているようです。光太郎の言った「ぼく、高村光太郎」などの言葉がそのまま引用されていますので(あるいは近藤が他でも同じエピソードを書いているのかも知れませんが)。
おそらく、野枝はじめ他の人物についても、多くの資料を読み込まれて書かれた小説なのでしょう。そういう部分では、非常に好感が持てますね。ただし、本文650ページ超、重量約620㌘。手に持って読むと、軽く筋トレにもなります(笑)。
ぜひお買い求めを。
【折々のことば・光太郎】
西公園駅から二ツ関まで無理な位こんだ電車に乗る。
「電車」は花巻電鉄。「二ツ関」は「二ツ堰」の誤記です。「馬面電車」と呼ばれた狭軌の車輌、普通に乗っていても向かいの座席に坐っている人と膝が当たるという状態ですので、座れずに立って乗る人が多数いたらひどい混雑だったでしょう。下の画像、中央で立っているのが光太郎、昭和28年(1953)のものです。
【目次】
序 章 天地無情
第 一 章 野心
第 二 章 突破口
第 三 章 初恋
第 四 章 見えない檻
第 五 章 出奔
第 六 章 窮鳥
第 七 章 山、動く
第 八 章 動揺
第 九 章 眼の男
第 十 章 義憤
第十一章 裏切り
第十二章 女ふたり
第十三章 子棄て
第十四章 日蔭の茶屋にて
第十五章 自由あれ
第十六章 果たし状
第十七章 革命の歌
第十八章 婦人の反抗
第十九章 行方不明
第二十章 愛国
終 章 終わらない夏
『青鞜』社員でもあった、伊藤野枝の評伝小説です。序章は大正12年(1923)9月、関東大震災の場面。その後、第一章からは明治28年(1895)の野枝の誕生以後をほぼ時系列を追って展開します。
野枝はとにかく向学心に燃え、貧しい家庭に生まれながらも周囲を強引に説得し、上野高等女学校に進学、卒業時に無理矢理意に沿わない結婚を強いられるも婚家を飛び出し、女学校の教師だった辻潤と結ばれ、『青鞜』に参加。発起人の平塚らいてうが編集から離れると、それを引き継ぎます。するとアナキスト・大杉栄と知り合い、たちまちその魅力に惹かれ、辻と別れて大杉の元へ。しかし大杉は「自由恋愛」を標榜し、野枝以外にも二人の女性との関係を続けます。そのうちの一人、神近市子に大杉が刺され(いわゆる「日蔭茶屋事件」)、一命を取り留めた大杉とともに無政府主義運動にのめり込む野枝。やがて関東大震災、そして、そのどさくさで大杉もろとも憲兵隊に拘引され……。
何というか、「火の玉」のような女性です。永遠の厨二病的な傾向や、自分もそうされてきたにも関わらず、我が子に対するネグレクト(結局、そういう部分は連鎖するのでしょうか)、そして辻や大杉らとの四角関係、五角関係など、決して手放しでほめられる生き方をしていなかった部分も多いのですが、確かにその生の軌跡には鮮やかな、そして烈しい光芒……。
野枝が『青鞜』に加わったのは、智恵子が『青鞜』から離れたあとで、おそらく直接の面識はないものと思われます。そこで、この小説が出ていたのは存じておりましたが、智恵子は登場しないだろうと思い、購入せずにいました。ところが、そうでないと知り、慌てて購入して読んだ次第です。
「第七章 山、動く」で明治44年(1911)の『青鞜』発刊前後も描かれており、数え26歳の智恵子。
「明」は「はる」と読み、らいてうの本名です。「智恵」が智恵子。智恵子の戸籍名はカタカナで「チヱ」ですが、この頃、多くの女性が勝手に漢字を当てたり、「子」をつけたりした名を自称しています。与謝野晶子も本名は「しよう」。旧仮名遣いですので拗音でも「よ」は大きな「よ」、したがって読み方は「しょう」。そこで「晶」の字をあて、「子」をつけて「晶子」、さらに訓読みにして「あきこ」です。
閑話休題。感心したのは、神奈川県立近代美術館長・水沢勉氏により明らかにされた、智恵子の手になる『青鞜』表紙絵が、ウィーン分離派の作家、ヨーゼフ・エンゲルハルトの寄木細工を模写したものであること、そうした転用が普通であったことがしっかり記されている点。こうした最近の研究成果を取り入れていらっしゃる村山さん、さすがです。どうも「老大家」と称される人々の御著書には、そうした姿勢が欠けています。
「第十九章 行方不明」には、光太郎も登場していました。
当会の祖・草野心平や、親交の深かった彫刻家・高田博厚などの影響もあったのではないでしょうか、光太郎、大正後半から昭和初めにかけては、プロレタリア文学者と言えるような立ち位置にいました。大杉の義弟・近藤憲二の主宰する『労働運動』編集部に、ブロンズの代表作「手」を寄贈しようとしたエピソード。大正10年(1921)の、知る人ぞ知る話です。
光太郎が歿した直後(昭和31年=1956)、近藤は『クロハタ』に「高村光太郎氏のこと」と題する追悼的な一文を寄せ、この時の模様を語っています。当会発行の冊子『光太郎資料43』に載せましたが、全文は以下の通り。
村山さん、この文章にも目を通されているようです。光太郎の言った「ぼく、高村光太郎」などの言葉がそのまま引用されていますので(あるいは近藤が他でも同じエピソードを書いているのかも知れませんが)。
おそらく、野枝はじめ他の人物についても、多くの資料を読み込まれて書かれた小説なのでしょう。そういう部分では、非常に好感が持てますね。ただし、本文650ページ超、重量約620㌘。手に持って読むと、軽く筋トレにもなります(笑)。
ぜひお買い求めを。
【折々のことば・光太郎】
西公園駅から二ツ関まで無理な位こんだ電車に乗る。
昭和21年(1946)9月9日の日記より
光太郎64歳
光太郎64歳
「電車」は花巻電鉄。「二ツ関」は「二ツ堰」の誤記です。「馬面電車」と呼ばれた狭軌の車輌、普通に乗っていても向かいの座席に坐っている人と膝が当たるという状態ですので、座れずに立って乗る人が多数いたらひどい混雑だったでしょう。下の画像、中央で立っているのが光太郎、昭和28年(1953)のものです。