定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第24号、昨日は連載「光太郎レシピ」について書きましたが、今号は特集「まちのモニュメント」が組まれていますので、今日はそちらについて。
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市街を中心に、花巻のあちこちで見られる、特徴的だったり、ちょっとおもしろかったりといったモニュメントの数々が紹介されています。

右上の画像は花巻駅前に聳えるオブジェ「風の鳴る林」。斉藤ヒサ氏という方の作品だそうですが、宮沢賢治の世界観からのインスパイアだそうです。

やはり花巻といえば賢治、ということで、多くのモニュメントが賢治がらみですね。
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見開きのSLは「銀河鉄道の夜」をイメージした、「未来都市銀河地球鉄道」。コンクリートの壁に特殊塗料で描かれており、昼間は輪郭しか見えません。

そして、こちら。題して「やすらぎの像」。
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平成7年(1995)、やはり花巻駅前に設置されたものです。この年は太平洋戦争終戦から50周年。終戦の年の8月10日にあった花巻空襲で亡くなった方々への、慰霊の意味合いが込められています。この像の立っている辺りが、空襲時に最も被害が大きかった地点の一つでした。諸説在るようですが、花巻では50名程の方が亡くなりました。

像の原型作者は花巻出身の故・池田次男氏。昭和30年(1955)、盛岡の岩手県立美術工芸学校(現・岩手大学)卒ということで、もしかすると、同校をたびたび訪れ、アドバイザー的なことも行っていた光太郎を直接ご存じだったかも知れません。

池田氏、絵画が制作の中心でした。平成30年(2018)には花巻市内の萬鉄五郎記念美術館さんで「詩情をつむぐ写実 池田次男展」が開催されました。市内5つの文化施設の共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」の一環でした。

花巻空襲を題材とした、当方手持ちの『花巻がもえた日』という絵本があります。

文は岩手の県立高校に勤務されていた加藤昭雄氏、絵は花巻で絵手紙講師等をなさっていた遠藤市子氏。平成24年(2012)の刊行です。
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この中で、最終ページに「やすらぎの像」。
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戦争が終わって六十数年がたちました。
今日は花村ユキさんが「やすらぎの像」の前で小学生に空襲の話をする日です。
「このあたりでたくさんの人が死にました。私たちは何人ものけが人を手当てし、病院まで運んだんです。
十六歳の私に、どうしてそんな勇気や力が出せたのか、今でも不思議でなりません。
何十年も看護師をしてきましたが、あの日のような恐ろしい体験はありませんでした。
この像は、花巻の人たちがお金を出し合って、二度と戦争を起こさないと誓うために建てたものです。
でも、世界のどこかで、今も戦争は続いています。
皆さんは、今日のお話を忘れないで、どうか戦争のない平和な世の中にして下さいね」
ユキさんの目は涙でうるんでいました。


「花村ユキさん」は架空の人物ですが、終戦の年に看護学校を卒業して花巻病院に就職し、空襲の際に身を挺して負傷者の救護に当たった看護師という設定です。実際、モデルになった方がいたのでしょう。

終戦後の9月5日、花巻病院で行われた空襲の際に奮闘した職員の表彰式で、光太郎は彼ら彼女らを讃える詩「非常の時」を朗読し、敬意を表しました。絵本ではそのエピソードも扱われていますし、巻末に「非常の時」全文を引用して下さっています。
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昨年、この詩がコロナ禍で逼迫する医療体制を支える医療従事者の皆さんへのエールとしても読めるということで、岩手ではちょっとした話題になりました。

感染者数が減少傾向とはいえ、まだまだ予断を許さぬ状況が続いています。そこに立ち向かわれている医療従事者の皆さんには、本当に頭の下がる思いです……。

それにしても、コロナ発生の状況はある意味、防ぎようがなかったかも知れませんが、戦争は人類の叡智をもってすれば、防げるはずです。そうした思いを多くの人が抱き続けるよすがとして、「やすらぎの像」、そしてそこに込められた思い、これからも語り継がれていって欲しいものです。

さて、『マチココ』さん。昨日も書きましたが、
オンラインで年間購読の手続きができます。隔月刊で、年6回偶数月配本、送料込みで3,920円です。ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

尚花巻広徳寺にゐる多田等観師が余にあひたしといひ居る由にて、圓次郎翁の家にてあふ事。翁の都合次第にていつでもゆく旨返答す。お盆過ぎといふ話。河口慧海さんの友人。チベットに居た僧侶也。

昭和21年(1946)8月2日の日記より 光太郎64歳

「広徳寺」は「光徳寺」、「圓次郎」は「圓治郎」(山小屋近くの住人)の誤りです。

多田等観は、明治23年(1890)、秋田県生まれの僧侶にしてチベット仏教学者です。京都の西本願寺に入山、明治45年(1912)から大正12年(1923)までチベットに滞在し、ダライ・ラマ13世からの信頼も篤かったそうです。その後は千葉の姉ヶ崎(現・市原市)に居を構え、東京帝国大学、東北帝国大学などで教鞭も執っています。

昭和20年(1945)、戦火が烈しくなったため、チベットから持ち帰った経典等を、実弟・鎌倉義蔵が住職を務めていた花巻町の光徳寺の檀家に分散疎開させました。戦後は花巻郊外旧湯口村の円万寺観音堂の堂守を務め、光太郎と交流を持つようになりました。

河口慧海も僧侶にしてチベット仏教学者。
光太郎、そして光太郎の父・光雲とも交流がありました。