光太郎実弟にして鋳金の人間国宝となった髙村豊周関連です。
まず、『中日新聞』さんの記事。
まず、『中日新聞』さんの記事。
家持歌碑 高岡市に保管依頼 尾竹睦子さんの遺志継ぐ 長男・正達さん「肩の荷が下りた」
万葉集を編さんしたとされる歌人大伴家持を顕彰して戦前に高岡市伏木で結成された「伏木家持会」が建立した歌碑の碑文銅板が、同市万葉歴史館で保存展示されることになった。万葉集愛好家の故尾竹睦子さんが保管していたが、長男正達さん(68)=同市宝町=が遺志を引き継ぎたいと10日、市に保管を依頼した。 (武田寛史)
銅板は、太平洋戦争の金属供出を恐れ、建立を予定していた石雲寺喜笛庵(きてきあん)の縁側に隠し、1963年に銅板をはめ込んだ歌碑が完成した。しかし、風化した歌碑が倒れる恐れが生じ、会員だった万葉集研究家の田辺武松氏の三女睦子さんが銅板を家で保管していた。
銅板は縦108センチ、横68センチで、揮毫(きごう)者は金沢市出身の国文学者(歌人)の尾山篤二郎。木彫家・高村光雲の三男で、詩人・高村光太郎の弟の鋳金家・高村豊周(とよちか)が制作した。
碑文の歌は、家持が越中国守として赴任し伏木の地で詠んだ「海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむ)す屍 大君(おおきみ)の辺(へ)にこそ死なめ 顧(かえり)みはせじ」(訳・海に行くなら水に漬かる屍となり、山に行くなら草の生える屍となっても天皇の側で死ぬならば後悔はしない)。
奈良時代に聖武天皇が大伴氏に期待する言葉に感動した家持が詠んだ長歌の一節。これに曲を付けた「海行かば」が戦争中に戦意高揚のために歌われた。
正達さんは「肩の荷が下りた」と安堵(あんど)。高橋正樹市長は「銅板を大事にされたことに感謝したい」と話した。
この記事で、元の制作年が書かれていなかったため、調べたところ、『北日本新聞』さん、『北国新聞』さん、さらに『富山新聞』さんに載った記事(すべて同一のようです)も見つけました。
しかし、文治堂書店さんから刊行された『髙村豊周文集』全5巻に、この碑に関する記述が見当たりません。どうも記事にあるように戦時中は隠匿されていたということで、制作したことを大っぴらにできなかったということなのだと思われます。
碑文の揮毫をした尾山篤二郎は、光太郎より6歳年下の歌人。前田夕暮が創刊した『詩歌』に参加し、短歌に親炙していた豊周と親しかったようです。
『詩歌』には光太郎も、明治末から昭和初めにかけてかなりの寄稿をしており、この頃から光太郎と尾山も面識があったのではないかと思われます。『高村光太郎全集』には、尾山に宛てた光太郎の書簡が一通掲載されています。昭和20年(1945)8月29日付です。
おはがき忝く拝見、先日は図らず異郷にてお目にかかり一種の感慨を覚え申候。廿六日朝には硯其他御持参下されし由、小生等早朝の出発と相成り失礼仕候、貴台には降雪前御引上の予定とのこと、小生未だ当地方の人情風俗に通ぜず、ともかくも越年可致候、
「先日は図らず異郷にてお目にかかり」は、8月25日、盛岡市の県庁内公会堂多賀大食堂で開催された「ものを聴く会」の席上。光太郎が講演をし、盛岡に疎開していた尾山がそれを聴きに駆けつけたことを指します。
揮毫された文字を蠟型鋳金でブロンズパネルにする手法は、豊周が工夫して編み出しました。最初の例は昭和2年(1927)、信州小諸の懐古園に建立された島崎藤村の詩碑。のちに光太郎詩碑の幾つかも、この手法で豊周やその弟子、西大由によって制作されています。
家持の「海ゆかば」。『中日新聞』さんの記事に「これに曲を付けた「海行かば」が戦争中に戦意高揚のために歌われた」とありますが、作曲者は信時潔。光太郎作詞の岩波書店店歌「われら文化を」(昭和17年=1942)、戦時歌謡的(というより式典歌)な「新穀感謝の歌」(同16年=1941)の作曲も手がけています。
こうして見ると、いろいろな人物がそれぞれの人生を生き抜く中で、交錯し、繰り返し関わり合っているのだな、という感があります。
それにしても、この銅板、よくぞ保存しておいて下さっていた、という気がします。そして戦時の馬鹿げた金属供出……。そのせいでどれだけの貴重な作品が失われたことか……。二度とこんな時代に戻してはいけないと、改めて思いました。
【折々のことば・光太郎】
夜風北窓より入りて涼し。 夜はれ渡る。月を見る。 此位の月なり。
この日の日記はイラスト入りでした。
「北窓」は、昨日のこの項でご紹介した、壁を自分で刳り抜いた窓です。
この記事で、元の制作年が書かれていなかったため、調べたところ、『北日本新聞』さん、『北国新聞』さん、さらに『富山新聞』さんに載った記事(すべて同一のようです)も見つけました。
家持の歌碑 万葉歴史館に 高岡・伏木で詠まれた「海ゆかば」 尾竹さんが保管依頼
高岡市伏木国分の石雲寺に設置されていた昭和初期の「万葉歌碑」銅板が市万葉歴史館で保管されることになった。大伴家持(おおとものやかもち)が伏木で詠んだ「海ゆかば」で始まる長歌が記され、自宅で大切に保管していた市内の万葉愛好家が「碑を通じ家持が地元で詠んだ歌を広く知ってほしい」と望んでいた歌碑だ。10日に市役所で引き渡され、愛好家の願いがかなった。
歌碑銅板を保管していた尾竹正達(まさたつ)さん(68)=宝町=が市役所に高橋正樹市長を訪ね、歌碑を引き渡した。縦108センチ、横68センチの銅板で、家持の「海ゆかば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草むす屍 大君の辺(へ)にこそ死なめ 顧みはせじ」が記されている。
1940(昭和15)年、石雲寺の住職らが中心となり結成した「伏木家持会」が、地域住民の寄付を募って制作した。鋳金家の高村豊周(とよちか)が蝋(ろう)型鋳造で手掛け、歌人の尾山篤二郎(とくじろう)が碑文を揮毫(きごう)した。戦時中は寺の縁の下に隠されていたが、63(昭和38)年に境内に建立された。
2015年に亡くなった尾竹さんの母・睦子さんが万葉集の普及に尽力しており、歌碑の劣化により倒壊の恐れがあったため、銅板を設置場所から取り外し、自宅で保管していた。長男の正達さんが受け継ぎ、歌碑の存在を知らしめたいとの生前の睦子さんの思いに応えるため、市に管理を依頼した。寄付者名を記した名板や伏木家持会の趣意綱領も引き渡された。
歌碑銅板は10日から21日まで万葉歴史館で展示される。尾竹さんは「伏木で誕生した有名な万葉歌をあらためて知ってもらうきっかけにしたい」と話した。
こちらの記事で、制作年が昭和15年(1940)だったとわかりました。しかし、文治堂書店さんから刊行された『髙村豊周文集』全5巻に、この碑に関する記述が見当たりません。どうも記事にあるように戦時中は隠匿されていたということで、制作したことを大っぴらにできなかったということなのだと思われます。
碑文の揮毫をした尾山篤二郎は、光太郎より6歳年下の歌人。前田夕暮が創刊した『詩歌』に参加し、短歌に親炙していた豊周と親しかったようです。
『詩歌』には光太郎も、明治末から昭和初めにかけてかなりの寄稿をしており、この頃から光太郎と尾山も面識があったのではないかと思われます。『高村光太郎全集』には、尾山に宛てた光太郎の書簡が一通掲載されています。昭和20年(1945)8月29日付です。
おはがき忝く拝見、先日は図らず異郷にてお目にかかり一種の感慨を覚え申候。廿六日朝には硯其他御持参下されし由、小生等早朝の出発と相成り失礼仕候、貴台には降雪前御引上の予定とのこと、小生未だ当地方の人情風俗に通ぜず、ともかくも越年可致候、
「先日は図らず異郷にてお目にかかり」は、8月25日、盛岡市の県庁内公会堂多賀大食堂で開催された「ものを聴く会」の席上。光太郎が講演をし、盛岡に疎開していた尾山がそれを聴きに駆けつけたことを指します。
揮毫された文字を蠟型鋳金でブロンズパネルにする手法は、豊周が工夫して編み出しました。最初の例は昭和2年(1927)、信州小諸の懐古園に建立された島崎藤村の詩碑。のちに光太郎詩碑の幾つかも、この手法で豊周やその弟子、西大由によって制作されています。
家持の「海ゆかば」。『中日新聞』さんの記事に「これに曲を付けた「海行かば」が戦争中に戦意高揚のために歌われた」とありますが、作曲者は信時潔。光太郎作詞の岩波書店店歌「われら文化を」(昭和17年=1942)、戦時歌謡的(というより式典歌)な「新穀感謝の歌」(同16年=1941)の作曲も手がけています。
こうして見ると、いろいろな人物がそれぞれの人生を生き抜く中で、交錯し、繰り返し関わり合っているのだな、という感があります。
それにしても、この銅板、よくぞ保存しておいて下さっていた、という気がします。そして戦時の馬鹿げた金属供出……。そのせいでどれだけの貴重な作品が失われたことか……。二度とこんな時代に戻してはいけないと、改めて思いました。
【折々のことば・光太郎】
夜風北窓より入りて涼し。 夜はれ渡る。月を見る。 此位の月なり。
昭和21年(1946)7月23日の日記より 光太郎64歳
この日の日記はイラスト入りでした。
「北窓」は、昨日のこの項でご紹介した、壁を自分で刳り抜いた窓です。