都内から企画展情報です。光太郎と親しかった画家・南薫造の作品が集められました。

没後70年 南薫造

期 日 : 2021年2月20日(土)~4月11日(日)
会 場 : 東京ステーションギャラリー 東京都千代田区丸の内1-9-1
時 間 : 午前10時~午後6時
休 館 : 月曜日(4/5は開館)
料 金 : 一般 1100円 / 大学・高校生 900円 / 中学生以下無料
      入館券はローソンチケットで販売、日時指定・事前購入制。
      詳細は公式ウェブサイトへ

日本では毎年数多くの美術展が開催され、多くの観客を集めています。大規模な西洋美術展はもとより、最近では、江戸期を中心とする日本美術や、現代アートの展覧会が大きな話題となることも少なくありません。そうした中で、めっきり数が減っているのが日本近代洋画の展覧会です。東京ステーションギャラリーでは2012年の再開館以来、一貫して近代洋画の展覧会の開催を続けてきました。それは多くの優れた洋画家たちの業績が忘れられるのを恐れるからであり、優れた美術が、たとえいま流行りではなかったとしても、人の心を揺り動かすものであることを信じるからです。
南薫造(1883-1950)、明治末から昭和にかけて官展の中心作家として活躍した洋画家です。若き日にイギリスに留学して清新な水彩画に親しみ、帰国後は印象派の画家として評価される一方で、創作版画運動の先駆けとなるような木版画を制作するなど、油絵以外の分野でも新しい時代の美術を模索した作家ですが、これまで地元・広島以外では大規模な回顧展が開かれたことがなく、その仕事が広く知られているとは言えません。
本展は、文展・帝展・日展の出品作など、現存する南の代表作を網羅するとともに、イギリス留学時代に描かれた水彩画や、朋友の富本憲吉と切磋琢磨した木版画など、南薫造の全貌を伝える決定版の回顧展となります。
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南薫造は光太郎と同年の明治16年(1883)生まれ。東京美術学校西洋画科で学び、在学期間は光太郎とかぶっています。本格的な交流は明治40年(1907)、ともに留学でロンドンに滞在していた際からと思われます。もう一人、二人の先輩に当たる白瀧幾之助を交え、すき焼きパーティーなどにも興じたそうです。

光太郎の南評。

南君の芸術には如何にもなつかしみがある。大手を振つた芸術ではない。血眼になつた芸術でもない。尚更ら武装した芸術ではない。どこまでもつつましい、上品な、ゆかしい芸術である。
(散文「南薫造君の絵画」より 明治43年(1910))

そんな南ですが、上記案内に「これまで地元・広島以外では大規模な回顧展が開かれたことがなく、その仕事が広く知られているとは言えません。」とあります。なるほど、そうなんだという感じです。確かに昨年も南の作品を集めた展覧会がありましたが、広島県呉市での開催でした。

また、古書店で入手した当方手持ちの図録も広島県立美術館さんでのもの(平成10年=1998の「南薫造展―イギリス留学時代を中心に―」)ですし、実際、多数の作家の作品を集めた展覧会でしか南の絵を見たことがありません。
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ちなみに広島県美さんの図録に、南、白瀧、光太郎のスリーショットとキャプションの付けられた写真が載っていますが、光太郎とされる人物は光太郎ではありません。似ているといえば似ているのですが……。これが誰なのかおわかりの方、ご教示いただければ幸いです。

さて、新型コロナの影響で、今回の展覧会は事前予約制となっています。いたしかたありますまい。感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午前小屋の北側の壁を幅二尺、たては横桟と横桟の間だけ切りぬき、小まいは残す。風ぬき窓なり。余程空気ぬけよくなり風も入るやうになる。


昭和21年(1946)7月21日の日記より 光太郎64歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、当初は北側に窓がありませんでした。そこを自分で刳り抜いて、無理くり窓にしてしまったというわけです。窓と言っても、ガラスではなく障子紙でふさぐ形でした。

とにかくこの小屋は山の麓にあるため湿気が多く、そうなると大して気温が高くなくとも熱中症の危険が増します。実際、後の昭和24年(1949)の夏には、熱中症とみられる症状のため4回も臥床し、村人の世話になっています。当方も一度、7月頃でしたか、隣接する旧高村記念館(現・森のギャラリー)で数時間かけて寄贈された資料のリスト作成をしていた際に、ひどい眩暈(めまい)に襲われました。外気温は30℃に届いていなかったと思うのですが……。