私事で恐縮ですが、去る1月31日(日)、当方の父親が亡くなりまして、一昨日、昨日と、通夜・葬儀のため父親が暮らしていた茨城県取手市に行っておりました。
父は元々信州上田の生まれですが、次男だったため、家は長男(当方から見れば伯父)に任せ、上京。公務員となりました。ノンキャリアでしたから地方局回りで、3年ごとくらいに関東と中部の各所を転々、一時住んでいた取手がいろいろ都合がいいということで土地を購入し、退職間際から退職後、そちらで暮らしていました。ただ、ここ数年は施設暮らしでしたが。当方も次男で、取手の家は兄に任せ、家を出た次第です。父は享年87歳。まぁ、天寿といえば天寿でしょう。
取手というと、光太郎の足跡が残っていますし、意外と縁の深い土地です。
昭和19年(1944)、取手中心部の長禅寺さんという寺院で、講話を行っています。
長禅寺さんは戦時中、錬成所という社会教育のための機関が置かれていたため会場となり、聴衆は40名程。女性が多かったのでしょうか、「母」に関する話などがあったそうです。
長禅寺さんには、光太郎の筆跡が刻まれた碑が二つ、現存しています。
まず昭和14年(1939)に建てられた「小川芋銭先生景慕之碑」。題字のみ光太郎の揮毫です。小川芋銭は茨城出身の日本画家です。もう一つは「開闡(かいせん)郷土」碑。こちらも題字のみの揮毫で、昭和23年(1948)に建立されています。そのあたりは明日またご紹介します。
講話や二つの碑、ともに、取手の有力者だった宮崎仁十郎が介在し、実現しました。宮崎の子息が詩人の宮崎稔。昭和8年(1933)頃、稔経由で光太郎と仁十郎がつながり、仁十郎が光太郎にいろいろと依頼をしたという感じです。光太郎は光太郎で、昭和20年(1945)、智恵子遺作の紙絵千点以上を三ヶ所に分け疎開させましたが、そのうちの1ヶ所が取手の宮崎家でした。また、光太郎自身の花巻疎開の際にも、稔が荷物の配送や、光太郎の付き添いなどで奔走しました。花巻の宮沢賢治実家に送る荷物は稔が都内からリヤカーで取手まで運び(ものすごい苦労だったことでしょう)、取手から花巻に鉄道で送られました。
そうした点で恩義を感じていたこともあったのでしょう、終戦の年、暮れも押し詰まった12月、稔と、智恵子の最期を看取った看護婦であった姪の長沼春子が、光太郎の紹介で結婚しています。ただ、稔は同28年(1953)には胃潰瘍のため亡くなっています。春子は昭和63年(1988)まで存命でした。
仁十郎・稔父子の仲介で為された事柄がもう一つ。昭和22年(1947)10月21日の光太郎日記から。
中村金左衛門氏の為、(故陸軍中尉中村義一之墓 故海軍大尉中村恒二之墓)を用紙に書く。別に「死を超えて人大なり」と書く。
中村金左衛門(明治22年=1889~昭和52年=1977)は、元の取手町長(市制施行後の初代市長)。「義一」と「恒二」は、おそらく金左衛門の子息、あるいは孫なのではないでしょうか。
この件に関し、光太郎日記や書簡に何度か記述があります。
分教場で郵便物をうけとると中に貴下からの小包があり、中村金左衛門氏からの揮毫用紙と御恵贈の木綿布地とを落手しました。数日中に揮毫いたします。(昭和22年=1947 10月19日付 稔宛書簡より)
多分今日中村氏の分の揮毫が出来るでせう。できたらお送りします。(同21日付 稔宛書簡より)
この葉書と同便で別封中村氏のお墓の文字をお送りしました。墨が余つたので墓標の外に一枚書き添へました。墓標の文字には昔から署名はしないやうですから書きませんでした。 いただいた黒の木綿地はよく見ると実に立派な木地なので何に作らうかといろいろ考へてゐます。(同24日付 稔宛書簡より 注・「木地」は「生地」の誤りですね)
中村氏の墓標の揮毫も宮崎稔氏宛に出す(書留)(同26日の日記より)
中村金左衛門氏からいただいた黒の木綿は袷のキモノにしようかと思ひます。裏はあの白の麻にしたらどんなものでせう。目下考へ中です。(同11月4日付 稔宛書簡より)
食事の時八時過取手町の石材商藤巻佐平さんといふ人の名刺を持つてその娘さん来訪。昨夜花巻にとまりし由。いつぞや書いた中村氏の墓の文字を石材の都合で、縮小して書いてくれといふ。紙持参。食事を終りて直ちに書く。故陸軍中尉中村義一之墓 故海軍大尉中村恒二之墓と二行に並べて書く。九時過辞去。(昭和23年=1948 7月3日の日記より)
取手町片町の石材商藤巻佐平といふ名刺を持つて昨七月三日朝、その娘さんといふ人が来訪、中村氏令息等の墓石の文字の縮小揮毫を申入れました。紙を持参、急ぐ次第との事ゆゑ即刻揮毫してさし上げました。お礼の紙包を出されましたが、石屋さんから礼をもらふいはれは無いので断り、持ち帰つてもらひました。本来貴下か中村氏の添書が無ければ書かないわけなのですが、事情を察してやかましい事をいはずに揮毫した次第です。(同4日付 稔宛書簡より)
この墓標が、取手の何処かにあるはずと、永らく探していました。取手中心街の寺院をくまなく歩いたり、日記や書簡に出て来る石材店らしきところに手紙を送ったりしたのですが、結局、見つけられずじまいでした。もしかすると新しく「先祖累代之墓」的なものを作って合祀し、古い墓石は撤去されてしまったのかな、などとも思っていました。
さて、昨日、父の葬儀の後、愛車を駆って自宅兼事務所に帰る途中、ふと道ばたの寺院の看板に目が留まりました。場所的には取手市の東のはずれ、もう少しで隣接する龍ヶ崎市というあたりでした。
当方、超常現象や超能力といったものには懐疑的ですが、今考えても、実に不思議です。看板を見た瞬間、「あ、ここにある」と、何故かひらめいたのです。
車を駐めて、少し歩きました。広大な霊園があり、その奥に、そこを管理しているであろう深雪山明星院さんという寺院。
ところが、手前の霊園は見るからに新しく、境内にもそれ以外の墓地はありませんでした。そこで「やっぱ勘違いだったか、そもそもそんなことあるわけないよな……」と思ったところ、少し離れた場所にいかにも古めかしい墓地が見えました。入り口の石柱には「共同墓地」と書いてあり、もしかすると明星院さんの管轄ではないのかも知れませんが、入ってみました。
すると、あったのです!
まごうかたなき光太郎の筆跡、書かれた文字も日記や書簡の通り、そして光太郎の署名と落款まで彫られていました。最初に揮毫した時には署名はしなかったとありましたが、二度目には署名したのですね。
失礼とは存じつつ、手を合わせたのち、「すみません、撮らせていただきます」と念じながら撮影しました。
以前もその道を通ったことがあり、その際には新しい霊園だけ見えて、「ここではないな」と思って通り過ぎていた場所でした。まさか奥の方にあったとは……。
繰り返しますが、当方、超常現象や超能力といったものには懐疑的です。しかし、父の葬儀の帰りに、父の暮らしていた取手でこれを見つけたというのも、実に不思議な因縁を感じざるを得ませんでした。まるで父の魂が導いてくれたかのような……。父は彫刻だの詩だの、そういったものとは全く無縁の人でしたが……。
この日の朝、父の葬儀の前にも、別の場所で発見がありました。その件については明日。
【折々のことば・光太郎】
父は元々信州上田の生まれですが、次男だったため、家は長男(当方から見れば伯父)に任せ、上京。公務員となりました。ノンキャリアでしたから地方局回りで、3年ごとくらいに関東と中部の各所を転々、一時住んでいた取手がいろいろ都合がいいということで土地を購入し、退職間際から退職後、そちらで暮らしていました。ただ、ここ数年は施設暮らしでしたが。当方も次男で、取手の家は兄に任せ、家を出た次第です。父は享年87歳。まぁ、天寿といえば天寿でしょう。
取手というと、光太郎の足跡が残っていますし、意外と縁の深い土地です。
昭和19年(1944)、取手中心部の長禅寺さんという寺院で、講話を行っています。
長禅寺さんは戦時中、錬成所という社会教育のための機関が置かれていたため会場となり、聴衆は40名程。女性が多かったのでしょうか、「母」に関する話などがあったそうです。
長禅寺さんには、光太郎の筆跡が刻まれた碑が二つ、現存しています。
まず昭和14年(1939)に建てられた「小川芋銭先生景慕之碑」。題字のみ光太郎の揮毫です。小川芋銭は茨城出身の日本画家です。もう一つは「開闡(かいせん)郷土」碑。こちらも題字のみの揮毫で、昭和23年(1948)に建立されています。そのあたりは明日またご紹介します。
講話や二つの碑、ともに、取手の有力者だった宮崎仁十郎が介在し、実現しました。宮崎の子息が詩人の宮崎稔。昭和8年(1933)頃、稔経由で光太郎と仁十郎がつながり、仁十郎が光太郎にいろいろと依頼をしたという感じです。光太郎は光太郎で、昭和20年(1945)、智恵子遺作の紙絵千点以上を三ヶ所に分け疎開させましたが、そのうちの1ヶ所が取手の宮崎家でした。また、光太郎自身の花巻疎開の際にも、稔が荷物の配送や、光太郎の付き添いなどで奔走しました。花巻の宮沢賢治実家に送る荷物は稔が都内からリヤカーで取手まで運び(ものすごい苦労だったことでしょう)、取手から花巻に鉄道で送られました。
そうした点で恩義を感じていたこともあったのでしょう、終戦の年、暮れも押し詰まった12月、稔と、智恵子の最期を看取った看護婦であった姪の長沼春子が、光太郎の紹介で結婚しています。ただ、稔は同28年(1953)には胃潰瘍のため亡くなっています。春子は昭和63年(1988)まで存命でした。
仁十郎・稔父子の仲介で為された事柄がもう一つ。昭和22年(1947)10月21日の光太郎日記から。
中村金左衛門氏の為、(故陸軍中尉中村義一之墓 故海軍大尉中村恒二之墓)を用紙に書く。別に「死を超えて人大なり」と書く。
中村金左衛門(明治22年=1889~昭和52年=1977)は、元の取手町長(市制施行後の初代市長)。「義一」と「恒二」は、おそらく金左衛門の子息、あるいは孫なのではないでしょうか。
この件に関し、光太郎日記や書簡に何度か記述があります。
分教場で郵便物をうけとると中に貴下からの小包があり、中村金左衛門氏からの揮毫用紙と御恵贈の木綿布地とを落手しました。数日中に揮毫いたします。(昭和22年=1947 10月19日付 稔宛書簡より)
多分今日中村氏の分の揮毫が出来るでせう。できたらお送りします。(同21日付 稔宛書簡より)
この葉書と同便で別封中村氏のお墓の文字をお送りしました。墨が余つたので墓標の外に一枚書き添へました。墓標の文字には昔から署名はしないやうですから書きませんでした。 いただいた黒の木綿地はよく見ると実に立派な木地なので何に作らうかといろいろ考へてゐます。(同24日付 稔宛書簡より 注・「木地」は「生地」の誤りですね)
中村氏の墓標の揮毫も宮崎稔氏宛に出す(書留)(同26日の日記より)
中村金左衛門氏からいただいた黒の木綿は袷のキモノにしようかと思ひます。裏はあの白の麻にしたらどんなものでせう。目下考へ中です。(同11月4日付 稔宛書簡より)
食事の時八時過取手町の石材商藤巻佐平さんといふ人の名刺を持つてその娘さん来訪。昨夜花巻にとまりし由。いつぞや書いた中村氏の墓の文字を石材の都合で、縮小して書いてくれといふ。紙持参。食事を終りて直ちに書く。故陸軍中尉中村義一之墓 故海軍大尉中村恒二之墓と二行に並べて書く。九時過辞去。(昭和23年=1948 7月3日の日記より)
取手町片町の石材商藤巻佐平といふ名刺を持つて昨七月三日朝、その娘さんといふ人が来訪、中村氏令息等の墓石の文字の縮小揮毫を申入れました。紙を持参、急ぐ次第との事ゆゑ即刻揮毫してさし上げました。お礼の紙包を出されましたが、石屋さんから礼をもらふいはれは無いので断り、持ち帰つてもらひました。本来貴下か中村氏の添書が無ければ書かないわけなのですが、事情を察してやかましい事をいはずに揮毫した次第です。(同4日付 稔宛書簡より)
この墓標が、取手の何処かにあるはずと、永らく探していました。取手中心街の寺院をくまなく歩いたり、日記や書簡に出て来る石材店らしきところに手紙を送ったりしたのですが、結局、見つけられずじまいでした。もしかすると新しく「先祖累代之墓」的なものを作って合祀し、古い墓石は撤去されてしまったのかな、などとも思っていました。
さて、昨日、父の葬儀の後、愛車を駆って自宅兼事務所に帰る途中、ふと道ばたの寺院の看板に目が留まりました。場所的には取手市の東のはずれ、もう少しで隣接する龍ヶ崎市というあたりでした。
当方、超常現象や超能力といったものには懐疑的ですが、今考えても、実に不思議です。看板を見た瞬間、「あ、ここにある」と、何故かひらめいたのです。
車を駐めて、少し歩きました。広大な霊園があり、その奥に、そこを管理しているであろう深雪山明星院さんという寺院。
ところが、手前の霊園は見るからに新しく、境内にもそれ以外の墓地はありませんでした。そこで「やっぱ勘違いだったか、そもそもそんなことあるわけないよな……」と思ったところ、少し離れた場所にいかにも古めかしい墓地が見えました。入り口の石柱には「共同墓地」と書いてあり、もしかすると明星院さんの管轄ではないのかも知れませんが、入ってみました。
すると、あったのです!
まごうかたなき光太郎の筆跡、書かれた文字も日記や書簡の通り、そして光太郎の署名と落款まで彫られていました。最初に揮毫した時には署名はしなかったとありましたが、二度目には署名したのですね。
失礼とは存じつつ、手を合わせたのち、「すみません、撮らせていただきます」と念じながら撮影しました。
以前もその道を通ったことがあり、その際には新しい霊園だけ見えて、「ここではないな」と思って通り過ぎていた場所でした。まさか奥の方にあったとは……。
繰り返しますが、当方、超常現象や超能力といったものには懐疑的です。しかし、父の葬儀の帰りに、父の暮らしていた取手でこれを見つけたというのも、実に不思議な因縁を感じざるを得ませんでした。まるで父の魂が導いてくれたかのような……。父は彫刻だの詩だの、そういったものとは全く無縁の人でしたが……。
この日の朝、父の葬儀の前にも、別の場所で発見がありました。その件については明日。
【折々のことば・光太郎】
野原の朝日美しく、空美しく、草木美し。
昭和21年(1946)5月7日の日記より 光太郎64歳
蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村内の昌歓寺さんという寺院まで、歩いていった際の記述です。当時はまだ開拓が進んで居らず、ほぼ原野でした。