都内から企画展情報ですが、まず『高田馬場経済新聞』さんの記事から 

早稲田の「漱石山房記念館」で特別展 漱石山房に集う文人たち生き生きと

000 明治の文豪 夏目漱石晩年の住居後地に新宿区が設置した漱石山房記念館(新宿区早稲田南町7、TEL 03-3205-0209)で現在、漱石の著書「道草」の装丁などで知られる津田青楓と漱石山房に集った人々との交流に焦点を当てた特別展「漱石山房の津田青楓」が開催されている。
 同館は、漱石が亡くなるまでの約9年間を過ごした「漱石山房」と呼ばれた家の跡地に新宿区が2017 (平成29)年9月に開設した施設。この山房では「木曜会」と呼ばれた漱石のサロン的な会合が開かれ多くの文化人が集った。同展は、そのうちの一人である津田青楓の生誕140年の年が2020年であることから企画された。青楓の手による漱石とその門下生たちの著書の装丁、漱石山房を描いた絵画などに加えて文章にも着目。青楓の仕事や書簡は、当時の漱石および門下生らの交友をみずみずしく伝える。
 同館の客間や書斎、ベランダ式回廊など在りし日の漱石山房を復元したフロアと、青楓が描いたその客間や書斎、回廊を同時に観賞できる展覧会は同館ならでは。

001 同展を担当した学芸員の鈴木希帆さんは「青楓といえば、装丁家、画家としての評価が一般的だが、『ホトトギス』や『白樺』などの文芸誌に小説を発表するなど『書く』仕事も手がけている。本展では、青楓の『描く(えがく)』『書く(かく)』の2つの仕事を紹介する。青楓は97歳まで存命したが、特に漱石および漱石没後の門下生との交流に焦点を当てた。このコロナ禍の中で、青楓にゆかりのある個人、文学館、美術館などから多くの貴重な資料提供や協力を得られたことでこの展示が充実した」と説明する。
 鈴木さんは「青楓は漱石を父のように慕っていた時期があり、漱石の死に際しては慟哭したと聞く。漱石山房の中でも重要な人物だったのだと感じる。青楓の文や描いたものから、ここ早稲田南町の漱石山房での青楓と漱石および門下生との心の交流までも感じとることができる。ここでこの展覧会を行うことの意義を、この土地に来てぜひ感じていただきたい」と呼び掛ける。
 関連イベントとして、講師に柏木博(武蔵野美術大学名誉教授)、大野淳一(武蔵大学名誉教授)による「対談 津田青楓のデザインと文章」(要予約)も3月7日に同館で開催予定。
 開館時間は10時~18時(入館は17時30分まで)。月曜休館。観覧料は、一般=500円、小・中学生=100円。3月21日まで。
 

《特別展》漱石山房の津田青楓

期 日 : 2021年1月26日(火)~3月21日(日)
会 場 : 新宿区立漱石山房記念館 新宿区早稲田南町7
時 間 : 午前10時~午後6時
休 館 : 毎週月曜日(祝日の場合は翌平日)
料 金 : 一般500円、小中学生100円 
      ※団体(20名以上・要事前連絡)は個人の観覧料の半額
      ※小中学生は土日祝日は無料

夏目漱石の『道草』を装幀した画家・津田青楓は、2020年に生誕140年を迎えました。
染色図案やプロレタリア美術運動への関与など、青楓の画業についてはこれまでにも検証が行われていますが、その文筆活動についてはまとまった研究は行われていません。
青楓は『ホトトギス』や『白樺』などの文芸雑誌に小説を発表し、生涯に20冊以上もの単著を刊行しています。
画家青楓のみずみずしい文章は、「翻訳ものを読むような新しさ」で漱石山房の門下生たちをも唸らせ、漱石山房への青楓の出入りもパリで書かれた青楓の小説を読んだ小宮豊隆による紹介で始まりました。
青楓は描くだけでなく、「書く」画家でもありました。
本展示では、漱石や漱石の門下生たちの本の装幀、漱石山房を描いた絵画に加えて、青楓の文章に着目して、漱石に最も愛された画家・津田青楓に迫ります。
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関連行事
特別展記念講演会「対談 津田青楓のデザインと文章」
日時:3月7日(日)14時~15時30分
講師:柏木博(武蔵野美術大学名誉教授)・大野淳一(武蔵大学名誉教授)
申込:2月15日(月)必着
会場:漱石山房記念館地下1階講座室・多目的スペース
定員:40名(申込多数の場合は抽選)
料金:500円(特別展招待券付)

津田青楓は光太郎より3歳年上の画家。光太郎とは留学仲間で、俳句仲間でもありました。明治42年(1909)、光太郎は留学の終わり近くに約1ヶ月、イタリアを旅行しますが、その旅先からパリの津田に送った俳句が50句以上知られています。

双方の帰国後も、しばらくは交遊が続いていましたが、やがて疎遠になりました。どちらかというと光太郎が嫌っていた(光太郎も嫌われていた)漱石の関係かも知れません。津田は漱石の著書の装幀を多く手がけ、漱石に絵の手ほどきをしています(結局、ものにならなかったようですが(笑))。

また、津田は光太郎と知り合う前の智恵子とも、絵画つながりで交流がありました。智恵子の言葉として現代でもよく引用される「世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの。」は、津田が書き残したものです。

昨年、練馬区立美術館さんで、津田の大規模な回顧展がありましたが、コロナ禍のため、結局、行かずじまいでした。今回は行ってこようと思っております。皆様も感染対策に配慮しつつ、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

朝食の頃雪囲ひを取り外しに青年達来る。又恭三さんかんとくに来る。お礼をのべる。皆はづし、萱と丸太とを始末してかへつてゆく。萱はそれぞれ背負つてゆく。

昭和21年5月13日の日記より 光太郎64歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、冬場は村人達が小屋の回りに雪囲いを作ってくれていました。「恭三さん」は戸来恭三。光太郎と親しかった村人の一人です。
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右は当会の祖・草野心平。昭和26年(1951)の写真です。後に光太郎の山小屋と雪囲いが写っています。

それにしても、これを外すのが5月中旬とは……。