1月22日(金)の『日本経済新聞』さん。光太郎と交流のあった道具鍛冶・千代鶴是秀(ちよづる・これひで)を取り上げて下さっています 

大工道具、芸術の域へと高めた名工を追って 千代鶴是秀、常識覆すデザインの足跡 土田昇

 大工や職人が使うノミやカンナ、ノコギリなどの木工道具にも、名工とされる作り手がいた。研ぐと刃がすれていく消耗品なので、使い心地のよい名品はあまり残されない運命にある。
 東京・三軒茶屋の大工道具店3代目の私は、父を継いで古い木工手道具数千点を集め、道具を芸術の域へ高めたとされる千代鶴是秀(ちよづるこれひで)(1874~1957)ら名工の仕事や生涯を調べてきた。
 父、土田一郎が東京・目黒の是秀を訪ねたのは1939年だった。刃物や金具を作る鍛冶として名高かったが、戦争が迫って細々と仕事をしていたそうだ。職人には珍しく道具の歴史や技術に精通し、12歳の少年の父を客として遇してくれた。父は週2~3回、外回りの合間などで入りびたるようになった。
 私は是秀の没後に生まれ、高校を出た80年、刃物の販売・整備を営む家業の土田刃物店に入った。職人気質の父のもとで摩耗したノコギリの目立て、ノミやカンナの研ぎを身につけた。しかし熟練大工がいなくても木造住宅が建つ時代になり、この業界の先行きは危ぶまれていた。
 仕入れ先で跡継ぎのいない高齢の道具職人らは皆、優しかった。世間話ついでに惜しみなく技術やノウハウを教えてくれた。名品や名工に話が及ぶこともあり、数々の破天荒な逸話が面白くて仕方ない。自然と父が是秀から口伝えられた知識の値打ちが分かってきた。
 刃物にかかわる人の中に、是秀は不世出の工人という評価や神話めいた信奉もあるが、私には幻想と思われる。人間の力量に大した差があるわけではなく、精進すればおそらく誰でも名工になれるはずだ。しかし実際、是秀に肩を並べる鍛冶屋を探すと見当たらない。
 およそ2万点を是秀は制作したとされるが、私は約300点を研いだことがある。直角ひとつとってもきわめて精度が高く、刃は研ぎやすく、とても扱いやすかった。使い手のことを考え、一切手を抜かずに作ったことが分かるのだ。
 是秀は祖父が米沢藩上杉家のお抱え刀工だった鍛冶の名家に生まれた。しかし世の中の変化で刀の仕事はなく、大工道具や小刀に活路を見いだした。20代半ばになった明治中期、政府高官の西郷家の出入り大工の棟梁に認められ、道具鍛冶として名が売れた。
 東洋のロダンと呼ばれた彫刻家、朝倉文夫らと親交ができた大正期に作風が変わる。機能美に加え、持ち手を魚のようにするなどデザイン性も高い小刀を作り、富裕層にも愛用者が広がった。
 ただ是秀は、新たに開発された研磨機などの機械を使わず、手仕事を守り続けた。晩年には1本のノミを3年がかりで作るなど時間をかけている。ひとつひとつの作品は幾分高く売れたのだが、量産できずに貧しさから抜け出せず、弟子も育たなかった。こうした研究成果は折に触れて本にまとめてきた。
 自らも鍛冶を手がけたくなり、約20年前に山梨に作業場を設け、毎月のように通い続けている。あくまで趣味だが、手作業で鋼をたたいて鍛えると、さまざまな感覚が磨かれてくる。研磨機では5分の作業でも、自ら作った刃物を半日がかりで研ぐと、鋼の硬さやもろさ、粘りなどの性質を深く理解できる。
 もちろん便利な機械を使うのを否定しようというわけではない。しかし利便性や経済性を優先すると失うものがあることには自覚的になったほうがいいと思う。
 鍛冶としての目標は是秀だが、なかなか及びそうもない。
(つちだ・のぼる=大工道具店経営)
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名工・千代鶴是秀が晩年に作ったノミ

今回の記事を書かれた土田氏、平成29年(2017)には『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』という書籍を書き下ろされています。同書で、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏取りをした牛越誠夫が是秀の娘婿と知りました。是秀自身も光太郎と戦前(または戦時中)から交流があり、「乙女の像」制作中の光太郎を、中野のアトリエにひょっこり訪ねたりもしています。光太郎は遡って終戦直後、是秀に身の回りの道具類の制作をお願いしたいという旨の書簡を送っています。ただ、それが実現したかどうかは不明です。また、これも確認できていないのですが、是秀作の彫刻刀類を光太郎が使っていた可能性もあります。

追記 やはりありました!

是秀については、下記のリンクもご覧下さい。
信親、正次、是秀。
『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』書評/「美の巨人たち 平櫛田中 鏡獅子」。
台東区立朝倉彫塑館 特別展「彫刻家の眼―コレクションにみる朝倉流哲学」。
都内レポート 太平洋美術会研究所/台東区立朝倉彫塑館。

ちなみに、平成30年(2018)放映のテレビ東京系「開運!なんでも鑑定団」に、是秀作の鉋が出品され、120万円の鑑定額でした。担当した鑑定士は土田氏。
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これ以後、「是秀作」と称するニセモノがかなり出回るようになったとか……。なげかわしいことです。

たまたまこの回は拝見していましたが、調べてみましたところ、平成26年(2014)にも是秀の作が出ていました。長谷川幸三郎の玄翁とセットで200万。切り出しだけだと150万だそうで……。
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光太郎と是秀の交流について、詳しいところがまだ不明です。何とかして調べようとは思っているのですが……。情報をお持ちの方はご教示いただけると幸いです。

【折々のことば・光太郎】

鴬しきりに啼いてゐる
昭和21年(1946)4月22日の日記より 光太郎64歳

少し前に蛙の合唱の件を書きましたが、ウグイスも田舎あるあるです。温暖な当地(千葉県)でも、今年はまだ聞こえていませんが。