新刊情報です。
2021年1月31日 宮沢和樹著 ソレイユ出版 定価1,400円+税
賢治のことを誰よりもよく知り、誰よりも理解し深く愛した弟・清六。その清六は生涯をかけて、兄・賢治の作品を世に出すために尽力した。その孫である筆者は、イギリス留学から帰国後、「林風舎」を立ち上げ、祖父の後継者として活動を始める。賢治はどのような思いを作品や言葉に込めたのか、筆者が祖父から語り聞かされた事実の数々は必読の価値あり!
出版社から
賢治の弟の清六さんは、賢治の作品が世に出る大きなきっかけを作った方です。筆者・宮沢和樹さんは、その清六さんのお孫さん、子どもの頃より清六さんから、賢治のことについてたくさんの話を語り聞かされながら育ったそうです。祖父の影響を強く受ける中でイギリス留学から戻り、和樹さんはあたかも清六さんの後継者のように「林風舎」という会社を立ち上げ、賢治の作品の保存や管理の事業につかれます。
賢治の弟の清六さんは、賢治の作品が世に出る大きなきっかけを作った方です。筆者・宮沢和樹さんは、その清六さんのお孫さん、子どもの頃より清六さんから、賢治のことについてたくさんの話を語り聞かされながら育ったそうです。祖父の影響を強く受ける中でイギリス留学から戻り、和樹さんはあたかも清六さんの後継者のように「林風舎」という会社を立ち上げ、賢治の作品の保存や管理の事業につかれます。
筆者が賢治を「賢治さん」と呼ぶ理由はなぜか。また、「雨ニモマケズ」の詩の真の読み方と、頻繁に出てくる「行ッテ」の真意、そして賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸せはあり得ない」(農民芸術概論綱要)が、「世界ぜんたいが」でなく「世界がぜんたい」である賢治の本意など、清六さんが孫の筆者に熱く語ったことは私たちも絶対に聞き逃してはならない内容に思えます。大伯父・賢治と祖父・清六さんへの深い敬愛と、敬虔な語り部としての気持ちが伝わってきて胸が熱くなる一冊です。
目次
はじめに
伝え、残したいこと
含羞の人々
第一章 「宮沢賢治」mの実弟の孫
大伯父は「賢治さん」
イギリスとの深い縁
イギリスびいき
一族の一員という立場
縄文人の末
第二章 賢治作品の守り人たち
曽祖父・政次郎
最大の理解者、祖父・清六
炎天下の「イギリス海岸」で
祖父と山に登る
高村光太郎さんと祖父
志を受け継ぐ人々
第三章 「雨ニモマケズ」の読み方、読まれ方
願望としての「雨ニモマケズ」
「ヒドリ」論争
「賢治ブーム」のなかで
「行ッテ」のもつ深い意味
「行」の人
第四章 ありのままの「賢治さん」像を伝えていく
大伯父がつなぐ縁
親子を超えた曽祖父の慈愛
詩と音楽の協演
私が好きな作品
ファンタジーではなくSF
「ほんとうの幸せ」とは
ライフワークとしての講演会
宮沢賢治略年譜
「わたしの宮沢賢治」シリーズ刊行に寄せて
昨日届きまして、まだ光太郎に関わる部分をはじめ、半分程しか読んでいないのですが、随所で賢治顕彰に先鞭を付けた光太郎を讃えて下さっており、ありがたく存じます。
上記説明欄にあるとおり、著者の宮沢和樹氏は、賢治の実弟・清六の令孫。当方、平成26年(2014)に千葉県八千代市の秀明大学さんで和樹氏のご講演を拝聴しました。その際の演題は「祖父・清六から聞いた宮澤賢治」。非常に興味深いお話でした。そうした講演を各地でなさっている和樹氏、講演で話すような内容を一冊にまとめて欲しいとの要望に応えての出版ということだそうです。
中心に語られているのは賢治より、その実弟・清六。清六は賢治から遺稿を託され、その出版に尽力しました。
清六は父の政次郎ともども、賢治の作品世界を広く世に紹介した光太郎に恩義を感じており、光太郎の花巻疎開に尽力してくれましたし、亡き兄・賢治に代わって光太郎を兄のように慕っていたともいえるような気がします(21歳の年齢差がありましたが)。光太郎もよく清六と連れだって映画を観に行ったりしました。また、昭和21年(1946)から同24年(1949)にかけ、日本読書購買利用組合(のち、日本読書組合)版の『宮沢賢治文庫』を二人で編集しました。光太郎は各冊の装幀、装画、題字揮毫を行い、「おぼえ書」を寄稿しています。
さて、和樹氏のご著書、随所に光太郎の名が出て来ますが、早速、「はじめに」の中に。
以来、二〇年にわたって皆さんの前で語りつづけてきたのは、祖父・清六が言っていたこと、やってきたこと。
子どものころから兄、賢治さんを身近に見てきて、
「この人はほかの人とは違う、何か特別なものをもっている」
「それだけに危ういところもあるから、とてもほうってはおけない」
と、曽祖父母・政次郎、イチなどとともに、懸命に支えてきた祖父の姿なのです。
その力が、高村光太郎さんや草野心平さんなど、名だたる人たちを動かし、世に「宮沢賢治」を知らしめた。
「高村光太郎さんと祖父」という項も設けて下さっています。主に述べられているのは、賢治歿後の昭和9年(1934)、光太郎や当会の祖・草野心平も出席した新宿モナミで開かれた賢治追悼の会の席上、清六が持参した賢治のトランクから出て来た手帖に書かれていた「雨ニモマケズ」が「発見」された件。
やはりその場にいた詩人の永瀬清子の回想、以前にも書きましたが、コピペします。
和樹氏、この展開を、清六が「演出」したのではないかと推測されています。
もともと商人だったので、祖父は毎日帳簿をつけていたほど几帳面(きちょうめん)でした。まして、賢治さんというのはどういう人物なのかを知ってもらうために披露する原稿や書き物のたぐいです。いろいろな方の前でトランクを開く前に、祖父がポケットのなかの手帳を認識していなかったはずはないと私は思います。
これはあくまでも私の想像ですが、いま考えてみると、祖父は「この手帳にはこうした詩もあります」と自分からは言わないで、そこにいるほかの誰かに見つけてほしかったのではないかと思うのです。そうした「反応」が欲しかったのだろうと。
つまり、自分があらかじめ「こんなものがあります」と見せるよりも、光太郎さんなどに手帳を見つけてもらって、「何だろう、この詩は」と言ってもらいたかったのでしょう。そのほうが、立ち会って下さった方々の印象に強く残り、より効果的だと考えたのかも知れません。
そうすることによって、この「雨ニモマケズ」の一文も、いずれ賢治さんの本を作る際には「入れなくてはだめだ」と思ってもらうようにしたかったのではないかと考えるのです。
一昨年の春、林風舎さんを訪ね、和樹氏とお話しする機会がありましたが、その際にも氏は同様のことをおっしゃっていました。なるほど、あり得ない話ではありません。
この「雨ニモマケズ」の「発見」の件は、また近いうちに触れるつもりですのでよろしく。
それから、光太郎が昭和20年(1945)に宮沢家に疎開していた頃のエピソード、終戦後、旧太田村に移住してからの話、遡って昭和11年(1936)、光太郎が「雨ニモマケズ」詩碑の揮毫をしたことなども紹介されています。それらを通底するのは、やはり光太郎への感謝。恐縮です。
また、特に興味深く拝読したのは「「ヒドリ」論争」という項。
現在、多くの活字本で「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」となっている部分、元々の手帳では、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」と書かれていました。この「ヒデリ」「ヒドリ」については、百家争鳴、喧々囂々、侃々諤々の感があります。さる高名な宗教学者の方は、この改変を光太郎の仕業だと断定し、繰り返し色々なところで書いたりしゃべったりしています。その根拠は光太郎が昭和11年(1936)に光太郎がこの一節を含む「雨ニモマケズ」後半部分を揮毫し、詩碑が建てられたこと。しかし光太郎は花巻から送られてきた原稿通りに書いただけですし、詩碑の建立以前から「ヒデリノトキハ」の形で活字になっていたことが確認されており、まったくの妄言としか言いようがありません。
ちなみに「ヒドリ」は「日取り」、花巻で、日給をもらって働く人のことをそう呼んだ言葉があるから原文通り「ヒドリ」でいいのだ、と、賢治の教え子の故・照井謹二郎氏が提唱したのが始まりらしいそうです。
和樹氏、この改変は、清六によるものだろうと推測されています。根拠としては、賢治が時折、「デ」と「ド」を間違えることがあったこと、この部分の文脈が天候のことを言っているので「日照り」の誤りであろうと考えたことなどをあげられています。
そして……
みんなが熱くなり、教科書やパンフレットなどを「ヒドリ」に直さなければ、いやいや「ヒデリ」のまちがいなのだから、そのままでよい……などと、議論は一段と白熱していました。
このように二派に分かれて論争していくと、自分の意見を言うだけではなく、「ぜったいに自分が正しい」と主張する人も出てきます。
そんなとき、当の祖父は、案外ゆったりかまえていました。
「それは、どっちでもいいよ。最後は読む人が決めればいい。
いちばんよくないのは、『どちらかでなければいけない』とがんばる人だな。
自分は『ヒドリ』だと確信しているからといって、人にみずからの意見を押しつけるのがいちばんダメだ」
ということでした。
和樹氏ご自身も、
私自身は、祖父が言ったようにどちらでもよいと思います。いちばんよくないのは、どちらかを「絶対」として論争し、自分の意見が正しいのだと押しつけることだとの祖父の言葉に、いまでも共感しています。
だから、私自身は、そのような論争に加わることはよくないと考え、静観することにしています。
だそうで。
当方も、この改変、光太郎が行ったという濡れ衣さえなければ、どちらでもいいと思います。
その他、和樹氏は「雨ニモマケズ」は、あくまで賢治が「サウイフモノニワタシハナリタイ」と、自らのために書いたものであって、それをみんなで実践しよう、的な風潮には警句を発していらっしゃいます。特に東日本大震災の後、「雨ニモマケズ」が再び注目されて起こった、「人間、こうでなくてはいけない」、「みんなで賢治イズムを」的な論調に対して、です。
たしかにそうですね。この点は光太郎の「道程」(大正3年=1914)などにも言えることでしょう。みんながみんな、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」と頑張る必要はないわけで……。
ところで、老婆心ながら、事実関係の誤りを指摘します。まず、光太郎と賢治は一度も会っていない、という記述がありますが、二人は一度だけ、大正15年(1926)の12月に会っています。また、細かい話ですが、本郷区駒込林町の光太郎アトリエ兼住居が焼失したのが昭和20年(1945)3月としていますが、正しくは4月です。
こうした点は差っ引いても、賢治、清六、そして光太郎の関わりを知るには好著です。ぜひお買い求めを。
【折々のことば・光太郎】
食後二階の畳敷の部屋にて坐って座談会じみて話す。先生方男性も女性も来り二三十人。
場所は、近くにあった山口分教場の本校である太田小学校です。この後、分教場などで光太郎が講演とまでいかない講話、もしくは座談会などを行うことがたびたびありましたが、その最初のもの。かつて若い頃は「芸術家あるある」で、「俗世間の馬鹿どもとは関わりたくない」的な部分もあった光太郎にとっては、革命的な転身だったようにも思えます。
目次
はじめに
伝え、残したいこと
含羞の人々
第一章 「宮沢賢治」mの実弟の孫
大伯父は「賢治さん」
イギリスとの深い縁
イギリスびいき
一族の一員という立場
縄文人の末
第二章 賢治作品の守り人たち
曽祖父・政次郎
最大の理解者、祖父・清六
炎天下の「イギリス海岸」で
祖父と山に登る
高村光太郎さんと祖父
志を受け継ぐ人々
第三章 「雨ニモマケズ」の読み方、読まれ方
願望としての「雨ニモマケズ」
「ヒドリ」論争
「賢治ブーム」のなかで
「行ッテ」のもつ深い意味
「行」の人
第四章 ありのままの「賢治さん」像を伝えていく
大伯父がつなぐ縁
親子を超えた曽祖父の慈愛
詩と音楽の協演
私が好きな作品
ファンタジーではなくSF
「ほんとうの幸せ」とは
ライフワークとしての講演会
宮沢賢治略年譜
「わたしの宮沢賢治」シリーズ刊行に寄せて
昨日届きまして、まだ光太郎に関わる部分をはじめ、半分程しか読んでいないのですが、随所で賢治顕彰に先鞭を付けた光太郎を讃えて下さっており、ありがたく存じます。
上記説明欄にあるとおり、著者の宮沢和樹氏は、賢治の実弟・清六の令孫。当方、平成26年(2014)に千葉県八千代市の秀明大学さんで和樹氏のご講演を拝聴しました。その際の演題は「祖父・清六から聞いた宮澤賢治」。非常に興味深いお話でした。そうした講演を各地でなさっている和樹氏、講演で話すような内容を一冊にまとめて欲しいとの要望に応えての出版ということだそうです。
中心に語られているのは賢治より、その実弟・清六。清六は賢治から遺稿を託され、その出版に尽力しました。
清六は父の政次郎ともども、賢治の作品世界を広く世に紹介した光太郎に恩義を感じており、光太郎の花巻疎開に尽力してくれましたし、亡き兄・賢治に代わって光太郎を兄のように慕っていたともいえるような気がします(21歳の年齢差がありましたが)。光太郎もよく清六と連れだって映画を観に行ったりしました。また、昭和21年(1946)から同24年(1949)にかけ、日本読書購買利用組合(のち、日本読書組合)版の『宮沢賢治文庫』を二人で編集しました。光太郎は各冊の装幀、装画、題字揮毫を行い、「おぼえ書」を寄稿しています。
さて、和樹氏のご著書、随所に光太郎の名が出て来ますが、早速、「はじめに」の中に。
以来、二〇年にわたって皆さんの前で語りつづけてきたのは、祖父・清六が言っていたこと、やってきたこと。
子どものころから兄、賢治さんを身近に見てきて、
「この人はほかの人とは違う、何か特別なものをもっている」
「それだけに危ういところもあるから、とてもほうってはおけない」
と、曽祖父母・政次郎、イチなどとともに、懸命に支えてきた祖父の姿なのです。
その力が、高村光太郎さんや草野心平さんなど、名だたる人たちを動かし、世に「宮沢賢治」を知らしめた。
「高村光太郎さんと祖父」という項も設けて下さっています。主に述べられているのは、賢治歿後の昭和9年(1934)、光太郎や当会の祖・草野心平も出席した新宿モナミで開かれた賢治追悼の会の席上、清六が持参した賢治のトランクから出て来た手帖に書かれていた「雨ニモマケズ」が「発見」された件。
やはりその場にいた詩人の永瀬清子の回想、以前にも書きましたが、コピペします。
そのトランクからは数々の原稿がとりだされた。すべてきれいに清書され、その量の多いことと、内容の豊富なこと、幻想のきらびやかさと現実との交響、充分には読み切れないまま、すでにそれらは座にいる人々を圧倒しおどろかせた。
原稿がとりだされたのはまだみんなが正式にテーブルの席につくより前だったような感じ。みな自由に立ったりかがみこんだりしてそのトランクをかこんでいた。
そしてやがてふと誰かによってトランクのポケットから小さい黒い手帳がとりだされ、やはり立ったり座ったりして手から手へまわしてその手帳をみたのだった。
高村さんは「ホホウ」と云っておどろかれた。その云い方で高村さんとしてはこの時が手帳との最初の対面だったことはたしかと思う。心平さんの表情も、私には最初のおどろきと云った風にとれ、非常に興奮してながめていらしたように私にはみえた。
「雨ニモマケズ風ニモマケズ――」とやや太めな鉛筆で何頁かにわたって書き流してある。
和樹氏、この展開を、清六が「演出」したのではないかと推測されています。
もともと商人だったので、祖父は毎日帳簿をつけていたほど几帳面(きちょうめん)でした。まして、賢治さんというのはどういう人物なのかを知ってもらうために披露する原稿や書き物のたぐいです。いろいろな方の前でトランクを開く前に、祖父がポケットのなかの手帳を認識していなかったはずはないと私は思います。
これはあくまでも私の想像ですが、いま考えてみると、祖父は「この手帳にはこうした詩もあります」と自分からは言わないで、そこにいるほかの誰かに見つけてほしかったのではないかと思うのです。そうした「反応」が欲しかったのだろうと。
つまり、自分があらかじめ「こんなものがあります」と見せるよりも、光太郎さんなどに手帳を見つけてもらって、「何だろう、この詩は」と言ってもらいたかったのでしょう。そのほうが、立ち会って下さった方々の印象に強く残り、より効果的だと考えたのかも知れません。
そうすることによって、この「雨ニモマケズ」の一文も、いずれ賢治さんの本を作る際には「入れなくてはだめだ」と思ってもらうようにしたかったのではないかと考えるのです。
一昨年の春、林風舎さんを訪ね、和樹氏とお話しする機会がありましたが、その際にも氏は同様のことをおっしゃっていました。なるほど、あり得ない話ではありません。
この「雨ニモマケズ」の「発見」の件は、また近いうちに触れるつもりですのでよろしく。
それから、光太郎が昭和20年(1945)に宮沢家に疎開していた頃のエピソード、終戦後、旧太田村に移住してからの話、遡って昭和11年(1936)、光太郎が「雨ニモマケズ」詩碑の揮毫をしたことなども紹介されています。それらを通底するのは、やはり光太郎への感謝。恐縮です。
また、特に興味深く拝読したのは「「ヒドリ」論争」という項。
現在、多くの活字本で「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」となっている部分、元々の手帳では、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」と書かれていました。この「ヒデリ」「ヒドリ」については、百家争鳴、喧々囂々、侃々諤々の感があります。さる高名な宗教学者の方は、この改変を光太郎の仕業だと断定し、繰り返し色々なところで書いたりしゃべったりしています。その根拠は光太郎が昭和11年(1936)に光太郎がこの一節を含む「雨ニモマケズ」後半部分を揮毫し、詩碑が建てられたこと。しかし光太郎は花巻から送られてきた原稿通りに書いただけですし、詩碑の建立以前から「ヒデリノトキハ」の形で活字になっていたことが確認されており、まったくの妄言としか言いようがありません。
ちなみに「ヒドリ」は「日取り」、花巻で、日給をもらって働く人のことをそう呼んだ言葉があるから原文通り「ヒドリ」でいいのだ、と、賢治の教え子の故・照井謹二郎氏が提唱したのが始まりらしいそうです。
和樹氏、この改変は、清六によるものだろうと推測されています。根拠としては、賢治が時折、「デ」と「ド」を間違えることがあったこと、この部分の文脈が天候のことを言っているので「日照り」の誤りであろうと考えたことなどをあげられています。
そして……
みんなが熱くなり、教科書やパンフレットなどを「ヒドリ」に直さなければ、いやいや「ヒデリ」のまちがいなのだから、そのままでよい……などと、議論は一段と白熱していました。
このように二派に分かれて論争していくと、自分の意見を言うだけではなく、「ぜったいに自分が正しい」と主張する人も出てきます。
そんなとき、当の祖父は、案外ゆったりかまえていました。
「それは、どっちでもいいよ。最後は読む人が決めればいい。
いちばんよくないのは、『どちらかでなければいけない』とがんばる人だな。
自分は『ヒドリ』だと確信しているからといって、人にみずからの意見を押しつけるのがいちばんダメだ」
ということでした。
和樹氏ご自身も、
私自身は、祖父が言ったようにどちらでもよいと思います。いちばんよくないのは、どちらかを「絶対」として論争し、自分の意見が正しいのだと押しつけることだとの祖父の言葉に、いまでも共感しています。
だから、私自身は、そのような論争に加わることはよくないと考え、静観することにしています。
だそうで。
当方も、この改変、光太郎が行ったという濡れ衣さえなければ、どちらでもいいと思います。
その他、和樹氏は「雨ニモマケズ」は、あくまで賢治が「サウイフモノニワタシハナリタイ」と、自らのために書いたものであって、それをみんなで実践しよう、的な風潮には警句を発していらっしゃいます。特に東日本大震災の後、「雨ニモマケズ」が再び注目されて起こった、「人間、こうでなくてはいけない」、「みんなで賢治イズムを」的な論調に対して、です。
たしかにそうですね。この点は光太郎の「道程」(大正3年=1914)などにも言えることでしょう。みんながみんな、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」と頑張る必要はないわけで……。
ところで、老婆心ながら、事実関係の誤りを指摘します。まず、光太郎と賢治は一度も会っていない、という記述がありますが、二人は一度だけ、大正15年(1926)の12月に会っています。また、細かい話ですが、本郷区駒込林町の光太郎アトリエ兼住居が焼失したのが昭和20年(1945)3月としていますが、正しくは4月です。
こうした点は差っ引いても、賢治、清六、そして光太郎の関わりを知るには好著です。ぜひお買い求めを。
【折々のことば・光太郎】
食後二階の畳敷の部屋にて坐って座談会じみて話す。先生方男性も女性も来り二三十人。
昭和21年(1946)4月10日の日記より 光太郎64歳
場所は、近くにあった山口分教場の本校である太田小学校です。この後、分教場などで光太郎が講演とまでいかない講話、もしくは座談会などを行うことがたびたびありましたが、その最初のもの。かつて若い頃は「芸術家あるある」で、「俗世間の馬鹿どもとは関わりたくない」的な部分もあった光太郎にとっては、革命的な転身だったようにも思えます。