明治美術学会さん発行の雑誌『近代画説』。雑誌といってもハードカバーに近い上製で、パラフィン紙がかけられた立派なものです。先月発行された第29号、執筆者のお一人である小杉放菴記念日光美術館学芸員の迫内祐司氏からいただきました。多謝。
氏の玉稿は「今戸精司――趣味人としての彫刻家」。光太郎と東京美術学校彫刻科で同級生だった今戸精司(明治14年=1881~大正8年=1919)に関する労作です。明治期の光太郎の日記にはその名が頻出します。また、武者小路実篤や志賀直哉ら白樺派の作家と親しく、光太郎と武者を引き合わせた人物でもあるそうです。
「近代日本美術史は、作品の現存しない作家をいかに扱うことができるか?」という特集の中の一篇で、題名の通り、今戸の彫刻は現存が確認できていないそうです。年譜を読むと、確かに数え39歳の短い生涯でしたが、各種展覧会に出品したり、作品の頒布会が行われたりもしていましたし、文芸誌『明星』や『スバル』に作品の写真が載ったり、短歌を寄稿したりもしています。それでも作品の現存が確認出来ていないのは、主に関西を拠点に活動していたことが大きいのでしょう。やはり昔からこうした部分でも東京偏重の風潮がありました。
加えて、今戸が目指した方向性が「生活空間にあった小品」とでもいうような彫刻で(そのため氏の玉稿、副題に「趣味人としての彫刻家」とあるわけです)、その流行が長く続かなかったこと、弟子という弟子が居なかったことなどで、その存在が忘れられていったということのようです。
決して技倆が劣っていたわけではないことは、残された作品の写真からもわかります。
左は明治34年(1901)、美校在学中の作で「世捨人」。光太郎も出品した第2回彫塑会展出品作です。右は晩年の「貧婦」(大正7年=1918)、再興第5回院展に出品されたものです。
これほどの腕を持った彫刻家の作品の現存が確認できていないというのは、実に惜しいところです。ただ、迫内氏も指摘していますが、一般の収集家の元などにあることも考えられますし、情報をお持ちの方はご一報いただければ幸いです。ちなみに今戸は「蝸牛」と号していたこともあり、その名での作品もあったでしょう。
昭和12年(1937)、大阪で今戸の遺作展が開催され、光太郎はそれを観ることは叶いませんでしたが、今戸を偲ぶ短歌三首を送っています。いずれも『高村光太郎全集』に漏れていたものでした。
「しらぶれぬ」は古語で「調子に乗らない」といった意味です。
昨年亡くなられた、当会顧問であらせられた北川太一先生、今戸の追悼文集『追遠』(これも稀覯書です)を元に、「今戸精司略伝」を書かれ、『光太郎資料』第4号(昭和36年=1961)に発表されました(迫内氏、これをだいぶ参照されたそうです)。しかし、北川先生、『追遠』刊行後に寄せられた上記短歌三首はご存じなかったようです。
ちなみに北川先生一周忌となりましたが、この一年間に、こうした『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎作品等が、大量に見つかりました。それらを先生にお見せしたかった、という思いと、泉下の先生のお導きでそれらを見つけることが出来たのではないかという思いと、相半ばです。
さて、『近代画説』第29号、目次は以下の通り。迫内氏玉稿以外にも、忘れられかけた作家が多数取り上げられ、こうした作家の業績なりを伝えてゆくことの重要性、そして同時に謎の作家に光を当てることがいかに困難であるかも感じられ、頭の下がる思いでした。
氏の玉稿は「今戸精司――趣味人としての彫刻家」。光太郎と東京美術学校彫刻科で同級生だった今戸精司(明治14年=1881~大正8年=1919)に関する労作です。明治期の光太郎の日記にはその名が頻出します。また、武者小路実篤や志賀直哉ら白樺派の作家と親しく、光太郎と武者を引き合わせた人物でもあるそうです。
「近代日本美術史は、作品の現存しない作家をいかに扱うことができるか?」という特集の中の一篇で、題名の通り、今戸の彫刻は現存が確認できていないそうです。年譜を読むと、確かに数え39歳の短い生涯でしたが、各種展覧会に出品したり、作品の頒布会が行われたりもしていましたし、文芸誌『明星』や『スバル』に作品の写真が載ったり、短歌を寄稿したりもしています。それでも作品の現存が確認出来ていないのは、主に関西を拠点に活動していたことが大きいのでしょう。やはり昔からこうした部分でも東京偏重の風潮がありました。
加えて、今戸が目指した方向性が「生活空間にあった小品」とでもいうような彫刻で(そのため氏の玉稿、副題に「趣味人としての彫刻家」とあるわけです)、その流行が長く続かなかったこと、弟子という弟子が居なかったことなどで、その存在が忘れられていったということのようです。
決して技倆が劣っていたわけではないことは、残された作品の写真からもわかります。
左は明治34年(1901)、美校在学中の作で「世捨人」。光太郎も出品した第2回彫塑会展出品作です。右は晩年の「貧婦」(大正7年=1918)、再興第5回院展に出品されたものです。
これほどの腕を持った彫刻家の作品の現存が確認できていないというのは、実に惜しいところです。ただ、迫内氏も指摘していますが、一般の収集家の元などにあることも考えられますし、情報をお持ちの方はご一報いただければ幸いです。ちなみに今戸は「蝸牛」と号していたこともあり、その名での作品もあったでしょう。
昭和12年(1937)、大阪で今戸の遺作展が開催され、光太郎はそれを観ることは叶いませんでしたが、今戸を偲ぶ短歌三首を送っています。いずれも『高村光太郎全集』に漏れていたものでした。
わが友の今戸精司はしらぶれぬ物の一義をたゞ追ひしため
わが友の今戸精司は捨石となるをよろこび世を果てしかな
わが友の今戸精司は色しろくまなこつぶらに骨太かりき
「しらぶれぬ」は古語で「調子に乗らない」といった意味です。
昨年亡くなられた、当会顧問であらせられた北川太一先生、今戸の追悼文集『追遠』(これも稀覯書です)を元に、「今戸精司略伝」を書かれ、『光太郎資料』第4号(昭和36年=1961)に発表されました(迫内氏、これをだいぶ参照されたそうです)。しかし、北川先生、『追遠』刊行後に寄せられた上記短歌三首はご存じなかったようです。
ちなみに北川先生一周忌となりましたが、この一年間に、こうした『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎作品等が、大量に見つかりました。それらを先生にお見せしたかった、という思いと、泉下の先生のお導きでそれらを見つけることが出来たのではないかという思いと、相半ばです。
さて、『近代画説』第29号、目次は以下の通り。迫内氏玉稿以外にも、忘れられかけた作家が多数取り上げられ、こうした作家の業績なりを伝えてゆくことの重要性、そして同時に謎の作家に光を当てることがいかに困難であるかも感じられ、頭の下がる思いでした。
[巻頭論攷]
・山本鼎の生いたち 付論 国柱会との関わり(金子一夫)
[特集 近代日本美術史は、作品の現存しない作家をいかに扱うことができるか?]
・特集解題 近代日本美術史は、作品の現存しない作家を
いかに扱うことができるか?(大谷省吾)
・国安稲香─京都の近代「彫塑」を育てた彫刻家(田中修二)
・今戸精司─趣味人としての彫刻家(迫内祐司)
・自己に忠実に生きようとした画家─船越三枝子(コウオジェイ マグダレナ)
・「近代日本美術史」は「女性人形作家」を扱うことができるのか?
─上村露子を例に(吉良智子)
[公募論文]
・公募論文の査読結果について(塩谷純)
・大阪博物場と同美術館─書を起点として─(前川知里)
・「民衆藝術家」矢崎千代二のパステル表現─「色の速写」と作品の値段─(横田香世)
・荒城季夫の昭和期美術批評─忘れられた〈良心〉(渡邊実希)
[研究発表〈要約〉]
・戦時下の東京美術学校─工芸技術講習所の活動と意義─(浅井ふたば)
・太田喜二郎研究─京都帝国大学関係者との交流を中心に─(植田彩芳子)
・矢崎千代二とパステル画会─「洋画の民衆化」を目指して─(横田香世)
・萬鐵五郎の雲と自画像─禅を視点とする解釈(澤田佳三)
・文展における美人画の隆盛と女性画家について─松園を中心に─(児島薫)
・山本鼎の生いたち─新資料による解明、そして国柱会のこと─(金子一夫)
・戦時下の書と空海(志邨匠子)
・前衛書家上田桑鳩に見る書のモダニズム
─「日本近代美術」を周縁から問い直す(向井晃子)
・太平洋画会日誌にみる研究所争議と太平洋美術学校の開校
─洪原会、NOVA美術協会の活動にもふれて(江川佳秀)
編集後記(児島薫)