今年に入ってから、「牛」(大正2年=1913)、「冬が来た」(同)、「冬の詩」(大正3年=1914)が、各地の地方紙等の一面コラムに取り上げられていますが、『岩手日報』さんでも一面コラムで「冬の言葉」(昭和2年=1927)、「冬」(昭和15年=1940)を引用して下さいました。掲載は1月5日(火)でした

風土計

〈冬が又来て天と地を清楚にする。/冬が洗ひだすのは万物の木地。〉。高村光太郎の「冬の言葉」は、そう始まる。詩人にとって冬は、天と地のあらゆるものを浄化してくれる季節らしい▼だから新年を愛した。〈新年が冬来るのはいい。〉〈ああしんしんと寒い空に新年は来るといふ。〉(「冬」)。きりりと冷たい風が汚れを洗ってくれるのが新年だという。「冬の詩人」と称されるゆえんだろう▼冬の寒さが万物を清浄にするものならば、迎えた2021年ほどその霊力を請い願う年はない。しんしんとした寒空が続いた新年、仕事始めの日に大きな動きがあった。今週にも首都圏に緊急事態宣言が出される▼医療を崩壊させられない、との苦渋の判断だろう。冬によって地上が清められる祈りとは逆に、感染の広がりはとどまるところを知らない。それにしても、再び最後の切り札を出す前に、打つ手はなかったか▼きょうは小寒、長い寒の季節に入る。きのう首相はワクチン接種を2月下旬に始めたいと語った。すると光が見え始めるのは、とうに寒も明けた啓蟄(けいちつ)か、春分の頃か▼〈雪と霙と氷と霜と、/かかる極寒の一族に滅菌され、/ねがはくは新しい世代といふに値する/清潔な風を天から吸はう。〉。滅菌された風が吹くのを今は待つほかない。胸いっぱいに吸い込める日を。

引用されている「冬の言葉」(昭和2年=1927)、「冬」(昭和15年=1940)の全文は以下の通りです。
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それぞれ「冬の詩人」の面目躍如の詩で、こうなってくると、歳時記の冬の季語として「高村光太郎」という単語が登録されてもおかしくないかもしれませんね(笑)。
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冗談はさておき、まさに「天と地を清楚」に、そして「雪と霙と氷と霜と、かかる極寒の一族に滅菌され」という状態になってほしいものです。そのためには、「この世の少しばかりの擬勢とおめかし」のような「人間手製の価値をすて」ること、「精神にたまる襤褸(らんる)をもう一度かき集め、一切をアルカリ性の昨日に投げこむ」ことが必要なのかもしれません。

ところで、最近になって気がついたのですが、青森の地方紙『東奥日報』さんの一面コラムでも、元日掲載分で「牛」を取り上げて下さっていました

天地人

1年前には予想しなかったコロナ禍の中での年明けだ。例年なら初詣や宴会といった行事が目白押しで、あちこち出歩いたりするのも楽しみだった。残念ながら今年は、手放しで正月を満喫できない。それでも感染予防に留意して工夫を凝らせば、家族や友人らと新年の喜びを分かち合うことができるはずだ。▼干支(えと)は子(ね)(ネズミ)から丑(ウシ)に。すばしっこいイメージのネズミに対して、ウシは「牛歩」という言葉もあるように、おっとりしているとされる。ただし、それが欠点であるとは限らない。▼<牛はのろのろと歩く/牛は野でも山でも道でも川でも/自分の行きたいところへは/まつすぐに行く>。「牛」と題した高村光太郎の詩の冒頭である。「のろのろと」でも、<ふみ出す足は必然だ/うはの空の事ではない/是でも非でも/出さないではゐられない足を出す>のだ。▼一斉休校を突然要請したり、布マスク配布が不評を買ったり、菅義偉首相が旗振り役の「Go To トラベル」が一時停止を余儀なくされたり…。ちくはぐな政府のコロナ対応は、しっかりとした牛の足取りと対照的に見える。▼「牛の歩みも千里」ということわざがある。怠らず努力すれば、大きな成果を上げることができることのたとえだ。急がず落ち着いて、コロナに負けない安心できる暮らしを取り戻す道筋を見いだす新年としたい。

年明けから1週間程で、すでに全国の地方紙一面コラムに光太郎が5件ほども大きく取り上げられていまして、こんな年は記憶にありません。「丑年」と、「冬の詩人」とが重なっているというのもあるのでしょうが、やはりコロナ禍の今、光太郎のポジティブで力強い詩句に、人々の心の琴線へ訴えかけるものがある、ということなのだと思います。ありがたいことです。

ちなみに『千葉日報』さんでも、元日の一面コラム「忙人寸語」に光太郎の名を出して下さいましたが、「高村光太郎、宮沢賢治、田村隆一に石垣りん。感銘を受けた詩人は数え切れないが、昭和初期に活動した中原中也は別格だ。」ということなので割愛します(笑)。

【折々のことば・光太郎】

名古屋の石田岳堂氏より大国主命を作つてくれとのテガミあり。檜材は木曽に近きところ故入手出来る筈と思ひ、返事の中に檜が入手出来たら彫刻の希望の大きさの檜材を小包で送つてくれれば大に助かると書く。


昭和21年(1946)1月23日の日記より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)での生活の中で、後には手すさび程度のものを除いて、完全に「作品」としての彫刻制作を封印する光太郎ですが、山暮らしを始めた当初はまだ作品制作の意志があったようです。