福岡に本社を置く『西日本新聞』さん、先週掲載された記事です。
確かにこういう時代こそ、耽美的、芸術至上的な詩より、ある意味無骨で述志的、しかしポジティブな光太郎の詩、と思います。
【折々のことば・光太郎】
太田村山口行、 朝飯盒にて弁当炊き、八時四十分校長先生同道花巻駅より。
この年秋から7年間を過ごす花巻郊外太田村山口地区に、初めて足を踏み入れた記述です。この時点で既に移住の決意は固く、山小屋を建てる場所もある程度決め、土地の所有者で、地区のまとめ役でもあった駿河重次郎宅に挨拶に行っています。
「校長先生」は、この時、宮沢家を焼け出された光太郎を住まわせてくれていた、元旧制花巻中学校長・佐藤昌です。
「焦らず、恐れず」ステイする気魄を コロナ禍で求められる極意とは
木と木の間に張ったベルトの上を悠々と渡っていく。曹洞宗僧侶の藤田一照(いっしょう)さん(66)は、ベルト渡りが日課のひとつ。緊張と弛緩(しかん)の絶妙なバランス感覚は宙に浮いているかのようだ。「うまく乗ろうと思わず、力みを抜いて、ただ乗せてもらう」ことが極意らしい。
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一照さんが実践しているのは仏教で言う「不放逸(ふほういつ)」の状態。力まず、しかし意識が隅々まで行き渡っているこの自然体こそ坐禅(ざぜん)でも目指す姿勢で、仏教の智慧の形なのだという。
「くつろぎながらも目覚めていて、その時々で何が起こっているかを認識する。この平常心こそ、今求められる感性であり、知性だと思います」
感染症の拡大で先行きが見えない今、藤田さんはあらためて「動じない自分の軸と足元の確かさ」の必要性を、オンラインのトークも介して呼びかけている。
一照さんは愛媛県で生まれ、東大大学院で発達心理学を研究中に禅の道に出合った。兵庫県の修行道場安泰寺で6年間修行し、33歳で渡米してマサチューセッツ州の禅堂で17年半、住持を務めた。帰国後は寺や檀家(だんか)は持たず、神奈川県葉山町で別荘の管理人をしながら坐禅を指南している。
2013年に刊行した僧侶の山下良道さんとの共著「アップデートする仏教」(幻冬舎)は世に一石を投じた。葬式や法要に象徴される世俗化した仏教や、近年「マインドフルネス」として流行している自己啓発のための仏教を超えた、現代人にとって本当に意味のある仏教の形を探求している。コロナ禍は、その課題を切実にした。
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戦後日本の仏教のもろさをあらわにしたのは、1990年代のオウム事件だった。極端な教義を説く教団が悩みや焦りを抱えた若者たちの受け皿になり、修行の名のもとに破壊行動に至った。当時修行中だった一照さんも衝撃を受けた。
「一生懸命修行した結果がああなるのかと、すごくショックを受けました。僕らの世代が起こした事件で、他人ごとではなかった」
ブッダが最後に残した有名な言葉がある。「怠らず修行を完成させなさい」。「怠らず」は原語のパーリ語では「アッパマダー」と表現し、「パマダー=酩酊(めいてい)状態」の否定語で、「目覚めている」を意味する。
「一生懸命頑張るだけでなく、自分の行動に自覚的であること。攻撃的でも逃避でもないアッパマダー、つまり『不放逸』の態度こそ、ブッダが伝える修行の姿だったと思います」
オウム事件の後、日本社会は一時宗教へのアレルギー反応を見せたが、東日本大震災では弔いのための宗教が求められた。今回のコロナ禍では法事や伝道、祭りなど各種行事が自粛に追い込まれ、宗教は事実上、不要不急と見なされている。一照さんは「コロナは医療や経済だけではなく、宗教問題」だと強調する。
「身過ぎ世過ぎの問題だけでは済まされない。生きる意味を問い、人生の方向性が定まらないと、ただ生きているだけ。祭りなどエネルギーを発散し、神仏と交流するハレの場がなくなることも、じわりと影響を及ぼしてくるはずです」
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今回の感染拡大で定着した「ステイホーム」という言葉にも、一照さんは生きる本質を見ている。仏教では「家」を「畢竟帰処(ひっきょうきしょ)」と呼び、最終的な拠(よ)り所(どころ)を指す。それは「本来の自己」であり、そこにステイする(居る)ためには生きる底力である「気魄(きはく)」が不可欠だという。
一照さんは今年、高村光太郎の詩「道程」を何度も読み返した。
<僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る/ああ、自然よ 父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ/常に父の気魄を僕に充たせよ/この遠い道程のため/この遠い道程のため>
自然から気魄を授かり、前人未到の道を歩く覚悟に燃える詩に、一照さんは初心の心構えを読み取る。
「感染症によってすべての人が未曽有の状況に投げ込まれている今、一人一人が柔軟でオープンな初心に戻り、『感じる知性』を磨いて自分の足で前に歩んでいく覚悟が必要です」
焦らず、恐れず。不慣れで不確実で、不確定な毎日が続く今、一照さんのベルト渡りは一歩一歩が無心で、いつも新しい、「初心のススメ」なのだ。
確かにこういう時代こそ、耽美的、芸術至上的な詩より、ある意味無骨で述志的、しかしポジティブな光太郎の詩、と思います。
【折々のことば・光太郎】
太田村山口行、 朝飯盒にて弁当炊き、八時四十分校長先生同道花巻駅より。
昭和20年(1945)8月21日の日記より 光太郎63歳
この年秋から7年間を過ごす花巻郊外太田村山口地区に、初めて足を踏み入れた記述です。この時点で既に移住の決意は固く、山小屋を建てる場所もある程度決め、土地の所有者で、地区のまとめ役でもあった駿河重次郎宅に挨拶に行っています。
「校長先生」は、この時、宮沢家を焼け出された光太郎を住まわせてくれていた、元旧制花巻中学校長・佐藤昌です。