情報を得るのが遅れまして、もう会期も終盤ですが……。

コレクションの50年

期 日 : 2020年9月19日(土)~12月20日
会 場 : 和歌山県立近代美術館 和歌山市吹上1-4-14
時 間 : 9時30分−17時
料 金 : 一般520(410)円 大学生300(260)円 ( )内20名以上の団体料金
      高校生以下、65歳以上、障害者、県内に在学中の外国人留学生無料

和歌山県立近代美術館は、1963年、和歌山城内に開館した和歌山県立美術館を前身として、1970年、和歌山県民文化会館1階に開館しました。「近代」を冠した国公立の美術館としては、日本で5番目の館となります。同会館で23年間の活動を続けたのち、1994年に現在の場所へ新築移転し、今年開館50年を迎えました。それを記念して開催する本展は、和歌山県立美術館時代に収蔵した作品83点を引き継ぎ、その後半世紀にわたる活動のなかで、約13000点の作品を収蔵するまでになった当館のコレクションの歩みを、選りすぐりの作品を通してたどります。当館のコレクションは、郷土の美術家を掘り起こすことから始まり、関西から日本、さらに世界へと目を広げるとともに、版画という専門分野の開拓から世界的なコンクールとなった和歌山版画ビエンナーレ展の開催を含め、地域を基礎とする活動を継続するなかで形づくられました。多くの人に支えられながら築かれたコレクションの豊かさを、改めてご覧いただきたいと思います。

そして会期後半からは「美術館を展示する 和歌山県立近代美術館のサステイナビリティ」を開催し、作品収集にとどまらない美術館活動を振り返ります。展覧会、教育普及など、幅広くもそれぞれが関連した多面的な美術館活動と、それらを支える地域とのつながりにも目を向け、これからの50年、さらに100年を見据えた美術館を考えるための機会といたします。
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001光太郎の油絵「佐藤春夫像」(大正3年=1914)が出ています。若き日の佐藤が光太郎に依頼して描いてもらったもので、これを機に、佐藤は光太郎との交流を深めていきます。一時疎遠になったものの、光太郎晩年には最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作者として、佐藤が光太郎を推薦したことなどもあり、交流が復活しました。佐藤は当会の祖・草野心平ともども「連翹忌」の名付け親の一人ともなりました。

この絵を描いてもらった経緯、モデルを務めていた間の光太郎とのやりとりなどは、佐藤の『小説髙村光太郎像』(昭和31年=1956)に詳細が語られています。

光太郎が油彩で描いた自画像ではない他者の肖像画は5点ほどしか現存が確認出来ていません。そのうちの1点。貴重なものです。

ちなみに他の油絵による肖像画は以下。
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左は「松岡玉治郎像」(大正2年=1913)。松岡は上高地の案内人です。右は「渡辺湖畔の娘道子像」(大正7年=1918)。新潟佐渡島の歌人・渡邊湖畔の息女で、3歳で夭折した道子の肖像。こちらは写真から描かれました。
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親友だった水野葉舟の両親、水野勝興・実枝夫妻(大正6年=1917)。

005それから近所に住んでいた美術評論家・関如来の著書『五色の酒』(大正3年=1914)の口絵に使われた関の肖像画。キャンバスではなくスケッチ板に短時間で描かれたそうです。

こちらは当方、現物を見た記憶がありません。手元の書籍類にカラー画像も見当たらず、現存しているのかどうか不明です。ただ、サイズが「43×31.3㌢」と明記されていて、亡失作品であればそれも変な話ですし、どこかに現存しているのかも知れません。情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。

佐藤春夫像を含め、これらすべて大正前半の作です。この頃、光太郎が油絵の頒布会を行っていたことにも関わるのでしょう。

さて、和歌山の「コレクションの50年」。今週いっぱいですが、お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

佐藤勝治氏来訪、山口へ小屋を建つる事を依頼、


昭和20年(1945)8月15日の日記より 光太郎63歳

昨日ご紹介した玉音放送を聴いた件の前に、この一節があります。

佐藤勝治は花巻郊外太田村山口地区の山口分教場の教師でした。太田村移住は佐藤の薦めによるところが大きかったようですが、終戦と同時に、東京へは帰らないという決断をしていた点が興味深いところです。