昨日、歌手の二代目コロムビア・ローズさんが8月に亡くなっていたというニュースが出ました。
真っ先に報じた『デイリースポーツ』さん。
初代が追悼「年上の私よりも先に逝くだなんて…」
二代目と長きにわたり親交があった初代コロムビア・ローズは「二代目を選ぶ時、一番声がきれいな子として選んだのが彼女でした。ロスにいた時も『お姉さま元気?』とよく電話をいただいた。先日もふと会いたいな~と思っていたのに、まさか10歳近く年上の私よりも先に逝くだなんて…。心が清らかでやさしい芸能人らしくない子。私より数倍しっかりした女性でした。本当にお疲れさま。ゆっくり休みなさいね」と話した。
ローズさんというと真っ先に出てくる「智恵子抄」。昭和39年(1964)1月のリリースで、かなりのヒット曲となり、ローズさん、この年の紅白歌合戦にこの曲でご出演なさいました。作詞は智恵子の故郷・二本松にほど近い小野町ご出身の故・ 氏、作曲は故・戸塚三博氏でした。
翌年にはこのトリオで「二十四の瞳」をリリース。B面が「智恵子のふるさと」でした。
平成11年(1999)には「智恵子抄」と「智恵子のふるさと」を一本にまとめたカセットテープも発売されました。
「智恵子抄」のヒットを受け、昭和39年(1964)8月にはソノシートブックが発行されています。題して『智恵子のふるさとを訪ねて◆コロムビア・ローズ愛唱歌集◆』。ちなみに「智恵子抄」は二本松で、現在も防災無線の正午の音楽にも使われています。
昭和30年代の二本松とその周辺の風景がふんだんに掲載されており、貴重な資料でもあります。
当時は人手に渡っていた智恵子生家。二本松駅も。
霞ヶ城址の智恵子抄詩碑。
阿武隈河畔と岳温泉の鏡ヶ池。
安達太良山。
「智恵子抄」のヒットにより、観光客増加に貢献ということで、ローズさん、丘氏、戸塚氏へ市から表彰がなされた場面も。
大隣寺さんにある二本松少年隊の墓、そして昭和9年(1934)に智恵子が療養していた千葉九十九里浜も。
ローズさん、最近、テレビで見かけないとは思っていましたが、アメリカご在住ということで、時折帰国なさってコンサートやテレビの歌謡番組などにご出演されるというスタイルだったため、まさか日本で闘病生活をなさっているとは思いませんでした。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
午前北上川畔イギリス海岸といへる河原に千代田さんとゆく、焚火などす、
「イギリス海岸」は、宮沢賢治が名付けました。ここで亡き賢治を偲んだのでしょう。「千代田さん」は、光太郎同様に宮沢家に疎開していた編集者で、戦後には吉本隆明とも交流がありました。
真っ先に報じた『デイリースポーツ』さん。
二代目コロムビア・ローズさん8月に死去していた…15年から闘病
「智恵子抄」「二十四の瞳」などのヒット曲を持ち、1964年の第15回NHK紅白歌合戦にも出場した、歌手の二代目コロムビア・ローズ(本名・宗紀子)さんが、今年8月16日に心不全のため神奈川県大和市内の病院で死去していたことが7日、分かった。78歳だった。米・ロサンゼルスを拠点に音楽活動を行っていたが、近年は体調を崩し帰国。入退院を繰り返していた。葬儀・告別式は、親族らによる密葬で執り行われた。
昭和の音楽史の1ページを飾ったスター歌手が、また1人天国へと旅立った。
関係者によると、米・ロサンゼルスを拠点に音楽活動を行っていた二代目コロムビア・ローズさんは、体調を崩したことから2015年夏に帰国。日本で闘病生活を送っていた。その後は入退院を繰り返していたが、今年8月16日に心不全のため、その生涯に幕を閉じたという。
体調を崩す直前の2014年11月に日本で出演した「第41回日本歌手協会音楽祭」が、最後のステージとなった。その時はデビュー曲「白ばら紅ばら」、初代コロムビア・ローズと一緒に「東京のバスガール」を元気に歌唱した。
二代目ローズさんは1942年4月29日生まれ。初代の引退により行われたオーディションで1位となり、62年8月に「白ばら紅ばら」でデビュー。同年11月に初代のヒット曲「東京のバスガール」をリリースし、初代の名を継ぐ人気スターとなった。64年には高村光太郎の詩集をモチーフにした「智恵子抄」が大ヒットし、同年のNHK紅白歌合戦に初出場。その後も文芸路線の「二十四の瞳」がヒットした。
また歌手活動と平行し大学で児童心理学を学び、卒業後は海外に留学。その後はロサンゼルスに拠点を置き、音楽活動に加え後進の指導などを行っていた。年に数回来日しコンサートや「NHK歌謡コンサート」などの音楽番組に出演。なお、二代目ローズさんが最後に出演した14年のステージの模様は、21年元日のBSテレ東「日本歌手協会新春12時間歌謡祭」の中で追悼企画として放送される。
初代が追悼「年上の私よりも先に逝くだなんて…」
二代目と長きにわたり親交があった初代コロムビア・ローズは「二代目を選ぶ時、一番声がきれいな子として選んだのが彼女でした。ロスにいた時も『お姉さま元気?』とよく電話をいただいた。先日もふと会いたいな~と思っていたのに、まさか10歳近く年上の私よりも先に逝くだなんて…。心が清らかでやさしい芸能人らしくない子。私より数倍しっかりした女性でした。本当にお疲れさま。ゆっくり休みなさいね」と話した。
ローズさんというと真っ先に出てくる「智恵子抄」。昭和39年(1964)1月のリリースで、かなりのヒット曲となり、ローズさん、この年の紅白歌合戦にこの曲でご出演なさいました。作詞は智恵子の故郷・二本松にほど近い小野町ご出身の故・ 氏、作曲は故・戸塚三博氏でした。
翌年にはこのトリオで「二十四の瞳」をリリース。B面が「智恵子のふるさと」でした。
平成11年(1999)には「智恵子抄」と「智恵子のふるさと」を一本にまとめたカセットテープも発売されました。
「智恵子抄」のヒットを受け、昭和39年(1964)8月にはソノシートブックが発行されています。題して『智恵子のふるさとを訪ねて◆コロムビア・ローズ愛唱歌集◆』。ちなみに「智恵子抄」は二本松で、現在も防災無線の正午の音楽にも使われています。
昭和30年代の二本松とその周辺の風景がふんだんに掲載されており、貴重な資料でもあります。
当時は人手に渡っていた智恵子生家。二本松駅も。
霞ヶ城址の智恵子抄詩碑。
阿武隈河畔と岳温泉の鏡ヶ池。
安達太良山。
「智恵子抄」のヒットにより、観光客増加に貢献ということで、ローズさん、丘氏、戸塚氏へ市から表彰がなされた場面も。
大隣寺さんにある二本松少年隊の墓、そして昭和9年(1934)に智恵子が療養していた千葉九十九里浜も。
ローズさん、最近、テレビで見かけないとは思っていましたが、アメリカご在住ということで、時折帰国なさってコンサートやテレビの歌謡番組などにご出演されるというスタイルだったため、まさか日本で闘病生活をなさっているとは思いませんでした。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
午前北上川畔イギリス海岸といへる河原に千代田さんとゆく、焚火などす、
昭和20年(1945)7月3日の日記より 光太郎63歳
「イギリス海岸」は、宮沢賢治が名付けました。ここで亡き賢治を偲んだのでしょう。「千代田さん」は、光太郎同様に宮沢家に疎開していた編集者で、戦後には吉本隆明とも交流がありました。