盛岡ご在住の加藤千晴氏から、ご著書が届きました。題して『高村光太郎と共に』。B6判で40ページ程の冊子です。
加藤氏、光太郎と年齢の離れた従妹、加藤照さんのご子息で、ご自身も赤ちゃんの時に光太郎の膝の上によじ登ったという方です。平成28年(2016)の花卷高村祭では、記念講演をなさいました。照さんは満100歳を超えられているはずですが、まだお元気のようです。
内容的には氏のフェイスブックへの投稿をまとめられたものだそうで、氏が以前に出された『光太郎と女神たち』とかぶる部分もありますが、親族のお立場から見ての光太郎像ということで、貴重なものです。
下記は扉ですが、こうした画像もふんだんに掲載されています。
加藤氏、光太郎と年齢の離れた従妹、加藤照さんのご子息で、ご自身も赤ちゃんの時に光太郎の膝の上によじ登ったという方です。平成28年(2016)の花卷高村祭では、記念講演をなさいました。照さんは満100歳を超えられているはずですが、まだお元気のようです。
内容的には氏のフェイスブックへの投稿をまとめられたものだそうで、氏が以前に出された『光太郎と女神たち』とかぶる部分もありますが、親族のお立場から見ての光太郎像ということで、貴重なものです。
下記は扉ですが、こうした画像もふんだんに掲載されています。
表紙画像の扇子には、光太郎の長姉にして狩野派の日本画を学び、しかし数え16歳で病没した咲(さく)の手になる絵が描かれています。
扉の画像は左上から、ニューヨーク滞在中の光太郎、ニューヨークからの光太郎絵葉書、咲、加藤氏のお祖母様(=光太郎の叔母)・中山ふゆ、智恵子。
ご興味のある方、加藤氏フェイスブックのリンクはこちら。ただ、公開設定がどうなっているのかよくわかりませんので、たどり着けないという場合はご寛恕の程。
【折々のことば・光太郎】
小豆の入つた赤飯を喰ひて、はかなく幼き日を思ひ出したり。真に此の赤飯をappreciateし、心から感謝の意を以て膳に向ふ人は余の家に余の母あるのみならん。
「appreciate」は英語で「感謝」。家族の中で光太郎の母・わかだけは、一家の生活が貧しかった光太郎の幼少期から、食べられることへの感謝の意を常に持ち続けていたというわけでしょう。父・光雲や、生活が安定してから育った光太郎の弟妹達は、台所のやりくりにはあまり意識が向かなかったということなのかも知れません。
右は上記加藤氏御著掲載のわかの写真。前著『光太郎と女神たち』にも小さく載っていましたが、今度は大きめに掲載されています。他では見たことのない写真でした。
どうも光太郎の顔立ちは、光雲よりわかに似たように思われます。
扉の画像は左上から、ニューヨーク滞在中の光太郎、ニューヨークからの光太郎絵葉書、咲、加藤氏のお祖母様(=光太郎の叔母)・中山ふゆ、智恵子。
ご興味のある方、加藤氏フェイスブックのリンクはこちら。ただ、公開設定がどうなっているのかよくわかりませんので、たどり着けないという場合はご寛恕の程。
【折々のことば・光太郎】
小豆の入つた赤飯を喰ひて、はかなく幼き日を思ひ出したり。真に此の赤飯をappreciateし、心から感謝の意を以て膳に向ふ人は余の家に余の母あるのみならん。
明治43年(1910)9月15日の日記より
光太郎28歳
光太郎28歳
「appreciate」は英語で「感謝」。家族の中で光太郎の母・わかだけは、一家の生活が貧しかった光太郎の幼少期から、食べられることへの感謝の意を常に持ち続けていたというわけでしょう。父・光雲や、生活が安定してから育った光太郎の弟妹達は、台所のやりくりにはあまり意識が向かなかったということなのかも知れません。
右は上記加藤氏御著掲載のわかの写真。前著『光太郎と女神たち』にも小さく載っていましたが、今度は大きめに掲載されています。他では見たことのない写真でした。
どうも光太郎の顔立ちは、光雲よりわかに似たように思われます。