けっこう前に始まっていたのですが……。
本企画展では郷土・資料調査室で所有する浮世絵・絵はがき・地図等の貴重資料を用いて、明治初期から昭和に至るまでの上野公園の歴史をご紹介します。
【折々のことば・光太郎】
赤貧の醍醐味、是れだ。赤貧を何も好むでは無いが、人間の徳操、品位といふものがいかなる場合に於いても維持せられ得るものだといふ事を実験したいのだ。
セザンヌなどとも交流があり、若い頃は「赤貧洗うが如し」だったというフランスの作家、エミール・ゾラの伝記を読んでの感想です。
光太郎が生まれた頃は、廃仏毀釈の影響で、仏師であった光雲の注文仕事は激減。酉の市の熊手や洋傘の柄などを作って凌いでいたそうです。それが、明治20年(1887)には皇居造営に伴う内部彫刻の仕事を得、さらに2年後には岡倉天心の推挙で美校に奉職。このころから一家の生活は安定していきました。
しかし光太郎はのちに家督相続を放棄。智恵子と二人、赤貧というほどではないにせよ、豊かではない生活を続けます。
そうした中でも「貧すれば鈍する」とはならなかったわけで、見習いたいものです。
企画展「上野公園~近代の歩み~」
期 日 : 前期 2020年 9月18日(金曜日)~10月14日(水曜日)
中期 2020年10月16日(金曜日)~11月18日(水曜日)
後期 2020年11月20日(金曜日)~12月13日(日曜日)
会 場 : 台東区立中央図書館 台東区西浅草3丁目25番16号
時 間 : 月~土 9:00〜20:00 日 9:00~17:00
休 館 : 第3木曜日
料 金 : 無料
上野の山は、江戸時代、天海により寛永寺が建てられ、将軍家の菩提寺がある桜や蓮の名所として、一大行楽地となりました。上野戦争を経て、日本初の公園になると、博物館、美術館などが建てられ、現在の文化施設が集まる地域として整備されていきました。
本企画展では郷土・資料調査室で所有する浮世絵・絵はがき・地図等の貴重資料を用いて、明治初期から昭和に至るまでの上野公園の歴史をご紹介します。
みなさまのご来場をお待ちしております。
上野といえば、東京美術学校の教授と生徒だった、光雲・光太郎父子のホームグラウンドのひとつですね。
そこで、美校として依頼を受け、光雲が主任となって制作された「西郷隆盛像」(明治31年=1898)が鎮座ましましています。
遡って明治10年(1877)には、第一回内国勧業博覧会が上野で開催され、光雲は師匠・高村東雲の代作で白衣観音像を出品し、一等龍紋賞に輝きました。
光太郎も生まれは下谷区西町三番地(現・台東区東上野)でした。
下って大正後期、光太郎は上野動物園に足繁く通い、「傷をなめる獅子」(大正14年=1925)、「苛察」(大正15年=1926)、「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)、など、連作詩「猛獣篇」所収の詩のいくつかをを構想します。
そこで、美校として依頼を受け、光雲が主任となって制作された「西郷隆盛像」(明治31年=1898)が鎮座ましましています。
遡って明治10年(1877)には、第一回内国勧業博覧会が上野で開催され、光雲は師匠・高村東雲の代作で白衣観音像を出品し、一等龍紋賞に輝きました。
光太郎も生まれは下谷区西町三番地(現・台東区東上野)でした。
下って大正後期、光太郎は上野動物園に足繁く通い、「傷をなめる獅子」(大正14年=1925)、「苛察」(大正15年=1926)、「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)、など、連作詩「猛獣篇」所収の詩のいくつかをを構想します。
そうした近代の上野を、当時の資料を基に紹介する展示、おもしろそうですね。
ちなみに当方、同館で平成29年(2017)に開催された同様の展示「台東区博物館ことはじめ」を拝見しました。こうした取り組みに積極的である同館の意気やよしと存じます。
コロナ禍には充分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。
ちなみに当方、同館で平成29年(2017)に開催された同様の展示「台東区博物館ことはじめ」を拝見しました。こうした取り組みに積極的である同館の意気やよしと存じます。
コロナ禍には充分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
赤貧の醍醐味、是れだ。赤貧を何も好むでは無いが、人間の徳操、品位といふものがいかなる場合に於いても維持せられ得るものだといふ事を実験したいのだ。
明治36年(1903)7月7日の日記より 光太郎21歳
セザンヌなどとも交流があり、若い頃は「赤貧洗うが如し」だったというフランスの作家、エミール・ゾラの伝記を読んでの感想です。
光太郎が生まれた頃は、廃仏毀釈の影響で、仏師であった光雲の注文仕事は激減。酉の市の熊手や洋傘の柄などを作って凌いでいたそうです。それが、明治20年(1887)には皇居造営に伴う内部彫刻の仕事を得、さらに2年後には岡倉天心の推挙で美校に奉職。このころから一家の生活は安定していきました。
しかし光太郎はのちに家督相続を放棄。智恵子と二人、赤貧というほどではないにせよ、豊かではない生活を続けます。
そうした中でも「貧すれば鈍する」とはならなかったわけで、見習いたいものです。