11月15日(日)、二本松市街での市民講座講師を終え、会場近くの二本松霞ヶ城を散策した後、この日の宿泊先、安達太良山中腹の岳温泉さんに愛車を向けました。昨年の安達太良山山開きの際以来です。
今回は「あだたらの宿扇や」さんに泊めていただきました。こちらは初めてでした。
老舗らしく、売店では戦前の絵葉書の復刻版が売られていました。
こちらを選んだのは、光太郎の書が飾られているという情報を得たためでした。チェックインの際、フロントカウンターのすぐ向かいに、問題の書があるのに気付き、手続きを済ませ、部屋に荷物を置くとすぐにまたフロントへ。
「けつきよく谷川の一本橋もブゥルヴァルもおんなじ事だ」と読みます。漢字と仮名の使い方は異なりますが、昭和22年(1947)11月2日に作られ、翌年元日発行の雑誌『群像』に発表された詩、「脱卻の歌」の一節です。「卻」は「却」の正字です。
脱卻の歌
自らの半生を20篇の詩にまとめ、戦時中の翼賛活動への反省を綴った連作詩「暗愚小伝」を書き上げ、「あの聖なるもののリビドが落ちた。」と、盲目的な天皇崇拝から逃れることができた、と謳っています。
「ブウルヴアル」は仏語「boulevard」。街路樹や側道などを備えた広い道路で、通常は片側二車線以上の広さがあって、自転車や歩行者のための側道などを伴い、街路樹など景観にも配慮がされるものです。元々は19世紀パリで構築されたシャンゼリゼ通りを代表例とするスタイルです。
それが「谷川のいっぽん橋」と同じというのは、どういうことでしょうか。ヒントは昭和28年(1953)2月に行われた中山文化研究所 婦人文化講座の講演筆録「炉辺雑感」の、次の一節にありました。
こちらでは「皇居前広場」となっていますが、同じことですね。要するに、ここしかない、という道を歩いていれば落ちることはない、と。
この書、昨年、他に光太郎の生写真などとともに、ネットオークションに出品されたもの(当方も入札しましたが、あっさり負けました(笑))です。そこで、女将さんに「他に光太郎の写真などが一括であるはずなんですが」と尋ねたところ、その時はわからない、という返答でしたが、夕食、さらに入浴後、部屋に内線電話があり、「写真がありました!」。またフロントに飛んでいきました(笑)。
そこで見せていただいたのがこちら。
最後の写真、上記「脱卻の歌」の右に載せた写真と同じですね。上記は『高村光太郎全集』第10巻の口絵、それから昔、岩手で売られていたテレホンカードです。
この写真、いつ、誰が撮影したものかよくわからなかったのですが(もしかすると、当会顧問であらせられた故・北川太一先生はご存じだったのかも知れません)、これで判明しました。さらに言うならネガまで残っていましたので。
というのは、書や写真と共にこんなものも一括で売りに出ていまして……。
「さいとうじゆうじゆ」とありますが、齋藤充司氏。大正11年(1923)、岩手生まれの方です。兵役を経て昭和21年(1947)から同57年(1982)まで小学校教員を務め、教員仲間(写真の女性達も?)らとたびたび旧太田村の光太郎の山小屋を訪問しました。また、日本美術家連盟会員、岩手県芸術祭洋画部門理事長、新象作家協会会員、北上詩の会会員でもありました。ご存命なのか、そこは不明です。
昭和25年(1950)3月13日、光太郎は花巻の南、黒沢尻(現・北上市)の文化ホールで講演を行っています。その筆録は『高村光太郎全集』には漏れていたのですが、平成16年(2004)、北上市教育委員会発行の『きたかみ文学散歩』という書籍に掲載されており、当方ライフワークの「光太郎遺珠」に転載させていただきました。その筆録を行ったのが齋藤氏であると、『きたかみ文学散歩』に記述がありました。
上記は筆録をまとめるのに使ったメモ。おそらく講演を聴きながら、齋藤氏がメモを取ったのだと思われます。内容的には講演筆録の内容とほぼ一致していました。ただ、筆録にない事柄も。
写真に関し、『高村光太郎全集』に、齋藤氏宛の書簡が2通掲載されています。
1通目は昭和25年(1950)6月5日付け。
わざわざ写真を送つて下さつて感謝します。一九五〇年のいい記念になります、 並んでゐる女性のうつくしい笑ひを愉快に存じます、 山はけふ雨、ゐろりのそばで静かに蛙の声をきいています、 畑の手入が中々いそがしく、この雨がやむと又草とりをせねばなりません、トマトがだんだん育つてきました、
2通目が同年9月1日付け。
写真感謝、いい記念になります、中々よくとれるのでおもしろいです、小生のナタマメ烟管は滑稽でした、女性の円陣は壮観です、御礼まで、
このうち、9月1日付けにある「写真」が、上掲画像の写真と思われます。「烟管」はキセル。「ナタマメ烟管」はナタマメ(鉈豆)の形をしたキセルだそうです。「女性の円陣」の写真もありますね。
1通目の「写真」は、郵便物等の授受を記録したノート(通信事項)に、「齋藤充司といふ人よりテカミ(黒沢尻スナツプ写真入)」とあり、上掲写真はすべて花巻郊外旧太田村の光太郎山小屋でのものなので、一致しません。
残念ながら、昭和25年(1950)の光太郎日記は失われているので、これ以上の詳細が分かりません。書は講演をした際か、9月1日付け書簡にある写真を撮った時か、あるいはさらに後(昭和26年=1956の日記に、齋藤氏が山小屋に来た記述が2回あります)かもしれません。
いずれにしても、貴重な物が残っていて、感動いたしました。
ここで時計の針を戻しますが、飾られていた書を最初に拝見した時、ふと左の額に眼を移すと……。
「どひゃー!」という感じでした。智恵子の紙絵の真作です。
これも、以前、ネットオークションに出ていたもので、上記の書や写真とは別に入手されていたのか、というわけでした。
他に、同じ展示コーナーには、二本松出身で、智恵子をモチーフにした絵も複数描かれている故・大山忠作画伯(女優・一色采子さんのお父さま)の絵、陶芸界で唯一「高村光太郎賞」を受賞した加守田章二や、光太郎と交流のあった濱田庄司らの焼き物などが展示されていました。
今回お会い出来ませんでしたが、オーナーの方が美術愛好家だそうで、皆さんにいいものを見て欲しい、という意気込みだそうです。そういうわけで、二本松といえば光太郎智恵子ゆかりの地でもあり、光太郎の書や智恵子の紙絵も買われたのでしょう。死蔵にならず、いい方に買っていただいてよかったと思います。
ちなみに光太郎の著書も飾られていました。サイン入りなどではありませんでしたが。
この夜は、幸せな気分で床に就きました。
翌朝、朝食前に朝風呂。昨夜は入浴時にスマホを置いてきたので、この時にパチリ。
大浴場は、男湯が「光太郎の湯」、女湯は「智恵子の湯」だそうで。
その後、湯冷ましを兼ねて散歩。この朝はあいにくの雨でしたが、朝日が昇り、虹が出ていました。
宿の近くの温泉神社さん。
「菊手水(きくちょうず)」だそうで。
こちらはかつて源泉から湯を引くのに使っていた樋。
いい感じですね。
この後、朝食を頂き、チェックアウトして下山。途中はなんと霙(みぞれ)まじりでした。旧安達町の「道の駅安達智恵子の里」、さらに智恵子生家/智恵子記念館へ。以下、明日。
【折々のことば・光太郎】
尾上菊五郎の死、惜ミてもあまりあることなるかな。しかも我に於いて殊にしか思はるゝことのあるは、予てより、われ一生の事業としてわが認めて真に芸術家たりとなす古今東西の名士の像を作らんと心に期せしなるがこの梅幸子のごときわがその数の内の一人とて生存中なるべくは写しおかんものと思ひをりしを。
「尾上菊五郎」は5代目。「梅幸」は菊五郎の養子です。
今回は「あだたらの宿扇や」さんに泊めていただきました。こちらは初めてでした。
老舗らしく、売店では戦前の絵葉書の復刻版が売られていました。
こちらを選んだのは、光太郎の書が飾られているという情報を得たためでした。チェックインの際、フロントカウンターのすぐ向かいに、問題の書があるのに気付き、手続きを済ませ、部屋に荷物を置くとすぐにまたフロントへ。
「けつきよく谷川の一本橋もブゥルヴァルもおんなじ事だ」と読みます。漢字と仮名の使い方は異なりますが、昭和22年(1947)11月2日に作られ、翌年元日発行の雑誌『群像』に発表された詩、「脱卻の歌」の一節です。「卻」は「却」の正字です。
脱卻の歌
まことに爽やかな精神の脱卻だが、
別の世界でこの脱卻をおれも遂げる。
一切を脱卻すれば無価値にいたる。
めぐりめぐつて現世がそのまま
無価値の価値に立ちかへり、
四次元世界がそこにある。
絶対不可避の崖っぷちを
おれは平気で前進する。
人間の足が乗る以上、
けつきよく谷川のいっぽん橋も
ブウルバアルも同じことだ。
よはひ耳順を越えてから、
おれはやうやく風に御せる。
六十五年の生涯に
絶えずかぶさってゐたあのものから
たうとうおれは脱卻した。
どんな思念に食ひ入るときでも
無意識中に潜在してゐた
あの聖なるもののリビドが落ちた。
地のあるところ唯ユマニテのカオスが深い。
見なほすばかり事物は新鮮、
なんでもかでも珍奇の泉。
廓然無聖は達磨の事だが、
ともかくおれは昨日生まれたもののやうだ。
白髪の生えた赤んぼが
岩手の奥の山の小屋で、
甚だ幼稚な単純な
しかも洗いざらひな身上で、
胸のふくらむ不思議な思に
脱卻の詩を書いてゐる。
自らの半生を20篇の詩にまとめ、戦時中の翼賛活動への反省を綴った連作詩「暗愚小伝」を書き上げ、「あの聖なるもののリビドが落ちた。」と、盲目的な天皇崇拝から逃れることができた、と謳っています。
「ブウルヴアル」は仏語「boulevard」。街路樹や側道などを備えた広い道路で、通常は片側二車線以上の広さがあって、自転車や歩行者のための側道などを伴い、街路樹など景観にも配慮がされるものです。元々は19世紀パリで構築されたシャンゼリゼ通りを代表例とするスタイルです。
それが「谷川のいっぽん橋」と同じというのは、どういうことでしょうか。ヒントは昭和28年(1953)2月に行われた中山文化研究所 婦人文化講座の講演筆録「炉辺雑感」の、次の一節にありました。
山に渓川がある。一本橋がかゝつている。僕等は平気でわたるが、東京から来る人はわたれない。あぶないと思うからわたれない。危ないと思うと落ちる。一本きりの道――これより他ないと思うとなんでもない。これより他ないと思わないと落ちる。つまり精神が遅緩していると落ちる。僕等は一本橋にいつたつて、それが道だと思うから、皇居前広場を歩くのと変らない。おつこちると大変だと思うから落つこちる。吸込まれてしまう。人間の精神が渓川の深さに幻惑されてしまう。他の事でもあんなことが沢山あると思う。
こちらでは「皇居前広場」となっていますが、同じことですね。要するに、ここしかない、という道を歩いていれば落ちることはない、と。
この書、昨年、他に光太郎の生写真などとともに、ネットオークションに出品されたもの(当方も入札しましたが、あっさり負けました(笑))です。そこで、女将さんに「他に光太郎の写真などが一括であるはずなんですが」と尋ねたところ、その時はわからない、という返答でしたが、夕食、さらに入浴後、部屋に内線電話があり、「写真がありました!」。またフロントに飛んでいきました(笑)。
そこで見せていただいたのがこちら。
最後の写真、上記「脱卻の歌」の右に載せた写真と同じですね。上記は『高村光太郎全集』第10巻の口絵、それから昔、岩手で売られていたテレホンカードです。
この写真、いつ、誰が撮影したものかよくわからなかったのですが(もしかすると、当会顧問であらせられた故・北川太一先生はご存じだったのかも知れません)、これで判明しました。さらに言うならネガまで残っていましたので。
というのは、書や写真と共にこんなものも一括で売りに出ていまして……。
「さいとうじゆうじゆ」とありますが、齋藤充司氏。大正11年(1923)、岩手生まれの方です。兵役を経て昭和21年(1947)から同57年(1982)まで小学校教員を務め、教員仲間(写真の女性達も?)らとたびたび旧太田村の光太郎の山小屋を訪問しました。また、日本美術家連盟会員、岩手県芸術祭洋画部門理事長、新象作家協会会員、北上詩の会会員でもありました。ご存命なのか、そこは不明です。
昭和25年(1950)3月13日、光太郎は花巻の南、黒沢尻(現・北上市)の文化ホールで講演を行っています。その筆録は『高村光太郎全集』には漏れていたのですが、平成16年(2004)、北上市教育委員会発行の『きたかみ文学散歩』という書籍に掲載されており、当方ライフワークの「光太郎遺珠」に転載させていただきました。その筆録を行ったのが齋藤氏であると、『きたかみ文学散歩』に記述がありました。
上記は筆録をまとめるのに使ったメモ。おそらく講演を聴きながら、齋藤氏がメモを取ったのだと思われます。内容的には講演筆録の内容とほぼ一致していました。ただ、筆録にない事柄も。
写真に関し、『高村光太郎全集』に、齋藤氏宛の書簡が2通掲載されています。
1通目は昭和25年(1950)6月5日付け。
わざわざ写真を送つて下さつて感謝します。一九五〇年のいい記念になります、 並んでゐる女性のうつくしい笑ひを愉快に存じます、 山はけふ雨、ゐろりのそばで静かに蛙の声をきいています、 畑の手入が中々いそがしく、この雨がやむと又草とりをせねばなりません、トマトがだんだん育つてきました、
2通目が同年9月1日付け。
写真感謝、いい記念になります、中々よくとれるのでおもしろいです、小生のナタマメ烟管は滑稽でした、女性の円陣は壮観です、御礼まで、
このうち、9月1日付けにある「写真」が、上掲画像の写真と思われます。「烟管」はキセル。「ナタマメ烟管」はナタマメ(鉈豆)の形をしたキセルだそうです。「女性の円陣」の写真もありますね。
1通目の「写真」は、郵便物等の授受を記録したノート(通信事項)に、「齋藤充司といふ人よりテカミ(黒沢尻スナツプ写真入)」とあり、上掲写真はすべて花巻郊外旧太田村の光太郎山小屋でのものなので、一致しません。
残念ながら、昭和25年(1950)の光太郎日記は失われているので、これ以上の詳細が分かりません。書は講演をした際か、9月1日付け書簡にある写真を撮った時か、あるいはさらに後(昭和26年=1956の日記に、齋藤氏が山小屋に来た記述が2回あります)かもしれません。
いずれにしても、貴重な物が残っていて、感動いたしました。
ここで時計の針を戻しますが、飾られていた書を最初に拝見した時、ふと左の額に眼を移すと……。
「どひゃー!」という感じでした。智恵子の紙絵の真作です。
これも、以前、ネットオークションに出ていたもので、上記の書や写真とは別に入手されていたのか、というわけでした。
他に、同じ展示コーナーには、二本松出身で、智恵子をモチーフにした絵も複数描かれている故・大山忠作画伯(女優・一色采子さんのお父さま)の絵、陶芸界で唯一「高村光太郎賞」を受賞した加守田章二や、光太郎と交流のあった濱田庄司らの焼き物などが展示されていました。
今回お会い出来ませんでしたが、オーナーの方が美術愛好家だそうで、皆さんにいいものを見て欲しい、という意気込みだそうです。そういうわけで、二本松といえば光太郎智恵子ゆかりの地でもあり、光太郎の書や智恵子の紙絵も買われたのでしょう。死蔵にならず、いい方に買っていただいてよかったと思います。
ちなみに光太郎の著書も飾られていました。サイン入りなどではありませんでしたが。
この夜は、幸せな気分で床に就きました。
翌朝、朝食前に朝風呂。昨夜は入浴時にスマホを置いてきたので、この時にパチリ。
大浴場は、男湯が「光太郎の湯」、女湯は「智恵子の湯」だそうで。
その後、湯冷ましを兼ねて散歩。この朝はあいにくの雨でしたが、朝日が昇り、虹が出ていました。
宿の近くの温泉神社さん。
「菊手水(きくちょうず)」だそうで。
こちらはかつて源泉から湯を引くのに使っていた樋。
いい感じですね。
この後、朝食を頂き、チェックアウトして下山。途中はなんと霙(みぞれ)まじりでした。旧安達町の「道の駅安達智恵子の里」、さらに智恵子生家/智恵子記念館へ。以下、明日。
【折々のことば・光太郎】
尾上菊五郎の死、惜ミてもあまりあることなるかな。しかも我に於いて殊にしか思はるゝことのあるは、予てより、われ一生の事業としてわが認めて真に芸術家たりとなす古今東西の名士の像を作らんと心に期せしなるがこの梅幸子のごときわがその数の内の一人とて生存中なるべくは写しおかんものと思ひをりしを。
明治36年(1903)3月26日の日記より 光太郎21歳
「尾上菊五郎」は5代目。「梅幸」は菊五郎の養子です。