新刊です。
分野としては、絵画、工芸、建築などと多岐に亘ります。ジャポニスムの影響も夙に指摘されていますが、逆に日本に与えた影響はあまり大きくなかったというのが定説のようです。
ただ、建築の方面では、大正9年(1920)、東京帝国大学(現・東京大学)工学部建築学科卒の建築家たちが、ウィーン分離派の動向に感銘を受けて建築の芸術性を標榜し、「分離派建築会」を結成しました。メンバーは堀口以外に石本喜久治、瀧澤眞弓、森田慶一、山田守、矢田茂ら。
本書はその「分離派建築会」についてのもので、現在、パナソニック汐留美術館さんで開催中の「分離派建築会100年展建築は芸術か?」とリンクしている部分もあるのかな、という感じです。
その分離派建築会の話に入る前段で、神奈川県立近代美術館長・水沢勉氏がウィーン分離派と日本との数少ない関連の例として、智恵子による雑誌『青鞜』表紙絵について玉稿を寄せられています。題して「分離派と日本 分光と鏡像——雑誌『青鞜』創刊号表紙絵をきっかけに」。氏と連絡を取ったところ、贈って下さいまして、恐縮の至りです。
平成29年(2017)に水沢氏、智恵子による女神像的な『青鞜』創刊号の表紙絵(中央下画像)、ウィーン分離派のヨーゼフ・エンゲルハルトという画家の寄木細工作品(左下画像)を模写したものであることを突き止められました。詳しくはこちら。
その件を中心に、さらに同じ『青鞜』で同一の図題ながら、若干の変更が見られるバージョン(右上画像・『青鞜』第2巻第8号 大正元年=1912)についても言及されています。
また、エンゲルハルトの寄木細工は、元々、セントルイス万博(明治37年=1904)に出品されたものですが、昭和18年(1943)に書かれたエンゲルハルトの回想文には、「いまニューヨークのある邸宅に飾られています」とのこと。未だ現存しているとすれば、是非見てみたいものです。
その他、相模女子大学教授・南明日香氏の「一九一〇年前後の美術における「創作」意識」では、日本に於ける文芸・美術雑誌が分離派建築会に与えた影響といった観点から『早稲田文学』、『方寸』、『白樺』などに注目、それらに寄稿していた光太郎に触れられています。
これも寡聞にして存じませんで、汗顔の至りでしたが、『早稲田文学』の明治43年(1910)8月号に、神田淡路町に光太郎が開いた画廊・琅玕洞の内部を描いた正宗得三郎の挿画が載っていた由。また、左上の人物は光太郎と思われます。
ちなみに南氏、従来不明だった光太郎のさまざまな翻訳の原典を、多数突き止められている方です。
さて、『分離派建築会 日本のモダニズム建築誕生』。なかなか高価な書籍ですが、ぜひお買い求め下さい。
【折々のことば・光太郎】
私の行く道は寂しいけれども、清らかで、恍惚と栄光とに満ちてゐます。
今年発見した、ブロンズ彫刻「手」についての新発見の文章から。
大正8年(1919)といえば、智恵子もまだ健康を害しておらず、光太郎自身、彫刻家として脂ののった時期。そこで「恍惚と栄光とに満ちてゐます」。ただ、智恵子と二人、俗世間とは極力交渉を断とうとしていた時期でもあり、「寂しいけれども」なのでしょう。
大正元年(1912)の『第一回ヒユウザン会展覧会目録』に発表された詩「さびしきみち」を彷彿とさせられます。
さびしきみち
全編かな書き。これは一字一句を自らの内部に刻みつけるように書いたから、とする説が有力です。
分離派建築会 日本のモダニズム建築誕生
2020年10月20日 田路貴浩編 京都大学学術出版会 定価4,400円+税内容紹介
我々は起つ。/過去建築圏より分離し、総ての建築をして真に意義あらしめる新建築圏を創造せんがために——東京帝国大学工学部建築学科を卒業した石本喜久治、瀧澤眞弓、堀口捨己、森田慶一、山田守、矢田茂の6人は、「分離派建築会」を結成、様式に目をむけてきた建築界に抗って、彼らは建築における「芸術」を目指した。自由な芸術を求めた彼らがふたたび様式に美を見出すまでの過程を、32の論考であらゆる角度から描き出す。
目次
はじめに [田路貴浩]
I Secessionから分離派建築会へ
分離派の誕生——ミュンヘン、ベルリンそしてウィーン[池田祐子]
オットー・ヴァーグナーの時代の建築芸術——被覆とラウム、そして、生活へ[河田智成]
分離派と日本 分光と鏡像——雑誌『青鞜』創刊号表紙絵をきっかけに[水沢 勉]
はじめに
1 『青鞜』創刊号表紙絵の基本データ
2 イメージ・ソース
3 もう一つの「湖水の女」の表紙絵
おわりに
はじめに
1 『青鞜』創刊号表紙絵の基本データ
2 イメージ・ソース
3 もう一つの「湖水の女」の表紙絵
おわりに
青島とドイツ表現主義[長谷川 章]
II 結成、または建築「創作」の誕生
分離派建築会と建築「創作」の誕生[田路貴浩]
一九一〇年前後の美術における「創作」意識[南明日香]
分離派建築会の「建築・芸術の思想」とその思想史的背景
——和辻哲郎との照応関係から[飯嶋裕治]
分離派への道程——世代間の制作理念からの再考─足立裕司
III 〈構造〉対〈意匠〉?
日本における初期鉄筋コンクリート建築の諸問題[堀 勇良]
分離派登場の背景としての東京帝国大学[加藤耕一]
東京帝国大学における建築教育の再読——学生時代における建築受容の様相[角田真弓]
「構造」と「意匠」および建築家の職能の分離[宮谷慶一]
IV 大衆消費社会のなかでの「創作」
ゼツェッシオン(分離派)の導入[河東義之]
博覧会における建築様式——分離派建築会の前後[天内大樹]
「文化住宅」にみる住宅デザインの多様性の意味[内田青蔵]
大大阪モダニズムと分離派——街に浸透する美意識[橋爪節也]
V 建築における「田園的なもの」
「田園」をめぐる思想の見取り図─杉山真魚
瀧澤眞弓と中世主義——《日本農民美術研究所》の設計を通して─菊地 潤
堀口捨己の田園へのまなざし─田路貴浩
堀口捨己と民藝——常滑陶芸研究所と民藝館を糸口に─鞍田 崇
VI 彫刻へのまなざし
大正〜昭和前期の彫刻家にとっての建築[田中修二]
「リズム」から構想された建築造形[天内大樹]
山田守の創作法——東京中央電信局および聖橋の放物線の出現とその意味[大宮司勝弘]
石本喜久治の渡欧と創作——あるいは二〇世紀芸術と建築の接近[菊地 潤]
VII 「構成」への転回
創作活動の展開[蔵田周忠]
分離派建築会から型而工房へ[岡山理香]
創造・構成・実践——山口文象と創宇社建築会の意識について[佐藤美弥]
「新しき社会技術」の獲得へ向けて
——山口文象の渡独とその背景をめぐって[田所辰之助]
表現から構成へ——川喜田煉七郎におけるリアリティの行方[梅宮弘光]
VIII 散開、そして「様式」再考
古典建築の探究から様式の超克へ——森田慶一のウィトルウィウス論をとおして[市川秀和]
オットー・ワグナー十年祭と岸田日出刀の様式再考
——「歴史的構造派」という視座をめぐって [勝原基貴]
堀口捨己による様式への問いと茶室への遡行 [近藤康子]
自由無礙なる様式の発見——板垣鷹穂・堀口捨己・西川一草亭 [本橋 仁]
おわりに
分離派建築会以後——「創作主体」の行方[田所辰之助]
あとがき
索引
「分離派」は、19世紀末、ミュンヘン、ウィーン、ベルリンをそれぞれ拠点として起こった芸術運動です。フランスのアール・ヌーボーやアンデパンダンの影響を受け、保守的なミュンヘン芸術家組合からの「分離」を図った芸術家たちがまずミュンヘンでその動きを興し、それがウィーン、ベルリンに波及しました。最も有名なのがウィーン分離派。かのグスタフ・クリムトや、エゴン・シーレがその中心でした。分野としては、絵画、工芸、建築などと多岐に亘ります。ジャポニスムの影響も夙に指摘されていますが、逆に日本に与えた影響はあまり大きくなかったというのが定説のようです。
ただ、建築の方面では、大正9年(1920)、東京帝国大学(現・東京大学)工学部建築学科卒の建築家たちが、ウィーン分離派の動向に感銘を受けて建築の芸術性を標榜し、「分離派建築会」を結成しました。メンバーは堀口以外に石本喜久治、瀧澤眞弓、森田慶一、山田守、矢田茂ら。
本書はその「分離派建築会」についてのもので、現在、パナソニック汐留美術館さんで開催中の「分離派建築会100年展建築は芸術か?」とリンクしている部分もあるのかな、という感じです。
その分離派建築会の話に入る前段で、神奈川県立近代美術館長・水沢勉氏がウィーン分離派と日本との数少ない関連の例として、智恵子による雑誌『青鞜』表紙絵について玉稿を寄せられています。題して「分離派と日本 分光と鏡像——雑誌『青鞜』創刊号表紙絵をきっかけに」。氏と連絡を取ったところ、贈って下さいまして、恐縮の至りです。
平成29年(2017)に水沢氏、智恵子による女神像的な『青鞜』創刊号の表紙絵(中央下画像)、ウィーン分離派のヨーゼフ・エンゲルハルトという画家の寄木細工作品(左下画像)を模写したものであることを突き止められました。詳しくはこちら。
その件を中心に、さらに同じ『青鞜』で同一の図題ながら、若干の変更が見られるバージョン(右上画像・『青鞜』第2巻第8号 大正元年=1912)についても言及されています。
また、エンゲルハルトの寄木細工は、元々、セントルイス万博(明治37年=1904)に出品されたものですが、昭和18年(1943)に書かれたエンゲルハルトの回想文には、「いまニューヨークのある邸宅に飾られています」とのこと。未だ現存しているとすれば、是非見てみたいものです。
その他、相模女子大学教授・南明日香氏の「一九一〇年前後の美術における「創作」意識」では、日本に於ける文芸・美術雑誌が分離派建築会に与えた影響といった観点から『早稲田文学』、『方寸』、『白樺』などに注目、それらに寄稿していた光太郎に触れられています。
これも寡聞にして存じませんで、汗顔の至りでしたが、『早稲田文学』の明治43年(1910)8月号に、神田淡路町に光太郎が開いた画廊・琅玕洞の内部を描いた正宗得三郎の挿画が載っていた由。また、左上の人物は光太郎と思われます。
ちなみに南氏、従来不明だった光太郎のさまざまな翻訳の原典を、多数突き止められている方です。
さて、『分離派建築会 日本のモダニズム建築誕生』。なかなか高価な書籍ですが、ぜひお買い求め下さい。
【折々のことば・光太郎】
私の行く道は寂しいけれども、清らかで、恍惚と栄光とに満ちてゐます。
散文「手紙」より 大正8年(1919) 光太郎37歳
今年発見した、ブロンズ彫刻「手」についての新発見の文章から。
大正8年(1919)といえば、智恵子もまだ健康を害しておらず、光太郎自身、彫刻家として脂ののった時期。そこで「恍惚と栄光とに満ちてゐます」。ただ、智恵子と二人、俗世間とは極力交渉を断とうとしていた時期でもあり、「寂しいけれども」なのでしょう。
大正元年(1912)の『第一回ヒユウザン会展覧会目録』に発表された詩「さびしきみち」を彷彿とさせられます。
さびしきみち
かぎりなくさびしけれども
われは
すぎこしみちをすてて
まことにこよなきちからのみちをすてて
いまだしらざるつちをふみ
かなしくもすすむなり
―― そはわがこころのおきてにして
またわがこころのよろこびのいづみなれば
わがめにみゆるものみなくしくして
わがてにふるるものみなたへがたくいたし
されどきのふはあぢきなくもすがたをかくし
かつてありしわれはいつしかにきえさりたり
くしくしてあやしけれど
またいたくしてなやましけれども
わがこころにうつるもの
いまはこのほかになければ
これこそはわがあたらしきちからならめ
かぎりなくさびしけれども
われはただひたすらにこれをおもふ
―― そはわがこころのさけびにして
またわがこころのなぐさめのいづみなれば
みしらぬわれのかなしく
あたらしきみちはしろみわたれり
さびしきはひとのよのことにして
かなしきはたましひのふるさと
こころよわがこころよ
ものおぢするわがこころよ
おのれのすがたこそずいゐちなれ
さびしさにわうごんのひびきをきき
かなしさにあまきもつやくのにほひをあぢはへかし
―― そはわがこころのちちははにして
またわがこころのちからのいづみなれば
全編かな書き。これは一字一句を自らの内部に刻みつけるように書いたから、とする説が有力です。