昨日の続きで、新たに見つけた光太郎ブロンズ彫刻の代表作「手」に言及のある随筆「手」(昭和2年=1927)をご紹介します。

今日は第2段落の途中からで、いわば後半部分です。いよいよ彫刻「手」について言及されます。

手全体の形が其人に似てゐるのは誰でも気がつく事であらう。私が自分の手をモデルにして作つた手の彫刻(今秋田雨雀君所蔵のもの)を見て、水野葉舟君は私の歩く姿に似てゐると言はれた。甚だ微妙な観察であるが、此の類似点は私も確に認めるのである。

昨日ご紹介した分では、葉舟の母の実枝が光太郎の手の形状を褒めたエピソードが紹介されていましたが、息子の葉舟は彫刻「手」のフォルムが光太郎の歩く姿だ、と、ある意味、詩的な指摘(笑)。光太郎自身も、それを認めるにやぶさかでないとしています。この点もこれまでに見つかっていた作品にそういった内容はありませんでした。

秋田雨雀君所蔵のもの」は、元々有島武郎が所蔵していましたが、その自裁に伴い、秋田の手に移りました。現在、竹橋の国立近代美術館さんに収められている「手」がそれです。

この後、一旦、彫刻「手」から離れて、様々な人物の手について。

ユウゴオの手、ロダンの手、シヤヷンヌの手、皆その人の通り、その作品の通りといへる。フランソワ・コツペエの神経質な手などは可笑しい程に彼である。知人の手で深く印象に残つてゐるのは、歌人窪田空穂氏の手で、氏の手の表情は不思議な力があり、又堅靱で、しなやかで、味の深い氏の歌の姿そのままに生きてゐるかと思ふ。今から二十四五年前に見た時の氏の手さへ今だにはつきりおぼえてゐる。此は私事に亘るが一昨年死んだ母の手をあまりまざまざとおぼえてゐるので、その骨と靱帯ばかりのやうな手の事を思出すと懐かしさに胸がふさがる。あの手にもう触れないのかと思ふと堪らなく切ない気がする。今でも寝てゐる時母の手を触覚だけで感じる事がある。歌人の山田邦子さんの指先のつぼまり方の美しさもよくおぼえてゐる。信州上高地の強力嘉門次の四角な手の立派さにも打たれた。

003ユーゴー、ロダン、シャヴァンヌ、コッペ(詩人)らの手については、写真か何かで見た感想でしょうか。

山田邦子」は歌人。明治末の結婚後今井姓となり、大正5年(1916)には光太郎彫刻のモデルを務めていますが、なぜかここでは旧姓の山田で表記されています。

嘉門次」は上條嘉門次。日本近代登山の父・ウォルター・ウェストンの案内人として働いた人物です。したがって、「強力」は「きょうりょく」ではなく「ごうりき」、シェルパ的な意味合いですね。大正2年(1913)、ここにも名の出ている窪田空穂らと共に、さらに智恵子も後から合流し、光太郎は一夏を上高地で過ごしました。その際にウェストンも滞在中で、いろいろ話をしたりしたことが、随筆「智恵子の半生」(昭和15年=1940)などに語られています。ただ、上條の名はこれまで『高村光太郎全集』に見あたりませんでした。やはり会っていたのか、という感じです。

ピヤノを弾く人の指は特別に不思議な発達をする。指の形は時として害はれるが手の甲がすばらしく美しくなる。ホヰスラアは『音楽は分からないがサラサテの指の動くのを見てゐると面白い』と言つた相だが、私も倫敦でキユベリツクのヴアイオリンを聴いた時、その独立した生物のやうな指の動きにびつくりした。指を飼つてゐる人のやうな気がした。三味線でもあの棹を往来して甲どころを押へる指を見てゐるとたまらなく深い味に誘はれる。役者では好きな故か團十郎のが眼に残つてゐる。酒井の太鼓であの柱へかけた手の形が眼前に彷彿する。五代目菊五郎の弁天小僧が例の店の場で烟草入に指をつつ込んだ左の手の美しさも忘れない。

キユベリツク」は、チェコ出身の作曲家、ヴァイオリニストのヤン・クベリーク。光太郎が在英中にその演奏を聴いたという事実も、これまでに確認できていませんでした。

十郎」は九代目市川團十郎、「五代目菊五郎」は五代目尾上菊五郎。「酒井の太鼓」、「弁天小僧」は歌舞伎の演目に関わります。光太郎、彼らの肖像彫刻も手がけましたが、現存が確認出来ていません。下の画像、左が菊五郎像(明治36年=1903)、右は「ピアノを弾く手」(大正7年=1918)です。
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この後で、再びブロンズ彫刻「手」の関連。

日本の仏像の手に美しいものの多いのは言ふまでもない。此頃写真で誰でも見る広隆寺の木彫弥勒菩薩の手は世界の彫刻の中でも稀有なものの一つである。仏の手の印相は皆神秘的で美しいが、施無畏の印相の如きは一番簡単でしかも端厳さと優美さとに満ちてゐる。真言の九字の印は皆気味の悪い程実感の強いもので、初めの臨の三昧耶の印など、何といふ犯し難い備へであらう。
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上の画像は光太郎令甥の写真家、故・髙村規氏撮影になるものですが、これが「施無畏」の相です。通常は観音像などが右手でこの形をとりますが、光太郎は自らの左手をモデルにしたので逆になっています。「一番簡単でしかも端厳さと優美さとに満ちてゐる」、なるほど。

真言の九字の印」は、真言密教に置ける邪気を払う呪文的な印相。「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前」です。
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光太郎の祖父・中島兼松は香具師で、各種寺社仏閣の縁日などにも関わっていたため、こうした呪文などにも通じていたようで、光太郎詩「その年私の十六が来た」(昭和2年=1927)には「おぢいさんは闇の中に起き直つて/急急如律令と九字を切つた」という一節があります。

ここまでで、昨日から続く弟2段落です。

そして最後の第3段落。

 手にウマ手といふ手がある相である。此は先輩白瀧幾之助氏の話であるが、氏の近親が大阪のさかり場で或る料理屋をして居られたといふ事で、料理番を雇ふ時、まづその手を見るのだ相である。すらりとして器用な敏捷な指を持つ料理番よりも、むしろ、づんぐりした太い鈍い指を持つ方を選ぶといふ話で、かういふ手をウマ手と称して其方の人は珍重するといふ事である。十数年前聞いた話であるけれども暗示的なので時々思ひ出す。

この「ウマ手」に関しては、昭和15年(1940)に書かれた評論「高田君の彫刻」にも、やはり白瀧から聞いた話として同じことが書かれていました。

この名人と上手との比較話は昔から何にでもあるが、どうも動かせない真理が中にあるやうだ。昔の木彫の職人の間にも、光り手と錆び手といふ話があつたといふ事を、学生の頃父から聞いた事がある。光り手といふのは其職人の手にかかると何から何まで自然と綺麗になり、道具箱から鑿小刀に至るまでいつのまにかぴかぴか光るやうになつてしまふ人の事を指し、錆び手といふのは、あべこべに自然に何でも薄汚なくなり、鑿其他の刃物の表(おもて)(背面)が黒く錆びついて来る人の事をいふのだ相である。さうして昔からの言ひ伝へでは、光り手の人は上手になり、錆び手の人は名人になるといふ左甚五郎式通りの話である。自分の鑿が光りもせず錆びも為ない処を見ると、僕は上手にも名人にもなれないのかなと思つた事がある。

この件も、昭和13年(1938)に書かれた随筆「手」に同様の記述がありました。

最後は左利きに関して。光雲や高田博厚が左利きだったというのは、当方、存じませんでした。

左利きは器用だと昔から言ふ。親玉はレオナルド・ダ・ヸンチで、彼の手書は多く左手で逆に書いてあるので其れを読むには鏡に映して読む。デツサンの陰影の線が多く左上から右下に向つて走つてゐる。私の父も左利きだが、右手も馴らすので結局左右両手が利く訳である。宮本武蔵は左利きだつたといふ、確證が無いかしらと思ふ。私の友人では彫刻家の高田博厚君が左利きで、時としてレオナルド流に字を逆に書く。高田君の製作は、左利きに甚だ秀でた才能があるといふ事の立派な例證になる。

これで400字詰め原稿用紙7枚程の全文です。
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光太郎が「手」について、実に様々なことを考えつつ制作に当たっていたというのが、如実にわかりますね。ある意味、「手フェチ」に近いのではないかとさえ思われます(笑)。

結局、水野葉舟が指摘した通り、彫刻「手」は光太郎自身の姿の反映といった面があり、様々な手に対する思いや、自身が歩んできた歴史の結晶が彫刻「手」なのではないかと思われます。

今年4月の記事にも書きましたが、今後、彫刻「手」について論考等を書かれる方は、「手紙」、「手」の二篇を参考にしていただきたく存じます。というか、これらを参考にしなければ彫刻「手」を語ることはできませんね。よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

また私は彫刻家である。だから第一部門で選ばれるならわかるが、第二部門では不本意だ

談話筆記「(芸術院会員とは)」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

12月22日『毎日新聞』東京版から。「芸術院会員を拒否 “人選に不明朗” 高村光太郎氏が批判」という記事に附された談話の最後の部分です。

記事本文は以下の通り。

彫刻家であり詩人である高村光太郎氏(七〇)は去月十三日の芸術院会員補充選挙で永井荷風氏らとともに、第二部(文芸部門)の会員に選ばれたが、現在の芸術院のあり方に対する不満から受諾を拒否している。日本芸術院では所定の手続きを経て年内にも正式に文部大臣から任命しようとしていた矢先だったので、高橋誠一郎院長ら首脳部で善後処置について協議しているが、二十一日文部省宇野芸術課長が高村氏を訪問、受諾拒否の理由を書面で芸術院あてに提出してくれるよう申入れた。
高村氏は昭和二十二年十月にも帝国芸術院(日本芸術院の前身)から会員に推挙されたが、当時は岩手県の山中にこもり再び世にでることを好まず辞退したことがあり、こんどで二度目である。この高村氏拒否の理由は芸術院がとかく“養老院”などとウワサのある折から、そのあり方に対する痛烈な批判の言として注目される。高村氏の意見は次の通り。

この後に光太郎談話が入り、さらに高橋誠一郎院長の談話なども続きますが、割愛します。同じ昭和28年(1953)12月26日執筆の「日本芸術院のことについて――アトリエにて1――」(『新潮』第五十一巻第二号)中に、次の一節があります。

世上、新聞などで、辞退の理由として、現今の芸術院会員の人選について不満があるからといふやうに伝へられたが、これは間違で、現在の人事はまづあんなものだらうと思つてゐる。補充会員の選出方法については又別に意見があるが、それには今触れない。又新聞で、私が彫刻家であるのに文学部門から推せんされたのがをかしいといふので辞退したやうにも言はれたが、これは談笑の間に私が早解りするやうに、「それでは親爺におこられるよ」などといつたからであらう。

おそらく、ここで言う「新聞」がこの記事を指していると思われます。

否定してはいますが、「私は何を措いても彫刻家である。彫刻は私の血の中にある。」(「自分と詩との関係」昭和15年=1940)とまで自負していた光太郎。「第一部門で選ばれるならわかるが、第二部門では不本意だ」というのは本音だったのではないでしょうか。