先々週、先週と、駒場の日本近代文学館さん、横浜の神奈川近代文学館さんに調査に行きました。
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当方のライフワークは、光太郎の書き残した作品-特に筑摩書房『高村光太郎全集』に漏れているもの-を集成することです。現在、高村光太郎研究会さんから年刊で発行されている雑誌『高村光太郎研究』内に「光太郎遺珠」の題で枠をいただいております。で、そろそろ次号(2021年4月発行予定)に向け、原稿をまとめる時期なので、紹介すべき作品の発掘、さらにその裏取りです。

まず日本近代文学館さん。こちらに所蔵されている「特別資料(肉筆物など)」の中に、『高村光太郎全集』に漏れているものがあるのは以前から存じていました。ただ、「光太郎遺珠」も毎号のページ数に限りがあり、一年間でけっこう紹介すべき作品がたまるもので、これまで手を付けずにいました。次号分はまだ頁数に余裕があり、いよいよこちらの作品を発掘するぞ、というわけでした。

事前に閲覧させていただく資料名を申請しておき、当日は専用のコーナーで閲覧。

まずは散文。「リルケ全集について」という題で、400字詰め原稿用紙ほぼ一枚でした。「リルケ」はドイツの詩人、ライナー・マリア・リルケ。光太郎が敬愛していたロダンの秘書を務めていた時期もありますし、光太郎がパリ留学中に住んでいたカンパーニュ・プルミエ-ル街17番に暮らしていたこともあり(その当時、光太郎は知らなかったそうですが)、間接的には縁の深い人物です。

これまでも『高村光太郎全集』既収録作品にリルケの名は散見されましたが、ほとんどはロダンとの絡みや、同じ建物に住んでいたことについて、ちょっと触れられていた程度でした。それが原稿用紙一枚、リルケについてということで、興味深いものでした。

調べてみましたところ日本での『リルケ全集』は、光太郎生前に2回刊行されているようです。昭和6年(1931)に弥生書房から一巻もの、昭和18年(1943)に三笠書房から『第五巻』のみ(この手の全集は第一巻から順に刊行されない場合も多く、第一回配本が第五巻で、おそらく戦時中ということもあり、途絶したようです)。今回のものは使われている原稿用紙から、昭和18(1943)年版のもののために書かれたとほぼ確定出来ます。どうやら内容見本のために書かれた文章のようです。ただ、活字になったのかどうかが不明でして、今後の課題です。

それから書簡が6通。すべて葉書です。

まず独仏文学者にして光太郎らと共に「ロマン・ロラン友の会」を立ち上げた片山敏彦、光太郎に自著の題字を揮毫して貰ったり、雑誌の企画で光太郎と対談したりした高見順に宛てたものが1通ずつ。片山と高見は交流の深い人物だったのに、これまで彼ら宛の書簡は確認出来ていませんでした。

それから作詞家・童謡詩人の藤田健次に宛てたものが2通、文芸評論家・小田切進宛てが1通。両名ともこれまで『高村光太郎全集』の人名索引にその名が見えず、こういう人物とも交流があったのか、という感じでした。

そして、当会の祖・草野心平宛が1通。心平宛の書簡は既に30通あまりが『高村光太郎全集』に収録されており、それらはおそらくすべていわき市立草野心平記念文学館さんで所蔵されているはずなのですが、その間隙をぬうものでした。

日本近代文学館さんの「特別資料」については以上。

それから、それ以外に、雑誌に掲載された散文を1篇発見しました。それが本日のブログタイトル「ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見 その2」というわけです。「その2」があれば「その1」があったわけで、「その1」については今年4月にご紹介しました。大正8年(1919)の雑誌『芸術公論』に載った「手紙」という文章です。こちらはブロンズ彫刻「手」の制作間もない時期に書かれたもので、見つけた時には驚愕しましたが、今回、間を置かずまたしても彫刻「手」に関わる文章を見つけてしまい、さらに驚いております。

問題の文章、題名はずばり「手」。昭和13年(1938)の雑誌『新女苑』にも「手」という文章が掲載され、『高村光太郎全集』に既収ですが、それとは別物です。今回のものは昭和2年3月1日発行の雑誌『随筆』第2巻第3号。原稿用紙7枚程の長い随筆です。ちなみに雑誌『随筆』からは、短いアンケートが2篇、既に『高村光太郎全集』に採録されていましたが、今回の「手」は漏れていました。

疑問点が一つ。原稿用紙7枚程の長さなのですが、3段落にしか分かれていません。したがって、一つの一つの段落が異様に長いのです。その意味では少し読みにくい感もありました。どうも編集の段階でもっと分かれていたはずの段落を結合して、改行回数を減らし、紙幅を短くしたのではないかと思われます。確証はありませんが。

で、今日は第1段落、そして第2段落の途中まで(いわば前半)をご紹介します。

全体としては、「手」に関するさまざまな思い出や蘊蓄(うんちく)などを書き連ねています。その中にブロンズ彫刻「手」に関わる記述もあるわけです。今日ご紹介する前半部分は、ブロンズ彫刻「手」についての記述の直前まで。別にもったいぶるわけではありません(笑)。長さの都合でそうなるのです。

さて、以下に引用し(固有名詞等の明らかな誤字は訂正しました)、適当な所で区切りつつ、解説を挿入します。

 私は英国に居た時、食卓でよく手をほめられた。義理にも面相がほめられないので、手がその用を勤めたのかも知れないが、その度に私は手に目をつける事が殆ど習慣になつてゐる国民もあるのだといふ事に興味を覚えた。容貌を見ると同じ様に手を見るのが日常の次第になつてゐるのを面白いと思つた。或貸間を見に行つた時、其処のミセスが入口での握手だけで『彫刻家でいらつしやるのでせう』と私に話しかけた事さへある。後できけば其は或風景画家の未亡人であつたといふ事だから、此の推察の由来も成程と思へたものの、其時は一寸びつくりした。

英国に居た時」は、パリに移る前の明治40年(1907)から翌41年(1908)にかけてです。確認出来ている限りその間に2回、居を移していて、その関係で「或貸間を見に行つた」のでしょう。「或風景画家」は誰だか分かりません。ここで挙げられたエピソード、おそらく既知の文章にはなかったように思われます。

さういふわけで其頃は、自分の容貌のゼロな事を知つてゐる私も、手にだけは大に自信を得て、人と握手するのを好み、又人の手にも強い興味を持つた。握手の時の触感によつて人の感情なり其人の為人についてかなり微妙な処まで感じられる事を知つた。手についての私の興味は其頃から急激に意識的になつて来た。日本では握手するといふやうな野蛮な習慣が無いので、触感による感知を得る事が出来ないけれど、しかし手を見る事の喜は昔日よりも一層強くなつて来てゐる。

人為」は「ひととなり」と読むべきでしょう。

日本で私の手をほめてくれたのは友人水野葉舟君のお母さま一人だけである。早春の夜、お母さまを訪ねて火鉢にあたつてゐた時、『まあ、あなたのお手はいいお手だ』とほめられたのである。男の手などについて殆ど感じを持たない日本の習慣を知つてゐたので、此時も一寸びつくりした。しかし後で考へると、このお母さまは何か淘宮術のやうな俗間信仰に凝つておいでのやうに聞いたから、その方面から特別に手を観察する習慣を持つて居られるのだらうと思はれた。この時以外では、日本で私の手が問題になる時は大抵、『君の手は馬鹿に大きいね』位なものである。
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水野葉舟君のお母さま」は水野実枝。このエピソードも当方、存じませんでした。光太郎、大正6年(1917)には実枝とその夫にして日本勧業銀行のお偉いさんだった勝興夫妻の肖像画を描いています。

淘宮術」は天保年間に横山丸三が創始した気功法にも通じる修養法。「健全な精神は健全な肉体に宿る」的な考えに基づくもののようです。のちに水野葉舟は心霊術や怪異譚などの方面に牽かれていきますが、その背景に母の淘宮術への傾倒からの影響があったのかもしれません。

『君の手は馬鹿に大きいね』。石川啄木の短歌「手が白く/且つ大なりき/非凡なる人といはるる男に会ひしに」のモデルが光太郎ではないかという説があります。

下の画像は光太郎のデスマスクならぬデスハンド。写真撮影は光太郎令甥の故・髙村規氏です。
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対象物が写っていないのでわかりにくいのですが、規氏によれば「自分の手を重ねてみると関節一つ分大きい」そうで。

ここまでが第1段落で、続いて弟2段落。

 大層手前味噌を並べたやうであるが、此は手の魅力といふものは決して変態性慾者などの目をつける単なる美形にのみあるのでなくて、私のやうな無骨(ぶこつ)なものにも亦あるのだといふ事を言ひたい為であつた。あらゆる人の手に、手そのものに既に不可抗の誘惑があるのである。私自身、手に対する執着が強く、手の彫刻習作をしばしば作るため、私の家には手首の彫刻が少くない。今後もむろん色々作るであらう。

手の彫刻習作」「手首の彫刻」には、ブロンズ彫刻「手」も含まれていると思われます。

今は別に手の持つ彫刻的要素を語るつもりでないから、その組立や幾何学的機構の美については言及しないが、何しろ圓い腕が急に平たく広がつて、その平たい場面から五本の枝が生えるのであるから、造化も其の生やし方に苦心した事であらう。全く人智を絶してゐて、親指の出方などは真に奇想天外である。私は一体、物の分岐する点を興味深く観察する者である。何故分岐するか、如何に分岐するかを検査するのは特別に面白い。人間の胴体が二本の脚に移つてゆく仕掛を見ると、その事だけで既に驚く。私がよく臍から下、腿から上の部分だけを画にかいたり、彫刻にすると、人は甚だ奇怪な推察をするが、其は全く私の此の感動を知らないからである。此の部分の持つ彫刻的魅力に一度気がつくと、さういふ不躾な観察は出来なくなるに違ひない。手の指の分岐の仕方の必然さは更に巧緻で変化があり、一日見てゐても飽きるといふ事が無い。掌は高々四五寸平方のものでありながら、その広大さは海のやうに思へる。成程孫悟空が一生懸命に馳け出せるわけで、私は自分の掌を見つめてゐると、どんな大きなものでも掴めさうな気がして来て、理窟に外れた自信が出て来る。

今は別に手の持つ彫刻的要素を語るつもりでない」と言いつつ、結構語っています(笑)。

臍から下、腿から上の部分だけを画にかいたり、彫刻にする」。残念ながら写真を含めて実作の現存が確認出来ていません。もろに下腹部なわけで、「人は甚だ奇怪な推察をする」というのもうなずけます(笑)。

昔の人が掌を見て、その中に人の運命を見ると思つたのも無理でない。私は手相術(キロマンシイ)といふものを更に信じない者だが、それでも真面目くさつていろんな意味をつけてゐるのには興味をひかれる。日本のは誰でも知つてゐるだらうが、外国でも似た事をやつてゐる。フランスでは例の三本のすぢを、上のを心情線、中のを頭脳線、親指側のを生命線といつてゐる。まんなかを縦に貫く線は日本と同じやうに運命線にしてゐる。更に七宮を作つて、親指のつけ根を金星宮、食指の根を木星宮、将指(なかゆび)の根を土星宮、無名指のを太陽宮、季指のを水星宮と称び、その下に火星宮、月宮がつゞいてゐる。そして夫々にいろんな意味をつけてゐる。しかし手相術などといふものは元来東洋の方が本家らしく、日本のものの方が遙に興味が深いかと思ふ。

手相術はインド発祥だそうですが、日本で広く行われているのはヨーロッパ経由のものだそうです。そこで占星術の要素が組み込まれ、何とか宮というのがあてられているとのこと。光太郎がやけにこのあたりに詳しいのは意外でした。
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食指」は人さし指、「無名指」は薬指、「季指」は小指です。

続いて指紋の話。

指紋の学問は近来すばらしい細密な研究にまで到達してゐるやうであるが、つひでに言ふと私の指紋は手のも足のも総流れで、中の一本は叮嚀にもぶちまけた様に左右に流れてゐる。生来の無器用を示してゐるのだ相である。手の甲の方で興味のあるのは静脈の形で、電車の中で向側の人々の其をみると千変万化だ。私のは杓子(しやもじ)型である。指の中で一番やさしいのは素より薬指であらう。紅つけ指といふ程あつて、この指の爪は大抵の人のが原型を留めてゐる。特色の一番あるのはむろん親指で、親指は多く其人の形をしてゐる。マムシの出来る人のは大抵逆に反る。私のは逆に直角に反るので粘土の塑造には甚だ都合がいい。

総流れで、中の一本は叮嚀にもぶちまけた様に左右に流れてゐる」は、指紋の種類のうちの「弓状紋」を指しているのではないかと思われます。日本人には10%しか存在しないそうですが。

杓子(しやもじ)型」は、血管2本が手首から指先にかけて広がっている形が、手の甲にしゃもじを乗せたように見える手だそうで、俗信ではこの形の手を持つ人は食うに困らない、とのこと。
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こちらは髙村規氏撮影の「手」です。ちょっとわかりにくいのですが、確かに薬指の付け根あたりに「しゃもじ」が現出しています。

マムシ」は、いわゆる短指症のずんぐりした親指をさす場合と、蝮が鎌首をもたげた姿のように親指を外側に反らせた様子の2種類の意味があって、ここでは後者でしょう。画像の親指はいわば「超マムシ」(笑)、「私のは逆に直角に反る」。これは本当です。最晩年の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作中の動画が残っていて、実際にそうなっています。
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ここまでで、第2段落の途中、全体の5分の3くらいでしょうか。この後、いよいよブロンズ彫刻「手」そのものについての言及があります(ただ、それほど長くというわけではないので、過剰に期待しないで下さい(笑))が、長くなりましたので、以下、明日。


【折々のことば・光太郎】

鋼鉄の武器は取り上げられた今日、身に寸鉄帯びずといふ芭蕉の心境に入るより仕方がないので我々文化人が中心になつて本気に働かなければならんと思つてゐます。


談話筆記「新しき文化 高村光太郎氏の話 造りたい「文化村」
 必要が生み出す美」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

昭和20年8月28日『新岩手日報』から。同25日、盛岡市の岩手公会堂内多賀食堂で開催された「物を聴く会」での談話筆記です。

談話の前に以下のリード文が先行します。「真と美と」以下は、終戦の玉音放送に題を採った詩「一億の号泣」からの引用です。

戦争終結の聖断を拝して『真と美と到らざるなき我等が、未来の文化こそ』一億の『号泣を母胎としてその形相を孕まん』と新日本建設へ輝かしき示唆を与へた詩人、彫刻家高村光太郎氏を迎へて盛岡文化報国会では廿五日夕四時から県庁内公会堂多賀大食堂で物を聴く会を開催した。同氏は今春東京で戦災に遭ひ花巻町に疎開し故詩人宮澤賢治氏令弟清六氏方に滞在中、再び花巻空襲に遭遇し現在は同町南館佐藤昌氏方に滞在し自炊生活を営んでゐる。

身に寸鉄帯びずといふ芭蕉の心境」は、芭蕉の紀行文『のざらし紀行』中の「腰間に寸鉄をおびず。襟に一嚢をかけて、手に十八の珠を携ふ。僧に似て塵有。俗にして髪なし。」からの連想と思われます。

また、「一億の号泣」にも「鋼鉄の武器を失へる時/精神の威力おのづから強からんとす」という一文があります。